そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜 のすべてのチャプター: チャプター 41 - チャプター 50

100 チャプター

第41話

「いや、やめよう」玲が問いかけると同時に、秀一は迷いなく首を横に振った。「結婚は大切なことだ。ふさわしい時と場所を選んで、正式な場で発表する」彼は、ただ役所で手続きを済ませただけでSNSに一言載せるような、そんな軽いお披露目をするつもりはないらしい。――藤原家の後継者であり、首都の頂点に立つ男。彼が妻を迎えたことを告げるには、誰もが息を呑むほどの盛大な宴がふさわしいだろう。玲の脳裏に、綾と弘樹の婚約発表の時の光景がよぎる。ロイヤルホテルの最上階を貸し切り、スポットライトを浴びるふたり。SNSでは何日も羨望の声が止まらなかった。なら、秀一との結婚発表はそれ以上の規模でなければならない。そのことに気づいた瞬間、玲の胸にこれまで抑えていた感情がふつふつと湧き上がる。高瀬家の「連れ子」として生きてきた彼女は、綾や雪乃に何度も「釣り合わない」と蔑まれてきた。弘樹の隣に立つことすら笑われた彼女が、今や、弘樹以上の家柄と権力を持つ藤原家の後継者の妻になったのだ。弘樹も、綾も、もう彼女を軽んじることはできない。今度は彼らが、玲を「お義姉さん」と呼ばなければならない。――考えるだけで最高に気持ちいい。そして、結婚発表の舞台に立ち、堂々と「藤原家の若奥様」として名乗るその時。周囲の驚愕と羨望の視線を浴びながら笑う自分を想像すると、心がさらに跳ねた。「わかりました、藤原さんにお任せします。必要な準備がありましたら、私も手伝いますね」玲は目を輝かせながら微笑んだ。「そうしてくれると助かる」秀一の薄い唇が、ほんの少しだけ上がる。「この発表の場は何よりも、君自身が楽しめるものであってほしい」「……藤原さんって、本当に優しいですね」玲の胸に、またじんわりと温かさが広がる。だが、ふと大事なことを思い出した。「そうだ……私たち、もう夫婦になったんですし……今までみたいに『藤原さん』って呼んでも大丈夫でしょうか?」ふたりの関係はまだ契約の延長線上にある。秀一とは素直に接していくと覚悟を決めたとしても、いきなり「旦那様」や「あなた」なんて呼ぶには、あまりにも気恥ずかしい。かといって、人前で呼び方を誤るわけにもいかない……秀一はそんな玲の戸惑いを一瞬で見抜いたようだった。「妻が夫を『さん』付けで呼ぶ家庭
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第42話

玲は深呼吸をひとつして、ぎこちなくも「……うん」と真面目な顔で頷いた。けれど、秀一の視線がふと彼女の耳元に向かう。――耳の先まで、真っ赤だ。……この気まずい空気は長くは続かなかった。秀一のスマホに仕事の着信が入り、玲はすぐに気を利かせて「会社に戻ったほうがいい」と提案した。その間に、自分は雨音と会って仕事の話がしたいと言った。ついでに、あの六十秒もある音声メッセージの「恨み」も晴らしておかないと。秀一はその案に同意し、彼女を待ち合わせ場所まで送り届けると、その足で藤原家の本社へと向かった。その頃、藤原グループ本社ビルの重役会議室。きっちりスーツを着こなした幹部たちが一糸乱れぬ姿勢で席に着いている。社長秘書の洋太は、先日の完璧な任務遂行により正式に復帰。彼は隣で足を投げ出すように椅子に座る友也に、小声で何やら耳打ちしていた。そこへ、背筋を伸ばしたまま颯爽と秀一が入室。洋太は即座に背筋を正し、友也は悪戯っぽい笑みを浮かべる。「おやおや、藤原社長。男って一度やらかすと二度目も平気でやるって言うけど……まさか会議ほっぽり出して、また俺に場を任せる日が来るとはね」秀一は淡々と席に着き、冷ややかな声で返す。「君が俺のそばにいる理由は、そういう時のためだろう」友也は鼻を掻いて「まあ、そう言われたら否定できねぇな」と苦笑しつつも、即座に幹部たちにプロジェクトの報告を促す。しかし幹部たちの顔には緊張の色が濃い。――首都ではその名を轟かせる藤原家の後継者。仕事に関しては鬼のように冷徹で、容赦のない効率主義者だ。進捗の遅れている担当者たちは、今日の会議は友也が仕切ると聞いて胸を撫で下ろしていたが、肝心の本人が戻ってきてしまった。心の中で辞表の書き方を練習している者すらいた。だが、二時間もある会議中、秀一は一度も怒声を飛ばさず、遅れている案件には明確な改善案を出し、成果を出している者には惜しみない褒賞を与えた。会議室を後にする幹部たちはまるで夢見心地で、洋太に向かって「社長に一生ついていきます!」と涙目で拳を握る者まで現れた。洋太が彼らを見送る間、友也は腕を組み、ぽかんと秀一を見ていた。「なあ、秀一……今日のお前、まさか……悪霊でも取り憑いた?温厚すぎてみんな惚れてたぞ」秀一は視線を静かに上
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第43話

