All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話

「すまない」司野は腕に力を込め、素羽をいっそう強く抱き寄せた。素羽の瞳が、かすかに揺れた。鼻腔をくすぐるのは、微かでありながら確かな残り香。それは、美宜の体から漂っていた匂いと同じだった。――ご苦労なことね。あちこち飛び回って。しばらく経っても、腕の中の素羽は反応を見せなかった。司野は彼女が起きていることを察し、その体を自分の方へと向けさせた。「目を開けろ」素羽は動かない。司野は彼女の腰を軽く掴み、「起きているのは分かっている」と低く促した。「……」眠ったふりを貫くこともできず、素羽は重い瞼を押し上げた。司野は独白するように語り始めた。「美宜が手首を切って、大量に出血した。俺が行かなければ、彼女は死んでいた。一つの命なんだ。理解してほしい」「ええ、理解しているわ」素羽は短く答えた。司野は言葉に詰まった。あまりにあっさりと応じられ、かえって次の言葉を失ったのだ。「……本当に、理解してるのか?」素羽は淡々と言った。「理解できないと言えば、あなたは私の心が狭いとか、冷酷だと言うでしょう。でも、こうして理解していると言えば、嘘をついていると疑う。なら、どう答えるのが正解なの?理解していると言うべき?それとも、理解できないと?」「俺は、お前の本心が聞きたい」「ええ、本心よ。私はあなたをよく理解しているわ。美宜が死ぬということは、実質、二つの命が失われるということでしょう。あなたが彼女を助けに行ったこと、理解しているわよ」それは、司野が望んでいたはずの答えだった。だが、なぜか胸の奥に、不快なざわめきが広がった。「今回の埋め合わせは、次に必ずする」「いいえ、結構よ」素羽は即座に拒んだ。――もう、自分には思い残すことなどなかったから。「……怒っているのか?」「いいえ。コンペに参加するから、時間が取れないだけよ」「なら、コンペが終わってから、また行こう」「その時になったら考えましょう」素羽は、腰に回された彼の腕へと視線を落とした。「起きたいの。離してくれる?」戻ってくる前、司野は、素羽が激しく泣き叫ぶか、ヒステリックに詰め寄ってくるものと思っていた。まさか、これほど穏やかな態度で迎えられるとは、想像もしていなかった。本来なら望んでいた結果のはずなのに、いざそうなって
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第292話

旅行で数日を費やした分、司野も仕事に戻らなければならなかった。出勤前、彼は素羽にネクタイを締めさせ、結び終わると指先で自分の頬を軽く叩いた。それが何を意味するのか、素羽には痛いほど分かっていた。顔を上げ、彼の頬にそっと唇を寄せる。「これからは、出かける時はいつもこうしろ」司野が言った。「分かったわ」素羽は素直に答える。司野は満足げに彼女の頭を撫でた。「仕事に行ってくる」素羽は、夫の身を案じる良き妻のように玄関まで見送った。「気をつけてね」迎えに来た岩治は、睦まじい二人……いや、「睦まじく見える」二人の姿を目にし、自分は素羽ほど器の大きい人間にはなれないな、と感じていた。夫婦の平穏な状態は、表向きはうまく保たれていた。司野にとって、これは享受すべきであり、喜ぶべき結果のはずだった。それでも、どういうわけか、言葉にできない奇妙な違和感が拭えなかった。その日の夜、司野はまっすぐ帰宅せず、利津たちと会員制クラブで合流した。利津が煙草を燻らせながら訊ねる。「何をそんなに難しい顔をしてるんだ?仕事でトラブルか?」司野は酒を煽った。「いや」「じゃあ、なんでそんな顔なんだ?」仕事以外のことで、司野がこれほど葛藤を滲ませるのは珍しかった。司野は、この数日間胸に引っかかっていた違和感を利津に話した。利津は、それが素羽に起因するものだとは思いもしなかった。「あいつが物分かり良くなったんだろ?最高じゃないか。何を悩む必要がある?」