All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 531 - Chapter 540

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第531話

司野がここ最近で負った傷の数は、過去数年間のそれを遥かに凌駕していた。そして皮肉にも、そのすべての傷を刻んだのは、かつて誰よりも彼の身体を気遣い、大切にしていた素羽だった。自分の身体に刻まれた傷跡を目でなぞるたび、彼の瞳の奥には言いようのない暗い影が落ちていく。病院のベッドに横たわる司野の顔は、失血のせいで青白く、病的に色褪せていた。岩治は、まるで働き者の蟻のように病院内をせわしなく動き回っていた。「入院の手続きはすべて完了しました。今夜はここで安静にしてください」司野はゆっくりと瞼を伏せ、内側に渦巻く複雑な感情を隠すようにして口を開いた。「岩治、素羽の精神状態がどうもおかしい」彼女が深く傷ついていることは理解していた。だが、ここまで深刻に崩れているとは想像していなかった。感情はすでに本人の制御を離れ、壊れかけの均衡の上で危うく揺れている。潔癖症の司野のためにシーツを整えていた岩治は、その言葉に一瞬だけ手を止めた。心の中では「むしろ当然の結果だろう」と冷ややかに切り捨てる。彼の目から見れば、あれだけの仕打ちを受けながらも表面上の平静を保っていたこと自体が異常なほどの耐性だった。普通の人間なら、とっくに心が折れていてもおかしくない。岩治は尋ねた。「素羽さんのために、こちらで医師を手配いたしましょうか?」司野はわずかに首を振る。「いや……俺が用意した医者では、彼女は受け入れない」その程度のことは理解しているらしい、と岩治は内心で皮肉を飲み込んだ。司野はどこか遠くを見るように、低く呟く。「岩治、俺はどうすれば……彼女の許しを得られる?」――今さら何を言っているのか。岩治は内心でそう吐き捨てた。状況はすでにここまで壊れている。許しを得るなど、言葉ほど簡単な話ではない。彼は核心を避けるように答えた。「まずはお身体を休めてください。解決策は明日、改めて考えましょう」神でもない限り、都合のいい答えなど出せるはずがない。かつて何度も忠告したはずだ。素羽に対してあまりに冷酷な手を下すな、と。しかしこの男は聞かなかった。その結果が今だ。すべてを失った後で赦しを求めても、相手もまた一人の人間である以上、簡単に水に流せるはずがない。これほどの仕打ちを許せるのは、もはや神くらいだろう。望んでいた答
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第532話

素羽は今の自分の精神状態では、これ以上仕事に関わるべきではないと考えていた。しかし雅史の意見は違った。彼は素羽の体を頭からつま先まで忌々しげに眺め、鼻で笑って言い放った。「腕がもげたわけでも、脚が折れたわけでもなかろう。その若さで、もう引退して隠居でもするつもりか?この七十、八十を過ぎた老いぼれのわしが、まだ現役で血反吐を吐きながら働いているというのに、わしを差し置いて先に引退とは、いい身分だな」そう言うと、雅史は彼女の前に数冊のデザイン案件資料をどさりと投げ出した。「一週間以内に、初稿のデザインをすべて形にしろ」素羽は絶句した。「……先生、私はAIではありません」雅史は眉を吊り上げる。「君がもしAIなら、一週間もやると思うか?2秒で出せと言っている」素羽は言葉を失った。随分と買いかぶられたものである。素羽は両手を広げ、はっきりと拒絶の意思を示した。「無理です。できません」一週間どころか、今の彼女には半月の猶予をもらっても、一本の線すらまともに引ける状態ではなかった。その言葉を聞いた瞬間、雅史は目をカッと見開き、わざとらしく怒気を露わにした。「なんだ、大学を出たからといって、もうわしの言うことは聞けんというのか?『たとえ一日でも師と仰いだ者には、生涯の敬意を払うのが礼儀』ということを知らんのか!」「先生……」素羽はなおも断ろうとした。今の彼女にはそんな気力は残っていないし、何より頭の中は雑音で満ちていて、机に向かうこと自体が不可能に近かった。しかし雅史は、彼女に拒否権を与えるつもりなど毛頭なかった。「おい、わしの藤の鞭はどこへやった?」すると、それまで傍らで黙って二人のやり取りを見ていた清人がすかさず口を開いた。「僕が取ってまいります」素羽は目を丸くして絶句した。ちょっと、清人先輩?そこで話を合わせるのは、状況的に正解なんですか?雅史は髭を震わせながら怒鳴った。「君という奴は、少し痛い目を見んと正気に戻らんのだ。一発引っぱたけば、その腐った根性も叩き直されるだろう!」結局、鞭を避けるため、素羽は渋々その条件を呑むしかなかった。雅史は鼻を「ふん」と鳴らし、その眼差しはまるで「やはり叩かねば使い物にならん」とでも言いたげだった。それどころか、雅史は素羽を帰宅させることすら許さず、
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第533話

