All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 431 - Chapter 440

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第431話

人の気配ひとつないこんな山奥――秀一は、果たして自分を見つけられるのか。そもそも自分はその時まで、持ちこたえられるのか。答えはわからない。それでも玲は、ただ生き延びるために身体を引きずった。手のひらは何度も地面に擦れ、すでに血が滲んでいても、止めることはできない。だが、犯人はすぐ戻ってきたようだ。どれほど這ったかわからない頃、背後から獣じみた怒声が響いた。「何?消えた?クソ!あの小娘、どこへ逃げやがった!」空気を裂くような声に、玲の全身が強張る。慌てた拍子に、腰を岩に激しくぶつけ、視界が一瞬白くはじけた。痛みが波のように押し寄せても、ここで倒れこむわけにはいかない。捕まれば殺される――それはだめだ。死にたくない。まだ、終わりたくない。怯えが限界を超えた瞬間、玲の中で何かが静かに切り替わった。恐怖が霧のように消え、代わりに冷たい覚悟が満ちてくる。玲は崖際まで身体を引きずり、そこで止まった。足元は断崖。一歩間違えれば命はない。――でも、ここなら。正面からプロの殺し屋だと思われる大男に勝てるわけがない。生きたいなら、命を賭けて争うのみだ。玲は崖端の藤蔓を掴んだ。若い蔓は強そうで、まるで縄のようにしなる。その表面には小さな棘が並んでいたが、痛みなど気にしていられなかった。手にぐるぐると巻きつける。棘が肉に食い込み、滲む血が蔓を赤く染める。それでも、玲は眉ひとつ動かさない。ちょうどその時、ついに男が玲を見つけた。二人は初めて真正面から視線を交わす。玲は目を細めて相手を観察し、そして確信する。容姿に目立った特徴がなく、会ったこともないこの男は、誰かの依頼を受けて「仕事」をしていた殺し屋だと。男は軽く嗤った。その手には大きな麻袋と酒のボトルがぶら下がっている。「いたのか、玲さん。戻ったらいないから焦ったよ。ほんとは麻袋に詰めて燃やすつもりだったんだが……自分から崖に来てくれるなんて、死に方を選べてラッキーだな?」裏で「秀一に気づかせない」と電話で話していた内容も、勝ち誇った口調でべらべらと口にする。燃やして灰にしてしまえば、当然秀一も見つけようがない。玲は冷笑を浮かべた。恐怖も涙もない。目には、斬りつけるような強さだけが宿っている。「殺したいなら、やってみれば?」不安定な足場のまま、きっぱりと言い
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第432話

「そんなに死にたいなら殺してやるよ!」玲の挑発まじりの言葉が落ちた瞬間、男の怒気は一気に爆発した。追いつめた獲物に挑発されて、平静でいられる狩人はいない。ましてや今の玲は、息も絶え絶えで、とても反撃できるようには見えない。男は手にしていたボトルと麻袋を地面に叩きつけ、そのまま勢いよく飛びかかった。玲を抱え上げ、そのまま崖下へ放り投げるつもりなのだ。しかし――玲はその一瞬を待っていた。男が駆け寄るより先に、彼女は血に濡れた藤蔓を力いっぱい握りしめ、その反動を利用して男の襟を掴み取る。驚愕に目を見開く男の叫びが耳元で弾けた。「お前、正気か!一緒に落ちるつもりかよ!」玲は息を荒くしながらも、唇だけはきっぱりと冷たく歪めた。「勘違いしないで。あなたと心中なんかする気はない。今日、死ぬのはあなた一人よ!」生きるために。必ず家に帰るために。その一心で、玲は残る全力を振り絞って男の身体を崖の外へと突き落した。男もようやく事の深刻さを悟ったらしい。しかし、さっきまでの油断と走ってきた勢いが仇となり、体勢を立て直す余裕もない。一瞬で身体が宙に浮き、そのまま奈落へ引きずり込まれた。それでも最後の抵抗とばかりに、男は玲の衣服を掴んだ。だが――大人の男の体重に耐えられるほど、布は強くない。ビリ、と嫌な音がして――「ああああああああっ!」絶叫とともに、男は闇の底へ消えていった。姿が見えなくなるまで、一秒もかからなかった。だが、玲も無事では済まない。男に引かれた衝撃でバランスを失い、そのまま崖の縁から投げ出される。しかし手に巻きつけていた藤蔓がギィッと音を立てて彼女を支え、玲の身体は辛うじて宙づりの状態で止まった。――助かった。だが、長くはもたない。藤蔓は彼女の体重に耐えきれず、根元がズズッと土から引き抜かれはじめる。残るのはほんのわずかな細い根だけ。それも今にも千切れそうに震えている。緊張が走り、次の瞬間に何が起きるかわからない。玲の手からは絶えず血が滴り落ち、傷口の痛みは全身へ伝わって震えが止まらない。さきほど岩に打ちつけた腹も、締めつけるように痛んで意識が飛びそうになる。――だめ。ここで意識を失ったら終わり。玲は目を閉じることすら恐れ、崖の壁に爪を立てる。少しでも上へ戻ろうと必死に腕に力を入れ
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第433話

