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地底の悪魔と歯車の魔女 のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

30 チャプター

20話 在庫確認は芸術的筆跡で

 叔母にレックスの存在が知られてから、どれほどの日が過ぎただろう。  思いのほか同居生活は平穏で、驚くほど平凡に、日々は緩やかに流れていった。  気がつけば、季節は六月。街には初夏の匂いが漂っている。 ネクターが彼を弟子に迎えてから、最も意外に感じたのは――その働きぶりだった。  古代兵器とはいえ、彼は驚くほど真面目で、与えられた仕事には一切の文句も言わず、素直に従った。   「どーせ暇を持て余してんだし、それが条件だろ? こんくらいはさもねぇ」    そう軽口を叩く様子から、根は案外真面目なのかもしれないとネクターは思った。 しかし、その真面目さの裏にある理由は、もっと単純だった。  ――叔母ドリスに怒られるのが、何よりも怖いのだ。 その証拠に、ドリスが名を呼ぶだけで、レックスの肩は小動物のように跳ね上がる。  背丈が低いせいもあって、立派な名前に反して、まるで子ウサギのようにも見える。  ネクターは、彼が初めて叔母と対面した日のことを思い返す。  あんなに憤慨したドリスを見たのは、おそらく生まれて初めてだった。(古代兵器を怯えさせるなんて……やっぱりドリス叔母さん、最強かもしれない) 自分とレックスの間には、主従に似た関係があるとネクターは思っている。  それを、叱責ひとつで上書きできる存在など、そうそういるはずがない。  そんなことを考えると、余計に彼が人間らしく見えて、自然と口元が緩んでしまう。 ピンセットで真鍮の小さな部品を摘まみ、在庫を数えている最中にも、ふつふつと笑いが込み上げてくる。  つい吹き出してしまったその瞬間、横から脇腹をつねられ、ネクターは短く悲鳴をあげた。「何を一人で笑ってるのさ、おかしな子だね」 隣で帳簿をつけていた叔母が、呆れた目でこちらを睨んでいる。「ちょっとね、大したことじゃないわ」 本当の理由を説明するのは、どうにも照れくさい。適当な言葉でごまかすと、ドリスは鼻を鳴らした。「そうかい。あんたはただでさえ変な娘なん
last update最終更新日 : 2025-09-13
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21話 過去に触れる歯車

 小休止を終えると、ネクターは叔母から「レックスに時計の修理作業を、きちんと見せてやりなさい」と指示を受けた。 彼の存在を隠していた頃、レックスは毎日のように作業台の背後に貼り付くようにして修理の様子を覗き込んでいたものだ。  今さら見せる必要があるのかと思ったが、「ここに置いておく以上、いずれは覚えてもらわなければならない」と叔母は譲らない。今回は行程を一つずつ説明しながら作業を進めるよう、念押しの指定までついた。 レックスを久しく自室へ招き入れると、ネクターは早速、懐中時計の修理に取りかかった。 ──まずは部品レベルまで分解すること。その配置は正確に覚えておくこと。もっとも、配置に関しては経験を積めば自然と頭に入る。慣れるまでは、自分が分かるようにメモを取っておけば良い。 次に、歯車の欠損など明らかな破損部位を見つけたら、速やかに交換すること。動きがぎこちない場合は機械油をさしてみること。  そうした基本の手順を、ネクターは落ち着いた声で説明しながら、手を止めることなく作業を進めていった。 もっとも、人に技術を教えるのはこれが初めてだ。  本当に理解してくれたのか――そんな不安が胸をよぎる。それ以上に、喋り続けたせいで喉が渇いた。そこでネクターは手を止め、装着していたルーペを外す。「だいたいの流れは理解できた?」 向き直って問いかけると、レックスは即座に首を横に振った。「全部はまだ理解できねぇけど……」 その答えに、ネクターは思わず笑みを漏らす。  無理もない。物心ついた頃から壊れた時計を分解して遊んでいた自分でさえ、正しい修理の手順を習得するのには長い時間を要したのだ。感覚で覚えた技術は、口で説明してすぐに身につくものではない。「当たり前よ? 技術なんて、ゆっくり覚えればいいの。今日明日でどうにかなるもんじゃないわ。それに今、貴方に任せている在庫の確認や清掃だって、とても大事な仕事なのよ」 ガラクタ部屋と化した自室の惨状を思えば、清掃について説くのは我ながら説得力に欠ける。少し空しくなったが、この際、自分も本気で片付けようかという気すらしてき
last update最終更新日 : 2025-09-15
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22話 昼下がりの来客