雅史は怒る様子も見せず、至って平然と言い放った。「瑞基が噛んでいるというなら、この話はここまでだ。我々の協力関係も、これで終わりにする」「先生……」素羽の引き止める声にも耳を貸さず、雅史は一切迷いなく態度を貫いた。クライアント担当者は、まさかそこまで一刀両断されるとは思っておらず、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。こうなっては、これ以上この場に留まって食事を続ける意味もない。雅史は躊躇なく席を立つと、そのまま部屋を後にした。素羽も慌ててその後を追うしかなかった。「先生……」廊下に出たところで素羽が声をかけると、雅史は振り返りもせずに言い捨てた。「先生、先生とうるさい!わしはまだ君に葬式の泣き言を言われるほど老いぼれちゃおらん。わしの魂まであの世へ呼び寄せる気か」素羽は苦笑した。ずいぶんの高齢のはずなのに、どうしてこれほど血気盛んなのか。素羽は静かに言った。「私のために、そこまでしていただく必要はなかったのに」自分と司野の泥沼の確執は、先生のキャリアには何の関係もないはずだ。雅史は彼女を斜めに睨み、皮肉っぽく鼻で笑った。「君という奴は、ずいぶん面の皮が厚いな。誰が『君のために』断ったと言った?」へそを曲げた頑固さ全開の雅史に、素羽はあえて問い返す。「私のためじゃないなら、どうしてあんなにきっぱり協力を拒んだんですか?」雅史はふんと鼻を鳴らした。「今度はこのわしの判断にまで口出しか?君が先生か、それともわしが先生か。随分偉くなったもんだな」どれだけ毒舌を浴びせられても、素羽は怒るどころか、むしろ柔らかい笑みを浮かべた。「私はただ、先生のお体が心配なだけです」雅史は「ふん」と冷笑した。「自分の心配でもしておけ。わしは金も名声も何でも持っている、君に心配される筋合いはない」「……」――この頑固じじい、朝から何を食べたらここまで気性が荒くなるのかしら。素羽は内心で小さくため息をついた。「先生、曾根先生……!お待ちください!」個室からクライアント担当者が慌てて追いかけてくる。「何か問題があれば、いくらでも話し合いの余地はございます!」雅史は足を止めずに言い放った。「話し合うことなど何もない。今後、瑞基が一口でも噛んでいるプロジェクトには、わしは一切関わ
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第534話

