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私は待ち続け、あなたは狂った のすべてのチャプター: チャプター 101 - チャプター 110

156 チャプター

第101話

逸平はいつからそこにいたのだろう。彼は一歩も動かなく、ただ静かに葉月を見つめていた。さっきのこと、全部見ていたのか?葉月は動かなかった。今は彼の方へ歩み寄りたくなかったのだ。逸平がこれからどれほど怒り狂ってしまうのか、想像がついているようだ。辛辣な言葉は聞きたくないし、嫌なこともさせられたくないのだ。二人は距離を隔て、向かい合っていた。その間には見えない高い壁が築かれているようだ。背後の街灯は葉月の影を長く引き、廊下の灯りは男の颯爽とした姿に冷たい光を投げかけていた。逸平の喉仏が上下に動き、体側に垂らした手が拳を固く握りしめていた。先のことはすべて逸平の目に入っていた。葉月の笑顔、あの心の底からこぼした笑顔は、なんと貴重なものだったのだろう。結婚して三年経って、彼女は自分に向けてそんな笑顔をしたことがあっただろうか。記憶を必死に遡っても、そんな痕跡は一つも見当たらなかった。知り合って間もない子供にさえ及ばないほど、二人の間には隔たりがある。結局、先に歩き出したのは逸平だ。逸平は大股で葉月に近づいたが、葉月は微動だにしなかった。逸平が目の前まで来て、葉月は逸平の身に纏っている濃いタバコの匂いに気づき、思わず眉をひそめた。逸平は数秒葉月を見つめた後、いきなり葉月の顔を両手で抱え、強引に唇を奪った。葉月は目を見開き、両手で逸平の胸を押して距離を取った。逸平は押されてよろめき、乱れた髪が風になびいた。愁いをたたえた眼差しが逸平を飲み込みそうだ。葉月は今日に限って簡単に逸平を押しのけられるとは思わなかった。葉月は眉をひそめ、冷たい口調で言った。「発狂したいならここではやめて。恥を搔きたくないわ」そう言うと、葉月は逸平を通り過ぎて、マンションの方へ歩き出した。逸平はしばらく立ち尽くして、苦笑いをした。それでも葉月に追いついていった。一方、裕章と和佳奈のほう。葉月と別れてからというもの、和佳奈は一言も言わず、チャイルドシートで思った以上に静かにしていた。ホテルに戻って、臨時で雇ったお手伝いさんに和佳奈をお風呂に入れてもらった後になっても、和佳奈はまだ元気にならなかった。裕章は和佳奈に布団をかけ、おやすみ前のお話をしてあげようとしたとたん、和佳奈は突然言い出した。「パパ、いつになった
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第102話

今日は動物園で、和佳奈は突然母親ができたように感じていた。しかし、葉月と別れて、全ては夢のような感じだった。和佳奈を寝かしつけたら、裕章はベランダに出た。普段は和佳奈のためほとんどタバコを吸っていないが、今は急に一本吸いたい。真夜中過ぎても明かりが煌めく一の松市を見下ろして、裕章の気分は底を打った。一方、葉月と逸平の方は。二人は同じエレベーターに乗っていたが、葉月は逸平から最も遠い位置に立っていた。エレベーターの中は終始不気味な静けさに包まれていた。「チーン」と音が鳴り、エレベーターのドアが開くと、葉月が先に降りていった。「ここで話そう」葉月が部屋のドアを開けようとしたとたん、逸平が言い出した。葉月が逸平を見て、逸平はすでに壁にもたれながらタバコに火をつけた。「楽しかったか?」この質問で、今日のことはもう逸平に筒抜けだったと、葉月はわかった。「ええ」葉月は隠すつもりがまったくなかった。「まあまあね」「ふん」逸平は頭を下げて笑った。「まあまあか……」逸平は葉月を見つめていた。その目には血の筋がはっきり見え、全身が疲労感に包まれているように見えた。「他の人と一緒にいる時に限って、お前はいつも楽しそうだな」逸平と一緒の時だけ、葉月はいつも冷たいのだ。まるでハリネズミのようだ。逸平の声は独り言のように小さかった。葉月は眉をひそめている。「葉月」逸平は視線を外して、前方の一点を見つめたまま、もう葉月のことを見ようとしなかった。「甚太に期待がなくなったから、今度は裕章を狙ったのか?」葉月の眉間の皺がさらに深まった。こいつは一体何をでたらめ言っているんだ?逸平は煙を吐き出した。「あの娘の継母にもなるつもりか?」「逸平」葉月の声には怒りが滲んでいた。自分に対してはどう言われても構わないが、どうしてこういう言葉を口にできるの?「裕章さんとはただの友達だけよ。あなたの卑しい考えを私たちに押し付けないで」逸平はタバコを吸い終わると、体を起こした。葉月を見つめて冷たく硬い口調で言った。「葉月、井上夫人としての自覚を持て。他の男との噂で俺の顔に泥を塗るようなことをしたら、取り返しがつかないことになるかもしれないぞ」「また清原家と私の身近な人で脅すつもりなの?逸平、あなたはそれ以外、他に何かができるの?
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第103話

