All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

素羽が激しく震えていた、その時だった。司野が人波を割って現れ、彼女の頭を引き寄せると、有無を言わさず胸元へと押し込んだ。周囲のあらゆる視線から、彼女の存在を遮るように。「怖がるな。俺がいる」素羽は司野の肩に額を預け、無意識のうちに彼の上着の裾を強く掴んだ。耳の奥で甲高い耳鳴りが響き、周囲の音は遠ざかり、世界が切り離されたかのようだった。司野は冷徹な眼差しで列席者を一掃し、低く、凍りつくような声で言い放つ。「これらのAI画像については、俺が徹底的に調査する。この中に犯人がいるなら、覚悟しておけ。それから、もしこれらの偽画像が外部に流出するようなことがあれば、一人残らず、相応の代償を払ってもらう」その場に集っていたのは、いずれも名の知れた名士ばかりだった。公然と脅されたことに内心の不快を滲ませながらも、須藤家の威光の前に、誰一人口を開く者はいなかった。七恵の祝宴は、この忌まわしい騒動によって、結局うやむやのまま幕を閉じた。須藤家一族だけが残された場においても、素羽の顔色は戻らなかった。向けられる視線のすべてが、自分を嘲り、嘲弄しているように思えてならない。そこへ絹谷が、ここぞとばかりに追い打ちをかける。「琴子さん。お義母様は今日、あなたたちのせいで大恥をかかされたのよ。あんな写真を撮られて、あまつさえ流されるなんて……須藤家の面目は丸潰れじゃない。一体、どう責任を取るつもり?」絹谷は、呆然と立ち尽くす素羽を冷ややかに一瞥した。「本当に、死ぬほど恥ずかしいわ。これから外を歩くたびに笑い者にされるなんて、生きた心地がしないでしょうね」司野が、氷のような声で遮った。「お前が死にたければ、誰も止めはしない」「……何ですって!?目上の人間に向かって、なんて言い草なの!」琴子も本心では、素羽を「恥さらし」だと思っていた。だが、この場では身内の側に立つ道を選ぶ。「司野の言う通りよ。あれはAIで作られた偽物。身内が陥れられたというのに、叔母であるあなたが外に敵を向けず、勝ち誇ったように騒ぎ立てるなんて……本家の失態を願うあなたたちが、この騒動を仕組んだんじゃない。夫婦は一体でしょう。司野を追い詰める術がないからって、嫁に卑劣な手を使って、息子に恥をかかせようとしたんじゃないの」絹谷の顔色がさっと変わった。「
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第272話

景苑別荘。司野は、体が硬直し、情緒も不安定なままの素羽を抱きかかえて車を降りた。寝室に入り、ベッドに横たえ、そっと体を離そうとした瞬間、素羽が彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。「行かないで……!」掠れた声、強張った筋肉。その全身が、彼への執着と依存を雄弁に物語っていた。司野はその手を包み込むように握り、大きな掌で彼女の脆さを受け止める。「行かない」司野は素羽の隣に横たわり、その身体を腕の中へ引き寄せた。背中をゆっくりと撫で、なだめるように囁く。「どこへも行かない。ここにいる。だから、怖がるな」素羽は小さく身を丸め、司野の胸元に顔をうずめた。彼の体温の中に、かつて確かにあったはずの安心を必死に探し求めるように。瞳を閉じると、封じ込めてきた記憶が、再び鮮明に脳裏へと溢れ出した。それらは彼女を執拗に追い詰め、心の深淵に沈めていた恐怖と臆病さを、容赦なく掘り起こしていく。もう、立ち向かえるほど強くなったはずだった。