All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 531 - Chapter 540

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第531話

玲の予感は、残念ながら的中していた。秀一が俊彦を始末しようとしたのではないか――そんな噂が出回ったのを皮切りに、似たような記事は雨後の筍のように次々と現れた。数日に一度の頻度で、「俊彦会長の容体が急変」、「会長が危篤状態に」といった見出しがトレンドに躍り出る。そのたびに、無表情な秀一が盗撮され、「まったく動揺していない」、「冷酷だ」という印象が、何倍にも誇張されて拡散されていった。そして、その流れを見逃さなかったのは、美穂と綾だった。二人はすぐさま病院へ乗り込み、騒ぎを起こした挙げ句、あるメディアの取材まで受けた。カメラの前で涙を流しながら、こう訴えたのだ。――秀一は、俊彦に会わせてくれない。娘や妻である自分でさえ、病室に入ることを許されていない、と。その証言によって、「秀一が意識のはっきりしない俊彦を事実上支配し、藤原グループを独占しようとしている」という憶測は、もはや噂では済まされなくなっていった。世間の視線は、次第に好奇心から断罪へと変わっていった。人々は秀一を、まるで罪人でも見るかのような目で見始めていた。そしてある日、その矛先は、ついに玲へと向けられる。いくつもの問題を抱えてはいるものの、世間の認識では、玲は依然として秀一の妻であり、藤原グループ社長夫人だった。そんな中、義父である俊彦が重篤な状態で入院しているにもかかわらず、玲が一度も病院に姿を見せていない――その事実に、ネットは即座に反応した。すると、どこからともなく「正義感」と「倫理観」を振りかざす人々が湧き出す。「嫁として、さすがに非常識じゃない?」「いくら顔が良くて有名でも、義父の世話もしない女なんて、誰にも相手にされないわよ」「お義父さんがずっと入院してるのに、一度も見舞いに来ないって、どういう神経なの?」やがて、「藤原家の内情に詳しい」と名乗る人物まで現れた。「聞いた話だけど、玲は結婚してから一度も嫁としての役目を果たしていないらしい。家のことはすべて家政婦任せで、今回病院に来ないのも、男と遊び回っているからだとか。妊娠中なのに落ち着きがないなんて、節操がなさすぎる!」無責任な言葉が次々と投げつけられ、まるで誰かが意図的に、玲を崖の縁へ追い込んでいるかのようだった。だが、そうした中傷が広がり始めてから、十分も経たないうちに。
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第532話

その写真があまりにも滑稽だったせいか、俊彦の報道すら一時的に押しのけ、トレンドを独占した。こうして世間は、綾という人間の「素の姿」を、一斉に目撃することになったのだ。そして、一足遅れて状況を知ったRのファンたちが、次々とコメント欄に書き込み始めた。【遅れて来たから細かい事情はわからないけど、とりあえず笑っていいやつだよね?】【いい加減、『嫁は義両親の世話をするもの』みたいな発想、絶滅してほしい】【この古臭い論調に便乗して玲を叩こうとしたんだろうけど、綾ってまず自分の尻も拭けてないじゃん。他人を裁く資格ある?】【それにしても秀一さんの対応、正直しびれた。自分の悪い噂が一か月近く流されてても一切反論しなかったのに、玲さんの話が出て十分も経たないうちに本人が出てくるとか、すごすぎ】【これが本物の愛ってやつでしょ。ファンより先に動くとか、もう『玲ガチ勢』の称号は今日から秀一さんで確定】軽やかで賑やかな言葉の裏で、人々はあらためて秀一の深い愛情に心を打たれ、同時に、玲がどれほど大切にされている存在なのかを実感していた。その渦中にいながら、当の玲はスマホを見つめたまま、表情こそ静かだった。だが、スマホを握る指先には、無意識のうちに力がこもっている。胸の内で感情が激しく揺れていることは、隠しきれなかった。その様子に気づいた雨音は、口元にやわらかな笑みを浮かべる。「さすが藤原さんだよね。美穂さん、ここ最近ずっと可哀想な妻を演じて世論を味方につけようとしてたけど……綾があれをやっちゃったせいで、全部台無し」確かに――人の悪口を広める余裕がある人間に、同情の余地などない。今やネットは、綾の話題で持ちきりだ。この状況で、美穂がいくら「病院にも行けない可哀想な妻」を演じたところで、世間は母娘まとめて、面白半分の消費対象にするだけだろう。それでも雨音の言葉を聞きながら、玲は小さく眉を寄せた。胸の奥に、どうしても引っかかることがあったのだ。――藤原豪の存在。この間監視映像から聞いた弘樹の話では、豪は茂の手引きで海外から呼び戻されているはずだった。だが、日付を数えれば、もうすぐ一か月になる。普通なら、すでに帰国していてもおかしくないし、母と妹があれほど騒いでいるのなら、二人と一緒に出てきていてもいいはずだ。それなのに――豪の姿は
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第533話