堪えていたものが限界に達したのか、玲の目にじわりと涙が滲んだ。まるで生命の終わりを察したかのように、心のどこにも希望が見つからない。圧倒的な無力感が全身を覆い、息の仕方すら忘れそうだった。それでも――玲は止まらなかった。視界が完全に黒く染まり、意識が途切れそうになっても、骨の奥に染みついた反骨心としぶとい生存本能が、彼女の身体を機械のように上へ上へと動かし続けた。最後の一瞬まで諦めることだけは絶対にできない。だが、その「最後の一瞬」は、あまりにも早く訪れた。鋭い音が崖にこだまし――「パキッ」。藤蔓の根が、とうとう耐えきれずに千切れた。わずかな浮遊感の後、玲の身体は重力に引きずられるようにして真っ逆さまに落ちていく。「秀一さん――!」思わず叫んだその名は、絶望の底で自然と口をついて出た。死の直前、頭に浮かんだのはたったひとりの人だった。その一瞬は夢のようだった。今度は悪夢ではなく、救いの夢。血だらけの玲の手を、誰かが強く掴んだ。玲は反射的に目を見開き、頭上をあおぐ。暗闇に光が差し込んだかのように、そこには彼がいた。「……秀一さん……」震える声で、もう一度その名を呼ぶ。さっきまでの絶望とは違う。今の声には、溢れるほどの安堵と優しさが宿っていた。秀一が――そこにいた。人里離れた山奥で、どうやって、どれだけの時間探してくれたのか。玲にはわからない。それでも、彼は本当に彼女を見つけ出した。いつもは端正で冷静沈着な男。けれど今は、服は乱れ、髪も乱れ、呼吸すら荒い。赤く充血した瞳が、玲を必死に捉えていた。「玲、しっかり掴まってろ。今すぐ引き上げる……必ず連れて帰る!」玲は何も返せなかった。秀一の姿を見た瞬間、糸が切れたように意識を手放した。ただ、心は安らかだった。――秀一が来てくれた。もう大丈夫だ。その確信とともに、彼女は深い闇へ静かに沈んでいった。玲がどれほど眠ったのかわからない。目を覚ましたとき、そこは白い天井の見える病室だった。手も腰も丁寧に手当てされていて、唯一、腹部だけが違和感が残っている。そっと手を伸ばし、自分の腹に触れようとした、その瞬間。わずかに動いた玲の小指を、温かい大きな手がしっかり包み込んだ。続いて、眠りに落ちる直前に見た姿のままの秀一が、玲の顔を覗き込んだ。けれどよ
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第434話

