All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 511 - Chapter 520

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第511話

実際、秀一は言葉通りの行動を取った。数時間後。玲が最低限の荷物をまとめ、雨音と並んでいくつかのスーツケースを引きながら部屋を出てくると、彼女の手にある荷物はすぐ秀一に引き取られた。「運ぶのを手伝うだけだ」そう言い添え、荷物を運び始める。さらに、これから二人が暮らす予定の家まで送り、引っ越しも手伝う――そんな提案まで口にした。玲は反射的に断ろうとした。だが、言葉が出るより早く、秀一がふっと視線を落とす。その先が、まだほとんど目立たない自分のお腹に向けられていることに、玲は気づいた。端正な顔はどこか青白く、ここで拒まれたら、立っていることすらできなくなりそうな――そんな危うさを帯びている。玲はしばらく黙り込んだ末、唇を噛みしめたまま、秀一の行動を黙認した。そのまま車に乗り込み、秀一が何度も行き来しながら荷物を運ぶ姿を、ただ静かに眺める。引っ越しを手伝うと言い出したのは、秀一自身だ。だから彼は、嫌な顔ひとつ見せることなく、何往復もしているのに足取りは軽く、唇の端にはかすかな笑みさえ浮かんでいる。その様子を見て、先ほど秀一の意味深な言葉に呆然としていた友也も、ようやく腑に落ちた。「……さすが秀一だな。俺みたいに『しつこく食い下がる戦法』は使わないわけだ。なるほど、自分なりの、もっと高度なやり方があるってことか。いや、何食わぬ顔で距離を詰めてくる感じ、なかなかのものだよ」玲が断ろうとした、あの瞬間。秀一が見せた、あの視線の使い方――あれだけは、何度生まれ変わっても、友也には真似できそうにない。これまで自分がやってきた正面突破など、今思えば、勢い任せの空回りに過ぎなかったのだ。「友也、何ぼうっとしてるの?ほら、藤原さんと一緒に、早く玲ちゃんの荷物を運んで!」次の瞬間、雨音の声が飛んできた。彼女は友也の手にスーツケースを押しつけると、そのまま玲と同じように後部座席へ向かい、あとは全部、男二人に任せるつもりらしい。荷物を手にしたまま、友也は一瞬きょとんとしたが、すぐに口元が緩んだ。――まあ、俺は俺でいい。雨音が自分のやり方を受け入れてくれるなら、それで十分だ。こうして友也も、嬉々として「引っ越し部隊」に加わった。二、三往復もすれば、玲が新居に持っていく荷物は、ほぼ運び終わった。四人はそのまま、雨音の所有する
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第512話

その声を聞いた瞬間、玲はわずかに足を止めた。雨音に至っては、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、しばらく言葉を失っていた。今日の午前中、俊彦に追い出され、みっともない姿で藤原家を後にした綾と美穂が、もう一度、しかもこんな場所で現れたのだ。まさかこの二人、自分たちの後をつけてきたのか?雨音が内心そう疑った、その矢先だった。お尻をかばいながら顔を歪めた綾が、先に金切り声を上げる。「あんたたち、私たちをつけてきたんでしょ!」綾は声を荒らげ続けた。「玲、ほんとしつこいわね!私たちが家から追い出された途端雨音を寄越したくせに、まだ気が済まないの?今度は新しい住まいまで押しかけて、とことん笑いものにするつもり?」綾は、玲のことを執念深く、どこまでも厚かましい人間だと決めつけていた。ようやく身を寄せる場所を見つけ、少しは気持ちも落ち着いたはずだった。それなのに、玲の姿を目にした瞬間、その安堵は跡形もなく消え、胸の奥には再び、どす黒い感情が渦巻く。だが、その言葉を浴びせられた玲と雨音のほうこそ、気分は最悪だった。悪い冗談にもほどがある。藤原家を追い出されたはずの美穂と綾が、よりによって、この一帯に住んでいるなんて。家主である雨音は、さすがに黙っていられなかった。「この辺、家なんていくらでもあるでしょ。新しい分譲もあれば、古い住宅地もある。あなたたち、どのマンションに住んでるの?怒鳴る前に、ちゃんと説明しなさいよ」「な、なんで私たちが、そんなこと教えなきゃいけないのよ!」反射的に言い返しながらも、綾の視線は明らかに泳いでいた。「私とお母さんは藤原家の人間よ?まさか古い住宅地なんかに住むわけないでしょ。あんな汚くてボロい家、私は生まれてこの方、住んだことないし。これからも、綺麗な家にしか住まないんだから!」「……そう?」玲は静かに目を細めた。これまで何度も綾と向き合ってきた彼女には、その言葉の端々ににじむ違和感が、もうはっきりと見えている。「じゃあ、本当にここに住んでいるって言うのなら――今すぐ、中に入りましょう」逃げ道を断つような、穏やかな声だった。四人が立っていたのは、マンションのエントランスの外だった。雨音は、周辺の施設や交通環境を玲に説明するため、まだ中に入っていなかっただけだ。だが、入
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第513話