雅史の口は、まるで装填を終えたマシンガンのように止まることなく、司野へ容赦ない一斉射撃を浴びせた。これでも彼が教養ある人物であるがゆえに、かろうじて品位を保っているにすぎない。もしそうでなければ、もっと下品な罵声の嵐が廊下に吹き荒れていただろう。俗な言葉を使わない教授だったことが、むしろ司野にとっては不幸中の幸いだった。その一方的な罵倒が止むと、廊下は一瞬で静まり返った。言い切った雅史は、衣の袖をひと振りし、そのまま堂々とその場を後にする。岩治は視線をどこか遠くへ泳がせ、頑なに司野の方を見ようとしなかった。見なくても分かる。上司の顔色がどれほど最悪な状態になっているかは想像に難くない。クライアントの担当者たちも一斉にうつむき、「自分は最初から存在していなかった」ことにしたいと願っていた。野次馬根性で修羅場を見るのはまだいいが、世の中には「見てはいけない修羅場」というものが確かに存在する。今日この場に居合わせたことで、後から司野に口封じされるのではないかと、皆が内心で冷や汗をかいていた。しかし当の司野は、顔色こそ冴えないものの、怒りで爆発するほどではなかった。それどころか、そこには微かな安堵さえ混じっている。まるで、今の素羽のそばに「盾になる存在」が現れたことを、どこかで受け止めているかのようだった。司野はクライアント担当者へ視線を向ける。「今、何の打ち合わせをしていた?」その一言に、担当者は反射的に背筋を伸ばし、忠誠を誓うかのような態度を取った。自分たちは完全に須藤家の味方であり、先ほどの件にも一切関係しない――そう必死に示そうとする。だが司野はその意図を察すると、淡々と告げた。「……俺は引く。このプロジェクトはすべて素羽に任せてくれ」彼女の能力を、司野は誰よりも知っている。かつて畑違いの広報業務に放り込まれたときでさえ、完璧にやり切り、業界の上位にまで登り詰めた人間だ。本来の専門であるデザインなら、なおさら結果を出すのは当然だった。担当者の顔色が一気に変わる。「須藤社長、それは……」出資者が手を引くということは、この案件が途中で空中分解するということではないのか。先ほどの騒動の腹いせか、それとも別の意図があるのか。担当者の頭の中は一気に混乱し、内心では胃を押さえたくなっていた。余計な場面を
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第535話

先生が自分を責めてこないと分かると、素羽は張り詰めていた神経をようやく少しだけ緩めた。とはいえ、すくめた肩はまだ真っ直ぐには戻らない。この偏屈な爺の機嫌がいつまた爆発するか分からない以上、油断はできない。今はただ、息を潜めてやり過ごすしかなかった。雅史は怒鳴りつけこそしないものの、その口調に優しさの欠片もなかった。「おい、料理は足元にでも転がっているのか?いっそ茶碗を持ってテーブルの下に潜り込んで食え。そんなに縮こまって何になる。背筋を伸ばさんか。いつもビクビクしているから、他人に付け込まれて舐められるんだ。少しは骨のあるところを見せていれば、あそこまでコケにされることもなかっただろうに。まったく、どうしてこんな腑抜けを弟子にしてしまったんだ。わしの面目丸潰れだわ」今にも胸を叩いて悔しがりそうなほど、雅史は不甲斐ない弟子への苛立ちを爆発させていた。同時に、須藤家のろくでなし――司野への怒りも燃え上がっている。まともだった人間を、よくもここまでズタズタに追い込んだものだ。雅史は込み上げてくる熱を誤魔化すように、わざと荒い声を張り上げた。「さっさと食え!干からびた木の枝みたいにガリガリになりおって。そんな奴を連れて歩いたら、こっちが猿回しの親方だと思われるわ!大飢饉を生き延びた連中だって、君よりは肉がついておる。道行く人間も、見かけた瞬間に全力で距離を取るわ。ぶつかって当たり屋扱いされたらたまらんからな」素羽は唇を尖らせて不満を漏らした。「私、もう十分辛い目に遭ってるんですから、これ以上お説教しないでくださいよ……」雅史は鼻で笑った。「説教だと?これのどこが説教だ。君はわしが本気で人間を罵るときの恐ろしさを知らんようだな」そう言うなり、今にも本格的な罵倒を始めそうな勢いで腕まくりをする。それを見た素羽は、慌ててこれ以上ないほど下手に出た。今にも膝をついて謝りそうな勢いである。「私が悪かったです、先生。もう言いません、全部私のせいですから。ほら、早く食べましょう。冷めますよ。冷たいものは胃に悪いですから」そう言いながら、素羽は機嫌を取るように次々と料理を取り分けていく。雅史は鼻から「ふん」と荒い息を吐き、彼女を睨んだ。「わしの胃が悪いのはな、一体誰のせいでストレスが溜まっていると思っている
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第536話

