All Chapters of 私は待ち続け、あなたは狂った: Chapter 141 - Chapter 150

156 Chapters

第141話

全ては検査結果が出てからにしよう。玉緒は突然、葉月たちの方に向かってくる男を見つけ、葉月に目配せしながら小声で言った。「井上さん、井上社長が……」葉月が振り向くと、確かに逸平の姿があった。また来たのか?おそらく葉月の考えが顔に露わになっていたのだろう。逸平は葉月のそばに立ち止まって、さりげなく言った。「お母さんに会いに来ただけだ」葉月は小声で呟いた。「私のお母さんよ。あなたに関係ないわ」「何だって?」逸平は聞き取れずに尋ねた。葉月は答えず、玉緒を見て言った。「じゃあ、またね」玉緒は素早く逸平を一瞥して視線をそらした。井上社長はいつも何となく恐ろしい感じがする。「はい、井上さん」葉月が病室に向かって歩き出すと、逸平は適度な距離を保って後をついていった。病室に着くまで、逸平は一言も発しなかった。菊代は二人を見るなり、やはり文句のようにいった。「また来たの?仕事は大丈夫なの?いつもこっちに来てばかりで」葉月と逸平は来ていたが、善二は昨日の朝病院を出てから一度も菊代を見舞いに来ていなかった。電話一本さえかけなかった。葉月は思わず菊代のことを不憫だと感じた。今日の逸平はどこかおかしいようだ。最初から最後まで葉月に一言も話しかけず、視線すら合わせようとしなかった。葉月は奇妙だと思ったが、同時に気楽でもあった。少なくとも逸平に対応したり、喧嘩したりするよりはマシだ。今日はマンションの下に引っ越しのトラックが停まっていた。葉月はそれを見て少し目を留めた。どうやらこのマンションのどちらかの居住者が引っ越すらしい。葉月は深く考えず、まっすぐに階段を上って家に向かった。しかし自宅の前まで来てようやく気づいた。同じ階の向かいの部屋のドアは大きく開け放たれていた。どうやら引っ越すのはそこの方らしい。向かいの田中さんは、にこにこと引越し業者のスタッフと話しながら中から出てきた。田中さんは葉月を見つけると、親しげに声をかけた。「井上さん、お帰りなさい!」葉月は軽く頷いた。「ええ、田中さん、お引っ越しされるんですか?」そう聞かれると田中さんの笑みがさらに深まり、目尻の皺が寄り集まった。「あら、そうなんですよ」「ここに心地よく住んでいたのに、どうしていきなり引っ越すんですか?」葉月の記
Read more

第142話

二日後、向かいの新しい住人が引っ越してきたようだ。葉月は朝、向かいの引っ越しの音で目を覚ましたから知っていた。葉月は布団をかぶってまた寝ようとしたが、音は大きくなったり小さくなったり、途切れ途切れで、いつ終わるかもわからなかった。仕方なく、葉月は起き上がった。身支度を整え、温かい水を入れたコップを持ってベランダから見下ろした。案の定、引っ越し業者の車と出入りする作業員の姿が見えた。しかし突然、どこかで見たような人影がちらりと見えて、マンションの玄関に入っていった。葉月は眉をひそめた。その人は行人に似ていた。でも行人がこんな時にここにいるはずがなかった。見間違いだろう。9時になって、葉月は着替えてバッグを持ち、出かける準備をした。葉月は家を出ようとした時、引っ越し作業員がちょうど家具を運びながらエレベーターから出てきた。葉月は身をかわしてよけた。エレベーターに入ろうとした時、作業員に呼び止められた。「すいません」葉月は声の方を向いた。「ここの居住者ですか?」作業員は葉月の家の表札を指差した。「どうかしましたか?」葉月が尋ねた。作業員は手袋を脱ぎ、ポケットから鍵を取り出して葉月に渡した。葉月はその鍵を見て、さっぱりわからなかった。「向かいの新しい入居者から、これを渡すように言われたんです」葉月だけでなく、作業員たちも不思議だと思った。隣人に自分の家の鍵を渡す人なんているわけないだろう。「お知り合いですか?」知らないならなおさらおかしい。葉月は首を振り、鍵を受け取ろうとしなかった。「いいえ、何かの間違いだと思います。鍵はお返しください」作業員はもう一度葉月の家の表札を確認した。「間違いないですよ、本当にあなたに渡すように言われたんです」「とりあえず持っておいてください。向かいの人が入居したら、事情を聞けばいいでしょう」そう言うと、作業員は押し付けるように鍵を葉月の手に握らせ、また忙しく動き回った。葉月はその鍵を持って、どうしようもなかった。これはいったいどういうこと?わけがわからないわ。でもこの鍵を捨てるわけにもいかなかった。もし後で返してくれと言われた時に、出せなかったら困るだろう。葉月は仕方なく鍵をカバンにしまい、ひとまずこの件は考えないことにした。今夜葉月
Read more

