All Chapters of 私は待ち続け、あなたは狂った: Chapter 261 - Chapter 270

305 Chapters

第261話

葉月は気まずくなって、目を背けた。あの時の後継を思い出すと、葉月の心は今もどうしようもなく痛いた。逸平は焦り、葉月に近づこうとした。「葉月、本当に俺に会いに来てくれたのか?」二人の距離はとても近くなり、彼の吐息には微かな酒の香りが混じっていたが、今はそれほど不快に感じなかった。葉月は彼の方を見ないまま、ただ軽く「うん」と応えた。逸平も、十九歳だった頃のあの大雪の夜を思い出していた。異国で初めて迎えた誕生日だった。逸平は皆からの祝福を受けたが、葉月からの連絡だけがまだ届いていなかった。その日は一日中落ち着かなかったが、それでも葉月のために言い訳を探し続けていた。きっと忙しいのだろう。彼女が自分の誕生日を忘れたなんて信じたくなかった。しかし時間が経つにつれ、自分を欺くことはできなくなっていた。いくら忙しくったって、メッセージを送る時間ぐらいあるだろう?その日、逸平は誕生日を楽しく過ごす気にはなれなかった。当時、偶然にも有紗は彼と同じ学校に通学していた。ただ、彼女はもうすぐ卒業するところだった。有紗がもちろん彼の誕生日を知っていたが、逸平は彼女が自ら贈り物を持って彼の住まいまで来るとは思ってもいなかった。逸平はソファに横たわり、機嫌が悪く、外に出る気もなかった。しかし外は吹雪で、有紗をずっと外に待たせておくこともできなかった。どうせみんな一緒に育った仲だし、情だってある。彼は外に出たが、有紗を家に招き入れることはしなかった。ただこう言った。「有紗さん、外は吹雪いているし、早く帰った方がいいよ」有紗は逸平にあしらわれることに慣れていた。彼女はただ誕生日プレゼントを逸平に手渡して言った。「お誕生日おめでとう」逸平は彼女から差し出された贈り物を見て、また胸が痛んだ。なぜ、いちばん祝ってほしい人から一言の祝福の言葉すらもらえないのだろう?誕生日なんて別にめでたくもない。ただ、葉月には覚えていてほしかった。気にかけていてほしかっただけなのに。以前は逸平の誕生日を誰よりも気にかけてくれていた葉月が、なぜ半年海外に行っただけで忘れてしまったのだろう?逸平は感情を表には出さず、贈り物を受け取り、有紗に礼を言った。有紗は逸平の様子を見て、何かを察したようだった。「
Read more

第262話

ただ彼に一目会いたい一心だった。怖いものなんて何もなかった。でも二十七歳になった今の葉月には、あの頃のように向こう見ずな行動はできない。「葉月、俺は有紗と付き合ったことなんて一度もない。彼女のことを好きだと思ったこともない。俺が好きなのはお前なんだ……本当に、本当に俺はお前のことが好きなんだ」もしかしたら、一目惚れだったのかもしれない。雪の降る中、泣きじゃくる葉月の顔を見て、心が揺らいだのかもしれない。葉月が何度も逸平に向けてくれた笑顔に、彼は溺れていたのかもしれない。とにかく、逸平は葉月が好きで、今までずっと一途に思い続けていた。口を開いてしまった以上、逸平はもう隠すつもりはなかった。長年押し殺していた感情が一気に溢れ出した。「お前はなぜ俺を愛してくれないんだ?」以前は、自分は葉月にとって特別な存在だと思っていた。もしかしたら彼女も自分のことを想ってくれているのではないか、と。しかし現実は容赦なく逸平を打ちのめした。「やっと帰ってきたのに、お前は甚太と結婚しようとしていた。お前達が婚約した日、俺は本気でお前を奪いに行きたいと思ってたよ。甚太のどこがいいんだ?何であいつなんだ?あいつは俺より優しいのか?」って。彼の目には、甚太は言葉巧みに人を騙す男としか見えなかった。誰に対しても優しく穏やかに接しているが、本当は誠実なんて微塵もない。そんな奴が、葉月にふさわしいわけがない。逸平の指先がかすかに震え、瞳には長年抑え込んできた執着や痛惜の色が渦巻いていた。彼は、誰よりも葉月を愛していた。「お前達が婚約してから、俺はお前に会うのが怖かった。会えば自制が効かなくなり、お前を自分のそばに引き留めたくなってしまうから」逸平の声は次第に小さくなっていった。あの頃の苦しみが今も目の前にあるかのようだった。逸平は何度も清原家の外に立ち、明かりのついた窓を見上げたが、彼はもう昔のように彼女を呼び出すことはできなかった。「お前を恨んだことさえある」逸平は突然、自分がとても幼稚で滑稽に思えてきた。「お前はなぜそんなに俺に冷たくできるのか、って。以前はあんなに優しくしてくれたのに、俺を捨てないって言ったのに、って。なのにお前は俺を捨てた。ほんの少しでもいいから、俺のために悲しんでほしい
Read more

