All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

玲はその後、秀一と共にロイヤルホテルのスイートへ戻ってきた。雨音は病院へ行こうと提案したが、秀一が「自分のもとに専属の医師がいる」と告げたため、結局そのままホテルで診察を受けることに。雨音と友也はそれぞれ別々の車で帰っていった。スイートのソファに腰を下ろすと、すぐに顔馴染みの医師が現れ、玲の診察を始めた。検査機器が次々と運び込まれる様子に、玲は思わず内心で目を見張る。まるでホテルの一室が、そのまま最高クラスの病院に変わったようだった。そして考えるより早く、検査結果は出た。体の数値はすべて正常。ただ、海水を呑んだせいで肺に軽い炎症が出ている。二日ほど吸入治療をすれば完治するとの診断だった。玲は素直に頷き、医師が薬を用意するため部屋を出ていくのを見送った。壁の時計に目をやると、針は十一時五十分を指している。あと十分で、七日間の約束が終わってしまう。胸の奥に焦りがこみ上げ、玲は意を決して声をかけた。「……藤原さん。今日は本当にありがとうございました。ご迷惑もたくさんおかけして……」一呼吸置いて、言葉を慎重に続ける。「——あの、『七日間の約束』って、まだ有効ですか?」秀一の鋭い視線が、深い闇の底からすべてを見透かすように玲を射抜く。しばしの沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。「今日一日、お前がしたことは全部、高瀬に自分のパスポートを握られていたから?」「……はい」玲は素直に頷いた。弘樹にさえ見抜かれたことだ、この男が見逃すわけがない。玲は小さく声を落として打ち明けた。「綾が船で私を脅したのは事実です。でも……本当の狙いは自分のパスポートを取り返すことです。だから、警察を巻き込んででも、目的を果たしたかったんです」「だが……もし海に飛び込んで、本当に命を落としていたら?」秀一の声が、いつになく低く鋭く響く。その目に、怒りの稲光が走った。玲は自分の行動で弘樹を追い詰め、己の目的を果たした。これは彼女の覚悟があってこその勝利だ。しかし、あのとき海は、命を呑み込むには十分すぎるほど危険だった。もし波に巻き込まれ、あるいは綾が本気で彼女を見捨て、助けようとしなかったら、玲は命を落としていてもおかしくなかった。そうなれば、元も子もないだろう。玲の手のひらに汗が滲む。「それは……考えてまし
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第32話

玲は見た目こそ静かで穏やかだが、一度受けた傷を決して流さない女だ。かつて弘樹に頬を打たれたことも、全部心に刻まれている。綾に対して、最初の頃はそこまで強い憎しみを抱いていなかった。弘樹と綾のどちらをより恨むべきかといえば、玲にとっては裏切りを繰り返した弘樹のほうが罪深い。しかし、綾のその後の行動――陰湿で、残酷で、卑劣極まりないやり方は、自ら地獄行きの切符を勝ち取ったようなものだ。玲は必ず、秀一と結婚し、この泥沼から抜け出す。そしてすべてを終えたあと、綾が与えた屈辱の一つ一つを、利息付きで返してやるつもりだった。そう心に誓いつつ、玲は秀一をおそるおそる見上げ、もう一度口を開く。「藤原さん……その、七日間の約束って……まだ、有効ですか?」先ほど問いかけた時、彼は答えを返さなかった。もしかして――秀一は、もう彼女と組む気がないのか?結婚の話もなかったことにしたいとか?その考えがよぎった瞬間、肺の奥がひどくむず痒くなり、玲はこらえきれず激しく咳き込み始めた。――そのとき。背中に温かな手がそっと添えられた。弘樹の手のひらは穏やかで優しかったが、秀一の掌は大きく熱を帯び、彼女を包み込む力強さがあった。彼は玲の背を軽く叩き、落ち着くよう促しながら低い声で言う。「俺が……考えを変えるのを、怖がってるのか?」玲は言葉を失った。長い睫毛に涙が滲み、まるで雨に濡れた蝶のように震えている。