第143話

葉月が月霞庵に帰るのを拒み、逸平と一緒に住むのを望まないのなら、逸平が葉月の隣に引っ越してこればいいだろう。「あ、そうだ。今日作業員に鍵を渡させたから、受け取っておいてくれ。鍵を使いたくないなら、鍵のパスコードはお前の誕生日だ。パスコードで開けてもいい」逸平がそう言うと、平静な表情で葉月を見つめたが、何もかも掌握しているような雰囲気を醸し出していた。葉月の心拍は速くなり、この逸平に支配されるような感覚に強い不快を覚えた。「何がしたいの?」逸平は軽く笑い、半歩前に出た。逸平は少し身をかがめ、視線を葉月と同じ高さに合わせ、薄ら笑いを浮かべて言った。「井上夫人、俺たちは夫婦だ。妻がいるところに夫がいるのは、ごく普通なことじゃないか?」葉月は無意識に後退り、逸平との距離を取った。まるで眼前の人が知らないかのように、葉月の視線は逸平の顔を何度も往復した。逸平はすぐに姿勢を正した。目的は達成したからこれ以上留まらず、「おやすみ」と言った。そう言うと、逸平は向かいの部屋に戻った。逸平がドアを閉めても、葉月はしばらく我に返れなく、その場に立ち尽くしていた。家に戻り、テーブルの上のカップ麵はもう美味しくなく、葉月も食欲を失っていた。今朝の鍵を思い出し、バッグから取り出した。手のひらの鍵を見つめ、先ほど逸平の表情と言葉を思い出すと、葉月はゆっくりと鍵を握りしめ、その角が掌を痛く刺した。逸平は正気の沙汰ではない。狂人だ。葉月には、逸平が何を考えているのか、何をしようとしているのか、永遠に理解できない。今のように、逸平が苦心して向かいに引っ越してきた意味もわからなかった。葉月にもたらされるのは優しい愛情か、それとも血みどろの結末か、すべては逸平の気分次第だ。葉月の頭にナイフが突きつけられているかのような未知の不安。逸平のことで頭を悩ませている間、スマホが鳴った。見ると、甚太からのメッセージだった。【葉月、明日の夜時間ある?一緒に食事でもどう?】【何か用事でもあるの?】葉月が返信した。そこで、甚太からまた返信が届いた【いや、なんでも。ただ友達から美味しい焼肉屋があるって聞いただけ。君、好きじゃなかったっけ?ちょうど一緒に行ってみようかと思って】焼肉屋と言えば、葉月は前に綾子に連れて行かれた店を
Read more