「秀一さん、どうしたんですか……?」玲は重たく張った下腹部に触れようとしていた手を止め、秀一の険しい表情に気づいた瞬間、そっと彼の頬へと触れた。不安げに問いかける。「もしかして……私、すごく長く眠ってました?それとも……何か大変なことになったんですか?」玲は薬を吸わされ、その後も蔓を頼って悪党と揉み合い、さらに崖の端から五、六分も吊り下げられていた。あのときは意識も朦朧としていて、自分の身体がどこをどう傷つけたのか、正直よくわからなかった。病院へ運ばれたと知って、玲は「自分は相当ひどい状態なのでは」と不安になったのだ。そのせいで、秀一がこんなふうに取り乱しているのだと思った。ところが――秀一は静かに首を振った。そして口を開こうとした瞬間、こらえきれずに目が赤くなる。「玲……君は確かに長く眠ってた。丸一日と一晩だ。医者は、体に入った薬を代謝する必要があって、さらに疲労と失血で消耗が激しくて……とても弱っていたって言っていた」彼は震える声で続ける。「でも、命に関わるような大きな問題はない。俺がずっとそばにいるから、しっかり休んで治療すれば……すぐ元気になれる」そこで秀一は、言葉を飲み込み、深く息を整えてから――「それから……医者が言ってた。玲……君は妊娠してる」その一言で、秀一は平静を失っていた。いつも沈着冷静で、社長として絶対に乱れない秀一が、今だけは本当に精神が追いついていない状態だった。玲はそれ以上に衝撃を受けた。秀一の前半の説明までは、まだ冷静に自分の状態を理解しようとしていた。けれど、最後の一言を聞いた瞬間――「え……な、なに?今なんて……妊娠?私が?」頭が真っ白になった。秀一は玲の手をしっかり握りしめたままだが、指先が震えていた。「ああ。君のお腹には……俺たちの赤ちゃんがいる。医者によると、まだ一ヶ月だから……君も気づかなかったんだと思う」確かに……最近やけに眠かったり、気分の波が大きかったりした。秀一は、てっきり自分が求めすぎて彼女を疲れさせたせいだと悔やみ続けていたが――本当は、妊娠による変化だったのだ。そのせいでホルモンバランスが乱れ、玲の情緒も揺れやすくなっていた。そして今、玲は再び胸の奥がぐらつくのを感じていた。子どもが欲しいとは前から思っていた。秀一との間に家
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第435話

玲が妊娠する前から、秀一はずっと「もし子どもができるなら、娘がいい」と思っていた。玲に似た、小さな女の子。そうすれば――自分が幼いころ、彼女と一緒に過ごせなかった時間の穴を、少しでも埋められる気がした。小さな「玲」を、もう一度この手で育てて、誰より大切に守り抜くことができるから。玲はその思いを聞き、ほんの一瞬だけ息をのむ。自分ももちろん女の子なら嬉しい――けれど、それ以上に、玲はこう願っていた。できれば、この子が秀一に少しでも似ていてほしい。そうすれば――秀一の荒れた幼少期を、今度こそ自分が守ることができる。小さな「秀一」を、優しく、丁寧に、もう一度育て上げられる。そんな静かな温もりが、ふたりのあいだにそっと広がる。玲は胸の中にそっと秘めた不安を一旦脇へ置き、やわらかく微笑んだ。「お腹の子が男の子でも女の子でも……元気で、幸せに育ってくれればそれで十分ですよ」「……ああ。性別はどっちでもいい。ただ……君が無事に産んでくれる、それだけが俺の願いだ」秀一は玲の額にそっと口づけ、まっすぐな気持ちを込めてそう言った。玲はついくすっと笑い、まだ平らな自分の腹に手を添える。そこには何の動きもないのに、それだけで胸の奥が温かく満たされていく。「今は医療も進んでるし、私はまだ妊娠一ヶ月ですよ。臨月までしっかり過ごせば、ちゃんと元気に産めるから」「……ああ、わかってる。君はきっと無事に産める。頭ではわかってるんだ」秀一は玲の言葉を繰り返すように頷きながらも、低く沈んだ声で続けた。「でも……俺が君を守りきれないんじゃないかって……どうしても怖くなるんだ」――それも当然だった。ここ数日だけで、玲は二度も命の危険に晒された。玲が丸一日一晩眠り続けていた間、秀一はまるで石像のようにずっとベッドの横に座り、何度も押し寄せる破滅的な衝動を押し殺していた。彼は本気で思ったのだ。玲を傷つけるもの全部……そして、この手で守れなかった自分自身すらも、消し去ってしまいたい――そのくらい玲を失う恐怖に飲み込まれていた。玲は秀一の手をそっと握りしめ、優しく首を振る。「今回のことは……本当にあなたのせいじゃないんです。あの時の私は悪夢に飲まれて、冷静さを失ってました。あなたに何も言わず、夜中に一人で外に出たのは……私の判断ミス」玲は
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第436話