錯覚だろうか。この一瞬、秀一の表情がやわらいだ気がした。冷ややかな美貌の鋭さがすっと薄れ、その顔立ちはあまりに整いすぎていて、玲は不意に思った。もし時間があるなら、彼の顔をモデルに彫像を作ってみたいと。指先で測り、彼の完璧な輪郭を形にしてみたい。……もちろん、それは心の中だけの願望だ。秀一は、他人に自分を勝手に別の姿に変えられるのを、好むような人間ではないのだから。玲は懸命に咳をこらえ、顔を赤らめ、唇を噛んで言った。「ふ、藤原さん、誤解しないでください。私は……あなたを追い詰めるつもりなんてないんです。あなたが七日間の猶予をくれたのは、私に考える時間を与えるためで、同時にご自身も考える時間が必要だったからですよね。だから、よく考えた結果……私が妻にふさわしくないと思われたなら、それを受け入れます。だって…
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第33話

秀一が怒っていた。約束を破られたのは自分なのに、怒りの矛先が彼から向けられるとは思っていなかった。玲は身をすくめ、全身が板に打ち付けられたように動けない。「……藤原さん、私……何か、変なこと言いましたか?」秀一は何も言わず、きゅっと顎を引き締める。その沈黙がかえって恐ろしい。やがて彼は深く目を閉じ、全身にまとった冷気をぐっと抑え込むように息を吐いた。――玲が、本当に怯えていることに気づいたのだ。「……何も、間違ったことは言ってない」「じゃあ、さっきのは……」「俺は約束を反故にしていない。七日の猶予の間、おまえが『藤原家の若奥様』になる席は空けてある――その言葉は、変わっていない」少し顔をあげ、彼は真剣な声で続けた。「だが、これからは今日みたいな無茶はやめろ。必要な書類がないなら俺に言え。いくら事情があっても、命を懸けるほどのことじゃない」玲は一瞬、言葉を失った。そして心の奥からもう一度、彼という人間の不思議な優しさを感じる。――けれど、だからこそ全部を打ち明ける気にはなれない。人にはそれぞれ、自分で背負わなければならない責任がある。彼がこうして手を差し伸べてくれても、その重さを丸ごと押し付けるような真似をすれば……いつかきっと、彼は疲れてしまう。疲れた先に生まれるのは、不満と怨嗟。長く健全な関係を続けるためには、助けられるばかりでは駄目なのだ。とはいえ、秀一の前では、玲は素直に頷いた。「……わかりました、藤原さん。あなたの言葉、ちゃんと胸に刻みます」「本当に、わかったのか?」しばらく沈黙の後、秀一は重ねて問う。玲は小さく息を整え、再び首を縦に振った。「……はい。本当に、わかりました」これで秀一と結婚すれば、もう彼女を狙う人間は少なくなるはずだ。弘樹や綾も、そう簡単には手出しできないだろう。だから玲は少しばかり嘘をついても、罪悪感はほとんどなかった。秀一は、しばし玲を見つめたまま黙り込む。濃い闇を湛えた瞳が彼女を射抜くように見つめ――やがて彼は視線を外し、淡々と言った。「……なら、結婚しよう」「ほ、本当に?」玲は瞬きを繰り返し、ぱちくりと大きな瞳を見開く。「じ、じゃあ……今すぐ、役所に?」「まだ営業時間外だろ」秀一は拳を軽く唇に添えながら、口
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第34話

玲ははっとして、反射的に身をのけぞらせた。だが、その動きを追うように伸ばされた秀一の手は、彼女の頬の後ろに回り、そっとフェイスマスクを彼女の顔に装着した。「そろそろ吸入治療の時間だ」そう言われてようやく、さっき薬を取りに出て行った医師がもう戻ってきて、機器の準備をしていたことに気づく。秀一はただ彼女を気遣って手を伸ばしただけだったのだ。それを勝手に身構えてしまった自分が恥ずかしい。頬も首筋も一気に熱くなり、肺のむずがゆさまで羞恥に変わっていく。「……あ、ありがとうございます」「気にするな」深い海の底を思わせる漆黒の瞳を伏せながら、彼は静かに吸入器のスイッチを入れる。