 昼食を終え、店の奥で穏やかなアフタヌーンティーを楽しんでいた、その最中だった。 カランカラン──扉に吊るされた小さなベルが、からりと乾いた音を立てる。 来客だろう。ネクターは椅子を引き、即座に腰を上げた。するとカウンター奥で茶を啜っていた叔母が、何気ない口調でレックスに「着いていきな」と視線を送る。「いらっしゃいませ」 キッチンのドアを押し開け、早足で店頭へ向かう。 扉の前に立っていたのは、金髪碧眼の青年。両腕で抱えた大きな木箱は、彼の肩幅と同じほどの幅がある。「よぉっす」 鼠色の作業着はところどころ油汚れが染み、膝や袖には日常の労働が刻まれている。それでも青年は、ネクターを見つけるや、ぱっと手を上げて好青年然とした笑顔を見せた。「こんにちは、スコット。納品ね」 ネクターは腰の工具ポーチからインクペンを引き抜き、軽く歩み寄る。 ──ヒューズ社。この工房、ロウェル・ブルームに修理パーツを卸すほか、修理客を回してくれる提携会社だ。付き合いは長く、三十年近いと叔母から聞いている。 スコットはそこの配送担当で、ほぼ毎日顔を合わせる馴染みの相手だった。 年齢は十七歳のネクターよりも上、二十歳前後と見える。背は高く、腕も胸板も厚い。これほどの重量物を難なく運ぶのだから当然かもしれない。 ……それに比べて、傍らのレックスはやけに小柄に見えてしまう。そう。ネクターの中で、〝一般的な青年像〟がスコットのような姿だからだ。「ん? 新人? 弟子でも取ったのか?」 納品書を差し出しつつ、スコットはレックスを横目で一瞥する。「そうよ。うちの新人のレックスよ。レックス、こちらはうちにパーツを卸してくれてる──」 紹介の途中で、スコットは自らレックスへ手を差し出し、「スコットだ」と名乗った。 握手の意味は分かるのだろう。レックスは一拍遅れて手を取り返す。「よろしくな、レックス」「ああ……お、おう」 どこかおどおどとした返事に、ネク
last update最終更新日 : 2025-09-17
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23話 嫉妬心と対抗心

 スコットを見送った後、ネクターはすぐに店に戻った。 妙に強い視線を感じる。その先を辿ると、案の定レックスがつまらなそうな面輪でネクターを睨んでいたのだ。 「な、なに?」  どうしたのか……。 思わず訊けば、レックスは眉間に皺を寄せて首を傾けた。 「なぁ、あいつネクターのことが好きなんじゃねぇの、多分」「はぁ?」  いきなり何を言うのか。突飛も無い言葉にネクターは素っ頓興な声をあげる。  「な、そんなわけないじゃない。何を根拠に言ってるのよ!」「男の直感。何か、あいつ……ネクターを見る目がなんか妙にギラギラしてるから」  頤に手を当てて、レックスは面白く無さそうに呟く。 まったく、この古代兵器はどこでそんな面倒くさい概念を覚えたのか。五百年眠っていたはずなのに。 ネクターは「はぁ」と、大きくため息をつくと、レックスの傍にいた叔母は「ははん」なんて、不敵に笑んだ。 「あら。レックス、あんた妬いてるのかい?」「どーだか。なんだか、すげぇモヤモヤはする」  不機嫌そうに彼が言った途端、叔母は溌剌とした笑い声を上げた。 「馬鹿ねぇ! あんた、そういうのを〝嫉妬〟って言うのさ。そうかい。あんた、そんなにネクター好きのかい?」 からかうような叔母の言葉に、レックスは少し頬を染めるが否定しなかった。それどころか──「だって、ネクター可愛いじゃん。それなのに格好良いから好き」なんて、あっさりと言って、そっぽ向く。 その言葉を聞いた、叔母は目をまん丸くするが、またも溌剌と笑った。「あぁ、そうかい。あんた素直で良い子だね。まったく、若い子はいいねぇ」 ──さぁ、どうするのさネクター?  なんて、続け様に叔母は悪戯げに訊く。 どうするもこうするもないだろう。ネクターは半眼になって呆れ顔。  当初から彼が
last update最終更新日 : 2025-09-19
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24話 煤煙に閉ざされた空と、記憶の星

