All Chapters of 地底の悪魔と歯車の魔女: Chapter 51 - Chapter 60

66 Chapters

50話 最後の抱擁、最初の告白

 しかし、こんな寂れた商店に灯油があるのだろうか。  半ば諦めつつも、ダメ元で尋ねてみようとネクターは思った。 扉を押し開けると、ラジオを流しっぱなしにしながら新聞を広げている初老の店主が、気の抜けた調子で「いらっしゃい」と呟いた。  店内は埃っぽく、蛍光灯も薄暗い。商品の棚にはほとんど何も並んでおらず、ただ時間だけがだらだらと流れているような空気が漂っていた。「すみません。灯油を売っていますか? それか、この辺りで灯油を扱っている店をご存じないでしょうか」 ネクターがそう問いかけようとした瞬間だった。  店主の横で鳴っていたラジオの音が、不意に調子を変え、軍の緊急放送へと切り替わったのだ。『飛行二輪に乗る髪の長い少女と、小柄な青年の目撃情報を求む』 ──少女は桃金髪、青年は白金髪。年齢、体格、その他の特徴が次々と読み上げられる。  ネクターは息を呑み、傍らのレックスの腕を咄嗟に掴んだ。  間違いなく自分たちのことだった。警察から軍へ情報が渡ったのだ。 新聞をのんびり眺めていた店主は、読み上げられる特徴と二人を見比べ、小さく首を傾げる。  ぱちりと視線が合った。次の瞬間、「あ」と小さく声を漏らしただけで──それだけで充分だった。  ネクターはレックスの腕を引き、反射的に店を飛び出す。 ──まずい。本当にまずいことになってしまった。  とにかく、飛行二輪を乗り捨ててでも、人気のない場所に身を隠さなくては。 ネクターはスタンドを蹴り払い、側車に飛び乗るようレックスを促すと、二人は再び宙へ舞い上がった。 *** しかし、逃げ続けられるはずもなかった。  ガス欠は時間の問題であり、やがて二輪は空を滑る力を失っていく。 紺碧の宵がすっかり落ちた頃、二人は海沿いの都市──インディゴサンドの砂浜へと不時着した。  漁村から少し北上した場所で、幸い人気はまるでない。夜の海はただ静かに、絶え間なく波を寄せては返している。 灯台の光が遠くに瞬き、星々はひときわ鮮やかに輝いて
last updateLast Updated : 2025-10-17
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51話 一人だけの帰宅、工房へ帰る朝

 その後の記憶は、朧気になるどころか、逆にとてつもなく鮮明に焼きついていた。  レックスは四方八方から銃を突きつけられ、為す術もなく飛行船へと連行された。    一方のネクターは取り調べを受けただけで済み、軍の秘密を暴いたという大罪にも関わらず、想像していたような恐ろしい処罰には至らず、呆気なく釈放されたのである。 その理由は明白だった。  レックスが、あの悍ましい姿に変じて軍を睨み据え、静かな威嚇をもって釘を刺したからだ。『ボクは、おまえたちに従う。けどな──その子に指一本でも触れてみろ。ここに居る全員を捻り潰す。プロトタイプだかなんだか知らねぇが、能有りをナメるな! やろうと思えば簡単なんだぜ』 凄みのあるその声色は、もはや条件の提示ではなく、強迫に等しかった。  でっぷりと太った赤ら顔の軍人が舌打ちをひとつ鳴らし、渋々とレックスの要求を呑んだのも当然だった。 ──軍の階級制など詳しくは知らぬネクターにも、腕章を見れば佐官か尉官に相当する人物だと察せられた。   「ええい、娘は取り調べの後にアッシュダストまで送ってやれ」    軍人が投げやりに示唆したその一言で、二人は無情にも引き離されてしまった。 そして、ネクターを取り調べた中年軍人もまた、少なからず高い地位にある人物らしかった。  先ほどの肥えた軍人よりも腕章の線が一本、二本少なかったため、やはり佐官か尉官であろうと推測できた。 取り調べの場は、大型蒸気自動車の中。  名前や住所といった個人情報から、アビスの存在を知った経緯まで淡々と問われ、ネクターはいつものように「エヴァレット」の姓を名乗り、そして工具ポーチに忍ばせていた祖父の手帳を差し出した。 古ぼけた革表紙には「トーマス・エヴァレット」の名が刻まれている。  それを目にした瞬間、軍人の表情が一変した。「……まさか、かの技術者のご子息だったとは」 思わず零したその言葉によって、ネクターは自らの血筋に新たな事実を知ることになる。 ──祖父、トーマス・
last updateLast Updated : 2025-10-18
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52話 失われた日々と、残された希望