「……弘樹?どうしてここに?」ゴミ袋を手に扉を開いた玲は、外に立つ痩せた弘樹の姿を認めた瞬間、わずかに息をのんだ。そして反射的に眉が寄る。同時に、弘樹も視線を玲に向けていた――正確には、彼女の腹部に。妊娠三か月を過ぎた玲のお腹は、以前のように平らではなく、うっすらと丸みを帯びている。一目見れば、食後なのかと思う程度かもしれない。だが、七年間も共に過ごした弘樹に、その変化があまりにもわかりやすかった。淡い色の瞳でその膨らみを見つめながら、彼の口元に苦い笑みが浮かんでいた。「玲……体調は、大丈夫か?」「……わざわざこんなことを聞くために来たの?」数秒の沈黙のあと、玲は一歩引き、ゴミ袋をドアの脇に置いた。「弘樹、私たちはもう他人よ。だから、心配される筋合いもない。綾に用があるなら、この先の古いマンションに行って。ここは、あなたが来る場所じゃないわ」このマンションの周囲には、秀一が手配したボディーガードが常に配置されている。玲自身も、それを知っていた。だが今は、秀一の計画がまさに正念場を迎えている時期だ。茂の息子である弘樹に、ほんのわずかでも隙を見せれば――それが秀一の足を引っ張る結果になりかねない。そう判断し、玲がドアを閉めようとした、その瞬間だった。弘樹が一歩踏み出し、扉に手をかける。「玲、そんなに怯えないでくれ。俺は綾に会いに来たわけじゃないし、お前を傷つけるつもりもない」彼は一度、玲のお腹に向いていた視線をそらし、まっすぐに彼女の目を見た。「今日は、秀一のことで話があって来た。中で、落ち着いて話をさせてほしい」「必要ないわ」玲は眉をひそめ、警戒をさらに強める。「秀一さんのことについて、あなたと話すことは何もない。今すぐ帰って。これ以上つきまとうなら、こちらにも考えがあるから」これまで、玲が自分の意思でボディーガードを呼んだことはない。だが――呼べないわけではない。その含みを理解したはずなのに、弘樹はなぜか小さく笑った。金縁眼鏡の奥の淡い瞳には、どうしようもない哀しみが滲んでいる。「秀一が君に残したボディーガードを呼ぶつもりなんだろう?」そう言ってから、彼は静かに続けた。「……玲。昔の君なら、俺にこんな態度は取らなかった。ただ話がしたいと言っただけで、ここまで拒まなかったはずだ
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第534話

