All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 541 - Chapter 550

561 Chapters

第541話

しかし茂は、すっかり自分の感情に飲まれ、周りが見えなくなっていた。秀一の顔色が明らかに暗くなっていても、彼はまったく動じない。それどころか、怒りを露わにして声を荒げた。「秀一くん……君の母親は、少し調子に乗りすぎた。私はあれほど大掛かりな計画を、時間も労力もかけて成し遂げたんだ。それなのに彼女は、すでに子どもも夫も失っていたというのに――最後まで、私が差し伸べた手を受け取ろうとしなかった。最期の瞬間まで、私を拒み続けたんだ」その声は、次第に低く、歪んでいく。「だからこそ……あのとき、私の中に溜まり続けていた不満も悔しさも、一気に噴き出した。彼女の気持ちなど構わず、無理やり連れて行こうとしたんだ。だが……あのときの紀子は、あそこまで衰弱していたにもかかわらず、それでも必死に抵抗した。私は焦り、怒りに任せて力を込めた。その瞬間――」茂は一拍置き、低く告げた。「紀子は、ベランダから真っ逆さまに落ちていった」そのときの紀子の細い身体は、まるで風に舞う、儚い花びらのようだった。茂は反応する暇もなく、手を伸ばすことすらできなかった。彼女がベランダから落ち、地面に叩きつけられ、血に染まっていく光景を――ただ、呆然と見ていることしかできなかったのだ。その場面は、十数年が経った今も、何度となく彼の脳裏に蘇る。まるで鈍い刃で神経を削られるように、執拗に、彼の心を縛り続けていた。茂の告白とともに、病室は沈黙に包まれた。今回は、床に崩れていた美穂でさえ目を見開き、言葉を失っている。――そして、画面の向こうにいる玲も。玲は思わず口元を押さえ、瞳も激しく揺れた。まさか、重度のうつ病による自殺だと信じられてきた紀子の死が、実際は茂の手によるものだったなど、誰が想像しただろうか。一方、秀一の周りに、底知れぬ闇が立ち込めていた。深く沈んだその眼差しには、もはや隠しきれない殺意が渦巻いている。「……やはり、あなただったのか。あなたが……俺の母を殺した」秀一は誰にも多くを語らなかった。これまで、誘拐事件の真相を追い、美穂の背後にいる黒幕を探し続けてきたのは自分のためだけではない。母の死にも裏がある――そんな疑念がずっとあったから、動き続けたと。そして今、そのすべての真実が、白日の下に晒された。だが茂は、そんな秀一の言葉を受けても、な
Read more

第542話

このまま事が進めば、秀一は茂――自分の仇を「父」と呼ばされる。それ以上に屈辱的な未来はない。そして茂も、秀一が俊彦を殺した瞬間を見届けた以上、自分に従うほかないと踏んでいた。秀一が身を守るために選べる道は、ただ一つしかないはずだった。「……何を寝ぼけたことを言っているんだ」次の瞬間、スマホ越しに、氷のように冷え切った秀一の声が響いた。それは、茂の提案を真正面から突き返す、明確な拒絶だった。茂は思わず、その場に立ち尽くす。しばらく言葉を失ったのち、目を見開き、鋭く秀一を睨みつけた。「……今の言葉が、どういう意味かわかっているのか?私は、君が俊彦を殺した証拠を握っているんだぞ。それでも私に付かないというなら、その真相を世間にばらまいたとき、君がどんな末路を迎えるか……想像がつかないわけじゃないだろう?」秀一は、藤原グループのトップとして名を轟かせてはいるが、俊彦は、何十年にもわたり藤原家を率い、その名声と影響力を築いてきた人物だ。その重みは、秀一ひとりで簡単に覆せるものではない。実際、俊彦が重体に陥った際、世間全体が騒然となり、藤原家の内部も動揺しきっていた。もし今、「秀一が、父の俊彦を殺した」という事実が公になれば……法が彼を裁く前に、俊彦に長年仕えてきた古参の幹部たちが、秀一を生かしてはおかないだろう。「……私が死んだと?しかも、秀一に殺された?ふん、馬鹿馬鹿しい」そのとき、病室にもう一つ、低く鋭い男の声が割って入った。その声が響いた瞬間、病室の空気は一変した。ざわめきが走り、床に押さえつけられ、すでに絶望に沈んでいた美穂でさえ、恐怖に目を見開き、堪えきれず悲鳴を上げた。「……そ、そんな!あなた……い、生きてたの?今までのは……全部、嘘だったの?」美穂が震える視線を向けた先――そこでは、すでに酸素チューブを外され、すべての医療機器が沈黙し、「死亡」したはずの俊彦が、ゆっくりと目を開いていた。そして、静かに上体を起こす。その姿には、先ほどまでの衰弱した面影など、どこにもない。顔色は血色を取り戻し、身体には力が満ちていた。何より――その両目に宿るのは、人を射抜くような、燃え盛る怒りの炎。茂は、その場で一歩よろめいた。顔色はみるみるうちに青ざめ、すべてを悟ったように歯を食いしばる。「……そういうことか
Read more

