All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 441 - Chapter 450

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第441話

もし弘樹がこれ以上「秀一が犯人かどうか」にしつこく食い下がるなら──玲はもう、斎場だからといって秀一を止めるつもりはなかった。話がわからない相手には、秀一が拳でわからせればいいとすら思っていた。しかし次の瞬間、弘樹は言葉を続けることができなかった。茂が強めの力で彼を横へ押しやり、一人で玲と秀一に向き合い、まるで昔からの親戚のような優しい笑顔を浮かべる。「玲、秀一くん。二人があんな大変な目に遭っていたとはな……でも、無事だったなら、それが何よりだ」それから玲に向き直り、穏やかに言った。「玲、今はお腹に赤ちゃんがいるんだから、まずはゆっくり休みなさい。お母さんのことを思うとつらいだろうが……玲が悲しみすぎると、きっと彼女も天国で心配するよ」そして秀一には、先ほど弘樹が吐いた暴言を払うように、やわらかく笑みを向けた。「秀一、さっき弘樹があんなことを言って、本当に悪かった。どうか大目にみてやってくれ。君はもうすぐ父親になるだ、後でお祝いの品を送らせてもらうよ。これから、私たちの代が掴めなかった幸せの分まで、二人がいっぱい幸せになってくれ」茂はそう言いながら秀一の肩を軽く叩いた。その表情には、ふと昔を思い出したような影が差し、目元がかすかに赤く染まる。そして眼差しは、まるで秀一を通して、他の誰かを見ているかのようだった。茂の様子に、玲は思わず息を止める。彼が言った「私たちの代が掴めなかった幸せ」とは──少なくとも、雪乃とのことではないように思えた。だが、それが誰との関係を指すのかはわからない。秀一へ対する思いがけない茂の優しさを感じながら、玲の胸の中に、寒気を帯びた考えが浮かんでしまう。彼女は表情にそれを出さないよう努めながら、茂ではなく、ただただ雪乃の安らかな顔をみていた。そしてスタッフが遺体を冷凍庫へ移す準備を始めた時、玲はそっと席を外して廊下へ向かった。外へ出ると、それまでこらえていた緊張が一気に押し寄せ、玲は壁に手をつきながら深く息を吐く。手のひらには冷たい汗が滲み、白い壁に落ちるその跡が自分の動揺を物語っていた。――もしかして、雪乃を殺させたのは、茂なのでは?そんな考えが、さきほど茂の優しげな視線を受けた瞬間に頭をよぎったのだ。あの日、犯人と通話していた黒幕が、秀一のことをやけに気遣っていた。そして、最近秀
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第442話

ひんやりとした廊下で、玲は白い壁に背中を預けていた。顔色は壁と同じように白く、血の気がまったく感じられない。そんな彼女に、ふいに深い視線が落ちる。玲はびくりと肩を震わせ、反射的に振り返った。その拍子に、母親になったという自覚が働いたのか、無意識に手がお腹に添えられていた。何かから守るように。しかしそこにいたのは――弘樹。やつれた顔が、玲の視界に飛び込んでくる。いつの間にか、また彼は彼女を探し当てていた。さっき会ったばかりだというのに、わずか一時間足らずで、さらに憔悴して見える。怪我が治って退院したはずの人間とは思えなかった。むしろ、怪我をして入院中の玲よりも、ずっと疲れ切って見える。弘樹は玲を見つめたまま、そっと一歩踏み出した。さっき秀一に向けていた陰湿な気配はどこにもない。彼は慎重に尋ねる。「……玲。妊娠のこと、やっぱり嘘だよね?」玲はわずかに目を瞬き、深く息を吸った。まさか、まだそこを疑っているとは思わなかった。「私は嘘なんてついてないわ。いずれお腹が大きくなるし、見ればわかるでしょ?」弘樹は言葉を失う。最初に玲が妊娠を告げた時、実のところ彼はほとんど疑っていなかった。ただ、どこかで違っていてほしいという小さな期待が残っていただけだ。だが、さっき彼が突然現れ、玲を驚かせたとき――玲は反射的にお腹をかばった。その姿を見た瞬間、弘樹の中に残っていた唯一の希望は完全に消えた。「……玲。お前はもう、俺を捨てて前へ進めているのに、俺はまだ同じ場所で足掻いてる。まさかお前がここまで冷たくなれるなんて、思ってもみなかった」「弘樹、前に何度も言ったはずよ。私たちのことを、全部私ひとりの責任みたいに言わないで」玲は眉を寄せ、淡々と続けた。「それに……また同じ話を繰り返すつもりなら、これ以上あなたに時間を使うつもりはないわ」ひとりで気持ちを落ち着けるために外に出たのであり、弘樹にかき乱されるためではない。まして――彼は茂、すなわち今いちばん疑っている黒幕候補の息子でもある。玲は壁を支えに体を起こし、その場を離れようとした。だが次の瞬間、弘樹が再び彼女の前に立ちふさがった。もう苦笑も皮肉も浮かべていない。真剣そのものの顔だった。「わかった。俺と話したくないなら、それでいい。でも一つだけ……どうしても伝えなきゃ
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第443話

