All Chapters of 地底の悪魔と歯車の魔女: Chapter 31 - Chapter 40

66 Chapters

30話 光を纏う小さな〝元〟同僚

 その晩、ネクターはとうとう寝付くことができなかった。 布団に潜り込んで目を閉じても、瞼の裏に浮かぶのは先程の彼の顔ばかり。胸の奥が落ち着かず、寝返りを打つ度にシーツがかさりと音を立てる。  夕食だって、結局は一緒に食べたものの、互いに言葉を交わさぬまま終わってしまった。いつもなら些細な話題でも見つけて笑い合えるのに──今夜は皿の上のスープやパンの切れ目ばかりを見つめ、食事の味すら覚えていない。 (許せる訳ない。だけど……言い方はきつすぎたかもしれないわね。さすがにこの空気は……居心地が悪すぎる) 吐息を漏らしてベッドの上で丸まり、ネクターは掛布もかけずに額を枕に押しつけた。 やがて深いため息をひとつ。目を閉じようとした、その時だった。 ──隣室からボソボソと声がする。 耳を澄ませば、それは確かにレックスの声だった。けれど、言葉は分からない。イフェメラ語ではなく、初めて出会った時に彼が口にしていた、ツァール語に似た異国の響き。低く熱を帯びたり、あるいは呟くように細くなったり、感情に応じて抑揚が変わっている。 まるで誰かと会話をしているかのように──。(独り言? ……それにしては、妙に長いし抑揚があるわ) 不審に思いながらも、最初は我慢しようとした。夜更けまで作業をしていたこともあり、眠りたかったのだ。だが暑さと苛立ちも重なり、眠気は遠のくばかり。明日は朝から修理依頼の品を抱えて工房を開けなければならないのに。 とうとう我慢の限界に達したネクターは、布団を蹴飛ばして起き上がった。素足のまま廊下に出て、ためらいもなくレックスの部屋の扉を開け放つ。「ボソボソと煩いのよ! 寝付けないじゃない!」 叩扉など知ったことではない。荒々しく言い放てば、レックスはベッドの縁に腰掛けたまま振り返り、目を丸くした。だがすぐにネクターを視界から外し、部屋の隅に置かれた机の上へと視線を向ける。 そして、先程と同じ理解不能の言語で、ゆっくりと語りかけ始めたのだ。「&he
last updateLast Updated : 2025-10-01
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31話 最後の能有り

 ──思い出してしまった。それは良い事か、悪い事か。胸の奥がふいにざわめいて、言葉を探すより先に、記憶が揺り起こされる。「……レックス、大丈夫?」  唖然としながらも問えば、レックスは曖昧に頷き、はぁ、と小さくため息を洩らした。 「困惑はしてるけど、まぁ……うん」 その横で、白い鳩──ファオルは何事も無いように羽繕いを始めていた。まるでこちらの不安など取るに足らぬことだとでも言うように。「でもそんな急にどうして……」    ネクターが眉を寄せながら疑問を口にすると、『それ、多分僕の存在そのものが理由』と、あっけらかんとファオルは告げた。「存在、そのもの……」 『うん。僕ね、時を司る神の使徒だもの。関われば、眠ってる記憶が呼び起こされたりするんだ』 そういう理だと言われれば納得するしかない。  けれど思考は追いつかず、現実が遠のくような感覚にこめかみを押さえた。  そんな仕草をじっと見つめながら、ファオルは首を傾げる。その瞳はただの鳥のものとは思えぬ、深い光を宿していた。『こいつから少し話を聞いたよ。あんたは、こいつに関わっちゃった。つまりは、無関係じゃない。順を追って僕らのこと、昔話を話しても良いかな?』 驚きも畏怖も拭えないまま、ネクターは胸の奥の緊張を抱えつつ鳩を見据えた。唇を震わせて言葉を紡ぐ。「まだ理解が追いつかないわ。できるだけ詳しく、そして分かりやすくお願いできるかしら……」 『分かったよ。しかし順応が早いね~さすが〝現代の異端〟と称してるだけあるよ。あんた肝が据わってるね』 子どものような可愛らしい声で告げられると、褒め言葉であるにも関わらずどこか小馬鹿にされているように聞こえてしまう。だが不思議と、腹立たしさはなかった。  ネクターは小さく首を横に振り『そうでもないわ』と返した。『まず初めに。異国の民には馴染みなんて無い話だけど、今から二百年程昔、邪教国家ツァール帝国を滅ぼし、共和制国家に導いたひとつの伝承を話すべきかな……』 その言葉に、ネクターはすぐ図書館で読んだ史書を思い出した
last updateLast Updated : 2025-10-02
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32話 呪われし心臓は時を越えて

