All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 681 - Chapter 690

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第681話

旧友との再会ともなれば、話に花が咲いて時間を忘れてしまうのも無理はない。気心の知れた人のそばにいると、素羽もようやく自分の居場所を見つけたような気持ちになれた。先生を安心させ、喜ばせるために、素羽は持てる力をすべて振り絞った。そして、ようやく彼の心の中に残っていた不安を落ち着かせることができた。先生のことで頭がいっぱいだったため、当然ながら奏からの着信には気づかなかった。改めてスマホを手に取ると、十件以上もの不在着信が残されていた。彼からのこうした連続着信には、素羽もすっかり慣れたものだった。清人と先生に一言声をかけてから、素羽は折り返しの電話をするため病室を出た。その十件以上の不在着信は、清人の目にも入っていた。もちろん、他人のプライバシーを覗こうとしたわけではない。ただ、偶然視界の端に映り込んだだけだった。画面に表示された登録名に気づいた瞬間、清人はわずかに目を伏せ、その瞳の奥に暗い影を落とした。廊下に出た素羽は、すぐに電話をかけ直した。コール音が一度鳴っただけで、すぐに通話が繋がる。次の瞬間、電話の向こうから奏の声が聞こえてきた。「忙しいの?」不満そうで、少し拗ねたような声。それでも感情を必死に抑えているのが伝わってきて、素羽は思わず口元を緩めた。「どうして電話に出なかったのって、素直に聞けばいいじゃない」奏はすぐに言い返した。「君が聞けって言ったから聞いてるだけだからね。俺が無理やり問い詰めたわけじゃないんだから、後になってまた俺が横暴だとか理不尽だとか言わないでよ」素羽は答えた。「はいはい、言わないよ」奏は素直な子どものように、すぐに次の質問をした。「じゃあ、さっきまで何して忙しかったのさ。あんなに何度も電話したのに、全然出ないんだもん」素羽は目を細め、少しいたずらっぽく言った。「教えない」電話の向こうから、奏がギリッと歯を食いしばるような音が聞こえた。「……俺のこと、からかってる?」素羽は笑いながら答えた。「よく分かったね」奏はふんと鼻を鳴らし、不満げに言った。「なんだよ、それ。傷つくじゃないか。言っておくけど、俺が傷ついた時に機嫌を直すのって、すごく大変なんだからね」素羽は軽い調子で返した。「じゃあ、慰めるのはやめておくね」奏は、自分
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第682話

奏はバックミラー越しに、まるで主の帰りを待ち続ける忠犬のように、いつまでもその場に立ち尽くしている清人の姿を見て、唇を尖らせた。「君のあの先輩、どこかおかしいんじゃないの?」素羽は言った。「どうしてそんなこと言うのよ」奏は答えた。「おかしくないなら、どうして他人の奥さんをあんなに見つめるんだよ?見た目は普通そうだけど、どこか悪い病気でも抱えてるんじゃないの?」素羽は彼を軽く睨んだ。「誠矢があなたを嫌うのには、ちゃんと理由があるわね。本当に可愛げのないことばかり言うんだから。先輩は私の親友よ。適当なことを言わないで」奏は口を尖らせた。同じ男として、清人がどんな目をして素羽を見ていたのかくらい、彼にははっきり分かっていた。「君の友達は、俺の友達でもあるさ。君がそう言うなら、これ以上は何も言わないよ」幼稚園の門の前で、素羽は先生から誠矢を受け取った。誠矢は、親鳥の元へ飛び込んでいく雛鳥のように、素羽の胸へ勢いよく駆け寄った。「ママ、離れている間、ずっとずっと会いたかったよ。ママも僕に会いたかった?」素羽はその柔らかな小さな頬を撫でた。「ええ、会いたかったわ」無垢な存在と一緒にいると、人の心まで洗われていくような気がした。誠矢は手招きをして、素羽に顔を近づけるよう促した。「ママ、こっち来て。僕からプレゼントがあるんだもん」素羽が腰をかがめた瞬間、温かくて湿ったキスが彼女の頬に落ち、チュッという可愛らしい音を立てた。誠矢はまん丸な目を細め、嬉しそうに笑った。「ママ、僕のプレゼント好き?」素羽は目元を和ませた。「ええ、好きよ」その様子を見ていた奏は、傍らにいたぽっちゃりとした小さな体をひょいと抱き上げた。「俺みたいな大人の男がここにいるのに、お前の目は節穴なのか?男女の区別はちゃんとつけろって教えただろ。お前はもう立派な男なんだから、ママにキスするなんて許さないからな。そういうのをセクハラって言うんだよ。分かってるのか?」誠矢は抱えられたまま、豚のようにフンフンと鼻を鳴らしながら体をよじった。「僕は大人の男じゃないもん。まだ子どもだもん。パパのほうが変態おじさんだよ。いつも夜中にこっそりママの部屋に忍び込んでるじゃないか。この変態おじさん」素羽はそれを聞くと、横目で奏
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第683話

