All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 381 - Chapter 390

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第381話

予期していた衝撃が肌を打つことはなかった。振り下ろされようとした美玲の手首を掴み、その動きを封じたのは、当事者である素羽ではなく、書斎から姿を現した司野であった。司野の姿を認めた瞬間、美玲の顔に張り付いていた憤怒は、甘えを含んだ被害者然とした態度へと一変した。彼女は赤くなった頬を突き出し、縋るように訴える。「お兄ちゃん、見てよ!素羽が私を殴ったの!」司野は無機質にその手を離すと、冷徹な問いを投げかけた。「……なぜここに来た」期待していた加勢が得られず、美玲は不満げに眉をひそめて繰り返した。「お兄ちゃん、聞いてる?素羽が私に平手打ちしたって言ってるのよ」司野は、もはや痕跡すら残っていない美玲の頬を一瞥しただけで、答えの代わりに突き放すような言葉を返した。「お前が彼女を怒らせるような真似をしたんだろう?」「……あの猫が先に引っ掻いてきたのよ!」美玲は傷のついた手の甲を差し出し、溢れんばかりの不満を爆発させた。だが、司野の返答は再び彼女を突き放した。「だんごは温厚な猫だ。こちらから手を出さない限り、牙を剥くことも爪を立てることもない」美玲の耳には、それが「お前が余計なことをした自業自得だ」という宣告にしか聞こえなかった。「お兄ちゃん!」声を荒らげて抗議する妹を、司野は一顧だにしない。その苛立ちなど耳に入らぬかのように、淡々と言い渡した。「用がないなら、さっさと帰れ」だが、美玲は引き下がるどころか、さらに食ってかかった。「……そもそも、なんで『あいつ』がまだここに居座ってるのよ?」「あいつ」とは、言わずもがな素羽のことだ。「素羽は俺の妻だ。彼女が自分の家にいて、何がおかしい」「何言ってるの?二人はもう離婚したんでしょう!?」美玲の驚愕した声が響く。世間を騒がせたニュースを知らぬはずもないのに、今さら何を言っているのか。「過去も、現在も、そしてこれからも、素羽は俺の妻だ」司野の瞳に、警告の色が宿る。「二度と彼女に対して無礼を働くことは許さない。次があれば、小遣いを凍結すると思え」それは、美玲の生命線を握るという冷酷な宣言だった。腹に据えかねる思いを抱えながらも、彼女は黙り込むしかなかった。不承不承ながら「……わかったわよ」と絞り出す。忌々しげに素羽を睨みつけた美玲の
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第382話

理由の一つは、外へ出たくないから。もう一つは、外へ出る気力が残っていないからだ。栄養剤はあくまで命を繋いでいるに過ぎず、食事を摂らなければ体力が衰えていくのは避けられない。司野は寝室のドアを押し開け、素羽の前まで歩み寄った。逆光の中に立つ彼の影が、部屋の明かりをすべて遮る。素羽は目を開けて一瞥したが、すぐに無表情のまま再び目を閉じた。彼を空気のように扱い、完全に無視しているのだ。司野はカウチの肘掛けに両手を突き、身をかがめて素羽を真っ直ぐに見つめた。「……俺の何がそんなに不満なんだ。言ってみろ。直せるものなら直す」素羽は目を閉じたまま、応じようとしない。司野は続けた。「美宜の存在が夫婦仲に影響すると言うなら、もう彼女のことは構わない。遠くへ送る。これからの俺たちの生活に、美宜が現れることは二度とない。この家には、お前と俺だけだ。将来は子供も生まれる。それでもダメなのか」一通り話し終えても、返ってくるのはただの静寂だけだった。司野は彼女の顎を掴んだ。「言えよ。どうすれば満足するんだ」その言葉に、素羽はゆっくりと目を開けた。視線が真正面からぶつかり合う。彼女の瞳に情愛は一片もなく、開いた唇から漏れたのは、さらに無情で冷酷な言葉だった。「死ねばいいわ」それを聞いた瞬間、司野は顎を掴む手に猛然と力を込めた。痛みはあるはずだが、素羽はまるで何も感じていないかのように、眉一つ動かさない。「それほどまでに俺を憎んでいるのか」素羽は冷淡な眼差しを向けたまま、何も語らなかった。だが、語らないことこそが、すべてを物語っていた。憎んでいなければ、死を望むはずがない。司野は強張っていた手の力を緩め、愛撫するように指先を動かした。口調は穏やかだった。「憎いなら憎めばいい。憎んでいるということは、お前の心の中にまだ俺がいるということだ。悪くない」素羽は、この男は病んでいるのだと思った。——美宜から電話を受けた時、美玲はちょうど琴子になだめられたばかりだった。息子が離婚していなかったことは、娘が戻ってきて話すまで琴子も知らなかった。だが、琴子は美玲よりも理性的だった。あそこまで拗れながらも傍に置こうとするのは、司野が本当に素羽を気にかけている証拠だ。その執着に愛があるかどうかは分からな
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第383話

