All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

司野が言った。「美宜に嫉妬する必要はない。俺にとって彼女は、家族同然の存在でしかない。そこに愛情はないんだ」素羽は鼻で笑った。「分かっているわ。あなたの愛情はすべて、美宜のお姉さんに捧げられたものね」彼の愛情など、あの姉妹にきれいに振り分けられている。なんとも感心するわ。司野は素羽を射抜くように見つめた。「お前は俺と結婚する前から、俺に恋人がいたことを知っていたはずだ」その言葉に、素羽は一瞬言葉を失い、表情が凍りついた。そうだ。彼女は司野の過去を知り、そのすべてを受け入れたうえで嫁いだのだ。数年前の自分は、司野と結婚できるのなら死んでも悔いはないとさえ思っていた。そして今、すべてが変わってしまった。結局のところ、自分は「欲」というものに勝てなかったのだ。司野は諭すように続ける。「あれは俺の過去だ。否定することはできない。お前はそれを受け入れなければならないし、受け入れるしかないんだ」素羽は沈黙した。皮肉を言う気力さえ湧かなかった。なぜなら、一番皮肉なのは自分自身だからだ。二人の関係が壊れたのは、彼女が「初心」を忘れてしまったからにすぎない。司野は、最初から最後まで何も変わっていない。彼は自分を愛していないし、愛したことなど一度もないのだ。——個室を出て間もなく、利津のスマートフォンが鳴った。着信画面を見て一瞬ためらったが、結局突き放すことができず、通話ボタンを押した。次の瞬間、美宜の声が響く。「谷川さん……」「そっちはもう夜だろう。どうしてまだ起きてるんだ?」利津が話題を逸らそうとすると、美宜はすぐに本題を切り出した。「司野さんはどうですか?私が帰ることを許可してくれたのですか?」利津は言葉を濁す。「美宜ちゃん……あの島は気候がいいんだ。しばらくあそこで過ごすといい。北町は最近冷え込んでいて、体に良くない。暖かくなったら、すぐに迎えに行かせるから」美宜の声に、かすかな嗚咽が混じった。「……司野さん、私が帰るのを許してくれないんですか?」「泣くなよ。司野だって、君の体を心配してのことなんだ」美宜はそれ以上、利津を困らせることはしなかった。「分かっています。司野さんが私のためにしてくれていることは……ただ、ここでの生活に慣れないだけです。お姉さんがかつて暮らしていた街に行きたいんです
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第282話

自分の心をそっと引き戻した素羽は、今の結婚生活を三十六度の白湯のようだと感じていた。熱くもなく冷たくもなく、ただ喉を通り過ぎていくだけの温度。仕事を辞めていても、素羽は忙しかった。ひとたび愛という幻想から目覚めれば、人は現実の足場を固め始めるものだ。なるべく清人を避けるようにしていたが、狭い人間関係の中では、どうしても顔を合わせてしまう。距離を置こうとする素羽に、清人が声をかけた。「友人に対しても、顔を合わせないように避けて通るつもりかい?」その言葉に、素羽は足を止めた。ここで立ち去れば、あまりに無情に映るだろう。「そんなつもりは……」清人は少し寂しげに言った。「友人関係すら、終わらせようとしているのかと思ったよ」実際、素羽にそのつもりはなかった。ただ、今の清人とどう接していいのか分からなかったのだ。友情は愛情ほど深くはないが、それでも不要な火種にはなりたくない。微妙な距離感を保つのに苦心するくらいなら、いっそ連絡を絶った方がいい。素羽はそう考えていた。「先輩は、いつまでも私の大切な友人よ」清人はそれ以上素羽を困らせることなく、話題を変えた。「亜綺が港町へ帰ったそうだが、何か心当たりはないかい?」その名を聞いた瞬間、素羽の顔から穏やかな表情が消えた。彼女が洋介たちと共謀して仕掛けた卑劣な真似を、忘れるはずもなかった。素羽の変化に気づき、清人は続けた。「やはり君が原因だったのか……あの子に何かされたか?」亜綺は何の挨拶もなく、突然退職した。