「でも今度こそちゃんと伝える。秀一が囲っている女は彼の幼なじみで、秀一は十年以上彼女のために金や時間を注ぎ込んできたんだ。今だって彼女を治すために全力で動いてる。元気になって、また彼の隣に立てるように……それだけを願ってるんだ」これらすべては、弘樹が退院してから独自に調べさせた結果だった。女の名前は佳苗。目立ちたがり屋で愚かなくらい口が軽くて、少し誘導すれば簡単に情報を漏らす。そのせいで弘樹の怒りは、さらに燃え上がった。――秀一は、玲を欺き、弄んでいる。そんな男が、玲のそばに居続ける資格も、子どもを産ませる資格もあるはずがない。玲はしばらく黙っていた。弘樹は、その沈黙を、衝撃のあまり言葉を失っていると勘違いしたらしい。だが数秒後、玲の薄い唇が、ゆっくりと開く。「……弘樹。あなたが今言ったこと、実は……私はもう知ってるわ」「……え?」一瞬で、空気が固まった。今度は弘樹が言葉を失う番だった。表情が固まり、しばらくしてから、かすれた声を絞り出した。「玲……今、なんて?佳苗のことって……もう知ってたのか?それでもお前は秀一と一緒にいて……しかも、彼の子どもを……?」「ええ、そうよ」玲は何一つ否定しなかった。むしろ、はっきりと頷く。「弘樹、私は秀一を愛してる。だからこそ、いろんなことを自分の中で整理したの。誰かにちょっと言われたくらいで、彼から離れるつもりはないのよ」――玲自身が秀一に失望しない限り、誰の言うことも聞く気はない。例えそれが雪乃だろうと、弘樹だろうと。彼らが語る情報の真偽は不確かで、いちいち気にしていたら心が壊れてしまう。ここまで言えば、弘樹とこれ以上話すことは何もない。玲は弘樹の前を通り過ぎた。今回は――弘樹は追ってこなかった。まるで、風化して崩れかけた彫像のように、その場から動けずにいた。玲は歩きながら、秀一の居場所を探した。どこへ向かえばいいのかわからず、少し足を止めたとき――突然、背後から大きな手が彼女の腰に触れ、ふわりと抱き寄せた。次の瞬間には、玲の身体は温かい胸の中に閉じ込められ、首筋に顔を埋められていた。深く息を吸い込むように、彼女の香りを求める仕草。玲は驚いて目を瞬く。その抱き方、その熱。すぐに分かった。――秀一だ。この様子では、玲と弘樹の会話を聞いていたのだ
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第444話