「……ど、どういう意味ですか?」玲は秀一の言葉を聞いた瞬間、思わず固まった。ついさっきまで自分の早とちりを笑っていた表情が、一気に強張って乾ききり、崩れ落ちそうになる。――秀一は、今……雪乃が殺されたと言った?父が亡くなった真相を知ったとき、雪乃には法の裁きを受けてほしいと思っていた。あの世で父に償ってほしいと。けれど――死に方が違えば、その意味はまるで違う。目の前が一気に暗転し、身体から力が抜ける。ふらりと傾いた玲を、秀一は予想していたかのようにすばやく支えた。完全には気を失わなかったものの、ゆらゆら揺れる視界に耐えながら、玲はなんとか絞り出す。「あの人は……留置場にいましたよね?あんな場所で……殺人なんて、起きるはずないじゃない……?」「……誰も予想できなかったんだ」秀一は玲の背中をゆっくり撫で、震える身体を落ち着かせようとする。「昨日は、雪乃が留置場にいる最後の日だった。朝には刑務所へ移送される予定で……それを狙ったやつらがいた。人員交代の隙をついて、プロの傭兵が紛れ込んだらしい」雪乃は、身を守る術なんて何ひとつ持たない女性だ。しかも逃げ場のない留置場の中。結果は、言うまでもない。彼女は声を上げる前に、抵抗する間もなく――命を奪われた。そして、おそらく玲をさらったあの男、彼こそが、雪乃を殺した犯人でもあった。もし玲が機転を利かせて逃げなかったら、彼女も雪乃と同じように、静かに消されていたかもしれない。秀一は玲を抱く腕に力を込め、低く告げる。「崖の下で、あの男の遺体が見つかった。今、身元の調査を進めているが……あの手の傭兵は個人情報を消されていることが多い。雇い主の情報を守るために、どんな痕跡も徹底して消される。だから、特定は難しい」それは、国際的な闇組織では当たり前の手口だった。秀一が何年も追い続けていた十五人の傭兵に関する情報が、最近ようやく掴め始めたのも、そのせいだ。玲は何も言えなかった。雪乃の死を知った瞬間から、思考の大半が止まってしまった。どれほど時間が経ったのか。体感では、永遠にも思えた沈黙のあと――ようやく玲は乾いた声で問いかけた。「母は……今、どこにいるんですか?」「……斎場だ」秀一は玲の冷えきった手を握り、温めようとする。「君を探すのが最優先だったし、雪乃の
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第437話

「……わかった。斎場には俺が連れていく。道中はずっと一緒にいるから、少しでもしんどかったらすぐ言ってくれ。ただ……今のままじゃ外は寒い。風邪をひくといけないから、まずは着替えよう」「うん。すぐに着替えます」玲は素直に頷いた。秀一が少し表情を緩めたのを見て、彼女もふっと安堵する。そのタイミングで、看護師が外出用の服を持ってきてくれた。患者衣のまま外に出るのは避けたい──玲はすぐに看護師と一緒に奥の部屋へ入り、着替えに向かった。秀一は珍しく後を追わず、玲の姿が扉の向こうに消えるのを見届けると、そのまま病室を出た。そして廊下に出たところで、スマホを取り出して電話をかける。数秒後、友也の声が響いた。「もしもし、秀一?今、病院だよね?玲さんの体調はどう?赤ちゃんも無事だった?」「ああ、二人とも無事だ」秀一は低い声で続けた。「俺たちはこれから斎場へ行く。雪乃の遺体はできるだけきれいに整えておいてくれ。玲に見せても支障がないように」雪乃は玲を傷つけた、その事実は消えない。だが──せめて最期だけは、みすぼらしい姿ではなく、穏やかな顔で送ってやりたい。そして何より、玲がこれ以上怯えないようにしたい。友也は即座に理解した。「任せて。斎場に納棺師がいる。雪乃の首の損傷も彼らが縫合して整えてある。玲さんは妊娠中だから……ショックを与えないように準備しておくよ」「ありがとう、助かる」秀一の眉間から、ようやく重い緊張が少し抜けた。声もほんのりと落ち着く。「水沢、このところずっと走り回らせて悪かった。すべて片付いたら、しっかり休んでくれ」「そのくらい気にするな。俺らは親友だから、そんな水くさいこと言わなくていいって」そう言って、友也はどこか嬉しさの滲んだ声で続けた。「それにしても秀一、もうすぐパパかあ……俺も、早く追いつきたいな」本当のところ、友也はこれまで子どものことを特に考えたことはなかった。でも──海斗の前で、つい勢いで「そのうち子どもができたら」と言ったあの日から、妙に心のどこかにその言葉が残り続けている。そして今回、玲の妊娠で、その思いは一気に芽を出した。気づけば想像してしまうのだ。もし自分と雨音の間に子どもができたら──と。きっと、とんでもなく嬉しくて、馬鹿みたいに笑い続けるかもしれない。だが、そんな想像に浸
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第438話