「ただ……もうすぐ俺たちは夫婦になる。形だけの結婚だとわかってはいるが、もし今みたいに俺を怖がる様子を見せ続けたら、周りにすぐ疑われる」玲は身体を強張らせたまま、薬を肺に吸い込むたび、ゆっくりと沈黙に沈んでいった。……三十分後、治療を終えた玲の部屋を、秀一は医師を伴って静かに後にした。扉の外では、洋太が神妙な面持ちで待ち構えている。「社長、本当に……彼女と結婚なさるんですか?昔の恩義のために?」部屋の中で交わされたやりとりは、洋太の耳にも届いていた。軽率な発言が原因でここまで事態を「こじらせた」張本人としては、秀一の決断がどうにも重く感じられて仕方がない。彼は恐る恐る続ける。「それに……高瀬さんが籍を入れようと言ったのは、もう深夜零時を過ぎてましたよね。七日間の期限は切れてました」つまり、秀一には断る権利があったのだ。だが彼の表情は一切揺らがない。「わかっている」「じゃあ……なぜ……?」「俺の妻の席は、最初から彼女のために空けてある」秀一にとって、七日という期限など、ないのと同じなのだ。洋太は口を開けたまま言葉を失った。普段おしゃべりな彼が珍しく、声を発せられないほどに。そんな彼を横目で一瞥し、秀一は淡々と言葉を落とす。「次の仕事をきちんと仕上げろ。そしたら、君を会社に戻してやる」……「……えっ、本当にそんなこと言われたの!?」一方その頃、玲の部屋にはスマホ越しに雨音の弾む声が響いていた。秀一は部屋を出る前、「今日はもう休め」と言っていたが、玲は布団に横たわりながらも全く眠れずにいた
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第35話

大胆な決断をした玲は、スマホ越しに、画面いっぱいで無邪気に笑う雨音を見て、言葉に詰まってしまっていた。「雨音ちゃん……私と藤原さんの結婚は、お互いの利益のための取り決めでしかないの。……でも、私の演技なんかで、足を引っ張らないか心配で」昼間の秀一の言葉が、玲の胸に重く響いている。これまで玲は「結婚しよう」という結果ばかりを考えていて、その後――夫婦としてどう振る舞うかなんて想像すらしていなかった。「何言ってんの?」雨音は呆れ顔で、まるで妹を叱る姉のような声を上げた。「玲ちゃん、もう籍を入れるんでしょ?だったら旦那さんとしてちゃんと接するしかないじゃん。心を込めて、大事にしてあげなよ!」「……でも、これはただの契約結婚だよ?」玲はおずおずと返す。「それに……もう一度、誰かを本気で愛するなんて……私には無理」二十年以上、彼女はただ弘樹を信じて、愛し続けてきた。それなのに返ってきたのは裏切りと踏みにじられる痛みだけ。だからもう二度と、心を預けるなんてできない――そう思っていた。雨音ははっとしたように一瞬だけ言葉を止めた。だがすぐに、優しく微笑んで声を落とす。「……玲ちゃん。わかってるよ、心の中が恐怖でいっぱいになってるのも、愛することに怯えてるのも。でもね……だからこそ、藤原さんのことをもっとちゃんと見てみて。彼は弘樹くんとは違う。……私、なんとなくだけどね、いつか必ず、玲ちゃんの中のその怖さを消してくれる人になるって思うの。だから婚姻届を出した後のことを考えすぎて悩むなら、逆に自然体で、素直な気持ちで彼と接してみたらどうかな」演技で取り繕うだけでは、いつかボロが出る。それは玲自身も薄々感じていた。雨音は秀一に対して、最初は警戒もしていた。クルーズの中で見た彼は冷たく距離を置く男に見えたからだ。でも玲が海に落ちたとき、秀一は迷うことなく自ら海に飛び込んだ。冷徹そうな態度の裏で、誰よりも彼女を大切に想っていることが、その行動ひとつで伝わってきた。その真っすぐなところこそ、玲が今まで一番欲しかったものだと、雨音は気づいた。それに、ほかの誰も知らないことを、雨音は知っている。玲は昔から一番「よくできた子」だった。だからこそ、一番尊重されなかった。母の雪乃のために、幼い頃から藤原家での生活に耐えた