「物分かりが良すぎるんだ」良すぎて、司野にはそれがどこか作り物のように感じられた。利津は気にも留めない。「自分の立場をわきまえて、振る舞い方を覚えただけだろう」――それこそが、素羽のあるべき姿だというわけだ。司野の眉間の皺は、消えなかった。すると、ずっと黙っていた亘が、ぽつりと口を開いた。「あるいは、素羽がもうお前を好きじゃなくなったのかもな」その瞬間、個室に短い沈黙が落ちた。利津が、冗談でも聞いたかのように笑う。「あいつの『好き』なんて、そんなに価値のあるもんかよ?」司野が冷淡に言い放つ。「愛情なんて必要ない。従順であれば、それでいい」亘は見透かしたように言った。「なら、何をイラついている?」「真実味がないんだ」亘は笑った。「お前が
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第293話

吐息がかかるほどの至近距離で、二人は向き合っていた。司野の、酒気を帯びた荒い息が素羽の顔に吹きつけられる。素羽はあからさまに眉根を寄せ、顔を背けた。だが、その顎はすぐに乱暴な手つきで掴まれ、無理やり正面を向かされる。彼の眼差しは、いかなる逃げ道も許さぬと告げていた。「答えろ」素羽は、粘つくような執着を宿したその瞳をまっすぐに見つめ返し、心の底からほとほと呆れ果てていた。「あなたが不要だと言ったものを、どうして今さら差し出さなければならないの?」その一言に、司野は一瞬、言葉を失う。素羽の、氷のように冷え切った、感情の揺らぎ一つ見せないその様に、司野の苛立ちは募るばかりだった。「誰がいらないと言った。お前の好意は、受け取ってやると言っている」そのあまりに理不尽で傲慢な物言いに、素羽は思わず乾いた笑いを漏らした。司野の眼光が鋭さを増す。「何がおかしい」素羽は、かつて司野が自身に投げつけた評価の言葉を、そっくりそのまま熨斗をつけて返した。「……あなたのその単純さに、つい笑ってしまったのよ」司野の眉間の皺が、さらに深く刻まれる。「『覆水盆に返らず』という言葉をご存じかしら?」素羽はまるで子供を諭すような口調で言った。「愛情など不要だ、ただ従順で、都合のいいだけの存在であれ、と。そう言ったのは、あなた自身よ。私は今、そのご要求に応え、あなたの望むままに振る舞っているだけ。一体、何がご不満で?どこが間違っていると仰るの?」司野は二の句が継げなかった。素羽の言葉は、紛れもない正論だった。だが、今の司野にはそれが刃のように突き刺さり、耐え難い苦痛をもたらす。司野は苦し紛れに、自らを正当化する言葉を捻り出した。「……俺たちの子供を、愛のない家庭で育てたくはない」その言葉に、素羽の胸には冷え冷えとした皮肉が込み上げた。「それなら、最初から期待しないことね。私たちが愛し合っていないのは、紛れもない事実なのだから。どうしても愛に満ちた家庭が欲しいというのなら、他を当たることね。あなたを心から愛してくれる女に、子供を産ませればいいわ」「素羽――ッ!」司野の低い怒号が、部屋の空気を震わせた。素羽は、彼の激情を静かに受け止めた。そこに卑屈な色も、怯えの色も、微塵もなかった。司野は、まるで真綿を打
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第294話

結局、司野が満ち足りたのかは定かではないが、素羽の身に残ったのは、不快感と鈍い痛みだけだった。満たされた男というものは、機嫌を直し、多少の良心を取り戻す生き物らしい。司野は初めて気まぐれな優しさを見せ、あろうことか彼女を抱きかかえて浴室へ運び、その体を洗ってやった。素羽の白く柔らかな肌は、少し強く掴まれただけでも、すぐに鬱血の痕が浮かんでしまうほどだった。司野の手つきは打って変わって優しく、穏やかな口調で告げた。「俺たちは夫婦だ。敵同士ではないのだから、そう角を立てるな」素羽は言われた通り、抗うことなく従順に答えた。「分かったわ」あまりに淡白な反応に、司野は返す言葉を失った。体を清め終え、二人は並んでベッドに横たわる。