玲は、すぐ目の前にある秀一の顔を見つめ、そのままそっとつま先を上げた。次の瞬間、柔らかい唇を彼に触れさせる。そのキスは情熱的ではない。まるで、夏の蓮にひらりと舞い降りる蝶のようで、あるいは、春の桜をかすめていくそよ風のよう。なのに――触れた瞬間に広がった熱は、以前よりずっと深くて、ひどく切なくて。激しく求め合ったときのキスよりも胸が揺さぶられる。冷静沈着な秀一でさえ、身体の芯が痺れるほどだった。……だが、場も時も適切ではない。ここは斎場。しかも玲はまだ傷が癒えていない。昨日、生死の境をさまよったばかりで、体力も精神も限界に近い。秀一は玲の細い腰をしっかり抱き寄せ、熱を押し殺すように深く息を吐いた。「玲……元気になったら、そのときは俺が、どれだけ君を愛しているか……ちゃんと教える」その低くかすれた声に、玲は耐えきれず頬を真っ赤に染め、慌てて首を振る。「秀一さん、ち、違うの……!さっきの言葉は、そういうつもりじゃなくて!」「わかってるよ」秀一は真剣そのものの表情で玲の頭を撫でた。「俺も……君をからかうつもりなんてない」秀一の胸の内には、覚悟があった。玲への謝罪も、隠していたことも、すべて話せるよう準備を進めている。玲の体調が落ち着いたら、自分の心を丸ごと見せるつもりだった。けれど玲はその意図を知らない。「また誤解された」と思ったように、軽く息を吐いて言う。「はぁ、秀一さん、もう戻りましょう。今日、母と最後に会った。これで私たちの母娘関係は、本当に終わり」「次は……彼女の火葬の手続きを進めていいか?」秀一が慎重に確認する。遺体を放っておくわけにはいかない。雪乃が殺されたという事実も、犯人が玲の抵抗の中で崖から落ちたことも、すべてが明らかだ。玲が探すべきは黒幕であり、この件に関して、雪乃の亡骸から得られる情報は、もう何もない。玲は深く息を吸い、静かに答える。「火葬してあげましょう。お父さんとは離れた場所にお墓を作ります。もう、二人は来世では出会わないで欲しい」「わかった。君が望むことは、全部叶える」秀一は玲を抱き寄せ、ゆっくりと斎場の外へ歩き出す。「この後ことは全部、俺が引き受けるよ。生前、彼女のことをお義母さんと一度も呼ばなかったが、君の母親だ。俺にも送ってあげる責任がある。だから、きちんと片付ける。
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第445話

玲は秀一の好意を無理に突っぱねることなく、そっと唇を上げると、そのまま彼の胸元へ身を寄せた。……とはいえ、玲が「しっかり休む」と約束したものの、その夜には退院した。怪我は深刻なものではなく、主に擦り傷や打撲ばかりで、病院に長くいる必要はない。それに――同じ病院に佳苗が入院していると知ってからというもの、少しでも顔を合わせる可能性がある場所にいたくなかった。佳苗がどの階の、どの部屋にいるのかまでは聞いていない。しかし同じ病院のどこかにいるだけで、玲にとっては十分すぎるほどのストレスだった。どうせ静養するなら、家のほうがずっと落ち着く。そう判断した玲は、早々に退院を決めた。秀一は玲の考えこそ知らなかったが、病院の息苦しい空気が苦手なのはわかっている。玲が少しでも気持ちよく休めるなら――そう思った秀一は、迷うことなく賛成した。専門の看護師を二人手配し、玲を抱きかかえるようにして病院を後にした。翌日、その決断の余波がさっそく現れた。雨音が医院に駆けつけたものの、玲はすでに退院していたのだ。玲が入院した初日、雨音はすぐに見舞いに来てくれた。しかしその後の二日間は、秀一のようにずっとそばには居られなかった。開催中のアート展のディレクターを務めており、離れたくても離れられない状況だったのだ。玲の体調を考えれば、玲自身が会場に立つのは難しい。だからこそ、雨音がその分までカバーしなければならなかった。R本人に会えなかったことでがっかりしている来場者も多く、雨音はひたすら「聞き役」と「慰め役」に徹していた。ようやく区切りがつき、再び玲のもとへ向かったものの――空振り。雨音は急いで秀一と玲の自宅を訪れ、どこか言いにくそうに切り出した。「玲ちゃん、病院が苦手なのは知ってるけど……まだ体調は万全じゃないし、お腹にも赤ちゃんがいるんだから、病院のほうが安心できるでしょ?」雨音にとって、佳苗が同じ病院にいるかどうかなんて些末なことだった。それより玲と、お腹の子のほうが何倍も大事だ。そもそも佳苗のために、玲が気を遣って病院を離れるなんて筋違いだと雨音は内心憤っていた。佳苗は何者でもない。むしろ他人の夫を横取りするような卑劣な人間。彼女を前に、玲が引く必要なんてどこにもないのだ。しかし玲の考えは違った。玲は穏やかに微笑み、首を横に振った。
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第446話

