All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 481 - Chapter 490

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第481話

「……な、なんで、そのことを……?」佳苗は、ついさっきまで秀一のやり方に腹を立てていた。だが美穂のその一言を耳にした瞬間、血の気が一気に引き、痩せこけた顔は真っ白になり、額には冷や汗が滲む。「て、適当なことを言わないでください!秀一さんの前ではなおさらです!私たち家族は十数年前に彼を助けた恩人ですし、彼もそう信じてくれてますから!」「ふふ……本当にそうなのかしら?」美穂は鼻で笑った。「秀一さんはもう気づいてるらしいのよ。あんたたちは善人なふりをして、何かを隠してるって。さっき、病院で待機させてる人間から連絡があったの。秀一さんは、あんたの両親を捕まえて、今、十数年前の出来事について洗いざらい問いただしているそうよ。つまりね。秀一さんが投稿した『見逃さない』って言葉、あれは口先の脅しだけじゃなかったってこと」秀一は、玲を傷つけた人間を決して許さないと言い、そしてすぐ、その通り実行した。今回、佳苗と美穂が玲を追い詰めたこと――それが、完全に秀一を怒らせたのだ。だが、秀一は十数年前のことに気づくとは、佳苗は思いもしなかった。彼女はその場に立ち尽くし、魂が抜かれたようだった。ぽろぽろと、涙が零れる。「……秀一さん……どうして、昔のことを知ってしまったの?こんなことをして……もう、情けも何も残っていないってこと……?私を……完全に潰すつもりなの?だったら、生きている意味なんて、ないじゃない……」佳苗の様子を見つめながら、美穂はそっと目を細めた。そこに宿ったのは、かすかながらも鋭い光だった。「……ねえ、佳苗さん。もう諦めたの?秀一さんが玲のために、あんたをここまで追い詰めたっていうのに……少しも悔しくないの?」佳苗は、嗚咽を噛み殺すようにして叫んだ。「悔しくたって、もう遅いじゃない!全部終わりなのよ!私たちが秀一さんを助けた本当の理由がバレた以上、秀一さんはもう優しくなんてしてくれない。生かしておく理由だってなくなる。だったら私は……いずれ、死ぬしかないのよ!」これまで佳苗が好き勝手に振る舞えていた理由は、ただ一つ。彼女が「秀一の命の恩人」という立場だったからだ。どれほど秀一が冷酷な男でも、その恩がある限り、彼女を切り捨てることはせず、不自由のない生活を与え続ける。だが今、その前提が崩れようとしている。過去
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第482話

美穂という女は、実に演技がうまかった。これまでどれだけの騒動が起きても、秀一の前では常に殊勝な顔をし、理解を示す分別ある母親を演じてきた。その姿に、秀一だろうと無意識のうちに警戒心を解いてしまうほどだ。だが、彼女が一度動けば、小細工では終わらせない。必ず、大きな混乱を引き起こす計画を立てるのだった。洋太が続けて報告する。「奥様から聞いた、あのカフェの住所に部下を向かわせましたが……佳苗さんと美穂さんの姿はありませんでした。こちらの動きを察して、逃げた可能性が高いかと。その後、我々は病院に向かい、佳苗さんの両親に直接話を聞きました。佳苗さんの行方、それから十数年前社長を助けた理由、それを指示した人間……すべて、正直に話すよう求めましたが……」二人とも、完全に口を閉ざしていた。全部話せば、ひどい目に遭うとわかっているかのように、ずっと黙り込んでいた。洋太に問い詰められれば、逆上し、ついには立ち上がって罵声を浴びせ、床に座り込んで喚き散らす始末だったという。佳苗とは違い、あの老夫婦は善良で誠実だと思われていた。だが結局のところ、血の繋がっている家族だ。性格も人間性もさほど変わらないようだ。秀一は黙ったまま、洋太の報告に耳を傾けていた。言葉が重なるほどに、室内の空気はじわじわと沈み、息苦しさを増していく。その様子に気づいた洋太が、何か付け加えようと口を開きかけた瞬間、友也がさっと彼の腕を掴んだ。「もういい。そこまででいいだろ」呆れと苦笑が入り混じった声で、友也は続ける。「佳苗たちの件は、正直もう時間の問題だ。どう始末するかは全部こっち次第。それより今、一番大事なのは――玲さんだろ」その通りだった。ほんの数時間前、秀一は玲から離婚を突きつけられたばかりだ。――それにしても、なんという皮肉だろう。友也も秀一も、揃って妻から離婚を切り出されるとは。しかも玲は妊娠中だ。友也と比べ、秀一の方はずっと辛いだろう。洋太もすでに話は聞いていた。玲の気持ちは理解できる。だからこそ、慎重に言葉を選びながら尋ねた。「……奥様は、相当覚悟を決めているようでしたか?社長は……まさか、本当に離婚を受け入れるおつもりでは……」「そのつもりはない」沈黙を保っていた秀一が、ゆっくりと顔を上げた。低く、だが一切の迷いを含まない声だった。「何があっ
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第483話

