All Chapters of 私は待ち続け、あなたは狂った: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

葉月がキッチンカウンターで水を飲みながらスマホを操作していた時、突然のインターホンの音に驚いた。スマホの時刻を見ると、もう夜11時を回っている。こんな時間に誰が訪ねてくるというのだろう?このマンションは1フロア2世帯タイプだが、逸平が引っ越してからは、この階には葉月一人しか住んでいない。不安だったので、数日前に玄関に監視カメラを取り付けてもらっていた。今その監視カメラが役立つ時が来た。廊下全体がくっきり映し出され、壁にもたれて床に座り込んでいる逸平の姿がはっきり見えた。モニターを見て、葉月は思わず驚いた。逸平がどうしてここに?しかもあんな様子で。非常階段のドアの陰に隠れていた数人は、葉月がなかなかドアが開かないことにいらだち始めていた。太一が心配そうに言った。「葉月さんもう寝ちゃったんじゃないか?」「もう一度インターホンを押してみよう。ただ聞こえてないだけかも」卓也はこのまま引き返すつもりはなかった。せっかくここまで連れてきたんだ。何の成果もなく帰るなんて割に合わない。「しっ」彼らが話していると、裕章が突然静かにするよう合図した。葉月がようやくドアを開けたからだ。彼女は分厚いコートを羽織っていた。外は家ほど暖かくない。妊娠中の彼女は体調管理に特に気を遣っており、今はちょっとした風邪にも気をつけないといけない。まず少しだけドアを開け、片目を閉じ、規則正しく呼吸をしながら、まるで眠っているかのように座り込んでいる男を見た。逸平に目覚める気配が全くないのを見て、葉月はためらった後、彼に近づいた。男の前に立ち止まり、のぞき込むようにして、しばらく静かに彼を見つめた。そして、ゆっくりとしゃがむと、彼と同じ目線の高さになった。逸平の体からは強い酒の匂いがした。シャツの襟は少し開き、服や前髪も乱れ、普段とは違ってだらしなく見えた。酒で頬が薄紅に染まり、普段の鋭さは消え、驚くほど従順で、どこか脆そうにさえ見えた。葉月が周囲を見回し、非常階段の方に視線をやった時、ドアの陰にいた数人が慌てて頭を引っ込めた。まるで泥棒みたいだ。卓也を支えながら付き添ってきた運転代行ドライバーさんも、彼らが何をしているのかわからなかった。だがかなりの金をもらったので、この先数日は遊んで暮らせる。それ
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第252話

葉月は少し困ったが、逸平が薄着でここで眠っているのを、見て見ぬふりをするわけにもいかなかった。こんなに寒い日に外で一晩中寝ていたら、翌日にはきっと体を壊してしまうだろう。「逸平、起きて、こんな所で寝ちゃだめよ」逸平が体を動かすと、葉月は言った。「ねえ起きて、寝るなら家に入って」精一杯の善意をもって、仕方なく家に連れ帰ることにした。しかし、逸平が起きて歩けるならまだしも、彼女一人で彼を部屋まで運べるはずもなかった。葉月が諦めかけたその時、逸平がゆっくりと目を開いた。酔って誘惑めいた瞳がじっと彼女を見つめている。「葉月……」逸平には彼女の姿がかすかに見えていたが、その姿は幻覚のようにぼんやりとしていた。逸平はまばたきさえできなかった。目を閉じた瞬間、目の前にいる葉月が消えてしまうのではないかと思うと怖くなった。葉月は彼が目を覚ましたのを見て、ほっと一息ついた。「起きられる?外は寒いから、家に入って」逸平はぼんやりと目を上げ、朦朧とした意識の中で揺らめく人影を見つめた。やはり酔った時の幻覚なのかもしれない。逸平は、今自分に話しかけている葉月の優しさを感じていた。そしてその感覚にすっかり酔いしれていた。葉月は彼がぼんやりと自分を見つめ、焦点の定まらない目をしているのを見て、少し心が痛んだ。そして困ったように唇を噛んだ。このまま自分一人だけでは逸平を支えきれない。