人はついていないときほど、他人の不幸を見て安心するものだ。綾はいま、まさにそんな心境だった。あれほど玲を溺愛していた秀一が、ついに玲を家から追い出した――そう思うだけで、胸の奥から込み上げる喜びが抑えきれなくなる。それどころか、玲は自分以上に惨めな存在にさえ見えた。確かに自分は傷を負ったまま家を追われた。けれど、玲は身重の体で、行き場すら失っているのだ。綾は玲を指さし、今にも嘲りの言葉を浴びせようとした。だが次の瞬間、背後からゆっくりと足音が近づいてきた。美穂の表情が凍りつき、綾の視界には、背筋を伸ばした秀一の姿が映り込む。秀一はまるで道化を見るかのような、冷ややかな眼差しで綾たちを見下ろしていた。「今、何を言おうとしてた?」「……」綾は言葉を失った。秀一が現れた以上、彼女の推測は間違いだったことは、言うまでもなかった。その様子を見て、雨音が得意げに笑い、綾の手を叩き落とすと、腰に手を当てて胸を張った。「ねえ綾、玲ちゃんが藤原さんに捨てられたと思って、笑ってやろうって思ったでしょ?自分より惨めな人を見つけて、いい気分になりたかったの?でも残念だったね。玲ちゃんは、あなたみたいに追い出されたわけでも、婚約者に見放されたわけでもないんだよ。妊娠して気分転換に住む場所を変えるだけ。しかも引っ越しは全部、藤原さんが付きっきり。荷物だって藤原さんが運んでくれたし、玲ちゃんはただ座って待ってるだけでいい。私はというと、ついでに玲ちゃんとこの辺をぶらぶらできるし、快適そのものだよ。……あれ?話せば話すほど、あなたのほうが可哀想に思えてきたんだけど?」実際、いまの綾は完全に孤立していた。実の父も、弘樹も頼れず、親しかった友人たちからも見放されている。雨音は噂話にも詳しい。綾が「名ばかりの令嬢仲間」たちと完全に決裂したことも、すでに耳に入っていた。それどころか――今回、綾と美穂が俊彦に追い出された一件、裏で糸を引いていたのは、あの友達面していた晴美だという話まで聞いている。そんな状況で、玲を笑おうとする綾は余計に惨めに見える。もともと息苦しさを感じていた綾は、雨音の容赦ない言葉に追い打ちをかけられ、目の前が暗くなる。怒りに任せて雨音に飛びかかろうとした、そのとき――美穂が慌てて綾の腕を掴んだ。そして秀一を一瞥する
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第514話