「秀一……あの女、自分から電話をかけてきたんだぞ!」友也と洋太は、スマホ画面に表示された名前を見つめたまま、しばし言葉を失い、やがて同時に大きな声を上げた。正直なところ、今の佳苗は追い詰められたネズミのように、どこかに身を潜めているものだと思っていたのだ。だが、その着信を前にした秀一の表情は、ただ静かに沈んでいた。次の瞬間、彼は電話には出ず、洋太のほうへ視線を向ける。「……安東、お前が出ろ」「え、私ですか?」戸惑いながらも、洋太はすぐに通話をつなぎ、スマホを耳に当てた。秀一にかけたはずの電話から聞こえてきたのが洋太の声だったせいか、佳苗は甲高く、耳を刺すような声で喚き散らし始めた。スピーカーにしていなくても、内容がうっすら伝わってくるほどの勢いだ。洋太は歯を食いしばり、必死に耐えながら十分近く聞き続け、ようやく相手が言いたいことを言い切ったところで、通話は切れた。洋太は大きく息を吐き、秀一を見た。「社長……佳苗さんは、奥様に住所を送った例の海辺のカフェに、今すぐ来てほしいと言っています。十数年前、烏山家が社長を助けた件について、社長がすでに違和感を抱いていることは承知している、と。ただし、黒幕が誰なのかまでは、まだ掴み切れていないはずだ、とも……佳苗は、今すぐ会いに行けば、すべてを話す。そして、今後、社長にはもう関わらないと約束するそうです」――つまり、この面会を「最後」にしたいということだ。秀一はすぐには答えなかった。その沈黙を破ったのは、短気な友也だった。「秀一、何迷ってるんだ?これはあいつを捕まえる絶好のチャンスだろ。このまま放っておいたら、あの女、また何をしでかすかわからない。玲さんにだって、これ以上危険が及ぶかもしれないんだぞ」さらに友也は、思いついたように続ける。「それに今、雨音が玲さんと一緒に部屋で休んでる。今のうちに佳苗を押さえちまえば、そのまま引きずって玲さんの前に突き出せる。それで玲さんが佳苗に言いたいことを全部吐き出せば、少しは落ち着いてくれるかもしれないしさ。もしかしたら、離婚の話だってなかったことにしてくれるだろ?」その話に、秀一はゆっくりと目を細めた。それは、嵐の前の海のように、暗く、底知れない眼差しだった。やがて彼は、玲がいる部屋の方向へ、静かに視線を向ける。廊下の先は、静
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第484話

