All Chapters of 地底の悪魔と歯車の魔女: Chapter 41 - Chapter 50

66 Chapters

40話 五百年の孤独を背負う者

「落ち着きなさい」──叔母にそう告げられても、ネクターの心は混乱の渦に飲み込まれていた。  レックスのことを口に出した瞬間、瞼の縁に熱い涙が滲み、視界が揺れた。泣いても何も変わらない。分かっているのに、感情が理性を追い越してしまう。  ……でも、叔母の言う通りだ。一から話さないと、何も伝わらない。  逃げたりごまかしたりしても、何も解決しないんだ。 ネクターは涙で濡れた頬を指で拭い、スコットの碧い瞳を真っ直ぐに見つめた。「スコット、お願いがあるの。驚かないで、全部聞いて欲しい。貴方、レックスと友達になりたいって言ってくれたよね? それは本心だよね?」  縋るような問いかけに、スコットは目を大きく見開いたまま、すぐに力強く頷いた。「ああ、勿論だ」  その短い一言が、胸にじんわりと沁みた。震える声を落ち着けるように、ネクターはは深呼吸して続けた。「なら、私、貴方を信じる。……私たちの秘密、共有してくれる?」  スコットは深く頷き、真剣な眼差しを向けた。その真っ直ぐな瞳に勇気をもらい、ネクターは工具ポーチから祖父の手帳を取り出した。  使い込まれた革の表紙に触れる指先が、ほんの少し震える。「これは祖父が遺した記録。……私がレックスと出会ったのは、南西部ホワグラスの地底洞窟。この手帳に書かれているのは『五百年の孤独』──それがレックスの正体。彼は遠い昔、イフェメラ軍が隠した古代兵器。元は人間で、今でいうツァールの人よ。神様から不思議な力を授かった、特別な存在だったみたい」  祖父の癖のない綺麗な字を指でなぞりながら、ネクターは言葉を続けた。「昨晩、レックスの知り合いだというツァールの神様の遣いが現れたの。彼の力は、もともとその神様を支えるためのものだった。でも、今の世界には不要だとされて、使徒はその力を回収しに来たの」  昨夜、使徒ファオルから聞かされたことを、ネクターはありのままに話した。  ──レックスは人間に人為的な処置を施され、兵器として作られた存在であること。今も生者として心臓を動かしていること。でも、その力を強引に引き剥がせば、
last updateLast Updated : 2025-10-11
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41話 その孤独は細い背を削る

 工房を飛び立ったのは、夕暮れの赤が濃く空を染める時刻だった。  対岸の工場地帯は茜色に燃え、そこを疾走する配送用の二輪車の影を、ネクターは上空から確かにとらえた。  薄闇に沈みかける世界の中、その姿は紛れもなくスコットのものだった。  胸の奥で確信が灯り、彼が橋を渡ろうとする瞬間を見計らってネクターは高度を下げる。  風を切って並走すると、爆音に掻き消されそうな声でスコットが叫んだ。「ネクター! レックスの行きそうな場所に目星は無いか!」 二つの乗り物が響かせる排気音は凄まじく、互いの声はほとんど怒鳴り合いだ。だが、ネクターの頭には明確な答えは浮かばなかった。  彼を外に連れ出したのは一度きり──夜空を見せたあの夜の飛行だけ。スコットのいったように、複雑なアッシュダストの地形など理解しているはずもない。 けれど、理性を失って暴走するのなら、きっと人目を避ける。ネクターの胸にそんな確信めいた予感が走る。「人気の無い場所! この河川敷が可能性があるわ!」 声を張り上げると、スコットが片手を掲げて応えた。夕焼けを裂くように彼の二輪が加速する。「俺は上流、王都方面から探す! ネクターは下流だ!」 その声は豪快に響き、返事代わりにネクターも手を掲げた。次の瞬間、二人は橋を境にして鮮やかに進路を分けた。 川面ぎりぎりに飛行二輪を滑らせ、ネクターは必死に視線を走らせる。水面は夕陽に照らされ金色に揺れ、橋脚の影が長く伸びる。  だが、レックスらしき影はどこにも見えない。幾度か橋をくぐり抜け、やがて視界の果てに広がるのは黄金に染まる大海だった。 ――こんな短時間で、ここまで来られるはずがない。 そう悟ったネクターは旋回し、踵を返す。  今度は速度を緩め、息を殺すように視線を這わせた。すると、二本目の橋の下──薄闇の中に蹲る白銀の頭が見えた。膝を抱え、動かぬ影。ネクターの心臓が大きく跳ね上がった。 旋回して降下。着地と同時にエンジンを切り、ヘルメットとゴーグルを乱暴に外す。砂利を蹴る音とともにネクターは彼へ駆け寄った。  間違
last updateLast Updated : 2025-10-12
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42話 二度目の口付け、確かな言葉