二頭の頑固なロバが真正面からぶつかり合い、勝敗を決めようとしている。どちらかが完全に打ち勝つか、さもなければもう一方が折れるしかない。司野は素羽を無理やり側に繋ぎ止めることには成功したが、決して勝ったわけではなかった。素羽もまた一歩も引かず、局面はたちまち膠着状態に陥っていた。そのため、一見すると手札を握っているはずの司野も、素羽を前にしては実のところ打つ手がなかった。司野が欲しているのは素羽その人であり、何の反応もない抜け殻でも、役にも立たない死体でもない。素羽が飲まず食わずのまま四日目を迎える頃には、司野の当初の「性根を叩き直してやる」という余裕はすっかり消え失せ、今や焦燥に駆られていた。司野は彼女をじっと見つめた。「どうすれば飯を食う気になる」素羽は目を閉じたまま、何の反応も示さない。司野は家庭医を呼び寄せると、冷静な声で端的に命じた。「彼女の顎を外せ」家庭医は絶句した。司野の意図は理解できたが、ここまでの状況にして本当にいいのだろうかと、ためらいが胸をよぎる。素羽もまた司野の考えを察した。抗おうとした瞬間、司野に四肢を押さえつけられ、そのまま家庭医に処置を強行された。健康な状態でさえ司野の力には及ばないのに、今の衰弱しきった体では、カマキリが斧を振るって車に立ち向かうようなものだ。あっという間に制圧されてしまった。素羽に余計な痛みを与えないよう、家庭医の手つきは素早かった。ほんの一瞬で顎が外される。司野は体で素羽を拘束したまま、無理やり流動食を流し込んだ。「俺が許さない限り、餓死するチャンスなんて与えないぞ」食べ物の半分は食道を通って胃に流れ込み、残りの半分は素羽がむせ返って吐き出した。二人の服もベッドの上も汚れにまみれ、見るも無惨な有り様だった。傍らの家庭医が口を開いた。「……もう、そのくらいでいいでしょう。何日も食べていなかったんだ。急に多くは与えられません」それを聞いて、司野は手を止めた。もともと青白かった素羽の顔は、一気に赤く染まっている。司野は低い声で言った。「痛い思いをしたくないなら、これからもずっとこの方法で食わせてやる」「……元に戻してやれ」これは家庭医に向けた言葉だった。顎が元に戻されると、医師は静かに退室した。司野は自ら彼女の服を着替え
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第384話