第543話

美穂は、もはや顔を上げることすらできなかった。――少し前、俊彦に家を追い出されたとき、彼女は俊彦の前に跪き、はっきりと言い切っていたのだ。「紀子の死とは何の関係もない」と。だが先ほど、俊彦がすでに死んだと思い込み、気が緩んだ彼女は、自分の罪を一つ残らず口にしてしまった。もはや言い逃れの余地はない。彼女は、自分で自分の首を絞めたのだ。一方、茂は怒りを抑えきれず、指先を震わせながら秀一を指さした。「秀一くん……なんて卑劣な真似を!私は、君の身体には母親の血が半分流れているのだから、彼女の優しさも受け継いでいると思っていた!だが違った。君は……私が思った以上に下劣で、卑怯だ!」その言葉が終わるより早く、低く荒れた怒声が病室を震わせた。「私の息子を悪く言うな!その汚い口で紀子を語るな!」俊彦は、怒りを爆発させるように叫ぶと、ベッドから飛び降りた。次の瞬間、ためらいもなく茂に殴りかかる。拳が何度も、容赦なく振り下ろされる。常に冷静だったはずの両目は、今や血走り、理性の色を失っていた。「高瀬茂……殺してやる!貴様、よくも紀子を殺したな!よくもあのとき、あんな嘘で私を騙し、私と紀子をあそこまで追い込んだな!」実は、二か月ほど前、秀一が俊彦のもとを訪れ、重病を装う計画への協力を求めた。なぜそんなことをする必要があるのか、理解できなかったため、俊彦は彼を断っていた。だが秀一は、ただ一言、こう告げた。――この芝居をやり切れば、母の死の真相がわかる。それだけで十分だった。それ以来、俊彦は病室に籠もり、衰弱した老人を演じ続けた。命が尽きかけているかのように振る舞い、最後には「死体」にまでなりきった。そして、酸素チューブが外され、細工された機器が一斉に沈黙したその瞬間。彼は聞いてしまったのだ。自分の人生で、最も残酷で、最も胸を抉る真実を。――紀子は、彼を愛していた。かつての婚約者など、最初から好きではなかった。そして彼女が彼と結婚したのは、不本意でもなかった。二十年以上、「紀子は自分を愛さず、命を投げ出してまで逃げたい」という思い込みは、俊彦を縛り続けてきた。その苦しみが、怒りと執着を生み、すべてを歪ませた。「私は……紀子の心には、別の男がいると信じ込んでいた。だから、彼女が自殺したあと、腹いせのように美穂と結婚
Read more

