All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 371 - Chapter 380

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第371話

「玲、さっきも言っただろ?あまり考え込みすぎないようにって。それより――もうひと月半も前から、君のためにドレスを仕立ててもらっていたんだ。アート展で着てもらうつもりでね。さあ、試してみて。着替えが終わるまで外で待ってる」そう言うと、秀一は立ち上がり、玲をひょいと抱き上げて、試着室奥の柔らかな革張りのソファへそっと降ろした。周囲には、すでに三人の女性スタッフが待機していた。今日の主役である玲のために、店で最も高価な、世界に一着しかないオーダーメイドドレスを着せるためだ。玲は考えごとを中断させられたが、この状況で逆らえるはずもなく、スタッフに身を任せて着替えを始めるしかなかった。――そしてドレスをまとうと、予想以上に美しかった。上質な生地は玲のしなやかなラインに完璧に寄り添い、彼女が放つ透明感と輝きに比べれば、周囲の照明さえ色あせて見えるほどだった。秀一は満足そうにうなずくと、試着を終えて少し疲れの残る玲を先に帰らせ、自分は車を走らせて、まったく逆方向へ向かった。……薄暗い倉庫には、湿り気と冷たさの入り混じった重い空気が漂っていた。その中に、不規則に響く悲鳴。声の主は、黒服のボディーガードに「家に送る」と連れ出されていた武――今は部屋の中央で椅子に縛られ、さっきまでのずる賢さは跡形もなく、恐怖と後悔だけが顔中に張りついている。だがもう、何を悔いても遅かった。倉庫の扉が軋みを立てて開き、秀一の冷ややかな影がゆっくりと武の前に歩み寄る。「お前は、雪乃があの事件で買収した人間だな」それは断定であり、逃げ場のない一言だった。もう観念していた武は、必死に首を縦に振る。ここに閉じ込められた時から、秀一には全てがバレたと悟ったのだ。「ふ、藤原社長……確かに俺は、あの女から金を受け取りましたけど、別にあの人とグルってわけじゃありません!俺は、あいつほど悪どいことなんてしてません!玲さんのお父さんが山から転落した事件、全部雪乃の仕業で……俺はただ、人が来ないか見張ってただけでした!」「なら、これまで隠れていたお前が、なぜ急に姿を現した?」秀一は威圧感のある声で問いながら、そばの台に置かれた鋭いナイフを無造作に手に取った。首都では「秀一は冷酷で容赦がない」と囁かれているが、玲はずっと噂だと思っていた。だが、実際はそ
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第372話

だがまさか、顔を出した途端秀一の部下に捉えられるとは、武は思いもしなかった。今の武は、まるで絶望し切ったような声で泣き叫んでいる。「藤原社長……あの時のことは、この十数年ずっと後悔してたんです。特に、雪乃って毒婦が自分の夫を殺したうえ、その賠償金を抱えて高瀬家に嫁ぎ、玲さんにあんな仕打ちをしてたと知ってからは……もし、もしもう一度やり直せるなら……絶対に雪乃なんかに手を貸したりしませんでした!俺は……俺は玲さんに償いたい!謝りたい!社長にも、ちゃんと謝ります……!ぐっ……命さえ助けてくれれば、なんだってしますから!」武は怯えと必死さを混ぜた目で秀一を見上げた。自分にはまだ利用価値がある、そう思わせれば秀一もきっと見逃してくれるはずだ、と。しかし秀一の表情は、初めからまったく揺れなかった。武の「なんでもします」という言葉を聞いた瞬間、彼は静かに手を動かし──握っていた冷たい刃を、躊躇なく武の震える肩へ突き立てた。生々しく肉の割れる音に、広がる鉄錆の匂い。その中で、秀一は一語一語を区切るように低く告げた。「謝罪だけで済むと思うな。お前みたいな人間の嘘くさい謝罪を、玲に聞かせる価値なんてない。だが、命が助かるならなんでもすると言ったな?なら、満足させてやる。今日から肩の痛みを噛み締めながら暮らせ。いずれお前に働いてもらう日が来る。その時の出来で……生かす期間を考えてやる」実際、武が語った多くは自己弁護だが、ひとつだけ真実があった。玲の父を死に追いやり、玲の人生を壊した本当の加害者は、武ではない。秀一はずっと、雪乃にトドメを刺せる証人を探していた。そこへ武が自ら転がり込んできたのだ。利用しない理由は、ない。武は白目をむき、悲鳴をあげ続けた。刃が肉を裂き、骨の隙間に食い込む痛みに視界はかすみ、何度も暗転する。だが反抗する勇気など一切なかった。秀一なら──下手に動いた瞬間、迷いなく真っ二つにされる。それが心の底から理解していたのだ。武は血だらけのまま頷いた。秀一が手についた血を拭い、背を向けた頃、ようやく武は息も絶え絶えに声を漏らした。「しゃ、社長……雪乃は……最近ほとんど俺に連絡してないから、きっと誰か……新しい協力者を見つけたと思います。でも、そいつが誰か……俺には……わかりません」秀一の動きが、わ
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第373話