佳苗がいちばん得意としているのは、自分自身を欺くことだった。どれほど酷い目に遭わされてきても、秀一がほんのわずかでも優しさを見せれば、それだけで幸せを感じてしまう。だが――秀一は、もはや佳苗に時間を割くつもりはなかった。「ここに来れば、十三年前俺を陥れた人間のことをすべて話すと言ったな。なら、今すぐ話せ。二十分だけやる。それ以上引き延ばすつもりなら、答えが聞けなくても、部下にお前を確保させる」もちろん、佳苗が車椅子に座り、今にも海へ飛び込むような素振りを見せたところで、意味はない。仮に本当に海に落ちたとしても、五分以内に引き上げれば命は助かるし、秀一が欲しい答えも引き出せる。その言葉に、佳苗ははっと息を呑んだ。しばらくして、苦しげな笑いが唇からこぼれ落ちる。「……秀一さんってほんとひどい。私たちの秘密がわかった途端、優しい顔をやめて、こんな仕打ちをするなんて。それに今日、ネットで私が巻き込まれたあの事故の真相を暴いて、精神鑑定の結果までばら撒いてたなんて、もっとひどい。でもね、秀一さん。たとえ私と両親が、最初から打算で動いていたとしても、あの山奥で一緒に過ごした七年間は本物だったよ。苦しいなかであなたの世話をした、あの日々は……嘘じゃなかった!」あの七年間、佳苗は秀一に本気で好意を抱いていた。すべてが嘘だったとしても――あの想いだけは本物だったと、彼女は信じている。だが秀一は、佳苗の言葉を聞いて、深く目を閉じた。彼の心にあったのは、嫌悪だけ。「……もう五分経った。残り十五分だ」「……っ」佳苗の目に溜まっていた涙が、ぴたりと止まる。ここまで心が通じないとは、想像していなかったのだろう。やがて彼女は、吹っ切れたように高く笑い出した。「わかったよ、秀一さん。どうせ今日は、昔の真相を聞き出して、私を捕まえるために来たんでしょう?だったら、全部話してあげる。あなたの調査結果は、間違ってない。当時、私と両親があなたにあそこまで良くしたのは……あなたがお金持ちで、しかも藤原家の行方不明になった長男だと、知っていたから。最初にあなたを拾ったときは、そこまでは知らなかったわ。だって私たち、山で暮らす貧乏人よ?藤原家なんて、縁もゆかりもないもの。だから最初は、ただ……あなたが気を失ってるときに、首に下げてた首飾りを見て
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第485話

「それから薬も渡された。あなたの記憶を一時的に混乱させて、自分が誰なのか思い出せなくなる薬だって」佳苗は、ふっと笑みを浮かべた。歪んだ高揚が、その声に滲む。「秀一さん、あなたは全部調べ上げたつもりでしょうけど……記憶を失った本当の理由は、あの薬のせいだってことまで辿り着けなかったみたいね。数年が経って、首都に戻って欲しいから薬をやめるようにってあの男に言われなかったら、あなたは一生、自分を見失ったまま山で生きてたはずよ!」――そうなっていれば、秀一はずっと自分のそばにいた。佳苗は、胸の奥でそう思う。だが同時に、秀一が藤原グループの社長でもなくなる。もし彼が何も知らないまま生きる普通の男だったとしたら――それでも自分は、彼を愛したのだろうか。佳苗は、その答えを考えることを拒んだ。自分の愛は、純粋で、疑う余地のないものだと信じたかったからだ。その一方で、秀一の表情は、夜の海のように暗く沈んでいた。深い瞳に宿る冷気は、刃のように鋭い。過去の闇が全て白日の下に晒されたとき、どれほど多くの悪を見てきた人間でも、平静ではいられない。「……その男は、誰だ」低く抑えた声を出すと同時に、秀一は片手で佳苗の喉元を掴み、車椅子から引き上げた。「俺の人生を裏で操っていたその男、あいつの名前を教えろ!」その男は、ただ秀一を七年間、山に閉じ込めただけではなかった。首都の情勢も、紀子と俊彦の関係も――すべてを把握したうえで、周到に駒を進めていたのだ。秀一が山に隔離されたことで、紀子は追い詰められた。やがて俊彦は紀子と衝突し、その隙に美穂が入り込み、妊娠に至る。その連鎖が、最終的に紀子を自殺へと追い込んだ。表向き、直接手を下した相手は秀一だけに見える。だが実際には――藤原家に起きたすべての悲劇、その根にいたのは、間違いなくその男だった。さらに一つの疑念が、秀一の脳裏をかすめる。自分を誘拐するために傭兵を雇った黒幕も、同一人物ではないか――その瞬間、秀一の指にいっそう力がこもった。佳苗の顔色はみるみる赤紫に変わる。それでも彼女は、極限の苦痛の中で、恍惚とした笑みを浮かべていた。「……ふ、ふふ……秀一さん。こんな形で触れてもらえるなんて、想定外だけど……それでも、嬉しいわ。すごく、満たされてる。今の話を聞いて、黒幕の正体をすぐにで
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第486話