清人自身、彼女の強引な好意には辟易していたため、いなくなったこと自体には内心安堵していた。だが、紹介者である母親に、わざと追い出したのではないかと疑われるのは不本意だった。真紀は、亜綺が自ら辞めたとは信じず、息子が裏で手を回したのだと思い込み、亜綺の実家にまで事情を聞きに行ったという。しかし、亜綺の家族は「本人の都合で辞めた」と曖昧な説明を繰り返すばかり。その態度がかえって真紀の疑念を深め、清人は散々母親に叱り飛ばされる羽目になった。不愉快に感じた清人は、独自に亜綺の周辺を調べた。なぜ亜綺が北町を去ったのか。詳細は不明だが、須藤七恵の祝宴に出席した後、その日の深夜、父親に連れられるようにして逃げるように港町へ戻ったことまでは突き止めた。何事もなか
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第283話

清人と別れた後も、素羽は景苑別荘へ戻る気にはなれなかった。今の彼女にとって、司野の痕跡が至るところに残るあの場所は、あまりにも居心地が悪かった。静かなカフェを見つけて仕事をし、夕食も外で済ませた。日が落ち、人々が家路を急ぐ頃になって、ようやく彼女はパソコンを片付け、重い足取りで景苑別荘へと向かった。道すがら、風船を売っているのを見かけ、ふと童心に返ったように自分用に一つ買い求めた。景苑別荘。森山が休みのため、家の中は真っ暗だった。素羽はそれを特に不思議とも思わず、ドアを開けて靴を脱ぎ、中へと入った。その時、リビングの闇の中から、突如として司野の声が響いた。「……どうして、こんなに帰りが遅いんだ」素羽は飛び上がるほど驚き、思わず悲鳴を上げそうになった。この人、頭がおかしいんじゃないの?真夜中に幽霊の真似でもしているつもり?素羽は答えず、冷ややかに問い返した。「私には、もう外出の自由さえないのかしら?」司野は重ねて問いただす。「こんな時間まで、外で何をしていた」素羽は無視して立ち去ろうとしたが、司野に強く腕を掴まれた。「……聞いているんだ」「何をしようが勝手でしょう。放して」素羽はその手を振り払った。犬にだって外を散歩する自由があるというのに、一人の人間である自分が、なぜ彼に自由を制限されなければならないのか。司野は、素羽が手にしている風船に視線を落とした。その瞳に、昏い光が宿る。以前の素羽なら、こんな幼稚なものを好むことはなかったはずだ。司野は一束の写真を取り出し、彼女の前に突きつけた。「彼には近づくなと言ったはずだぞ」写真に写る自分と清人の姿を見て、素羽の顔色が変わった。彼女は司野を鋭く睨みつける。「……あなた、私を尾行させていたの?」スマートフォンの位置情報だけでは飽き足らず、人を使って監視までしていたのか。「お前は俺の妻だ。お前の言動は、お前一人だけのものじゃない。俺の、そして須藤家の名誉に関わる。祝宴の件があったばかりだ。これ以上、須藤家の評判を落とすような真似は見たくない」素羽は鼻で笑った。「司野、その言葉、そっくりそのまま自分自身に言ったらどう?私はやましいことなんて何一つしていないわ。あなたみたいに、四六時中別の誰かを想っているわけじゃない。それに、須
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第284話

底冷えするほどの絶望は、人に反撃する気力さえ奪い去る。「……ごめんなさい、私が悪かったわ。亡くなった方のことを持ち出すべきではなかった。謝るわ、失礼なことをした」態度を一変させた素羽の言葉は、司野の怒りを鎮めるどころか、かえって神経を逆撫でした。それはあてこすりや皮肉にしか聞こえなかったのだ。突如、感情を失くした機械のように、素羽はその日の行程を淡々と報告し始めた。「朝、家を出て先生にあった。その後、偶然先輩に会ったので、少しお話を。別れた後は一人でカフェへ行って仕事をし、日が暮れたので帰宅した」言い終えると、彼女は瞬きひとつせず彼を見据える。「以上です。他に何かお聞きになりたいことは?