だが、無残な過去が暴かれ、大衆の面前に晒された瞬間、自分はやはり無力で臆病なままだったのだと思い知らされた。自分には、あの過去を真正面から見つめ直す勇気など、まだなかった。震える体越しに、司野は素羽の恐怖を痛いほど感じ取っていた。彼の瞳は墨を流したように暗く沈み、その奥を一筋の痛みがかすめる。素羽の状態が極めて不安定であると判断した司野は、すぐに家庭医を呼び寄せた。まずは彼女を眠らせるため、医師に鎮静剤を打たせる。司野は指先で素羽の眉間に刻まれた皺をそっと伸ばすと、森山に彼女から片時も目を離さぬよう厳命した。寝室を出て書斎へ向かうと、そこではすでに岩治が待っていた。岩治は調査結果を差し出す。「写真を流したのは、石田洋介という男です……」洋介は祝宴のスタッフを買収し、舞踊の背景映像をすり替えていたという。「石田洋介……」聞き覚えのある名だった。数秒後、司野の記憶の奥で、名前と顔が一致する。岩治が続けた。「石田は国外逃亡を図っていましたが、空港で身柄を確保しています」司野の瞳に、底知れぬ闇が宿った。「車を出せ」その一言で、岩治は主人の意図を即座に察した。鎮静剤の影響で、外から見れば、素羽は深く穏やかに眠っているように見えた。だが、彼女の精神の内側は違っていた。あの醜悪
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第273話

自分は何も悪くない。他人の犯した罪の報いを受ける必要などないのだ。再び目を開けたときには、すでに朝になっていた。「目が覚めたか。気分はどうだ」混濁していた意識が次第に澄み、司野の声が素羽を現実へと完全に引き戻した。枕元にいる司野へ顔を向け、素羽は何度か瞬きをする。「……大丈夫よ」「それならいい」司野は彼女の乱れた髪を、指先でそっと整えた。「昨日の件だが、すべて調べはついた。石田洋介という男の仕業だ。どうして、以前に彼との因縁を話してくれなかった」自ら傷口を開くような話を好んでする者はいない。素羽は答えず、逆に問いを投げ返した。「洋介は、今どこにいるの?」司野はその問いには応えず、低く告げた。「あいつは決して許さない。お前にした仕打ちの倍は返してやる。二度とお前の前に姿を現すことはない」「……誰に指示されたのか、彼は言った?」司野の瞳に、ほんの一瞬、感情の揺らぎがよぎり、すぐに消えた。「……いや。誰の指示でもない」素羽は司野をじっと見つめる。「洋介に会わせて」「汚らわしいものを見るだけだ。目を汚す必要はない。安心しろ、あいつには相応の報いを受けさせる」素羽は毛布を跳ね除け、ベッドから降りた。「じゃあ、亜綺のところへ行くわ」洋介を連れてきたのは亜綺だ。彼が何を企んでいたのか、亜綺がまったく知らなかったはずがない。「今回の件に亜綺は関与していない。彼女も騙されていた。父親には厳しく言っておいた。今はもう、港町へ連れ戻されている」素羽の足が止まった。息が詰まり、垂れた両手が激しく震え、やがて固く拳を結ぶ。昨日、祝宴の席で司野が差し伸べてくれた救いの手。その瞬間に芽生えた希望が、今、音を立てて崩れ落ちていく。やはり、抱くべきではない幻想だった。素羽は目を閉じ、渦巻く感情を押し殺した。再び目を開けたとき、彼女の瞳から脆さは消えていた。ゆっくりと首を巡らせ、一点の曇りもなく司野を見据え、言葉で追い詰める。「……本当に、私に洋介を会わせたくないだけ?それとも、この件の黒幕が美宜だってことを、私に知られたくないだけなの?」司野の瞳が揺れた。「この件に、美宜は関係ない」「司野――!」胸の奥が痛み、喉の奥が酸っぱく締めつけられる。「私を馬鹿だと思っているの?