一瞬、海辺の風音がさらに激しさを増したように感じられた。半身ほどもある黒い波が強風に煽られ、轟音とともに波止場へ叩きつけられる。だが秀一は、最初から警戒していた。佳苗が身を投げるように迫ってきたその瞬間、彼は指に込める力を強め、彼女の喉元をさらにきつく押さえ込んだ。佳苗がどれだけ背伸びし、唇を突き出そうとも、秀一には触れられない。――その時だった。突如として、幾重にも重なるフラッシュの光が闇を切り裂いた。まるで無数の照明が一斉に点いたかのように、夜の海面が一瞬で白昼のように照らし出される。秀一は背を向けていたため、直接その光を浴びたわけではない。だが、これは誰が仕組んだものかなど、考えるまでもなかった。佳苗か、あるいは美穂――大量のマスコミを呼び寄せたのは、そのどちらかだ。そして今のこの体勢。正面から見れば、秀一は佳苗に触れてすらいない。だが、背後から切り取られれば――二人は、まるで激しく口づけを交わしているかのように映る。秀一は黒い瞳を細め、すぐさま背後を振り返った。予想は、寸分違わず当たっていた。本来なら、彼の部下しかいないはずの波止場に、数え切れないほどの報道陣がひしめき合い、長いレンズを構え、狂ったようにシャッターを切っている。その様子は、もはや異様と呼ぶほかなかった。そして、真っ先に制止に入るはずの友也や洋太、黒服の男たちも、なぜかその場に立ち尽くし、動こうとしない。理由はすぐにわかった。秀一の瞳孔が、はっきりと揺れる。人混みの向こうに――もう家で眠っているはずの玲が、そこに立っていた。夜風が冷たいせいか、彼女の顔色は家にいた時よりもさらに青白く、血の気のない横顔は、今にも泡になって消えてしまいそうな人魚姫のようだった。その姿を認めた瞬間、秀一は反射的に手を放し、佳苗は地面へと投げ出される。今日一日で負った傷に、さらに追い打ちをかけられ、もはや立ち上がる力すら残っていない。挑発する余裕も、媚びる仕草も、もうできなかった。それでも、地に伏したまま、佳苗はかすれた声で笑った。「……秀一さん、無駄だよ。今さら焦っても、もう遅い……玲が来てるの、わかってたから、わざとやったんだもの」唇を歪め、息を整えながら、佳苗は続ける。「実際にキスできなくても、玲の目にはどう映ったと思う?あの角度なら……私
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第487話

「藤原社長、これからは奥さんと離婚して、佳苗さんと結婚されるおつもりですか?」「社長、佳苗さんは一般女性です。社長との熱愛現場が撮られた以上、男として、きちんと責任を取るべきでは?そうでなければ、さすがに不誠実すぎますよね?」記者たちは示し合わせたかのように言葉を重ねた。まるで、秀一が玲と別れ、佳苗と結婚する以外に、選択肢など存在しないかのように。だが、秀一の表情は、氷のように冷え切っていた。彼は迷う素振りも見せず、低く、しかしはっきりと口を開く。「今日ここに来た理由は一つ。十三年前に起きた私が誘拐される事件に、烏山佳苗とその家族が深く関わっているからだ。これまで調査した結果、烏山家は当時の犯人と通じていた。私が記憶を失い、山中に取り残され、七年間も消息不明になっていたのは――すべて、烏山家と黒幕が共謀して仕組んだことだ」一瞬で、場が静まり返った。ついさっきまで秀一のスキャンダルに目を輝かせていた記者たちは、言葉を失い、ただ立ち尽くしている。――彼らの多くが、美穂から金を受け取り、秀一と佳苗の関係をでっち上げるために集められた人間だ。だが、秀一の言葉を聞いた以上、さすがに動きにくくなった。佳苗は、秀一の人生を壊した張本人だ。順当に考えれば、こんな二人の間に恋愛感情があるはずがない。秀一もこの展開を予想していたから、十数年前の秘密を公開したのだ。玲もこの場にいるなら、尚更だ。一同が沈黙する中、秀一はゆっくりと視線を上げ、人混みの向こうに立つ玲を、まっすぐに見据える。一語一語、噛み締めるように、言葉を放った。「君たちが、誰かの指示を受けて私を陥れようと集まったことは把握している。本来なら、ここまで事情を説明する義理はない。だが今日は――私の妻がいる。だから、包み隠さず、すべて話そう。今日の午後、私がネットで公表した内容は、すべて事実だ。私は佳苗と交際したことは一度もない。彼女は私の命の恩人でもない。私たちの間に残っているのは、憎しみと、清算すべき過去だけだ。それでもなお、事実をねじ曲げ、沈静化した世論を再び煽るつもりなら――記事を出す前に、どう書けば信じてもらえるのか、よく考えることだ。そして何より、自分たちが私の怒りを受け止めきれるかどうか、覚悟しておくべきだ。裏で指示を出した人間も、私も、確かに藤原家の人間
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第488話