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第36話

雨音は、ふと遠い記憶を思い返していた――あの頃の弘樹は、玲のことを本気で想っていたのかもしれない。だが、心というのは移ろいやすいものだ。結局、弘樹が綾を選んだのなら、その先どんな後悔を抱えようと、それは彼自身の責任だと、雨音はそう思った。……その夜、玲と雨音はビデオ通話を続け、深夜になってやっと名残惜しそうに通話を切った。雨音が胸の奥でどれほど多くのことを考えていたのか、玲は知らない。けれど「自然体で、素直な気持ちで彼と接してみる」という言葉は、玲の心にしっかりと届いていた。だから玲は決めた。秀一の前では肩の力を抜いて素直に接しよう。そして、迫りくる嵐に備えて心も体も整えよう、と。海に飛び込んだ一件は、警察では「事故」として処理されたが、一度巻き起こった世間の騒ぎは、そう簡単に収まらない。【藤原綾の誕生日パーティーの事故、どう考えてもただの事故じゃないよな】【同感!港で働いてる知り合いから聞いたけど、落ちたのって高瀬家の継母が連れた娘らしいよ。もしかしたらいじめられていたかも】【うわ、可哀想すぎる……綾って前からネットで我が物顔だったじゃん。どうせその子をいじめてたんでしょ?警察で何も言えなかったのも、報復が怖いからだよね!】SNSではそんな憶測が飛び交い、同情の声は雪だるま式に膨れ上がっていく。「強者」と「弱者」が並んだ時、人々はどうしても弱者を支持したがる。そのせいで話題は一層ヒートアップし、「高瀬家」と「藤原家」が毎日のようにトレンドに並んだ。スマホ画面を眺めながら、玲は深くため息をついた。父の茂が激怒していることは、考えるまでもなくわかる。その矛先は当然、雪乃に向かい、彼女はまた玲を捕まえに来るはずだ。けれど意外なことに、ここ二日間、雪乃は一度もホテルの前に姿を見せなかった。まるで――このホテルにすら入れないかのように。その推測はすぐに確信へ変わる。弘樹の電話を無視し続けた三日目、玲のスマホに届いたのは彼からの長文メッセージだった。【玲、お前はロイヤルホテルに隠れて、支配人に頼んで誰にも会わないようにすれば、高瀬家に戻らずに済むと思っているのか?綾の誕生日を台無しにして、しかも警察沙汰にまでした。街中が大騒ぎだ。お父さんは怒っているし、雪乃さんも家で怯えきって、この数日、
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第37話

「藤原さん、わざわざ迎えに来てくださらなくてもよかったのに。私、一人で役所まで行けますから」ホテルの前で待っていた秀一の姿を見つけ、玲は小走りで駆け寄りながら少し気恥ずかしそうに言った。秀一は首をわずかに横に振る。「近くを通っただけだ」「……そうなんですね」玲は一瞬首をかしげる。秀一の通り道がこのホテル前にあるとは思えないが、彼がそう言うならきっと理由があるのだろう。「待たせてしまってませんか?」「いや」短い返事とともに、秀一は後部座席のドアを開け、玲を促した。玲は少し戸惑いながらも素直に乗り込む。けれど、今日は助手席ではないのかしら?その疑問はすぐに解けた。ホテルの玄関から駆けてきた運転手がハンドルを握り、秀一は玲の隣に腰を下ろしたのだ。途端に、車内の空間が狭く感じた。秀一の長い脚が黒のスーツ越しに隣のシートを占領し、膝がそっと玲の白いスカートの裾に触れる。黒と白――本来交わらないはずの色彩が、不思議とひとつの世界に溶け合った。玲は反射的に背筋を正したが、今日は逃げない。ただ頬に熱がのぼるのを感じながら、視線を逸らした。「体調は、もう大丈夫か?」低く響く声に、玲は思わず顔を上げる。「ええ、おかげさまで元気になりました」そして微笑みを添えて言葉を続けた。「藤原さん、あの……この二日間、安東さんに護衛を付けてくださって、本当にありがとうございます。