ご所望であれば補足しますが」二人の間の空気は、瞬く間に息もできぬほど張り詰めた。司野の呼吸が荒くなる。その瞳には、隠しようもない苛立ちが色濃く滲んでいた。まるで与えられた指令を完了した機械のように、素羽は一方的に会話を打ち切った。「……他に聞きたいことがないのなら、もう休むわ」彼の言い分など、もはや聞く耳を持たなかった。素羽は背を向けると、そのまま二階へと上がっていく。その遠ざかる背中を睨みつけ、司野は眉間の皺を一層深くした。寝室に戻り、素羽は手にした風船を見つめた。これほど純粋なものは、やはり自分のような人間には似つかわしくない。そう思うと、彼女は窓辺に寄り、風船を夜の闇へと解き放った。シャワーを浴びてベッドに潜り込むと、糸が切れたように眠りに落ちた。司野がいつ寝室に入ってきたのか、素羽は気づかなかった。気づいたのは、彼の愛撫によって意識の淵から引きずり戻された時だった。目を開けた時には、すでに事は始まっていた。司野には、安眠を妨げたことへの罪悪感など微塵もない。さも当然といった口ぶりで告げた。「……そろそろ子作りの時期だろう」「抗えぬなら楽しめばいい」とはよく言ったものだ。だが、それは欺瞞に満ちた慰めに過ぎない。同意なき交わりは、いかに己を偽ろうと、一片の快楽さえもたらしはしないのだ。素羽は抵抗こそしなかったが、悦びに応えることもない。まるで命を抜かれた魚のように、指一本動かさず横たわっているだけだった。まともな男であれば、そんな『死体』を抱いて悦に入るはずもない。素羽の無反応は、司野の内に不満の澱を
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第285話

昨夜の執拗な行為のせいで、素羽は翌朝ひどく寝坊してしまった。もっとも、今は仕事もない。遅く起きたところで、困ることなど何もなかった。ベッドから這い出し、彼女が真っ先にしたことは避妊薬を飲むことだった。子供など、孕むつもりは毛頭なかった。「……何を飲んでいるんだ?」不意に背後から司野の声が響いた。素羽の身体が一瞬強張ったが、すぐに平静を装う。司野はすでに素羽の目の前まで歩み寄っており、視線は彼女自身から、その手にある薬の箱へと移っていた。「……何の薬だ、それは」素羽は落ち着き払った声で答えた。「前にも言ったでしょう、ビタミン剤よ」司野は彼女の手から薬箱を取り上げ、英文の成分表に目を通した。確かに、ビタミンDを補給するためのサプリメントだった。「これは、いつまで飲み続けるつもりだ?」素羽は強張っていた拳をそっと解いた。「……この一箱を飲み終えたら、もういいわ」「もう飲むな。薬には多かれ少なかれ毒がある。食生活で補えるよう、森山に言っておく」素羽は拒絶しなかった。薬箱を置くと、司野は素羽の手を引き寄せた。「下に降りて朝食にしよう」素羽は握られた手を見つめ、振り払いたい衝動に駆られたが、結局それを飲み込んだ。ダイニングにて。司野は森山に、素羽のための食事療法について指示を出した。森山は「かしこまりました」と何度も頷き、顔には絶え間ない笑みが浮かんでいる。主人が奥様を気遣っているのを見て、二人の仲が睦まじいと信じ込み、心から喜んでいるようだった。そこへ、梅田が薬膳の器を運んできた。「奥様、お薬膳の時間です」薬膳とは名ばかりで、実際には薬に近い。立ち上る漢方の匂いに、素羽は吐き気を催した。彼女は一切の迷いなく言い放った。「下げて」梅田は、まるで規律を守らせる教育係のような態度で、素羽に圧をかける。「これは、琴子様からのお達しでございます」素羽は冷ややかに彼女を見上げた。「下げて、と言ったのよ」それでも梅田が固執しようとした次の瞬間、素羽はスープの器を力任せにひっくり返した。汁が飛び散り、器が床に叩きつけられて甲高い破裂音を響かせる。梅田は思わず悲鳴を上げた。「これは琴子様が、わざわざ特別にご用意されたものなのですよ!」琴子が用意したから何だというのか。
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第286話

