All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 261 - Chapter 270

454 Chapters

第261話

休養?謹慎処分じゃなくて?友人として、亜綺は諭すように言った。「美宜、やっぱり司野お兄さんとは別れた方がいいんじゃない?」亜綺から見れば、司野はまだ素羽に未練があるように見え、離婚する気配はまるでなかった。このままでは、美宜は一生愛人という立場のままで終わってしまうのではないか――そう言いたかったのだ。美宜は途端に声を荒らげた。「どうして別れなきゃいけないの?司野さんが好きなのは私よ。素羽はただ妻っていう肩書きがあるだけ。司野さんの心の中では取るに足らない存在なの。離婚なんて時間の問題よ」亜綺はその剣幕に驚き、思わず顔をしかめた。なぜ自分が怒鳴られなければならないのか。ひとしきり感情をぶつけたあとで、美宜は自分が激昂しすぎたことに気づいた。亜綺の性格を思えば、きっと気を悪くしているに違いない。美宜はすぐに話題を切り替えた。「そういえば、清人さん、司野さんに殴られたんだって」案の定、亜綺の意識はあっさりとそちらに引き寄せられた。「いつのこと?どうしてそんなこと知ってるの?」美宜は、都合のいい部分だけを切り取って話した。「素羽が清人さんの人脈を使って司野さんと離婚しようとして、それが司野さんにバレたの。清人さんは巻き込まれただけよ」亜綺は言葉を失った。先日、司野が事務所に押しかけて清人を殴った出来事が脳裏をよぎる。まさか、あれも素羽が原因だったというのだろうか。美宜は畳みかける。「清人さん、今日、仕事に来てないでしょ?」「……そうだよ」「顔が傷だらけで、家で療養してるの」美宜は尾ひれをつけた。「素羽さんが離婚したがってるのは、きっと清人さんに目をつけてるからよ。家柄もいいし、次の相手として申し分ないものね」その瞬間、亜綺の顔色がさっと変わった。「素羽が……清人さんを誘惑しようとしてるって言うの?」「さあ、どうかしら。でも、清人さんを動かしてまで須藤家と敵対させるんだもの。素羽が何もしないわけないと思うわ」亜綺は感情的に言い返した。「清人さんが人妻を好きになるわけない!」その言葉が美宜に向けられたものなのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか、亜綺にも分からなかった。美宜は静かに続けた。「清人さんは品行方正な人だけど、だからって素羽によこしまな考えがないとは限らないわ。あの人、猫をかぶって
Read more

第262話

病院を出てからというもの、素羽は司野に支配されているという恐怖から、ついに逃れることができなかった。「お義父さん、何事もなかったんだ。嬉しくないのか?」狭い車内に響く司野の声は、まるで地獄の悪鬼の囁きのようで、彼女の体温を奪っていった。素羽は無表情のまま、精気を吸い取られた人形のように答えず、かえって問い返した。「……嬉しい?私ごときが?」自分は司野の妻であるように見えて、実際は彼が買い与えた一体の操り人形にすぎない。自分の意思を持つことは許されず、すべて彼の命令に従わなければならない。逆らえば分解され、組み立て直され、新たな命令を打ち込まれる。けれど、自分は操り人形ではない。血の通った人間だ。ロボットのように振る舞うことなど、できるはずがない。司野は淡々と言った。「構わない。お前が言うことを聞けば、俺たちは前と同じように、すべて元に戻る」素羽は、泣くよりも痛々しい笑みを絞り出した。彼の言う「すべて元通り」とは、ただの思い込みにすぎない。二人がかつての関係に戻ることなど、もう二度とない――素羽はそれを知っていた。松信は刑務所を出ると、真っ先に司野のもとへ感謝を述べに来た。自分の「良い婿」が裏で手を回してくれたのだと。やせ細った松信の姿を見て、素羽はただ荒唐無稽で、滑稽だと感じた。松信が味わった苦難のすべてが、司野という黒幕の仕業だったことを、彼自身が一番よく分かっていたはずなのに。それでも彼は、恨むどころか感謝しに来たのだ。なんと可笑しく、なんと皮肉なことだろう。二人を見送る際、松信はさらに素羽に言い含めるように念を押した。「司野と仲良く暮らせ。問題を起こすな、騒ぎも起こすな。あれほどの地位の男なら、外に何人か女がいたって普通だろう?もともと愛で結ばれた結婚でもないのに、夫が一途でいろなどと、何を馬鹿なことを考えているんだ。さっさと子どもを産んで、須藤家の奥様の座をしっかり守れ。そうすれば、お前の子どもが次の後継者になる。自分の立場を守っていればいい。そんな無意味なことをしようとするな!」かつて松信は、祐佳にも須藤夫人の座を得る可能性があるかもしれないなどという妄想を抱いていた。だが今回の件で、その考えは完全に打ち砕かれた。彼ははっきりと理解したのだ。司野は素羽という妻に非常に満足してお
Read more