藤原秀一と高瀬玲。婚姻届のコピーに、黒々とした文字で記された二人の名前と判。すべての情報が揃っているそれは、どう見ても偽物ではなかった。そして、「妻になる人」という欄に記載されたのは、間違いなく「高瀬玲」という名前。つまり、今日の秀一の柔らかな態度は、玲と籍を入れたその余韻だというのか?――いや、そんなはずが……どうして?「し、秀一……お前、あの高瀬玲と……結婚したっていうのか?」友也はまるで世界がひっくり返ったような顔をして、目を見張った。驚くのも無理はない、玲の立場が特別だからだ。「……言いたいことがあるなら言え」秀一は婚姻届のコピーを手早く片づけ、冷ややかな視線を向ける。友也は肩をすくめ、声を少し落とした。「いや、別に……彼女が雨音っていう嫌な女の親友だからといって、嫌ったりしてない。でも彼女が弘樹と付き合ってたこと、お前も知ってるんだろ?その弘樹がもうすぐお前の妹婿になるってのに、なんていうか……気分が悪くならないか?」言葉を探す友也は、ふとひらめいたように呟いた。「もしかして……例の借りを返すためか?彼女がその借りを理由に、お前に結婚を迫ったんじゃないのか?」秀一の地位を狙う女たちは星の数ほどいる。しかも以前、玲について話したときの秀一は特別な感情を見せなかったはずだ。だからこそ、友也の頭に浮かぶのは――玲が秀一を利用している、という結論。だが、秀一の漆黒の瞳が、ゆっくりと深い色を帯びていく。しばしの沈黙の後、彼は低く、はっきりと告げた。「……友也。俺は十三年前から、玲を好きだった」――この告白を、秀一は誰にもしたことがなかった。玲が弘樹を想い続けた年月、そのすべての時間を、秀一もまた彼女を想っていたのだ。初めての出会いは、あの日。冷たい川に一緒に入り、三時間も沈んだまま探し続けた首飾り。その日から、彼の心は玲という少女に捕まって離れなくなった。苦境の中でも真っ直ぐに生きようとする姿。陰口を叩かれながらも笑顔を絶やさない強さ。美しい瞳の奥に映すのは、ただ弘樹ひとり――その事実に嫉妬し、何においても冷徹を貫いた秀一が、心をかき乱されていたのだ。だから秀一は、玲がかつて弘樹と付き合っていたことに、わずかも心を曇らせはしなかった。彼の胸を苛んだ
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第44話