おかげでゆっくり休めました」言葉にはしなかったが、雪乃がホテル前で何度も騒ぎを起こし、泣き叫びながら自分を連れ戻そうとしたことは知っている。そのすべてを退けたのは、秀一の指示があったからに違いない。秀一はその推測を否定せず、視線を伏せて淡々と告げる。「当然のことだ。君と結婚する約束をした以上、その前に余計な者たちに煩わせるわけにはいかない。もし礼を言いたいなら――別の形で返してもらおう」そう言ってポケットから取り出したのは、掌に収まるほどの赤いベルベットの小箱だった。開かれた瞬間、朝の光を受けたダイヤモンドの輝きが車内に広がる。玲は息をのむ。そこには男女ペアの結婚指輪が収まっていた。女性用のリングは繊細なデザインで、台座には複雑な透かし彫り。ひとつひとつ手仕事で刻まれた模様は、見ただけで膨大な時間が費やされたこ
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第38話

かつて玲は雑誌から切り抜いた宝石の写真を、ひそかにベッドサイドに飾っていた。「いつか結婚するときには、こんな指輪がほしい」そんな淡い夢を抱きながら。だが今、手のひらの小箱に収まったこのダイヤモンドは、かつて憧れた石よりも、形も輝きも格段に上質で――彼女が想像すらしなかったほど特別な一品だった。「これは意図したデザインだ」秀一は静かにそう言い、玲の手のひらに指輪をそっと置いた。黒い瞳で彼女をまっすぐに見つめ、その言葉を続ける。「この指輪は、永遠の誓いと特別な想いの証だ。男は、自分の妻に一番美しいものを捧げたい。その覚悟を示すものでもある」指輪の差が大きいわけじゃない。ただ、男性が愛する女性に尽くしたいだけだ。契約結婚の相手から、こんな言葉を聞ける日が来るなんて、玲は思ってもいなかった。心の奥深くに、誰からも与えられたことのない「特別」が、静かに沁み込んでくる。長い睫毛がわずかに震え、玲は彼の深い瞳に吸い込まれそうになる。けれど心に恐怖はなかった。以前、海に落ちたときのような冷たい絶望ではなく、今は不思議な安らぎが胸を満たしていた。そのとき、車が減速帯を越えて軽く揺れた。玲はハッと我に返り、両手で小さな赤いベルベットの箱を握りしめる。――まるで熱を帯びた小石を抱えているかのように、指先がじんと痺れる。「……藤原さん、この指輪をデザインした方、すごくロマンチックですね」秀一はしばし沈黙した後、低く問う。「気に入ったか?」「ええ。とても」玲はしっかりと頷き、指輪をそっと閉じて鞄にしまう。「実は私も……藤原さんのために、用意してきたものがあるんです。今お見せしますね」彼女が取り出したのは、しっかりした一冊の書類だった。秀一の前に差し出されたそれを見て、彼の眉がわずかに動く。「……これは、この数日で?」「はい。ホテルで一人で過ごしていたので、時間を使ってまとめました」玲は微笑む。――二人の結婚はあくまで契約だ。ならば正式な書面があってしかるべきだ、と彼女は思ったのだ。最初は、自分で書くと勘繰られるのではと悩み、秀一に契約を用意したほうがいいと提案したが、彼は何もしなかったため、結局自ら用意することにした。もちろん、不利になる条件など一切ない。「この契約
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第39話

え、どういうこと?「ペンがないからサインできない」って言ったのは秀一本人じゃなかったっけ?じゃあ、ペンを渡したのに……なんでまだサインしないの?玲は呆然としながら、妙な既視感に襲われた。――まるで小学生のとき、担任に遊んでいたおもちゃを没収され、そのまま返してもらえなかったあのときみたい。けれど、そんなふうに思っても、彼に向かって「どうしてサインしないんですか?」なんて聞けるはずもない。だってこの男が纏う空気は、氷点下そのものだ。ちょうどそのとき、玲のスマホが震えた。画面を見ずとも、弘樹からのまたあの鬱陶しいメッセージかと身構える。しかし表示された名前は雨音だった。雨音:【玲ちゃん!