All Chapters of 私は待ち続け、あなたは狂った: Chapter 301 - Chapter 309

309 Chapters

第301話

しかし葉月はそれを大した問題ではないと思った。葉月は玄関に立ち、室内の温かな設えをぼんやりと眺めていた。「寝室は南向きで、バスルーム付がついてる。少し狭いかもしれないけれど、暫くの間だし我慢してくれ」逸平は彼女のスーツケースを運びながら、落ち着いた声で言った。「とりあえず休んでくれ、片付けは俺がするから」葉月は逸平の話を聞いて、とても大袈裟に感じた。この家は一の松市の住まいには及ばないが、決して「我慢する」ほどではない。葉月の目の前の床には新しく買われた女性用のスリッパが置かれており、逸平が履いているものとペアになっていた。柔らかな起毛地に同じ模様が刺繍されていて、葉月の方には小さなリボンがついていた。葉月はそのスリッパをしばらく見つめてから、しゃがんで履き替えた。サイズはちょうどぴったりだった。葉月がリビングに入ると、室内は暖かく、エアコンがついているようだった。部屋を見回すと、ベージュのソファに薄灰色のカーペットが敷かれていた。窓の外には小さなバルコニーがあり、緑の植物がそよ風に揺れ、食卓には新鮮な百合が飾られていた。部屋全体が清潔で明るく、隅々まで手入れが行き届いている様子がうかがえた。すべてが、あの質素なホテルとは対照的だった。逸平は荷物を置くと、すぐにキッチンに向かって作業に取り掛かった。注文したばかりのウォーターサーバーがまだ届いていないので、逸平はまずキッチンで水を加熱した。逸平は上着を脱ぎ、シャツ一枚になった。キッチンの窓から差し込む陽光が逸平の肩で躍り、白いシャツを透かし、引き締まった背中のラインをかすかに浮かび上がらせた。葉月はキッチンの入り口でしばらく見ていたが、視線をそらし、ソファに座りに行った。間もなく、逸平が水の入ったグラスを持ってきた。「水を飲んで」逸平はグラスを葉月に渡した。カップから伝わる温度は熱くも冷たくもなく、ちょうど彼女が好む温かさだった。「ありがとう」葉月はグラスを受け取り、無意識に手の中で回した。逸平も葉月の隣に座ったが、近づきすぎず、一人分の距離を保ちながら、普段通りの口調で言った。「何か足りないものがないか確認してみてくれ。手配するから」葉月は小さく水を啜りながら、逸平を横目で見た。「こんなに手間をかけなくても」葉月は小声で言った。「長
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第302話

バルコニーから陽の光が差し込み、二人の間の空間に長い影を落とした。葉月はグラスの中の水を俯いて見つめた。逸平の視線は珍しく穏やかな表情で沈黙する彼女に注がれた。「葉月」逸平は突然口を開いた。声は先ほどより低かたった。葉月が顔を上げると、彼の深淵のような眼差しがあった。唇が微かに動いたが、逸平は言いかけてやめ、結局何も言わなかった。逸平は胸が重く沈むのを感じながら、淡々と言った。「いや、何でもない。ゆっくり休んで」そして立ち上がった。遠ざかる背中を見ながら、葉月は小さな声で呼び止めた。「どこへ行くの?」逸平は隠さず言った。「下でタバコを吸ってくる。安心して。タバコを吸っても戻らずに、病院の方を見てくるから」葉月が一緒に病院へ行こうと立ち上がると、逸平が制止して言った。「まず休んだ方がいい。後で迎えに来るから病院に行こう」そう言うと、逸平は踵を返して去っていった。ドアが閉まる音を聞きながら、葉月は消えていく彼の背中を見つめた。指先に知らぬうちに力が入っていた。グラスに残る温もりとは裏腹に、心の中はなぜか虚ろだった。まるで風が吹き抜けるように、少し寒く感じた。……逸平は車にもたれ、指の間に挟んだ煙草は半分ほど燃え尽きていた。吐き出した煙の輪が冬風に揉みくちゃにされ、空気の中に消えていく。彼はバルコニーをじっと見つめた。揺れるレースのカーテンの奥にほっそりとした人影がかすかに見えると、彼の指先が微かに震えた。灰がはらはらと落ちて寒風に舞うと、逸平の黒いコートの裾に落ちた。人影が見えなくなると、逸平はわざと煙草を深く吸い込んだ。煙が染み渡り、痛みに似た鋭い感覚をおぼえた。ようやく煙草を消し、ドアを開けて車に乗り込んだ。車は団地を離れ、流れる車の川に合流し、病院へと向かった。県立病院は患者が多く、病室のベッドは不足していた。さらに病院が小さいせいか、逸平は廊下を歩くと、どこか窮屈に感じた。廊下には逸平の嫌いな消毒液の独特な臭いが充満しており、彼は思わず眉をひそめた。逸平が病室の入り口で、ドアを開けようとした時、病室から賑やかな笑い声が聞こえてきた。それは彼の全身に残る冷たさと鮮やかな対照をなしていた。逸平はドアノブを握る手を少し止めたが、やはりドアを開けた。病室の光景が目に飛び込んで
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第303話