今回の新商品の宣伝にはかなり力を入れて、しっかりやり遂げた。卓也は今日、仕上がった写真とプロモーションビデオを見て、これからの生活はますます希望に満ちていくと感じた。「俺、澤口卓也、ついに胸を張れる日が来た!」卓也は疑わなかった。今年の冬物で大金を稼げないわけがないだろうと疑いようがなかった。卓也の直感では、きっと大ヒットになると確信していた。オフィスで鼻歌を歌いながら、卓也はいきなり逸平と葉月のことが思い浮かんできた。今回は二人のおかげだから、食事くらいはおごらないとね、と。最近二人に会ってないし、あの夫婦はどうなっているだろう。卓也はにこにこしながら逸平にメッセージを送った。【逸平、おごるから今夜ご飯食べに行こうよ】逸平からなかなか返事が来なかった。多分忙しいんだろうと思った。そこで今度は葉月にメッセージを送った。【葉月さん、おごるから今夜ごはん食べに行きましょう】葉月からの返事は割と早かった。【いいよ、ちょうど忙しいから】同時に、逸平からの返信も来た。【消えろ】「……?」「俺、何かした?」卓也はチャットのスクリーンショットを太一に送って、疑問を呈した。【こういうことある?せっかくご馳走しようと思ったのに消えろだって】一方、太一はクラウド・ナインにいて、気分は優れなかった。広い個室に、彼一人しかいなかった。目の前の水晶のテーブルに酒が並んでいた。この様子を見ると、今日は浴びるほど飲んでいくようだ。卓也からのメッセージを読んで、思わず笑ってしまい、親切に忠告した。【最近は逸平に構わない方がいいよ】卓也には理解できなかった。【なんで?】太一はこれ以上話したくなかった。それで、卓也は太一がクラウド・ナインにいると知って、すぐそこに駆けつけた。卓也が着いた時、太一はすでに洋酒を一本丸飲み干していた。「おいおい、お前さ、命知らずだな」テーブルの上に並んでいる酒を見て、卓也でさえちょっと恐ろしいと思った。太一を見て、なぜか逸平が以前、失恋で酒に溺れていた姿と重なっているように見えた。心の中でも「やばいな」と思った。「まさかお前も恋に悩んでるわけじゃないよな?」太一は答えなかった。だが、その顔を見て、卓也は察しがついた。「終わった、終わった」卓也
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第104話

