All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 381 - Chapter 390

393 Chapters

第381話

今回のアート展で、雨音が玲のために用意したメイン展示会場は、国内の展示会では珍しい「半屋外型」だった。古城の庭園の中央。幕が静かに開いていくと同時に、身の丈ほどの人型彫刻があらわになる。その瞬間、周囲に並べられた百余りのキャンドルが一斉に灯り、色とりどりの花々とともに視界いっぱいに広がった。展示に来る前、多くの人が心のどこかで想像していた。Rの新作はどう変わっているのだろうと。――三年ぶりなら、きっと進化しているはず。もしくは、三年の空白があるなら衰えているかもしれない。だが、実物を目にした瞬間、そんな雑念は一気に吹き飛んだ。ただ、圧倒的な感嘆だけが胸に満ちていく。――今回も、Rはみんなの期待を軽々と超えてきた。顔のない人型彫刻は、流れるように滑らかなラインと立体的なフォルムが美しく、まるで大地そのものを振り返って見つめているかのようだった。表情がないのに、そこには確かに温かさと包容があった。それは、多くの観客の記憶を自然と三年前のデビュー作へと引き戻す。あの時の作品も「温かい人」ではあったが、その温かさにはどこか圧が滲み、見る人は息苦しさすら覚えるのだった。だから評論家たちは、あの作品を「束縛の愛」と評した。けれど今目の前にあるこの新作には、その影が一切ない。気配も、佇まいも、すべてが変わっている。そこにあるのは、ただ心地よさと自由だけ。見ている側の心もふっと軽くなるような、穏やかな解放感だった。普段なら、誰もが夢中で撮影しながら騒いでいただろう。だが、この場は三分経っても、息を呑んだまま静まり返っていた。観客全員が唖然として動けない。なぜなら、もしさっき聞いた言葉が幻聴でなければ、玲が、壇上でこう言ったのだ。――私こそがR。ありえない。そんなはずがない。会場にいる誰もが同じ思いを抱き、思考が止まった。玲は、高瀬家に引き取られた継娘だったはずだ。藤原家に嫁いでからは、秀一の庇護がなければ上流階級で生きられない、弱い小娘だと思われていた。そして何より、彼女はRの話題に便乗しようとする卑しい女。その程度にしか見られていなかった。なのに、どうして。どうしてその本人が、世界的に崇拝されるアーティストRだと言うのか?「ありえない!絶対にありえないわ!」鋭い叫びが人混みの中から響いた。中年の女が、
Read more

第382話

綾が今日ここまで騒ぎ立てていたのは――玲がRの人気に便乗したという前提があってこそ成り立つものだった。だがRの正体が玲本人だと露わになれば、先ほどまでの綾の喚き散らしは、美穂に言われた通り、首都一番の笑い話になりかねない。だからこそ、綾の顔色は青ざめ、震える唇を噛みしめながら玲を睨みつける。「玲、あんた……売れたい一心で頭がおかしくなったの?罪を逃れるために、よくもまあそんな馬鹿げた嘘を言えたものね!あんたがR?冗談も大概にしなさい!もしあんたがRなら、私はアマテラスよ!」綾は声を張り上げながら、必死に言葉をつなげた。「証拠よ!証拠を出しなさい!証拠がない限り、あんたは嘘つき。観客だって、Rのファンだって、全員であんたを訴えることができるんだから!」言葉こそ強気だったが、その実、綾の胸中はひとつだけ。――お願いだから、玲が証拠を出しませんように。だが、その祈りが届くはずもなく。壇上の玲は、綾の震えた口元を見た瞬間に、彼女がもう怖がっていることを見抜いていた。「……あなた、もう怯えているね」玲はその真実を静かに指摘し、ふわりと微笑んで観客全体に視線を向ける。「とはいえ、お二人の言うこともわかります。私が口でいくら『Rです』と言っても、不安になる方がいるのは当然です。ですので、今日は、きちんと証拠をご用意しました」玲は落ち着いた声で続けた。「まず、Rがデビューしたのは三年前。雨音ちゃんが企画した初めての展示会でした。私は雨音ちゃんとは長年の友人で、当時、彼女が新人として理不尽な扱いを受け、展示会の展示作品に空きが出たんです。困っていた彼女のために、私はデビュー作を急きょ会場へ運びましたが、思いのほか、たくさんの皆さんに愛していただきました。こちらが当時、雨音ちゃんが撮影してくれた写真です」玲が説明を終えた瞬間、背後のLEDスクリーンが点灯する。そこに映し出されたのは、三年前、まだどこか幼さの残る玲と雨音の姿。当時の二人は後ろ盾もなければ、チームもなく、人の背丈ほどの彫刻作品を、たった二人で必死に運び、汗だくで奔走していた。髪は乱れ、服も汚れだらけ。それでも二人は笑っていた。その笑顔は、嘘など一切入り込む余地のない、心からのものだった。続いて、玲が最新作を制作した際の動画が映し出される。作業着
Read more