 爽やかな初夏を通り過ぎ──七月。夏が本格的に幕を開けていた。  工業都市アッシュダストは、王国内でも随一の熱気に包まれる場所だ。昼間は蒸気自動車や二輪車が往来し、夜になっても工場の煙突から吐き出される煙と熱気が街を覆い尽くす。熱は逃げ場を失い、重苦しく淀んでその場に留まる。 ──つまり、とてつもなく寝苦しいのだ。 その夜も、深夜二時を回っていた。ようやく浅い眠りに落ちかけていたネクターは、隣の部屋で窓が開く微かな音に気づき、ぱちりと瞼を持ち上げる羽目になった。 隣はレックスの部屋だ。  こんな時間に何をしているのだろう。顔をしかめながらも、寝汗で貼り付く髪を払い、ネクターは身体を起こした。 以前は足の踏み場もなかった自室だったが、あれ以来、きちんと整理整頓を心がけていた。  反面教師を目の前に置いておくわけにはいかない──そんな心境からだ。今では部屋の床はすっかり片付けられ、窓まで障害物なく辿り着けるようになっていた。 窓を押し開けると、どんよりとした淀んだ夜気が入り込み、肌にまとわりつく。蒸し暑く、重く、息苦しい空気が漂っていた。  琥珀色の瞳を細めて、不快感を堪えながら隣の部屋へと視線をやると……案の定、レックスの姿があった。 彼は窓辺に身を乗り出し、靄のかかった紺碧の夜空をじっと見上げている。「もう。こんな夜中に何してるの? 起きちゃったじゃない」 ただでさえ眠れない夜だというのに、と小言を交えて声をかける。するとレックスはネクターの方へ顔を向け、小首を傾げた。「真っ白な鳩がな、窓の外からボクをじっと見てたんだ」 「……鳩?」 思わず素っ頓興な声が漏れた。  寝ぼけているのだろうか。鳩なら確かにこの街にもいるが、鳥だって夜は眠るものだ。こんな時間に飛び回るなど、あり得ない。迷惑きわまりない話である。 ジトリとした目で睨みながら言う。 「さすがに見間違いじゃないかしら? 明日も仕事なのを忘れてないでしょうね」 ──修理職人の朝は早い。眠たくて働けないなど、労働者として論外だ。そう釘を刺してみせたのに、レックスは上の空のように夜空を見つめ、気のない返事しか返さない。 普段は小動物のように無駄に元気で、何かとキビキビしているのに。そんな彼が妙に神妙にしているのが、かえって不思議に思える。ネクターは首を傾げながらも、窓を閉め
last update最終更新日 : 2025-09-20
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25話 星を追う飛行二輪

 ──ナイトドレスを脱ぎ、長い桃色髪を二つ緩く結い上げ、いつもの作業用ドレスに着替えてから、最後に革のコルセットをきゅっと締める。 その動作を終えると、ネクターは指先で飛行二輪の鍵を付けたキーリングをくるくると回し、階段を軽やかに下って裏口へ向かった。 狭い通路に面した裏路地。そこには、すでに作業着姿のレックスが待っていた。壁に背を預け、いつものように所在なげに立っている。「それじゃあ、行きましょうか」 裏口すぐに駐輪してある飛行二輪に鍵を差し込みながら、ネクターは声をかけた。「星を見るって、飛行二輪で見に行くのか?」「そうよ。アッシュダストはスモッグに覆われてるから、快晴でも星を見られることなんて滅多にないの。だから特別に、夜間飛行に招待してあげる。どう?」 からかうように言えば、レックスは迷いもなく頷いた。その素直さに、ネクターは少しだけ頬を緩める。 そうして飛行二輪を押しながら、工業地帯の河川敷を目指した。  ──エンジンは小型蒸気機関、燃料は灯油。側車付きの大型車体ながら、総重量は八八二ポンド前後。 数字だけ見れば軽量な部類だが、ネクター自身の体重からすれば九倍近い重さである。それでも二輪。否、側車付きなので正確にはタイヤは三つある。要領さえ掴めば、手で押すことも難しくない。 けれど、それは道が平坦なうちだけの話。 土手へと繋がる緩やかな上り坂に差し掛かれば、全身を前に倒し、体重をかけなければ前に進まない。 ネクターは汗を滲ませながら、ぐっと力を込めた。だが、不意に車体が軽くなった気がして振り返ると──レックスが側車を押していた。「ありがと」「これくらい。ていうか、おまえ、いつもこんな馬鹿みたいに重いモンをいつも押してんのかよ……」「そうよ? でも日頃から倉庫で部品を運んだりもしてるし、力には自信があるの。それに飛行二輪を押すようになってから、前より鍛えられた気がするわ」 肩で息をしながら笑えば、レックスは「頼もしいな」と苦笑した。 その目が優しく穏やかすぎて、ネク
last update最終更新日 : 2025-09-22
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26話 古代兵器は星に手を伸ばす

