All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

二十一歳の若い娘が、これほどの誹謗中傷にさらされながら、社会でどうやって生きていけというのか――弘樹の言葉に、茂はゆっくりとデスクの前から立ち上がり、深い溜息をついた。「……弘樹、玲が生きていけるかどうか、君は本当に気にしているのか?」低い声が部屋に響くと、空気は一瞬にして凍りつくように重くなった。弘樹は眼鏡越しに父を見据え、薄い唇をゆっくりと持ち上げる。「いえ、気にしてません。玲には、もう何度もチャンスを与えたが、彼女はそれを捨てました。お父さんの言う通りです」たとえ事実がニュースの内容とは正反対で、玲が本当は被害者であろうと――今さら関係ない。世間は彼女を加害者として断罪し、積み重なる嘘と悪意は止まらない。もし彼女が潰れてしまったとしても、それは自業自得と見なされるのだ。そう言い切った弘樹は、踵を返して部屋を出るとスマホを操作し始めた。指先が止まったとき、画面には赤い血の滲みが広がっているのに気づく。――先ほどから強く握り締めていた手のひらに、爪が食い込み皮膚が裂けていた。右手は鮮血に染まり、彼の瞳の奥もまた、同じ深紅に沈んでいった。……いつの間にか青空は消え、黒雲が空を覆って稲光が走り、低い雷鳴が街を震わせた。そのころ玲は、昨夜秀一と電話を終えたあと、ホテルの一室で今後の活動計画を練っていた。三年前のように世間を驚かせる彫刻作品を作りたい――その思いを胸に、夜明けまでスケッチを重ね、ようやく眠りについたところだった。どれほど眠ったのか、ぼんやりとした意識の中でスマホの着信音がけたたましく鳴り響く。画面には「雨音」の名前が表示されている。受話口から飛び出した声は、震えていた。「玲ちゃん!?今どこにいるの?お願いだから変なこと考えないで!すぐ行くから、それまでに――」「雨音ちゃん?何を言ってるの?」玲は友人の切羽詰まった言葉を遮り、眠気も少し覚めた。「私は大丈夫よ。何も起こってないし、どうしてそんなこと……」「まさか……玲ちゃん、まだニュース見てないの?」雨音の声が一瞬で凍りつき、次の瞬間、すべてを察したような沈黙が落ちた。玲の眉間に皺が寄る。そのとき、スマホの画面にプッシュ通知が飛び込んできた。【地上最強の愛人!高瀬家の継娘・玲が権力狙いの誘惑攻勢!藤原・
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第52話

【綾、詫びの印として、これはお前のために特別に用意したプレゼントだ。気に入ってくれたか?】弘樹が投稿したのは、雫の形のダイヤモンドが留められている指輪の写真。写真越しでも圧倒的な輝きが伝わり、誰もが息を呑むほど美しい一品だった。すぐにネット上では驚きの声が広がる。【これって雑誌で紹介されてた『輝く心』なんじゃないの!?】間もなく、綾が甘いメッセージでその憶測を肯定した。【大好きな弘樹さんから、『輝く心』をプレゼントしてもらいました!本当に、本当に嬉しい!玲のせいでたくさん辛い思いをしたし、二人の絆の証だった大切な贈り物も壊されてしまったけれど……あなたがそばにいてくれる限り、私の愛は絶対に消えないわ!】そのメッセージには、指輪を指にはめ、満面の笑みを浮かべた綾のセルフィーが添えられていた。瞬く間に、世論の風向きは一変した。【やばい、尊すぎて泣いちゃう!弘樹、綾のことを愛しすぎでしょ!】【ほんと!靴に続いて指輪の贈り物なんて……まるで童話の王子様みたい!】【いや、それにしても玲は何様なの?可哀想な女だと思ってたのに、実は計算高い悪女だったなんて!】【そうそう、弘樹を誘惑して、愛されてる綾に嫉妬して靴を壊すとか……誕生日パーティーの騒ぎも、海に落ちたのも全部芝居だったんでしょ?ホント嫌らしい女!】【ていうか、このあいだ綾を叩かせてたのも、玲が裏で糸を引いてたんじゃない?お金でサクラを仕込んだとか!】【ほんと、身の程を知らない女だわ!