特にこの一か月、穏やかに過ごすために、玲はスマホから多くのアプリを削除していた。余計な情報に触れれば、それだけ気持ちが揺さぶられるとわかっていたからだ。だが、玲がそう言うことを、弘樹は最初から見越していたかのようだった。次の瞬間、彼は手にしていたスマホを玲の前に差し出し、再生される映像を彼女に見せた。それを目にした途端、玲は息を呑んだ。それはリアルタイムの監視映像だった。場所は病院の個室。スマホ越しでも、鼻を刺すような消毒液の匂いが漂ってくる気がする。だが、問題は場所ではなく、映像の中に映っている人物たち――茂、俊彦、そして秀一。さらに、部屋の隅には、身なりが乱れた美穂の姿もある。激しい「戦い」が始まる空気が、画面越しでもはっきりと伝わってきた。玲の瞳が大きく揺れ、きゅっと縮む。しばらく言葉を失ったまま、彼女はゆっくりと弘樹を見た。深く息を吸い込み――半分閉めていたドアを押し開く。「……入って」弘樹がこんなものを見せた以上、もう彼を追い返すことなどできない。とはいえ、警戒を解くつもりはない。彼女はさりげなく、テーブルの上に置かれていた果物ナイフを、手を伸ばせば届く位置へと移す。同時に、熱いお茶を淹れたのも、いざという時に身を守るためだった。すべてを整えたあと、玲は弘樹と距離を保てる位置に腰を下ろす。彼との体の接触は、絶対に避ける。だが、家に入ることを許された弘樹は、思っていたほど嬉しそうではなかった。玲の向かいのソファに腰を下ろした彼は、金縁眼鏡の奥で視線を揺らし、さきほどまで浮かべていた含みのある笑みを、完全に消していた。「……お前が秀一と別居したって聞いた時、正直、思ったんだ。俺と別れた時みたいに、時間が経てば気持ちも冷めるんじゃないかって。でも……違ったんだな」警戒心の強い玲が、妊娠しているにもかかわらず、弘樹を家に入れた。それはつまり――秀一の身に何が起きているのかを知りたい気持ちが、自分と、お腹の中の子どもの安全を天秤にかけても、上回ったということだ。その事実が、弘樹の胸を強くえぐった。――どうして、あの時は違った?どうして、自分の時には、ここまで必死になってくれなかった?玲は無表情のまま、彼を見つめている。その理由については、もう何度も、何度も伝えてきたからだ。「弘樹……あな
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第535話

玲がさきほど見たのは、俊彦の病室で、秀一と茂、そして美穂が互いに睨み合い、今にも火花が散りそうな場面だった。だが、そのあと何が起きたのか、状況がどう転んだのかまではわからない。ただ――昨日、玲のもとには秀一から一通のメッセージが届いていた。この時期は、まさに攻防が最高潮を迎えている最中だ。秀一は長らく玲の前に姿を見せていないが、連絡だけは毎日欠かさなかった。少しでも時間が空けばメッセージを送ってくる。玲が返事をしようがしまいが関係ない。まるで一人語りでも構わないかのように、淡々と、けれど温度のある言葉を綴ってくる。それが、張り詰めた日々の中で、秀一にとって唯一の安らぎなのだと、玲にはわかっていた。そして昨日、送られてきたのは、ひどく短い一文だった。【玲、無理をしないで。もうすぐで君のそばに戻れるから】その言葉と、先ほど弘樹のスマホで見た映像が、頭の中で重なり合う。玲の胸に、不安が一気に押し寄せた。秀一が焦りのあまり、取り返しのつかない行動に出てしまうのではないか――そんな嫌な予感が、どうしても頭から離れない。弘樹を正面から見据える玲の表情は、強くこわばっていた。これ以上、話を曖昧に引き延ばされるようなら、今すぐ病院へ向く覚悟さえあった。腹部に手を当て、焦燥を隠しきれない玲の様子を見て、弘樹はわずかに目を細める。そして、もう時間稼ぎはしないと判断したのか、再びスマホを取り出した。画面には、先ほどと同じリアルタイム映像が映し出される。だが、そこに流れていた空気は、先ほどとは明らかに違っていた。……茂は、ベッドに横たわる俊彦を見下ろし、歪んだ笑みを浮かべていた。俊彦が入院してから、すでに二か月が経っている。「病」という名の鎖に縛られ続けた結果、かつての威厳や貫禄は影も形もなくなっていた。窓から差し込む陽光の中で、俊彦はベッドに横たわっていた。顔色は青白く、頬はこけ落ち、瞼は固く閉ざされている。その姿を一目見ただけで、残された時間が長くないことは明らかだった。茂は、まさにこの光景を待ち望んでいた。満足げに室内を見回したあと、彼は壁にもたれ、どこか他人事のように立っている秀一へと視線を向け、声をかける。「秀一くん、本当によくやってくれた。俊彦に薬を盛れとは言ったが、ここまで完璧な仕上がりになるとは思ってい
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第536話