第263話

吐き終えた素羽は、床に崩れるようにへたり込んだ。体はわななき、手足の感覚は遠のき、背筋を冷たい汗が伝っていく。素羽は首にかかる鎖のごときネックレスを引きちぎるように外すと、忌々しげに傍らへ投げ捨てた。荒い息遣いがようやく静まると、素羽は顔を洗い、口を漱いでからベッドへと倒れ込む。そうして身を丸め、布団を固く身体に巻き付けた。——その夜、素羽は司野と揃いの色調のドレスに身を包み、共にパーティーへと赴いた。司野が持つ地位と、恵まれた容姿はどこにあっても際立つ。パーティー会場に足を踏み入れた途端、挨拶をしようと人々が次々と彼らの元へ集まってきた。司野はさも思いやりのある夫であるかのように、素羽を人々に紹介することも忘れなかった。「こちら、妻の素羽です」その一言を皮切りに、素羽は四方からお世辞の言葉を浴びることになった。「本当に、絵に描いたような美男美女で。実にお似合いのご夫婦ですね」耳に心地よい言葉が、湯水のごとく溢れ出る。だが、何も考えずに口をついて出るからこそ、そのどれもがひどく安っぽく響いた。なぜ司野が今になって自分を公の場で紹介し始めたのか、素羽にはまるで理解できなかった。彼は「昔に戻る」と言ったはずだ。それは、自分をこれまで通り日陰の存在にしておくという意味ではなかったのだろうか。考えても答えの出ない問いは、早々に諦めるに限る。司野は取引先と仕事の話があると言い、素羽をその内の一人の妻である、田村恵美(たむら めぐみ)という婦人に預けた。恵美は人好きのする笑みを浮かべ、親しげに素羽へ話しかけた。「今度お時間があるとき、ご一緒にフェイシャルでもいかが?」そう愛想良くされれば、無下に断ることもできない。相手の丁寧な物腰に応じ、素羽もまた微笑みを返して相槌を打った。「ええ、ぜひ」二人は会場の隅で腰を下ろし、しばし茶を楽しんだ後、連れ立って化粧室へと向かった。しかし、その道すがら、密やかな逢瀬に耽る男女の姿を目の当たりにしてしまう。「田村さん、今日の同伴者は私だって約束したじゃない。ひどいわ、この嘘つき」知的な装いの女が、まるで蛇のように男の身体に絡みついている。男はそれを振り払うでもなく、まんざらでもない口調で応える。「また今度な」「じゃあ、埋め合わせはしてくださるのね
Read more