綾様に勝てるわけがないのに!】先日まで玲を同情していた人々は、手のひらを返したように罵詈雑言を浴びせた。「利用された」と感じた怒りが、今度は玲を叩くエネルギーへと変わったのだ。さらに、「調査力に自信あり」と自称するネット民たちが、次々と玲の個人情報を晒し始める。【皆さん聞いて!玲って美大の彫刻科出身なんだって!でも卒業してから一つも作品を完成させてないらしいよ!それにさ、あいつが高瀬家で威張れてたのは、実の母親が庇ってるからだと思ってたけど、実は母親にすら嫌われてるらしいよ!】【うわ、それはキツい……】【そりゃそうでしょ。あの歳で男を誘惑するなんてちょっと意外だったけど、美大の子だって聞いたら納得したわ。美大の女子って遊び慣れてるって有名じゃん?男なんて色仕掛けで
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第53話

玲の顔は血の気を失い、スマホの画面に触れる指先は氷のように冷え切り、震えが止まらなかった。画面の中で、自分を糾弾する声を上げたのは、かつて高瀬家で十年以上も仕えていた家政婦だった。だが彼女は、玲にとって最も憎むべき加害者の一人でもある。玲が雪乃に連れられて高瀬家に足を踏み入れたその日から、家の使用人たちは皆、彼女を見下し、陰湿に扱った。そして、その先頭に立っていたのが彼女だったのだ。「食事をろくに取らず、わがままばかり」と非難したが、実際には、彼女たちが玲の食事を横取りし、自分たちの孫に食べさせていた。玲には賞味期限間近の残飯ばかりが回された。「被害者ぶって家を飛び出した」と言われたが、本当は彼女たちが結託して玲の持ち物を盗み、逆に「玲が失くした」と嘘をついた。そのうえ、高瀬家のものを勝手に持ち出したとまで濡れ衣を着せた。当時の玲は幼く、絶望の中でただ「この家を出たい」という思いだけで逃げ出した。そんな玲を、あの夜、一晩中探し回って見つけ出し、優しく抱きしめてくれたのが――弘樹だった。家に戻った後、普段は穏やかな弘樹が珍しく激怒し、いじめの首謀者だった家政婦二人を即座に解雇。その一件でようやく、誰もが玲をただの「継母の連れ子」だからと軽んじることはなくなったのだ。その話を聞いた雨音は、深く感慨に浸りながらこう言った。「玲ちゃん、やっとわかったわ。あなたが弘樹を『光』って呼ぶ理由。彼は本当にあなたを大切にしてたのね。あの家政婦も、年を取ってなければもっと厳しく罰していたはずよ」玲もそう信じていたし、その日々の記憶は、孤独な世界に差し込んだ初めての温もりだった。――けれど、その温もりは今や氷の刃に変わり、彼女を貫こうとしている。十数年も守ってくれたはずの男が、十数年後の今、自らその家政婦を呼び戻し、玲に刃を突き立てたのだ。玲にはわかっていた。あの家政婦がネット世論に耐えかねて勝手に姿を現したわけではない。昨日、弘樹は言った、「きっと後悔する」と。だから今日のすべては、彼の手によるものに違いない。玲が虐げられていた事実を知りながら、加害者を使って彼女を貶め、世間からの嘲りを煽る。「輝く心」が玲の夢見た結婚の象徴であることを知りながら、あえてそれを買い、綾に贈る。そして――玲の最も深い傷、母との断絶
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第54話

「……はい、もう怖くありません。ただ……ちょっと寒いだけ」玲は震える声で答えた。部屋はとても静かで、秀一が傍にいることも心を落ち着かせてくれた。少し間を置いてから、玲は苦笑いを浮かべるようにぽつりとつぶやいた。「秀一さん……どうしてこんなことになったんでしょうね。昨日までは、弘樹はただ駆け引きをしてるだけだって思ってたのに……まさか、本気で私を潰そうとしてるなんて。私、ネットで言われてるような女じゃないんです。弘樹とは三年付き合ったけど、私から言い寄ったことなんて一度もありませんでした」今や、世間は彼女を徹底的に悪女として断罪していた。だからこそ、せめて秀一にだけは誤解されたくなかった。