司野はまだ何か言いたげな様子だったが、素羽はすでに目を閉じており、時間も遅かったため、それ以上彼女の眠りを妨げることはしなかった。二人の時間はまだ始まったばかりだ。歩み寄る猶予はいくらでもある。関係を元の鞘に納めてみせるという、絶対の自信が司野にはあった。翌日。素羽は再び避妊薬を嚥下した。口中に広がる苦味に、思わず眉根を寄せる。司野が子を望む以上、彼が避妊に協力するはずもない。さりとて、自分が薬を飲み続けるのは得策ではなかった。長期にわたる服用は、確実に体を蝕んでいくだろう。己の身を守るため、素羽はひとつの結論に達した。避妊リングを入れることだ。意を決した素羽の行動は早かった。早速、今日中に病院へ行く心積もりをする。物思いに耽っていると、司野が目の前に立った。「そんなに苦々しげな顔で飲むくらいなら、そのビタミン剤はもうやめたらどうだ」素羽はハッと我に返る。司野はネクタイを彼女の手に握らせ、言った。「ビタミンDを補う方法は、薬だけではあるまい」素羽は手慣れた仕草で彼にネクタイを結んでやる。避妊リングを入れれば、もう薬を飲む必要もなくなる。「ええ、そうね。もうやめるわ」司野を送り出したその足で、素羽もすぐに身支度を整え、病院へと向かった。瑞基グループにて。司野が秘書室のそばを通りかかった時、ちょうど岩治が薬を飲んでいる姿が目に入った。そのまま通り過ぎようとしたが、見覚えのある薬瓶が目に留まり、無意識に足を止めて声をかけた。「お前もビタミンDを摂っているのか?」岩治の場合
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第295話

病院の廊下。受付を済ませ、一連の検査も終わった。適合が確認されれば、あとは手術を待つだけ。廊下には、親に手を引かれる子や、腕に抱かれた幼子たちの姿があった。どの子の顔にも、幸福がありありと浮かんでいる。かつて、素羽もそんな未来を思い描いたことがあった。彼女はその光景を、どこか夢見るような眼差しで見つめる。あれこそが、司野が望んだ二人の未来だったのかもしれない。だが、その幸福な瞬間が自分たちに訪れることは、もう永遠にないのだ。やがて名前が呼ばれる。手術そのものは、長くはかからなかった。処置台から身を起こすと、下腹部に鈍い痛みが走った。一時間ほどの経過観察を経て異常なしと告げられると、素羽は病院を後にした。病院の出口で、同じく建物から出てきた清人と、ばったり顔を合わせた。「大丈夫か?」二人の声は、ほとんど同時に重なった。片や顔は青ざめ、片や足をギプスで固めて松葉杖をついている。「体調でも悪いのか?」と清人が尋ねる。「ええ、ちょっと風邪気味で、診てもらいに……先輩こそ、その足はどうしたの?」「ああ、大したことはない。現場の視察中に、うっかり転んでしまってね」素羽は彼の足元と周囲を見比べ、心配そうに眉をひそめた。「独り?誰か付き添いはいないの?どうやって帰るの?」「タクシーを拾うさ」「なら、私が送るよ」袂を分かつほどの仇敵というわけでもない。今の清人を前に、そこまで非情になる必要はないはずだった。素羽はそう言って車道へ歩み寄り、タクシーを止めようと手を挙げた。清人を支えて後部座席に乗せ、自らも助手席に乗り込もうとした、その瞬間だった。不意に背後から腕を強く掴まれ、乱暴に引き戻される。驚いて振り返った先に立っていたのは、夜の闇よりもなお昏く沈んだ表情の司野だった。彼は有無を言わさず素羽の腕を掴むと、引きずるようにして別の方向へと歩き出す。「なにするの、離して!」素羽は抵抗するが、司野の力は凄まじく、掴まれた腕が骨ごと砕かれてしまいそうな痛みに呻いた。彼の歩みはあまりに速く、素羽はついていけずに何度も足をもつれさせた。司野は素羽の足取りの覚束なさに苛立つように、ほとんど引きずるようにして自分の車まで連れて行くと、助手席のドアを開け、彼女を乱暴に押し込んだ。病院を出
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第296話