 ネクターとレックスが逃亡を図った、あの日から、早くも三日が経っていた。  店はあの日以来、閉じられたままだ。 営業妨害かと疑うほど人が押し寄せ、商売どころではない。そうぼやいた叔母は、とうとう扉に鍵を掛け、ヒューズ社から下請けしていた修理の依頼すら受け付けなくなってしまった。  原因は言うまでもなく、あの日の騒動である。 それでも叔母は、一人戻ってきたネクターを責めることはなかった。  怒鳴られることも、詰られることもなく。ただ静かに、黙って迎え入れられた。 ──だが、だからこそ胸が苦しい。 それからのネクターは、ソファやキッチンの椅子に腰を掛け、ぼんやりと宙を眺めてばかりいた。今日もまた、紅茶の香りが漂う台所で、冷えた指先を組み合わせたまま、ただ呆然と座っている。 正面にいる叔母は、カップを傾けながら静かに紅茶を啜っていた。  ラジオからは陽気な流行歌が流れているが、その明るさは遠く、心には何一つ届かない。出された紅茶にすら、手を伸ばすことができなかった。 叔母もまた、あの日から一言も言葉を発さなかった。  いつもなら、こんなに腑抜けた姿を見れば「しゃんとしなさい」と叱る人なのに──。 だからこそ、不意に落ちた声は、酷く遠くから響いたように思えた。「なぁネクター。あんたは、これからどうしたいのかい?」 穏やかで、柔らかい声音だった。  だが、どうしたいもこうしたいもない。もうすでに手遅れなのだ。 取り調べにあたった軍人でさえ「分からない」と断じた。  レックスは戻らない。二度と会えない。どこに連れ去られ、どう扱われているのかさえ分からない。 分かっている。分かっているのに──。 会いたい。もう一度だけでいい、会いたい。  叶わぬ願いと知りながら、胸の奥で叫んでしまう。 現実を理解した途端、堪えていた感情が堰を切った。  大粒の涙が頬を伝い、次々と零れ落ちていく。 普段は決して泣かない。強く、気丈であろうと努めてきた。それを一番よく
last updateLast Updated : 2025-10-18
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53話 愛しい悪魔の笑顔、奪還の決意

 ネクターは叔母の言葉に、胸の奥で冷たいものが走るのを感じた。   それはもはや「世迷い言」と笑いものにも思える提案。軍を相手に勝算などあるはずがない。  それなのに、叔母の瞳はあまりにも真剣で、ネクターは背筋にぞくりとする。まさか本気だというのか……。「その恋が本物かどうか、本気であの子の場所まで冒険する覚悟はあるのかって聞いてるのさ」    叔母は静かに、だが力強く続けた。「そもそもね、レックスが大人しく従ってるなんて、妙だと思わないかい? 力も封じられてないって話だ。あの子がそんな風に振る舞うなんて、不気味じゃない? あの子にしては頭を使ったんじゃないかって、そう思わないかい?」   その言葉に、ネクターの心はざわめいた。    ──きっと、脱走する気だろう。  叔母の含みのある言葉に、言わんとした言葉を安易に連想できた。ネクターは思わず目を瞠る。 確かに、レックスが大人しく軍に従うなんて、想像もしていなかった。  彼が全てを諦めたのか、それとも……脱走の好機を窺っているのか。どちらかしか考えられなかった。  ふと、記憶の底からインディゴサンドの浜辺での光景が蘇った。    あの時、レックスは確かに言った。  一度、すべてを終わらせよう。……と。    動転したネクターは、「終わらせよう」という部分しか聞き取れなかったが、今になって、「一度」という言葉が鋭く胸に突き刺さる。    あの時の彼は、すでに逃げ切れないと悟っていたのではないか。  静かに迫る飛行船や、周囲を包囲する気配にも気づいていたのではないか。    そう考えると、「一度」という言葉は、ただの諦めではなく、脱走の計画をほのめかすものだったのかもしれない。  わざと捕まることで、好機を待つ。そんなレックスの意図を、ネクターは今になってようやく理解した気がした。 いや、むしろ彼は、ネクターを守るために、あえてそんな言葉を選んだのかもしれない。
last updateLast Updated : 2025-10-19
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54話 灰の街の労働者たちに届く想い