「玲に、もっと笑っていてほしい」玲が微笑みながら投げてきた問いかけを受けながらも、秀一はその美しい横顔を真剣な表情で見つめていた。そっと手を伸ばし、彼女の頬を包む。「玲……もう過去の影に縛られないでほしい。これからの未来を、ちゃんと自分のものとして抱きしめてほしいんだ」玲の心が穏やかであること。それは、これから告げねばならない真実を、彼女が受け止められるかどうかを左右する。玲の父の死の真相──そして、その元凶が実母の雪乃であるという残酷な現実。どれだけ覚悟を整えていても、自分を産んだ母が、自分の父を殺したと知った瞬間、人は簡単に崩れてしまう。証拠も証人も出そろい、秀一が動けば雪乃は一瞬で奈落へ落ちる。だが玲の心を守るため、秀一はあえて数日様子を見ていた。秀一の胸中など知らない玲は、彼がただ今日の自分を心配しているのだと思い、息を整えるように微笑んだ。「秀一さん、大丈夫ですよ。すぐに、ほんとうにすぐに……私はもっと笑えるようになります。約束します、もう過去の影に縛られたりはしません」なぜなら──アート展が、ついに目前に迫っているから。人生で最も輝く瞬間になるはずのその日。彼女は最高の状態で立つつもりだ。そして武の件は、アート展が終わってから考えればいい。アート展さえ終われば、ずっと曖昧だったすべての謎が、おそらく一気に解ける。玲はそう予感していた。……ふと気づけば、窓の外には月の光が弱まり、黒い雲が四方から寄り合うように集まりはじめていた。そして、二日後──ついに、待ちに待ったアート展が幕を開けた。太陽の光がきらめく古城の庭園。広々とした会場には洗練された展示が一面に広がり、配置一つひとつにディレクターのこだわりが詰まっている。来場者がスムーズに鑑賞できるよう、動線も光の当て方も綿密に計算されていた。だが、何より注目されていたのは──メイン展示館に飾られる、Rの新作だ。Rの世界中のファンが開場前から長蛇の列を作り、報道陣は専用エリアに機材を組んで待機する。新作の公開、そして運が良ければR本人を撮れるかもしれない──そんな熱気で会場の空気はすでに沸騰していた。その熱気の中には、多くの客とは違う目的でここにいる者も、ちらほら紛れている。玲はドレスに着替え、雨音とともにバックステージへ向かう。幕の隙間か
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第374話