美穂の叫び声は、途中で唐突に断ち切られた。過去の秘密を口にしかけた、その瞬間――茂の手のひらが、容赦なく美穂の頬を打ち据えたのだ。床に崩れそうになる美穂を見下ろしながら、茂は氷のような視線を落とす。「美穂……ずいぶん追い詰められているようだな。この期に及んで、私がお前の味方だなどと、よくそんな戯言が言える。二十年以上前――秀一くんが人さらいに遭った隙を突き、お前は紀子を踏み台にして藤原家に入り込んだ。親友と夫、両方に裏切られた紀子が、どれほどの絶望を味わったか……その末に、あの人は自ら命を絶った。私は紀子の婚約者だった。今でも、あの時のことを思い出すたびに……お前を八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られる。そんな私が、お前を助けるわけがないだろ?美穂。これ以上、でたらめを並べ立てるつもりか?自分の人生だけでなく、息子まで捨てる覚悟があるなら、止めはしないがな」最後の一言は、明らかな脅しだった。その言葉に、秀一の動きが一瞬止まる。彼は静かに視線を上げ、美穂のほうを見た。案の定、美穂は口を閉じた。顔が一気に青ざめ、血走った目で茂を睨みつける。「私の息子……豪くん……茂、豪くんをどこへやったの?国外から連れ戻すって言ったでしょ?なのに、どうして……どうして、まだ帰ってこないの?」この一か月余り、美穂は情緒不安定な状態が続いていた。病院でも、メディアの前でも、縋るように泣き叫ぶ――その姿は、単なる演技ではない。息子が消えたという現実が、彼女を追い詰めていた。本来なら、すでに帰国し、彼女のそばにいるはずの豪。だが、どれほど待っても、その姿は現れなかった。綾は楽観的だった。兄は茂に守られていて、いざというときの切り札として温存されているのだろう、と。しかし、美穂は違う。茂がどれほど冷酷な人間かを、誰よりもよく知っている。――豪には、きっと何かあった。そう確信していたからこそ、この一か月余り、美穂はあらゆる手を使って茂に会おうとしてきた。すべては、行方の知れない息子を取り戻すためだった。そして今、茂があえて豪の名を口にしたこと自体が、明確な脅しだった。その意図を悟った瞬間、美穂の顔から血の気が引く。彼女は慌てて言葉を重ねた。「わかった……もう、何も言わない。これからは、あんたの言うことに逆らわない……だか
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第537話

映像を見ている玲は、焦りのあまり、画面の中へ飛び込みそうになっていた。茂は、あえて秀一に俊彦の酸素チューブを外させようとしている。その狙いは、あまりにも明白だった。ひとつは――かつて自分から最愛の人を奪った俊彦が、よりにもよって実の息子に殺される光景を、この目で見届けたいという、歪んだ優越感と勝利欲。そしてもうひとつは――秀一の両手を、取り返しのつかない「父殺し」の血で染め上げること。そうすれば、その罪は一生消えない。茂はその弱みを握り続けることができる。だからこそ、秀一は茂に惑わされてはいけないのだ。どれほど関係が冷え切っていようと、俊彦は秀一の父親だ。秀一が藤原家に戻ってから、俊彦は距離を取り続け、父としての愛情をほとんど示さなかったことは事実だ。そのせいで、秀一は継母である美穂のもとで、数えきれない苦しみを味わってきた。それでも――ここで茂の思惑に乗せられ、後戻りのできない一線を越えてしまえば、すべてが終わってしまう!玲は、スマホに映るリアルタイム映像を見つめながら、心の中で悲鳴を上げた。次の瞬間、震える指で秀一に電話をかけようとする。だが、その手から、スマホが奪い取られた。「弘樹、返して!」怒りに眉を寄せた玲は、とっさに取り返そうとした。お腹をかばう余裕すらない。しかし次の瞬間、弘樹は彼女の手首をしっかりと掴み、そのまま視線を映像へ向けた。「玲……もう、間に合わない」「戦い」が一度始まってしまった以上、玲が割って入る余地はないのだ。その言葉に、玲の胸が嫌な音を立てて沈む。思わず振り返った、その瞬間――画面の中で、秀一が酸素チューブを外しているのが見えた。……「……茂さん。それは――俺にここで引き金を引けと、そう言っているんですか?」秀一は、鋭く光る黒い瞳で茂を見据え、一語一語、噛みしめるように言った。その場の空気を押し潰すような重圧が、雪崩のように広がる。だが――その直後だった。秀一は、ためらいも見せず、酸素チューブの接続口を手に取ると、力任せに引きちぎった。ベッドに横たわっていた俊彦の顔色が、みるみるうちに白くなった。意識の定まらなかった体は、酸素を失い、反射的に震え始める。硬直した手足が、かすかに内側へと縮こまる。だが、その抵抗も、ほんのわずかだった。「……っ、……っ
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第538話