なんと有紗も来ていたのだ。有紗は千鶴子の隣の椅子に横向きに座り、体を少し傾けて親しげに何か話していた。千鶴子は穏やかな笑みを浮かべながら、有紗の手の甲を優しく叩き、楽しげに話し込んでいた。「ぺいちゃんが来たぞ」太一が先にドアの人影に気づき、視線を向けて言った。それまで続いていた和やかな空気が一気に変わった。その瞬間、病室にいた人たちの視線が全てドアに立つ逸平に集まった。卓也が笑いながら声をかけた。「よぉ、忙しい奴が、やっと来たぞ」泰次郎も孫を見つめ、目に温もりを浮かべていた。有紗は声に反応して顔を上げると、逸平と視線が合った。彼女は上品な微笑を保ち、自然な様子で挨拶した。「逸平君」逸平は彼女を一瞥しただけで、軽く頷くとすぐに視線を外した。彼は病室に入り、母親に向かってうなずいた。「母さん」それから卓也たちにごく普通の調子で言った。「いつ来たんだ?」「結構前だよ。まったくお前はさ、メールの返信もないし、電話も出やしない。おばさんと連絡が取れてなかったら、ここにたどり着けなかったんだぞ」卓也は不満そうに言った。逸平は相手にせず、ベッドサイドに近づき泰次郎を見て言った。「爺ちゃん、調子はどう?」泰次郎はにこやかにうなずき、ゆっくりと言った。「良いだ……」泰次郎もこの年になると、子孫たちが元気でいるのを見るだけで嬉しいのだ。逸平はうなずくと、身をかがめて泰次郎の掛け布団の端を手慣れた仕草で丁寧に整えた。「元気そうでよかったよ」逸平はやさしい声で言った。卓也が横から冗談めかして、しかし心からの気遣いを込めて言った。「そりゃあ、俺たちが来てるんだから、調子が悪いわけないだろ?それよりお前、何でそんなに忙しいんだよ?こんなに遅くまで病院に来られないなんて」卓也は再びドアの方を見たが、逸平以外に誰も入ってくる気配はなかった。「葉月さんは?一緒に来たんじゃないのか?」「少し疲れているようだったから、先に休ませてる。後からまた連れてくるよ」千鶴子はそれを聞き、心配そうに尋ねた。「具合が悪いの?」千鶴子のそばに静かに座っていた有紗は、テーブルの上のコップを取り、指先で杯の縁を軽くなぞりながら、うつむいて一口飲んだ。睫毛が微かに垂れ、瞼に淡い影を落とし、一瞬眸に浮かんだ感情を隠した。逸平が答えた。「
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第304話

逸平はそれ以上彼らと葉月について語り合うことはせず、話題を卓也と太一に移した。「お前らはいつ帰るんだ?」卓也は逸平を指さして不機嫌そうに言った。「ちぇっ。なんだよ、来たばかりなのに追い返そうってか?」逸平は卓也を一瞥した後、視線を太一に移し、彼に話すよう合図した。太一は逸平の視線を感じると、落ち着いた笑みを浮かべて話を引き継いだ。「今のところは他に用もないし、ちゃんと段取りをつけて来たから急ぐ必要もないし、少し長居できるよ」太一は少し間を置き、逸平を見ながら、探りを入れるような口調で続けた。「どうした?何か俺達に手伝えることがあったら言ってくれよ」卓也も真剣な表情で、身を乗り出し心配そうに言った。「手伝いが必要なら言ってくれ」普段はふざけるのが好きな卓也だが、肝心な時は決して手を抜かない。逸平はしばらく考え込んでから、ようやく彼らを見上げて言った。「追い返すつもりはないし、手伝いも必要ない」今は泰次郎の容体も安定していて、大きなプレッシャーもなくなった。「ただ、ここの環境はあまり良くないし、お前らをちゃんともてなせないのが気がかりで」「ちぇっ」と言って卓也は眉をひそめ、見下すような目で逸平を見た。言葉もぶっきらぼうだった。「何バカなこと言ってんだ?お前はお前で忙しくしてりゃいい。俺たちのことは気にすんな。俺たちみたいな大人が、お前の世話になる必要なんてないだろ?それにさ」卓也は太一に向かって顎をしゃくり上げた。「俺たち二人なら、どこだって生きていけるだろ?」太一も笑って頷いた。「ぺいちゃんは自分のことに専念してればいいよ。俺たちのことは心配いらない」太一は泰次郎の方を見た。「俺たちは、爺ちゃんと話したくて来たんだからさ」これは決して社交辞令ではなく、道理から言えば、泰次郎が倒れたのだから皆が見舞いに来るのは当然のことだ。振り返ってみれば、泰次郎がまだ一の松市にいた頃、彼らのような半端な年頃の少年は周囲から煙たがられる存在だった。彼ら三人だけでなく、他の若者たちも同様だった。だが彼らが三人を集まると、一の松市の天をもひっくり返す勢いがあった。彼らはどこに行っても歓迎されなかった。だが、泰次郎だけはどこに行っても歓迎されない彼らを見ると顔をほころばせて言った。「家にはお前たちのような賑や
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第305話