今日はついに藤原さんと婚姻届出す日でしょ!手続きはもう済んだ?】玲:【まだ。今、役所に向かってる途中。さっき婚姻契約の書類を藤原さんに渡したとこ】雨音:【えっ、ちょっ……婚姻契約!?なんでそんなの作ったの!?前に話したじゃん!せっかくの結婚なんだから力抜いて、ちゃんと向き合おうって!】玲:【うん、ちゃんと向き合うよ。でも力抜くって、何も決めないって意味じゃないでしょ】雨音:【まさか……結婚しても、藤原さんと一緒に寝る気ないの!?】玲:【そのつもりよ。だって協力関係でしょ、そういう関係じゃないもん】雨音:【……玲ちゃん、あなた洗脳でもされたの?弘樹と三年付き合って、手は繋いでもそれ止まり。で、今度は結婚しても同じ!?結婚して一緒に寝ないとか……そっちのほうがよっぽど不健全だわ!】玲:【じゃあ雨音ちゃんこそどうなの?友也さんと結婚して二年経ってるのに、まだ一度も同じベッドで寝てないじゃない】雨音:【……言い方!!なんか私が悪い人みたいじゃん!?でもね、私たちがそうなのは友也が拒否してるから。藤原さんが同じこと、許すと思う?】玲:【え、なんで許さないの?】玲はスマホを握りながら首をかしげた。だって秀一とは契約結婚だ。聞かなくても、彼の性格からしてそういう関係を望むとは到底思えない――そう信じて疑わなかった。そのとき、雨音から長いボイスメッセージが届く。60秒超え。玲はテキスト変換しようと画面をタップしたが、ちょうど車が再び減速帯を越え、軽く揺れる。次の瞬間――「はぁ!?藤原さん、あなたみ
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第40話

「そうか?」秀一の黒い瞳がゆっくりと動き、真っすぐに玲を見据える。「でも――彼女の言ったこと、全部が誤解ってわけじゃない。俺たちは契約のために結婚した。でも、実際に夫婦になった以上――パートナーとして君の欲求に応える義務はあると思う」一瞬、玲の呼吸が詰まった。彼の低く落ち着いた声が鼓膜を打った瞬間、胸の奥が妙にくすぐったくなる。それは肺に響くものじゃない。もっと深い場所――心臓を撫でられたみたいな感覚だった。視線を逸らし、窓の方へ顔を向ける。少しでも風を入れて、熱を冷まそうと窓を開けようとした、そのとき――「一日に何回すれば満足?」ドンッ!玲の手が滑り、額が窓ガラスにぶつかりかけた。「ふ、藤原さんっ、そ、そういうのは……っ、今じゃなくて!あとで!あとで話しましょう!」心臓が早鐘を打つ。弘樹と三年間付き合っても、そんな話題すら一度もしたことがなかった。だから玲には、そんな経験、あるわけがない。玲が必死にしどろもどろになるのを見て、秀一は喉の奥で低く笑ったように胸を震わせた。そして意味深に頷く。「わかった。……じゃあ一日何回か、決めたら教えてくれ」「……」返す言葉もなく、玲はやっとの思いで窓を開けた。ひんやりとした風が頬をなで、火照った顔を冷やす。――そういえば、さっき、秀一が笑ってた……?……けれど考える暇はなかった。役所の前に車が停まったのだ。車を降り、番号札を取り、並んで座る。今日は平日だからか、新婚カップルも少ない。ほんの十分足らずで、二人は手続きを済ませた。その後、秀一は静かに結婚指輪を取り出した。玲の左手の薬指に、その銀色の輪が滑り込む。指先に触れたリングはまだ少し冷たいはずなのに、秀一の体温にすっかり温められていた。その温もりが、胸の奥まで染み渡る。込み上げる熱に、玲の目がわずかに潤んだ。この瞬間を十三年間、何度夢見たことだろう。だが、隣に立つのは、彼女が一度は自分の「光」だと信じた男ではない。それはそれでよかった。彼女は過去を断ち切り、新しい人生を選んだ。これからは前を向いて歩いていく。玲は涙を拭い、しっかりと顔を上げる。その視線の先には、深く澄んだ黒い瞳。その瞳はまるで、ずっと前から自分を映していたかのよう
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