第383話

「ですが――高瀬さん、あなたがRだと仰るのなら、どうして三年間も姿を消して、新作を発表しなかったのでしょう?」静まり返った会場に、凛とした女性の声が響いた。質問を投げかけたのは、秀一が今回のアート展のために特別に呼んだ報道記者だった。綾や雪乃のように、悪意を含んだ探りではなく、純粋で、真剣な問いをしてくれた。今日、玲は正体を明かすと決めた。ならば、作品を発表しなかった三年間について、長く応援してくれたファンたちへきちんと説明する必要がある。雨音からマイクを受け取り、玲は姿勢を正す。「ご質問ありがとうございます。三年前、私の作品を愛してくださった多くのファンの方々が、いつか新作が出るのではと考えていたのでしょう。しかし、私は三年も姿を見せませんでした。その理由は、私の過去に関係しています。これまでの十三年間、私は高瀬家の継娘として生きてきました。母――雪乃が再婚したことで、私は高瀬家で暮らすようになりましたが、どうしてもその家に馴染めませんでした。当時、私は彫刻を心から愛し、いつか本格的に学びたいと願っていました。でもその一方で、母と腹違いの兄から、毎日のように『おとなしくしなさい』、『女の子だから目立つな』と言われ続けていたんです。彼らは、私が自分の世界を持つことを望んでいませんでした。自分たちの手の中におとなしく収まっていることを望んでいたんです。当時、まだ幼い私は愛されたい一心で、彼らの言葉に従っていました。反骨心を押し殺し、それでも幸せになれると信じ込んで。それから三年が経って、私は気づきました。自分の考えは完全に間違っていたと」玲は会場全体を静かに見回し、苦笑いした。「夢を捨てて、本来の自分を押し殺しても、何ひとついいことはありませんでした。尊重されるどころか、軽んじられ、蔑まれた。母でさえ、私を何の取り柄もない子と決めつけ、高貴な家柄の藤原家の令嬢――綾を持ち上げる材料としてしか見ていませんでした。その時、やっと悟ったんです。自分で自分を縛りつけたところで、幸せにはなれないと。本当に私を愛してくれる人は、決して私から自由を奪ったりしない。むしろ、私の羽ばたきを手伝ってくれる人なんだって」玲は手元のタブレットを操作し、スクリーンに先ほどのアトリエの写真を映し出した。「例えばこちら。皆さんが動画で見た、私
Read more