玲が波止場に姿を現したとき、秀一を助けようとする友也や洋太、そして護衛たちを止める気など、最初からなかった。ただ、彼女を見つけた瞬間、全員が思わず動きを止めてしまっただけ。その結果、秀一が記者たちに囲まれたあの一瞬、誰も彼のもとへ踏み出せなかったのだ。もっとも、秀一は誰かの助けを待つような男ではない。結局、彼はたった一人で場を制し、再び荒れかねなかった世論を完全に押さえ込んだ。そして今――その秀一が、迷いのない足取りで、まっすぐに玲のもとへと歩いてくる。玲はわずかに視線を上げただけで、何も言わなかった。秀一は、玲が口を開く前に、先に言葉を紡ぐ。黒い瞳に映っているのは、彼女だけだった。「玲……さっき、あの人たちに話したことは、全部、君に伝えたいことでもあったのだ。今日ここへ来たのは、十三年前の誘拐事件の真相を突き止めるため。そしてこの前、佳苗を取り逃がしたせいで……君をこれ以上傷つけさせないためにも、できるだけ早く確保する必要があった」一度息を整え、秀一は続ける。「さっき、佳苗が俺に突っ込んできた件も……遠くから見れば、キスしているように見えたかもしれない。だが、実際には何もない。彼女が一瞬の隙を突いて近づこうとしただけだ。俺は警戒していたし、触れさせてもいない。すぐに引き離した」佳苗という存在を、二人の間に影として残したくなかったからこそ、秀一は言葉を惜しまず、ひとつひとつ丁寧に説明した。実のところ、玲の中に誤解はなかった。秀一の後を追ってこの波止場まで来たのは事実。車を降り、遠目には二人が口付けをしているように見える瞬間もあった。だが、秀一の人間性と能力を玲は誰よりもよく知っている。彼が不意打ちのキスを許すような男ではないことも。それに、秀一を愛する佳苗は、まるで天国に執着する亡者のようなものだ。もし本当に触れられていたのなら、今の彼女があれほど怨念に満ちた顔をしているはずがない。だから玲は、秀一を静かに見つめたまま、ただ一つだけ尋ねた。「……さっき、烏山さんにいろいろ言われてたみたいですけど、傷ついたりしてませんか?」かつて恩人だと思っていた相手が、まさか黒幕と通じていたとは。それは、もともと人の善意に恵まれてこなかった秀一にとって、大きな衝撃だったはずだ。実際、烏山家の真実を知ってから、秀一は長い
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第489話