何しろ逸平の体は彼女よりずっと大きいのだ。葉月は小さくため息をついた。「仕方ない、誰かに手伝ってもらおう」彼女はゆっくりと立ち上がった。ずっとしゃがんでいたせいで少し足が疲れていた。逸平は彼女が自分を置いて立ち去ろうとしていると思い込み、無意識に彼女の手首を掴んだ。「行かないでくれ……頼むよ……」逸平の声はひどくかすれていた。彼は顔を上げて彼女を見つめた。喉元がかすかに動き、目尻がうっすらと赤く滲んでいた。言いようのない切ない表情と、だらしがなく惨めな姿が相まって、まるで捨てられそうになった大きな犬のようだ。彼の指先には彼女の手の感覚がはっきりと感じられた。あまりにも鮮明な感触に、今にも涙が頬を伝いそうだった。「やめて……」葉月は逸平に掴まれた指先がひきつるような感覚をおぼえた。彼を見つめ、彼の言葉を聞いている内に、なぜか
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第253話

逸平が葉月の手必死に掴み、彼女の手首がじわじわと痛んだ。葉月は仕方なく逸平をなだめた。「あなたを置いて行かないわ。でも、あなたは一人で立てないから、誰か呼んでくるわね」彼女の言葉を聞いて、さっきまで地面に座って動けなかった逸平は、壁に手を突き、ゆっくりと立ち上がった。逸平はまだ足元がふらついていたが、このまま立たなければ葉月が自分を置いて行ってしまうような気がした。だから無理をしてでも立ち上がったのだ。立ち上がっても手を離さず、彼女の手をしっかり握り、褒めてほしがる子供のような目で彼女を見つめて言った。「立ったよ」葉月は一瞬返す言葉に困ってしまった。「歩ける?」逸平は頷いた。「ああ」口ではそう言っていたが、実際に歩かせようとすると、葉月は逸平がその場で倒れはしないかと心配になる有様だ。「もういいわ、私が支えるから」葉月は彼の腰に手を回し、彼の手を自分の肩に乗せた。「行きましょ」逸平の心は喜びに満ちていた。全身を彼女に預けながらも、彼女に負担をかけないよう、密かに力を入れて歩いた。二人が家に入り、ドアが閉まるまで、少し離れたところでこっそり見ていた男たちは名残惜しそうに視線を逸らし、四人は互いに顔を見合わせ、驚きと可笑しさが入り混じったような表情を浮かべた。しかしその中で比較的冷静だったのは卓也だ。彼は最初から逸平が手強い男だと知っていたのだ。しかし想像と実際に見るのとでは大違いだった。裕章も何だか自分が滑稽に思えた。まさか彼らと一緒にこんなことをするなんて。だがここまで来てしまった以上、彼は言った。「帰ろう。あとは二人の運次第だ」卓也は言った。「今度逸平に食事をご馳走してもらわなきゃな」彼らが助言し、労を惜しまず葉月の前に送り出さなければ、逸平は夢の中でしか葉月と会うことはできなかっただろう。「行こう」四人は満足して去って行った。一方、家の中の逸平も満足そうに葉月をじっと見つめていた。葉月は彼をソファに座らせ、自分は水を汲みに行ったが、逸平の視線はまるで彼女に張り付いたように釘付けになっていた。彼女が水を汲みに行く時でさえ、彼は後をついて見ていた。この感覚に、葉月は彼の目を覆いたくなった。逸平は水を飲み干し、胃が少し楽になったのか、意識も幾分はっきりとした気がした
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第254話

葉月は失笑した。彼は酔っている?それとも正気なの?正気だと言えないほど、足元はフラついているし、酔っているとは思えないぐらい、お酒の匂いを気にして身だしなみを整えられるなんて。葉月は逸平の濡れた髪や体、鎖骨を伝って落ちる水滴を見て、ついに根負けしてしまった。タオルを掴んで差し出したが、逸平は両手を下げたまま、ただ静かに立ったままだ。タオルを差し出しているのに、彼は受け取ろうとしない。まるで世話をしてくれるのを待つ殿様のようだ。葉月は妊娠中なのにこんなことに付き合わされていると思うと腹が立ち、タオルを彼に投げつけた。