心に傷を抱えた人間には、後ろを振り返らせるよりも、前へ進ませる力が必要なのだ。雅史という、まるで鬼軍曹のような師匠のもとで、素羽の毎日は仕事で隙間なく埋め尽くされていた。こき使われる日々の中では、余計な悩みごとを考える余裕など欠片も残らない。朝、目を覚ました瞬間から雅史に急き立てられ、図面を引き、修正を重ねる。こんなにも充実した毎日を送ったことは、これまで一度もなかった。「この書類を例の工事現場まで届けてこい」雅史はそう言うと、書類の束を素羽に向かって放り投げた。彼は専属の施工チームを抱えており、その書類は現場の職人たちへ届けるものだった。素羽が書類を手に外へ出ようとすると、雅史はさらに追い打ちをかけるように言った。「帰りに『満腹亭』の特製厚切りカツサンドを買ってこい。わしの分だ。ちょうど通り道だろう」「……」工事現場は南、満腹亭は北。果たしてそれを「通り道」と呼んでいいものだろうか。素羽はため息混じりに口を開いた。「先生、カツサンドは脂っこすぎますよ。先生ももう若くないんですから、胃に負担がかかります。もっとあっさりしたお蕎麦とかにしたらどうですか」本音を言えば、ただ遠回りしたくないだけだった。案の定、雅史は目をむいた。「わしはまだ七十にもなっとらんわ!何がお年寄りだ。君は若いくせに近所の婆さんより口うるさいな。四の五の言わずにさっさと行け。少し用事を頼んだだけで、いつもそんな不満そうな顔をしおって。今でさえこれだ。将来わしが寝たきりにでもなったら、君は真っ先に荷物をまとめて、わしを川へ放り込むつもりだろう」「……」たった一言返しただけで、十倍になって返ってくる。しかもその内容は、将来の薄情者の自分をこれでもかと断罪するものばかりだった。こうなれば、これ以上余計なことを言うだけ無駄だ。素羽は尻尾を巻いた犬のように、早々にアトリエを後にした。背後からは、なおも元気いっぱいの怒鳴り声が飛んでくる。「二つ買ってこい!一つじゃ足りん!ソースも多めだ!」素羽は振り返りもせず、声だけ返した。「分かってます!」彼女は車を走らせ、目的の工事現場へ向かった。現場は開発区にあり、周囲はひどく殺風景だった。無事に書類を現場責任者へ手渡す。「紬さん、わざわざありがとう」
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第537話

かつてなら、自分が少しでも体調を崩したと聞けば、司野は息つく間もなく駆けつけてきた。誰よりも近くで寄り添い、惜しみなく労わりの言葉をかけてくれた。それなのに今は――彼はただ、自分が一日も早く死ぬことだけを望んでいる。美宜は口元を歪め、自嘲めいた笑みを浮かべた。現実とは、なんと皮肉で残酷なのだろう。司野は病床へ近づこうともせず、向かいのソファへ腰を下ろした。まるで彼女との間に、越えようのない一線を引くかのように。美宜の濁った黒い瞳が、じっと彼を見据える。掠れた声には、鋭い皮肉が滲んでいた。「どうしたの?今はもう、私に近づくのも嫌なのかしら。昔はあれほど私を盲目的に庇って、大事にしてくれたのに。妻だった素羽のことだって、私のために何度も何度も後回しにしてきたくせに」司野は、思い出話に付き合うためにここへ来たわけではない。「用件を話せ」冷え切った声が返る。美宜は乾いた唇の端をゆっくりと吊り上げた。「千尋への想いは、本当に深くて揺るがないのね。こんなに年月が経っても、片時も忘れられないなんて。それほど忘れられない相手だったのなら、どうしてあの時、素羽と結婚したの?それに、どうしてあそこまで離婚を拒み続けたのかしら」司野の顔に、露骨な不快感が浮かぶ。「お前の無駄話を聞くために来たんじゃない」だが美宜は意に介する様子もなく、言葉を続けた。その瞳の奥では、司野への底なしの憎悪が煮えたぎっている。「そんなに焦らなくてもいいじゃない。千尋は死んだりしないわ。それどころか、今にもあなたに殺されそうなのは私の方よ」美宜の憎しみなど、司野にとっては取るに足らないものだった。素羽がかつて感じていた通り、この男の冷酷さは骨の髄にまで染みついている。彼の執着も愛情も、一人の人間に永遠に向けられるものではない。ある時は一人の人間を天にも昇るほど愛し抜き、またある時は骨まで砕くほどの悪意を向ける。すべては彼自身の感情次第だった。そもそも、この男には人の心が欠けている。――いや、違う。心がないわけではない。その心は千尋という存在に捧げられているとも言えたし、あるいは最初から最後まで自分自身のためだけに存在しているとも言えた。美宜はまるで、死を前にして最後の願いを叶えようとする者のような執念を漂わせて
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第538章