「幸い、すべてが無事に終わった。俺は、こうして彼女を妻に迎えられたんだ。彼女のために指輪を自らデザインし、何度も磨き上げた。俺にできる最高のものを、すべて彼女に捧げたかったからだ。本来、華やかな式典など性に合わないが、綾に見劣りなどさせたくないから、盛大な披露宴を用意しようと思った。見せかけの結婚だって嫌だった。だが玲がそれを必要としているのなら、契約でも、取引でも、なんだって応じよう。彼女が俺を愛していないなら――俺が先に愛すまでだ。……これでもまだ、玲が昔の恩義を盾に、俺を追い詰めて結婚に持ち込んだと思うか?」……言葉をなくした友也は、呆然と秀一を見つめるしかなかった。今の話を聞いて、誰が玲を「計算高い女」などと評せようか。むしろこれは、秀一自身があの日の恩義を餌に玲を絡め取り、その心を一歩ずつ逃げられない場所まで追い込んだと言ったほうがいい。長い沈黙のあと、ようやく友也がか細い声で口を開いた。「……悪い、俺が浅はかだった。俺が望まない結婚を強いられたから、秀一もてっきりそうなんだって思ってた……ここまで気持ちを隠してたなんて、さすが秀一だよ。そういえば、綾が会社のお金を横領した証拠を公表したのも、彼女たち親子を潰すためじゃなくて、玲のために動いたんだね?でも結局、綾は何の決断もしてないだろ?このままうやむやに終わらせるつもりか?」その問いに、秀一はゆるやかに微笑んだ。そして手にした書類――婚姻届のコピーを見つめる。「……いや、終わらせるわけがない。綾が何事もなかった顔でやり過ごそうとしたのは知ってる。ただ、入籍を控えていたので、乱暴はしたくなかった。だがこれからは、彼女が背負うべきものを、きっちりと背負わせる」……その瞬間、部屋の中に光が差し込み、陽光が一層まばゆさを増したように感じられた。あまりの輝きに、視線を向けるのもためらわれるほどだった。――けれど、その同じ時刻。藤原家の別邸の庭でのんびりとお茶をしていた綾の背筋を、ひやりとした寒気が走った。一度感じたことがある圧迫感が、じわりと彼女を覆っていく。海での誕生日パーティーの後、秀一が提示した選択肢を無視し、何も言わずに逃げ出したので、綾はひたすら秀一を避けて暮らしていた。いつもの傲慢さは影を潜め、秀一が海に
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第45話

「……お母さん、何を言ってるの?べ、別に何もしてないし、秀一に弱みなんて握られてないわ」綾はぎくりと心臓が跳ねたが、すぐに顎をそらして強がった。母に真実を話せば、きっと罵倒される。それがわかっているからこそ、黙っていたのだ。だが、今回はどうあっても逃げられそうにない。「綾!」美穂の手が娘の腕をつかみ、その声は低く鋭く響いた。「いい加減、正直に話しなさい!このままじゃ、私だってもう庇いきれないわよ。わかってる?あんたが藤原グループに顔を出さない間に、秀一は堂々と勢力を広げてるの。今日の会議だって、役員たちにわざと優しい顔を見せて、すっかり取り込んでたわ。昔から親しくしてる二人の役員まで、私の電話に出てくれなくなったのよ!」「なっ……なんですって!?秀一、そんな卑怯なことを――!」綾は蒼ざめ、次の瞬間には怒りに頬を紅潮させていた。「わかった!全部話すよ!……確かに会社で少しトラブルを起こしたわ。ほんの数千万、プロジェクト経費の名目で申請して使っただけなのに、秀一は大げさに横領だなんて決めつけたの!もっとも、これはあの高瀬玲のせいなのよ。あいつのために私を報復しようと、秀一がこんなことまで掘り返したの!」悔しさと怒りに綾の顔は歪んだ。彼女の中で、罪悪感は微塵もない。ただ、自分がこんな立場に追い込まれたのは玲のせいだと、頑なに信じているだけだった。美穂の顔が見る間に青ざめ、怒りの色が浮かぶ。馬鹿な娘を持った己を呪うと同時に、秀一の動きが自分の想定よりも遥かに早かったことを悟ったのだ。けど、綾の話に気になる部分もあった。「……高瀬玲?高瀬家の義理の娘のこと?この前のパーティーで、海に落ちたせいであんたが叩かれてるっていう……あの子?」「そう、あの小娘よ!十三年前、あの女が秀一の母親の形見を見つけてやったせいで、秀一はあの女に借りを作ったの。私があの女をしつけたとき、あいつは秀一を頼って、こうして私を陥れたのよ」綾の声には、押し殺した憎悪が滲んでいた。「弘樹さんをたぶらかした挙げ句、私の評判までズタズタにして……!絶対に、いつか必ず償わせてやる!」先ほど「会社を休んだのはネットの噂のせい」と言い訳したが、実際には生まれてからずっと賞賛ばかりを浴びてきた彼女にとって、世間からの誹謗
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第46話