愛する男性からそこまで露骨な嫌悪を示されて、平然としていられる女性はいない。綾が一晩中眠れず、目の下のクマがあそこまで濃くなったのも無理はなかった。その話を聞き、玲はそっと眉を上げた。まさか弘樹が、もうそこまで綾に冷たくなっているとは思ってもみなかったのだ。これまでも「前ほど気遣ってくれなかった」と耳にしてはいたが、それでも弘樹は多くの場合、綾には紳士的で、心を許していた。抱きつかれても拒まない場面だってあった。それなのに、今では綾が近づくことすら拒んでしまう。あたかも弘樹が、これまでの優しい仮面を完全に外し、綾に対してもう演技すら続ける気がなくなったかのように――だが、いったい何が弘樹をそこまで変えたのか。……もしかして、あの日、病院で玲が弘樹の幻想をはっきりと壊したことが原因だろうか。「秀一とは本物の夫婦になり、すでに妊活も始めている」という旨の言葉が、致命的な一撃になったのだろうか。玲には答えがわからない。もっとも、弘樹と綾の関係がどうなろうと、今の玲にはもう関係のないことだ。玲は視線をそっと横に流し、会場の隅で身を縮めている雪乃を見た。帽子にサングラスまでつけて完全に正体を隠そうとしているその必死さに、玲のまなざしが一瞬だけ鋭くなる。「前に病院であんなことがあって、茂さんが『もう二度と私の前に現れるな』って命じていたはずだから……たぶん今日は、こっそり抜け出して来たんだと思う。でも問題はね、茂さんを怒らせるリスクまで負って、わざわざここに来た理由なんだよ……」まさか、玲がRのファンの前で恥をかく瞬間を見たい――ただそれだけのために来たわけではないはずだ。雪乃の性格を知る玲には、すぐにわかった。彼女はきっと何か大きなことを企んでいる。胸の奥にそんな嫌な予感が広がる。一方、雨音はまったく動じず、肩をすくめてみせた。「いいよ放っておけば。あの人が何を企んでいようと、こっちは今日のためにしっかり準備してきたんだから。万が一のトラブルに備えた配置も済んでるし、玲ちゃんのそばには警備もつけてる。それに……藤原さんという最強の砦が控えてるしね」そこで雨音が、ふと首をかしげた。「……というか、藤原さんは?今日、玲ちゃんのそばにいるって言ってなかった?まさか、どこかの女に足止めされてないよね?」玲
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第375話

アート展のステージ前は、人波が絶え間なく揺れていた。誰もが、Rの新作がついに公開される瞬間を待ち望み、そして──「決して顔を見せない」とされるR本人が、今日こそ姿を現すのではないかと胸を高鳴らせていた。そのとき、鋭い目を持つひとりの観客が、ステージの幕がわずかに揺れたのを見つけた。次の瞬間、ざわっと空気が揺れ、あちこちから歓声が湧き起こる。ついにRが登場したのだ、と誰もが思い込んだのだ。しかし、幕の隙間から姿を現したのは、ディレクターの雨音と玲だった。その瞬間、膨れ上がりかけていた歓声は、一気に凍りつく。理由は二つ。一つ、ここに玲が堂々と姿を現すとは、誰も想像していなかったのだ。そしてもう一つ──玲が、あまりにも美しかったから。淡いピンクのチュールが幾重にも重なるロングドレスは、ひらりと風を受けるたび光をまとい、まるで夢の中の衣そのもの。柔らかく波打つ黒い髪が肩に流れ、手のひらほどの小さな顔に、控えめな微笑みがそっと咲く。清らかで、優しくて、息を呑むほど透明感がある。まるで、空から舞い降りた精霊。声を荒げれば消えてしまいそうで、思わず息を飲むほどの存在感だった。──だが、いくら綺麗でも、どうして玲がステージに立ってるんだ?そんなざわつきが、すぐに怒号へと変わっていく。一部のRの過激なファンたちは、怒りに満ちた声を上げ始めた。「玲は旦那の権力を利用して、Rの名を無断で使った悪党だろ!よくもぬけぬけと出てこられたな!早くステージから降りろ!」「そうよ!私たちはRさんに会いに来たの!玲の顔なんて見たくはないわ!」「で、でも、玲さん、本当に綺麗……ここまでの美人なら、ステージにいても別に問題ないんじゃ……」一人の女の子が、周囲の怒りを恐れつつも、小さく本音を漏らす。そう、男だけが美しい女性に惹きつけられるわけではない。ここまで完璧な美しさを前にすれば、女の子だって見惚れてしまうものだ。案の定、そのつぶやきを聞いた数人のファンは、視線をそらしながらも、否定できずにいた。彼らも心のどこかで、同じことを思っていたからだ。ところが、そのとき。耳をつんざくような、ヒステリックな女の叫び声が人混みを切り裂いた。「どこが綺麗だっていうのよ?玲なんて、ただの人をたぶらかす最低の女じゃない!」怒りにゆがんだその顔。濃
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第376話