「よくやった。本当によくやってくれたよ、秀一くん。君は人でなしなんかじゃない。実に肝の据わった男だ」茂は興奮を隠しきれない様子で続けた。「今日のこの行動で、私は心から君を信じられるようになった。これから藤原グループを継ぐのは君だ。その時は、私も全力で支えてやる。首都で、すべての頂点に立つ存在にしてやろう」その一方で、ベッドに横たわる俊彦には、もはや一瞥すらくれなかった。遺体はこのあと焼き、灰にしてから、悪臭の立つ溝へ捨てる――茂はそう心に決めていた。自分と紀子の人生を壊した男に、墓へ入る資格など与えるつもりはない。だが、美穂の悲嘆と、茂の狂気を目の当たりにしても、秀一は驚くほど冷静だった。彼は、長い指で握っていた酸素チューブを、静かに脇へ置く。それから、何事もなかったかのように手を拭った。そして、淡々と口を開く。「茂さん。藤原グループのことも、俺の今後のことも……あなたに心配してもらう必要はありません。俺は、あなたの望んだ通りにしました。だから次は――」秀一は顔を上げ、まっすぐに茂を見据えた。「俺が知りたいことを、あなたが話す番です。今なら……俺の母が、なぜ死んだのか。その真相を、聞かせてもらえますよね?」その視線は穏やかでありながら、矢のように鋭く、逃げ場を与えなかった。茂は一瞬、言葉を失った。先ほどまで張り付いていた狂気じみた笑みが、わずかに引きつる。「……秀一くん、それはどういう意味だ?」「言葉通りの意味です」秀一は、一語一語、噛み締めるように告げる。「俺は、あなたと美穂の関係を、ずっと前から知っていました。さっき、あなたが彼女を殴ったのは……二十数年前、彼女を藤原家へ送り込んだのがあなた自身だと、口にさせないためだったんでしょう?残念ですが……それも、もう全部知っています。それだけじゃない。俺が幼い頃、傭兵に拉致された事件。その背後で糸を引いていたのもあなたでしたね。烏山家に七年も閉じ込められていたのもあなたの指示でした。そして、美穂が父と関係を持ち、子どもを産めたのも――全部、あなたの手配でした」茂は、美穂を押さえていれば、秀一を「何も知らない駒」として使い続けられると信じていた。だが今、秀一は彼にはっきりと突きつけている――自分は、すべてを知ったうえで、ここに立っているのだと。彼
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第539話