そして、少し腹を立てて言った。「勝手にして。風邪を引いて苦しむのはあなたよ」そう言って、部屋に戻り寝る準備を始めた。とにかく今逸平は家にいて、リビングにはエアコンもあるのだから、もう凍える心配はない。何より自分のお腹には子供がいる。今はとても眠いし、そろそろ休まなきゃ。部屋の中へ入り、振り返ってドアを閉めようとした瞬間、逸平がドアを押さえつけて部屋に入り、彼女を抱きしめた。逸平の体はまだ濡れていて、髪から滴る水滴が葉月の首筋を伝い、冷たく湿った感触に襲われ、彼女は思わず身震いした。「離して!」葉月は押しのけようとした。酔った勢いで逸平に何かされないかと怖くなった。何かあっても、今の葉月には抵抗できない。「逸平、離して!あなたはリビングで寝て!」逸平は手を離さなかったが、想像していたような強引な行動は取らなかった。その代わりに、逸平は体重をゆっくりと彼女に押し付けるように額を彼女の肩に預けた。逸平はまだ手を離さない。うつむいて腰をかがめながら、葉月の首元に顔を埋めた。噛み殺すような低い嗚咽を聞いて、葉月の全身は硬直した。首筋が濡れている。でも首筋を濡らしているのは冷たい水ではなく、温かいものだった。それは逸平の涙だ。葉月は泣きじゃくる逸平に抱きしめられたまま、その場に立ち尽くしていた。彼女はまさか逸平が泣くなんて、思ってもみなかった。これまでずっと、自分は逸平の意気盛んな姿や、怒りに燃える姿、人を嘲笑する姿を散々見てきた。しかし彼の泣き声を聞いたのは、これが初めてだった。井上家の御曹司の涙、なんと貴重ものなのだろう。今までずっと、夜な夜な泣いていたのは
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第255話

逸平が顔を上げた時、葉月は彼の真っ赤な目と頬の涙の跡を見た。身体の本能は脳の反応よりも速い。気がついた時、葉月の手はすでに逸平の顔に触れ、そっと涙の跡を拭っていた。彼女の身体は微かに硬直し、後になってようやく手を引っ込めようとした。「待って……」逸平は葉月よりも速く、大きな手で彼女の手の甲を覆った。葉月の柔らかい手にぴったりと頬を寄せると、それだけで満たされた気分になった。この時、逸平は手の平の温度よりもさらに熱い視線を葉月に送っていた。葉月は逸平に見つめられて動揺し、視線を合わせる事ができず、黙って目を伏せていたが、しばらくしてようやく言った。「飲み過ぎよ。早く休んだ方がいいわ」しかし逸平は諦めきれず、彼女を抱き上げた。葉月は驚いて、思わずお腹を庇いながら小さな声で言った。「何するつもり?変な気を起こさないで!」幸い逸平は彼女に無理強いする気はないようで、ただベッドに座り彼女を抱きしめた。葉月は彼の膝の上に座り、腰は彼の腕の中でしっかりと支えられていた。首元には彼の頭が寄り添い、硬い髪がくすぐったかった。葉月は思わず逸平を押しのけようとしたが、彼は頑なに彼女を抱いたまま動かなかった。葉月も仕方なく諦めた。この人は今日どうしてこんなになるまでお酒を飲んだのだろう。以前にも酔ったことはあるし、何度も世話をしたことがあった。でもその度に、おとなしく寝るだけで、騒ぐこともなく静かなものだった。こんな風になるのは初めてだ。逸平は目を閉じて葉月の胸元に寄り添った。耳元から彼女の鼓動が聞こえる。彼女の香りや、体温も伝わってきた。逸平はこのままずっと、葉月を抱きしめていたいと思った。「葉月」逸平は突然声を出したが、その声はとても小さく、何かを驚かせないようにと恐れているかのようだ。葉月が下を見ると、この角度からは彼のふさふさした頭頂部と高い鼻筋しか見えなかった。葉月は思考が一瞬ぼやけたような気がした。心の中で、自分の子供が父親の整った顔立ちを受け継ぐかどうか考えていた。この真っ黒でふさふさした髪なら、薄毛の心配はないだろう。葉月があれこれ考えを巡らせていると、彼女を抱いていた逸平がまた話し始めた。可哀想になるぐらい、しょんぼりしていた。「どうして俺の事を必要ない