第144話

「葉月、どうして俺から離れていくんだ?」逸平が葉月の前に立ち、声は低く嗄れていた。抑えていた感情が今にも崩れそうだ。逸平の一言一句はまるで胸の奥から絞り出すようにして発せられ、果てしない苦痛を帯びていた。「俺が……あげたものがまだ足りなかったのか?」逸平の眉間には深い皺が寄り、目元には不自然な赤みが浮かんでいた。長く眠っていないかのように、狂気の中に重い疲労感が混ざっていた。葉月は逸平のこんな姿を見たことがなく、心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。少し恐くなった。葉月は口を開こうとしたが、喉が強く締め付けられているようで、声が全く出せないことに気づいた。逸平は一歩一歩近づいてきて、革靴が床を叩く音が葉月の張り詰めた神経を直撃するようだ。動こうとしたが、足は微動だにしない。ただ逸平が近づくのを眺めるしかなく、その影に包まれるままだ。逸平は葉月の前で立ち止まり、数秒沈黙した後、手を上げて葉月を後ろに押した。「やめて……」葉月は体が急激に落下していくのを感じ、そして夢から覚めた。額には細かい汗がにじんでいた。天井を見つめながら息を整え、しばらく呆然とした。夢か……夢でよかった。昨夜の逸平のあの行動のせいで、こんな夢を見てしまったのだろう。落ち着いてから、ゆっくりと起き上がった。まだ7時過ぎだったが、すっかり目が覚めてしまった。そのままベッドを出た。家を軽く片付け、朝食を食べ、時計を見るとそろそろ出かける時間だ。荷物を持ってドアを開けると、そこに立っている男の姿が目に入った。逸平は濃い色のスーツを着て、腕にはオーバーコートを掛けている。最近はますます寒くなり、葉月もすでに厚手のコートを着込んでいる。葉月は逸平を見ると、唇を軽く噛み、無視しようとした。しかし逸平はさえぎるように葉月の前に立ちはだかった。「挨拶もしないのか?」葉月は逸平の言葉で顔を上げ、作り笑いで言った。「おはようございます、井上社長」逸平は内心満足し、一歩横にずれて道を譲った。葉月はまっすぐエレベーターに向かった。逸平が葉月の後ろについてきて、あまりにも近く、葉月は逸平の気配から逃れられなかった。二人は沈黙したまま地下駐車場まで来た。逸平はまだ依然として葉月についてきた。葉月は我慢でき
Read more

第145話

そう言うと、葉月は自分の車に乗り込み、地下駐車場を走り去った。逸平はそこに立ち、葉月の車が徐々に見えなくなるのを見つめ、顔の笑みも次第に消えていった。幼稚だろうか?逸平は実はずっと幼稚だった、そうではなかったか?逸平は車に乗り込み、「会社へ」と告げた。*クラウド・ナインにて。シャンデリアが幻惑的な光と影を放っていた。杯が交わされる喧騒の中で、卓也はドアを押し開けて入ってくる逸平を一目で見つけた。「逸平!やっと顔を出してくれたな!」逸平は大げさに迎えに行き、若干恨めしげな声で続けた。「俺たちの絆もこれで終わりかと思ったよ」この間逸平は何に忙しいのか、何度誘っても、どうしても連れ出せず、飲みに誘えば必ず断られていた。太一も同様だ。いつも呼べば来てくれるはずの奴が蒸発したように、終日雲隠れだった。卓也は心の中、太一はたぶん甘い罠に嵌ったのだろうと嗤った。しかも太一の野郎、相手を完璧に隠し通していて、どれだけ人脈を駆使して調べても、何の情報も掴めやしなかった。まったく腹が立って仕方がなかった。卓也は逸平にグラスを差し出しながら尋ねた。「逸平、最近何してたんだ?」「私用だな」逸平は革張りのソファにだらりと腰を下ろし、長い指で差し出されたグラスを受け取って、琥珀色の酒が氷玉の間で揺れた。逸平は気だるげに一口飲み、喉仏が軽く上下した。「私用?」卓也は何かを思い当たったように目を見開き、声を潜めて近づいた。「まさかお前、甚太を始末しに行ってたんじゃなかったよな?」今思えば、ちょうど甚太が戻ってきた日から、逸平の姿が見えなくなっていた。「逸平、落ち着いていてくれよ」「ちっ」逸平は横目で彼を一瞥し、指先でグラスの縁を苛立たしげに叩いた。「戯言を言うな」確かに甚太を懲らしめたい気持ちはあったが、自分まで巻き込むほどではなかった。「じゃあ一体何してたんだい?」卓也の好奇心は抑えきれなかった。逸平はグラスの縁を撫でながら、顔を曇らせて言った。「引っ越しだ」「引っ越し?どこに引っ越しすんの?」葉月が月霞庵に住まなくなって以来、逸平もめったにそこに戻らないことは卓也も知っていた。しかし卓也の知る限り、逸平は普段住んでいるマンションで心地よく暮らしていたのではなかったか?どうして突然引っ越し
Read more