空港のラウンジで、素羽は刻一刻と過ぎていく時間を見つめていた。かつては司野の姿が現れるのを心待ちにしていた自分がいた。だが今は違う。いっそ彼が約束を破ってくれればいいとさえ願っていた。そうすれば、好きでもない相手と、好きでもない旅行に付き合わずに済むからだ。しかし、そんな淡い期待は、いつも無情に裏切られる。司野は現れた。腕時計に目をやり、ふうと息をつくと、安堵したように微笑む。「……遅刻はしていないな」素羽の表情に動揺はなかったが、胸の内には静かな落胆が広がっていた。司野は彼女の手を取った。「行こう、搭乗だ」八、九時間のフライトの間、素羽はほとんどを眠って過ごした。M島に降り立ったのは、現地時間で午前五時過ぎ。ホテルに到着する頃には、外はうっすらと白み始めていた。機内で休んでいた素羽とは対照的に、司野はほとんどの時間を仕事に費やしていた。眠りで回復した素羽に比べ、彼の顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。素羽は外を散策したかった。司野と同じベッドで眠る気にはなれなかった。だが、長年「俺様モード」を全開にして生きてきた男が、他人の意見に耳を貸すはずもない。司野は素羽を抱き上げると、そのままベッドに放り込み、手足で絡め取った。「……少し、一緒に寝てくれ」「もう十分寝たわ。眠くないから、あなた一人で寝て」素羽は起き上がろうともがいた。司野は彼女を見据える。「……本当に眠くないのか?」素羽は頷いた。「ええ、眠くない」次の瞬間、司野は身を翻して素羽の上に覆いかぶさった。「……なら、お前を眠らせるようなことをしてやる」言葉と同時に、司野の手が服の下へと滑り込む。部屋にはほどなくして、艶を帯びた音が満ちていった。一頻りの情事の後、素羽は文字通り疲れ果てていた。司野は彼女を抱き寄せたまま、満足げに深い眠りへと落ちていった。次に目を開けたとき、素羽の耳に届いたのは波の音だった。真っ青な空と真っ白な雲が海面に映り込み、まるで一枚の絵画のような光景が広がっている。「やっとお目覚めか」司野は彼女の隣に横たわり、片手で頭を支えながら、もう一方の手で彼女の滑らかな腰元をなぞっていた。環境のせいだろうか。ここにいる司野は、いつもより表情が穏やかに見える。「……起きろ、食いしん坊のナマケモ
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第287話

女は、つくづく感傷的な生き物だ。素羽も例外ではなかった。かつての彼女にとって、司野が自分のためにこんな真似をしてくれるなど、望むことさえ許されない贅沢だった。以前の彼なら、たった一度の微笑み、一度の抱擁、あるいは簡素な「おはよう」の一言を向けられるだけで、素羽は自分が世界で一番幸せな女だと信じ込むことができた。今日の彼が見せているような、自分だけに向けられた情熱的な献身など、想像の域を遥かに超えていた。レストランの照明があまりにも眩しく、素羽は急に視界が痛むのを覚えた。抑えきれない涙が、静かに瞳から溢れ出す。彼女は顔を背け、手の甲で乱暴にそれを拭った。「I need your love. God speed your love to me……(君の愛が必要だ、神よ、彼女の愛を僕に届けてくれ)」歌声が途切れ、余韻を残してピアノの音が止んだ。周囲の客席から惜しみない拍手が沸き起こり、羨望の眼差しが一斉に素羽へと注がれる。他人の目には、自分はこれ以上なく幸せな妻に映っているのだろう。だが、胸の内に巣食う苦しみを知っているのは、自分自身だけだった。素羽は周囲に合わせるように、司野へ向けて静かに拍手を送った。ステージを降りてきた司野が、柔らかな笑みを浮かべて尋ねる。「……気に入ったか?」熱を帯びた視線を浴びながら、素羽は「過去の自分」に代わって答えた。「……ええ、気に入ったわ」その言葉を聞き、司野の口角はさらに深く持ち上がった。