物音を耳にして現れた森山は、二人のただならぬ様子に割って入ろうとした。だが、次の瞬間、司野が放った氷のように冷徹な視線に射抜かれ、その足はぴたりと止まった。素羽は足をもつれさせ、何度もよろめきながら、寝室へと乱暴に引き摺り込まれた。司野は彼女をベッドの上に放り出す。ベッドに突っ伏し、激しく肩で息をする素羽の頭上から、地の底から響くような司野の低い声が降ってきた。「……あの男が、それほど不憫か?」その「男」が誰を指すのか、問うまでもない。素羽は憎しみを込めて彼を睨み返したが、もはや言葉を交わす気にもなれず、身を起こして部屋を出ようとした。しかし、その腕を万力のような力で掴まれ、強引に引き戻される。「俺の問いに答えろと言っているんだ!」怒りが沸点に達した素羽は、反射的にその頬を打とうと手を振り上げた。だが、その腕は空中で易々と掴み取られ、為す術もなく壁へと押さえつけられた。素羽は必死にもがいた。「病気なら病院へ行ったらどう!?私の前で発狂しないで!」司野の瞳は底なしの闇を湛え、その声は地を這うように低く、不気味に響いた。「……亜綺を始末したのがあの男だと知り、居ても立ってもいられなくなったか?それで、早速みずから抱かれにいった、というわけか」その言葉に、素羽の動きが止まった。初耳だった。清人は、そんな素振りすら見せなかった。――そうか。それが、この男がこれほどまでに荒れ狂う理由か。素羽の瞳に、ありありと嘲りの色が宿る。「……部外者でさえ私のために動いてくれるというのに、夫であるあなたは保身に走り、亀のように首をすくめていただけ。どの口が怒りを語るの?恥を知りなさい」司野の顔が苦々しく歪んだ。「素羽、俺が甘い顔をしていたからと、いい気になるなよ」素羽は唇の片端を歪め、冷え冷えとした笑みを返した。甘い顔?あなたがいつ、私を人間扱いしてくれたというの?これまであなたは、いつだって私の尊厳を泥靴で踏み躙ってきたではないか。司野はポケットから「ビタミンD」と記された薬瓶を取り出した。「……これは何だ?」素羽はその瓶を凝視し、一瞬、息を詰めた。彼の表情から、一つの確信が芽生える。まさか……司野は薬瓶を床に叩きつけた。甲高い音と共に、薬瓶が砕け散る。「……これは何だと聞
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第297話

司野の冷酷な怒りに満ちた表情は、一瞬にして狼狽へと塗り替えられた。「これは、妊娠していたのか?」激痛が素羽の意識を容赦なく呑み込んでいく。視界が滲み、思考が途切れ途切れになる中でも、彼女は本能的に拒絶の言葉を絞り出した。「触らないで……」その一言が、司野の胸を鋭く刺した。動揺はさらに色濃くなり、彼は素羽を抱き上げると、なりふり構わず車へと駆け出し、病院へと急行した。一階にいた森山は、上階のただならぬ気配を感じ取り、ずっと生きた心地がしなかった。だが、司野に抱きかかえられて降りてきた素羽の姿を目にした瞬間、言葉を失った。下半身から流れ落ちる鮮血が、床にまで滴り落ちていたのだ。「何があったのですか!?」森山も司野と同じく、流産ではないかという疑念に襲われ、顔色を失った。「車に乗れ!」司野は切迫した声で命じた。森山は慌てて乗り込み、車は夜の街を切り裂くような速度で走り出した。素羽は激痛に耐えきれず、意識を失いかけていた。下半身から血が流れ続け、体温がみるみる奪われていくのが分かる。……私、このまま死ぬのかしら?意識が遠のく中、ふとそんな思いが浮かぶ。……嫌。死にたくない。何も悪いことなんてしていないのに、どうしてこの男のために命を落とさなければならないの?病院に到着すると、素羽はただちに手術室へと運び込まれた。司野は壁にもたれかかり、自分の服に血が付着していることにも気づかないまま、両手を小刻みに震わせていた。傍らに立つ森山は何か言いかけたものの、結局言葉を飲み込んだ。どれほどの時間が経っただろうか。