綾は知っていた。玲の妊娠は、まだ三か月にも満たない。ネットでもよく言われている。妊娠初期の三か月は、身体も心も不安定で、ちょっとした刺激でも大きな負担になる、と。だからこそ、綾はわざと玲を追い詰めようとした。感情を揺さぶって、取り返しのつかない結果になればいい。流産でもいいし、最悪、母子ともに、なんてことになれば、さぞ痛快だろう。そんな下劣な呪いを吐き終えると、綾は美穂とともに足早にその場を離れようとした。玲に言い返す隙すら与えず、嫌な思いだけを押しつけて去るつもりだったのだ。しかし、綾の耳障りな言葉を聞いた瞬間、秀一の表情は一気に陰り、大股で止めに入ろうとした。だが、その一歩よりも早く、細い影が彼の横をすり抜けた。次の瞬間。パシッ!乾いた音が、はっきりと空気を裂いた。美穂は娘をかばう間もなく、綾が勢いよく弾き飛ばされ、そのまま尻もちをつくのを、ただ呆然と見ているしかなかった。午前中にようやく血が止まっていた傷口は再び開き、綾は痛みに耐えきれず、地面を転げ回る。美穂は、呆然と玲を見つめた。しばらくしてようやく、自分が見た光景が現実だと理解する。「……玲、あんた……綾を殴ったの?あんた、人に手をあげられるような人じゃなかったでしょう!」美穂の記憶の中で、玲はあくまで言葉で相手を制するタイプだった。実際に手を出すのは、たいてい雨音か秀一で、玲自身が前に出ることはほとんどなかった。その玲が――いま、自分の目の前でためらいもなく綾を叩いたのだ。玲の表情は、驚くほど落ち着いていた。「前は、そうじゃなかった。でもそれは、できなかったわけじゃない。私はこれまで、あなたを目上の人だと思ってきました。だから、人として最低限の礼儀は守ってきたつもりです。でも――今は違う。あなたはもう、私が礼儀を払う相手じゃありません」一拍置いて、玲は続けた。「ちょうどこの数日で、決めたんです。もう、自分らしく生きようって。口汚く罵って、人を平気で呪うような相手には……容赦しません。一言につき、平手一発。それでもわからないなら、棒でも何でも使います。道具なら、いくらでもありますから。もう二度と、誰かの機嫌を取るために、自分の気持ちを押し殺したりしません」これまでの玲は、手を出すことを避けてきた。秀一が前に立ってくれることも多
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第515話

玲は迷いなく、腕を強く振り下ろした。美穂は完全に虚を突かれ、そのまま地面に叩きつけられる。視界が一気に回転し、頭の中が真っ白になる。数秒のあいだ、耳鳴りだけが「キーン」と響き続けた。その光景を目の当たりにし、さすがの綾も言葉を失う――美穂にまで手を出すなんて、綾の中で、玲はすでに正気を失った存在になっていた。「な、何してるの……!私ならまだしも、お母さんにまで手を出すなんて!お母さんは、あんたの義母でもあるのよ!」玲は唇の端をわずかに吊り上げ、綾を見て小さく笑った。「違うわ。あなたのお母さんは、私の義母でも何でもない。さっきもそう言ったでしょう?殴った理由も簡単。二人とも――殴られるだけのことをした。それだけよ」玲の視線が、地面に倒れた美穂へと移る。「美穂さん。今回、烏山さんが私を陥れられたのは、あなたが裏で焚きつけていたからでしょう。綾が罰を受けて、俊彦さんに見放された。その責任を、全部私に押しつけたかった。だから私を潰せば、結果的に秀一さんも傷つく。そう考えたんですね?ネットで誹謗中傷が広がって、私を罵る声で溢れていたとき――あなた、スマホの前で笑っていたでしょう?これで私が壊れて、秀一さんも懲りるはずだ、って。だから、今日はこの一発で教えてあげます。私は壊れていない。今も、こうして立っています。次に、誰かを傷つけようとしたら――この痛みを思い出して。次は、もっと重くいくから」状況だけ見れば、玲はここでもう一発、手を出しても不思議ではなかった。綾があれほど口汚く罵り、お腹の子にまで呪いの言葉を吐けたのは、母親である美穂が止めなかったからだ。――子どもが過ちを犯すなら、その責任の一端は、教えなかった親にもある。そう考えれば、さらに数発叩き込んでも理屈は通る。それでも、玲は美穂のような人間ではない。弱さを見つけて、回りくどく痛めつける趣味もない。やるなら、正面から。罰は、本人に直接与える――それが、玲の選んだやり方だった。玲は、まだ平らな自分の腹にそっと触れ、手首を軽く回す。次は、綾の番だ――そう思った、その瞬間。綾は、玲の動きを見て察した。さっきまで噛みつこうとしている彼女は、顔やお尻の痛みに懲りたか、言葉を飲み込んだ。地面に転がる美穂を引きずるように起こすと、その場から逃げ出した。一歩で
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第516話