葉月が家で一眠りして目を覚ますと、もう六時を回っていた。携帯電話に二件の不在着信と未読メッセージが数件表示されていた。一番上に表示されているのは逸平からのもので、送信時間は三分前だった。【少しは休めたか?夕飯、何が食べたい?】葉月は少し考えて返信した。【わからない。今あまり食欲なくて、お腹も空いてないから、後で何か買ってくるわ】通りに面した住まいの利点は、階下に飲食店や屋台が並んでいて、降りればすぐに食べ物が買えることだ。メッセージを送ってすぐ、携帯が振動し、画面に「井上逸平」の名前が表示された。葉月は画面に表示された名前を数秒見つめ、ためらいながらもスワイプで通話に出た。通話を繋ぐと同時に、穏やかな声が受話器から聞こえてきた。「起きた?」葉月は「うん」と小さく返事をした。声にはまだ眠気が残り、起きたばかりのだるさが滲んでいた。「まだ眠り足りないんじゃないか?」逸平は彼女の声を聞いてそう尋ねた。葉月は携帯を少し離し、軽く咳払いをして言った。「十分休めたわ。今起きたばかりなの」逸平が時計を見て言った。「そうか。階下で適当に済ませるなんてダメだ。近くにうまい家庭料理店があってお粥が評判なんだ。寝起きに食うには胃にやさしくて丁度いいだろう」逸平の言葉は一見自然でさりげないものだったが、その心遣いに断り難い気がした。葉月はすぐには返事せず、ベッドから出て窓際に行き、階下のにぎわい始めた街並みからいろいろな料理の匂いが漂ってくる。元々あまり空腹ではなかったが、その香りが鼻をくすぐると、急に食欲が湧いた。逸平の声が再び聞こえた。「どう?今から出れば、五分後には階下に着くよ」葉月は携帯を握りしめた。指先が無意識に冷たい本体を撫でている。断る言葉が唇まで浮かんだが、結局は胸の奥でかすかに膨らむ期待に押し殺されてしまった。葉月は眠たげな鼻声で応じた。「うん。着いたらメールを送って。下に降りるから」「ああ。じゃあ後で」逸平の声にはかすかな喜びが滲んでいた。電話を切ると、葉月は洗面所へ向かい、目を醒まそうと顔を洗った。逸平が電話を切って振り返ると、いつの間にか傍に立っていた有紗の姿が目に入った。有紗を見て、逸平は表情をこわばらせた。有紗は壁にもたれながら、逸平が優しい口調で話すのを聞いていた。
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第306話