第384話

その瞬間、会場中が一斉に沸き立った。さきほど玲が登場したときに途切れた拍手が、今は倍以上の熱量で巻き起こる。もはや、この場で玲がRであることを疑う者はひとりもいなかった。これだけの証拠と本人の言葉を前に、なお疑うとしたら――それはもう、考える能力が欠けている。しかも、玲が語った過去の告白は、ただの説明ではなかった。まっすぐで胸を打ち、聴いていた多くの人――とくに玲と同じように、愛を乞い、卑屈に生きてきた女性たちを深く励ましたのだ。妥協しても、低くへりくだっても、欲しいものは手に入らない。むしろ、嫌いな人間や環境から、勇気を持って離れたとき、初めて本当の幸せが訪れる。玲の言葉は、そんな真実を静かに突きつけた。「玲さん、素晴らしかったわ!本当に感動した!」「そうよ!正体を知らなかったときは、あなたがRさんの人気に便乗した悪い人なのかと誤解してた。ごめんなさい!今日から私はあなたの大ファン!」「私も!玲さん、復帰おめでとう!そして、嫌な人間を振り切って大切なものをつかめて、本当によかった!」観客たちは両手を口に当てて、思い思いに声を張り上げた。その合間に、視線はしっかりと雪乃と綾のほうへ向けられる。先ほどまで得意げに騒ぎ立てていた二人だが、玲を貶める人間として周りにマークされたのだった。冷たい蔑みの視線が二人へ集中し、雪乃の顔色は見る見るうちに真っ青になる。汗がこめかみをつたう。理由は二つ。ひとつは、自分が産んだ娘がここまで大きな成功を掴んでいたことなど、夢にも思わなかったから。そしてもうひとつ――今日、雪乃は佳苗と結託し、予定通り会場の混乱に乗じて玲を誘拐し、そのまま事故に見せかけて葬るつもりだったのだ。佳苗は役割を果たした。秀一を足止めし、アート展が始まってからずっと、秀一が玲のそばに来れないようにした。あとは雪乃が第二段階を進めるだけ……のはずだった。だが、玲がRとして正体を明かしてしまった今、会場中の視線はすべて玲に集中している。今の彼女は、一番輝く存在だ。これでどうやって玲に近づけというのか?近づくどころか、触れることさえ不可能だ。その瞬間、鋭く突き刺さるような悲鳴が会場の空気を裂いた。「玲!あんたなんかがRなわけないでしょ!」叫んだのは綾だった。追いつめられた獣のように目を見開
Read more

第385話

玲は、綾が無茶をする人間だと前から知っていた。だが、時間が経つほどに――彼女は想像以上に無謀になったらしい。ここは何百人も集まるアート展の会場だ。にもかかわらず、綾は場の空気も、観客の安全も無視して、金髪の若者たちに暴れさせようとしている。玲はとっさにマイクを握り、客たちを避難させようと声を上げる準備をした。綾が連れてきたチンピラたちが動き出せば、巻き添えで怪我人が出る可能性がある。そして――玲は視界の端で、数名の若者がステージに這い上がろうとしているのを捉えた。彼女は片手でロングドレスの裾をつまみ上げ、一歩踏み込み、彼らを蹴り飛ばす覚悟で前へ出た。綾がアート展を潰そうとしている。自分が心血を注いで彫り上げた作品を破壊しようとしている。――そんなこと、絶対にさせない。しかし次の瞬間。玲が「戦闘開始」の体勢に入ったその刹那――会場の周囲から、黒い影が一斉に飛び出した。テキパキとした動きで、綾の配下の男たちを瞬く間に取り押さえる。そして綾本人も、まるで汚い雑巾のように地面へ押さえつけられた。玲は、ぽかんと目を見開いた。この黒服たちが誰の手の者か、見覚えがありすぎたからだ。そして振り返ると、彼女がずっと待っていたあの人が、ステージ裏からゆっくりと姿を現した。秀一だ。黒いスーツに身を包み、凛とした立ち姿。綺麗な横顔も、深く落ち着いた瞳も、まるで絵画のように整っている。彼に魅入られた人間は、誰一人逃れられないのだろう。そう、ずっと来ていなかったと思っていた秀一が、実は最初から会場にいた。その姿を見た瞬間、雪乃の顔は恐怖で歪んだ。佳苗が秀一を足止めしていて、秀一が会場に現れるはずがなかったのに。玲もまた驚きを隠せず、ドレスの裾をつまんだまま固まっていた。「秀一、さん……?ずっとステージ裏にいたんですか?」「ああ。君より早く着いていたよ。言っただろう?今日は最初から最後まで、ずっと君のそばにいるって」秀一は近づき、玲の腰にそっと手を添えて支えると、優しくドレスの乱れを直してあげた。「それに……裏に隠れていたおかげで、君が俺への告白を聞くことができたからな」秀一の瞳が柔らかな笑みで細まる。玲は反骨精神が強く、普段は気丈そのものだが、好意を向ける相手が目の前にいれば、恥ずかしがり、言いたいことを素直に言えない。だが秀
Read more