玲にとって、今回はちょうどいい機会だった。この一件を通して、秀一にきちんと伝えておきたかったのだ――自分の体調は問題ないし、過剰に気を遣われる必要もない、ということを。秀一は何も答えなかった。ただ、わずかに口元を緩める。怒られたはずなのに、不思議と気分は悪くない。むしろ、今の玲のほうが、以前よりずっと魅力的に見えた。――自分の意思で立ち、自分の足で歩こうとする玲。その姿に、秀一は抗えないほど惹かれてしまう。だからだろう。彼は「遠慮」という言葉をすっかり忘れたように、最後まで徹底して「低姿勢」を貫いた。玲の後ろをついて行き、新しい家まで荷物を運び、挙げ句の果てにはソファに座らせると、玲の手首を取って、丁寧に揉み始めた。さっき、あれだけ力を込めて平手を振るったのだ。玲の手は白くて柔らかい。今ごろ、痛みや熱が残っているに違いない。――とはいえ。これは、さすがにやりすぎだった。玲はぐっと手を引き戻し、眉を寄せて秀一を見る。「荷物を運ぶだけって言ったでしょう。もう家にも着いたし、そろそろ帰ってください。まさか、このまま居座るつもりですか?」ここで秀一の存在感が強すぎたら、「秀一の影響を受けない場所で自分を取り戻す」という、玲の計画そのものが無意味になってしまう。けれど、秀一はこのまま居座るつもりはなかった。「玲……一つ、話しておきたいことがある」彼は真剣な表情で、そっと手を離す。「もう君に隠し事はしないと約束した。これから先、俺の周りには危険も、嫌なこともたくさん起こるだろう。でも、全部君に話す。だから……今、見てほしいものがある」そう言って、秀一は視線を上げた。次の瞬間、部屋に入ってきたのは友也だった。手にはタブレットを持っている。「玲さん。さっき俺が席を外してたのは、綾と美穂さんが逃げたあと、秀一に頼まれて後を追ってたからです。そしたら、ちょっと面白いものが撮れました。今なら、気晴らしにちょうどいいかなって」友也自身も、今日これほどの「収穫」があるとは思っていなかったのだろう。どこか楽しそうにタブレットを操作し、映像を映し出す。画面に現れたのは――美穂と、そして久しく姿を見ていなかった弘樹だった。それは、美穂の住まいの近くに仕掛けた小型カメラからの、リアルタイム映像だった。二人は、家の前で
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第517話

藤原家を追い出されたあと、美穂はすぐに茂へ電話を入れ、住まいの手配を求めた。茂は一応、応じた。美穂と綾に用意されたのは、古びたマンションの一室だった。長年、贅沢な暮らしに慣れきってきた美穂にとって、この環境が耐え難いのは言うまでもない。だが、今の立場で選り好みできる状況ではないことも、彼女自身よくわかっていた。そのため一度は不満を飲み込み、文句ばかりの綾をなだめ、「とりあえず必要な物を買って、少しでも住めるようにしよう」と言って、二人で外出したのだ。俊彦があの剣幕で追い出した以上、いつになったら藤原家へ戻れるのか――正直、見通しは立たない。だからこそ、ここでの暮らしを少しでも整える必要があった。だが、その途中で、最悪の相手と鉢合わせてしまった。玲と、秀一。そして今――住まいへ戻った美穂は、頬を腫らしたまま、弘樹の前に立っている。怒りと悔しさが入り混じり、声は自然と荒くなる。「弘樹さん……私は別に、お父さんを脅したいわけじゃないのよ。でも、この場所じゃ本当に暮らせないの。さっきなんて、あの玲に会ったのよ。近くの新しいマンションに住んでいて、私と綾の顔を見た途端殴りかかってきたのよ?このままここにいたら、次は何をされるのかわからないわよ!」もちろん、美穂の話には誇張も混じっている。今日の発端が、綾の不用意な暴言だったことも、彼女は理解していた。――けれど。手を上げられたのは事実だ。しかも、相手は今や何の遠慮もなく暴力を振るう女。身の安全のためにも、彼女から離れたほうが賢明だ。玲の名前が出るとは思わなかったのだろう。弘樹の無表情だった顔に、わずかな揺らぎが走る。「……玲が、この辺りに?どうして……急にあの家を出たんですか?」美穂は焦る気持ちを抑えて答える。「本人たちは、妊娠して気分転換したいから、って言ってたけど……私はね、例の佳苗の件で、秀一との間に溝ができたんだと思うわ」弘樹の眉が、きゅっと寄る。「じゃあ、今回の引っ越しは玲一人?秀一は一緒じゃないのですか?」「いいえ、一緒よ。秀一は、ずっとそばにいたし、荷物も全部運んでた」「……どうして?揉めてるはずなのに、どうして秀一がまだ玲のそばに?まさか、無理やり玲を引き留めてるんですか?」立て続けに投げられる問い。弘樹の顔に焦りが広がっていた。だ
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第518話