 ネクターは、耳のすぐ傍で小さなため息を聞いた。  どこか愛おしさと呆れが混ざったような、ファオルの独特なため息だった。「……おまえ、あいつが好きだったのか?」 ファオルの問いかけに、レックスは躊躇わずに頷いた。「一瞬な。ほんの一瞬だったけど」  きっぱり答えるその口調に、ファオルは「やれやれ」と首を振った。  その仕草はまるで「どうしようもないな」と呆れているようで、でもどこか優しさが滲んでいた。  少しの間を置いて、ファオルは黄色い嘴をゆっくり開いた。『いいこと教えてあげるよ、ドン底。アプフェルの最期については伏せておくけど……おまえが守った血の繋がらない姉さんは、病気で短い命だったけど、それでも少しの間、幸せな時間を過ごしたんだ。あの後、アプフェルもミッテも、ずっとおまえのことを忘れなかった』  ファオルは深く息を吐き、その声にはいつもより重みがあった。『昨晩チラッと話した、二百年前の機械仕掛けの偶像と徒花の聖女、そして五百年前のおまえとの接点、覚えてるか?』」 レックスは無言で頷いた。『……二百年前、アプフェルはツァール帝国の終わり頃に輪廻したと思ってる。その時、運命みたいにミッテと同じ光の権能を持つ男と結ばれた。偶然じゃないよ。輪廻して再び出会って、また結ばれたんだ。徒花と呼ばれて不名誉だったけど、それでも希望を結実させた。そして最後には、おまえの居場所に導いたんだ』  その言葉に、ネクターは思わず目を大きく見開いた。「徒花の聖女が……レックスの時代の結実の聖女の生まれ変わり……?」   呟くと、ファオルは静かに頷き、瞼をそっと伏せた。『そう。徒花の聖女だった子は、アプフェルの生まれ変わりだと僕は思う。だって、能ある魂が還る場所に〝徒花〟はいても、〝結実〟のアプフェルの魂はいない。〝機械仕掛けの偶像〟になった男ははいても、ミッテはいない。両方を知る僕からすれば、同一の魂だよ。それに、前世の記憶がなくても、こいつの眠ってた場所に辿り着くなんて、偶然とは思えない。まるで前世の大事な弟の場所に、僕を導いたように見えるよ……
last updateLast Updated : 2025-10-13
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43話 変わらぬ日常の中で

 八月の終わり。アッシュダストを包んでいた異常な猛暑もようやく落ち着き、あの日──レックスが逃走した騒動から一ヶ月以上が経っていた。 ネクターは工房の窓から外を眺めながら、あの夜のことを思い返していた。  レックスを連れ帰り、まずは着替えさせて、すぐに夕食の席についた。そこにはスコットも一緒だったが、食事が終わった途端、叔母の嵐のような説教が始まった。 叔母の剣幕さは、まるで掴みかからんばかり。  さすがのレックスもすっかり気圧されて、肩を縮こませていた。 確かに彼の行動は独断で、無謀と言ってもいいものだった。けれど、記憶をすべて取り戻したことで悩み抜き、考え抜いた末の行動だったと分かっている。そう思うと、ネクターには責めきれない気持ちもあった。  何より、レックスは人として真っ当な心を持っている。それが、ネクターにはよく分かっていた。だから、咄嗟に彼を庇おうとしたが、レックスはそれを遮って、叔母の痛烈な言葉をただひたすら真摯に受け止めた。 スコットも「一発殴らせろ」と息巻いていたが、結局は憐れに思ったのか、軽いデコピンを一発だけお見舞いして終わりにしていた。 ただ、ネクターには一つだけ気がかりが残っていた。重大な秘密をスコットに曝け出してしまったことだ。  非常時だった。ゆえの咄嗟の判断で口を割ったのだが……果たしてそれで良かったのか。本当に信じてもらって大丈夫なのか。不安が胸の奥に芽生えた。 しかし、それは杞憂だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。  スコットは終業後になると必ず工房へ顔を出し、レックスと過ごす時間を増やしたのだ。  その上、最近では「男同士で話がしたい」などと理由をつけて河川敷で語らっている他、配送が手すきの時には店先で二人並んで油を売っている姿もよく見かける。  さらにスコットの配送仲間たちとも出掛けるようになり、レックスはこの街にすっかり馴染み始めていた。 ──友達になりたい。  あの時の言葉は、決して嘘でも気まぐれでもなかったのだ。ネクターは外で談笑している二人を眺めながら、自然と笑みを浮かべていた。 
last updateLast Updated : 2025-10-14
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44話 恋は勝手に〝落ちる〟もの