「どう? 特等席のご褒美は」 声に促されて、ネクターも首を傾けて夜空を仰いだ。 夏の大三角が頭上に鮮やかに瞬いている。金銀の砂を撒き散らしたかのように、群星が視界いっぱいに広がっていた。 息を呑むほどの満天の星空――まるで、手を伸ばせば掬えそうなほど近い。 夜間に飛行すること自体は珍しくない。 だが、それはあくまでも移動の手段であって、立ち止まり、ただ空を見上げて心を寄せる時間など持ったことはなかった。 こうして空を走りながら、暢気に星を仰ぐ――それは思いがけず、胸の奥に沁み入るほど心地良いひとときだと改めてネクターは感じてしまった。 だが次の瞬間、不意に車体が大きく揺れた。 ガタン、と腹の底に響くほどの衝撃。風は無風のはずなのに。慌てて側車へ視線を投げれば、レックスが立ち上がっているではないか。「──何考えてるの! 危ないでしょ! 座って!」 必死に声を張り上げながら、ネクターは舵を戻そうとする。 しかし、飛行二輪は言うことを聞かず、ふわりと下降を始めてしまった。小高い山どころではない、高度は三千メートルはあるだろう。 冷や汗が背筋をつたう。「ちょっと! 座って! 墜落するわよ!」 悲鳴に等しい声が夜空に弾けたその時―― キンッと。空気を裂く甲高い音が劈き、ネクターは思わず瞼を閉じた。ところが、揺れはすっと収まり、下降も止まっている。残されたのは規則的なエンジンの唸りだけだった。 ……間違いない。 胸の奥で確信を得て、ネクターはレックスを振り返る。 そこにいたのは、あの時と同じ――悍ましき異形の姿。 しかし彼は、ただ夢中で空を仰ぎ見ていた。 そんな彼は、ブルリと全身を震わせると、グッと両手を空へと突き上げた。「やべぇえ! すんげぇええええ!」 それは新しい玩具を手にした少年のような、心底から無邪気な歓声だった。あまりの純真さに、ネクターは呆気に取られて口を開けてしまう。「手が、手が…&hel
last update最終更新日 : 2025-09-24
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27話 真夏、二人きりの修理工房

 肥沃な大地に、鮮やかな向日葵の群生が風に揺れている。 七月中旬、南西部ホワグラス辺境の深い森林。その内部に穿たれた地底洞窟の前では、軍人たちが汗を流しながら調査に追われていた。 本来ならば人の気配など滅多にない静謐な場所である。だが今は、鉄を引き裂くような重機の音が岩を削り、森の青葉を震わせていた。「……そもそも、こんな辺境に軍事遺跡が眠っていたなんて誰が知ってただろうな」 若い兵士が上官の目を盗み、隣で作業に従事する同僚にぼやいた。「だな。国にとって触れられたくない何かが隠されてたんだろうさ」「五百年の孤独……『古代兵器アビス』とか言ったか」 小声で呟かれたその言葉に、仲間の兵士は思わず手を止め、汗を拭いながら眉をひそめる。「……どんな代物か想像もつかん。噂じゃ人の姿をしてるとか言うがな。所詮、機械仕掛けの人形みたいなもんだろう」「そうだな……にしても、気味が悪い」 ──崩落の通報は、近隣住民から警察へ。それが軍部に届き、こうして動員されるに至った。 気象予報士が当日の天候を調べ、地質学者がこの一帯の地盤を確認した。 崩落当日の天気は快晴。活火山など周辺にはなく、地震の記録もない。むしろこの辺りは岩盤が硬く、崩れる要素など見当たらなかった。 それにもかかわらず、突如としてこの地底洞窟は口を開いた。 ……偶然では説明できない。そう結び付けられたのが、古より隠蔽され続けてきた〝古代兵器の起動〟だった。 しかし、現場の下級兵士に詳しい情報は下りてこない。知っているのは、国民向けのラジオで流された程度の話と、断片的に聞かされた「アビス」という名だけだった。「何にせよ、崩落で犠牲者が出てないことを祈るしかないな。とはいえ……ひと月も経って何も見つからんのじゃ、もう打ち切りだろ」「同感だ。古代兵器なんて噂も、全部でたらめであってほしい」
last update最終更新日 : 2025-09-26
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28話 工房前の三角模様