ファンたちが去っていくのを見届けると、綾はまだ歯ぎしりしていたものの、これ以上ここで時間を食うつもりはなかった。今日、彼女が玲を叩き潰すために準備してきた本命は、あのファンたちではない。もっと強力な「戦力」を裏で集め、あとは綾の合図ひとつで一斉に玲へ仕掛けられるよう手はずを整えてある。綾はブランドバッグからファンデーションを取り出し、濃く浮いたクマを雑に塗りつぶすと、そのまま前へ進もうとした。だがその瞬間、慌ただしい足音が近づき、綾が一歩踏み出す前に、腕をぐっとつかまれた。怒りに任せて振り返った綾は、相手の顔を見た途端に言葉を失う。そこにいたのは、美穂だった。「……お母さん?どうしてここに?アート展に来るなんて聞いてないけど」「人づてにチケットを買って入ってきたの。あんたのためよ」美穂は青ざめた顔で綾を見つめ、声をひそめた。「あんた……今日、玲を追い詰めるつもりだったんでしょ?ただの嫌がらせじゃなくて、メディアまで呼びつけて、彼女の作品を壊して、会場中の笑いものにするつもりだったよね?」そうだ。綾が今日、密かに呼び寄せていた「戦力」は、メディア関係者だけにとどまらない。揉め事を起こして金を稼ぐ、手慣れた不良集団まで観客に紛れ込ませていた。会場で玲に、答えにくい質問を浴びせて恥をかかせる――それはただの前座。綾の本当の狙いは、玲を「Rの名を利用した詐欺師」として糾弾し、観客の怒りを最大限に引き上げたところで、紛れ込ませた不良たちを一気に突入させ、玲の彫刻作品を粉々に壊させることだった。アーティストにとって、最初の作品は出来不出来以上に特別な意味を持つ。それを目の前で叩き壊されたら――玲は一生、傷を残す。もう二度と彫刻に触れられなくなるかもしれない。作品を壊すだけではなく、心まで折る。それこそが綾の狙いだった。「お母さん、こんな時にこそ私に協力すべきでしょ?玲は私たち二人の敵よ。私が子どもを産めなくなったこと、お母さんが留置場に入れられて、今でも奥様たちに笑われてること……忘れたわけじゃないよね?」「忘れるわけないでしょ!」美穂は握りしめた拳を震わせ、悔しさに歯を食いしばる。前回藤原家での食事会――美穂は俊彦の前でこそ従順なふりをしていたが、秀一と玲を見るだけで、手のひらを血がにじむほど強く握りしめてい
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第377話

「お母さん、考えすぎだよ。他人の顔色ばっかりうかがって、自分の勢いまで削いでどうするの?」美穂は綾よりずっと頭が回り、年齢を重ねたぶん慎重でもある。だからこそ、秀一が綾に対して何の動きも見せていない状況が、むしろ不気味に思えていた。また秀一と玲が裏で罠を仕掛け、綾を笑いものにしようとしているのではないか。その警戒があった。けれど、当の綾はまったく取り合わない。美穂の深刻な顔を見て、綾は鼻で笑った。「お母さん、今の状況で秀一たちが私をはめようなんてできるわけないでしょ。だって、秀一が玲を裏で助けて、Rさんの人気に便乗したのは事実なんだから」綾は、周囲に満ちていたざわめきを顎で示す。「ここに来るまでずっと、不満の声が続いてたでしょ?あれ全部、玲への怒りよ。私が煽ったんじゃなくて、会場の空気そのものがそうなの。首都どころか、世界中のRファンが玲を吊るし上げようとしてる。私はただ、みんなの代弁者として先に声を上げただけ。お母さんは、留置場に入れられたせいで臆病になったのよ。これもダメ、あれもダメって説教ばっかり。自分じゃ復讐しようともしないし、挙げ句には私まで止めようとして。でもね、今日は絶対にやめない。ここまで準備してきた時間も、雇った人たちも、全部この日のためなんだから。今さら中止なんてありえない。それに気づいてるでしょ?いつもなら玲に張りついてる秀一が、今日は何かに足止めされてて、彼女のそばにいない。だから今日を逃したら、玲を潰すチャンスなんて二度と来ないわ!」その声には、今日こそが「一発逆転の勝負」だという確信が宿っていた。実際、綾には暴れる理由もあった。昨日、病院で弘樹を求め、冷たく突き飛ばされた瞬間、二人の関係が壊れかけたところまできた。これまでも綾は薄々と感じていた。弘樹が自分への態度が不安定で、時に優しく、時に冷たい。ただ、どれほど彼に疑念を抱いても、いつも最後には心温まる行動で引き戻されていた。「やっぱり彼は自分を愛してる」と、そう思わされてきた。だが最近、その愛の残り火すら感じられない。弘樹は魂を抜かれた屍のようで、はたまた、苦しみと後悔だけで形づくられた彫像のようになっている。綾に対しても、ひどく冷たいうえに露骨な反感を示し、時折、目に隠しきれない憎悪さえ宿すようになった。なぜそこまで変わ
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第378話