「まったく……この子ったら、ボーイフレンドを取り戻すために一人で軍に殴り込みに行くつもりみたいでねぇ。私以上におかしな異端者だよ」 呆れた口調で叔母がそう言うと、店の前に集まっていた人々からたちまちどよめきが起こった。「おいおい、そりゃいくら何でも無謀だ。命がいくらあっても足りないだろう」 「隣人を頼ったらどうなんだ?」 野次の中にはそうした声もあった。  しかし、ネクターが改めて見渡すと、集まった人々の視線は、驚きや呆れを含みつつも、どこか温かみが確かにあった。 状況が理解できず戸惑っているネクターに、いつの間にか隣に立った叔母が背中を強く叩く。「警察の阿呆は知らないがね、アッシュダストの皆はあんたの味方だよ? あの後、駆けつけたスコットと一緒にレックスのことを話したのさ。そしたら皆、〝確かにそうだ〟って納得してくれた。イフェメラ軍が隠した古代兵器だとしても、あの子が人と変わりないことは皆知っている。レックスも、この街の労働者の一員さ。あんたを一人で戦わせる気はないって言ってくれたんだよ」 ──叔母の言葉に、皆は黙って頷いた。  向かいの宿舎の女将からは「子どもを助けたなんて、むしろ英雄様じゃないか!」と微笑ましい声も聞こえる。 そして次々に聞こえるのは謝罪の声。 「騒ぎ立ててすまなかった」「申し訳なかった」と……。「あんたはひとつのことに集中すると一直線に突っ走る性分だからね。きっとレックスが生かされてることや、軍にまた身体を弄られる事でも知ったら、一人で飛び出すだろうと踏んでね。だから皆に止めるように、あらかじめ集まってもらってたのさ」 初めから全て計算済みだったと、叔母は悪戯っぽく笑い、ネクターの背をそっと撫でる。 それを知ったネクターは、驚きのあまり声も出せず呆然としていた。    その時だった。通りの奥から「ブオン」と聞き慣れた二輪の排気音が迫る。  振り返ると、配送用二輪に跨がったスコットが現れた。「おかみさん、どうするんだ?」  エンジンをかけたまま、スコットは叔母に尋ねる。
last updateLast Updated : 2025-10-20
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55話 夜明け前の奪還飛行

 連日、夜更けまでの作戦会議に飛行二輪の調整に整備──と、その二日間は、まるで嵐の中にいるかのように目まぐるしく過ぎ去っていった。  互いに意見をぶつけ合い、『ああでもない』『こうでもない』と悶着を繰り返す。    その末に決まった作戦は、至極単純かつ大胆なものだった。  すなわち──〝南の孤島へレックスを運ぶ軍の飛行船に直接乗り込み、甲板に上がったネクターが交渉を仕掛ける〟という手段である。 武器を持たず、武装もせず、一切の攻撃を行わない。あくまでも「一般民」を装い、油断を誘ったうえで交渉の場を強引に作り出す。  しかし、それだけでは不十分だと叔母が付け加えた案は、なんとも滑稽な指定であった。  ──〝非行青年や非行少女を装って、二人乗りの飛行二輪で蛇行しながら集団で接近する〟。 どう聞いても空飛ぶゴロツキにしか見えない。まるで馬鹿騒ぎに興じる若者たちの暴走集団だ。  だが叔母は不敵に笑い「軍は、こんな滑稽な連中にわざわざ本気の武力を振るおうとは思わぬさ」と断言した。確かに、妙に理屈が通っている。 勿論、油断を誘えるとはいえ軍用飛行船を相手にするのだ。危険が伴うのは火を見るより明らかだった。  ネクターとしては「こんな危険な作戦に参加してくれる者などいないだろう」と思っていたが──その予想はすぐに覆された。 スコットを筆頭に、ヒューズ社の配送員の青年たちが、揃って『乗った!』『引き受ける!』と次々に声をあげたのである。  その即決ぶりに、ネクターは思わず言葉を失った。胸に温かなものが広がる一方で、彼女の心は戸惑いに満ちていた。 スコットは笑みを浮かべて肩を竦める。   「確かにネクターには振られちまったけど、それで切れる縁じゃないだろ?」    そう言う彼の顔は、あまりにも人が良さそうで、冗談めいているのに誠実さが滲んでいた。 彼は続けて「レックスだって大事な友達さ。配送員仲間からしたら、もう弟分みたいなもんだからな」と言った。  それは、利害でも恩義でもない。  ただ単純に──〝この街
last updateLast Updated : 2025-10-20
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56話 夜空を駆ける、姉御と十人の手下たち