第146話

逸平が黙っているのを見て、卓也は我慢できずに問い詰めた。「今のお前は何なんだ?しつこく付きまとうつもりなのかよ?」逸平は冷たい目で卓也を一瞥した。「俺たちは夫婦だ」しつこく付きまとうとはなんだ。マジで聞きたくもない言葉だ。卓也は逸平の表情を見て、思わず小声で呟いた。「向こうはもう離婚しようとしてるのに」逸平はそれをはっきり聞き取り、たちまち酒を飲む気分ではなくなった。「いやいや、怒らないで、冗談だよ」卓也は逸平を引き留めようとしたが、逸平はもう立ち上がって外へ向かっていた。「マジで怒っちゃったのか……」卓也は止めることもできず、後頭部を撫でていた。「冗談だったのに」*菊代の検査結果が出た。逸平はわざわざ海外の脳外科の専門家まで手配した。幸いなことに、最終的な結果は皆を安堵させた。髄膜腫だが良性で、手術で切除すれば問題ない。しかも切除後の再発率も非常に低く、心配する必要もない。葉月は報告書を読んだとき、何日も張り詰めていた神経が一気に緩んだ。逸平は今日接待で病院に来られなかったが、夜には善二が訪れた。韻世と一騎については、来ない方がましだ。善二が来たのはもう21時過ぎで、菊代はもう眠りについた。葉月は善二の到来に淡々とした態度で、ただ菊代の布団を整えるのに夢中で、構わなかった。「一人か?」善二は荷物を置き、適当に席を見つけて座った。周りを見回すと、葉月のバッグが机の上に置いているだけだった。葉月は善二を無視しつづけ、時刻を見た。明日お母さんに何を料理しようかと考えている。「葉月、聞こえないふりするな」わざと無視された善二は腹を立て、声を張り上げた。葉月はようやく反応し、不満げに善二を見た。なんでそんな大声を出すの、お母さんが目を覚ますかもしれないって考えられないの?葉月は立ち上がり、善二を見て言った。「出てきなさい」そして葉月は病室の外へ歩き出した。善二は冷ややかに鼻で笑いながら立ち上がり、葉月の後について廊下に出た。夜間の付き添い看護師はまだ来ていなかった。葉月は遠くへは行けず、病室のドアを閉めて、少し脇へ移動した。「もし誠心誠意に母さんを見舞いに来たのなら、静かにしていなさい。騒ぎに来たのなら、さっさと帰りなさい」善二は舌で頬の内側を押した。「どうい
Read more

第147話

叔父一家の大きな心配事はようやく解消された。実を言うと、葉月の従妹である琴葉(ことは)も卓也と少なからず縁があった。葉月は覚えていた。2年前、琴葉は卓也としばらく付き合っていた。琴葉はその時、命を懸けるほど深く恋に落ち、別れる際には醜い騒動にまでになった。自殺未遂までになったが、幸い大変なことには至らなかった。今の様子では、すっかり忘れたようだ。葉月も琴葉のことを心から喜んでいた。「来年は結婚式に出席しなきゃ。おじさんが言ってたわ、葉月と逸平は必ず来てほしいって。あなたたちに感謝したいんだって」葉月は菊代の言葉が理解できなかった。「私たちに感謝するの?」「そうよ、琴葉の婚約者、逸平が紹介してくれたんじゃない?」逸平が?葉月はそのことを全く知らなかった。菊代は葉月の顔を見て、本当に知らなかったのだと感じた。「おじさんの話では、今年の初めに逸平が突然連絡してきたの。琴葉に紹介したい良い人がいると言ったらしいわ。その頃琴葉の状態は最悪だったらしいよ。家族は知らない人と接するのが心配だったわ。でも過去に囚われ続けるのも良くないし、試しに会わせてみようということになったの」ここまで話すと菊代も満面の笑みが浮かんできた。「まさか、本当にうまくいってたなんて!琴葉の状態もどんどん良くなってきたし、おじさんは逸平がいなければこの良縁はなかったよと言って、特にあなたたちに感謝したいんだって。でもこの様子を見ると、逸平はこのことを話していなかったのね?」葉月は唇を噛みしめ、首を横に振った。「うん、知らなかったわ」葉月と逸平は元々会話は少なかったし、数言交わすとすぐに喧嘩になってしまうのだ。こんなことを落ち着いて話す機会なんてまったくなかった。菊代はため息混じりに葉月の手を握り、軽く叩いた。「夫婦なんだから、話し合うべきことは隠さずに話しなさい。ほら、こんな大事なことさえ知らなかったから」葉月は黙ったまま、菊代の手の甲を見つめ、胸が締め付けられるように感じた。善二は14時過ぎにまた訪ねてきた。菊代も何日か善二に会っていなかった。やはり自分の息子だから、善二が訪ねて来てくれることは嬉しかった。「善二、来たのね」善二は菊代の病床の脇に座り、今日は良い息子ぶりを見せていた。「母さん、この前は忙しくて
Read more