「秀一さん……結婚を申し込んだのは確かに私だけど、何か企んでたわけではありません。あなたを利用しようなんて一度も……」「玲」秀一の低い声が、玲の必死な言葉を遮った。彼はそっと玲の首筋を支え、顔を近づけて言う。「君のことを悪く思ったことなんて一度もない。疑ったこともない。それに……仮に君が俺を利用してたとしても――俺たちは夫婦だ。君が望むものなら、全部喜んで差し出そう」誰が決めたのだろう。女は付き合っている男に何も求めず、何も欲しがってはいけないなんて。女だってお金を望んでいいし、名誉や力を求めてもいい。もしそれを与えてもらえないのなら――男のほうが無力なだけだ。言葉を失った玲の瞳から、こらえきれない涙があふれた。胸の奥で張りつめていた糸が、一瞬でほどけたように感じた。秀一の前で涙を見せるなんて思ってもみなかった。それでも涙は止まらず、まるで心の中に溜まった血のような痛みを、すべて流し出すかのように頬を伝った。秀一は黙ったままハンカチを取り出し、玲の涙を一つずつ拭う。「泣かないで。ネットの連中の話は俺がすぐに手を回して消させる。くだらない中傷なんて、あっという間になくなるんだ」「……いえ、秀一さん」玲は慌てて首を振る。「今は放っておいてください。むしろ、もっと騒がせておいたほうがいい。世間にとことん広まったほうが都合がいいんです」弘樹たちは、玲に最大限の恥を与えようと仕組んだ。ならば玲は、その刃を逆手に取り、さらに鋭くして突き返す――そう決めたのだ。秀一はじっと玲を見つめ、目の奥に柔らかい光を宿した。
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第55話

玲は物心ついた頃から高瀬家で肩身の狭い思いをして育った。使用人ですら年長を盾に彼女を見下し、日々の暮らしは小さな苦痛の積み重ねだった。だから秀一は、十年以上も前に心に誓ったのだ。どれだけ代償を払おうと、どんな苦しみを味わおうと――必ず権力の頂点に立ち、誰一人として玲を傷つけられない場所までのぼりつめて、彼女を守り抜くと。これまで玲は、彼にその力を見せる機会を与えてはくれなかった。だが今、その機会がようやく巡ってきたのなら――秀一は二度と手放さない。玲が望むなら、世間を騒がせるどころか、この街そのものをひっくり返すことになったとしても、彼は真っ先に動き、彼女のために道を拓く。そして彼女が気にしていた「復讐に囚われた女」に見られるのではという不安など、彼にとって取るに足らない。秀一は静かに視線を落とし、冷ややかな瞳の奥に柔らかな色をにじませた。「復讐心があったら何だというのだ?君がそれで少しでも気が晴れるなら、それでいい。玲、世の中には素直で従順な子だけが愛される価値があると信じてるやつらが多い。でも俺はそうは思わない。君を本当に愛する人間は、君の芯まで潰そうなんてしないし、逆らう心すら肯定するはずだ」――だから、玲は間違っていない。悪いのは弘樹のほうだ。玲は何も返せず、ただ胸の奥に広がる圧倒的な安心感に包まれていた。それは窓の外の夕陽の光よりも温かく、柔らかい。頭に触れる大きな手のひらの熱を感じるたびに、溢れる涙はさらに止まらなくなる。それでも玲の口元には、微かに笑みが浮かんでいた。――たとえ秀一の「愛」が男女の愛情とは違ったとしても、その最後の言葉は、彼女の人生に灯をともしたのだ。「……秀一さん、きっと、世界中どこを探しても、あなたより優しい人なんていません」嗚咽まじりの声でそう告げた玲に、秀一は一瞬まなざしを揺らすと、そっと手を下ろした。「……それで、どうやってやり返すつもりなんだ?」「方法は簡単です」自分の賞賛がさらりと受け流されたことにも気づかぬまま、玲は涙をそっと拭い、背筋を伸ばして秀一の問いに応じた。「秀一さん、前に、結婚発表のためにちゃんとした儀式を用意するっておっしゃってましたよね?日程や場所、スタイルはもう決めましたか?もしまだでしたら……その準備、私に任せてもらえませんか?