その瞬間、綾はすべてを悟ったような気がした。弘樹と玲が会ったとき、自分はその場にいなかった。弘樹が倒れるほどのショックを受けた言葉が何だったのかも知らない。けれど――男をたぶらかすことしか取り柄のない玲が言うことなら、ろくでもないに決まっている。そう思い込んだ綾は、あの夜、何時間もかけて念入りに身支度を整えた。病院が公の場だろうと関係ない。できる限り艶やかな服を選び、今日は絶対に弘樹と体の関係を持つつもりで病室へ向かった。――婚約式まで待つ必要なんてない。愛し合っているなら、もう構わないはず。弘樹は手こそ怪我しているが、体は健康だ。もちろん「肝心な部分」も問題ない。綾はそう信じていた。だが、全て読み違えていた。その夜、綾は弘樹に目すら向けてもらえず、逆に強く突き飛ばされ、尻から落ちて青あざまで作った。床に崩れた自分を見下ろす弘樹の瞳には、同情のかけらもなかった。「綾……俺は、お前が心底嫌いだ。今からはっきり言う。最初から一度も好きじゃなかった。初めて会ったとき、お前があからさまに俺を誘惑してきたあの瞬間から、ずっとだ。お前に触れられるたび、家に帰ってすぐシャワーを浴び、皮膚がむけるほど擦ってた!」低く震える声。浅い色の瞳は怒りで赤く濡れ、弘樹は初めて眼鏡を外し、むき出しの憎悪を叩きつけてきた。あまりにも強烈な言葉に、綾の頭は真っ白になった。一瞬、自分が本当に気が狂ったのではないかと思ったほどだ。――これ、現実?私は今、何を聞かされているの?もし本当に最初から嫌いだったのなら――なぜ玲と自分が天秤にかかったとき、いつも自分を選んだ?なぜ玲と付き合いながら、自分に手を出した?触れられるのも嫌で、血がにじむほど皮膚を擦るほど自分を嫌悪していたのなら、どうして婚約なんて受け入れた?矛盾だらけだった。到底納得できるはずがない。綾はその晩、一睡もできず、ひたすら考え続け、そしてひたすら否定し続けた。最終的に、彼女がたどり着いた答えはひとつ。――全部、玲のせい。弘樹が変わってしまったのは、玲が余計なことを吹き込んだからだ。だからこそ綾は、今日、玲を絶対に許す気はない。少なくとも――玲にも自分と同じ痛みを味わわせてやるつもりだ。「お母さん。今日私を止めるなら……親子の縁を切るから!」綾は鬼のような形
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第379話