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第274話

素羽は、彼の言葉の真意を即座に読み取った。そのあまりに寛大で慈悲深い振る舞いが、滑稽でならなかった。差し伸べられた司野の手を振り払い、素羽は赤く充血した瞳に嘲笑を浮かべる。「じゃあ、私はあなたの懐の深さに感謝すべきかしら?私の黒歴史を受け入れて、妻としてここに置いてくれるその寛大さに、お礼を言えばいいの?」「……落ち着くんだ」司野がなだめるように歩み寄る。素羽は反射的に後ずさりし、彼との距離を取った。「司野、感謝なんてしないわ。だって、私は何も悪くないもの。あなたが気にしようがしまいが、私には関係ないし、興味もない。それから、その偽善に満ちた感傷はやめて。私から見れば、ただの独りよがりな自己満足よ」須藤の奥さんの座など、とうの昔に捨てたかった。無理やりそこに座らせたのは司野の方だ。それなのに、今さら寛大な夫を演じる姿は、吐き気を催すほど醜悪だった。司野は苦い表情を浮かべたが、反論はしなかった。素羽の胸に鬱積した怒りがあることを理解し、今は発散させるがままに任せていた。素羽は背を向けてクローゼットへ向かい、再び現れたときには、その手にスーツケースを握っていた。それを見て司野はわずかに眉をひそめ、歩み寄って取っ手を掴む。「……何をするつもりだ」素羽は冷ややかな視線を投げかけた。「今すぐ私が美宜のところへ乗り込んでもいいって言うなら、そのまま止めていればいいわ」司野は一瞬躊躇し、スーツケースを掴んでいた手を離した。「……送っていく」その手に視線を落とし、素羽はもはや皮肉を口にする気力さえ失っていた。一度も振り返らず、スーツケースを引いて歩き出す。司野がその後を追った。玄関先で、荷物を抱えて出ていく素羽を見送った森山は、不安げな表情を浮かべる。――一体、また何があったというのかしら……「乗れ」司野が命じるが、素羽に従う意志はない。すると司野は強引にスーツケースを奪い取り、トランクに放り込むと、二つの選択肢を突きつけた。「俺が送るか、あるいはどこへも行かず、ここに残るかだ」司野の前で、自分がどれほど無力か。素羽は嫌というほど思い知らされていた。今は美宜の件があるから彼は譲歩しているにすぎない。もし本気で強硬手段に出れば、自分を家に監禁することなど造作もないのだ。司野は素羽を自宅まで
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第275話

胃の中のものをすべて吐き出し、素羽はその場に力なく座り込んだ。膝を抱えて身を丸め、青ざめた顔のまま、制御できない涙が次から次へと溢れ落ちていく。素羽の家を後にした司野は、岩治にプライベートジェットの手配を命じた。岩治は、司野が美宜に会いに行くのだと即座に察した。素羽の醜聞が暴露された直後、美宜はいち早くその事実を掴んでいた。彼女はその場でシャンパンを開けて祝杯を上げ、素羽が家を追い出される瞬間を今か今かと待ちわびていた。そのため、司野が来ると聞いた美宜は、喜び勇んで迎えに出た。「司野さん……!」袖に触れようとした瞬間、司野は身を翻してそれを避けた。美宜の笑顔が、わずかに引きつる。「司野さん、どうしたの?」司野は足を止めることなく、真っ直ぐ屋敷の中へと入っていく。美宜も慌ててその後を追った。執事やメイドたちが次々と挨拶をするが、司野は手を一振りして、全員を下がらせた。ソファに腰を下ろした司野は、無表情のまま美宜を凝視した。その視線に気圧され、彼女は落ち着かない様子で怯えつつ口を開く。「司野さん、そんなふうに私を見てどうしたの?何か嫌なことでもあった?もしそうなら、私に話して。力になれるかもしれないわ」「千尋は以前、俺にこう言っていた。美宜は心優しく慈愛に満ちた、蟻一匹踏めないような女の子だと」司野の声は淡々としていた。あまりに冷静で、怒っているのかどうかさえ判別できない。美宜の瞳の奥に一瞬、疎ましさがよぎったが、表情には何事もない無垢さを貼り付ける。「司野さん、一体、何が言いたいのかしら」「素羽には手を出すな、彼女から遠ざかれと、俺は言ったはずだ。なぜ洋介に、あんな真似をさせた」「司野さん、何のことかさっぱり分からないわ。外で何かあったの?私はこの島にいたの。外の状況なんて何も知らないもの」「美宜、自分の計画が完璧だとでも思っているのか。証拠がないとでも?」司野はスマートフォンを取り出すと、迷いなく再生ボタンを押した。洋介との取引の内容、生々しい二人の対話が次々と流れ出す。それだけではない。亜綺の供述も含まれていた。美宜の瞳に暗い影が走る。胸の内で、洋介への憎悪が燃え上がった。――あの卑劣な男……私に黙って録音していたなんて……!美宜は瞬時に態度を変えた。司野の足元に膝をつき、彼の手を