両想いの二人の関係を壊す。このような、他人がやれば軽蔑することでも、自分がやるなら正義だと、友也は今そう思っている。そしてこの妙なマインドセットも、言うまでもなく秀一の影響である。そんな友也から「秀一の影響で変わった」などと真剣に言われると、いつも落ち着いた秀一でさえ、さすがに表情が引きつる。それでも今日は友也がきちんと働いてくれた。秀一はわずかに息を整え、諭すように口を開く。「水沢……君たち三人の関係について、海斗さんの言うことを鵜呑みにするな。血が繋がっていようが、ときにはライバルとして見たほうがいい」「えっ?……どういう意味?」友也は昔から単純な人で、身内が絡むとさらに鈍くなる。「でも、彼は俺の実の兄だよ?まさか、何か怪しい点でも?」「……それは君自身が見て確かめろ」秀一の声音は重く、どこか含みがあった。家族のことは、結局本人が向き合って理解するしかない。そうして得た答えのほうが、ずっと確かで深く心に残るからだ。そう言うと、秀一はそれ以上の説明を切り上げ、通話を終えた。そろそろ玲の着替えも終わっている頃だ。秀一が病室へ戻り、奥の部屋のドアをノックしようとした瞬間、ドアが内側から開いた。思わず半歩下がった秀一は、目の前に現れた人影に息を呑む。玲が、もう着替え終わっていた。患者衣を脱ぎ、薄いピンクのワンピースに着替えた玲は、顔色こそまだ少し青白いものの、柔らかい色に包まれてふわりと華やかさが増していた。妊娠してからの落ち着いた気配も相まって、彼女の雰囲気はどこか優雅で穏やかだ。秀一は、一瞬で胸の奥が熱くなる。たった数分のはずなのに、玲がさらに綺麗になったように思えた。衝動に突き動かされるように歩み寄ると、そっと、だが強く抱きしめる。「……着替えてる間、どこか痛かったりしなかった?傷口は擦れてない?」玲は首を横に振り、安心させるように秀一の肩へ頬をすり寄せた。「どこも痛くありませんよ。それより……さっき、電話してたんですか?」「ああ」秀一は彼女の頬に軽く口づけ、柔らかい声で続けた。「斎場までの車を手配してた。中に柔らかいクッションもおいてもらってる。できるだけ衝撃を抑えられるようにな」玲はぱちりと瞬きをした。もともと、秀一は玲のことを過保護に守ってきた。妊娠がわかった今、その過保護がさらに数段階
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第439話