太一は逸平と同じく18歳の時海外へ渡ったが、太一は23歳になるまで一度も帰国しなかった。五年以上も海外に滞在したのは、他でもない、ただ学問への愛に駆られていたからだ。それは誰にも止められなかった。その間、太一にまつわるスキャンダルや、誰かに対して好意を持ったかという話は一切聞いたことがなかった。卓也がこの男は僧侶になるつもりのかと本気で思うほどだ。何もなく、黙っていたと思っていたら、いきなり大きな事態がやってきた。好奇心に駆られた卓也は今や興味深くそそられていた。「太一、親友の俺に教えてくれよ。相手はどうしたんだ?俺の素晴らしい親友を傷つけて酒に溺れさせるほどなんて」太一は嫌そうに卓也を睨んだ。「黙れ」卓也は舌打ちした。「太一よ、つまんねえなぁー俺が好意で助けようとしてるのに、そんな返事はなんだよ」「いらない」と太一が言った。「なんでいらないの?俺だってそこそこの経験者だぞ」太一は卓也の言葉を無視し、そんな経験は自分で持つほうがいいと思った。そうすればするほど、卓也はますます気になっていた。相手は一体どんなものなのか知りたくてたまらない。太一は淡々と卓也を一瞥した。「お前には関係ない」卓也にとっては別にいいのだ。調べる方法ならいくらでもある。調べられないはずがないと信じた。実は太一自身も、どうしてあんな子を好きになってしまったのか、分からなかった。それなのに太一は好きになってしまった。目を閉じる度に彼女の笑顔や顔が浮かんできた。狂ったように彼女に会いたくなってしまう。彼女に腹を立てても、きつい言葉をかけられなかった。ここでこっそり一人でやけ酒を飲むことしかできなかった。以前、逸平がなぜ葉月にそこまで夢中なのか、太一は理解できなかった。今になってやっと分かった。自分も同じように頭がいかれたからだ。卓也は太一たちのことで、自分も胸がつかえた気分になった。なぜ俺に対してだけ態度が悪いんだ?俺はそんなに嫌な奴なのか?でも仲間がみな恋に悩んでいるのに対して、自分は恋に縛られず、心が軽いと思うと、気分が楽になった。やはり、自分みたいなのが一番いい。彼自身の運命もどこかで待ち受けているということを、この時の卓也はまだ知らなかった。「最近、裕章に会ったか?」太一が急に卓也に聞いた
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第105話

最近逸平はこの小娘と相性が悪いと感じていた。和佳奈は朝早くから裕章について逸平のところへ来た。ソファに座ってお菓子を食べながら、大人しく行人が渡したタブレットでアニメを観ていた。逸平は眉をひそめた。和佳奈が食べるときはどうしても食べカスが散らばるものだった。高級なレザーソファや手織りのカーペットについているのがどうしても気に入らなかった。和佳奈は逸平の視線に気づき、丸い目をぱちくりして、「おじさん、食べる?」と聞いた。そう言いながら、ポテトチップスを一枚取り出して、逸平の方へ差し出した。少し脂ぎった小さな手を見て、逸平は目をそらした。「結構だ」食べないならいいと、和佳奈はパパの方を見た。「パパ、食べて」裕章は微笑んで軽くかじった。「カナティーはいい子にしてね。ちょっと一人で遊んでてくれる?パパはまだおじさんと話があるから」和佳奈はうなずいたら、またアニメに夢中になった。「はっ」逸平は冷笑した。「鹿島社長はどこへ行ってもこの子を連れて行くのですか?」裕章は素直に答えた。「ああ。一の松市は和佳奈にとって見知らぬところだ。私の側にいないと不安になる」逸平はまたちらりと和佳奈を見た。彼女を見ると何とも言えない気分になってしまう。葉月はあの子がそんなに気に入ったのか?「カナティー」だの何だの、聞こえるだけで腹が立つ。「だったら鹿島社長は早々に権野城市へお帰りになったらどうでしょう」逸平は心底から、裕章たちに一刻も早く出て行ってほしかった。裕章は軽く笑った。「急ぐことはないさ。何しろ、娘は葉月が大好きで、もうちょっと一緒にいたがっているからね」逸平は背もたれに凭れ、皮肉っぽく裕章を見た。瞳には不快感が滲んでいる。「鹿島社長、葉月は私の妻です。節度をわきまえてくれますか」裕章は眉を上げ、澄ました表情で言った。「葉月が君の妻なのは承知している。だが、彼女は私の友人でもあるんだ」そもそも君と葉月が夫婦になったのはたった3年。彼女と私は、27年も前からの付き合いなのだ。「それに節度というものは、逸平自身がまず、気をつけたほうがいいでしょう」逸平のスキャンダルなんて、裕章だって知らないわけがない。逸平は歯を食いしばった。「ご心配なさらないでください」彼はこの問題で裕章と議論を続ける気がなくて、契約書を一枚
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第106話