第264話

「気分が悪いのか?」司野は歩み寄り、手を伸ばして彼女の額に触れた。「顔が真っ白だぞ」素羽ははっとしたように一歩退き、彼との距離を取る。司野は片眉を上げた。「どうした?」喉を鳴らし、素羽は拳を強く握りしめる。「あなたの勝ちよ」思い知らされた。自分の抵抗も画策も、彼にとっては所詮おままごとにすぎない。自分は一匹の蟻のような存在で、彼の手のひらの上では何ひとつ波紋すら立てられないのだと。司野はさらに近づき、無理やり彼女の指を一本ずつほどいて自分の指を絡め、逃がさぬようぎゅっと握り込んだ。「夫婦の間に勝ち負けなんてないさ。俺たちは一心同体だ」彼の手のひらは温かいはずなのに、素羽にはその温もりが少しも伝わらない。あるのはただ、骨の髄まで凍りつくような、底知れぬ寒気だけだった。帰り道、素羽は終始黙り込んでいた。景苑別荘。シャワーを浴び終えると、素羽は布団に潜り込み、体を小さく丸めた。寝室に聞き慣れた足音が響き、隣のマットレスが沈む。温かな気配が迫り、背後から腰に腕が回された。服の中に忍び込もうとする彼の手を押さえ、素羽は拒んだ。「体調が良くないの」「生理か?」その言葉と同時に、司野の手はすでにそこを探っており、何の妨げもなかった。素羽ははっきりと言い切った。「したくないの!」司野は彼女の体を自分の方へ向けさせた。闇が彼の瞳をいっそう濃く染め、低く、有無を言わせぬ声が落ちる。「お前にやった三日間の猶予は、とっくに過ぎている」落ち着くための時間は十分に与えた。駄々をこねるにも限度がある――そう言わんばかりの態度だった。今の素羽は、まるで深海に棲む微生物のように、あまりにも小さな存在だった。空には明るい月がかかり、窓の外では木の葉が揺れている。その物音に眠っていた鳥たちが驚き、一斉に飛び立って、木々がざわざわとざわめいた。一夜が明け、翌朝。司野は一足先に目を覚まし、素羽が起きた頃には、すでにトレーニングを終えてシャワーを浴びている最中だった。バスローブ姿で現れた司野が言った。「クローゼットから服を見繕ってくれ」素羽は感情のこもらない手つきで、適当に一着を選び出す。司野がネクタイを差し出すと、彼女はやはり機械のようにそれを受け取り、結んだ。「いつから瑞基に出社するつもりだ?人事には俺
Read more

第265話

「わしはまだ生きとるのに、いつもそんな悲壮な顔をしてどうしたんだ?」雅史にからかわれ、素羽は苦笑を浮かべて答えた。「……冗談はよしてくださいよ。縁起でもない」雅史の毒舌は他人に向けられるだけのものではなく、ときに自分自身さえも容赦なく巻き込む。「それはこっちのセリフだ。毎日毎日、まるでわしが明日にも死ぬみたいな顔をされちゃ、たまったもんじゃない」素羽はすぐに言い返した。「そんな顔、してません」雅史は横目で彼女を睨む。「鏡でも見てみたらどうだ?」最近気分が沈んでいる自覚はあったが、雅史の言うほどひどいはずはない――素羽はそう思った。核心には触れず、彼女は言った。「ただ、最近あまり休めてないだけです」雅史の毒舌はさらに勢いを増す。「毎日ゴミ溜めで寝てるようなもんだろ。最近どころか、この先ずっとまともに眠れるわけねえ。五感が全部ぶっ壊れない限りな」「……」素羽は言葉を失った。さすがにそこまでこき下ろす必要はないだろう。「さっさと帰って、自分の専門分野を腰据えて研究しろ。結婚しただけで才能を使い果たしたなんて……お前の今の実力で賞を取りたい?夢のまた夢だな」厳師は高弟を育てるというが、それでもここまで罵倒されて、傷つかずにいられる人間がいるはずがなかった。雅史のもとを出たあと、素羽は久しぶりに清人と顔を合わせた。視線が交わった瞬間、あまりの時間の隔たりに、素羽は少し目を瞬かせた。素羽は彼の顔に目を走らせた。傷はほとんど癒え、よほど注意して見なければ分からない程度だ。彼女は微笑み、自分から声をかけた。「最近、元気にしてる?」清人は直球で返す。「僕を避けてる?」「そんなことないよ」清人は一歩踏み込む。「じゃあ、どうして仕事を辞めたの?」「コンペのことに専念したくて」穏やかなはずの清人の目元に、ふっと影が差した。「素羽、僕たちはまだ友達だよね?」「ええ、友達よ」「だったら、職場に戻ってきてほしい」それは、清人が初めて素羽に向けて見せた、はっきりとした積極性だった。素羽は口元をわずかに引きつらせ、困ったように笑った。「先輩……」清人は声の調子を和らげる。「言っただろ。必ず助けるって。諦めるなって」素羽も本音を口にした。「清人先輩に迷惑をかけたくないし、巻き込むわけにも
Read more