 ※ 要塞を飛び立って四十五分。飛行船は予定通りの空路を進み、外敵の影も見えなかった。  だが、上甲板から急にどよめきが起こると、船内の椅子にふんぞり返っていたゴードン大佐は、苛立たしげに眉をひそめた。「……いったい何の騒ぎだ。騒々しい」 吐き捨てるような声が響いた瞬間、下級兵が叩扉もせずに飛び込んでくる。あまりに無礼な振る舞いに、大佐は顔をさらに赤々と染め上げ、怒鳴ろうと口を開いたが──「接近機体を確認! 飛行二輪に乗った若者たちです、いかが致しますか!」 慌てた報告に、怒声はしぼむ。代わりに呆気に取られた大佐の口から、間の抜けた声が零れた。「……民間人か?」 「ええ、どう見ても。非行青年にしか見えません」 巨体を揺すって立ち上がると、大佐は下級兵を押しのけ、甲板へと続く階段を重々しく上る。  やがて渡された双眼鏡で南西を覗き込むと──そこには確かに、無鉄砲な飛行二輪が六機、風を切って飛んでいた。「なんだ、ただのゴロツキだな。ヘルメットもつけずに蛇行運転とは、命知らずもいいところだ。……ったく、治安維持が仕事の警察は何を怠けているのか」 大佐は双眼鏡を兵に返し、こめかみを揉みながら深くため息を吐いた。「いかが致しますか?」 「……拡声器で忠告しろ。必要以上に接近するなら威嚇射撃も許可する。ただし車体は撃つな。人を殺せば厄介になる」 そう舌打ち混じりに命じると、巨体を揺らしながら船内へ戻っていった。 ※ 六機の飛行二輪は蛇行と旋回を繰り返し、軍用飛行船にどんどん近づいていった。すぐに「引き返せ!」と拡声器の声が飛ぶ。  だが、ネクターたちは止まらない。 彼らの装いは普段の配送員とはまるで別物だった。ヒューズ社の制服を脱ぎ捨て、けばけばしい衣服で身を固め、髪を乱し、奇声を上げながら夜空を駆ける。まるで街のゴロツキそのもの。  スコットが名付けた「姉御と十人の手下」という冗談も、今なら誰もが信じただろう。 飛行船から見える距離に近づいても、兵士たちはただ「帰
last updateLast Updated : 2025-10-21
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57話 魔女が空に堕ちる夜

 その行動に、甲板に並んだ軍人たちが一斉にどよめいた。だがゴードン大佐は「ええい、黙れ!」と一蹴し、周囲を威圧する。    本当に正真正銘丸腰だ。まさか、銃が抜かれるとは、夢にも思わなかった。  青ざめた顔で、ネクターは思わず身を強張らせる。足が勝手に後ずさりを始めたが、慣れぬヒールの靴が邪魔をして、すぐにつまずき、無様に尻餅をついてしまう。  巨体を揺らした大佐は、待っていたかのように一気に距離を詰めてきた。「このような蛮行、愚かとしか言えん!」 大佐の声音には軽蔑と嗤いが滲んでいた。  忌々しい魔女の容貌の娘──最初に見た時から、そう内心で嘲っていたのだろう。大佐は鼻を鳴らしながら言葉を続ける。「遠い昔の伝承を思わせるその姿。実に品がない。まさにアバズレの魔女だ」 銃口を下ろすと、彼は即座にネクターの腕を掴んだ。  ぶくぶくと肥えた豚のような男──しかし軍人である以上、その握力は尋常ではない。潰されるように食い込む指に、ネクターは痛みに顔を歪めた。  それでも、負けじと鋭い視線で大佐を睨み返す。「大佐! 貴方は軍の上位に立つお方でしょう。このような暴挙が許されると? 彼は……レックスは命も心も持つ人間だわ! 解放して!」 問い返した声は震えていたが、勇気は確かにあった。  だがその言葉は、大佐にとってはただの滑稽な冗談にしか聞こえなかったようだ。「ははは! あれを人と呼ぶ時点で可笑しいわ。軍は民に刃を向けぬ? 確かにそうだろう。だが──誰も知らなきゃ、それで済むことよ」 飛行二輪の事故で海に転落したと処理すれば良い。周囲の目撃者など、蠅と同じ。叩き落として隠蔽するなど容易い、と。  ゲラゲラと下品に笑う声が甲板に響く。「法を破るというの!」 剣幕になって叫んだが、大佐はもはやネクターを見てさえいなかった。  それは流れるような作業の一端にすぎなかったのだ。大佐が軽く顎を動かせば、烏合の軍人たちはぞろぞろとネクターの愛機へ群がる。掛け声とともに飛行二輪を持ち上げると、容赦なく海へと放り投げた。「やめて──!」 悲痛な叫びが甲板に響いた。  相棒を海に沈められる痛みは、胸を裂かれるに等しかった。  そして今度は彼女自身が、乱暴に引き摺られ甲板の縁へと立たされる。「安心しろ。同じ海の底に、貴様
last updateLast Updated : 2025-10-21
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58話 血濡れた彼に抱き締められて