司野の「効果的」な調教によって、素羽はついに絶食をやめた。その結果に、彼は満足げな様子を見せていた。毎日、司野は趣向を凝らした食事を用意し、彼女の落ちてしまった肉をなんとか取り戻そうと躍起になっていた。だが、その満足感も長くは続かず、やがて彼の眉間には再び深い皺が刻まれることになった。素羽は日に日に口数が減り、一日を通して、必要に迫られなければ一言も発しなくなった。たとえ話しかけても、ただ頷くか、短く生返事をするだけで、まるで言語機能を失ってしまったかのようだった。しかし、それ以上に深刻な事態が起きようとしていた。——ある日の深夜、司野がまだ仕事の処理をしていた時、景苑別荘のボディガードが報告にやってきた。「社長、奥様が外へ出ようとされています」司野が時計に目をやると、すでに深夜一時を回っていた。こんな時間に、彼女はいったい外へ出て何をするつもりなのか。「……戻って寝るように言え」ボディガードは複雑な表情を浮かべ、ためらいがちに口を開いた。「社長ご自身が行かれた方がよろしいかと。奥様の様子が、どうもおかしいのです」それを聞き、司野は席を立って外へ出た。初夏の北町の夜は、まだわずかな涼しさを残している。街灯の下、素羽は白いネグリジェを纏い、烏のような黒髪を肩に垂らして立っていた。夜風が吹くたびに裾が揺れ、その姿は正直なところ、背筋が凍るような不気味さを漂わせていた。彼女は司野に背を向け、門の前で微動だにせず立っている。二人のボディガードが彼女の前に立ち塞がっていたが、下手に手出しもできず、困り果てた様子だった。司野は歩み寄った。「夜中に寝もせず、こんなところで何をしている?」外に監視がいることは分かっているはずだ。夜が更ければ警備が緩むとでも思ったのだろうか。近づくと、素羽がつぶやくのが聞こえた。「……帰らなきゃ。おうちに、帰らなきゃ……」司野は瞳を沈ませた。「お前の家はここだ。他にどこへ帰るというんだ。戻って寝ろ」素羽は虚ろな瞳のまま、呟き続けた。「……おうちに、帰るの……」素羽と視線が合った瞬間、司野の身体が唐突に凍りついた。瞳孔が急激に収縮する。ボディガードが声を潜めて囁いた。「奥様、どうやら夢遊病のようです」司野もすでに気づいていた。彼は喉を鳴らし、
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第385話

朝食を済ませて司野が仕事へ向かうと、素羽は再び眠気に襲われた。だが彼女はベッドに戻る代わりに、書斎へと足を運んだ。静まり返っていた景苑別荘に、突如として素羽の焦燥に駆られたような声が響き渡る。「森山さん、森山さん、ちょっと来て!」声に引かれて二階へ上がってきた森山が尋ねた。「奥様、どうかなさいましたか?」素羽は問い詰めるように言った。「私の棚にあった本、誰か動かした?」「本、と言いますと……?」と森山が聞き返す。「『世界建築家完全図鑑』よ!デスクの上に置いておいたのに、なくなってるの。誰か持っていった?」その本なら、森山も掃除の際に見覚えがあった。だが、掃除の前も後も、場所を変えた記憶はない。「誰も触っておりませんよ。元の場所に置いてあるはずですが」素羽は眉をひそめた。「ないわ。探したけれど、どこにもないの」森山も部屋に入り、一緒に探し始めた。確かに本は見当たらない。だがふと、森山の視線が素羽の手元に止まり、本を探す動きがぴたりと止まった。「奥様。その本なら、今お手に持っていらっしゃいますよ」それを聞き、素羽の動きも止まる。視線を落とすと、自分の手がしっかりと『世界建築家完全図鑑』を握りしめているのが見えた。彼女の瞳に、深い困惑の色がよぎる。――この本、いつの間に持っていたのかしら?「見つかったわ。もう行っていいわよ」素羽は再びデスクの前に座り直した。「何かあればまたお呼びください」そう言い残して部屋を後にする森山に、素羽はただ小さく頷くだけだった。その日の夜、司野には接待があったため、素羽は一人で夕食を済ませた。今の素羽は、日の出とともに起き、日没とともに休むという規則正しい生活を送っている。日が暮れると、素羽はすぐに自室へ戻った。夜の十時。司野が酒の匂いを漂わせて帰宅した。玄関で出迎えた森山に、司野は尋ねる。「今日の奥様の様子はどうだった」森山は素羽の一日の行動をありのままに報告した。すべてはいつも通りで、これまでと何ら変わりないとのことだった。司野は満足げに頷いた。素羽を起こさないよう、彼はゲストルームでシャワーを浴びてから主寝室へと戻った。ベッドの上では、素羽が薄手の掛け布団を抱きしめ、身を丸めて眠っていた。司野は彼女の隣に横たわると、腕を伸ば
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第386話