 真っ赤になって慌てる姪の様子に叔母は、呆れたように笑う。   「私もあの子の根の真面目さは信頼しているさ。古代兵器だろうが、五百年前のツァール人だろうが、結局は人間と変わらない。あんたとたった一つしか変わらない十六歳。もう大人と呼んでいい年頃なんだよ」    ──だからね、どんなに無垢で紳士ぶっていようが、男というのは結婚まで我慢できるものばかりじゃないんだ。  叔母はそう言って、フンと鼻を鳴らした。 私たちはそんな……。ネクターはまだ狼狽えていた。  キス以上の事なんて、ひとつも想像できないし未知でしかない。それも、あのレックスと。  卑しい知識が少しはあるのは分かってる。それに、初めてシャワーを浴びせた時、「裸見せてくれねぇの?」なんて言われたので、えっちな事を多少なりとも考えてる節があるのは分かっているが、行動に出るのはなかなか考えがたい。  だって、あのレックスだ。「ドリス叔母さん、変な脅しをしないでちょうだい」  大丈夫、大丈夫。と、まるで自分自身に言い聞かせるようにネクターは答えた。叔母はその様子にからりと笑う。「それにしても、散々人の好意を突っぱねてきたあんたが……どうしてあの子には心を開いたんだか。いや、見ていれば分かるさ。あの子の本質を見抜けば、惹かれるのも当然だよ」 ──素直で真っ直ぐ。媚びず、物事の本質を見抜こうとする。私らのような異端の女職人でさえ敬意を持って受け入れる。むしろ「好きだ」と言い切ってしまう。そんな少年に惹かれぬわけがない。 どこか懐かしむような目をして、叔母はそう言葉を添えた。「……叔母さんも、恋をしたの?」    前々から気になっていた疑問を投げかける。だが返ってきたのは「まぁね」と優しい笑みと曖昧な言葉だけだった。    今レックスが着ている作業着。その持ち主のことを、ネクターは連想せずにはいられなかった。だが軽々しく口にできる話ではない。未婚のまま生きてきた叔母の心に、迂闊に踏み込むことはできなかった。「でもね……私とレックスは、きっと今だけなのよ。
last updateLast Updated : 2025-10-14
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45話 強い雨音と、雷鳴の記憶

 九月初旬。その日の昼過ぎ、叔母のドリスはまたも湯治に泊まりがけで出掛けた。  何やら、前回の湯治の時に出会った同年代の婦人とすっかり意気投合したらしく、手紙でやりとりをして、約束をしていたらしい。 気難しそうな叔母ではあるが、それは仕事の時だけ。表向きには友好的で親しみやすいようで、出先で出会った人とすぐに仲良くなり、交友関係を築いている様は本当に器用としか言いようもない。「何か美味しいお土産買ってくるからね。店の事は頼んだよ」 そう言って杖をついて出掛ける叔母を、ネクターとレックスは工房の前で見送った。  残暑がはっきりと残る午後。空は快晴で、アッシュダストには珍しく雲は一つも無い。 心地良いほどの晴れ空だ。ネクターは晴天を仰ぎ、伸びをする。「さて。あと半日よ、仕事頑張りましょう」 「おう。そうだな」 そうして、二人は店の中に入っていった。 しかし、その日の店仕舞いをする頃には、昼間の晴天が嘘のように、分厚い灰色の雲が空を敷き詰め始めていた。風も強まり始め、嵐を予感する。  こんな日は、さっさと眠ってしまった方が良い。ネクターとレックスは早めに夕食を済ませ、各々シャワーを浴びた。 その予感は的中した。午後九時にもなれば、暴風で窓硝子がガタガタと鳴り、大粒の雨が叩き付け始めたのだ。  まるで、バケツでもひっくり返したような雨だった。雨水は絶え間なく窓から流れ、ラジオの音もろくに聞こえない。  もう寝てしまおう。ネクターは、ラジオを止めに立ち上がった瞬間だった。窓の外でピカッと青白い閃光が走る。その直後地鳴りがする程の轟音が轟いたのである。「きゃ……!」 あまりに大きな音。近くで落雷したのだろう。驚いたネクターが慌ててラジオを止めたその瞬間だった。  ぷつりと部屋の灯りが落ちたのである。……停電だ。  しかしその間も絶え間なく窓の外が光り、すぐさま雷鳴が轟いてネクターは身を竦めた。 ふと脳裏に過るのは幼い頃の記憶だった。    ネクターがまだ七つの頃の夏のある日。プライ
last updateLast Updated : 2025-10-15
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46話 嵐の夜、二人で眠る狭いベッドで