第266話

「素羽、君にはもっと別の、まともな人生があるはずだ」清人は、素羽が表向きに受け入れている妥協の奥にある本心を、すでに見抜いていた。彼女は離婚したくないのではない。できないのだ。司野によって、すべての退路を断たれているから。ちょうどそのとき、一台の車が路肩に滑り込むように停まった。「奥様、社長がお迎えに上がるよう仰せです」現れたのは岩治だった。素羽は微笑みを浮かべた。「清人先輩、お先に失礼します」車に乗り込み、エンジンがかかる。街の景色と清人の姿が、窓の外で同時に遠ざかっていく。それと引き換えに、素羽の顔から笑みはすっと消え失せた。表情をこわばらせたまま、冷ややかな声で問う。「司野は、どうして私がここにいるって分かったの?」岩治はその言葉に、わずかな違和感を覚えた。奥様は、司野に行き先を伝えていなかったのだ。「司野は……私を尾行させているの?」問い詰める素羽に、岩治は即座に首を振った。「滅相もございません」もし尾行をつけるつもりなら、司野は必ず自分に命じる。岩治には、その確信があった。素羽は何かに思い当たったように、慌ただしく自分の体を探ったが、不審な追跡器は見つからない。一通り確認したあと、最後に視線が止まったのは、膝の上に置いたスマートフォンだった。尾行がないのなら、この持ち物以外に、司野が自分の居場所を把握する方法は思い当たらない。素羽は苦々しい表情を浮かべると、迷うことなく窓の外へスマートフォンを投げ捨てた。バックミラー越しにその様子を見ていた岩治も、同じ結論に至っていた。彼は心の中で、小さくため息をついた。同時刻、瑞基グループ本社。司野はタブレットに目を落としていた。画面上の赤い点が、突然点滅したまま動かなくなる。彼はわずかに眉をひそめた。数分経っても、赤い点はその場から動かない。司野はスマートフォンを取り、岩治に電話をかけた。「今、どこだ」岩治はバックミラー越しに、黙り込んだ素羽を一瞥し、事実だけを告げた。「景苑別荘へ向かう途中です」その言葉に、司野の瞳が鋭く光った。状況を察したのだ。「送り届けたら、会社に戻れ」このやり取りを聞き、素羽は確信した。やはり追跡器は、スマートフォンの中にあったのだ。肌に粟が立つのを感じる。司野は関係を修復
Read more

第267話

幸雄と七恵の誕生日は、須藤家にとってきわめて重要な行事である。今月末、七恵が八十歳の傘寿を迎えるにあたり、須藤家では盛大な祝宴の準備が着々と進められていた。気づけば、宴を三日後に控える時期になっていた。食事中、司野のスマートフォンが何度も鳴り響いたが、彼はすべてを拒否した。しかし、最後に届いた一通のメッセージが、彼の表情を一変させる。「二日ほど出張に行ってくる」そう告げられても、素羽はとくに反応を示さなかった。無言のままの彼女を見つめ、司野は思わず問いかける。「……何か言うことはないのか?」素羽は顔を上げ、冷ややかな視線を向けた。そして次の瞬間、事務的に口を開く。「森山さん」呼ばれて、森山が台所から顔を出した。「はい、奥様」「旦那様の出張の準備をしてあげて」「承知いたしました」森山は静かに頷いた。「準備はいらない」司野は素羽を凝視したまま、瞳に不快感をにじませた。「いいか。お前は俺が妻として迎えた女だ。置物になるために、ここにいるわけじゃない」素羽は何も言わず、ただ静かに司野を見つめ返した。司野はさらに続ける。「俺の衣食住に関わることは、お前が責任を持つべきだ」それは妻として扱うというより、家政婦として命じているに等しかった。素羽は箸を置き、立ち上がる。抑揚のない、機械的な声で言った。「出張先はどこ?服を詰めてくるわ」言葉どおり従ってはいるが、かつてとは天地ほども違うその態度に、司野の苛立ちは募る。「……もういい」吐き捨てるように言い残し、司野はスマートフォンを手に、そのまま家を出て行った。彼が去ると、素羽は何事もなかったかのように席へ戻り、食事を再開した。傍らで見ていた森山は、何か言いたげに彼女を見つめていたが、結局何も口にせず、視線を伏せた。――あれほど仲の良かった夫婦が、どうしてこんなことになってしまったのかしら……祝宴の前日になっても司野は戻らなかったが、素羽は気に留める様子もない。淡々と食事をし、やるべきことをこなし、自分の時間を過ごしていた。琴子が素羽のもとを訪ねてきた。「司野はどうしたの?」「知りません」琴子は眉をひそめる。「妻でありながら、知らないなんてことがあるの?」素羽は琴子を見つめ、静かな口調で言い返した。「あ
Read more