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第256話

向かいの果物屋の女将さんが残った果物を片付けていた時、ちょうどこの様子を目にして、逸平に声をかけた。「逸平ちゃん、またあの子に会いに来たの?」逸平は振り向いて、なぜ家に誰もいないのかと目で問いかけた。この通りの人々は彼の無口な性格に慣れていたため、かえって丁寧に説明してくれた。「お婆さんの件が片付いたら、多分ここを離れるつもりだったんだろうね。今日の昼頃に他県ナンバーの車が2台来て、家族みんなで荷物を積み込んで出て行ったよ」この頃二人が親しくしているのはみんな知っていた。だが彼の様子を見る限り、今日彼らが引っ越すことを知らなかったようだ。女将は軽くため息をつき、「早く家に帰りなさい、あの子は多分もう戻ってこないわ」と言った。千川市で暮らす唯一の心の支えがいなくなったのだから、あの家族がまたここに来る理由なんてない。みんなあのお婆さんの娘が良い所に嫁いで、ここ数年は海外にいることが多いことを知っていた。数日前に話していた時に初めて、彼らは今回帰国したら、もう海外では暮らさず、家族全員で一の松市に行く準備をしているということを知ったのだった。清原家は一の松市に基盤があるのだから、そこに行くのが一番よいのだろう。逸平はその場に立ち尽くして動かなかった。持ち帰ったオムレツがだんだん冷めていった。ビニール袋を持つ手を強く握りしめた。昨日までオムレツが食べたいって言っていたのに。なのにどうして発つ時に何も言ってくれなかった?無情に誰かに捨てられたような感覚が再び込み上げてきた。弟が生まれてからの両親もそうだった。今度は彼女まで俺を捨てるのか?彼は窓を見上げた。いつもインターホンを鳴らすと、オレンジ色の灯りが漏れる窓から彼女が外を覗いた。彼だと分かると笑顔を見せ、嬉しそうに駆け降りてきた。しかし今、そこにはただ暗闇が広がっているだけだった。逸平はくるりと背を向けた。行ってしまったのなら仕方ない。最初から出会っていなかったことにすればいいだけの話だ。彼はその時、意地になって心に決めた。もし今後葉月に出会うことがあったとしても、たとえ彼女が仲直りしたいと言っても、彼女を相手にはしないと。しかし、背後から女の子の焦るような声が聞こえた瞬間、彼はほとんど無意識的に振り返り、その目には驚きの表情
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第257話

だが少年が手に持っていた焼ソバの入った袋を見た時、彼女の目はきらきらと輝いた。「私のために買ってくれたの?」逸平は焼ソバを隠して言った。「もう冷めちゃって、美味しくないよ」葉月は気にしない様子で言った。「食べたいわ」彼女の哀願する眼差しを見て、逸平は仕方なく、焼ソバを手渡した。彼は葉月の頭頂部を見つめ、薄い唇をきつく結んだ。葉月は逸平の熱い眼差しには気づかなかった。今は焼ソバのことで頭がいっぱいなのだ。彼女は逸平のことを本当に優しい人だと思った。昨日ちょっと口にしただけなのに、まさか本当に焼ソバを買ってきてくれたなんて。「葉月……」逸平はふいに彼女の名を呼んだ。葉月はぼんやりと顔を上げ、焼ソバを一口食べた。冷めてはいたが、やっぱり美味しいと思った。焼ソバを食べながら、まばたきをして逸平を見た。「どうしたの?」咀嚼しながら発した言葉は自分でもよく聞こえなかった。彼女の膨らんだ頬を見て、逸平は指をそっと動かし、柔らかい頬をそっとつまんだ。葉月は怒ることもなく、じっと彼を見つめた。「また戻ってくる?」葉月は首を振った。「お母さんが、おばあちゃんに会う時だけ戻ってくるって」祖母は今墓の中で静かに眠っている。だからいつまた来られるのかは、誰にもわからなかった。この間まで毎日のように泣いて目がクルミのように腫れあがっていた葉月も、今では祖母の死を受け入れていた。祖母の死によって、葉月は今生きている人達をより大切に思うようになったのだ。