(いったい何だと言うのか……)  店の扉を閉めて、ネクターは正面に立つスコットを見据えた。昼下がりの街路は少し湿った風が吹いていて、遠くからは馬車の音が響く。けれど、この場に漂う沈黙のほうがずっと重たく感じられた。 スコットは言葉を切り出そうとしているらしく、唇をモゴモゴと動かしては閉じてしまう。 落ち着きなく視線を揺らす仕草に、じれったさを覚えたネクターは、つい我慢できず口を開いた。「……話って何?」 すると、スコットは唐突に彼女の両肩をガシリと掴んだ。 「え?」 突拍子のない行動に、思わず目を瞬かせる。 彼はひとつ深く息を吐き、ようやく腹を決めたように口を開いた。「……唐突にこんな事を聞くのは可笑しいかもしれないが、君とレックスは……恋人同士とか、婚約者とか、そんな関係なのか?」 真摯な声音だった。問いかけは重く、冗談の色は欠片も無い。 ネクターは思わず目を点にする。あまりにも意外すぎて、心臓が一拍遅れて跳ねるのを自覚した。 気温も相まって、妙に暑苦しい。ネクターは煙たげに目を細め、掴まれた肩を振りほどいた。 「そんなわけないじゃない。彼は……私の弟子で、助手みたいなものよ」 詳しい事情など言えるはずもなく、ぶっきらぼうに答えて視線を逸らす。だが、スコットの疑問はもっともだった。 修理工房ロウェル・ブルームは、叔母と姪だけで切り盛りしてきた小さな工房である。弟子など迎えたこともない。そんな場所に突然、若い男が住み込むようになれば、外から見れば不自然に映るのも当然だろう。「スコット……私は異端の女職人よ? 婚約者なんて愚か、恋人すらいるはずないじゃない?」 面倒くさそうに吐き出した直後、スコットの言葉が重ねられた。「そうか。じゃあ、俺が──ネクターのことをずっと好きだったと言ったら、どう思う?」
last update最終更新日 : 2025-09-27
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29話 真っ直ぐな告白と、冷ややかな拒絶

 ネクターは、レックスの言葉に硬直した。 だが、驚きで固まったのは彼女だけではない。職人の街を行き交う人々も、皆一様に足を止めている。向かいの労働者宿舎の前で花に水をやっていたおかみさんなんて、如雨露を手から落とし、口元を押さえて目を丸くしていたほどだ。 沈黙を破ったのは、冷やかし半分の口笛である。続いて「いやはや」「若い子はまったく!」などと下卑た笑い混じりの囁きが、どよめきのように広がっていった。 ──アッシュダストの人間は横繋がりが深い。即ち、皆がほぼ知り合い同士だ。こういう噂話はあっという間に広がる。 きっと、夕刻になる頃には、きっと街中に「ネクターが若い男に抱き寄せられていた」などという尾ひれ付きの話が飛び交っているだろう。 想像するだけで頭が痛くなる。これはもう冷やかしどころではなく、本当にとんでもない事態だ。 ネクターは憤激を通り越して青ざめ、レックスを睨みつけた。けれど、当の本人はそんな視線を気にも留めず、ぐいとネクターを抱き寄せたまま、真っ正面からスコットを睨み据えていた。「……そういう訳だ。おまえには渡さないからな」 レックスにしては低く、はっきりとした声音だった。 言われたスコットはヘルメットを手に、肩を竦める。「そう。レックスの気持ちはよく分かったけどな……渡さないも何も、それって一方的だろ? 独占欲むき出しってのも、男としてどうかと思うぜ?」 呆れたような声音だったが、その顔は不思議と楽しげで、挑発の匂いすらあった。 スコットは、搬送用バイクのハンドルにぶら下げていたヘルメットを被り直し、さらに言葉を続ける。「だけど、まぁ……正々堂々と真っ直ぐ言える奴は嫌いじゃない。むしろ好感持てるな。……レックス、俺はおまえと友達になれそうだって思ったわ」 つい先程までの剣幕はどこへやら。 彼はニッと爽やかな笑みを浮かべ、スタンドを蹴ってバイクのエンジンをふかした。 一方で、レックスはと言えば、言われた意味
last update最終更新日 : 2025-09-29
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