華やかに飾られたステージに、玲と雨音がゆっくり姿を現した途端、案の定あちこちから「何だよ」、「帰れ!」といった非難の声が一斉に飛んだ。もっとも、その反応は二人にとって想定内だし、事前に覚悟もしていた。これから状況説明しようと口を開くより早く、ひとりの女が血相を変えてステージ目前まで突進し、玲に向けて狂ったように怒鳴り散らしたのだ。一瞬、ざわついた会場さえ凍りついた。雨音はステージ下の綾を見て、隣の玲をちらりと見上げる。そして半ば呆れたように小声でつぶやいた。「綾がもっと派手に登場するのかと思ってたけど……結局いつも通り、一人でかかってきたね」このアート展で綾が何か仕掛けてくる――雨音がその情報をつかんでから、すでに一ヶ月以上が経っていた。これだけ準備期間があれば、綾ならもっと派手な登場でも狙ってくると思っていたが、どうやら雨音は彼女を買いかぶりすぎていたらしい。だが、玲にとっては大して意外でもない。「綾は単純だからね。普段から頭を使うタイプじゃないし、私に何か仕掛けるにしても、練った作戦なんて立てられないよ。きっとこの一ヶ月は、人集めに全部使ったんじゃない?」実際、玲がざっと会場を見渡しただけで、怪しげな連中が何人も紛れ込んでいるのがわかった。そのせいで、本来なら最も「危険人物」である雪乃が、今日はむしろ目立たないという、妙な状況になっていた。とはいえ、対処すべき相手は一人ずつ片付けるしかない。最後には全員、まとめて会場から退場してもらうつもりだ。玲は雨音のほうへ目を向け、そっと囁いた。「このあとは、ちゃんと私に合わせてね。せっかくだし、劇的な展開にしてあげたいから」「うわ、本当にやるんだ……」そう言いながら、雨音の瞳は明らかに楽しげだった。「でも、そういうの大好き!任せて、最高に盛り上げてあげる!」相手を徹底的に潰すなら、まず冷静さを奪うこと。その点、雨音はこの場で流れを左右するキーパーソンでもあり、綾を暴走させるには最適な役でもあった。彼女は表情をすっと切り替え、そのまま綾へ歩み寄ると、わざと大げさに慌てた声を上げた。「綾さん、何言ってるんですか?男に媚びるとか恥知らずとか……玲ちゃんは、一応あなたのお義姉さんなんですよ?お兄さんの顔に泥を塗る気ですか?」玲は雨音の「熱演」に、思わず沈黙する。…
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第380話

「あんたが藤原グループ社長の妻だからって、誰も文句を言えないと思ってるの?今日は藤原家の娘として、私が真っ先に声を上げるわ!玲!今すぐRさんに土下座して謝りなさい!ここにいる全員にも頭を下げて謝罪するのよ!しないなら――今日はみんなの唾だけで溺れさせてやる!」その激昂ぶりは、過激で知られるRの熱狂的ファンたちさえ怯ませた。あまりに近寄ると、本気で噛みつかれそうな迫力だ。だが、綾が連れてきた記者や、チンピラまがいの連中は違った。雇い主である綾が先陣を切ったことで、一斉に勢いづき、まるで庇護を得たかのようにのさばり始めた。一人の記者が、偉そうにマイクを突きつける。「高瀬玲さん。ご自身の立場を悪用し、Rさんの名を利用したという件――ついには身内の方さえ黙っていられないようです。これについて、反省の言葉は?」続いて、金髪の若者が指をポキポキと鳴らしながら口を挟む。「そうだよ、玲さんさぁ、女なら家で男の世話でもしてりゃいいのに、何で彫刻なんかやってんの?身の程知らずって言うんだよ、こういうの」玲は深く息を吸い、こめかみに指を当てた。「……それ、綾が教えたセリフ?それとも自分の頭で考えたんですか?」そして小さく肩をすくめる。「まあ、いいわ。綾の手下になれる時点で、あなたたちの知能が綾と大差ないのは察してるから。期待する方が間違いですね」何せ、似たもの同士が集まるのだから。玲は穏やかな口調のままだが、内容だけは綾以上に鋭くて容赦がない。綾はさらに顔を歪めた。まさか玲は謝罪するどころか、自分たちを嘲笑ったとは。「玲!今日、悪いことをしたのはあんたのほうでしょ?みんなに迷惑をかけたのもあんた!何でそんな偉そうにしてるの?本気で泣かされたいわけ?」玲は綾の言葉を遮り、静かに告げる。「……まさか、会場に乗り込んで私の作品を壊すつもり?」悪質メディアを呼んでくることしか把握できていなかったが、今日現場で不良に見える人たちを見かけると、綾の計画を大体予想できた。綾は玲を非難するだけではなく、彼女の作品まで壊すつもりなのだ、と。図星を突かれ、綾の表情が一瞬だけ固まる。だが、すぐに開き直って叫んだ。「そうよ!みんなの前で、あんたの粗悪な作品を叩き壊すの!何の才能もないくせに、Rさんの名を利用するなんてもってのほか!同じアート展に並ぶ資格
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