素羽が激しい吐き気に襲われる一方で、司野の顔はどす黒く曇っていた。彼女の拒絶がこれほどの域に達しているとは、まったく予想していなかった。せっかく昂っていた欲情も、素羽の嘔吐によって跡形もなく霧散してしまったのだ。司野は森山を呼んで後始末をさせると、怒りに任せるままゲストルームへと引き上げ、そのまま眠りに就いた。司野の姿が消えたのを確認して、素羽はようやく安堵の息をつき、強張っていた身体から力が抜け落ちた。深夜、眠りについたばかりの司野は、再びボディガードに叩き起こされた。昨日と同じ状況だ。夢遊病のように彷徨う素羽の姿を目の当たりにすると、寝る前まで胸に燻っていた不満など、すでに跡形もなく消えていた。素羽は門の前で何度か「帰りたい」と呟き、その奇妙な儀式のような行動を終えると、何事もなかったかのように屋敷へと引き返していった。その背を見つめながら、司野の胸中は穏やかではいられなかった。案の定、素羽本人は自分の夢遊状態について、露ほども自覚していない。司野は、琴子に言われた言葉を思い出していた。「あなたは神様じゃないのよ。こんなふうに閉じ込めていたら、体が壊れる前に精神が壊れてしまうわ。精神の病の方がよほど命取りになるって、分かっているの?」認めたくはなかったが、今の素羽の精神状態が不安定であることは、司野にも明らかだった。問題があれば解決する。それが彼の一貫したやり方だ。司野はすぐさま、素羽のために心理カウンセラーを手配した。——目の前で自己紹介を始めたカウンセラーに対し、素羽は単刀直入に言い放つ。「……私は病気じゃないわ。帰ってちょうだい」女性医師・安田三智子(やすだ みちこ)は、穏やかな声音で応じた。「ただの友人として、お話ししてみませんか」素羽に言わせれば、カウンセリングを受けるべきなのは司野の方だ。自分はこれ以上ないほど正常だと信じて疑っていなかった。結局、心理カウンセラーと素羽の最初の面談は、あっけなく失敗に終わった。治療には患者本人の協力が不可欠であり、強引に進めることなど不可能だからだ。三智子は柔らかな微笑みを崩さぬまま、静かに立ち上がる。「お邪魔しました。本日はこれで失礼いたしますね」素羽は窓の外を見つめたまま、最後まで一言も返さなかった。部屋を出た三智
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第387話

三智子は美玲に対して終始丁寧だったが、口は固く閉ざされたままだった。「申し訳ありませんが、患者様の情報を軽々しくお話しすることはできません」美玲は不満げに唇を尖らせたものの、そこまでして知りたいわけでもなかった。病んでいるのが兄でないと分かれば、それ以上追及する興味もすぐに薄れてしまったのだ。彼女はそのまま景苑別荘の中へ入り、兄のもとへ向かった。書斎のドアをノックして開けた途端、充満した煙草の煙に思わず激しくむせ返る。「ゲホッ、ゲホゲホッ……」その音に、司野が顔を上げた。「何の用だ」美玲は唇を突き出して抗議する。「用がなきゃ来ちゃいけないの?お兄ちゃん、最近ちょっと冷たすぎるわ。私、たった一人の可愛い妹でしょ?」その言葉に、司野の眉間に刻まれていた険しさがわずかに緩み、表情が幾分和らいだ。「……どうした?」美玲は兄に似た瞳をきょろきょろと巡らせながら言う。「もうすぐ私の誕生日だって、覚えてる?」言われなければ、司野は確かに失念していたかもしれない。「何が欲しい?」美玲は限定品のブランドバッグやジュエリーの名をいくつか挙げた。司野は短く頷き、了承の意を示す。美玲はさらに続けた。「十七歳の誕生日って、成人前では一番大事な日なの。友達にもみんな来てほしいし……お兄ちゃん、叶えてくれる?」司野の頭の中は素羽のことで占められており、妹の話をまともに聞いている様子もなく、生返事のように頷いた。その隙を逃さず、美玲は畳みかける。「じゃあ、美宜さんにも残ってもらって、一緒に私の誕生日を祝ってもらうわね」美宜の名が出た瞬間、司野の意識がようやく引き戻された。だが、彼が口を開くより早く、美玲が先手を打つ。「もう約束したんだから、取り消しはなしよ。これも誕生日プレゼントなんだから、絶対に」数秒の沈黙の後、司野は低く言った。「誕生日が終わったら、すぐに彼女は送り出す」美玲は素直に頷いた。誕生日まではまだ半月ある。まずは時間を稼ぎ、その後のことはその時に考えればいい。目的を果たした美玲は満足げに部屋を後にした。この朗報を、早く美宜に伝えなければ。寝室の前を通りかかったとき、美玲は思わず中を覗き込んだ。そこには、静かに座り込む素羽の姿があった。一体、どんな病気なのだろ
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第388話