 甘い声。間近に感じる体温。ネクターは真っ赤になって肩を震わせた。「可愛いなぁ。怖いなら一緒に寝よ。ボクがいるなら怖くないだろ?」 今度の声色は愛おしげであっても、いつも通りの軽やかな響き。ネクターは少しほっとした。  気持ちはありがたい。だが、それ以上にこの状況下には心音が煩い程に脈打っている。  古代兵器と現代の異端者とはいえ、婚前の男女だ。一緒のベッドに眠るなんて……。「何もしないわよね?」なんて聞くのもおかしいだろうか。     けれど、キスならば……されたい。  そんな事を考えてしまい、ネクターは耳まで真っ赤になる。    そうして一人悶々と考える最中だった。 「ネクター顔上げろ」なんて囁き、レックスはネクターの顎をそっと持ち上げる。  カンテラの灯りでレックスの顔ははっきり見えた。いつも通りの鋭い面差しだったが、それは一瞬。みるみる頬が朱を帯び、恥ずかしそうで、どこか気まずそうな表情に変わった。「やば……怖がってるネクター可愛すぎ」 「へ?」  思わず眉を寄せると、ぎゅっと抱き寄せられた。レックスの腕の温もりに、胸はさらに高鳴った。 ──シャツ越しに感じる体温、首筋を擽る彼の吐息。首筋の脈動が妙に艶めかしい。それに、こうも抱き締められると骨張った身体が〝異性〟の身体とはっきり分かって、やはり恥ずかしさを感じてしまう。    しかし、意識してるのは彼も同じだろう。レックスはやんわりと首を振るう。「あああ、もう寝よう……ネクターも目ぇ閉じろ」  そうして抱き締められたまま、レックスは目を伏せた。  それだけで分かる。何もする気はないらしい。  ネクターはほっと胸を撫で下ろし、瞼を伏せた。 ……しかし、こんな状況で眠れるはずがなかった。  雨脚は強いままだったが、雷鳴は次第に遠ざかっていた。 ベッドは少し狭い。身じろぎすると、余計に彼に触れてしまいネクターは頬を熱くした。レックスも眠れていないのか、規則正しい寝息は聞こえず、時折小さな吐
last updateLast Updated : 2025-10-15
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47話 二人で食べるアイスクリームの味

 九月下旬。  吹く風はだいぶ涼しくなってきたが、その日は夏に戻ったかのように気温が高かった。  季節の変わり目の不安定な気候など珍しくもない。この暑さも十月に入れば嘘のように消え去り、あっという間に秋が深まっていく。そして、十一月半ばには吐く息が白くなり、冬が訪れることだろう。 まだ夏着でも充分に過ごせるが、衣替えの時期でもある。  修理の仕事を午前のうちに片付け、午後の穏やかな時間に衣替えを始めた矢先──ネクターは、レックスには替えの服が無いことを思い出した。 その旨を言えば、「早く買って来なさい」と叔母から紙幣を数枚渡され、彼と二人でアッシュダストと王都の境にある市場へと足を運んだ。 ──食品に衣料品、薬品、書物、日用品。大抵のものはここで揃う。  赤い石畳で舗装された真っ直ぐな大通りの左右には店が軒を連ね、食べ物屋台やオープンカフェもいくらか混じっていた。  ここは二つの街の中間点。まして昼の時間帯だ。作業を終えて休憩に来た工業地帯の労働者、羽振りの良い商人、制服姿の女学生たち。実に様々な人々が行き交い、通りはとてつもなく賑やかだった。 あれ以来、スコットに連れ出されてレックスも外出するようになったが、この市場は初めてらしい。子どものようにきょろきょろと周囲を眺めながら、ネクターの隣を歩く。 仕立て屋に着くと、長袖の簡素なシャツを数着、丈の合う下衣、下着や靴下、胸当てなどの既製品をまとめて購入し、すぐ工房へ戻ろうとした──その途中で、レックスの足取りがピタリと止まった。 何事かとネクターも立ち止まり、彼の視線を追えば、休憩中の労働者たちがアイスクリームを食べている姿があった。レックスはまるで釘付けになったように、それを凝視している。「ネクター、あの食い物ってなんだ?」 「アイスクリームよ。雪みたいに冷たいデザートだけど……」 五百年前には存在しなかったのだろうか。彼が真剣な顔で尋ねるのを見て、ネクターは小首を傾げる。「それって、ドリスの林檎のタルトや桜桃のケーキみたいに美味いのか?」 即座に頷く。言葉の端々から、彼が食べてみ
last updateLast Updated : 2025-10-16
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48話 人を救い、怪物と呼ばれて