司野の視線は三人の間をさまよい、やがて誠矢の顔に釘付けになった。彼はその子供をじっと観察し、顔立ちのどこかに見覚えのある面影を探しているようだった。子供の眉や目元には、素羽の面影があるように感じられた。あの愛らしくあどけない雰囲気は、かつて素羽にも確かにあったものだ。三人の追いかけっこはすぐに終わり、車は行き交う車の流れに紛れ、幼稚園の門前から消えていった。車内に、司野の低く掠れた声が響く。「調査はどうだ」岩治はまだ、死んだはずの人間が生きていたという衝撃から完全には立ち直れていなかった。素羽が死んでいなかったと分かってはいても、まるで白昼堂々幽霊に遭遇したようなものだ。心臓が縮み上がるような感覚は、なかなか消えてくれなかった。突然聞こえてきた司野の声に、岩治はビクッと肩を震わせた。しかし、すぐに我に返ると、求められていた調査結果を一つひとつ報告し始めた。「西嶋は素羽さんの個人情報を徹底的に隠しており、この数年間の彼女の経歴については、ほとんど何も掴めませんでした。ただ、周囲の人間の話によると、二人の夫婦仲は非常に良好で、彼は妻と子供を溺愛する良き夫、良き父親として知られているようです」そう報告しながら、岩治はバックミラー越しに、こっそり後部座席の司野の様子を窺った。その表情は深い闇に覆われているようで、そこから感情を読み取ることはできない。だが、何度も指先を擦り合わせる仕草が、彼の苛立ちをはっきりと物語っていた。それはまるで、愛する人を他人に奪われたような、どうしようもない不快感だった。「素羽さんの経歴が掴めない一方で、西嶋の過去についてはかなり詳しく判明しています」素羽が彼の前に現れるまで、奏は有名なプレイボーイだった。服を着替えるよりも早いと言われるほど、次々と女性関係を変えていたのだ。対外的な印象は、何もせず酒と遊びに明け暮れる放蕩息子そのものだった。しかし、その偽りの姿があまりにも完璧だったからこそ、かつてサットン家で内紛が起きた際、彼のようなドラ息子がまんまとトップの座に就くことができたのだ。彼が作り上げた偽りの姿は、それほどまでに周囲へ深く浸透していた。司野の声が再び響いた。「子供はいくつだ」岩治は正確な数字を答えた。「四歳八ヶ月です」司野は瞳を暗く沈ませ、
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第684話