秀一は、玲の言葉をすぐに受け止めた。あまりにも素直な彼は、まるで主人のそばを離れたくない大型犬のようだ。だが、口ではそう言いながらも、彼女を抱く腕の力は、少しも緩んでいなかった。玲の温もりがあまりにも愛おしくて、車に乗り込んだあとも、秀一の手は自然と玲の腰に添えられたまま離れなかった。だが車が走り出してから、玲は何も言わなかった。秀一の動きを拒むことはせず、ただじっと前を見つめている。その澄んだ瞳は、どこか焦点が合っていなかった。そして一時間ほどで、家に到着する。玄関前には、雨音が立っていた。眠ってしまっていたはずの彼女が、玲を待っていたのだ。玲が出かける前、雨音は半分眠ったまま布団に入り、玲の様子がおかしいことに気づかないまま、「トイレに行く」という言葉に適当に返事をしてしまった。だが、しばらくしても物音はなく、時間が経っても玲は戻ってこない。そこでようやく、雨音は完全に目が覚めた。おかしい――そう思った瞬間、胸の奥がざわつき、本気で海辺まで探しに行こうかと考え始めたそのとき、玲が戻ってきた。車から玲が降りるのを見て、雨音は一気に駆け寄り、彼女の体を確かめる。「玲ちゃん、大丈夫だった?もう……出かけたいなら、私を連れていってよ。一人で黙って出て行くなんて、心配するに決まってるでしょ」「ごめん、雨音ちゃん……もう二度としないよ」玲は、無理にでも口角を上げ、静かにそう答えた。雨音も、本気で怒っていたわけではない。玲の疲れ切った表情を見て、唇を噛み、何も言わずに頷いた。秀一が続いて車を降りると、さきほどと同じように、玲の腰に手を添えて部屋へ連れて行こうとした。だが、一歩近づいた瞬間、玲が静かに身を引いた。彼を見る視線は車の中と同じで、感情が一切入っていなかった。「秀一さん……ここはもう誰もいませんから、これ以上近づかないでください」さきほどまでは、多くの記者がいた。佳苗の件を片づけた直後に、自分が冷たい態度を取れば、秀一の立場を悪くしてしまう。だから、秀一に触れられたくなくても、突き放さなかった。でも――もう、見ている人はいない。世間体を気にして頑張る必要もなくなった。目をそらす玲を見て、秀一は一瞬、言葉を失った。さっきまで熱を帯びていた胸の内に、冷たい水を浴びせられたような感覚が走る。
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第490話

玲が求めているのは、すべてが終わったあとに並べられる弁解ではない。秀一自身が過ちに気づき、本当に変わってくれること――それだけだった。だが結局、秀一はそれを示せなかった。二人はついさっきまで、隠し事をめぐって激しく言い争い、離婚の話にまで踏み込んでいた。それでも秀一は、また同じ過ちを繰り返してしまった。もっとも、彼自身の中では、今回は「故意」ではなかった。秀一は大股で前に出ると、後ずさる玲を追い、必死にその手を掴んだ。「玲……今回は佳苗から、突然連絡が来たんだ。君の部屋を見たら、もう静かだったし、休んでいると思った。だから、先に佳苗を捕まえて、そのまま君の前に連れてきてから、全部話そうとしただけなんだ」玲が眠っていなかったどころか、彼の後を追って波止場まで来ていたなど、想像もしていなかった。今回ばかりは、秀一に隠すつもりは本当になかった。だが、その言葉を聞きながら、玲は深く息を吸い込むと、掴まれた手を振りほどこうとし、秀一を静かに押し返した。「秀一さん……もう、これ以上説明しなくても結構です。この二日間、あなたからは十分すぎるほど説明を聞きました。私は、あなたの無実を信じていますし、事情があったこともわかっています。全部、私のためだったということも。でも、私たち二人は、物事の向き合い方や判断の基準が、どうしても噛み合わないみたいです。だから――穏やかに別れましょう」玲は、できる限り感情を抑えた声で、静かに言葉を重ねた。「でも安心してください。離婚しても、私がお腹の赤ちゃんを諦めたりしません。生まれたあと、あなたに会わせないなんてこともしません。これまであなたが私を助けてくれたこと、いちばん苦しいときに手を伸ばしてくれたこと……それには、本当に感謝しています。だから、夫婦でなくなっても、友人としての関係は築けると思っています。あなたは、この子の父親であることも変わりません。会いたいときは、事前に連絡をください。私がきちんと段取りします」そして、最後に一線を引くように、きっぱりと言った。「ただし、親権は必ず私が持ちます。もし、それを受け入れてもらえないなら……法廷で争うしかありません」金も、株も、何一つ求めない。だが、子どもだけは、絶対に手放せない。秀一は、言葉を失った。玲の口からこぼれる一つひとつ
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