第386話

もっとも、秀一が呼び寄せた黒服の護衛と、綾が金で集めたチンピラたちとでは、体格でも、経験でもまるで比べ物にならない。その結果も言うまでもない。綾の手下はものの一分ももたず、全員まとめて地面に叩き伏せられた。そして綾本人も、みっともなく押さえつけられ、髪は乱れ、濃いメイクは汗と涙で滲み、まるで落書きされたような顔になっていた。怒りと焦りが混ざり合い、追い詰められた綾の頭は、珍しく素早く回り始めた。「秀一、あんた……最初から知ってたのね?玲がRだってことを!だから私が記者やチンピラを連れてきて騒ぎを起こそうとしてたのも、全部わかってて止めなかったんでしょ?今日、私を盛大に笑い者にするために!玲を引き立たせるために!」美穂が言っていた――「秀一は絶対何か企んでいる」――その意味を、綾はようやく理解したのだ。この夫婦は、最初から自分をはめるつもりだった。自分が恥をかくように、完璧に舞台を整えていたということだ。その言葉を受けて、玲も驚いたように秀一へ視線を向けた。「え……?私がRだって、ずっと前からわかってたんですか?だから安心して裏で見てたってことですか?でも……いつから、どうやって気づいたんです?」「時期で言えば……たぶん最初からだ」秀一は穏やかに玲を見つめ、そっと彼女の頬に唇を触れさせた。「玲。前にも言っただろ。俺は十三年も君のことが好きだったって」好きな人のすべてを知りたいと思うのは、策士の男だからではなく、ごく自然な感情だった。玲が初めて雨音の展示会で作品を出し、一躍注目を集めたとき、その瞬間から秀一は、彼女の才能も想いも、すべてを理解していた。当時、玲の心の中には弘樹がいて、秀一とは距離もあった。それでも、玲の夢が叶ったことが、胸が痛むほど嬉しかった。「彫刻家になりたい」という願いが、ようやく形になったのだから。だがその後、雪乃と弘樹の圧力で玲は三年間も沈黙を強いられた。秀一はその事実を決して許せなかった。二人を見るだけで苛立ち、協力関係にある高瀬家に対しても厳しい態度を取ってしまうほどに。そして、ようやく玲が自分のもとへ戻ってきたとき、秀一は迷わず決めた。玲の夢を取り戻す。玲が本来立つべき場所へ、必ず戻れるように全力で支えると。……秀一の言葉に、会場はもう静かではいられなかった。観客た
Read more

第387話

秀一は綾の訴えを取り合わなかった。玲も同じく、返す言葉を口にしなかった。なぜなら次の瞬間、綾は秀一の護衛に口を塞がれ、そのまま引きずられるようにして外へ連れ出されたからだ。もちろん、彼女が連れてきた記者も、震え上がるチンピラたちも全員まとめて、容赦なく会場から叩き出された。邪魔者が消えた瞬間、会場の空気は一気に澄んだ。何より今日は――R本人である玲が自ら姿を見せ、ファンと一緒に作品を楽しむというサプライズつき。観客たちの熱はさらに上がり、今後一週間分のチケットはその場で売り切れ、玲の名前も各国メディアの検索ランキングで堂々の一位を独走していた。雨音は興奮のあまり舞い上がりそうになりながら、スタッフと一緒に会場の誘導に奔走する。数日前まで、「アート展で離婚届を友也の顔に叩きつけてやる!」と息巻いていた彼女だったが――今日は何も言わなかった。離婚届を持ってくる気配もない。その件を忘れたのか、もしくは、この間病院で見た友也の変化が、彼女の心を少しやわらげたのかもしれない。玲もそれに気づいたが、あえて何も尋ねなかった。ステージで話し続け、立ちっぱなしだったこともあり、玲は少し疲れが出て、一息つこうと控室へ向かった。すると秀一は、その動きを先読みしていたように、優しく頭を撫でながら言った。「護衛たちは観客対応で雨音さんのフォローに回ってる。俺は車から水を取ってくる、会場の飲み物は、念のため飲まないで」「わかりました。じゃあ、戻ってくるの待ってますね」玲は秀一の過保護さをよく理解している。素直に頷き、見上げて微笑んだ。秀一はすぐに去るかと思いきや――その前に、玲の唇へ深くキスを落としてから、ようやく踵を返した。玲は少し痺れる唇を指で触れ、思わずくすっと笑ってしまう。そして秀一の姿が完全に見えなくなると、スマホを取り出して今日のアート展の反応を確認しようとした。ところが、控室の扉が勢いよく開き、影がひとつ滑り込んだ。玲はてっきり、秀一が戻ってきたのかと思い、笑顔で顔を上げた。だがその笑みは、一瞬で凍りついた。入ってきたのは秀一ではない。雪乃だった。さきほど綾が護衛に引きずられていく際、一緒に追い出されたと思っていた。だが雪乃はどこかに身を潜め、うまく見張りをかいくぐっていたらしい。雪乃の顔は怒りで歪み、目がぎ
Read more