昔、美穂は息子を利用して、幼い秀一の持っていた首飾りを捨てさせたことがある。亡き母の形見を、夫の前で毎日ぶら下げて歩く秀一が目障りだったのだ。だが、結局首飾りは見つかり、計画は水泡に帰した。あのとき玲が秀一を助けたせいで、美穂の思惑は狂った――今こそ、玲にその代償を払わせるときだ。「ずっとあの女をめちゃくちゃにしたかったのよ!」綾は目を輝かせて身を乗り出した。「ねえ、お母さん、どうやってあいつを潰すの?やるなら、二度と立ち上がれないくらいにしないと!」美穂はゆったりとコーヒーカップを持ち上げた。「玲はいつも弘樹さんを誘惑してるって言ってたでしょ?なら、今回はたっぷり誘惑させてあげましょう」……「ま、待って!玲ちゃん、落ち着いて!」一方その頃、別の場所では――周囲のざわめきをかき消すほどの悲鳴が響き渡った。玲の手にかかり、雨音が身をよじりながら必死に許しを乞うていた。三十分ほど前、玲は秀一に送られて、雨音が手がけた彫刻展の会場へ姿を見せた。雨音はこの業界に入って以来、数え切れないほど多くの展示会をプロデュースしてきた。広々とした会場には、新進気鋭のアーティストたちの作品が巧みに配置されている。来場者が一つひとつの作品を心地よく鑑賞できるよう、展示位置や作品同士の間隔まで細やかに計算されていた。しかし――玲が足を踏み入れた瞬間、周囲の視線は一斉に彼女へと向けられる。この日、玲が身にまとっていたのは、入籍のために選んだ白いチュールのロングドレス。その柔らかで清楚な装いは、気品あふれる展示会場の雰囲気に溶け込みつつも、まるで場の空気を浄化するような神秘的な輝きを放っていた。彼女の存在は、会場に並ぶどの作品よりも一層美しく見えていたのだ。だが、玲に周囲を見回す余裕などない。彼女の足取りは迷いなく、一人の人物を目指していた――雨音だ。雨音は、自分が軽い気持ちで送ったボイスメッセージが秀一に聞かれていたなど夢にも思わず、玲にオフィスで捕まり、こそばされ、今や体を丸めて悲鳴をあげている。「ひ、ひぃっ!玲ちゃん、落ち着けって!お願いだからやめて!あれは全部あなたの幸せを願ってのことじゃん!むしろいい刺激になったでしょ?二人の関係がもっと深まったかもよ?」雨音は笑い泣きしながら言い訳を並
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第47話

玲は、秀一の目に自分が「体目当ての女」に映ることだけは、絶対に避けたかった。「もし藤原さんに、私が藤原家の権力を狙って彼を誘惑したなんて思われたらどうするの?」大きな家の人間ほど、家系の財産や権力には敏感だ。秀一の義母、美穂のように、何年も秀一を追い詰め、彼の結婚を利用して自分側の人間を送り込もうとする者もいる。それはすべて、藤原家の資産や地位を自分の子どもたちに握らせるため。そんな現実を、玲は嫌というほど知っていた。だからこそ、秀一に同じような疑念を抱かれるわけにはいかない。玲の必死な様子に、雨音はしばし言葉を失った。そして小さくため息をつくと、水の入ったグラスを手渡した。「玲ちゃん……ちょっと偏見が強すぎない?藤原さんはたしかに立場のある人だけど、権力に執着するタイプじゃないよ。弘樹くんみたいに、地位を固めるためなら政略結婚だって平気でする人とは違う。あんな最低な男のせいで、全員を同じ目で見るのは――……あれ?弘樹くん……!」雨音の言葉が途切れた。視線の先、見慣れた長身の男が静かにこちらへ歩いてくる。陽光を反射する金縁の眼鏡。端正な顔立ちと穏やかな空気。隙のない上品な立ち振る舞い――どう見ても弘樹だった。玲は息をのんで振り向く。数日ぶりに向けられた弘樹の視線は、まっすぐ彼女だけを射抜いている。淡い色の瞳が揺らぎもせず、彼は低く囁くように言った。「玲……やっと見つけた」「何の用?」玲は眉をひそめ、一歩後ずさる。だが弘樹はゆっくりと一歩踏み出し、彼女を影に包むように迫った。「玲、三日も姿をくらますとは……自分の帰るべき場所も、待ってくれている家族のことも、全部忘れたのか?」「はっ……」雨音が玲の腕を引き寄せ、弘樹を見据えた。「帰るべき場所って、高瀬家のこと?あそこはあなたと綾の家でしょ?別に玲ちゃんの家じゃないわよ」皮肉を含んだ雨音の声に、弘樹の表情が一瞬で冷え切った。「……水沢さん。あなたはあくまで玲の友人。ご自分の家庭の問題すら解決できていないのに、他人のことに口を出すのは感心しないね」「……今のは聞き捨てならないね」雨音の笑顔がすっと消え、声が低く落ちる。弘樹の言葉は、彼女の胸の奥に今も癒えない傷――友也のことを容赦なく突いたのだ。玲が親友と
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第48話