第544話

その傍らで、俊彦の言葉を聞いた美穂は、さらに暗闇の底へ突き落とされていた。――彼にとって、自分は取るに足らない、つまらない女だったというの?美穂は「藤原家の女主人」という立場を宝物のように抱きしめ、何十年ものあいだ、それを誇りとして生きてきた。だが俊彦の口ぶりでは、その地位は、紀子が捨てたあとにそのまま自分に与えた価値のないもの――そう言われているも同然だった。これまでの人生が、たった一瞬で、取るに足らない笑い話に変えられてしまった気がする。俊彦の顔色をうかがい、必死に取り入ろうと過ごしてきた年月。その一日一日が、今になって鋭い皮肉となって胸に突き刺さった。叫び出したかった。いっそ俊彦のように取り乱し、すべてを壊してしまいたかった。だが――今の美穂には、それすらできない。胸をえぐる痛みと怒りを必死に押し殺し、美穂は俊彦にすがりつくようにして叫んだ。「俊彦さん、落ち着いて!あなたが怒ってることも、私たちを恨んでるのもわかってる。でも、悪いのは全部私と茂さんよ!子どもには関係ないわ!だからお願い、冷静になって。茂さんを殺しちゃだめ。豪くんの命は、まだ彼に握られているのよ!」そう言って、美穂は茂を睨み、叫び続けた。「早く……早くあの人に、豪くんの居場所を吐かせて!でないと、本当に間に合わなくなる!」俊彦はどれほど後悔し、どれほど茂を憎んでも、過去を変えることはできない。だが、豪を助けることならまだできる。――どんなにむごい親でも自分の子を傷つけたりはしない。俊彦は、実の息子を見捨てることなど、できないはずだ。美穂の悲鳴を聞き、俊彦ははっと我に返った。血に染まった拳が宙で止まる。反射的に秀一のほうへ視線を向け、胸の奥にわずかな羞恥が広がった。だが秀一は、淡々と一歩身を引いただけだった。そこには、俊彦に向けられる言葉も、感情もない。その一方で――顔中血まみれになって、俊彦に抵抗する力すら残っていない茂は、歪んだ笑みを浮かべた。「……自分が最低な男だって自覚はあるんだな、俊彦」嘲るように目を細め、吐き捨てる。「さっきまで紀子のためだって言って、私を殴り殺そうとしてたくせに。美穂に止められた途端、もう気が変わったのか?結局……紀子が、君を愛さなかったのは正解だったってことだ。こんな中途半端な男に、愛を語る資格
Read more

第545話

兄弟だからといって、必ずしも似るとは限らない。同じ俊彦の息子であっても、秀一と豪は、まるで正反対だった。八歳にして、幾重にも張り巡らされた傭兵の包囲をすり抜け、生き延びた秀一に比べ、豪はあまりにも脆かった。茂は人を雇い、豪を迎えに行かせた。国外から連れ戻したその足で、誰にも知られぬよう始末する――豪の最期は、指で潰された蟻のように、あまりにあっけなかった。そして今。茂が投げ捨てたスマホの画面を通して、病室にいる全員が、その「最期」を突きつけられる。双子の妹、綾と瓜二つの顔は、生気を失い、見る者の胸を冷たく締めつけた。視線を落とせば、首元にははっきりと残る深い索条痕がある。手慣れた傭兵の手口だった。首を断ち切るかのような力で締め上げられ、頸骨は無残に歪んでいる。この状態で、生きていられるはずがない。その光景を前にしても、秀一は目を細めただけで、何も言わなかった。俊彦は血に染まった両手をわずかに震わせ、視線を彷徨わせる。だが、最も取り乱したのは――美穂だった。写真をはっきりと認識した瞬間、美穂は悲鳴を上げ、スマホを床に叩きつけた。そして何かに取り憑かれたように、茂へと掴みかかった。「……嘘、こんなの……嘘よ!茂、この写真、偽物でしょう?あなたが捏造したのよね?私は……秀一が社長になってから、豪に危険が及ぶと思って、長年ずっと国外に置いていたのよ!それなのに……それなのに、いきなり死んだなんて……ありえない!あなたが、こんなことをするはずない……私たち、昔は手を組んでたじゃない。運命共同体だったはずでしょう?それなのに、どうして私にこんなひどいことを?」声は次第に掠れ、やがて嗚咽に変わっていった。「……あの頃、あなたに唆されさえしなければ……」美穂は言葉を詰まらせながら、震える声で続ける。「紀子は、私のことを友達だと思ってくれていた。彼女を通せば、桜木家のために――ほんのわずかでも、稼ぐ道はあったはずなのに……それなのに私は、あなたの言葉を信じて、藤原家なんて泥沼に足を踏み入れた……!」声が裏返り、悲鳴に近い響きになる。「人生でいちばん大切な何十年も、愛してもくれない男に捧げて……必死に産んだ子どもは、一人は死に、一人は生きる屍…………全部、全部、私の報いよ……」美穂は泣き叫びながら、憎しみを
Read more