 ……ファオルの言いたい事は、ネクターにもなんとなく察せられてしまった。 それは間違いなく、彼の身体に組み込まれているもののせいだろう。  強膜が真っ黒に染まり、悪魔のように変貌した姿が脳裏をかすめる。 あの異様な形態は、ただの偶然や神の気まぐれではなく、人の手によって刻み込まれた呪いに他ならないのだと……。『人間って、どこまでも残酷だね。ここまで命を冒涜できるなんて思わなかった。あんたも察してると思うけど、こいつ、身体の中を滅茶苦茶にされてる。それで、人為的に権能を強められてるんだ』 ……まるで呪いだよ。 その呟きは、どこか苦しげだった。 人の手による介入は、どうすることもできない。先ほどファオルが語った言葉が、耳の奥で鈍く反響した。 きっと、神々の理すら凌駕してしまうのだろう……。 少しずつではあるが、ネクターにも状況が見えてくる。 つまり、人為的に組み込まれた力が障壁となり、権能の回収が行き詰まっているのだと。 けれど、それ以上に気がかりだったのは──いつも口数の多いレックスが、こうも沈黙を守り続けていることだった。 背後から聞こえてくるのは、ただ一定の呼吸の音だけ。 余程酷い記憶を思い出してしまったのだろう。あえて沈黙しているのは、語りたくない過去だからに違いない。『なぁドン底。酷い事をされたくらいは想像できるよ。おまえ、その時まだ十五か十六歳くらいだったでしょ? だって、僕の記憶の中の姿とそう分からな──』「……こうなったのは、十六になったばかりの頃だった」 レックスが、食い気味に言葉を挟んだ。 それ以上、彼は続けなかった。ただネクターの腹に回した腕の力を強めるばかりで。まるで、その一言を告げるだけで精一杯だったかのように。 ファオルは少し目を伏せ、ため息を溢した。 『そっか……。まぁ、年齢のことはさておき。当
last updateLast Updated : 2025-10-03
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33話 不器用な筆跡と、不死鳥の名

 ──フェリクス。 それが、レックスの本当の名だと察するのに時間はかからなかった。胸の奥が微かにざわめく。名を知ることは、その人の根を垣間見ることと同じだ。『ん……どうかしたの?』 すぐ傍らで、淡く光を放つファオルが問いかけてくる。ネクターは慌てて小さく首を横に振った。「話を割ってごめんなさい。それって、レックスの本名よね? ただ、不思議に思う事が一つだけあっただけで。砂時計の底面の刻印は〝REX〟だったはずなのに……」 そう言いながら、ネクターは首に下げている砂時計のペンダントを手に取った。 掌に乗せ、慎重に底面を確かめる。ファオルの光が柔らかに辺りを照らしてくれるおかげで、細い刻印の一文字一文字まではっきりと浮かび上がった。やはり、そこにあるのは──REX。 ──どういう事なのだろう。 胸中で呟いたその疑問が小さな棘のように残り、ネクターは自然と背後にいるレックスへと視線を向けてしまった。すると彼は、露骨に気まずそうな顔をして半眼になり、頬を引き攣らせる。その表情が何より雄弁な答えに思えてしまう。 同時に、ファオルが『ぶひぃ』と妙な声を噴き出し、次の瞬間にはゲラゲラと腹を抱えて笑い始めた。『あーそれ、僕知ってるよ! まぁ誰とは言わないけど、笑い話で聞いちゃったもん』「どういう事なの……?」 当然の疑問に小首を傾げると、ファオルはまた喉を鳴らして『ケケケ』と笑う。『それはね~こいつってば字が本当にヘッタクソなんだよ。〝FELIX〟って書いたはずなのにね。まぁ字が汚すぎた所為で、読めたままに彫金師が〝FEREX〟で刻印しちゃったワケ。聖者からすれば、とてつもなく大事な証なのにね』 得意げに語り終えると、ファオルは再び大声で笑い出した。笑いすぎて息が切れているのではないかと思うほどに。 ──これが、偶像の使徒の笑い方だろうか。 そんな場違いな感想が一瞬よぎる。彼が元は聖者であったことに今更ながら驚かされるが、それ以上に今の説明は腑に落ちた。
last updateLast Updated : 2025-10-04
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34話 結実の聖女と〝ドン底〟の騎士