両親であれ友人であれ、葉月はもっと時間をかけて彼らのそばにいたいと思うようになった。葉月がそう話した時、逸平の胸に微かな苦い思いがよぎった。じゃあ、もう会えなくなるのか……「でも遊びに来てよ。私も千川市に帰る時は必ず会いに行くから」葉月は千キロ以上の距離がまるで目と鼻の先であるかのように、瞬き一つで越えられるかのように、無邪気な声でそう話した。逸平は返事をせず、ただふっと軽く笑った。頬を撫でるそよ風が、彼の額にかかった黒髪を揺らした。「別れる前に、ハグしないか?」逸平は両手を広げ、笑顔を見せた。その笑顔は渓流のせせらぎのように清らかだった。葉月は腕を伸ばし、そっと彼の腰に抱き着いた。余計な感情は一切混じっていない。逸平は片手で彼女を抱
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第258話

両親はどちらも逸平より自分の立場を優先していた。彼は性格柄、そんな両親と親しくできる筈もなかった。その後俊康が生まれ、両親は長男である逸平はなおざりにされ、彼は自然と距離を置くようになった。井上家にいるよいも、この小さな町で祖父といる方がよっぽどマシだと思った。泰次郎は最新型の電子腕時計を買ってきてくれた。逸平が以前話したことがあり、千川市では売っていないものだ。今回一の松市に行った時に、人に買いに行かせたようだ。「つけてみろ。欲しかったやつか?」逸平は時計を受け取り、まだ十代の少年らしく、顔に笑みを浮かべて急いで腕にはめた。「ありがとう、おじいちゃん!」泰次郎も嬉しそうに笑った。最後に取り出したのは白い箱だった。彼は微笑んで言った。「当ててみろ、これは誰からだだと思う?」逸平は暫くの間考えたが、思い当たる人物はいなかった。「わからない」泰次郎は、箱を彼に手渡した。逸平が箱を開けると、中には木彫りの小さな黄色い犬のキーホルダーが入っていた。手編みの紐には薄緑の小さな玉と木製の小さな花のモチーフがついている。キーホルダーを揺らしてみた。誰がこんな幼稚なものをくれたのか、逸平には見当もつかなかった。「帰った時に、あの子に会ったんだよ」先に宴席で泰次郎に気づいたのは葉月だった。逸平が来ていないと知って、彼女は少し残念に思った。しかし翌日、彼女は泰次郎を訪ね、このキーホルダーを逸平に渡してほしいと泰次郎に頼んだ。逸平は手元にあるキーホルダーを見つめた。小さな犬が舌を出して笑っているように見えた。ふいに胸の奥が温かくなるのを感じた。葉月はまだ自分のことを覚えていて、プレゼントまで持ってきてくれたのだ。逸平は黙っていたが、泰次郎は、それ以来彼のベッドの傍にそのキーホルダーが置かれていることに気付いた。時折、彼はそのキーホルダーをぼんやりと見つめ、そっと撫でていた。千川市を離れてから、もう半年近く経っていた。この半年間、葉月は新しい学校に通い、新しい友達もできた。でも、騒ぎ合う少年たちを見かけるたび、遠く離れた逸平のことをふと思い出すのだった。逸平が今どうしているのか、彼女にはわからなかった。あの子犬のペンダント、ちゃんと持っていてくれてるかな?葉月は今日、
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第259話

逸平が来るなんて、葉月は夢にも思わなかった。葉月は我に返ると、彼に抱き着いて大声で叫んだ「逸平!まさかあなたが来てくれるなんて!」逸平は葉月に抱き着かれて顔を赤らめた。ただ顔をそむけ、彼女に抱きつかれるがままにしていた。夕焼けの光で、葉月は逸平が顔を赤らめていることに気づかなかった。夕日が彼の顔を美しく照らしている。葉月は腕を解き、瞳を輝かせて聞いた。「いつ来たの?」逸平は軽く咳払いをして目を逸らした。目を合わせると、自分の戸惑いや照れくささを見透かされるようで怖かったのだ。「昨日着いた」本当は午後いちばんに、一の松市に着いてすぐ葉月を訪ねてきたのだった。葉月に自分の焦る気持ちを知られたくなかった。