新婚旅行の地は、どこまでもロマンチックだった。大輪の花火が咲き乱れ、夜空を鮮やかに染め上げる。司野は背後から素羽を包み込むように抱きしめ、二人で空を見上げた。「……素羽、これからはお前を大事にする」その甘い響きが、素羽の心の琴線を激しく揺らした。心臓が震える。彼女は目を閉じ、胸の奥で渦巻く感情を必死に押し殺した。不意に、唇に柔らかな感触が落ちる。司野がキスをしてきたのだ。素羽は目を開けぬまま、その感触を、その熱を受け止め、静かに応えた。見知らぬ土地、見知らぬ環境、そして愛に満ちたこの場所で、素羽は情動に身を委ねることを選んだ。砂浜、大海原、そして白銀の月。ホテルの壁に映し出された二人の影が悦楽に交錯する。室内の温度がじりじりと上昇していくさまは、この南国
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第288話

それもまた、かつて素羽が抱いていた、ささやかな願いの一つだった。司野は迷うことなく、プライベートジェットで彼女をT国へと連れて行った。目的地に降り立った瞬間、素羽の胸は期待に高鳴った。冷静でいようと言い聞かせても、体は正直で、その鼓動は抑えきれなかった。現地に着いたからといって、すぐに飛べるわけではない。翌朝の午前四時過ぎまで待たなければならなかった。観光地として名高いC市の街角を歩く二人は、どこにでもいる恋人同士のように手を繋いでいた。司野は、微笑みを浮かべる素羽を横目に見て、楽しげに訊ねた。「そんなに嬉しいか?」アイスクリームを頬張りながら、素羽が答える。「ええ、嬉しいわ」「甘いか?」「ええ、甘いわよ」「俺にも味見させてくれ」素羽がアイスを差し出そうとした、その瞬間だった。司野が求めたのは、アイスではなかった。彼は素羽の顎をくいと持ち上げ、そのまま唇を奪った。強引にこじ開け、侵し、独占する。すべてを味わい尽くしてから、ようやく唇を離す。司野は、濡れた彼女の唇を指でなぞり、口角を上げた。「……ああ、本当に甘い」キスの余韻で目尻を赤く染めた素羽は、彼の手を払いのけた。彼に恥じらいがなくとも、自分にはある。「照れているのか?」司野は笑いながら後を追う。素羽は答えず、ただ前を向いて歩き続けた。司野は大股で追いつき、彼女の手をぐいと掴む。「そんなに急いでどうする。迷子になっても知らないぞ?」周囲の通行人がこちらを見て笑っている気がした。見せ物にされる趣味はない。素羽は司野を引っ張るようにして、足早にその場を離れた。司野は終始笑顔を崩さず、素羽に引かれるまま歩いた。バカンスの数日間、二人は毎晩のように愛し合っていた。今日も例外ではない。まるで、持てるすべての愛を、この異国の地で使い果たそうとするかのように。情事の後、素羽は彼の腕の中で深い眠りに落ちかけていた。まどろみの縁で、彼女は釘を刺すのを忘れなかった。「……目覚まし、忘れないでね」そう言うなり、素羽は意識が途切れるように眠った。司野は微笑みながら、素羽の腰の柔らかな部分を悪戯っぽく摘んだ。それでも素羽は反応せず、司野もまた満足げな表情で彼女を抱き寄せ、眠りについた。午前四時、アラームが鳴り響いた。未明まで睦み合ってい
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第289話

「司野――!」遠ざかる背中に向かって、素羽はありったけの声を振り絞って叫んだ。だが、司野の決然とした後ろ姿は振り向くこともなく、そのまま彼女の脳裏に焼き付き、心の奥深くに刻み込まれた。周囲の視線が一斉に突き刺さる。それはかつて向けられていた羨望ではなく、今はただ、憐れみと同情の色に染まっていた。素羽が望んだのは、ただ一つの夢を叶えること。この五年の結婚生活に区切りをつけ、別れを告げるための、ささやかな儀式だった。それなのに司野は、いつも期待に満ちた彼女の心を、容赦なく打ち砕く。素羽はうなだれた。涙がぽつり、ぽつりと地面に落ち、土の中へと吸い込まれていく。力なく口角を上げたその瞳には、自嘲の色が滲んでいた。