やがて手術室の扉が開き、看護師が姿を現して、司野に同意書へのサインを求めた。司野は震える手でペンを握りしめ、問いかける。「妻は、どうなんだ?」「現在、全力で処置を行っています。まずはこちらにサインをお願いします」司野は殴り書きのように名前を書き入れた。書類を受け取った看護師は、去り際に吐き捨てるように呟いた。「避妊リングを入れた直後に性交渉なんて。命がいくつあっても足りませんわ」その言葉に、司野は凍りついた。彼は去ろうとする看護師の腕を乱暴に掴み、殺気立った目で睨みつける。「今、何と言った?もう一度言ってみろ!」看護師は飛び上がり、必死に腕を振り払った。「何
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第298話

素羽の顔には、微塵の動揺も浮かんでいなかった。目を開けた瞬間に司野の顔を見るくらいなら、いない方がよほどましだ。今この瞬間だけでなく、これから先もずっと、できることなら二度と顔を合わせたくない――それが、彼女の偽らざる本心だった。だが、「噂をすれば影」とはよく言ったものだ。司野の話題が出た直後、当の本人が姿を現した。病室の入口に立つ司野は、無表情のままベッドの上の素羽を見つめている。森山はすぐに立ち上がり、二人きりになるよう席を外した。去り際、彼女は司野に小さく声をかける。「旦那様、奥様のお体は今、大変衰弱されています。どうか、お話しになる際は穏やかに……」その忠告に対し、司野は肯定も否定もせず、ただ無反応を貫いた。森山がいなくなると、病室は死のような静寂に包まれた。エアコンの冷気でさえ、二人の間に漂う凍てつく空気には及ばない。素羽は窓の外へ顔を向け、司野には横顔だけを晒していた。司野はベッド脇の椅子に腰を下ろす。先ほどまでの激昂が嘘のように消え去り、瞬きもせず彼女を見つめたまま、低く静かな声で口を開いた。「ずっと懐妊しなければ、そのまま離婚に持ち込めるとでも思ったか?」それは、まさしく素羽の狙い通りだった。司野は須藤家の長男の独り子だ。一生子供を持たないなど、許されるはずがない。短期間ならともかく、時間が経てば、須藤家の幸雄たちが跡継ぎの問題を黙って見過ごすはずがなかった。その時、たとえ「不妊」の烙印を押されたとしても、子を産めない嫁を須藤家がいつまでも抱え続ける理由はない。司野が、子供を諦めてまで自分に「情深き夫」を演じ続けるはずがない、素羽はそう確信していた。司野の漆黒の瞳には、一切の温度がなかった。彼は一文字ずつ、吐き捨てるように言う。「『須藤夫人』の座が、そんなに嫌なら……降りてもいいぞ」その言葉に、素羽は弾かれたように顔を向け、信じられないという表情で彼を見た。どういう意味?離婚に、同意したということ?「離婚に……同意してくれるの?」確認するように問いかけた素羽に、司野は薄く笑った。だがその笑みは、背筋を凍らせ、本能的な恐怖を呼び起こすものだった。「正当な名分がいらないというのなら、ただ俺の側に囲っておくだけだ」素羽は一瞬、彼の言葉を咀嚼した。そして、その残酷な真意を
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第299話

司野は言葉通り、即座に行動へ移した。病室の入口には見張りが立てられ、逃げ出す隙は一切与えられない。医師が退院可能と判断した瞬間、素羽はそのまま景苑別荘へと連れ戻された。通信機器はすべて没収された。素羽は翼をもがれた鳥のように、景苑別荘という名の鳥籠に閉じ込められたのだ。帰宅するなり、素羽は正気を失ったように部屋中の物を叩き壊した。だが、彼女が破壊する速度よりも、司野が新たな調度品を補充する速度の方がはるかに速かった。まるで司野が、「どれほど足掻こうと、現状を変える力などお前にはない」と、無言のまま突きつけているかのようだった。最後の力を振り絞った暴れも終わり、再び完璧に整えられた部屋を前に、素羽は力尽きて床へ崩れ落ちた。感情は憤怒から絶望へ、やがて完全な麻痺へと移ろっていく。