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第56話

玲は、ネット上で広がった今回の騒動はすべて弘樹の仕業だと信じて疑っていなかった。だが秀一には見えていた。本当の黒幕は美穂と綾――この母娘だ。もっとも、その真実を玲にまで背負わせる必要はない。母娘への報いは、自分の手で与えればいい。だから三十分後、秀一は藤原家の門前に立っていた。その夜の屋敷は珍しく賑わっていた。家族が勢ぞろいしているばかりか、高瀬家の未来の婿として弘樹までもが席に着き、ディナーを楽しんでいる。綾は弘樹の隣にぴったりと身を寄せ、指先に輝くリングをうっとりと見つめていた。その「輝く心」と名付けられた希少なダイヤモンドは、短期間で手に入れられる代物ではない。それを考えれば、弘樹はずっと前からこれを用意し、彼女に愛を告げる計画を立てていたということだ。世間を操るためのあのネット世論工作――美穂と一緒に仕掛けたときは、さすがの綾も少しは不安だった。事前に弘樹に相談もせずに動いてしまったことで、怒られるのではないかと。だが、蓋を開けてみれば――玲が泥水をかぶせられ、世間の標的となったその後も、弘樹は微塵も怒らず、むしろダイヤを贈ってくれた。そのうえ弘樹は、「玲のことなんてまったく気にしていない、自分にはお前しかいない」とまで言ったのだ。それで綾の胸の中で残っていた不安は、跡形もなく吹き飛んだ。玲をさらに追い詰めるためのネット工作の続きさえ、頭から消えるほどに幸福感で満たされていた。だが彼女は確信していた。もはや何もせずとも、世論が十分に玲を葬り去るだろうと。そもそも、玲は潰されるべき存在だ。この世から消え去らない限り、すべてが清算されることはないのだから。綾はそんな考えを隠す気もなく、にやけ顔で弘樹の腕を取った。「弘樹さん、さっきは私ひとりの写真だけネットに上げたでしょ?今度はふたりで並んだ写真を撮って載せない?みんなに私たちがどれだけ幸せか見せつけちゃいましょ?」弘樹はステーキを一口食べる。手の傷はすでに手当され、包帯に覆われている。綾の話を聞くと、彼は小さく息をつき、静かにナイフとフォークを置いた。「……ああ。いいよ。お前の好きなようにしよう」「ふふっ、この子たちったら。本当にお似合いのカップルだわ。見てるだけで幸せになるわね」美穂は嬉しそうに笑みを浮かべ、隣の夫――藤原俊彦(ふじわら とし
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第57話

その瞬間、部屋の空気が凍りついた。つい先ほどまで「和やか」だった食卓は、秀一の登場とともに一気に冷え込み、場の空気は底冷えするような緊張に包まれた。綾もまた、弘樹の腕に寄り添っていた身体を起こし、気まずそうに表情を引き締める。そして、席の上座でずっと目を伏せていた俊彦が、ゆっくりと顔を上げ――長男をじっと見据えた。美穂は、その視線に息を呑み、歯を食いしばった。だが次の瞬間には、いつもの柔らかな微笑みを作り、慌ただしく立ち上がる。「まあ、秀一さん。急に帰ってくるなんて、どうしたの?ここしばらく家には寄り付かなかったのに。でもちょうどよかったわ、家族みんなで夕食をとっているの。あなたも一緒に食べていきなさい。あ、今日は泊まっていくといいわよ。あなたの部屋はもう綾のドレスルームに改装しちゃったから……そうね、客室を片付けさせるわね」まるで気遣っているかのような言葉の端々には、彼を「家族の中のよそ者」として遠ざける意図が透けていた。美穂は昔から秀一が嫌いだった。若いころ、計算ずくで子供を妊娠し、藤原家の正妻の座を勝ち取ったはずが――俊彦の愛情は二十年以上経っても微塵も得られなかった。そして秀一が家に戻ってからは、状況はさらに悪化。彼女が産んだ息子が本来ならば藤原家の嫡男となるはずだったのに、秀一の存在によって「庶子」という屈辱的な立場に押しやられたのだ。だからここ二十数年、美穂は完璧な母を演じながらも、秀一の存在を少しずつ藤原家から消そうとしてきた。