その可能性を考えただけで、司野は全身から力が抜けるような感覚に襲われた。煮えたぎっていた血が一瞬にして凍りつき、背筋に冷たいものが走る。素羽が他の男と結婚し、子どもまで産むだと?そんなこと、絶対に許されるはずがない!---素羽が死んでおらず、今も生きているという知らせは、須藤家にとっても、そして何より幸雄にとって、まさに青天の霹靂とも言える衝撃だった。だが、素羽が生きていたこと以上に、彼女がサットン一族のトップに嫁いだという事実のほうが、幸雄には到底受け入れがたいものだった。彼にとって素羽とは、翼をもがれ、反抗する力など微塵も残されていない檻の中の獣だった。自分の思い通りに扱い、必要がなくなれば切り捨てるだけの存在でしかなかったのだ。そんな、取るに足らない存在だと見下していた人間が、今や自分の頭上にまで這い上がってくるなど、誰が想像できただろうか。どうやら、自分は素羽の力量を大きく見誤っていたらしい。まさか、ここまで強大な後ろ盾を見つけてくるとは。「四時前には会社を出たそうじゃが、一体何をしておった」幸雄は、屋敷に戻ってきてから一言も口を開かない司野を、鋭い目で睨みつけた。司野は執事が淹れた茶を口に含んだ。強烈な渋みが一瞬で口いっぱいに広がり、その苦い味をそのまま喉の奥へ流し込む。「この茶、古すぎるんじゃないのか。ひどく苦い」「茶が苦いんじゃあるまい。お前の腹の中が苦いんじゃろうが」幸雄は鼻で笑った。司野は湯呑みを置き、祖父の嫌味には付き合わず、単刀直入に本題へ入った。「俺を呼び出して、何の用ですか」幸雄も遠回しな言い方はせず、率直に切り出した。「西嶋が須藤家に牙を剥いておるのは、素羽への腹いせじゃろうて」それくらいのことは、二人ともとっくに気づいていた。「あの西嶋の小僧も、相当頭が悪いようじゃな。たかが女一人にいいように操られおって」幸雄は吐き捨てるように言い、その瞳の奥には隠しきれない嘲りが浮かんでいた。女の気を引くためなら、大金でも湯水のように使う男だと思っているのだろう。その言葉を聞いた瞬間、司野の伏せた瞼の奥に暗い感情が一瞬だけ揺らめいた。しかし、それをすぐに押し隠した。幸雄は向かいに座る司野を見つめ直し、手元の数珠を転がしながら低い声で告げた。「暦の上
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第685話

司野は幸雄を仰け反るほど激怒させたというのに、悪びれる様子など微塵も見せず、悠然とその場を立ち去った。遠ざかっていく背中を睨みつけながら、幸雄は怒りで髭を震わせ、目を吊り上げる。そして、バンッと力任せに茶卓を叩いた。「待て!勝手に帰っていいと、誰が言った!」しかし、司野は振り返ることもなく言い放った。「俺の足だ。どう歩こうが、どこへ行こうが俺の勝手だろ」そう吐き捨てると、彼は本当にそのまま出て行ってしまった。「このろくでなしめ……本当に付け上がりおって」幸雄がどれほど怒鳴り散らそうとも、司野の足が止まることはなかった。「見ろ、あの小僧を。日に日に俺をないがしろにしおって。敬意の欠片もありゃせんわ」幸雄は、その怒りを執事の直人へとぶつけた。しかし直人は穏やかな表情を崩すことなく、静かに茶を注ぎ続けた。「司野様は、今でも幸雄様を深く尊敬しておられるかと存じます。それに、あの気性も元を辿れば、幸雄様が幼い頃から可愛がり、甘やかして育てられた結果ではございませんか。苗木はすでに立派な大樹へと成長しております。今さら引き抜いて植え直そうなど、土台無理な話でございます」幸雄は目を吊り上げ、怒鳴り声を上げた。「なんちゅう言い草じゃ!あやつが年長者を敬わず、教養のない人間になったのが俺のせいだとでも言いたいのか!」直人は急須を置くと、幸雄から距離を取るように二歩ほど後ろへ下がり、言った。「滅相もございません。私はそのようなことは一言も申し上げておりません」幸雄は濁った目を細めた。「何をそんなに離れる必要があるんじゃ。己の耳に痛い発言をした自覚があって、湯呑みを投げつけられるとでも思ったか」直人は決して認めようとはせず、むしろ自分が身を挺するような態度を見せた。「私が打たれて血を流すことは構いません。しかし、幸雄様が湯呑みを割ってしまわれ、その後でお心を痛められるのではないかと心配しております」幸雄は鼻を鳴らした。「己が湯呑みにすら劣る存在だと、よく分かっておるようじゃな」直人は体の前で両手を組み、わざとらしく恭しく目を伏せた。「自分の身の程については、それなりに弁えているつもりでございます」理由は分からない。だが、その言葉を聞いた瞬間、幸雄はどうにも拭えない違和感を覚えた。
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第686話