夜が深まるにつれ、街の明かりが次々と灯り始め、路傍の屋台からは煙と香ばしい匂いが立ち上ってきた。逸平の車は時間通りにビルの下に到着した。葉月が階下に降りると、彼はすでに車の脇に寄りかかって待っており、彼女が出てくるのを見ると、自然な流れで助手席のドアを開けた。「さあ、乗って」彼の声は落ち着いており、彼は一瞬彼女の顔を見つめた。まるで本当に休養が取れたかどうかを確認しているかのようだった。葉月は何も言わず、コートをしっかりと羽織り、黙って車に乗り込んだ。車は煌めく街の光に包まれながらゆっくりと進み、逸平が話していたあのこぢんまりとした料理店へ向かった。車内は静かで、ただ穏やかなBGMが流れているだけだった。葉月は窓の外を流れる街の景色を横目で見つめ、光と影が彼女の横顔に揺らめいていた。逸平も多くを語らず、ただ車内のエアコンの温度を少し上げると、その後は運転に集中し、時折バックミラーで彼女の様子をうかがうだけだった。このこぢんまりとした料理店は古い住宅街の中にひっそりとあり、外から見ると正直ごく普通の住宅だ。長い年月を経たているだけに、その老朽ぶりは一目でわかるほどだった。しかし、店主は店内を上品にリフォームしたため、外観からは想像できない素敵な空間が広がっている。今はちょうど食事時で、店内は一番賑わっている時間帯だった。幸い、逸平は事前に個室を予約していたので、到着するとすぐに二人は席に着くことができた。このお店の看板料理はきのこの土鍋ご飯だ。熱々のまま運ばれてくると、きのこはほとんど溶けるほど柔らかくなっており、きのこ以外にも、ネギやちくわがたっぷり入っている。表面には白ごまが散らされ、香りが食欲をそそる。さらに店員は、見た目も爽やかな数皿のあっさりめの小鉢料理を運んできた。葉月は最初食欲がなかったが、熱々のきのこご飯を口にすると、暖かさが胃から全身に広がり、自然と食欲が戻ってきた。体も心も、少しずつほぐれていくのを感じた。彼女は小さな口でゆっくりと、優雅な動作でご飯を食べ続けた。逸平も多くは食べず、むしろ彼女が食べるのを見ている時間の方が長かった。時折取り彼は、お箸で遠くの料理を取って彼女に勧めた。「味はどう?」彼は葉月を見つめながら、ふと口を開いた。「うん、美味しいよ」葉月は頷いた。きの
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第307話

葉月は静かに逸平を数秒間見つめた後、黙って視線をそらし、それ以上追及しなかった。窓の外は夜の靄がかかり、月明かりが静かに流れ、全てが穏やかで美しく見えた。しかし、あるものはこの徐々に冷めていく料理のように、表面は平穏で無事に見えても、内側の温もりはひっそりと失われていった。逸平も黙り込み、もはや他の話題を探そうとはしなかった。この短く、平穏に見える共に過ごす時間は、今の彼にとってはまるで盗んだかのような一瞬の時であった。あまりにも脆く、息をするのも恐れるほどで、ちょっとした動きひとつで薄氷が割れ、再びあの慣れ親しんだ疲れる寒さに落ちてしまいそうだった。逸平は、まさか自分がこんなにもビクビクしながら日々を過ごすことになるとは想像もしていなかった。逸平は突然、はっきりと思い知った。彼らの間に立ちはだかるものは、有紗の挑発だけでもなければ、たった一度の激しい言い争いだけでもないのだと。それは、3年という結婚生活の中で無視された細やかなことや軽んじられた努力、そしてすり減らされた忍耐が少しずつ積み重なり、ついに越えられない高い壁となったのだ。今、この小さなテーブルをはさんで彼らは向き合っている。距離はわずかで、彼女のまつげの微かな震えまで見えるのに、そこにはあたかも無音の荒涼とした廃墟が横たわっているかのような隔たりがあった。逸平の心臓は突然締め付けられ、まるで見えない手に握りつぶされるかのように、急激な収縮による鈍い痛みで一瞬息が止まった。喉仏がぎこちなく上下し、逸平は反射的に唾を飲み込んだ。そうすれば、心の奥底からせり上がってくる鋭く重い痛みを、少しでも押し戻せる気がしたのだ。後悔している。自分は本当に後悔している。会計を済ませてお店を出て、冬の夜の冷たい空気にさらされるまで、逸平はぼんやりとしていた。次にどこへ行くべきかを考えていた。家に帰るべきか?帰っても二人で話すことはほとんどなく、せいぜいソファで顔を見合わせるか、葉月が早々に部屋に引きこもるだけだろう。逸平はそんな状況を望んでいなかった。二人がお店の前に立っていると、葉月はそろそろ病院でお爺様のお見舞に行くべきかを逸平に聞こうとした。「まだ時間は早い」逸平が先に口を開いた。夜風に乗って届く声は穏やかだった。「ちょっとでいいから……散歩でもし
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第308話