彼の痕跡を家から徹底的に排除し、自分の子どもたちに全てを与えるために。実際、彼女の計画は大きな抵抗もなく進んでいた。藤原グループでは歯が立たなくても、この家では違う。秀一の部屋を綾のドレスルームに変えたときも、俊彦は何も言わなかった。そして今夜――美穂は、綾の婚約者である弘樹を伴って俊彦に話を持ちかけ、綾の横領の件を穏便に収めるつもりでいた。だが、ここで秀一が現れた。この肝心なタイミングで。――忌々しい。この男と、その母親の存在は昔から目障りで仕方ない。もし、母親と同じように秀一も突然死んでくれたら――どれだけ清々するだろう。そう思うたび、美穂は計画を立ててきた。秀一の周囲に女を送り込み、弱点を作らせようとした。血の繋がった姪まで差し向け、彼
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第58話

ロイヤルホテル。首都で最も豪奢なそのホテルは、藤原家の経営する事業の中でも群を抜いて利益を上げる看板だ。綾と弘樹の婚約発表は、綾が強引にメディアを連れて押しかけたため既成事実のようにホテルで行われた。だが本番の婚約パーティーとなれば、綿密な準備や会場デザインの手配が必要であり――そのためには秀一に正式な許可を取らざるを得なかった。美穂は柔らかな笑みを浮かべながら、さりげなく秀一の腕に手を伸ばし、コートを受け取ろうとする。だが――秀一は微動だにせず、視線すら寄越さないまま、彼女の前を通り過ぎた。「婚約パーティーくらい、自分で会場を押さたらどうだ」冷たく言い捨てたその一言で、美穂の笑顔は引きつり、空気が凍りついた。秀一は貸す気など毛頭ない――そう突き付けられたも同然だった。「なっ……秀一、いくら何でもひどすぎじゃない!?」綾の表情がみるみる険しくなる。彼女はこれまで慎重に振る舞っていたが、婚約パーティーすら妨害されると知り、ついに堪忍袋の緒が切れた。家族も恋人もそろう中、今日は堂々と不満をぶつける好機だと考えたのだ。「私は藤原家の娘よ!家のホテルでお嫁に行くのは当然じゃない!しかもお母さんは丁寧に声をかけて、あんたのコートまで持ってあげようとしたのに……その態度は何!?礼儀も何もないわ!」「綾、もういいのよ……」美穂は潤んだ目で娘を制した。「秀一さんは昔からこうなの。私はもう慣れているから……」「お母さんが優しすぎるのよ!」綾はなおも声を張り上げる。「だってお母さんは彼の母親でもあるでしょ?」――実の母親が死んだなら、継母に従うのは当然。綾の中では、それが常識だった。パシッ!そのとき、俊彦が手にしていた箸を、静かに、しかし鋭く卓上に叩きつけた。乾いた音が部屋を貫く。「……茶番はもう終わりか」低く冷えた声が響き渡り、年老いた声量は控えめでも、その威圧は全員の背筋を凍らせた。美穂は奥歯を噛み締め、顔を伏せて自席に戻る。使用人が素早く動き、秀一のために俊彦の正面――もうひとつの主賓席へ椅子を用意した。秀一がその席に腰掛けるのを見て、弘樹は金縁眼鏡の奥で淡く視線を揺らす。彼の表情はいつも通り冷静で、心中を悟らせない。だが、綾は嫉妬と苛立ちを隠せない。――あの席
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第59話

「秀一さん、もうやめて!今日は弘樹さんが初めて家に来てくれたのよ。私の顔に泥を塗るのは勝手だけど……お父さんの顔くらいは立てなさい!」弘樹の顔に陰りが差したのを見て、美穂は慌てて声を上げた。これ以上、場が乱れるのは困る。だが彼女の必死の言葉も、秀一の心を動かすことはなかった。冷たい黒い瞳には感情の色ひとつ浮かばず、美穂の焦燥も、弘樹の険しい表情も、すべてが舞台で踊る道化のようにしか見えていないかのようだ。秀一は指先で卓を軽く叩き、低く口を開いた。「……俺はてっきり、今日騒ぎを起こすのはそっちだと思ってたが」「何を言ってるの?そんなの誤解よ。誰かの妙な噂を鵜呑みにしたんじゃないの?」