 まさか、こんなにも呆気なく全てを思い出す日が来るなんて──誰が想像しただろう。  白み始めた藍色の空を仰ぎながら、レックスは深く、長いため息を吐き出した。胸の奥に積もった澱のような重みが、ほんのわずかに揺らいだ気がした。 使徒ファオル。刻の偶像に仕える目と耳《聴く者》。  その役職の存在は昔から耳にしていたが、自分がそうだと認識したことはなかった。けれど今、失われたはずの記憶はひとつ残らず甦り、自分を覆っていた霧は跡形もなく晴れてしまったのだ。 きっかけはあまりにも単純だった。  〝ドン底〟と呼ばれる通称と、本当の名を呼ばれたこと──それだけで、五百年以上前の全てが繋がってしまった。『ほんっとに生意気な白い鳩! 見た目は可愛いけど中身は全然可愛くないわ!』  そんな声が耳に蘇る。どこかネクターと似た声色だった。昨日聞いたかのように鮮やかに思い出す。けれどそれは、五百年前の記憶だった。 ──五百年。 その途方もない時の重さを、ネクターは「五百年の孤独」と言い表した。  最初は半信半疑だった。自分がそんな年月を越えた存在だなんて信じられなかった。    だが、窓の外に見える光景──赤錆にまみれた鉄塔、無機質に連なる建物群。そのすべてが答えを示していた。最初に見た瞬間から気づいていたはずだ。文明は進化し、時は夥しく流れ去っていると。 それでも、「五百年」という数字を真正面から思えば、正気を保つのが難しい。こめかみを押さえ、白目を剥いて倒れそうになる自分を必死に抑え込む。(待て……落ち着け。ネクターに起こされた時、どう思った? あれほど嬉しかったじゃないか。あの喜びは、偽りじゃない。悪いことなんかじゃないだろ?) そう自分に言い聞かせ、レックスは掠れた声で呟く。 ──なぁ、アプフェル。 脳裏に浮かぶのは、茜色の髪を持つ少女。ふんわりとした顔立ちは優しく、若苗色の丸い瞳は柔らかく丸みを帯びていた。可憐さの奥に芯を感じさせるその姿は、いまでも鮮明だ。 声を思い出す。どこかネクターに似ていて、けれどもっと天真爛漫で騒がしかった。少
last updateLast Updated : 2025-10-05
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35話 崩壊の序曲、黒き死

 そう、結実の聖女の役割は、刻の偶像の使徒と直々に言葉を交わすという一点に尽きる。政にはほとんど関与していない。  占術を行う聖人や使徒が啓示を受け、その内容をもとに会議を開き、聖女と聖騎士を除いた十人の聖人たちが国の政治を動かしていく──ただそれだけだった。 にもかかわらず、国は滞りなく回っている。むしろ驚くほどに機能している。  ……その事実が、かえって恐ろしく思えるのだ。『ほんと、くそくらえよ。こんな仕事。私、ただこういう力を持って生まれただけで、幼い頃にファルカ大聖堂へ置き去りにされたのよ? さぁて問題です。私はそれまでどこに居たと思う?』 まるで子ども向けのなぞなぞでも出すように、アプフェルは悪戯めいた笑みを浮かべた。  だが、どこに居たかなんて想像のつきようがない。答えに迷うと、彼女は「時間切れ」とばかりに唇を吊り上げ、『ド田舎の孤児院よ』ときっぱり言い切った。 ──能有りの子を育てるのは、事実上困難を伴う。  力は感情に左右される。すなわち感情の安定しない幼児期は、厄介きわまりない。  呪術による力の封印もできはするが、それが許されるのは病気などの非常時だけ。日常での制御は、あくまで親の責任とされていた。 思い返せば、幼い頃の自分も癇癪を起こせば騎士宿舎の壁をへこませるなど、散々手を焼かせた。だからこそ──アプフェルが孤児院に預けられたと聞いても、不自然な話ではなかった。  ただ自分の場合は、権能を持たぬ父母であっても屈強な騎士であり、寄り添い向き合ってくれたからこそ育児放棄には至らなかった。だが、彼女の場合は……。 そんな思いを胸に眉根を寄せると、アプフェルはフェリクスの眉間を指で突いて笑った。『馬鹿ね。しんみりしないの。よくある話でしょ? まぁ、第六聖者の聖騎士と私は、政治の蚊帳の外同士。仲良くやっていきましょうよ』 ──小さくて可愛いのに、屈強で逞しい騎士様。私のことはお姉ちゃんだと思ってもいいのよ?  冗談めかしてそう言い、彼女はしなやかな手を差し出した。 屈強で逞しいという言葉は素直に嬉しかった。けれど「小さくて可愛い」はどう
last updateLast Updated : 2025-10-06
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36話 死に場所を選べなかった聖騎士