第546話

「弘樹、今すぐ起爆しろ――!」茂は、声を張り上げて叫んだ。彼は最初から、万が一のための逃げ道を用意していた。爆発は段階的に起きる。その混乱の隙を突き、自分だけ無傷で脱出する算段だ。一方、脱出方法を知らない俊彦と秀一は――この病院にいる数え切れないほどの命とともに、爆炎の中に飲み込まれる。その言葉が放たれた瞬間、空気が凍りついた。俊彦は反射的に動き、父として秀一を背後に庇う。一方、スマホ越しに状況を見ていた玲も、はっと息を呑んだ。まさか――茂と弘樹が、水面下でここまで残酷な計画を進めていたとは。玲は無意識に、わずかに膨らんだ腹部に手を当てた。胸の鼓動が、嫌というほど早まる。止めなきゃ。そう決めた彼女は、衝動のまま立ち上がる。何としても、弘樹を止めなければならない。だが、茂の怒号が響いたにもかかわらず、玲の向こうに座る弘樹は、微動だにしなかった。まるで、その命令が耳に届いていないかのように。金縁眼鏡の奥の淡い瞳には、何の感情の揺れもない。慌てる玲の様子を、彼はむしろ静かに一瞥したほどだった。同じ頃、病室にいる茂も異変に気づき始める。――爆発が、起きない。自分が周到に仕込ませた爆薬は、沈黙したままだ。それどころか、秀一は一切取り乱すことなく、薄く唇を歪めていた。まるで滑稽な道化でも眺めているかのように。「……クソッ!」茂は苛立ちを隠さず、再び怒鳴り散らす。「起爆しろ!今すぐだ!弘樹、何をしている!命令が聞こえないのか!」その声を遮るように、秀一が一歩、前に出た。庇っていた俊彦を静かに押しのける。「聞こえていたはずだ。ただ――彼が大人しく従うと思うか?」秀一は茂を正面から見据え、続けた。「残念ながら、あなたも俺の父も……どちらも父失格だ。弘樹は、長年あなたに支配されてきた。恨まれていないと、本気で思っているのか?今まで耐え続け、逃げる機会を待ち続けてきた弘樹の前に、今、ようやくあなたから解放される道が広がっているんだ。こんな状況で――彼があなたを助け、逃がすと?」答えは、言うまでもない。弘樹は、今日この日まで耐え忍んできた。茂が病院に足を踏み入れた瞬間から、結末はすでに決まっていた――無傷で病院を出られないのは、秀一たちではなく、茂なのだ。その事実に思い至った瞬間、茂の顔色は
Read more

第547話

「弘樹……よくも私を裏切ったな!私は君の父親なんだぞ!私を裏切って、高瀬家を潰しておいて、君が無事でいられると思ってるのか?必ず後悔する……必ずだ――!」茂は、病室の隅に設置された隠しカメラを睨みつけ、怒りに任せて叫び続けた。声は掠れ、震えが隠しきれない。本来そのカメラは、俊彦と秀一に致命傷を与えるために仕込んだものだった。それが今では、自分の怒りと怨嗟を吐き出す、唯一の出口になっている。茂は、夢にも思っていなかったのだ。まさか、弘樹に裏切られる日が来るとは。確かに茂は、自分が冷酷な父親だったことを否定しない。血のつながっている息子相手に、父としての責任を果たしたこともなかった。長年にわたり支配し、違法で汚い仕事を押し付け、さらには俊彦への復讐のためだけに、弘樹から想い人である玲を奪い、忌み嫌っていた綾と結婚する道を選ばせた。――だが、それでも、自分は弘樹の実の父親だ。自分がいなければ、弘樹が高瀬家グループの社長として、高みに立つことはなかった。それなのに――弘樹は感謝するどころか、秀一と手を組み、藤原家に味方して、自分に刃を突き立てた。もし今、弘樹が目の前にいたら、茂は迷いなくその手で殺していたに違いない。一方で、その怒号と罵倒を画面越しに眺めながら、弘樹はスマホを手に、淡々と座っていた。表情は一切変わらない。ただ、ふと煙草に手を伸ばしかけ――隣で腹部に手を当てている玲の姿が目に入り、静かに動きを止めた。同じ頃、病室では、秀一の忍耐がついに尽きていた。「――もういい」低く言い捨てると、洋太へ視線を向ける。「確保して警察へ。今までの証拠もすべて整理して、一括で引き渡せ」これ以上、茂に時間を割く価値はない。紀子の死の真相が明らかになった今、秀一は、すべてに終止符を打つつもりだった。洋太は即座に頷き、警備員を呼ぶ。茂を拘束し、同時に、先ほど投げ出され、悲嘆のあまり気を失っている美穂も連行する手配を進める。――だが。追い詰められた獣が最後に見せる凶暴さのように、茂が突如として暴れ出した。血走った目で秀一を睨みつけ、喉を裂くように叫ぶ。「秀一くん……!私はもう失うものなどない!だったら一緒に死のうじゃないか!君が道連れなら、紀子に会い行く途中も寂しくならずに済むからな!」歪んだ笑いを浮かべた
Read more