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第276話

美宜の身体が強張り、顔から血の気がすっと引いた。傷ついた眼差しのまま、瞳が赤く潤む。「司野さん……」司野は一本の煙草を取り出して火をつけ、深く吸い込んでから紫煙を吐き出した。「スマートフォンをよこせ」美宜は何をされるのか分からず戸惑ったが、逆らうこともできず、黙って差し出した。司野はそれを受け取ると、短く告げる。「これからはこの島で静養しろ。用があるときはアンマに連絡しろ」アンマとは、司野が彼女のために手配した現地の家政婦だった。その言葉を聞いた瞬間、美宜の瞳に絶望が走った。「司野さん、私をここに閉じ込めるつもり?しばらくしたら迎えに来てくれるって言ったじゃない!」「今のお前の情緒では、外の世界に置いておけない」「嫌よ、そんなの――!」美宜は司野の腕に縋りつき、泣きながら懇願した。「司野さん、お願い、ここにはいたくない!素羽さんに謝りに行くわ。彼女に許してもらえるまで頑張るから。私が悪かった。だから一人で閉じ込めないで。ここは私の家じゃない。北町に帰りたいの!」司野は冷淡に言い放った。「北町も、お前の家ではない」「……っ」涙が堰を切ったように溢れ、頬を伝って次々と零れ落ちる。美宜はしゃくりあげながら訴えた。「司野さん、お姉さんと約束したでしょう?私のことをちゃんと面倒見るって……悪かったと思ってるわ。だから、こんな仕打ちしないで……」司野は、涙に濡れたその瞳を見つめた。神色がわずかに揺らぎ、記憶の中の面影が、目の前の光景と重なる。「司野さん……」美宜が彼の手を強く握りしめる。だが司野は、追憶から目を覚まし、瞳に宿ったかすかな光を消した。淡々とした口調で告げる。「言ったはずだ。もしお前が千尋の妹でなければ、今この島で無傷でいられることなど、あり得なかったと」言い終えると同時に、彼はその手を振り払い、躊躇なく立ち上がった。「大人しくしていろ」「司野さん……!」美宜の叫びを背に、司野は一度も振り返らずに去っていく。彼女は後を追おうとしたが、自分を守るはずだったボディーガードたちが、今や彼女を阻む壁となった。素羽は自分の部屋で丸一日、泥のように眠り続け、翌日、激しいノックの音で目を覚ました。訪ねてきたのは、管理会社の人間を伴った森山だった。ドアを開けるなり
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第277話

芳枝が彼女の頭を撫でた。「疲れたのかい?」素羽は子猫のように、その肩に頬を擦り寄せた。「おばあちゃん、どうしようもないって、無力感に襲われたことある?」「生きていればね、大抵の人は、どうにもならない境遇に立たされるものだよ」芳枝は、乾いていながらも温もりのある手で、素羽の手の甲をやさしく撫でた。「でもね、執着さえ手放せば、どんな困難も大したことじゃなくなるんだよ。自分を追い詰めちゃいけない。人生なんて短いんだから、自分を許してあげることを覚えなさい」素羽は目を閉じ、胸の奥に澱む負の感情を、静かに噛み砕くように消化しようとした。やがて芳枝が口を開く。「あんたが高校生の頃、外の世界を見てみたいって言ってたのを覚えているよ。素羽、海外へ行きなさい」閉じた瞼の裏に、熱いものが込み上げた。抱きしめる腕に、思わず力がこもる。「行かない。おばあちゃんと離れたくないもの」芳枝の濁った両眼には、孫を案じる想いが溢れていた。「いいかい、あんたは自分のために、一度生きるべきだよ」喉が震え、素羽は胸を突き上げる悲しみを必死に押し殺した。