逸平はいつからそこにいたのだろう。彼は一歩も動かなく、ただ静かに葉月を見つめていた。さっきのこと、全部見ていたのか?葉月は動かなかった。今は彼の方へ歩み寄りたくなかったのだ。逸平がこれからどれほど怒り狂ってしまうのか、想像がついているようだ。辛辣な言葉は聞きたくないし、嫌なこともさせられたくないのだ。二人は距離を隔て、向かい合っていた。その間には見えない高い壁が築かれているようだ。背後の街灯は葉月の影を長く引き、廊下の灯りは男の颯爽とした姿に冷たい光を投げかけていた。逸平の喉仏が上下に動き、体側に垂らした手が拳を固く握りしめていた。先のことはすべて逸平の目に入っていた。葉月の笑顔、あの心の底からこぼした笑顔は、なんと貴重なものだったのだろう。結婚して三年経って、彼女は自分に向けてそんな笑顔をしたことがあっただろうか。記憶を必死に遡っても、そんな痕跡は一つも見当たらなかった。知り合って間もない子供にさえ及ばないほど、二人の間には隔たりがある。結局、先に歩き出したのは逸平だ。逸平は大股で葉月に近づいたが、葉月は微動だにしなかった。逸平が目の前まで来て、葉月は逸平の身に纏っている濃いタバコの匂いに気づき、思わず眉をひそめた。逸平は数秒葉月を見つめた後、いきなり葉月の顔を両手で抱え、強引に唇を奪った。葉月は目を見開き、両手で逸平の胸を押して距離を取った。逸平は押されてよろめき、乱れた髪が風になびいた。愁いをたたえた眼差しが逸平を飲み込みそうだ。葉月は今日に限って簡単に逸平を押しのけられるとは思わなかった。葉月は眉をひそめ、冷たい口調で言った。「発狂したいならここではやめて。恥を搔きたくないわ」そう言うと、葉月は逸平を通り過ぎて、マンションの方へ歩き出した。逸平はしばらく立ち尽くして、苦笑いをした。それでも葉月に追いついていった。一方、裕章と和佳奈のほう。葉月と別れてからというもの、和佳奈は一言も言わず、チャイルドシートで思った以上に静かにしていた。ホテルに戻って、臨時で雇ったお手伝いさんに和佳奈をお風呂に入れてもらった後になっても、和佳奈はまだ元気にならなかった。裕章は和佳奈に布団をかけ、おやすみ前のお話をしてあげようとしたとたん、和佳奈は突然言い出した。「パパ、いつになった
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