一時間の熱気球の旅は、長くもあり、短くもあった。後悔と失望のうちに終わったこの旅とともに、素羽の胸の中でも、司野との短い婚姻関係に終止符が打たれた。ホテルに戻ると、残されていたのは司野の荷物だけだった。よほど慌ただしく発ったのだろう。素羽は自分の荷物をまとめ、チェックアウトを済ませた。ホテルの下では、東洋系の顔立ちの男が待っていた。「須藤様のご指示で、空港までお送りします」ご苦労なことね。あんなに忙しい最中に、わざわざ私の手配までしてくれるなんて。素羽は車に乗り込み、空港へ向かうと、北町行きの最短の便を買い求めた。北町に降り立ったのは、午前四時。空港を出ると、そこには岩治が待っていた。岩治は歩み寄り、黙って荷物を受け取った。「奥様、社長のご指示で、ご自宅までお送りします」明らかに疲労の色が濃い岩治を見て、素羽は訊ねた。「戸田さん、疲れていないの?」岩治は一瞬言葉に詰まったが、すぐに愛想笑いを浮かべた。「……いえ、これが私の仕事ですから」「美宜は、死にそうなの?」岩治は適切な言葉を探したが、命に関わることゆえ、ありのままを告げることにした。「……美宜さんが手首を切ったんです。社長も、理由もなく途中で席を立ったわけではありません」この件の一切を任されている岩治は、事の経緯を誰よりも把握していた。傍観者として、彼は素羽の境遇に同情を禁じ得なかった。だが、何かを言える立場ではない。主人の選択を左右することなど、彼にはできないのだ。彼に許されているのは、命じられた役
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第290話

司野は煙草の灰を軽く落とすと、昏い眼差しのまま手をひと振りし、無言で医師を下がらせた。窓際で最後の一吸いを終え、白い煙がゆっくりと口元から溢れる。吸い殻を押し潰すと、彼は静かに主寝室へ足を踏み入れた。ベッドの上では、美宜が驚くほど青白い顔で横たわっていた。手首には厚手の包帯が巻かれ、ガーゼには傷口から滲んだ血が赤く浮かび上がっている。司野の姿を認めた瞬間、美宜の瞳に涙が溜まった。「司野さん……」掠れた、か細い声がこぼれる。司野は瞬きもせず、美宜を凝視した。部屋は静寂に沈み、その沈黙がどれほど続いたのか。美宜が「もう口を利いてくれないのでは」と不安に駆られた頃、司野はようやく口を開いた。「帰りの便を手配した。お前も一緒に連れて行く」その言葉に、美宜の瞳にぱっと光が宿った。「本当?北町に帰れるのね!」「ゆっくり休め」司野はそれだけ言うと、背を向けて部屋を出た。今の美宜にとって、司野の冷淡さなどどうでもよかった。この忌々しい島を離れられるという喜びで、胸はいっぱいだった。包帯の巻かれた手首を見つめ、瞳に深い色が差す。――この血、流した甲斐があったわ。飛行機は夜に離陸し、翌朝、北町に降り立った。空港から同じ車に乗り込んだ司野は、道中、美宜に何を話しかけられても終始目を閉じたまま休息に徹し、言葉を交わそうとはしなかった。美宜もそれ以上は追及しなかった。戻ってこられたのだから、話す機会はいくらでもある。住まいに到着し、美宜が「中で少し休んでいかない?」と声をかけた、その時だった。司野が答えるより先に、内側からドアが開いた。「美宜ちゃん!」声を上げたのは、美宜の母・翁坂淳子(おきさか じゅんこ)だった。美宜は驚愕の声を漏らす。「お母さん?どうしてここに……」そこには母だけでなく、父・翁坂寛(おきさか ひろし)の姿もあった。淳子は不憫そうに娘を抱き寄せる。「この馬鹿な子……なんて無茶なことを。痛かったでしょう?本当に、寿命が縮まる思いだったわ」美宜は戸惑いを隠せない。「だから、どうして二人がここにいるの?」寛が答えた。「司野くんが、私たちをここに呼んでくれたんだ」そう言ってから司野に向き直り、穏やかな表情で続ける。「司野くん、疲れたろう。中で休んでいきなさい」だが
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