「……で、でも、あんたは茂さんの息子でしょう?」美穂は眉をひそめ、弘樹を見上げた。どう考えても納得がいかない、という顔だ。「こんなことくらい、融通をきいてくれてもいいじゃない」弘樹は、相変わらず淡々とした口調で返事した。「こんなこと?あなたにとってはそうかもしれませんが、父は違います。彼は、すべてを自分の掌の中で動かしたがる人間で、誰かに指図されるのを、何より嫌っています。この前あなたが二十年以上前の件を持ち出して、父を脅した。正直、あれで相当機嫌を損ねています。それでも住まいを変えたいなら、俺を通さず、直接父に言ってください。ただし……父の逆鱗に触れても、俺は一切責任を取りません」弘樹は、美穂のためにトラブルを起こすような愚かな真似はしない。その一言で、美穂の顔色はみるみるうちに失われた。視線を落とし、気まずそうに口を閉ざす。――思い当たる節が、多すぎた。俊彦に追い出され、行き場を失い、追い詰められた勢いで、茂に向けた言葉は確かに度を越した。茂は昔から短気で、執念深い。二十数年前、美穂は身をもってそれを思い知らされている。しばらくの沈黙のあと、美穂はゆっくりと息を吐き、声の調子を切り替えた。「……弘樹さん。この前は、少し感情的になっていたわ。悪かったと思ってる。私はあなたのお父さんに、悪意なんて一切ないの。この住まいが彼の手配だというなら、それでいいわ。帰ったら、代わりにお礼を伝えておいて」弘樹はわずかに目を細める。「つまり……引っ越すつもりはない、ということですか?」「ええ、しないわ。玲がこの近くに住んでいるとはいえ、私だって少しくらいは我慢できるもの。これからは、なるべく関わらないようにして、静かに暮らすわ」――玲になるべく関わらない。その言葉を聞いた瞬間、弘樹の瞳に宿っていた氷のような冷たさが、ほんのわずかに和らいだ。彼は煙草の火を消し、淡々と告げる。「……それなら結構です。美穂さん、藤原家を出た以上、しばらくは大人しくしていたほうがいい。綾のことも、きちんと見ておいてください。これ以上、無駄な騒ぎを起こさせないように」一拍置いて、続けた。「父はすでに、豪くんを帰国させる準備を進めています。そう遠くないうちに……家族は、また揃うでしょう」藤原豪――美穂が産んだ双子のうちの、兄のほうだ
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第519話