今の彼女は、生気を失った屍のように、ただ天井を虚ろに見つめることしかできなかった。近づいてくる足音。視界に司野の姿が入る。彼は高みに立ったまま、床に倒れた素羽を見下ろすように睥睨した。「まだ続けるか?」寛容さを装ったその声の奥には、冷酷さと凄絶な威圧が潜んでいる。素羽の虚ろな瞳に、わずかに焦点が戻った。衰弱しきった顔に宿るのは、どす黒い憎しみだけだった。「あんたなんか……心底、気持ち悪い」その言葉に、司野は鼻で笑った。面白い冗談でも聞いたかのように膝を折り、彼女の前にしゃがみ込む。「俺が、それを気にするとでも思っているのか?」司野は彼女の頬に張り付いた乱れ髪を払おうと手を伸ばす。素羽が顔を背けると、彼は強引にその頭を掴み、甲斐甲斐しく髪を整えながら、低く語りかけた。「今までは、俺が物分かりが良すぎた。だから、何でも許してもらえると勘違いさせてしまったようだな。お前が『須藤夫人』という身分を失えば、俺の前でプライドを失うだけじゃない。基本的人権すら、存在しなくなるんだぞ」素羽は嘲るように笑った。「プライド……?一度でも、あなたがそんなものをくれたことがあったかしら」もともと存在しなかったものを、失うはずがない。「どうやら、まだ俺という人間を理解していないようだな」司野は二通の書類を素羽の前に置いた。一つは「離婚協議書」、もう一つは「身売り契約書」だった。「離婚協議書にサインした瞬間、お前は俺の妻ではなく、ただの
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第300話

森山は頷き、引き下がるほかなかった。扉が再び閉ざされると、部屋には咀嚼する音以外、何の物音もしなくなった。素羽は運ばれてきた夕食をすべて平らげ、体力がいくらか戻ったのを感じると、そのままベッドに横になった。深夜、ベッドの上で素羽はそっと目を開けた。彼女は静かに床へ降り、シーツを引き出しては硬く結び合わせ、一本の紐を作る。片端を室内の固定された場所に結び、もう片方をバルコニーの外へ垂らした。結び目の強度を確かめ、問題がないことを確認すると、素羽はシーツを強く握りしめ、一歩ずつ慎重に階下へと身を滑らせていった。両足が地面に触れた瞬間、素羽は脇目も振らず、景苑別荘の敷地の外へと走り出した。耳元で風が唸り、自分の心臓の鼓動が激しく響く。素羽は息を切らしながら大通りまで走り続け、一瞬たりとも足を止めなかった。彼女は道沿いの店へ駆け込み、店主に頼んで救助の電話をかけてもらった。静まり返った夜の闇を切り裂くように、楓華が車で素羽を迎えに来た。裸足のままの素羽の足元を見て、楓華の瞳に驚愕の色が走る。問い詰める間もなく、素羽が先に口を開いた。「楓華、病院へ送って」車を走らせながら、楓華は問いかけた。「一体、何があったの?」素羽が手短に顛末を語ると、楓華の怒りは瞬時に爆発した。司野を罵倒する言葉すら見つからないほどだった。彼を「畜生」と呼ぶことさえ、過大評価に思えた。人間であれば、自分の妻に「愛人になれ」などと言えるはずがない。これは、古代の薄情な男が正妻を追い出し、妾に落とす行為と何が違うというのか。いや、まだ違いはある。妾には名分があるが、司野が素羽に強いているのは、正妻を完全な日陰者にすることだ。その卑劣さには、もはや底がなかった。楓華は素羽を病院へと送り届けた。素羽は今すぐにでも、この街を離れたかった。何があろうと、司野の愛人になるなど、あり得ない。素羽は病院へ芳枝を迎えに行き、その間に楓華が身分を証明する書類を取りに走った。深夜に起こされた芳枝は、突然病院に現れた素羽の姿を見て、言葉を失うほど驚いた。説明する時間のない素羽は、ただこう告げた。「おばあちゃん、別の場所に引っ越すわよ」芳枝は、素羽のあまりに痛々しい様子を見て、ただならぬ事態を察したが、余計なことは聞かず、彼女の指示に従って
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