第263話

清原家の事件が起きた後、井上家は保守的な姿勢を重んじようとしていた。追い打ちをかけるようなことはしないが、清原家の力になることもできなかった。逸平は正臣の前に跪いて行った。「父さん、葉月と結婚させて下さい」正臣も千鶴子も最初はもちろん同意しなかったが、逸平も頑固な性格で、一歩も譲らなかった。双方とも譲らず、苛立った正臣はついに逸平に手を上げた。正臣に打たれた逸平背中は縦横無尽に赤い跡がつき、所々に血が滲んでいた。それでも逸平は繰り返し言った。「俺は葉月と結婚する。たとえ殺されたって、俺は彼女と結婚する!」正臣はベルトを地面に叩きつけ、息子の不甲斐なさに腹を立て、睨みつけて罵った。しかしどれだけ打ちのめされても逸平が折れることはなく、正臣これ以上罵っても意味がないと思った。逸平が人を連れて清原家を訪れたあの雨の夜、彼は葉月に「結婚しよう」と言った。葉月の目の前にいたのは気高く気品溢れる逸平であり、彼の背中に鞭打たれた傷があることなど、まったく気付かずにいた。「お前と結婚したい、本気で言ってるんだ。政略結婚なんかじゃないし、利益のためでもない。ただお前と結婚したいんだ、愛しているから」葉月は驚きのあまり言葉を失った。言い表せない違和感が胸に広がった。彼女はぼんやりと目の前にいる逸平を見つめていた。周りの音がすべて消えてしまったかのように、ただ彼の言葉だけが頭の中で何度も繰り返し響いていた。逸平は自分のことを好きだと言い、有紗のことは一度も好きになったことがないと言った。彼が自分と結婚したいのは本心で、ただ愛しているから結婚したいのだと言った。葉月は自分が幻聴を聞いたか、あるいはこれは夢なのではないかとさえ思った。これまでずっと、葉月は何度も自分に言い聞かせてきた。夢なんか見ちゃいけない、逸平はあなたのものにはならないのだから、と。だけど今、彼は私のことを好きだと言っている?逸平はずっと私を想ってくれていたの?葉月は見えない手で心をわし掴みにされたような感覚に襲われた。苦しみ、衝撃、困惑、信じられない気持ちが押し寄せてきた……無数の感情が胸の中で渦巻き、息が詰まりそうだった。葉月は口を開いたが、声が出なかった。喉が塞がれたように、乾いてひりひりしていた。絶望の淵に立たされた人間
Read more

第264話

その時、逸平は葉月を起こしてしまわないかと、息をすることにさえ気を遣った。ただ静かに葉月のそばに横たわり、彼女の穏やかに上下する胸元を見ているだけで、逸平の胸は温かな感情で満たされた。逸平は彼女を見つめた。かつてないほどの真剣で優しく、少し緊張した眼差しで。彼の切望に満ちた瞳が、葉月に答えを求めていた。「葉月、教えてくれ……」逸平は懇願するように言った。「どうすれば、結婚したばかりの頃の俺達に戻れる?」あの頃は本当に幸せだった。葉月は彼が帰宅するのを待って二人は食事を共にし、食卓にはいつも彼の好物が並んでいた。二人はソファに寄り添い、彼女の好きな映画を観た。逸平は、彼女が映画を観ている時に時折見せる笑顔を見るのが好きだった。夜、眠りにつく時、彼女は無意識に彼の胸に寄り添い、二人は抱き合うようにして眠った。普段から和やかに話し合い、喧嘩をしたり互いに冷たい態度をとることもなかった。逸平はそんな生活を一生続けたいと思っていた。葉月と平穏な日々を送れるだけで、それ以上の幸せはないと感じていた。しかしその後、すべてが変わってしまった。彼女の笑顔はつくり笑いのようになり、逸平と目を合わせようとせず、彼が近づくと体が無意識的にこわばるようになった。「あの絵を壊したからか?ごめん、謝るよ。本当にそんなつもりじゃなかったんだ。ごめん、感情的になってしまって。あの絵に甚太の名前が書いてあるのを見た時、どうしていいかわからなくなってしまったんだ」彼は言葉を詰まらせ、話し続けられないほどだった。「わざとじゃなかったんだ……」彼の目尻は赤くなり、声にはこれまでないほどの焦燥感がにじんでいた。「ただ、怖くて仕方なかったんだ」葉月の心には誰か別の男がいるのではないか、この結婚が結局自分の一方的な思い込みではないか。何より恐れていたのは彼女が自分の元から去ってしまうことだった。葉月は逸平が絵を壊した時のことを思い出しているようだ。ふと、あの夜のことを思い出した。逸平が狂ったようにそれらの絵を全て破壊した夜のことを。そして彼女に言った。「今後こんな胸糞悪いものをこの家に置かないでくれ!」その一言で、彼女が二人の家庭に抱いていた希望の灯火が消えてしまった。その瞬間、葉月は初めて自分の立場をはっきりと理解した。
Read more