三智子は毎日一、二時間を素羽との対話に充てていたが、その態度は司野に対する時と同様、彼女をまるで空気のように扱い、徹底して無視するものだった。三智子は患者に無視されることには慣れており、変わらぬ穏やかな声で語りかける。「今日はいいお天気ですね。下の庭へ散歩にでも行きませんか?」素羽は淡々と口を開いた。「……あなたが司野に、私の自由な出入りを認めさせてからにして」三智子は静かに応じる。「相談してみることはできますよ」だが素羽は、その言葉を信じてはいなかった。司野が首を縦に振るとは思えない。自分がまだ「合格点」をもらえるような良き妻になど、なり果てていないからだ。結局、その日の対話も、三智子が語り、素羽が短く応じるか、あるいは沈黙を貫く形で終わった。立ち去り際、三智子は持参していたクチナシの花をそっと机の上に置いた。「これをあなたに」素羽は視線を上げて一瞥したが、表情に変化はない。三智子は続けた。「下の庭でたくさんの花を育てているのを拝見しました。大半はあなたが手入れをなさっているそうですね。素晴らしいわ。私も花を育てるのは好きですが、どうも下手で、いつも枯らしてばかり。でも、クチナシだけは私の手元でも生き残ってくれると気づいたんです。花屋さんが教えてくれました。クチナシは寒さにも乾燥にも強く、とてもたくましい花なのだと。たとえ蕾を摘み取って水に浸しても、簡単には枯れない。翌日にはまた新たな生気を取り戻し、自分のために花を咲かせるのだそうです」素羽は静かに言った。「……咲いたところで、どうなるの。結局は死ぬことに変わりないわ」三智子は微笑みを崩さず答える。「死は誰にとっても終着点であり、例外はありません。誰にもコントロールできないものです。けれど、人生は自分自身のもの。悲しんで過ごすのも一日、楽しく過ごすのも一日です。なぜ自分を苦しめながら生きる必要があるのでしょう。自分を痛めつけて他者を喜ばせるより、苦しみの中にも楽しみを見出した方が、少なくとも幾分かは楽になれるはずです」言葉が途切れると、部屋には静寂が落ちた。素羽は再び沈黙に沈む。生きることと、ただ永らえること――その違いを、彼女ははっきりと理解していた。死のうとしているわけではない。だが、司野に応じることも億劫で、彼に
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第389話