そんなことを知られたら面目が立たない。「じゃあ、また帰っちゃうの?」逸平は答えた。「いや帰らない。これからはずっと千川市にいる」葉月は泰次郎のことを思い出した。「じゃあ、おじいさんは?」「爺ちゃんもここに住むんだ。ずっと千川市に帰りたいって言ってたし、帰りたくなったらいつでも帰れるから」彼女は泰次郎が一人寂しく暮らすのではないと知って安心した。逸平は葉月と一緒に清原家の門の前までゆっくりと歩いた。たった5分で着くはずの道を、二人は30分以上もかけて歩いた。葉月は一の松市でのこの半年間に起こったことをたくさん話した。逸平は彼女がすでに卓也たちと知り合いになっていたことを初めて知った。彼女が自分のそばでぺちゃくちゃと話し続けるのを聞いていると、逸平はこの半年間胸に鬱積していたいらだちがすっかり消えていくのを感じた。今はただ彼女の話をずっと聞いていたい、このままずっと……家の前に着くと、葉月は小さな階段の上に立って彼を見た。「明日もまた会いにいくね!」逸平は微笑んで言った。「ああ」庭から家政婦が葉月を呼ぶ声が聞こえ、彼女は返事をして、彼に向かって言った。「また明日ね」逸平は彼女が急いで振り返るのを見ると、なぜか不安な感情が湧き上がり、胸がざわついた。振り返ったら、また葉月が自分から遠く遠く離れてしまうような気がした。長い間会えなくなるほど遠くに。逸平は慌てて彼女を呼び止めた。「葉月!」葉月は足を止め、振り返って怪訝な表情を浮かべた。逸平は拳を握りしめ、厳し
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第260話

葉月はそっと彼の頬に触れ、細い眉を少しひそめて聞いた。「どうして泣いてるの?」逸平は喉仏を動かし、悔しさを滲ませながら口を開いた。「お前が俺を捨てたからさ」「どうしてそんな風に思うの?」葉月は思った。今まで一度だって彼が自分のものになったことなどないのに、逸平は私に捨てられてと思っているの?しかし彼は今可哀想なぐらい涙を流している。葉月の心は揺れ、逸平にそう言うことはできなかった。逸平は表情をこわばらせた。「お前は確かに俺を捨てた」葉月が反論する間もなく、逸平の恨みがましい言葉が次々と彼女に浴びせられた。それは言い尽くせないほど、長い間溜め込んでいたかのようだった。「俺が海外留学する時、待っててって言っただろう?すぐ、すぐ帰ってくるからって」逸平が2年間必死に単位を取得したのは、決して彼女と甚太の婚約式に出席するためではなかった。「それなのに俺が帰国する前にお前は心変わりした」二人の間には10時間以上の時差があったが、彼はいつも葉月からのメッセージに真っ先に返信していた。ただ彼女に自分を忘れてほしくなかった。会えない内に、彼女に自然と忘れられたくなかった。だが次第に、葉月は逸平を避けるようになった。逸平がメッセージを送っても音沙汰がなかった。電話で尋ねると、葉月は忙しくて時間がないと言った。でも逸平は彼女の口調から適当に扱われていると感じた。その瞬間彼は慌てた。このまま海外にいたら葉月は本当に自分のことを完全に忘れてしまうかもしれない。逸平は早く帰国できるよう、さらに努力した。しかしすでに手遅れだった。「どうしてあの時俺のメッセージに返信しなかったんだ?」知らなかったかもしれないけど、俺はお前からの返事が待ち遠しくて、夜も眠れないほどだった。どうして無視するのか聞きたいけど、お前に嫌われるのが怖くて」葉月もあの雪の夜を思い出していた。たった一人で異国の地へ向かったあの夜を。もしあの夜、逸平と有紗が抱き合う姿を見なければ、彼をわざと避けたりはしなかっただろう。彼女は逸平に返事を返したくても、自分が第三者のように感じられ、メッセージを打っては消すことを繰り返していた。自分もまた眠れない夜を過ごしていた。今、逸平に「なぜ返信しなかったのか」と問われ、葉月
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