第388話

「これから先、私が世界中から注目されるようになっても――あなたの名前が語られることはない。むしろ私は、あなたのことをきちんと調べるつもりよ」玲ははっきりと言い切った。その眼差しには、ようやく腹を括った者の強さがあった。一方、雪乃は怒りを抱えたまま反論しようとしていたが、玲の言葉に一瞬固まり、思わず声を震わせた。「わ、私を調べるって、何を言ってるの?意味わからないんだけど」「意味、ちゃんとわかってるでしょ?」玲は静かに息を整えると、淡々と続けた。「あなたと暮らしてきたから、幼い頃の記憶はできるだけ思い出さないようにしてきたの。でも……あなたが父さんの形見の嫁入り道具を勝手に売ったあの日から、封じ込めていた記憶が次々と戻ってきたの。父さんは健康で、運動も欠かさなかった。山歩きなんて慣れっこだったのに――あんな観光地の山で足を滑らせたなんて、普通ありえない。それに……あの時あなた、警察の検死を必死で拒んだわよね?まるで、早く事件を終わらせたいみたいに」玲はまっすぐ雪乃を見据える。「――ねぇ。何か、隠してるんじゃない?」ずっと目を背けてきた疑念。母親という存在は重すぎて、その角度から物事を見ることさえ恐ろしかった。けれど、向き合わないままではいられない日が来る。あの日、デパート前で見た武の不自然な姿。そして今日、観客席で理性を失って叫んでいた雪乃。それらが、玲の中でひとつにつながった。――雪乃は、ただの毒親でも敵でもない。父を殺した「加害者」かもしれない。そしていつか自分の手で、法の前に立たせなければならない。玲は、その現実を受け入れる覚悟を決めていた。一方で雪乃は、秀一に過去を暴かれることばかりを恐れていた。まさか玲が、自分を疑い始めているなんて想像もしなかったのだ。「れ、玲……何を言ってるのよ急に。お父さんが亡くなって何年も経つのに、どうして私を疑うの?毎日が退屈すぎて、わざと喧嘩を売ってるわけ?」「そう思いたいなら、それでもいい」玲は驚くほど落ち着いた声で続けた。「何も後ろめたいことがないなら、堂々としていればいいわ。でも――もし少しでも隠してることがあるなら……父さんのために、あなたには刑務所でちゃんと罪を償ってもらう」「ふざけないでよ!」雪乃は完全に取り乱し、叫び声をあげた。「私は高瀬家の女主人な
Read more