 背後から迫る追手を幾度も払い、ようやく辿り着いたのは、彼女がいつもお忍びで訪れていた小さな農村だった。疲労と焦燥に押し潰されそうな中で、彼女の想い人──ミッテに彼女を託した。『ねぇ……フェリクスも一緒に逃げよう』 そう口にしたアプフェルの言葉を、失意の底に沈んでいた自分は、どう返しただろう。 冗談じゃない、と思ったのは確かだ。 彼女を守ることが自分の責務。けれど、守るべき自分の命が消えてしまえばすべては終わる。だが、まさか──己が肉親に殺される運命を辿るなど、誰が想像できただろう。 途方もない失望が胸を覆い、すべてが嫌で、何もかもから逃げ出したいとさえ思った。 それに、アプフェルの想い人であるミッテは「能有り」だ。その証拠に、彼の掌には太陽を模した火輪の紋様がそこにあった。 全てを焼き尽くす光の権能──ならば、彼女を守ることなどきっとできるだろう。 むしろ、自分よりも適任に違いない。『侍従なんかもう要らないだろ! 死なせてくれ!』 そう告げた途端、鋭い痛みが頬を走った。 鞭のようにしなる蔓草に打たれたのだ。こんな真似ができるのは、アプフェル以外にいない。思わず睨みつけようと顔を上げたフェリクスは、しかし言葉を失った。 明るく天真爛漫、無邪気で笑顔を絶やさぬはずの彼女が──泣いていた。 しかも、あまりに悲愴な顔で。 初めて見る泣き顔に、焦燥と混乱が押し寄せる。けれど、背後から追手の喧噪が迫るのを悟るのはすぐだった。『しっかりしろ! おまえも逃げるんだよ!』 ミッテの声が怒鳴り響く。  ──生きることだけに執着しろ。生きてさえいれば、そこに希望がある。 そう叫ぶ彼の手が強引にフェリクスの腕を掴み、引き摺るように走らせる。気づけばフェリクスも、逃亡者の列に加わっていた。 だが、追手の数はあまりに多かった。 能有り三人に対し、相手は烏合の衆とはいえ数の暴力。三人の逃亡劇は長く続くこともなく、ものの数日で追い詰められてしまったのである。
last updateLast Updated : 2025-10-07
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37話 生きる執着の果てに

 そう……もう、〝自分が何者か〟すら思い出せず、過去の記憶はすべて霧のように失われていた。 胸元に下げていたはずの砂時計のペンダントのことも、もう覚えてはいなかった。   『起きたか。おまえはイフェメラ軍の保持する生物兵器──アビスだ』    冷酷にそう告げられた声が耳に残る。  戦争のために、殺戮のためだけに造られた兵器。……そう言われたのだろう。 なるほど、と口先だけで納得した。  だが、記憶が抜け落ちても、心の奥底では知っていた。自分の名前はそうではない、と。自分の立場はそんなものではない、と。  何ひとつ思い出せぬまま、ただ孤独と虚無だけが冷たく広がっていった。 やがて数日後。手術の痛みが生々しく残る身体を引き摺りながら、試験室へと連行される。そこでは軍服に身を包んだ壮年の男が、椅子にふんぞり返っていた。  彼はフェリクスを見るなり巨体を揺らして立ち上がり、無遠慮に近寄ってくると、骨張った大きな手をぐっと突き出した。『さぁ、起動せよ──我がイフェメラに忠誠を尽くす誓いの口付けを』 ……つまりキスをしろと。  その時、自分はなんと答えただろう。『やだよ。なんでオッサンの手にキスしなきゃなんねーんだよ。嫌だね、キスするなら、女の子の方がいい、できれば自分好みのな!』 その瞬間、脳裏にかすめたのは茜色の髪をした少女の影だった。  輪郭はぼやけ、顔も判然としない。けれど断片的に浮かんだ彼女の姿は、どうしようもなく懐かしく、そして耐えがたいほどの寂しさを伴っていた。  しかし、当たり前のように、その彼女の事だって思い出せなかった。    それ以上に、なぜこんなむさ苦しい男に忠誠を誓わねばならないのか。疑問しか浮かばなかった。 フェリクスの吐き捨てるような言葉に、硝子越しにいた白衣の男たちは唖然と口を開け、次には肩を震わせ笑いを堪える。  だが目の前の壮年の男は、顔を真っ赤に染めてワナワナと震え、ついには耳を劈く怒声を張り上げた。   『使い物にならん! 失敗作だ! 廃棄せよ!』
last updateLast Updated : 2025-10-08
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38話 夕暮れの工房、絆の第一歩