三智子はそれを聞いて愕然とし、問い返した。「私に用?……一体何のことですか」診察でないのなら、自分に何の用があるというのか。美宜は落ち着き払った様子で言った。「あなたが素羽のカウンセリングを担当していると聞きました」三智子の瞳に、微かな動揺が走る。美宜はさらに畳みかけた。「……彼女、何の病気なのですか?」三智子は答えた。「申し訳ありませんが、お答えできません」患者の病状を漏らさないことは、心理カウンセラーとしての絶対的な職業倫理だ。「……失礼ですが、お引き取りください。仕事がありますので」美宜は動こうとはせず、足元に置いていたバッグを机の上に持ち上げた。三智子はその黒いボストンバッグと美宜を交互に見つめ、彼女が何をしようとしているのか測りかねていた。次の瞬間、美宜がファスナーを開けると、そこには分厚い札束がぎっしりと詰め込まれていた。三智子はあまりの光景に呆然とした。「……どういう意味ですか」縁もゆかりもない見知らぬ者が、突如としてこれほどの巨額を突きつけてくる。棚からぼた餅などとは到底思えなかった。「あなたがどなたか存じませんが、そのお金を持って帰ってください」美宜はバッグを彼女の前へ押しやった。「これはあくまで手付金です。私の頼みを聞いてくれると約束すれば、さらに報酬を追加しますわ」三智子が、この見るからに罠だらけの要求を飲むはずがなかった。「申し訳ございませんが、私はあなたのことも、あなたが何をしたいのかも知りませんし、知るつもりもありません。今すぐ私のオフィスから出て行ってください」美宜は立ち去る気配を微塵も見せず、余裕の表情で悠然と口を開いた。「……あなたの弟さんは強姦魔で、ご両親も共犯なんですってね」その言葉に、三智子の瞳が鋭く凍りついた。沈痛な面持ちで彼女を凝視する。美宜は優雅に微笑み、独り言のように続けた。「……自分の担当カウンセラーの家族に強姦魔がいると知ったら、患者たちはどう思うかしら。あなたを信頼し続けるかしらね?腐った根っこから立派な筍が生えるなんて、信じてくれると思いますか?あなたが所属しているこの機関も、そんな不安定な因子を置いておきたがるかしら」三智子の呼吸が微かに荒くなった。「……一体、何が望みなんですか」この女は明らかに計算ずくで現れ
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第390話

呼吸を整え、三智子は努めて平静を装いながら電話に出た。「……はい、安田です」スマートフォン越しに、司野の低い声が響く。「出張の件ですが、妻が同行することになりました。安田先生にも、ぜひご一緒いただきたい」その言葉に、三智子は胸の奥からこみ上げる安堵を覚えた。「……承知いたしました」通話が切れたあと、背中が冷や汗でびっしょりと濡れていることに気づく。視線の先には、あの札束の詰まったバッグが置かれており、その奥に宿る色は、暗く底知れないものだった。——司野に連れ戻されて以来、素羽は自律を奪われ、自らの意思で何かを選ぶことさえ許されなくなっていた。出張当日、素羽は荷物とともに、半ば押し込まれるようにして車へと乗せられた。迎えに来ていた岩治は、その様子を見て驚きを隠せず、内心で毒づく。――これは執着ゆえの同行か、それとも監視か。これまでは帝王に仕える臣下のような気分で二人の関係を眺めてきたが、いまや社長の胸中は読み解くことも、推し量ることもできない。迷走する上司の恋愛に、彼もすっかりお手上げだった。空港には、すでに三智子が到着していた。彼女の姿を目にしても、素羽は一切の反応を示さない。一行は飛行機に乗り込み、数時間後、浜洲の空港へと降り立った。ホテルに着くなり、司野には処理すべき業務が入り、素羽と昼食をともにする時間すらなかった。彼は素羽の首元に腕を回して引き寄せ、額に口づけを落とす。「……仕事が片付いたら、ゆっくりあちこち連れて行ってやる」その手が離れた瞬間、素羽は露骨な嫌悪を浮かべて額を拭い、彼を完全に無視したまま部屋へと背を向けた。ドアの外で控えていた岩治は、その一部始終を目撃し、恐る恐る上司の顔色を窺う。だが意外なことに、司野は微塵も怒っていなかった。それどころか、その拒絶にすでに慣れきっている様子すらあった。岩治は表情を変えぬまま、胸中で苦笑する。――社長、まさか……Mの傾向に目覚めたんじゃないだろうな。やがて司野が立ち去ると、ほどなくして三智子が部屋を訪れた。「須藤さんから昼食をご一緒するよう言付かっております」機内食に手をつけていなかった素羽は、空腹を覚えていた。三智子の同伴を拒まなかったのは、拒んだところで無意味だと理解していたからにほかならない。
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