第389話

雪乃は、本来なら玲をアート展の会場からこっそり連れ出し、そのまま山へ向かうつもりだった。昔、玲の父を事故に見せかけて殺したように、玲にも同じ結末を辿らせる――それが彼女の描いていた計画だった。だがその計画は、秀一がステージ裏から姿を見せた瞬間に崩れた。再び機会を伺うしかないと思っていたが――もう待てない。玲を生かすわけにはいかない。ましてや、刑務所に入れられるなど絶対にあり得ない。秀一が席を外し、戻ってこない今。雪乃にとって、これは神がくれた最後のチャンスに見えた、逃すわけにはいかない。玲は首を締められながら必死にあがいた。雪乃がいきなりこんな狂気に走るとは、思いもしなかった。だが、玲は決してただの弱い少女ではない。息が詰まり、視界が暗くなりかける中、彼女は横のテーブルに手を伸ばし、小さな彫刻の置物を掴み取った。そのまま渾身の力で雪乃の腕に叩きつける。「っ……!」雪乃の手が一瞬緩み、玲はよろめきながらも距離を取った。「……やっぱり、図星を突かれるとこうなるのね!」玲は喉を押さえ、激しく咳き込みながらも雪乃を睨み返した。白い首筋には青紫の指の跡がくっきり残っている。雪乃がどれだけ本気で絞めていたか、一目でわかるほどだった。だが玲の瞳は、さらに強い光で満ちていた。「……父さんが亡くなったこと。あれは事故なんかじゃなかったって、あなたの今の行動が証明してる。真実が暴かれるのを恐れてるから、私を殺そうとしてたでしょ?」「もう死ぬ人なんだから、いい加減黙りなさい!」雪乃の瞳は血走っていた。腕を押さえながら、もはや痛みすら感じていない。「そんなに知りたいなら……地獄で直接聞いてきなさい!お父さんに、真相を教えてもらいなさいよ!」半ば自暴自棄。できれば雪乃だって、この道を選びたくなかった。だが玲にここまで追いつけられた以上、こうするしかなかった。雪乃は、ついに懐から細い針のついた注射器を取り出した。それは、ずっと肌身離さず持ち歩いていたもの。キャップを勢いよく外すと、雪乃は狂気そのものの顔で玲に飛びかかった。不意をつかれたものの、玲は一瞬で雪乃の手首を掴んだ。針先が目の前で光る。何が入っているのかはわからない。だが直感で理解した。これは打たれたら終わりだ、と。しかし、完全に覚悟を決めた雪乃の力は異常だった
Read more

第390話

「玲、大丈夫か?俺の声、聞こえる?」秀一は必死に玲の顔を覗き込み、震える声で呼びかけていた。けれど、その手だけは驚くほど安定していて、ほんの少しの揺れさえも彼女を傷つけてしまうとでも思っているかのようだった。玲は、喉の奥に張りつくような激しい痛みに耐えながら、小さく首を振る。ようやく一呼吸つけたところで、彼女もまた秀一を見返した。「だ、大丈夫……そんな顔しないで……」秀一は言葉を返せなかった。玲の苦しそうな表情を見た瞬間、すでに目尻が赤く染まっていた。今、彼女が微笑みながら自分を気遣ったことで、秀一は初めて玲の前で涙をひとすじ落とす。車から持ってきた水のボトルをそっと床に置くと、秀一は玲を強く抱きしめた。つい先ほどまで、張りつめた空気が渦巻いていた控室に、ようやく穏やかな温度が戻りつつあった。だが、その穏やかさを壊すように、雪乃のしゃがれた怒鳴り声が響く。「しゅ、秀一さん!あんたの部下に、私を離してもらいなさい!」雪乃は壁に押さえつけられ、痛みに顔を歪めていた。秀一がさきほど部屋へ飛び込んだとき、雪乃が玲の顔に針を押し当てようとしているのを見て、ためらいなく蹴り飛ばしたのだ。床へ叩きつけられた雪乃は、しばらく立ち上がれずにいたが、ようやく身を起こしたところに黒服の護衛たちが駆け込んで来て、再び壁際へと押しつけ、腕を容赦なくひねり上げた。高瀬家の奥様として十年以上暮らしてきた雪乃は、家の中ではそれなりに丁重に扱われてきた身だ。こんな荒い扱いに耐えられるはずもなく、すぐさま泣き声まじりに訴える。「秀一さん、いくらなんでも……私はあんたの義母よ!こんなことして、悪い噂が広まったらどうするの?」綾が巻き起こした騒ぎのあと、秀一と玲の印象はネット上ではようやく持ち直していた。ここで雪乃が「義母を虐待した」と告発すれば、再び世論がひっくり返る可能性がある。だが秀一の表情には、一片の動揺も浮かばない。代わりに、玲が声を荒げた。喉が痛むのも忘れ、雪乃を鋭くにらみつける。「……義母?冗談を言わないで!実の娘を殺そうとして、変な薬を注射しようとする母親なんて、この世にいると思ってるの?」「そ、それは……誤解よ」雪乃は必死に笑顔を作るが、その言い訳はあまりにも苦しい。「玲、さっきはちょっと強く言いすぎただけよ。あ
Read more
PREV
1
...
353637383940
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status