素羽は昔からそうだった。自分がやると決めたことには、百二十分の力を注ぎ込み、必ず完璧にやり遂げる。奏は口角を上げ、誇らしくてたまらないといった顔で彼女を見つめた。甘い言葉が、息をするように次々と口から飛び出してくる。「信じてるさ。信じないわけないじゃないか。俺の奥さんの能力は本物だからね。君ほどすごい人、今まで見たことがないよ。俺って、なんでこんなに幸せ者なんだろうな?前世でどんな善行をしたら、君みたいないい奥さんをもらえるんだ?」素羽は軽く彼を睨んだ。朝から晩まで、口を開けば冗談ばかりなのだから。そう思いながらも、彼女は急かすように言葉を続けた。「お調子者ね。さあ、自分の仕事に戻って」帰国したのは、国内での事業拡大に向けて準備を進めるためだ。二人とも、決して暇を持て余しているわけではなかった。夕方。素羽はアシスタントを連れて、取引先のクライアントとの会食へ向かった。どこにいようと、人脈というものは非常に重要であり、大いに役立つものだ。普通なら、これほどまでに商談がとんとん拍子に進むことはない。だが、奏という強力な後ろ盾が、二人の事業展開に数え切れないほどの便宜を図ってくれていた。政財界に顔の利くパイプがあれば、何事も格段に進めやすくなる。会食の席で、相手の態度はそれなりに丁寧だった。その瞳の奥に、隠しきれない見下したような色が浮かんでいたとしても、素羽はまったく気にしなかった。見下されようが、どうでもいい。自分が望むものを手に入れられれば、それで十分だ。どうでもいい人間が何を考えていようと、気にかける価値すらない。コンコン、と個室のドアを叩く音が響いた。ウェイターがロマネ・コンティを載せたトレイを手に入ってくる。「失礼いたします。隣の個室のお客様からのお届け物でございます」「どなたからですか?」素羽と取引先の社長は、同時に動きを止めた。「須藤と名乗るお客様で、『知り合いです』とおっしゃっておりました」ウェイターはそう言いながら、笑顔で素羽へ視線を向けた。クライアントの田中は、それを聞くや否や、ぱっと顔をほころばせた。「素羽さんのご友人は、随分と気前がいいですねえ。何千万円もする高級ワインを、ぽんと贈ってくださるとは」「須藤」という名を聞いた瞬
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第687話

素羽は、司野など最初から存在していないかのように、彼を完全に空気扱いしていた。田中も、この場の空気を凍りつかせたままにするわけにはいかない。ましてや、司野の言葉を無視することもできず、愛想笑いを浮かべながら調子を合わせた。「とんでもない、そんなことあるわけがありませんよ。須藤社長にお越しいただけるなんて、私にとっては光栄の至りです。もし隣の部屋でお食事をされていると知っていれば、厚かましくもこちらからご挨拶に伺ったのですが」素羽は、田中が司野に媚びへつらうのを聞いている趣味などなかった。彼女はきっぱりとその会話を遮った。「田中さん、お話も終わりましたし、今夜はここまでにしましょう」そう言い残すと、彼女は立ち上がり、アシスタントを連れてその場を後にした。素羽はアシスタントとともに薄暗く長い廊下を抜け、ちょうど到着したエレベーターへ足を踏み入れた。エレベーターの扉がゆっくりと閉まりかけた。その隙間が完全に塞がる寸前、不意に外から手が差し込まれ、扉を遮った。素羽がふと顔を上げると、扉の向こうに立つ司野と視線がぶつかった。再び扉が開いた瞬間、司野が中へ乗り込んでくる。アシスタントは隣に立つ素羽をちらりと見やり、彼女の指示を待っているようだった。だが、素羽は何の反応も示さない。司野が現れたことに対しても、相変わらず徹底して無視を貫いていた。司野は素羽の左側に立ち、何の遠慮もなく、ただじっと彼女を見つめていた。「あの男は、お前に良くしてくれているのか」狭く息苦しいエレベーターの中に、司野の低く沈んだ声が響き渡った。素羽に言いたいことは山ほどあった。数え切れないほどの言葉を飲み込み、結局、口から出たのは彼女を気遣うその一言だけだった。声が響き、そして消える。エレベーターの中は相変わらず水を打ったような静寂に包まれており、素羽はまるで何も聞こえなかったかのように振る舞っていた。答えない。相手にしない。自分に対するその徹底した冷淡さを目の当たりにし、司野の胸の奥は鋭く締めつけられた。だが、彼の瞳の奥底に潜む強欲な光が、それで打ち砕かれることはなかった。今の彼はまるで、長年砂漠をさまよい歩き、ようやく甘い泉を見つけた旅人のようだった。チン、と無機質な音が鳴り、エレベーターが一
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第688話