第268話

好奇心に抗えず、素羽はつい司野のスマートフォンの位置情報を開いてしまった。地図を見ただけでは、司野がどの国へ出張しているのか正確には分からない。そこで彼女は、楓華の知り合いである探偵に頼み、ピンポイントで所在を特定してもらうことにした。やがて、相手から調査結果が届く。「セイント・バーツ島だ。そこはほとんどがプライベートアイランドだよ」衛星写真を見つめる素羽の表情に変化はなかったが、内心では滑稽で仕方がなかった。その島の風景が、美宜から送られてきた写真と見事に一致していたからだ。わざわざ出張という嘘の口実まで用意して――司野も、ご苦労なことだ。親友の様子を見れば、何かを察しているのは一目瞭然だった。楓華は単刀直入に尋ねる。「その場所に、何か問題でもあるの?」素羽は隠すことなく答えた。「美宜が司野に囲われている場所よ。その島は」それを聞いた楓華は、泥でも食わされたかのような忌々しい表情を浮かべた。世間では「籠の鳥」というが、司野の場合は「島の鳥」か。恐ろしいほどの羽振りの良さである。だが、素羽の関心はすでに司野と美宜から離れていた。彼女は話題を切り替える。「司野から譲り受けた一画の店舗だけど、私の個人資産として処理するのを手伝って」かつて司野が、一度与えた婚姻中の財産を奪い返そうとした、あの男らしくない振る舞いを思い出し、素羽は今のうちに婚姻関係を利用して私腹を肥やし、正当に個人資産へ組み替えておこうと考えたのだ。楓華はその意図を察し、二つ返事で承諾した。「いいわよ、任せて。死ぬほど溜め込んで、死ぬほど使ってやりなさい。あんたが使わなきゃ、どうせ外の女に流れるだけなんだから」翌日、七恵の祝宴当日。司野は結局戻らなかったが、素羽は気にかける風もなく、一人で会場へ向かった。会場は多くの人々が行き交い、華やかな賑わいを見せている。そこへ琴子がやって来て素羽の腕を掴むと、歯噛みせんばかりの勢いで問い詰めた。「どうして一人なの?司野はどこ?今日が何の日か分かっているの!」今日は七恵の八十歳の誕生日だ。長孫である司野が出席しないなど、あってはならない。素羽はそっと腕を振り払った。「分かっています。おばあさんの祝宴ですよね。でも司野がそれを分かっているかどうかは、彼に聞いてください。おばあさんが大事な
Read more