「玲さん、雨音。さっきから何の話してるんだ?」不意に、間の抜けた男声が割り込んだ。大量の紙袋を両腕に抱えた友也が、首をかしげて立っている。「怖いだの、負けただの……さっぱり意味がわからないんだけど」今日、雨音を病院まで送り、そして玲の自宅まで送り届けたのは友也だった。雨音が玲を見舞うと知るや否や、「暇だから一緒に行く」と言い張り、半ば強引に同行したのだ。もちろん本音は――雨音と少しでも長く一緒にいたい、それだけ。しかし女同士の会話は、友也にとってはほぼ暗号通信だった。聞けば聞くほどわからない。友也の言葉を聞いた雨音は、露骨に眉間にしわを寄せた。友也がついてこなければ、佳苗のことをそこまで濁して話す必要はなかった。彼女は友也を睨みながら言った。「女の子同志の話なんだから、あなたがわからなくてもいいでしょ?」友也は気まずそうに頭をかく。正直、女の子たちの話を聞きたいわけではない。ただ雨音と少しでも多く話がしたかっただけだ。けれど露骨に嫌がられても、友也はめげない。「はいはい、わかりました。じゃあ話は聞かない」そう言って、抱えていた袋を持ち上げる。「それより、玲さんに買ってきたサプリとマタニティグッズとかはどこに置けばいい?」そう、今日の二人は「お見舞い」であり、同時に「お祝い」でもあった。玲が妊娠したと知って、親友の雨音が当然お祝いに来るし、秀一の「弟分」である友也も手ぶらなわけもない。この言葉を聞いた瞬間、雨音の表情が少しだけ柔らいだ。「恵子さんに渡して、玲の部屋にまとめてもらおう」そう言って、雨音は玲の手をぎゅっと握り、にっこりと笑う。「玲ちゃん、今回買ったのは全部あなた用だからね。赤ちゃんのものはまた後で。妊娠したとしても、一番大事なのはあなた自身なんだから」「ありがとう、雨音ちゃん」玲の胸に、じんわりと温かいものが広がる。「私、自分のことちゃんと大切にするよ。そうしないと、赤ちゃんも守れないから」その様子を見て、友也が思わず口を挟んだ。「玲さん、赤ちゃんのことなら、心配しなくても大丈夫ですよ。手が回らない時、秀一が真っ先に助けに来るからさ。何せ玲さんとの一人目の子供だからね。生まれたら、間違いなく大事に大事に育てますよ。だから、心配なんて一ミリもいりません」秀一が玲と結婚し、あれほど大切
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第447話

「……兄さん?どうしてここに?」驚いた声を上げた友也の視線の先で、海斗は車椅子に座ったまま、ゆっくりと部屋に入ってきた。弟の声を聞き、彼はわずかに唇の端を緩めたものの、その穏やかな眼差しは真っ先に雨音へと向けられる。「玲さんの妊娠を聞いてね。お祝いを持ってきたんだ。まさか、みんなが集まっているとは思わなかったけど……」そう言いながら、海斗は玲に目を向け、後ろに控えていた運転手に合図をした。「玲さん、これは僕からだ。赤ちゃんが生まれたら使えるように、ベビーカーを用意した」「ありがとうございます……」玲はぎこちなく礼を言いながらも、視線は隣の秀一へと流れていた。一見誰もが落ち着いていて、場の空気も穏やかだ。だが、なぜか玲には、見えない火花があちこちで散っているように感じられてならない。――これは、完全に修羅場だ。だからこそ、ここは秀一が場をまとめてくれるはず。そう期待して視線を送ったのだ。その視線を受け止めた秀一だが、実は玄関先で海斗の姿を見た瞬間からこの展開を予想していた。動揺する玲と違って、彼は落ち着き払った様子で恵子を呼ぶ。「恵子さん、食事の準備をしてくれ」「……」玲は一瞬、言葉を失った。まさかこの状況を「みんなで食事をする」で乗り切ろうとは思わなかったのだ。とはいえ、ここまで来てしまった以上、玲も腹を括るしかない。実際、お腹も空いていた。玲は雨音の手を引いてテーブルに着き、その後に秀一、友也、海斗が順に席に着く。妙なほど整然とした並びだった。こうして眺めていると――もしかしたら、この食事さえ終われば、張り詰めた空気も少しは和らぐのではないか。そんな淡い期待が芽生えたのも束の間。五分と経たないうちに、場の平和があっさり打ち砕かれた。海斗はローストビーフを取り、自然な仕草で雨音の皿に置く。「雨音、これ、君の好きな料理だよね。昔、一緒にいた頃は本当によく食べていた。覚えてるかな。君のために、わざわざ料理人に作り方を教わったこともあったんだ」「……」雨音は言葉に詰まった。覚えているか、いないか――どちらを答えても、今の状況では地雷にしかならない。玲は思わず顔を背け、秀一の方を見た。雨音からの必死な視線を感じ取っていたが、正直、助け舟を出せる自信がない。そのときだった。秀一
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第448話