裕章はその契約書を受け取り、逸平との協力関係を黙認した。「では、感謝する」「社交辞令は結構です。ただ、あなたと娘さんに一刻も早く一の松市から帰っていただければいいです」逸平が言った。この親子が葉月の周りをうろつき続ければ、葉月の心が完全に奪われてしまうかもしれない。裕章は軽く笑い、ゆっくりと手中のファイルを閉じた。彼にはわかった。逸平はくどくど説得しても、結局は安心できないのだ。「分かった、帰るよ」裕章は穏やかに受け入れたが、わざと間を置いて言った。「ただし、数日かかるかもしれない」逸平は返事をしなかった。葉月にまとわりつかなければいい。いや、ソファに座っているあの小娘が葉月に近づかなければ、どうでもいいことだ。裕章は逸平を見て、ふとからかってやろうという気になって、わざと呼び方を変えた。「逸平くん、葉月は子供が好きなようだね。二人で子供を作ることを考えてもいいんじゃない?」案の定、逸平の顔は一瞬で暗雲立ち込めるほど険しくなった。逸平は気づいていた。裕章がわざと自分を苛立たせようとしているのだ。葉月が離婚しようとしていること、裕章が知らないはずがないのに、わざとこういうことを言い聞かせたんだ。「結構です。俺は子供が嫌いんです」逸平が答えた。裕章は特に反論もなく、立ち上がって和佳奈に手招きした。和佳奈はすぐにソファから飛び降りて駆け寄ってきた。裕章は娘の顔と手をきれいに拭いてから言った。「カナティー、おじさんにさよならと言って。もう帰るよ」和佳奈は小さな手を振った。「おじさん、さよなら」逸平は冷たく淡く「うん」とだけ応えた。親子が去った後、逸平は上着を脱ぎ、何となく息苦しさを感じた。先ほど裕章が言った言葉を思い出し、彼の眉間には深い皺が刻まれた。子供……彼と葉月は子供ができるだろうか。今のところ、おそらく無理だろう。葉月は逸平に触れることさえ嫌がっているのに、子供などできるはずがない。逸平はそこに座って、窓から差し込む斜陽は彼の横顔に金色の縁を取ったが、眉間に凝り固まった冷たさを溶かすことはできなかった。*裕章が和佳奈を連れてホテルに戻ると、入口に馴染んでいる人影がいた――有紗だ。有紗は二人を見つけると二人に進み出て、熱心に挨拶した。「やっと戻ってきたわね、ずっと待ってたわ」
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第107話

裕章は軽く笑ったが、目には一片の温かみもなかった。「結構だ。私とカナティーは元気だ」有紗は唇をきつく結び、裕章を見つめていた。胸の奥が細かな針に刺されるように、じわじわと痛んだ。なぜ、なぜみんな私のことそんなふうに扱うの?四年前、有紗と逸平は婚約を破談した。周りには、婚約破棄したのは彼女からだと言われているが、実際婚約を破棄したのは逸平だったことを知る者は誰もいなかった。無情に捨てられたのは有紗の方だった。その後、有紗は権野城市へ行き、長年裕章親子に気を遣いながら接してきたが、向かいに来たのはいつも距離を置かれている礼儀正しい社交辞令だけだ。彼らは有紗に対して、いつも冷ややかだ。それなのに葉月と知り合ってそれほど経たないというのに、あの写真で和佳奈が葉月の腕の中で目を細めて笑っている様子は、有紗をさらに滑稽な存在に見せた。有紗は心中の苦渋と抑えきれない嫉妬を必死に押し殺し、笑顔を作り上げた。「裕章、どうしてそこまでするの?どう考えても、私たちは長年の友人なのに」裕章は静かに視線を有紗に向けたが、瞳には何の感情もなかった。「有紗、言っただろう。私たちはとっくに友人でもない」優里亜が去ったあの日から、皆私の敵となった。有紗は私が知らないと思っているようだが、私は誰よりもよく知っている。優里亜に事故が起こる前、有紗がどれほど鹿島家の間で仲を裂こうとしたのかを。今まで手を出さなかったのは、長年の付き合いを考えたことだ。「じゃ葉月は?裕章が一の松市を出てから、少しでも助けてあげたの?どうして彼女には笑顔で接することができるの?」裕章は軽く笑った。「君は誤解しているんだ、有紗。私は誰の助けも必要としない。葉月には私たちを助ける義務などない。時には、干渉しないほうが最高な支援だ」優里亜が身分で心身共に疲弊していた時、葉月は唯一自ら進んで優里亜に好意を示したものだった。最初から最後まで、葉月は他の人のように優里亜を見下すことはなかった。葉月は初めて優里亜に会った時、目には軽蔑や哀れみなどなく、純粋な賞賛が輝いていたことを、裕章は忘れない。葉月は惜しみなく賛美の言葉を贈り、その声は優しくも力強かった。誰もが距離を取ろうとした時、葉月だけは一貫して尊敬と善意を示し続けた。それだけで、裕章は葉月に一生の感謝に値する。
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第108話