美穂は戸惑うふりをし、言葉を重ねる。だが彼女の胸の内には冷や汗が滲んでいた。――秀一が言っているのは、間違いなくあのネットの炎上騒動。自分が仕掛けた世論操作、雇ったサクラ、そして弘樹の協力……それらを彼が気づいているのだ。かといって、易々と認めるつもりはない。「秀一さん……世の中には、自分のことを棚に上げて人を陥れる連中が多いの。どうか根も葉もない噂で、私たちを誤解しないでね」彼女はなおも必死に取り繕った。「誤解なんてしてない」秀一は椅子の背にゆったりと身を預け、美穂を射抜くように見据える。「君たち三人はネットで玲を陥れ、彼女を潰そうとしたのは事実だ。俺が綾の不正を暴いたことに逆上して、次は玲を消してしまえば俺も黙ると踏んだ。そんなところだろう?残念だが――玲は潰れない。そして、綾ももう終わりだ」その言葉と同時に、秀一は懐から数枚の書類を取り出し、無造作に卓上へ投げた。紙は俊彦の目の前で滑り止まる。秀一の唇が冷たく歪む。「ほら。お父さんの可愛い娘が横領した証拠だ。本当は自分で選ばせるつもりだったが、頭が悪すぎて話が通じなかった。だから俺が代わりに決めてやった。綾は今日付けで藤原グループから解雇された。もう二度と、藤原の名を騙ることも、この家に関わることもない」「なっ……!」美穂が椅子を蹴るように立ち上がった。「秀一さん、何を勝手なことを……!確かに綾は間違いを犯した。でも償おうとしてたじゃない!そもそも彼女を藤原グループに入れたのはお父さんの判断よ!クビにするとしても、お父さ
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第60話

秀一がなぜここまで暴走した?まさか、全部玲のせいだというの……?こんなことになると知っていたら、玲に軽々しく手を出したりはしなかった――美穂は心の中で悲鳴をあげた。だが、今さら何を言ったところで、もう遅い。秀一の瞳は深海のように暗く、その底に光る冷気は一片の慈悲もない。「綾だけじゃ物足りないというのなら……君の息子も、まとめて片付けてやろうか?」「や、やめて……っ!」美穂は絶叫し、その場に崩れ落ちそうになった。秀一の言葉が冗談でないことは、誰よりも彼女が知っている。十三年前――豪は一度、本当に秀一に殺されかけた。あの時、豪が秀一の首飾りを投げ捨てた。玲はそれを必死に探し出し、秀一に返した。美穂は計画が失敗したとき多少の苛立ちは覚えたが、それで終わったものと思っていた。だが翌日、秀一は周囲の目を避け、孤立していた豪を捕らえると、拳で何度も何度も殴りつけたのだ。豪は血まみれになり、あと一歩で命を落とすところだった。結果、秀一は俊彦の命で罰を受け、鞭で叩き伏せられた。十五歳の少年の体がボロボロになり、ひと月もベッドから起き上がれなかった。権力も後ろ盾もなかったあの頃でさえ、秀一は容赦しなかったのだ。では今、すべてを手にした彼が豪をどうするのか――美穂には想像すらしたくない未来だった。綾もまた青ざめ、震える手で弘樹の袖を掴んだ。弘樹の眉間に深い皺が寄り、淡色の瞳が静かに光を潜める。美穂はふらつきながら俊彦の側へ膝をつき、涙声で訴えた。「あなた……お願い、秀一さんを止めて……!」俊彦は目を閉じたまま無言で聞いていたが、やがて長く息を吐き、重々しい声を落とした。「……秀一。私はまだ死んでいない。藤原家の当主は、今も私だ」「わかってる」秀一の返答は冷ややかだった。父を見据えるその眼差しには、露骨な嫌悪の色が漂っている。「だから、あなたが死んだあとで、俺は不要な連中を片っ端から消すつもりだ。だが綾の罪は――当主のあなたでも庇えない。ここへ来る前に、証拠のデータはすべて株主たちに送った。綾が会社の金を横領したとなれば、やつらにとっては自分の取り分を奪われたのと同じだ。許すはずがない」六千万ほどの額でも、株主たちの利益を脅かすには十分だ。そんな不良分子を放置すれば、今後の損失は計り知
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