 翌日。夕刻の影が町を包み始める頃合いに、スコットが自動二輪に跨がって工房へやって来た。  昨日、発注を頼んだパーツを持ってきたのだろうか。数日のうちにとは言っていたが、思ったよりもずっと早い対応で、その心配りにネクターは内心ありがたさを覚える。  だが同時に、昨日のレックスとのやりとりを思い出し、胸の奥が少し複雑にざわついた。机の上にペンを用意しながら、無意識に眉根が寄る。 ──昨晩のあの騒ぎから一転、今朝からのレックスはまるで何事もなかったかのように振る舞っていた。    ケロリとした態度の裏に、記憶を取り戻したという重大な事実がある。  その落差に、ネクターはどうしても気がかりを覚えてしまう。しかもスコットには、レックスの事情も、彼が抱えている過去も知らない。  昨日のような険悪なやりとりが再び起きなければいいのだが……と願った矢先、工房の扉が開き、スコットが木箱を肩に担いで入ってきた。「よっす。今日も暑いなぁ」 いつもの人懐っこい笑顔に、ネクターはほっと胸をなで下ろす。  彼は重たい木箱をドサリと入口付近に下ろすと、受付台に歩み寄り、納品書を差し出した。ネクターはすぐにサインをし、受け取ってもらおうと顔を上げる。しかし、その瞬間、思わず息を呑んだ。 スコットが真剣な眼差しで、こちらをじっと見つめていたからだ。「ネクター……あのさ」 切り出す口調は、いつになく真面目で硬い。  嫌な予感がして返事を躊躇ったが、彼はすぐに言葉を続けた。「俺、ネクターのことは諦めてないから」 きっぱりとした宣言に、ネクターは思わず隣のレックスへ視線を送った。  昨日の今日だ。あの調子なら食い付いてきてもおかしくない。だが──意外にもレックスは平然とした顔でそっぽを向いている。 ……やはり、おかしい。昨日までなら噛みついてきたはずなのに。  その落差に戸惑いを覚えるより早く、スコットがレックスに声をかけた。「おい、レックス。どうした? 調子でも悪いのか? 腹でも痛いのか?」 「はぁ? 別になんともねぇけど」
last updateLast Updated : 2025-10-09
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39話 走り去る背中、追いつけない距離

「じゃあ午後六時半にこの工房の前でな!」  そんな約束を残して彼は去っていった。 ネクターとレックスは工房の入り口に並んで立ち、その背中を見送った。バイクのエンジン音が遠ざかる中、ネクターの胸には小さな期待と不安が交錯していた。 その後、工房には客の姿もなく、静かな時間が過ぎていった。柱時計の針がカチカチと刻む音だけが、店内に響く。  ネクターはカウンターを拭きながら、ふとレックスをちらりと見た。彼は作業台の隅で工具を弄っているが、どこか上の空だ。  そうして、午後五時四十五分を少し過ぎた頃、外はまだ薄明るいものの、二人はは早々に店仕舞いの準備を始めた。    シャッターを下ろし、工具を片付け、帳簿を整理する。それぞれが慣れた手つきで作業を進めるが、レックスの動きには普段の軽快さが欠けているように見えた。  ネクターはそれを気にかけたが、口に出すのを躊躇った。それから、柱時計の針が六時を越えた頃、ようやく準備が整った。  待ち合わせの時間まであとわずか。  ネクターは脱衣所の姿見の前に立ち、身だしなみを整えた。作業着のコルセットドレスは地味だが、この街の埃っぽい空気にしっくりくる。  ──特別に着飾る必要はない。  そう自分に言い聞かせつつ、髪の房を櫛で丁寧に梳いた。ふと、鏡越しにレックスの視線を感じ、振り返ると彼がスタスタと近づいてくる。「あのさ、ネクター」 「どうしたの?」  穏やかに問い返すと、レックスは少し躊躇うように立ち止まった。   「……そういえばさ。昨晩からボクのペンダント、渡したままだよな?」  その言葉に、ネクターははっとした。確かに、昨晩の騒ぎの中で、レックスが預けてきた砂時計のペンダントを、彼女は自分の首にかけていたままだった。すぐに首に手をやり、留め具を外した。「そうね。着けたままだったわ。大事な物でしょう?」  微笑みながらペンダントを差し出す。  ──ちゃんと返すわよ。軽い気持ちでそう思った瞬間、レックスの手が素早く伸び、ペンダントを奪うように掴み取った。彼はそ
last updateLast Updated : 2025-10-10
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