本来なら、茂は当時の話を墓まで持っていくつもりだった。彼がかつて心から愛した女性はただ一人――紀子。それは、彼の人生で唯一、そして最も深く愛した初恋の相手だった。二人の縁は、さらに前の世代にまで遡る。高瀬家と紀子の実家は、もともと代々の付き合いがある名家同士だった。まだ子どもたちが生まれる前から、両家の間では婚約が交わされており、この二人が将来結ばれ、家同士の絆を永く繋いでいくようにと、そんな未来が思い描かれていた。茂もまた、物心ついた頃から知っていた。自分には許嫁がいるのだと。その名は、紀子。首都で最も美しい存在と称される、汚れなき宝石のような女性。夜空に浮かぶ星のように、誰の手にも届かず、ただ静かに輝く存在だった。だがある日、その星に、盗人が目をつけた。俊彦。彼は、茂の目には卑劣で下品な略奪者にしか映らなかった。たった一度、宴席で紀子を見かけただけで、俊彦は恥も外聞もなく彼女に執着し始めた。手段は選ばず、家の力を振りかざし、ついには――彼女を自分のものとして奪い去ったのだ。その頃、茂は海外で高瀬家の事業拡大に奔走していた。知らせを受け、すぐに帰国した時には、すでに遅かった。紀子は俊彦の妻となり、藤原家の奥様として、その家に迎えられていた。「秀一くん」茂は語りながら、ふと秀一へ視線を向ける。「愛している女が、他の男の隣に立っているのを見せつけられる気持ち……その胸を焼くような痛みは、君なら分かるはずだ」秀一の瞳が、わずかに沈む。だが彼は、何も言わなかった。茂もまた、返答を期待してはいなかった。彼の眼差しはさらに陰を帯び、言葉を続ける。「だがな、秀一くん。君はまだ、愛した女に裏切られた時の痛みを知らない。私はずっと、紀子は俊彦に無理やり奪われたのだと信じていた。だから彼女は、心の底では救いを求めているはずだと……そして君が生まれ、俊彦の監視が少し緩んだ頃、俺は彼女に会いに行った。一緒に逃げようと、そう言ったんだ。だが――紀子は、私の手を取らなかった。それどころか、彼女は……俊彦を愛していると言った」狂ったような笑いが、病室に響いた。茂の顔は歪み、その表情はもはや正気とは言えない。「なあ、秀一くん。滑稽だと思わないか?私はずっと、紀子と心が通じ合っていると信じていた。だがあの日、彼女ははっきり言ったん
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第540話

子どもを失えば、雌獅子の心には隙が生まれる。そうすれば、別の雄を受け入れる余地ができる。そんな歪んだ理屈のもと、茂は海外の人脈を総動員し、腕のいい傭兵組織を見つけた。そして巨額の金を支払い、秀一をさらい、命まで奪うよう命じたのだ。「だが、誤算だった」茂は悔しげに、秀一を見据える。「君は当時まだ八歳だったのに、俊彦という男の狡猾さを、驚くほど色濃く受け継いでいた。一流の傭兵どもでさえ、君を完全に押さえ込むことはできず……挙げ句の果てには、逃げる隙まで与えてしまった。もっとも、あの頃の私には、君に構っている余裕はなかった。君を紀子のそばから引き離したあと、私は次の段階に進んでいった――俊彦に、紀子を裏切ってもらうのだ。俊彦という男は、傲慢で、プライドが異様に高い。それに加えて、紀子への執着心は病的なほど強かった。だから私は、あえて私と紀子の過去に関する噂を流した。以前の婚約者に今も想いを残し、忘れられていない――そんな虚像を作り上げ、俊彦を刺激したんだ。結果は、予想通りだった。俊彦はすぐに疑念に囚われ、子どもを失ったばかりの紀子の痛みなど顧みず、口論を繰り返し、彼女を精神的に追い詰めていった。そして、そこへ最後の一押しとして送り込んだのが――」茂の視線が、床に崩れ落ちている美穂へ向けられる。「美穂だった」その目には、露骨な嫌悪が浮かんでいた。「正直に言えば、俊彦に薬を盛るつもりはなかった。だが、この女があまりにも役立たずでな。いくら近づけても、俊彦の心を揺さぶることすらできなかった。だから仕方なく、ある食事会で俊彦に大量の幻覚剤を盛った。その錯乱の中で――ようやく、二人は一線を越えた。その後、美穂が妊娠したと知った時、私は真っ先にその検査結果を紀子に見せた。ついでに、あの二人の証拠写真もな。それも、俊彦に失望させるためだ。紀子が、完全に彼に愛想を尽かすように。案の定、紀子の俊彦への想いは完全に消えた。私は……これでようやく、彼女が私の元へ戻ってくると思った。だがその日、紀子の部屋へ行き、手を差し伸べた時……彼女は、私の手をはねのけた」その光景は、何年経っても茂の脳裏から消えなかった。茂は、ずっと思い込んでいた。紀子の心に自分がいないのは、秀一の存在と、俊彦への情があったからだと。だが、そのどちら
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