豪は、秀一と同じく、俊彦の息子だ。もし俊彦が、遺言を残さないまま突然この世を去ったとしたら――藤原グループを巡って、正面から秀一と張り合う資格を持つのは、豪だけ一人だ。だからこそ、茂が「戦い」を見据える以上、豪は必ず手元に置いておかなければならない存在だ。そして美穂もまた、息子にすがらなければ、藤原家で自分の居場所を確保することはできない。なにしろ今の美穂は、まだ俊彦と正式に離婚していない。だからこそ、豪を支えることができる。だが、離婚が成立してしまえば――その瞬間から、美穂は豪にとって、何の役にも立たない母親になってしまう。その現実を突きつけられ、美穂の顔色は一瞬だけ青ざめた。けれど次の瞬間、その瞳から息子への心配が消え、代わりに、権力への渇望と強い執念がはっきりと浮かび上がった。「……弘樹さん、あんたとお父さんの考えは正しいわ。豪くんは戻ってくるべきよ。それも、一日でも早く」美穂は静かに息を吸い、無理に口角を上げた。そして、少し言い訳めいた調子で続ける。「さっき私が言った、不満みたいなことは……どうかお父さんには伝えないで。他意があったわけじゃないの。私はずっとお父さんの判断と采配を信じていた。そもそも、二十数年前、お父さんがいなければ、私は藤原家に足を踏み入れることも、俊彦さんの子を授かることもなかったのだから」今になっても、美穂はそれを理解している。自分は感謝すべき立場なのだ、と。世間では、彼女が紀子を踏み台にして今の地位を手に入れた、と噂される。だが実際には、美穂は茂の協力によって俊彦の妻になれたのだ。二十数年前――美穂は紀子の親友だったが、その頃の彼女は、俊彦と結婚しようなどとは思っていなかった。紀子に取って代わり、藤原家の女主人になるなど、現実味のない幻想だと思っていた。理由は簡単だ。俊彦は、それほどまでに紀子を愛していた。その愛は、執着と言っていいほど歪で、逃げ場のない檻のようだった。初めて紀子に会ったその瞬間から、俊彦は彼女を閉じ込め、同時に、自分自身もその中に閉じ込めてしまったのだ。俊彦は、紀子の心に自分以外の人が存在することを許さなかった。同じように、彼の心にも紀子しかいなかった。他の女など、視界に入れることすらなかった。だから美穂には自覚があった。最初はせいぜい、紀子に取り入って、俊彦、
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第520話

茂がビジネスの世界で俊彦を打ち倒すなど、現実的に見ても不可能に近い。だが、そのときの茂は、口元に薄く陰のある笑みを浮かべていた。整った顔立ちの奥に潜む危うさは、獲物が現れるのをじっと待つ、荒野のハイエナを思わせる。「たしかに、私は結婚もしているし、子どももいる。だが、それは『私が満ち足りている』という意味ではない」静かな声で、茂は続けた。「君はさっき言ったな。紀子が子どもを産んでから、俊彦さんとの関係は良好で、秀一くんも可愛らしい、と。では、その子がいなくなったらどうなる?二人の関係は、今までと同じように続くと思うか?」さらに言えば――もし子どもを失ったあとも、紀子は何事もなかったかのように、俊彦と暮らし続けられるのだろうか。美穂は、答えられなかった。背筋を走る震えに、思わず身をすくめる。茂の瞳に宿る冷酷な光が、あまりにも生々しかった。そして茂は、静かに、最後の言葉を置いていく。「美穂さん。君が紀子のそばに現れたその日から、私は君がどんな人間か、よくわかっていた。だから――さっきのような、取り繕った優しさは、君には似合わない」一拍置いて、低く告げた。「覚えておけ。藤原家の女主人の座が空いたときは――ためらうな。そこに、堂々と腰を下ろせばいい」それだけ言うと、茂は振り返りもせず、その場を去った。あまりにも唐突で、あまりにも短い出来事だった。まるで、一瞬だけ現れては消えた、悪夢のように。だが、美穂はすぐに悟る――あれは、夢などではなかったのだと。なぜなら、半月も経たないうちに、彼女が「可愛い」と口にしたばかりの幼い秀一が、誘拐され、行方不明になったからだ。それを境に、紀子と俊彦の関係も急速に悪化した。紀子は重度のうつ状態に陥り、美穂は親友として頻繁に藤原家を訪れ、彼女を励ます役を担うことになる。その結果、俊彦に近づく機会も増えた。茂の判断も正しかった。美穂は決して善人ではない。上へ登り詰めることだけを見て生きてきた人間に、良心や誠実さなど、最初から必要なかったのだ。だからこそ――俊彦が茂の策略によって大量の幻覚薬を飲まされた、あの夜。美穂は、紀子の服を身にまとい、何のためらいもなく書斎へ足を踏み入れた。ただ一つ、彼女の計算に入っていなかったことがある。紀子が、飛び降り自殺を選ぶなどとは、夢にも思
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