第269話

幸雄が去った後、琴子は素羽に怒りをぶつけようとしたが、その前に素羽は背を向け、さっさとその場を後にした。吐き出しかけた怒りは喉元でせき止められ、琴子は周囲の目をはばかりながら、必死にそれを飲み込むしかなかった。素羽は庭へ出て電話をかけた。呼び出し音だけが虚しく鳴り、応答はない。義務は果たした。連絡がつかない以上、本人が現れなくとも、それは自分の責任ではない。「素羽さん」スマートフォンをしまった直後、背後から耳を劈くような、不快で吐き気を催す声が降ってきた。素羽の体が、反射的に強張る。振り向くと、洋介が何事もなかったかのような顔で立っていた。あの不快な視線が、舐め回すように素羽の体をなぞり、冷やかすように言う。「ピーチちゃん、久しぶりだな」その瞬間、素羽の瞳が揺れ、顔から血の気が失せた。「ピーチちゃん」という呼び方は、彼女にとって決して愛称などではない。かつて屈辱と欲情を押し付けられた、忌まわしい呼び名だった。その反応を見て、洋介は満足げに、悪意を滲ませた笑みを浮かべる。「まさか、ここまで出世してるとはな。今や『須藤家の奥さん』か。須藤家の連中は知ってるのか?お前が昔、俺たちの前で犬みたいに跪いてたことをよ」この男、私のことを思い出したの?素羽の体はこわばったままだったが、表情だけは必死に取り繕った。「誰に連れられて、ここに来たの?」洋介の素性で、この場に出席する資格があるとは思えない。美玲はまだ更生施設から出ていないはずだ。では、彼は誰の同伴で来たというのか。洋介は鼻を鳴らし、問いには答えなかった。「須藤家に食い込んで、ずいぶん強気になったもんだな」言葉とは裏腹に、視線は品定めするように素羽を追い続けている。やはり見間違いではなかった。かつての青臭さとは違い、今の素羽は熟した果実のようで、男の欲を露骨に刺激する。その剥き出しで卑猥な視線に、素羽の脳裏で忌まわしい記憶が蘇った。昔の洋介も、いつもこんな目で自分を見ていた。「私が須藤家の人間だと分かっているなら、さっさと消えなさい!」洋介は鼻で笑った。「お前の男は、外で愛人を囲ってるんだろ?須藤家でお前にどんな立場があるってんだ」そう言うと一歩踏み出し、彼女の顔に触れようと手を伸ばす。「昔馴染みだ。俺は慈悲深いからな。
Read more

第270話

亜綺と洋介が離れるのは早かったが、入ってきた素羽の目に、その姿ははっきりと映ってしまった。眉をひそめ、素羽の瞳に探るような色が宿る。あの男は、亜綺が連れてきたのか?なぜ二人が知り合いなのだろう。素羽の脳裏で、ばらばらだった点と点が繋がり、一本の線を結んだ。その先に浮かび上がったのは、ある女の名――美宜。彼女なのだろうか。洋介が、何の目的もなく現れたとは思えなかった。それどころか、自分を狙って来たとさえ感じられる。彼が何を企んでいるのか見当もつかず、素羽は、いっそのこと芽のうちに摘み取ることにした。警備員を呼び、内密にパーティーから追い出そうとしたが、その試みはすぐに遮られる。亜綺が琴子を伴って現れ、素羽の前に立ちはだかったのだ。「どうして私の友達を追い出そうとするの。今日はおばあちゃんの誕生祝いなのよ。騒ぎを起こすつもり?」素羽が口を開くより早く、琴子の怒りもまた、彼女に向けられた。「家でわがままするのはまだしも、ここはあなたが勝手気ままに振る舞っていい場所だと思っているの?」そう言って、琴子は警備員たちを下がらせた。さらに鋭い視線を向ける。「招待客を監視する暇があるなら、さっさと司野に連絡しなさい」洋介は去り際に、勝ち誇ったような、挑発的な視線を素羽に投げつけてきた。先手を失った以上、もはや大っぴらに洋介を追い出すことはできない。素羽はやむなく、自ら洋介を監視することにした。彼が動き出す前に押さえられるよう、何を企んでいるのかを見極めるためだ。亜綺のほうには、佳奈にも目を光らせておくよう頼んだ。宴は終始滞りなく進み、表向きには何の異変もなかった。洋介でさえ、大人しくしているように見えた。佳奈もやって来て亜綺の様子を報告したが、要するに「問題なし」という内容だった。素羽は、わずかに眉を寄せる。考えすぎだったのだろうか。物思いに沈んでいると、翔太が背後霊のように、いつの間にか背後に立っていた。「お義姉さん、あんなブス男をじっと見て、どうしたの?」「……」須藤家の人間は皆、幽霊のように付きまとうのが好きなのだろうか。翔太は答えなど待たず、独り言のように続ける。「なに、司野に刺激されて、変な趣味に目覚めたとか」そこへ佳奈が小声で割り込んだ。「違うんです。あの
Read more
PREV
1
...
2526272829
...
46
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status