第148話

逸平も善二のことが嫌いで、顔も見たくないが、義母に会いに来たのだから、善二は空気のような存在だと思えばよかった。逸平が足を踏み入れようとした瞬間、葉月が突然手を伸ばして逸平の手首をつかんだ。温かく滑らかな触感が手首から伝わり、逸平は眉を動かして葉月を見つめた。目に問いかけの色が浮かんできた。それはどういう意味だ?葉月はすぐに手を離した。「聞きたいことがある」と言った。琴葉の件について、はっきりさせたいことがあった。葉月と逸平は病院の階段室に移動し、向かい合って立った。逸平は腕を組み、だらりと壁にもたれかかった。余裕たっぷりに葉月を見つめて口を開くのを待った。葉月は遠回しな言い方をせず、直接に聞いた。「琴葉の婚約者を紹介したのはあなたのことなの?」住谷琴葉(すみや ことは)は葉月の従妹の名前だった。逸平は眉を上げ、まさかこんなことを聞かれるとは思っていなかったようだ。「そうだ」「じゃあ、どうして私に一度も話してくれなかったの?」目の前の男の目は明らかに翳り、唇を歪めて笑った。その笑みはどこか寂しげだった。「葉月、本当に俺が話さなかったのか?俺が話そうとした時、お前は聞く耳を持っていたのか?」葉月は呆然とした。逸平がいつこんな話をしたのか覚えていなかった。「去年の3月12日だ」逸平は冷静にその日付を口にした。葉月のまつ毛が微かに震え、いくつかの記憶が蘇ってきた。3月12日は、まさに逸平と有紗が最初に決めていた結婚式の日だった。しかし、その後有紗が離れ、この婚約は無効となった。その日の午後、月霞庵に小包が届いた。宛名には葉月の名前が書かれていた。しかし葉月は自分が何を買ったか覚えがなかった。「南原さん、ハサミを持って来て」葉月は小包を手に取り、何が入っているか見当もつかなかった。南原さんがハサミを持ってくると、葉月は小包を切り開き、中身が現れた。封筒だった。葉月が封筒を開けて見て、中には一枚のポストカードと一枚の写真が入っていた。写真もポストカードも海の上の氷河で、浮氷が陽光にきらめいていた画像だった。ポストカードを裏返すと、手書きの二行の文字が目に飛び込んできた。【逸平くん、以前一緒に行こうと約束した旅先に、一人で来たよ。氷河は本当に美しいけれど、残念なの
Read more