おばあちゃんを心配させたくなくて、目を開けることができなかった。本当に想い合っているからこそ、相手の苦しみが分かってしまう。その絆があるがゆえに、二人は互いを置いていくことができなかった。素羽が一人で過ごした三日間、時折顔を見せる森山を除けば、司野は確かに彼女に十分な時間と距離を与え、感情を整理させた。そして土曜日。司野が期限として定めたその日、彼の車は時間通りにマンションの下へ姿を現した。司野は、出張先から妻を迎えに来た良き夫のように振る舞い、自ら荷物を運び、甲斐甲斐しく車のドアを開けた。車内。「洋介は拘留された。未成年への淫行のほかにも、いくつも余罪が見つかった。実家も潰れて、もう彼を庇える者はいない。手はず通りにいけば、一生、塀の中から出てくることはないだろう」洋介の結末を聞いても、素羽の心が晴れることはなかった。これほど迅速で苛烈な処理がなされたのは、自分のために怒ったからではない。納得させ、これ以上騒がせないための口封じに過ぎないと、分かっていたからだ。素羽は淡々と言った。「……ありがとうって言えば、満足?」司野は彼女の手を取り、宥めるように握る。
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第278話

部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。美玲が噛みついてくることは、素羽にとって予想の範疇だった。更生施設は薬物を断たせる場所であって、人間性を教え込む場所ではない。美玲の骨の髄まで染みついた素羽への蔑みが、そう容易く消えるはずもなかった。帰宅早々にこの「スキャンダル」を知っているということは、間違いなく「お優しい義母上」が吹き込んだのだろう。司野が顔を曇らせた。「……何を馬鹿なことを言っている」「美玲は間違ったことは言っていないわ。そんなに怒鳴らなくてもいいでしょう?」琴子が割って入る。「お母さん……」司野は眉をひそめた。「司野、あなたの顔を立てて、私はこれまで素羽に文句を言わずにきたのよ。でも、あの祝宴での一件を許したわけじゃないわ」琴子は表情を硬くし、視線を素羽に向けた。「絹谷さんの言う通りよ。須藤家の面目は、あなたのおかげで丸潰れだわ!」一生、面目を重んじて生きてきた自分が、まさかこんな女のせいで泥を塗られるとは。素羽は無表情のまま彼らを見つめ返した。かつては触れられたくない傷跡だったが、今の彼女にとっては、すでに塞がった傷だ。恐れるものは、もう何もない。「その面目を汚すきっかけを作ったのは、あなたが亜綺に場を与えたからじゃないんですか?あなたが彼女と洋介を祝宴に招き入れなければ、こんなことは起きなかったはずよ。悪をなした側が恥じてもいないのに、どうして被害者である私が、その汚名を背負わされなきゃいけないの?」「……っ!」琴子は勢いよくソファから立ち上がり、怒りで顔を真っ赤にした。「あんな写真を撮られておいて、よくもそんな口が叩けるわね!」素羽は冷ややかに言い放った。「その理屈で言うなら、お義父さんが交通事故に遭ったのも、あなたが夫の運を吸い取る疫病神だから、ってことになりますね」「素羽――!」司野が低い声で制した。その瞬間、美玲が手を振り上げ、素羽の頬に平手打ちを叩き込んだ。「お母さんを侮辱するなんて……この命知らず!」まだ若く、体つきも細いが、手加減のない一撃は重かった。素羽は顔の半分が痺れるのを感じた。怒り狂う三人を一瞥し、即座に腕を振り抜いて、美玲の頬に倍する一撃を見舞った。大人と子供、ましてや更生明けの体では力の差は歴然だった。素羽のビンタを
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第279話