今度は素羽が嫌そうな顔をする番だった。「一体どれだけワックスを塗ってるのよ。ガチガチで触り心地が悪いわ。やっぱり、さらさらの髪のほうが目に馴染むわね」奏は鼻を鳴らした。「君ってやつは本当に気が多いよな。俺のオールバックがかっこいいって言ったのは君じゃないか。さらさらだと子どもっぽくて、落ち着きがないってさ」素羽はまるで知らんぷりを決め込むように、だるそうに車のシートへ背中を預け、気怠げな声で答えた。「そう?そんなこと言った覚えはないわ。あなたの聞き間違いじゃない?」奏はまるで仔狼のように牙をむき出しにし、恨めしそうに言った。「この浮気女」素羽はふっと軽く笑い、その汚名をあえて受け入れるかのように言い放った。「で、出発するの?しないなら別の人に変えるわよ」奏は元の姿勢に戻ると、ぷくっと頬を膨らませ、自分のシートベルトを締めた。「やっぱり君は、移り気な悪い女だよ」素羽は彼の言葉に調子を合わせるように言った。「今日になってようやく気づいたの?」奏は車のエンジンをかけた。「知っていたところで、どうしようもないだろ?俺がその悪い女を一番愛してるんだからさ」車が走り出して間もなく、素羽の携帯にアシスタントから電話がかかってきた。司野が先ほどからずっと二人の車の外に立ち尽くし、車が走り去るまでその場から一歩も動かなかったというのだ。素羽はそれを聞いても特に何の反応も示さず、ただ、もう彼の監視は必要ないと伝え、アシスタントにも早く帰って休むよう言っただけだった。司野のこうしたわざとらしい態度に対し、素羽は鼻で笑うだけだった。あの男が最も好むのは、こういう薄っぺらな愛情の演出なのだ。同じ頃、ホテルの外に立ち尽くしていた司野は、身体をこわばらせ、顔色をひどく青ざめさせていた。素羽と奏が結婚したという事実を知っていることと、奏が素羽にキスをするところを目の当たりにすることとでは、まったく別の話だった。彼が立っていた角度からは、ちょうど奏が助手席で素羽を押し倒すようにして、親密にじゃれ合っている様子が見えていた。そして、素羽がごく自然に彼の頭を撫でるその仕草はあまりにも手慣れており、これが初めてではないことなど、一目で分かった。以前の自分と素羽の間には、あのような甘い空気など一切なかった。
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第689話