第265話

葉月はぼんやりと考え込んだ。彼女は突然、綾子になぜそんなことをしたのか聞いてみたくなった。果たして故意だったのか、それとも偶然だったのか?彼女は逸平を見つめた。突然、目の前にいる彼がどこか見知らぬ人のように感じられた。こんなに長い間一緒にいたのに、まるで一度も本当の彼を理解できていなかったように思えた。彼は今言ったように、本当に私を想ってくれているのだろうか?もしそうなら、これまでの苦しみは一体何だったのだろう?葉月の心は締め付けられるように痛んだ。逸平の顔をじっと見つめ、彼の真意をちゃんと見極めたいと思った。「ねえ逸平、あの絵になぜ甚太の名前が書かれていたのか、私は本当に知らなかったって言ったら信じてくれる?」逸平はすぐに頷き、切迫したような様子で言った。「ああ、信じるよ」葉月の目に涙が滲んだ。「じゃあなぜ今までそう聞いてくれなかったの?私のこと信じてなかったの?私と甚太の間には、あの婚約以外何もなかった」鹿島家が婚約を破棄して以降、彼女は甚太と本当に連絡を取っていなかった。逸平はさらに強く抱きしめた。「ごめん、俺が悪かった。ただお前を失うのが怖くて」葉月の涙がぽろぽろとこぼれ落ち、感情が抑えきれなくなった。「逸平のバカ!」逸平は自分の言葉がどれほど葉月を傷つけたか、全くわかっていなかった。葉月は本当に心から逸平を愛していた。だから過去のすべてを水に流し、彼と幸せに暮らしたいと思っていた。しかし逸平は彼女の希望を打ち砕き、彼女を途方に暮れさせた。「ああ、俺は馬鹿だったよ」彼は目を赤くして認め、指でそっと彼女の涙を拭った。くだらない自尊心と猜疑心ですっかり臆病になり、本当の気持ちと向き合う勇気を持てずにいたのだ。そして結局、逸平は葉月を傷つけただけでなく、自分自身をも傷つけた。でも今、後悔していた。本当に心から後悔していた。自分がずっと必要としていたのは葉月だけだったのに、なぜ自分の気持ちに嘘をついてしまったのか。逸平は彼女を強く抱きしめた。喉の奥に痛みを覚え、苦しくなった。「俺、後悔してるんだ、葉ちゃん。離婚なんてしたくないし、お前を失いたくない」葉ちゃん……聞きなれない名前を呼ばれて、葉月は呆然とした。逸平は以前、葉月のことを葉ちゃんと呼んでいたことがあっ
Read more