「お兄ちゃん、あんなお義姉さんなんて大嫌い。別の人に替えてよ!」素羽も重ねて言った。「離婚しましょう。あなたの家族の和を乱す存在になりたくないわ」「いい加減にしろ。二人とも、黙れ!」沈痛な面持ちで放たれた司野の一声には、圧倒的な威圧感がこもっていた。さしもの美玲も、それ以上言葉を発することができず、口を噤む。ちっ、意気地なしね……素羽は内心で舌打ちした。「亜綺に手を出さなかったのは、お母さんの顔を立てたからだ」司野は琴子を諭すように続けた。「祝宴の件はこれで終わりだ。二度と蒸し返すな。美玲、素羽はお前の義姉だ。分をわきまえて、敬意を払え」「お兄ちゃん……!」美玲が不満げに声を上げる。司野の瞳が鋭く光った。「俺の言うことが聞けないのか?」美玲は唇を噛み、地団駄を踏んで素羽を睨みつけた。「……いい気にならないでよ!」司野は妹を溺愛し、その言うことなら何でも聞く男だと思っていた。なのに、なぜこの件に限っては妹の味方をしないのか。素羽には不可解でならなかった。この祝いの席に素羽がいること自体、美玲にとっては不快極まりないはずだった。素羽もまた、こんな胸糞の悪い食事に付き合うつもりはなく、そのまま背を向けて立ち去った。司野は一枚のカードを取り出し、美玲に手渡した。「数日は家でゆっくり休んでから、学校へ行け」美玲は素早くカードを受け取ったが、司野が帰ろうとするのを見て問いかけた。「お兄ちゃん、一緒にご飯食べないの?」「次は二人だけで食事に連れて行ってやる」そう言って妹の頭を撫でる。「これからはいい子にしてろ。お母さんを心配させるような真似は、もうするな」去っていく司野の背中を見送りながら、美玲は不満げに口を尖らせた。「お母さん、私、素羽なんて大嫌い!大っ嫌いよ!」生まれてこの方、自分の顔を叩く人間など一人もいなかった。素羽は、文字通り彼女の顔に泥を塗ったのだ。琴子も素羽を嫌っていたが、娘の背中を叩いて慰めた。「これからは、あのあばずれには近づかないことね。また怪我をさせられたら堪らないわ。今のあの子は、誰彼構わず噛みつく狂犬みたいなものなんだから」自分だって嫁を替えてやりたい。しかし、息子が首を縦に振らない以上、どうしようもない。美玲は信じられないという表
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第280話

「飯の時間だ。食べに行こう」司野が言った。「お腹は空いてないわ」と素羽。彼と同じテーブルにつくと思うだけで、食欲など跡形もなく消え失せる。だが、司野はいつだって自分の都合しか頭にない。「俺が空いてる」そう言うが早いか、素羽は車の中に押し込まれた。拒む隙すら与えられない。レストランにて。司野がメニューを開く。「これは食べるか?」「食べない」「これは?」「いらない」「この料理は、ここの看板メニューらしい」素羽は徹底して反抗的な態度を貫いた。「嫌いなの」司野はどこまでも平然としている。「男がいちばん好むものが何か、知っているか?」素羽は黙って彼を見つめた。「征服だ」「……」以前の彼は、ここまで卑劣だっただろうか。司野は追い打ちをかけるように言った。「お前の挑発など、俺には通用しない」素羽は、自分の無力さに強い憤りを覚えた。結局、彼に振り回されることしかできない。素羽が拒んだ料理が、次々とテーブルに運ばれてくる。まるで彼女の望む「離婚」と同じく、彼女の意思など一顧だに値しないのだと言わんばかりに。食事が始まって間もなく、個室の扉が外から勢いよく開けられた。「司野」声とともに現れたのは、利津の鼻持ちならない顔だった。司野はわずかに眉をひそめる。「なぜここにいる」「店のマネージャーから、お前がここで飯を食ってると聞いた」「……何の用か?」利津はすぐには答えず、隣に座る素羽をちらりと見た。素羽は顔を上げ、ぶっきらぼうに言った。「私が邪魔だって?ええ、席を譲ってあげるわ」ちょうど、ここにいたくないと思っていたところだった。司野の横を通り過ぎようとした瞬間、手首を強く掴まれる。「お前が席を立つ必要はない」司野はそのまま、素羽を自分の隣に引き戻した。「……話せ」――私は残りたくないのに。素羽は内心で毒づいた。利津は遠慮なく切り出した。「美宜から聞いたぞ。お前、あいつをずっとあの島に閉じ込めておくつもりか?外部との連絡まで断たせるなんて」司野は淡々と答える。「その件に口出しは無用だ」「あんな何もない場所に閉じ込めて、外と連絡もさせないなんて、何を考えてるんだ!あいつは体が弱いんだぞ。俺に連絡してきたとき、息も絶
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