美宜の言葉は、司野の顔色を一変させるには十分だった。彼の脳裏に、真っ先に素羽の名が浮かぶ。同時に、その表情は凍てつくような冷徹さに染まっていった。「岩治!」司野は鋭く声を張り上げた。その声を合図に、秘書の岩治がすぐさまドアを開けて入ってくる。その顔には、明らかな疑念の色が浮かんでいた。司野の声には、隠しきれない焦りが滲んでいる。「今すぐ素羽の居場所を突き止めろ」岩治は短く頷いた。「承知いたしました」「それから、利津の居場所もだ!」その言葉に、岩治は一瞬だけ動きを止めた。視界の端に映ったのは、病室のベッドの上で狂気じみた勝ち誇った笑みを浮かべる美宜の姿だった。――まずい。そう直感する。もはや一刻の猶予もない。「かしこまりました」司野は再び美宜へ視線を向けた。その瞳に宿るのは、獲物を仕留める寸前の猛獣のような殺気だった。「素羽が無事であることを神に祈るんだな。でなければ、お前を生かしも殺しもせず、この世の地獄を味わわせてやる」今の美宜は、生死さえ超越してしまったかのようだった。禍々しい笑みを浮かべ、一語一語を噛み締めるように言う。「司野、今さらどんな深い愛情を装っているの?素羽がこんな目に遭ったのは、元をたどればあなたのせいよ。そして、この両脚だって、あなたが私に負わせた借りでしょう?あの女の脚で償わせるのは当然じゃない」司野の瞳が陰鬱に細められた。今すぐこの女を引き裂いてやりたい。そんな衝動が胸の底から湧き上がる。だが、今はその時ではない。すべては素羽を見つけ出してからだ。「この女から目を離すな。絶対に死なせるな!」司野は入口に控えるボディーガードたちに低く命じると、そのまま大股で病室を後にした。「あははは!もう遅いわよ!素羽は今ごろ、私と同じ姿になっているわ!あの女は廃人になるの!私と同じ、何もできない廃人にね!」美宜の金切り声が背中に突き刺さる。その声に追い立てられるように、司野の足取りはさらに速くなった。歩きながら、狂ったように利津へ電話をかけ続ける。だが結果は火を見るより明らかだった。利津が応答する気配は、欠片もない。司野はすぐに利津へメッセージを送った。【素羽には手を出すな】利津がこのメッセージを見るかどうかも分からない
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第539話