第149話

葉月は布団に顔を埋めた。「聞きたくない」逸平は数秒沈黙したが、それでも言った。「すぐ終わるから、話したらすぐ行く」「聞きたくないって言ってるでしょ!」葉月の声は感情に震えていた。逸平は一瞬たじろぎ、葉月を覆う布団を引っ張ろうとした。もみ合ううちに、葉月は理性が奪われ、逸平の頬を打ってしまった。力は強くなかったが、二人とも凍りついた。逸平のまつ毛が震える影を落とし、再び目を上げた時、その瞳は葉月を飲み込むほど深く、底知れぬ感情が渦巻いていた。その夜もやはり不穏な別れとなり、逸平は無言で去っていった。葉月は、あの時逸平が言おうとしていたことがそれだったとは思ってもみなかった。「ごめん、あの時は感情的だった」葉月は言った。逸平は鼻で笑った。「葉月、お前は本当に軽々しく言うな」虚しい静まり返った階段室に一時の沈黙が流れ、逸平は息を吐いた。「琴葉の相手は確かに俺が紹介した」卓也の浮気性は周知の事実だ。逸平も太一も卓也を諌めなかったわけではなかった。もうやめないといつか必ず取り返しのつかないことになると。だが卓也は今まで痛い目に遭ったことがなく、別れぐらい大したことないと思っていた。せいぜい一時の悲しみで済む程度だと。しかし琴葉は感情に対して極めて真摯で、やや過激な執着心を持つ女性だ。彼女は誠心誠意で卓也を愛していたが、卓也の行為は琴葉の神経を逆なでするものだった。琴葉は卓也の突然の別れなど受け入れられず、何度も訪ねたが最後には門前払いを食らっていた。最初卓也は気にも留めず、時が解決すると考えていた。琴葉の自殺未遂の情報が届くまで、卓也は事の重大さに気づかなかった。病院に駆けつけた卓也は、住谷家の人々に追い出された。葉月の叔父は卓也を指さして罵った。「この人でなし!よくも顔を出したな、琴葉を死なせたいのか!」病院の入り口に立った卓也の服は乱れ、顔には殴られた跡がついていた。澤口家の御曹司にして初めての醜態だった。そのように罵られても、卓也はただ黙って耐えるしかなかった。なぜなら、それらは全て卓也が受けるべきものだったからだ。琴葉は危うく一命を取り留めるところだった。たとえ住谷家の人間が卓也を刺したとしても、彼は認めるのだろう。退院後、琴葉は自殺を図ることはなかった
Read more

第150話

相手はごく普通で、少なくとも恵まれた生まれの逸平たちから見れば、本当にありふれた存在だった。名前は木村浩(きむら ひろし)、当時まだ二十三歳で、大学を卒業して一年しか経っていなかった。浩と卓也は以前からの知り合いではなく、二人の生活圏は全く異なるレベルだった。しかし行人が一枚の写真を見せてきた。それは琴葉の高校三年生の時撮った卒業写真で、右上に写っていた男子生徒がまさに浩だった。逸平が浩を見つけた時、ちょうど仕事を終えたところだった。行人は浩を引き止め、丁寧で穏やかで言った。「木村さん、井上社長がお話があるとお呼びですので」逸平は今でも初めて浩と会った時のことを覚えている。一見平凡な青年だが、その身にまとった屈しない、恐れない気概に驚かされた。逸平が浩を呼び出したのは、浩を責めたり困らせたりするためではなかった。卓也がわざわざ浩をかばおうとしているということは、その関係が単純ではないことを示していた。逸平が知りたかったのは、具体的な理由と、実際に何が起こったかということだけだった。浩は逸平が自分を探していると知ったら、心の底で卓也を嘲笑った。やったことを認められない男だな、逸平を呼んで兄弟に肩入れしてもらうつもりか?浩は逸平の向かいに座ると言った。「井上さん、話があるなら早くしてください。澤口の仇ならさっさと始めてください。しかし、俺から澤口に謝ることは絶対ありえないです」浩の顔は頑固で、態度は強硬だった。「誤解だよ」逸平は軽く笑い、お茶を浩の前に差し出した。「何かをしようとして来たわけではない。ただいくつか聞きたいことがあるだけだ」逸平はひと口お茶を飲んでから続けた。「君が卓也をあんなに殴ったんだ。卓也自身が追究しなくても、澤口家は君を放っておかないでしょう」澤口家が浩のような一般人を相手にするのは、ほんの口先ひとつで済むことだった。浩はテーブルに置いた手を徐々に握り締めた。「だが、君が卓也をあんな目に遭わせたのは理由があるはずでしょう。話してくれたら、俺が君を守れるかもしれない」浩は眉をひそめていた。明らかに、逸平に対して信頼を置いていないようだった。逸平は背もたれに寄りかかり、両手を組んで腿の上に置いた。上位者の気迫が明らかに感じられた。浩は唇をきつく結び、目の前の逸平
Read more
PREV
1
...
111213141516
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status