「もちろんだよ!」友也は即答した。もともと彼は、赤ちゃんという話題で海斗を退け、これ以上雨音のそばに張り付かせないつもりだったのだ。だからこそ、海斗の口からも子どもの話が出た瞬間、堰を切ったように語り出す。「赤ちゃんなんてさ、この世で一番かわいい天使だろ?特に女の子!もし雨音が女の子を産んでくれるなら、俺は全力で愛するよ。世界一大事な宝物として扱うし、世話だって秀一に負けないくらい、全身全霊でやる!」さらに勢いは止まらない。「男の子だったとしても問題なし。やんちゃかもしれないけど、俺は心も広いし、忍耐力だってある。だから息子だって、ちゃんと立派に育てられる!」要するに――雨音が産む子が男だろうが女だろうが、友也は責任を持って世話をするということだ。その言葉に、雨音は一瞬黙り込み、それから小さくうなずいてしまった。正直、友也が娘をどう育てるかはさておき、少なくとも息子の世話に関しては、彼は意外と向いていそうだと思ったのだ。それは友也の言う「責任感」や「忍耐力」が理由ではない。単純に――友也自身が、今でも十分子どもみたいに落ち着きがないからだ。そんな彼が、やんちゃな男の子を相手にして困るはずがない。……いや、違う。ちょっと待って。――なんで本気で「友也と子どもを産むなら男の子か女の子か」なんて考えてるの?そのことに気づいた瞬間、雨音ははっとして、顔が一気に熱くなった。頬が赤くなるのを止められず、心の中で友也を責める。この人、本当に周りを巻き込む力が強すぎる。一方で。その様子を少し離れた場所から見ていた海斗は、雨音の紅潮した横顔を目にした瞬間、目元をわずかに陰らせた。ただ、その感情はほんの一瞬で消える。何かを思いついたかのように、海斗の瞳から陰りは消え、代わりに浮かんだのは――意味深な光だった。まるで、巧妙な罠を張り終えた狩人が、無防備な獲物を眺めるような視線で、彼は友也を見る。その視線を受け、友也は理由もわからないまま、背筋がぞくりと震えた。――なんだ?この嫌な予感。だが、その正体を探る前に。不意に、恵子が部屋に入ってきた。どこか歯切れの悪い表情をしている。藤原家の用事かと思い、玲は、ちょうど魚の骨を取ってくれていた秀一の腕を軽く押し、自分から声をかけた。「恵子さん、どうしました?何かあ
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第449話