その後、町は再開発され、屋台街も移転・改装され、規模はさらに大きくなり、この小さな町のナイトライフのランドマークとなった。しかし、彼らはその後二度と来なかった。車は少し離れた臨時の駐車場に止まり、逸平はシートベルトを外した。「ちょっと行ってみるか?」葉月は窓の外の馴染みあるようで少し違う賑やかな光景を見て、突然胸が高鳴った。懐かしくも新しい感覚が、一瞬でたくさんの思い出を呼び起こした。彼女はしばらく黙っていたが、やがてシートベルトを外し、頷いた。「そうしようか」ドアを開けて車から降りると、屋台街独特の空気が顔に押し寄せてきた。食べ物の香りや、かすかな油の匂い、元気な声の呼び込み、人々の笑い声……様々な音と匂いが混ざり合っていた。無数の灯りがまるで川のように連なり、狭いながらも人で溢れている屋台街を照らしていた。両側にはびっしりと屋台が並び、色々なお店があった。人が溢れかえり、お互いの肩が触れ合うほど混雑していた。逸平は自然に葉月の横に立ち、彼女のために混雑する人混みを遮った。彼は彼女を見ず、前方の光と影が交錯する人混みに目を向けていたが、彼は歩調をわざと遅くし、葉月の歩く速度に合わせていた。葉月は彼のそばにいて、最初はまだ少し緊張していた。こういう場所に来るのは、本当に久しぶりだわ。馴染みのある屋台の看板が目に入るたびに、彼女の胸に複雑な感情が込み上げてきた。屋台の店主は以前と違う人になっているし、値段も昔の時と比べると5倍ぐらい高くなっているが、それでも昔から変わらないものもあった。食欲をそそるラーメンやゲソ焼き、焼き鳥のいい香り……どの香りも、まるで葉月の記憶の奥にしまわれた箱を開けようとする鍵のようだった。葉月が黙っているのを見て、逸平も黙っていたが、時々彼は思わず彼女に目を向けてしまう。彼女が辺りをキョロキョロ見ている様子を見て、彼の唇の端が自然と緩んだ。彼らは黙々と歩き、最も混雑したエリアを通り抜け、比較的広々とした脇道に出た。この辺りは飲食店が多く、屋台街に負けない賑やかさがあった。さらに道を進んでいくと、逸平の足が突然、一見かなり古びて見え、作りも簡素なラーメン屋台の前で止まった。屋台の主人は忙しく働いており、麺を茹でる大鍋からは湯気が立ち上り、薄暗い白熱灯が屋台の上に
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第309話

葉月は反応せず、相変わらず逸平を見つめていた。彼はためらうことなく、彼女の冷たく硬い手首を優しく握り、彼女を連れて一歩一歩外に出て、吹き荒れる雪の中へと歩み出た。冷たい雪が瞬時に顔に当たり、鋭い寒気を伴っていた。葉月は寒さで少し震えたのか、ようやく瞳に微かな動きが生じた。彼女は逸平に握られた手首を見て、また舞い散る雪を見て、その手を引き抜こうとはしなかった。逸平は彼女を引き連れ、できるだけ軒下を歩こうとしたが、吹雪が激しく傘もないため、二人の髪と肩はすぐに雪で真っ白になった。この時間の街にはほとんど人影がなく、普段賑やかな商店街も静まり返り、ほんの数軒の店がかすかな灯りをともしているだけで、吹雪の中でぽつんと浮かび上がっていた。「寒いか?」逸平は風に消されそうな声で彼女に尋ねた。葉月は首を振り、何も言わず、ただぼんやりと前方の空虚な通りを見つめていた。「一緒に何か食べに行こうか?」彼は密かに彼女のことを一日中気にかけていたが、葉月は今日何も口にしていなかった。彼女はまた首を振って拒否した。逸平は眉を少しひそめ、黙って唇を噛みながら彼女を見た。葉月に食欲がないことを彼は知っていたが、それでも彼は頑なに、彼女は温かいものを食べるべきだと思っていた。そうすれば気分が少し楽になるかもしれないし、少なくとも体は温まるからだ。それに、何も食べなければ、体が持たない。「ついて来て」逸平は彼女の手首を強く握り、まだ灯りのついている店を一軒一軒見て回った。しかし、それらの店はすでに閉まっているか、温かい食べ物を売っていなかったのどちらかだった。吹雪はますます激しくなり、空は濃い闇に包まれ、辺り一面白と黒の世界だけになった。逸平がほとんど諦めかけていて、彼女を家に送り届けて自分で何か温かいものを作ろうと考えていた時、彼らは風を避けるためにある路地に入った。薄暗い灯りが、荒れ狂う吹雪と深い闇の中で、頑なに輝き続けていた。まるで広い海に浮かぶ孤島のようだった。この屋台だ。カセットコンロの火はまだ消えておらず、大きい鍋には乳白色のスープがぐつぐつと煮え滾り、湯気が立ち上っている。吹雪の寒さとは対照的な光景だ。その時夫婦は片付けをしていて、そろそろ店じまいの準備をしているようだった。逸平の目が輝き、振り返って葉
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