 自分の身がどんどんと空へと吸い上げられていく。 もはや重力に逆らうようで……どういう事だ。そう思った瞬間に、ネクターは悟った。このような所業ができるのは、ただ一人しかいない。(レックス……!) 思い至ったのも束の間だった。身体はふわりと羽が舞い落ちるように緩やかに下降し始め、甲板の上へと導かれていく。そして辿り着いたその場所には温もりがあった。誰かに抱きとめられたのだと気づき、はっと目を見開いたとき、間近にあったのは――愛おしい悪魔の顔だった。「……レックス?!」「よう、ネクター! しばらく見ねぇ間に派手になったなぁ。その格好も色っぽくて良いじゃねぇか」 ──だけどよ、元が可愛いんだから、そんな厚い化粧なんてしなくても充分だろ? 軽やかな口調に笑みを添えて、彼は飄々と告げた。 本当にレックスだ。だが、なぜ。 死後の幻覚だろうか。都合の良すぎる夢にすら思えたが、腕の中にある温もりは確かだった。さらに視線を巡らせれば、軍人たちがまるで死人でも見たかのような形相で臆し、固まっている。――現実だと理解できた。 自分は彼の力に救われ、ここに戻ってきたのだ。けれど、彼は軟禁されていたはず。それなのにどうやって。疑念が胸をかすめる。「レックス、貴方……どうやって……」 問いを口にした、その瞬間だった。『構えよ!』という号令とともに、怯えを滲ませた軍人たちが一斉に銃口をこちらに向ける。「──撃てぃ!」 乾いた発砲音が響いた直後、甲高い音が甲板を切り裂いた。飛び出した銃弾は、空中で動きを止めていた。 抱きかかえられたままのネクターは顔を上げる。そして息を呑んだ。そこにあったのは、悪魔と呼ぶに相応しい彼の貌だった。 額に青筋を浮かべ、白目は濁り、瞳は赤々と燃える警告灯のよう。口元は嗤いに歪み、牙のような歯を剥き出しにする。ぞっとするほど悍ましい形相に変貌した彼は、低く笑いを洩らした。
last updateLast Updated : 2025-10-22
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59話 風を裂いて来たる母

 見覚えのある飛行船が夜空を裂いて近づいてくる。その意匠に、ネクターの胸はどくんと跳ねた。  ──ブラックバーン社の紋章。間違いなく、自分が生まれ育った家のものだ。「ブラックバーン社……?」 誰よりも先に大佐が呟いた。軍に支援をしている大企業だ。  彼がすぐにそれを見抜いたのも無理はない。  ゴードン大佐は小さく舌打ちし、銃を仕舞う。その横顔には苛立ちがありありと浮かんでいた。 やがて飛行船は軍用船と並走を始める。甲板に姿を見せたのは、煌びやかな衣装を纏った中年の女性だった。栗毛の髪、翡翠の瞳。整えられた笑み。    ──ネクターの母、アナスタシア。  彼女は大佐を見つけると、少女のように手を振り、軽やかに声をかけた。「まぁ、大佐殿。ご機嫌麗しゅう。なんて良い夜でしょう」 「ああ、これは……アナスタシア殿」 大佐が恭しく名を呼び、頭を下げる。 ……しかし、なぜ母がここに現れたのか。  ネクターには分からない。だが、これは明らかな転機だった。大佐の注意が逸れている今こそ、レックスを助ける好機だ。 ネクターは咄嗟にドレスの裾を引き裂き、彼の肩の傷を急いで縛った。  血は止まらず流れ出るが、幸い致命傷ではない。それでも、鋭い血の匂いが鼻をつ き、ネクターの心を締め付ける。 「自分を守るためにこうなった……」という思いが胸を刺す。  血が布に滲み、すぐに足りなくなる。ネクターは再びドレスを裂き、太腿を露わにしながら、羞恥も忘れて必死に処置を続けた。 その間に母の甲高い声が飛んだ。「折角ですし、そちらに移っても構いませんわね?」 返答を待つこともなく、彼女は連絡通路をかけて、こちら側に渡ってきた。  飛行中にそんな危険を冒すなど、常識では考えられない。だが母は、笑みを浮かべたまま涼しい顔でこちらに歩み寄る。 同じ甲板に母が立てば、大佐の態度も引き締まった。「さて……私が来た意味はお分かりでしょう、大佐殿」 柔らかな口調に反して、その瞳は一切笑ってい
last updateLast Updated : 2025-10-22
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