この間、弘樹はメッセージで、玲が帰ってきてくれるなら尊重するし、パスポートもいらないと言っていた。だが玲にはわかっていた――それが真っ赤な嘘だということを。目の前の弘樹は冷ややかな表情を崩さず、金縁の眼鏡の奥の瞳は揺れもしない。「玲……確かに俺は嘘をついた。お前のパスポートを手元に置いておこうとしたし、綾がクルーズでお前を狙うと知りながら止めなかった。でも本当に、全部が俺のせいだけだと……そう思うのか?」彼の声は低く、どこか責める響きを帯びていた。「俺は以前から言っていた、お前自身のためにも、おとなしくして欲しいと。それを聞かずに秀一を巻き込んだり、綾と争い続けたから、事態はここまで拗れたんだ」弘樹にとって、この複雑な泥沼は避けられたものだった。だが玲は静かに彼を見つめ、ふっと笑った。「つまり……綾が私を泥棒扱いして叩き潰そうとしたとき、素直に殴り殺されてたら、全部丸く収まったってこと?」「そんな意味じゃ――」「いいえ。まさにその意味よ」玲の笑みは冷ややかで、声が震えそうなほど心が冷え切っていた。「もうたくさんよ、今のあなたと話してると吐き気がするわ。あなたは綾に心移りしたあげく、私に『おとなしくしろ』だなんて。はっきり言っておくわ。私はそもそもおとなしい女なんかじゃないし、これからも絶対に従ったりしない。高瀬家にはいつか戻るわよ、置いてきた自分の荷物を取りに行くためにね」今の玲には、秀一との婚姻という現実がある。高瀬家はもう帰る場所ではない。彼女には新しい、確かな居場所ができたのだ。弘樹の瞳がわずかに揺れた。「……俺から、離れるつもりか」「もちろん。むしろ遅すぎたくらい」玲の返事は淡々としていた。「ふざけるな!」弘樹が怒声を上げた。普段の穏やかな仮面を剥ぎ取った顔は、初めて見せるむき出しの激情を宿している。そのまま彼は玲の手首を乱暴に掴み、力任せに連れ去ろうとした。雨音が慌てて飛び出すが、玲は手を伸ばして雨音を制した。一瞬、雨音は胸が締め付けられる。まさかこんなことになるまで、玲は弘樹をかばうのかと焦った。だが次の瞬間。――ザバァッ!玲が掴んだのは、テーブルの上のコップ。中の水を、ためらいなく弘樹の頭上にぶちまけたのだ。弘樹は髪から肩口ま
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第49話