通りかかったスタッフは有紗の様子に驚いて、声をかけた。「お……お客様、お、お手から血が出ています。処理しましょうか?」有紗はスタッフの言葉を聞き流した。今有紗の頭の中には、先ほどの裕章の言葉しかない。自分は葉月に及ばない?ならば、逸平と葉月が最後まで一緒にいられるのか、自分が葉月の立場を取って代わるのか、この目で確かめてやる。*あの日、和佳奈と動物園へ遊びに行った時たくさん写真を撮った。葉月はその中から気に入った何枚をプリントした。葉月はアルバムを買って、それらの写真を入れた。葉月は以前、写真を撮るのが大好きで、清原家の旧宅には彼女のアルバムがたくさん残されている。子供の頃は両親が撮ってくれた。少し大きくなって物心がついてから、友達と撮るようになった。どれも一枚一枚丁寧に保管していた。そしてそれらの写真の中、15歳以降のものには、ほとんど逸平が写り込んでいた。結婚してからは写真を撮れる機会が減って、仕事場で記録用に撮るもの以外は、則枝と撮ったものがほとんどだった。そして逸平とは、あの慌ただしく撮った結婚写真しかなかった。結婚してから、葉月は以前の写真を新居に持ち込まなかった。かつて最も美しい思い出を冷たい現実に汚させたくなかったからだ。あの貴重で美しい思い出は、過去に留めておこう。葉月は特に、自分と和佳奈二人で写った一枚が気に入っていた。噴水広場の中央で、和佳奈が葉月の首に抱きつき上を向いて大笑いし、葉月は水しぶきで目を閉じている写真だ。ベストタイミングの写真ではないが、そこに写る鮮やかな生命力と、あの瞬間の本物の喜びは、葉月が今見ても思わず微笑んでしまうほどだ。彼女はその写真をスマホの待ち受けに設定した。気分が落ち込んだ時につけて見ると、気持ちを明るくなるだろう。退社時、葉月は綾子から電話を受けた。卓也の仕事が終わって以来、葉月は綾子と連絡を取っていない。「もしもし、葉月?」綾子の声は優雅で、少し笑いを帯びている。葉月は軽くうなずいた。「綾子さん、どうしたんですか?」「この前ご飯を食べに行こうと約束したの、覚えてる?まだ私にご馳走する約束が残ってるよね」綾子は少しからかうように言ったが、葉月は思い出した。確かに前に時間ができたら連絡すると言ったのに、すっかり忘れていた。
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第109話