第548話

先ほど、茂が力任せに美穂を突き飛ばしたのと同じように、今度は秀一が茂を壁際に叩きつけた。茂は気を失い、動きを止めた。秀一はそんな彼を一瞥しただけで、そして何事もなかったかのように襟元を整え、淡々と告げた。「……これで静かになったな。連れて行け」「……はい」洋太は一瞬、畏敬の色を隠しきれない目で秀一を見つめ、それから慌てて警備員たちに指示を出した。彼らは素早く動き、茂を拘束して病室から連れ出していく。その光景を傍らで見届けていた俊彦は、無意識のうちに秀一へ視線を向けた。――声をかけたい。せめて、一言でも。だが、秀一は、彼の前をそのまま通り過ぎていった。振り返ることもなく、足を止めることもなかった。……一方、玲は、画面越しにすべてを見届け、ようやく安心したように息をついた。全てが無事に終わり、最悪の事態は避けられた。彼女は、向かいに座る弘樹へ視線を向け、率直に言った。「今日は、本当にありがとう」もし弘樹が来なかったら、もし病室の様子をリアルタイムで見せてくれなかったら、秀一が危険な状況に置かれていたことも、無事危機を切り抜けたことも、これほど早く知ることはできなかった。なにより――茂が病院周辺に爆薬を仕掛けていたこの状況で、弘樹が寝返らなければ、無実な人々が巻き込まれ、秀一も、もっと大きな犠牲を伴う戦いを強いられていたはずだ。だが、弘樹は玲の言葉を聞いても、嬉しそうな様子はなく、ただ、唇の端をわずかに持ち上げるだけだった。「玲……お前が俺に『ありがとう』って言うの、久しぶりだね。しかも今回も、秀一のため、か」玲は秀一のために彼を家へ入れ、秀一のために長い時間、二人きりで向き合い、そして今、秀一のために礼を言っている。弘樹は小さく首を振り、ゆっくりと言葉を紡いだ。「……でもね、玲。俺はお前に感謝されたくて来たわけじゃない。これから先、お前に恨まれなければ、それでいい」「……え?どういう意味?」玲は戸惑い、問い返した。同時に、テーブルの端に置かれた果物ナイフに指をかけ、すぐそばの、触れれば火傷しそうなほど熱い湯の入ったカップにも意識を向ける。さらに、外で待機しているはずのボディーガードたちへ、密かに連絡を入れた。けれど、本来なら、すぐに駆け込んでくるはずの彼らから、何の反応もない。不安に
Read more