 それから間もなく、レックスは最後の一口を口に運び、アイスクリームを食べ終えた。  冷たい甘さの余韻を舌に残しながら、彼は空の容器を屋台へ返し、帰ろうと身を翻した──その時だった。 突如、耳を劈くような女性の悲鳴が市場の空気を震わせた。 買い物客は一斉に振り向き、店の者も慌てて外へ飛び出していく。人々の視線は自然と一つの方向へ集まり、群衆は口々にざわめきながら道を駆けていった。  不思議に思ったネクターも、皆の指差す方角を追って顔を上げ──息を呑む。 六階建てのアパートメント。その最上階のバルコニーから、ひとりの幼い子どもが小さな両手で柵にぶら下がっていたのである。 泣き叫ぶ声は母親のものだろう。母親と思しき、小綺麗な服を纏った女性は蒼白な顔で通行人に助けを求め、腕を伸ばしていた。  子どもの真下にあるのは煉瓦の花壇と石畳だ。あまりに固い地面……六階からの落下に耐えられるはずがない。想像しただけで、背筋に冷たいものが走った。 ネクターは、「何事か」と集まる群衆の中に、先ほど買い物をした仕立て屋の主人の姿を見つけ、慌てて駆け寄った。「おじさん! 子どもが落ちそうなの! すぐに大きな布を持ってきて!」 ネクターの必死の叫びに、仕立て屋の主人は顔を強張らせながらも即座に頷き、血相を変えて駆け戻っていった。    同時に、ネクターはもう一つ救助法がふと浮かんだ。  工房まで走って三分──果たして間に合うだろうか。 ネクターは店の方へ飛び出そうとした。だがその腕を、強く掴んだ者がいる。それは勿論レックスで……。  彼は血相を変えたネクターをぐっと引き寄せ、真剣な目で見据える。「考えてることは分かる! 飛行二輪で助けに行くつもりだろ。でも──間に合わねぇ! あの子の手を見ろ、震えてる。もう限界が近い」 「だからって……!」 言い返したものの、レックスの言葉には重みがあった。確かに子どもの小さな手は震え、今にも力尽きそうに見える。  仕立て屋が戻るのを待つには、あまりにも危うい。だが、群衆が手を広げて待ち受けて
last updateLast Updated : 2025-10-16
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49話 夕陽に溶ける二人の影

 全力疾走で修理工房まで──一二百メートルほどの僅かな距離とはいえ、息が切れるには充分な長さだった。  荒々しく扉を閉めて飛び込むと、ネクターの必死の形相に、受付に座っていた叔母は目を丸くする。「どうしたんだい? そんなに慌てて……」 いつものように呆れた調子で声をかけるが、ネクターは答えることができなかった。その沈黙だけで、事の重大さを悟ったのだろう。叔母は落ち着いた声で、もう一度同じ問いを繰り返した。「……高い建物のバルコニーから落ちかけた子どもを助けたんだ。ボクにしか届きそうになかったから、だから力を……」 ゼイゼイと息を切らしながらレックスが途切れ途切れに語る。叔母は受付台から立ち上がり、杖をついて二人に歩み寄った。「つまり、レックスは何も悪いことはしてないんだね?」 その問いに二人は同時に頷く。  だがネクターの声は震えていた。「だけど……どうしよう。レックスのあの姿を沢山の人たちに見られちゃった……」 人間らしく無害であろうと、異形となれば忌避される。平穏に済むはずがない。そう分かっているからこそ、恐怖が全身を締め付ける。  叔母は「落ち着きなさい」と冷静に言った。 その時、店の外から喧噪が近づいてきた。   『修理工房の若い娘が異形の怪物を連れていたんです』 『確かに見たんですよ、お巡りさん。まるで機械仕掛けの悪魔のようで』 『あれって……もしかして少し前に軍事緊急速報にあった特定機密遺産じゃ』    次々と響く声に、ネクターは青ざめ、レックスの腕を掴んだまま後ずさる。  激しいノックが扉を揺らした瞬間、叔母は深くため息をつき、二人の背を押した。「いいかい? あんたたち二人に長い休暇をやるよ。バカンスだと思っておいき」 工具ポーチから財布を取り出し、無理やりネクターに押し付ける。「叔母さんは!?」 「どうもこうもないさ。客でもない者は営業妨害だよ! うちの姪と弟子が悪さなんてしてない、胸を張って言える。だから帰ってもらうだけさ」
last updateLast Updated : 2025-10-17
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