奏は奥歯を噛み締め、怒鳴りつけた。「せ・い・や!」誠矢は持っていたフォークを放り出すと、サッと身をかわし、素羽の腕の中へ逃げ込んだ。ママさえいれば百人力、とでも言わんばかりの得意げな顔をしている。「ママ、僕を守って。怪獣が出たよ」素羽はクスッと笑って言った。「朝っぱらから、どうしてそんなに怒ってるの?体に悪いわよ」奏は彼女の胸に抱かれた小さな影を、恨めしそうな目で睨みつけた。「血圧なんてどうでもいい。俺はな、お仕置きの鉄拳が鈍っちまうのが怖いんだよ。誠矢くん、君はまたお尻を真っ赤に腫らしたいみたいだね」誠矢はすっかり怯えたふりをして素羽の腕の中に隠れながらも、その小さな口は一向に閉じようとしなかった。「女の子はみんな、優しい紳士が好きなんだよ。パパみたいに怒ってばかりだと、ママに嫌われちゃっても自業自得だもん。ほら、僕は小さな紳士だから、ママは僕のことが一番好きなんだ」奏は鼻で笑うと、ポキポキと手首を鳴らした。完全に実力行使に出る前触れだった。「今日はちょっと痛い目を見てもらうには最高の日だな」それを見た誠矢は、もはや素羽の腕の中に隠れている場合ではないと悟ったらしい。スルリと椅子から飛び降りると、短い足でタタタタッと自分の部屋へ向かって駆け出した。「人殺しー!子どもが殺されちゃうよー!ママ、早く警察を呼んでー!」バタン、とドアが閉まる音が響き、続いてカチャリ、と鍵をかける音が聞こえた。素羽は座ったまま微動だにせず、平然と朝食を食べ続けていた。毎日のように繰り広げられるこの茶番劇には、もうすっかり慣れっこだった。奏も形だけ数歩追いかけただけで、逃げ惑うガキを鼻で笑って済ませた。それから身を翻してダイニングテーブルに寄りかかり、腕を組むと、朝食を食べる素羽を見下ろすように鼻を鳴らした。「君、最近どんどんえこひいきが酷くなってるんじゃない?君の心臓、あのおちびちゃんのほうに偏りすぎて、もう脇の下あたりまでズレてるんじゃないのさ」素羽はあっさりと否定した。「そんなわけないでしょ。心臓が脇の下までズレてたら、私とっくに死んでるわよ」「……」前半の言葉はまだよかった。だが、後半の言葉を聞いた途端、奏の顔は一気に不機嫌になった。「君、俺とした約束を忘れたわけ?俺のこと
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第690話

素羽も彼を抱きしめ返し、その背中をぽんぽんと優しく叩いた。そして少し経つと、ぐずぐずする彼を急かすように言った。「はいはい、もうぐずぐずしないの」奏は素羽から身体を離した。だが今度は、彼女の顔を両手で包み込み、その額へチュッとキスを落とす。「これでおあいこ」素羽は呆れたように笑った。本当に、この人は少しも損をしたくない性分らしい。奏を見送った後、素羽は石森商社へ向かった。昼時になると、楓華から電話が入り、石森商社の近くにあるレストランで会うことになった。出かける直前に仕事の電話が入ったため、素羽が到着したのは約束の時間より数分遅れてからだった。楓華はすでに席で待っており、素羽は彼女の姿を見るなり尋ねた。「どうして一人で来たの?子どもは連れてきてないの?」楓華はあっけらかんと答えた。「子どもには母親だけじゃなくて、父親だっているんだからね」楓華の辞書には、育児を放棄する父親などという存在は最初からないのだ。素羽は笑いながら言った。「あの亘が、あんなに立派なお父さんになるなんて思いもしなかったわ」楓華は肩をすくめる。「ちゃんとやらないなら、いつでもクビにしてやるわよ」それを聞いて、素羽はさらに笑みを深めた。「もう何年も経つのに、亘は相変わらずあなたに頭が上がらないのね。あなたの言うことなら何でも聞くじゃない」子どもまで授かったというのに、楓華が結婚しないと言えば、亘はそれにも何一つ文句を言わず従っている。これはもう、骨の髄まで惚れ込んでいると言っていいのではないだろうか。楓華は静かに言った。「私たちみたいな仕事をしてると、普通の夫婦が最後にどんな醜い姿を晒すか、もう嫌というほど見てきたじゃない。たかが紙切れ一枚の婚姻届受理証明書なんて、男女にとって何の保証にもならないのよ。結婚なんて、結局最後は『良心』に行き着くだけの話だわ」本当に相手を大切にする人は、婚姻届受理証明書ではなく、その人自身を大切にするものだ。楓華は、どんな関係であっても人を縛りつけるようなことは一生しないと決めていた。たとえ亘が今、自分の子どもの父親であろうと、彼が立ち去りたいと言うなら、いつでも自由にしていいと思っている。久しぶりに再会した二人は、話が尽きることがなかった。まるで
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