弘樹は顔を引きつらせながら、なおも手を伸ばす。「玲……俺はお前のためを思って忠告したんだ。このままだといつか後悔するぞ!」「そのセリフ、もう聞き飽きた」玲は軽く唇を歪め、弘樹の手を叩き落とした。そして一歩一歩、彼へと詰め寄る。「もう『私のため』なんて言葉で、騙そうとしないで。その言葉を信じてたせいで、私はボロボロになったのに、綾のほうはいつも楽しそうに笑ってた。過去の数年間、あなたは綾と関係を持ちながら、私の気持ちを利用して縛り付けてきた。私が目覚めて離れようとしても、手を放してくれなかった。でも、世の中にあなた一人しかいないわけじゃない。私にだって、選ぶ権利がある。あなたが綾を選び、彼女と結婚する道を選んだのなら、その選択を抱えて生きていけばいい。私も、私の選んだ道を歩く。どうして私が後悔すると決めつけられるのか、本当に理解できない。後悔するのは――あなたたちかもしれないのよ」玲は小さく笑みを浮かべ、冷ややかに告げる。「もう一度言うわ、これは始まりにすぎないって」そう言って玲は雨音の手を取り、迷わず弘樹の横を通り抜ける。雨音は目を丸くしていたが、胸の奥は熱く震えていた。玲とともに去っていく彼女は、振り返りざまに弘樹へ向かって堂々と中指を立てた。弘樹は蒼白な顔で壁に寄りかかり、よろけながらも視線を外さなかった。濡れた眼鏡越しに、玲の背中を暗い瞳でじっと見つめ続ける。だが玲は一度も振り返らない――入籍したときからもう決めたのだ。二度とこの男には縛られない、と。この出来事はなぜか秀一の耳に入ってしまった。電話をかけてきた秀一に、玲は気楽そうに説明する。「大したことじゃないですよ。秀一さんは仕事で忙しいんだから、心配しないで」「……大したことじゃない?」秀一の声は低く険しい。「弘樹が君を脅したんだろう?結婚発表を早めた方がいいか?」「いえ。あの人は脅してるつもりかもしれないけど、私にはただのハッタリにしか聞こえなかったから」それに秀一は結婚発表のためにきちんとした式典を用意するつもりだ。急に予定を早めたりしたら、彼には申し訳ない。玲は弘樹の言葉など、ただの虚勢と踏んでいた。だが、今回はその読みを外すことになる。翌朝。世間を震撼させる爆弾のようなニ
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第50話

「高瀬家に来てからの玲は、今日は『ここに馴染めない』って食事を拒んだかと思えば、明日は『虐められた』って荷物をまとめて出て行く騒ぎ。結局、弘樹様が自ら探しに出て、彼女が泣きながら戻ってくる……そんな繰り返しでした。その度に私まで弘樹様の怒りを買って、十年以上真面目に仕えていたのに、結局は辞めさせられました。でも、私は弘樹様を恨んでいません。ただ、あの方は悪い女に惑わされただけですから。でもね、あの玲が私たち年寄りを困らせるだけならまだしも……なんと綾様にまで手を伸ばしたのです!皆さんも、弘樹様と綾様の婚約報道をご覧になったでしょう?あんなに美しくお似合いのお二人を、玲は自分の野心のために引き裂こうとしたんです。綾様を陰で陥れようと、何度も何度も……先日のクルーズ船での誕生日パーティーだって、綾様がわざわざ招待してあげたのに……彼女はクルーズから身を投げ、自分から騒ぎを起こしておきながら『綾様に殺されかけた』なんて嘘をついたんです。あの宴を、彼女は自分の芝居で台無しにしたんですよ!だからお願いです。どうか、この老婆の話を信じて。あなたたちの優しさを、あの女の策略に利用されないで……」ニュースに流れる素朴で誠実そうな年老いた声が、視聴者の心を掴み、一気に広がった。玲への同情は瞬く間に怒りへと変わり、ネットの熱量は以前を遥かに凌駕していく。そのニュースを目にした弘樹は、こめかみに青筋を浮かべながら、茂の執務室へ駆け込んだ。「お父さん、ネットの騒ぎは見ましたか?」「……ああ」「高瀬家と藤原家はもちろん、会社にも影響が出てます。株主からも問い合わせが殺到している状態です。とりあえず報道を削除させ、火消しをしておきます」スマホを取り出し、踵を返そうとした弘樹の背に、低く威厳のある声が落ちた。「弘樹、その必要はない」ぴたりと足を止めた息子に、茂は静かに視線を向ける。「綾から昨日、電話で相談を受けていた。あの元家政婦も、私が綾に紹介した人間だ。ニュースがここまで話題になったのも、私が裏で仕掛けた結果だ」弘樹の瞳が微かに揺れる。「……お父さんは、高瀬家が非難を受けるおそれについて、お考えにならないのですか?」「もちろん考えている」茂はゆっくりと答えた。「だからこそ、今回は君の協力が必要だ。綾は玲の
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