「それに、今日はみんながいるし、雨音だってさっきの話を聞いてしまった。ここで曖昧なままにしたら、雨音はきっと、胸に引っかかりを残すと思うから」海斗の言葉は穏やかだったが、その裏に含まれた意味は鋭かった。もし今日ここで、友也がこころと子どもを中に入れなければ、それはつまり、後ろ暗いことがあると認めるようなものだ。その指摘に、友也は言葉を失った。喉に何かが詰まったようで、息さえできなくなる。だが次の瞬間、秀一が海斗を一瞥すると、すぐさま恵子へ視線を移した。「……恵子さん。山口さんを中へ」迷いのない、即断だった。「秀一!」友也は思わず立ち上がり、声を荒げる。まさか秀一まで、自分とこころの間に何があると考えたのか――そんな焦りが胸を突き上げた。だが秀一は、何も話さなかった。ただ、重く静かな視線で友也を制し、その場の空気ごと押さえ込む。事態がここまで進んでしまえば、秀一がどう考えようと、もはや重要ではない。海斗の言葉に胡散臭さが混じっていようとも、ひとつだけ、否定できない事実があった――ここで逃げれば、友也と雨音との間に埋まらない溝ができてしまう。そのことに遅れて気づいた友也は、はっとして雨音を見る。わずかに血の気を失った横顔。その様子に、友也は強く拳を握り締め、結局、それ以上何も言えなくなった。一方、玲は完全に箸を置いていた。恵子が話し始めた瞬間から、胸騒ぎが止まらなかったのだ。彼女はそっと雨音の手を握る。けれど、指先から伝わってくるのは、はっきりとした冷たさだった。――どうか、誤解であって。玲は心の中で、何度も願う。そうでなければ、雨音が傷ついてしまう。けれど、その祈りは、次の瞬間、無残にも打ち砕かれた。扉が開き、こころが姿を現した。彼女の手を引いていたのは、二歳ほどの男の子。無邪気で、屈託のない表情、どこか友也に似た面影。さらに、男の子は部屋に入るなり、まるで最初から知っていたかのように、一直線に友也へ駆け寄った。ぎゅっと、その脚に抱きつく。「パパ!」澄んだ幼い声が、はっきりと響き渡った。一瞬で、場の空気が凍りつく。友也は、頭の中が真っ白になった。子どもを突き放すこともできず、ただ呆然としたまま、こころを睨みつける。「……こころ、いったい何のつもりだ!この子は?」「友
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第450話

こころの言い分は、要するにこうだった。三年前、彼女が友也のもとを去ったのは、いわゆる「子どもを身ごもったまま姿を消す」という小説によくある展開だったのだと。それから今日まで、彼女は物語のヒロインのように、ひとりで耐え、この秘密を胸にしまい込んできた。だが、子どものために――もう、隠し通すことはできない。だからこそ今、友也に父親としての責任を果たしてほしいのだ、と。そう言いながら、こころは取り出した鑑定書を広げ、テーブルの上に置いた。とりわけ、雨音がよく見えるように。そこには、はっきりと記されている。――父権肯定確率、99.9998%。その瞬間、もともと血の気のなかった雨音の顔色が、さらに白くなった。もし玲がそばで支えていなければ、そのまま崩れ落ちていたかもしれない。だが次の瞬間、友也がさっと立ち上がった。「ふざけるな!」距離を詰めると、彼は報告書を奪い取り、迷いなく引き裂いた。「こんなの、でたらめだ!偽物に決まってる!俺はお前と、そんな関係になったことなんて一度もない!子ども?あり得るわけがないだろ!」目を血走らせて叫ぶ友也の姿は、必死そのものだった。そもそも――友也がこころと付き合っていた理由は、恋愛感情ではない。彼の心に最初からあったのは、雨音ただ一人。こころは、自分の想いを隠すために用意した、いわばカモフラージュにすぎなかった。恋人同士だった期間も、友也は一線を越えなかった。手を握ることすら避けていたほどだ。そんな相手との間に、突然子どもがいるなど――友也にとっては、荒唐無稽としか言いようがなかった。その言葉に、場にいた全員が言葉を失う。力なく俯いていた雨音も、ゆっくりと顔を上げ、友也を見つめた。――あの二人は、あんなに仲よく見えたのに。実際には、何もなかった?その事実に、雨音自身も戸惑っていた。しかし、こころの顔は赤く染まり、声はかえって鋭さを帯びる。「友也くん……よくそんな無責任なこと、皆の前で言えるわね!確かに、あなたの記憶では、私と関係を持っていないかもしれない。でもね――あなたが忘れている記憶の中では、私たちは全部してたのよ!」「……は?」友也のこめかみが、ぴくりと跳ねた。「何を言ってるんだ?こころ、また意味のわからないことを――」「嘘じゃない!」こころは唇を噛みしめ
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