第549話

「秀一、玲さんにはもう二か月も会えてないんだから、さすがに限界だよね?」ハンドルを握る友也は、秀一の指示を聞きながら笑った。秀一がただ純粋に、玲を恋しく思っているのだと――そう受け取ったのだ。実際、それは周囲も知っていることだった。この二か月間、「父を殺そうとしている」という噂を、秀一はあえて否定しなかった。俊彦に対して本気で殺意を抱いているのだと、茂に信じ込ませるためだ。その結果、噂は雪だるま式に膨らみ、世間では真偽不明の憶測が飛び交った。その渦中で、もし玲に会いに行ったら、彼女まで巻き込まれてしまう。だから秀一は、どれほど会いたくても、一度たりとも玲の元へ行かなかった。だが嵐は過ぎ去った今、秀一の「父殺し」の噂も少しずつ落ち着き、これから世間を騒がせるのは、茂の数々の悪行と、美穂の悪意ある企みになるのだ。この状況であれば、たとえ秀一が玲に会い、パパラッチに撮られたとしても、そこに悪意ある声が集まることはないだろう。友也としても、秀一が一刻も早く玲に会い、そして彼女から許しを得て、再び幸せを掴んでほしかった。――なぜなら、今の友也自身が、まさにその「幸せ」の只中にいるからだ。少し前まで、秀一が茂の件で動いている間、友也もまた、海斗とこころの問題に決着をつけていた。その中で、雨音はついに真実を打ち明けた。離婚を切り出したのも、友也を信じていないふりをしていたのも――すべて演技。海斗とこころを油断させるための、芝居だったのだ。それは、秀一が茂を欺いていたやり方と、よく似ている。雨音はこう疑っていた。海斗が「子ども」という切り札まで持ち出したのは、単なる夫婦仲の引き裂きが目的ではない、と。そして友也が調査を進めた結果、その推測は裏付けられた。海斗は帰国してからずっと、水沢グループ内部の対立を煽り、組織を分断しようとしていた。最終的な狙いはただ一つ。再び水沢家を自分の手に取り戻すことだ。雨音と友也を引き裂く計画は、その大きな企ての中では、ほんの前座に過ぎなかったのだ。雨音は言った。焦らず、秀一のように時間をかけて相手を追い詰め、完全に逃げ場を塞ぐべきだと。だが、友也にはそれができなかった。彼は秀一ではなく、海斗もまた、茂ほどの怪物ではない。だから友也は、自分らしいやり方に出た。海斗の前に立
Read more

第550話

今度、黙り込んだのは海斗のほうだった。一方友也は、驚くほど静かな表情をしていた。これまで兄の前では、どこか落ち着きのない弟でいることが多かったが、このときばかりは違った。「兄さん……俺は一度だって、事故に遭った兄さんを見捨てようなんて思ったことはない。兄さんの代わりになって、兄さんのものを横取りしようとしたこともない。両親が兄さんに冷たくしたのは、彼らの判断だ。あの事故のあと、俺はずっと兄さんのことを心配してた。この数年、必死で会社を支えてきたのも、弟として当然だと思ったからだ。でも、もしそれが兄さんにとって苦痛だったなら――水沢グループをちゃんと返す。だから内輪揉めなんて仕組まなくてもいいんだ」そう言って、友也は一度息を整え、続けた。「ただし……雨音だけは、渡さない。たとえ昔、彼女が兄さんが好きだったとしても、俺が途中から割り込んで、兄さんの幸せを奪ったのだとしても――今、雨音が想っているのは俺だ。そして俺も、ずっと前から彼女を想ってきた。だから、権力も金も、全部兄さんに譲る。でも雨音だけは別だ。こころを利用して、これ以上俺たちの仲を壊そうとするのも、やめてくれ。俺は兄さんの弟だ。兄さんが俺を家族だと思っていなくても、俺にとって、お前はずっと兄貴なんだ。……だから、頼む。俺に、お前を憎ませないでくれ」一言一言を噛みしめるように、友也はそう告げた。海斗は、答えなかった。株式譲渡契約書を突きつけられた瞬間から、彼は言葉を失っていた。これまで海斗は、世の中の人間は皆、欲にまみれていると決めつけてきた。だからこそ、悪意には悪意で応じるつもりで、綿密な計画を張り巡らせていたのだ。だが、いざ矢を放ってみれば――貫いてしまったのは、あまりにもまっすぐで、誠実な心だった。海斗は契約書から目を離せず、そのまま、ゆっくりと俯いた。長い髪が頬に落ち、いつの間にか赤くなっていた目元を隠す。……その後、友也は、すべてが終わったのだと思った。会社を去る準備を進め、長いあいだ背負ってきた重荷から解放されることに、どこか安堵していた。これからは仕事よりも、雨音と過ごす時間を大切にしよう――そう、自然に思えた。だが、その日のうちに、一通の書類が届く。封を切った瞬間、友也は思わず目を見張った。それは先日、自分が海斗に差し
Read more
PREV
1
...
525354555657
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status