綾子と店主は知り合いだったようだ。綾子たちの食事体験を考えたうえ、特別に個室に移動させた。やはり人気者の綾子が人に気づかれたら、人の目線で葉月が落ち着かなくなるのを心配したからだ。葉月は適当に追加で注文したら、店主は無料のノンアルコールカクテルを2杯渡した。「新作だよ、試してみ。後で感想を教えてくれよ」綾子は笑顔でうなずいた。店主はまた忙しそうに他の客へ対応しにいった。葉月と綾子には共通の話題が多くなかった。ほとんどは綾子が一問で、葉月が一答の形で、たまに葉月から一言二言話す程度だ。突然、綾子のスマホが鳴った。画面に「有紗」と表示されているのを葉月が見た。葉月は視線を逸らして飲み物を口にした。「葉月と一緒に焼肉食べてるんだけど、来る?」綾子は葉月と有紗の間の事情を知らなかった。二人が仲良かった頃のままだと認識していた。しかし、有紗は逸平と婚約があったことは知っている。この言葉を発して、ようやく気づいた。元婚約者と今妻を一緒にさせるのは、どう考えても良くなかった。綾子は申し訳なさそうに葉月を見た。「ごめんね葉月、うっかり忘れちゃってた」それから有紗に遠回しに言った。「有紗、もうすぐ食べ終わるところだから、今度またご飯おごるよ」しかし有紗はただ笑って、気にしないように言った。「別にいいじゃない?葉月はきっと気にしないわよ。ね、葉月?」葉月は綾子を板挟みにさせたくなかった。何しろ綾子とは何も対立してなかったから。それに、有紗さえ気にしないのなら、葉月が気にする必要もなかったんだ。「大丈夫ですよ、綾子さん。私気にしてないです」30分も経たないうちに、有紗は個室の入り口に現れた。大きなウェーブの有紗は唇が紅く歯が白く、艶やかで攻撃的な美しさを持っていた。綾子と並ぶと正反対の印象を与える。しかし二人がなぜ一番仲がいい友達なのか。本当のことははっきり説明できないものだ。有紗は、着くなりすぐに葉月に挨拶したが、葉月は礼儀正しく返事しただけだった。綾子は二人の間の微妙な空気に気づかず、ただ早くたくさん食べるようと促した。綾子がティッシュを取るとき、気づかなく葉月のドリンクをこぼしてしまった。幸い残りはわずかだったのだが、それとも葉月の服は染まってしまった。「あ!葉月ごめんね!」葉月
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第110話

葉月はペーパータオルをゴミ箱に捨て、唇を緩めて笑った。「こちらの方が何年か年下ですから、より多少子供っぽい性格なのは避けられないものです。どうかご容赦ください」有紗の目に曖昧な光が一瞬浮かんだ。有紗は身を乗り出し、声を極めて軽くしたが、押し問答するような口調で言った。「葉月、何年経っても、あなたは相変わらず口が達者ね」少し間を置き、有紗は葉月の瞳の奥を直視するように見つめ、何かを切り開くようにゆっくりと尋ねた。「逸平に対しても、こんなに余裕があるのかしら?」葉月の表情は変わらず、目は依然として凪のようだった。「有紗さんがわざわざこちらにいらしたのは、こんなことを聞くためですか?」「もちろん違うわ」有紗は新しいネイルができた。前回逸平にお弁当を届けに行った時は真っ赤でシンプルなネイルだった。今日はダイヤモンドをあしらった長いネイルになった。有紗は自分のネイルを見つめ、目に薄らとした満足感を浮かべた。「あなた、まだ逸平のことを愛しているの?」葉月は逸平という響きを聞くと眉をひそめた。またあいつか。葉月はきっぱりと答えた。「言ったでしょう、もう愛してません。何度聞いても答えは同じです。好きなら連れて行ってちょうだい。すぐに立場を譲ってあげますから」有紗はこれを聞いて鼻で笑った。「葉月、口だけじゃいけないよ。本当にそういう気なら離婚手続きでも済ませたら?」葉月は彼女を見て、少し嘲るような表情を浮かんできた。「私がさっさと済ませたくないとでも?状況を理解していないようですね。私が逃げているわけじゃなくて、逸平のほうがしつこくつきまとっていますのよ」逸平さえ認めてくれれば、明日だってすぐ手続きできる。そうすれば葉月は煩わしい駆け引きをしなくて済むのだ。有紗はこの答えに意外もなく、頷いてまた尋ねた。「じゃあ、甚太を愛しているの?」「愛してません」葉月は即座に答えた。逸平だろうと甚太だろうと、もう感情のもつれはごめんだ。彼らのせいで、もう十分疲れた。「本当に?」有紗は答えを待たずに続けた。「もし私が、甚太は今でもあなたのことを愛してて、あの時は仕方なかったって言ったらどうする?」「それだとしても私とはもう関係ないです」葉月は次第に有紗の質問に苛立ちを覚え始めた。「有紗さん、あなたはそんなにもお節介好きで、他人の恋愛ごと
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