利津は、まさに用意周到だった。あろうことか、自分の計画のために医師まで「ご丁寧に」手配していたのだ。素羽は知っている。利津のような特権階級の人間は、思い通りに物事を動かすことに慣れきっている。ひとたびやると決めれば、恐れるものなど何もない。だからこそ、怒りが込み上げてくる。自分の人生が、あの連中の気まぐれひとつで踏みにじられ、弄ばれる玩具のように扱われていることが、どうしようもなく悔しかった。一つの部屋から別の部屋へ移された素羽は、室内に並ぶ医療器具の数々を目にした瞬間、背筋を氷でなぞられたような悪寒に襲われた。素羽は絞り出すように言った。「私、麻酔のアレルギーがあるの」医師の手がぴたりと止まり、振り返って利津を見る。しかし利津は、素羽がただ時間稼ぎをしているだけだと思い込んでいた。「そんな言い訳で、俺が諦めるとでも思っているのか」素羽はまるで抵抗を諦めたかのような、ひどく冷めた表情で静かに答えた。「事実を伝えただけよ」利津は彼女の顔をじっと見つめ、嘘の気配を探ろうとした。だが、その時だった。ポケットの携帯電話が鳴り響く。画面に表示された司野の名前を見て、利津のまぶたがわずかに動いた。着信を拒否しても、司野からの電話は執拗に続く。さらに送られてきたメッセージに目を通した瞬間、利津の顔にははっきりと焦りが浮かんだ。素羽を拉致するにあたり、彼は完璧に痕跡を消したわけではない。調べる気になれば辿り着ける程度のものだ。発覚するのは時間の問題だった。そして、その時間こそが今の利津にとって何より貴重だった。残されたわずかな時間のうちに、何としてでも素羽の脚を奪わなければならない。本来なら事前にテストを行う予定だった。だが利津は、その手順すら切り捨てた。瞳を暗く沈め、心を鬼にしたような声で命じる。「テストはいい。今すぐ始めろ」素羽は濁った黒い瞳で、冷然と命令を下す利津を睨みつけた。これが、彼の言う「命までは奪わない」の正体なのか。やはりこの男も司野の親友だ。どこまでも残酷で、容赦がない。利津は医師に「早くやれ」とだけ言い残し、そのまま部屋を出ていった。医師は素羽の前に医療用の綿を差し出した。「これを噛んでいなさい。少しは痛みが和らぐ」自分の罪悪感を少しでも軽くしようとす
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第540話

地面に倒れ伏した利津を見下ろす素羽の瞳には、底なしの憎悪だけが渦巻いていた。その視線は男の顔から、やがてゆっくりと両脚へと落ちていく。素羽の目に狂気の光が宿り、唇の端が不気味につり上がった。「……私の脚を奪うって言ったかしら?」そう言い終えるや否や、彼女は利津の反応を待つこともなく、手にした鉄製の椅子を再び振り上げ、その脚へ向かって力任せに叩きつけた。凄まじい衝撃に、朦朧としていた利津の意識は無理やり引き戻される。引き裂かれるような絶叫が別荘中に響き渡り、その異変を察知した門外のボディーガードたちが一斉に駆け込んできた。「あんたなんかに、その資格はないのよ!」素羽は叫びながら、さらに憎しみを込めて椅子の角を利津の脛へ叩きつけた。自分はただ、人を見る目がなく、結婚相手を間違えただけだ。それなのに、この男たちのどこに、自分をここまで無惨に踏みにじる権利があるというのか。彼らが心から愛する者の命だけが尊く、自分の命はここまで軽く扱われ、都合よく切り捨てられていいはずがない。素羽は低く冷え切った声で吐き捨てた。「私の脚を壊したいって?そんなこと、させるものか!」再び鉄製の椅子が容赦なく振り下ろされる。肉の潰れる鈍い音とともに、骨が砕ける不吉な破裂音が響いた。あまりの激痛に利津の顔は無残に歪み、恐怖に引きつる。「この狂った女……やめろ――ぎゃあああっ!」素羽の瞳には凶暴な光が宿っていた。狂った女?自分をここまで追い詰め、狂わせたのは他でもない、この男たちだ。素羽はとうの昔にすべてを諦め、自分自身を許し、彼らとの泥沼の因縁から手を引こうとしていた。それなのに、彼らは決して自分に安息を与えなかった。崖っぷちへと追い詰め、生きるための細い道すら残そうとしなかった。ここで狂わなければ、自分は彼らの手によって無惨に壊されるだけだった。「そこまでだ!手を離せ!」血相を変えて飛び込んできたボディーガードたちが、思わず声を上げる。素羽は即座に、無残に砕けた利津の脚を踏みつけ、凍りつくような声で一喝した。「動かないで!」「がっ……ああああっ!」利津は顔色を土気色に変え、身体を丸めながら反撃しようとした。だが素羽は容赦なく鉄製の椅子を彼の肩口へ叩きつける。利津は再び激痛にの
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