予想していたことではあったが、そこには弘樹と茂の姿もあった。雪乃が生前、誰より大切にしていた二人だ。茂は雪乃の遺体のそばに立ち、濃すぎるほどの哀しみを顔に貼り付けている。対照的に、弘樹は取り繕うこともせず、無表情のまま微動だにしなかった。玲は、弘樹が以前のように「爽やかで品のある御曹司」を演じようとしなくなったことに気づいていた。彼の瞳の奥に潜んでいた陰りが、すべて表にあふれ出し、この冷たい斎場の空気と妙に馴染んでしまっている。だが、それでも玲が姿を現すと、弘樹の目にはわずかな光が差し込んだ。暗闇に沈んでいた瞳に、小さな灯りがともる。しかし、その光はすぐに秀一の冷ややかな気配によって遮られた。とはいえ、玲にはもう他のすべてが目に入らなかった。斎場に足を踏み入れてからというもの、視線はただただ、白い棺に横たわる雪乃の身体へ、吸い寄せられるように向かっていた。最後に会ったとき、雪乃は狂気じみた表情で「必ず戻ってくる」と吐き捨てた。なのに、三日後である今、彼女はもうどこにも行けない。二度と戻らない。ただ、幸いだったのは──雪乃は玲が夢で見たような凄惨な姿ではなかったこと。専門の手で綺麗に整えられたのがわかる。血も傷跡も丁寧に処理され、顔だけを見れば、ただ静かに眠っているかのようだった。だから玲は泣かなかった。ただ、胸の奥はどうしようもなく痛み、足が再び震えて崩れそうになる。その瞬間、秀一がすぐ隣に寄り、玲の身体をしっかりと支えた。その横で、もう一人、思いがけない人物が同時に動いていた。弘樹だ。玲が倒れかけるより早く、弘樹は大股で近づき、彼女を支えようと手を伸ばしていた。だが、その手が触れる前に、秀一が玲を抱き寄せ、弘樹から遠ざけた。玲は秀一の胸元で身を預け、弘樹のほうを一度も見ない。彼の瞳に残っていたわずかな光は、それで完全に消え落ちた。そして、何でもないような顔で秀一へ声をかける。「藤原社長は、何事も本当に早いね。真相を明らかにしたのも早かったし、雪乃さんをすぐに警察へ突き出すのもそう。そして今日は、早速玲を連れて雪乃さんの遺体を見に来た……知らない人からすれば、すべて社長が計画したよう見えるだろうね」まるで秀一が雪乃の死に関わっている、とほのめかすような言い方だった。秀一は玲を抱きしめたまま、表情から
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第440話

弘樹は鋭い視線を秀一に向け、遠慮のない口調で問い詰めた。もう取り繕う気など微塵もなく、言葉にも態度にもその本性があらわになっている。秀一は黙ってその言葉を聞いていたが、表情はみるみる黒く沈み、弘樹に向ける目つきもさらに鋭くなる。その空気に気づいた茂が慌てて間に入り、弘樹の肩を押さえながら嗜める。「弘樹、適当なことを言うんじゃない。秀一くんは昔からまっすぐな性格だ、玲のことを心から大事にしてる。そんな人間が、玲を傷つける真似をするはずがないだろう」しかし弘樹は、金縁眼鏡を指先で持ち上げ、冷ややかな笑みを浮かべた。「藤原社長は玲を愛している、だからこそやるんだ。玲のためなら何でもできる男だからね。玲を苦しめた雪乃さんを恨んで、残忍な手を使ってでも、『代わりに復讐を果たしたい』と思っても不思議じゃない。でも、そういう極端なやり方をする人間が、本当に玲を幸せにできるだろうか」言うまでもなく、弘樹は「秀一は愛ゆえに雪乃を殺した可能性がある」と遠回しに示唆していた。そして、そんな危険な男と、玲が付き合ってはいけないとも。秀一はもう限界だった。雪乃の遺体が目の前でなければ、とっくに怒りを爆発させていた。だが弘樹はその自制心を嘲笑うかのように追い打ちをかける。沈黙のまま秀一が弘樹へ向かって歩み寄った瞬間──そっと伸ばされた細い手が、彼の手を握った。それだけで、怒気に満ちた大柄な男は動きを止める。玲だった。彼女は秀一の前に立ち、弘樹をまっすぐ見据え、静かな声で言う。「弘樹、秀一さんは、母を殺した人じゃないわ。母が亡くなった夜、私は偶然留置場にいた。でもそこで犯人に襲われて気を失い、車に縛り付けられ、そのまま殺されかけたの。もし母の死が秀一さんと関係しているなら……彼の性格を知っているあなたならわかるでしょ?私が傷つくようなこと、まして妊娠している私を、彼が危険にさらすわけがない」その一言で、場の空気は一瞬にして凍りついた。みんなは、玲の言葉が理にかなっていると思ったから黙ったわけじゃない。情報量が多すぎたのだ。雪乃が死んだ夜、玲が犯人と接触したとは誰も思わないし、ましてや妊娠しているなんて……弘樹は顔色を失い、呆然と口を開く。「そ、そんな……まさか……」次の瞬間、茂を押しのけて前に出ると、信じられないものを見るような目で
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