第266話

葉月にそう聞かれ、逸平は突然足を止め、彼女の額を軽くはじいて言った。「バカ」逸平の耳は赤くなっていたが、ぶっきらぼうな口調で言った。「お前が気にすることじゃないだろ?とにかく、そう呼んでいいのは俺だけだってことだ、わかったか?」葉月が納得するまで、逸平はしつこく言い続けた。彼女がようやく納得すると、逸平は満足そうに言った。「よし」あれからあっという間に長い年月が経った。最後に逸平がそう呼んだのは、彼が海外に行った日だったような気がする。葉月よりずっと背が高くなった逸平は、彼女の髪を乱暴に撫でながら、優しい笑顔で言った。「俺の帰りを待っててくれよ、葉ちゃん」彼が去って、その呼び名も忘れ去られてしまった。今日また逸平がそう呼ぶのを聞いて、葉月の胸はじんわりと痛んだ。昔の逸平をとても懐かしく思った。葉月に優しく、どんなことがあっても自分を守ろうとしてくれるあの頃の逸平を。後に浮気をして、彼女を怒鳴りつけ、愛してくれなくなった逸平ではなく。「でも私たちはもう離婚したじゃない」葉月はそう呟くと、心が引き裂かれるような気がした。もう遅い、遅すぎたの。逸平の体がこわばったが、すぐに腕を引き締めて言った。「それでも構わない。もう一度俺にチャンスをくれないか?今度こそお前を幸せにしてみせる」葉月の脳裏に、あの時の光景がよぎった。夜、帰宅した逸平のシャツについた口紅の跡、自分のとは違う香水の匂い。そして芸能ニュースで見た、逸平と親密な様子で映る数々の女優との写真。思い出すだけで葉月は胸が締め付けられるようになり、首を振った。「無理よ、逸平。あなたはもう汚れてしまってる」汚れてる?逸平は一瞬呆然としたが、すぐに立ち上がって言った。「じゃあ洗ってくる、きれいに洗ってくるよ」「逸平、本気で言ってるの?それとも鈍感なふりをしているだけ?」葉月のこの言葉に、彼は動きを止め、真剣に考え始めた。しばらく沈黙した後、彼もようやく葉月の言葉の意味を理解したようだ。彼は突然慌てて言った。「違うんだ、そうじゃないんだよ、葉月。聞いてくれ、あれは全部嘘なんだ。俺は何もしてない。俺にはお前しかいないんだ」葉月は何も言わず、ただ冷ややかに彼を見つめた。「葉月、信じてくれ……」彼女は顔を背け、彼を見ようともしなかった
Read more

第267話

その日の夜、彼はさっそく香水を一瓶買い、体にふりかけた。そして家に帰ると、いつものようにすぐに風呂には入らなかった。そのまま葉月のそばに近づいた。しかし葉月は特に反応せず、ただ酒臭いからと、早く風呂に入るように言っただけだった。逸平は、酒のせいで香水の香りが消えたから葉月が気づかなかったのだろうと考えた。翌日、逸平は昨日より多く香水をふりかけた。その香りの強さは、行人も耐えられないほどだった。突然香水をつけるなんて、社長は一体どうしたのだろう?逸平は部屋の前で深く息を吸い、全身に香水の香りをまとって部屋に入った。葉月はもうすでにベッドで眠っていた。彼は落胆したが、彼女を起こすのも忍びなく、長い間そばで見つめた後、その場を立ち去った。逸平は知らなかった。本当は葉月が眠っていなかったことを。本当は昨日から、葉月は香水の匂いに気づいていたのだ。今まで逸平の体から香水の匂いがしたことなど一度もなかった。しかも今夜は、その香りがさらに強くなっている。葉月は香水の匂いが彼の体についている理由を深く考えようとはしなかった。その理由を受け入れる勇気が持てなかったのだ。そして三日目の夜、逸平は帰ってこなかった。逸平がようやく家に戻った時、彼は体中が酒臭く、泥酔していた。葉月と南原さんは逸平をベッドに寝かせた時、シャツの襟元についた真っ赤な汚れに気付いた。それは口紅の跡だった。南原さんは口紅の跡をじっと見つめる葉月を見て、胸が苦しくなり、かける言葉が見つからなかった。葉月はただ静かに南原さんに休むよう伝えた。その後、葉月は逸平の世話をしていたが、赤い口紅の跡はまるで脳裏に焼き付いたように離れなかった。目を閉じても脳裏に浮かんできてしまう。その夜、葉月は声を殺して泣いた。翌朝、逸平は目を覚ますと真っ先に葉月のところに行った。昨日、彼は行人に自分の襟に口紅の跡を付けさせた。そのために行人におかしな性癖があるのではないかと疑われそうになった。ただ葉月の顔を見たかった。彼女の怒った表情を。罵られてもいい、殴られたって構わない。しかし逸平を待っていたのは無反応だった。葉月は全く反応を示していなかった。逸平は自ら尋ねた。「昨日俺が着ていたシャツは?」朝食を食べていた葉月は淡々
Read more

第268話

彼は逸平に一体何があったのだろうと思った。結婚前はすべて順調だったのに、結婚した途端スキャンダルが絶えなくなった。しかし逸平は、何を気にする必要がある?誰が気にするんだ?と思っていた。どうせ葉月だって気にしていない。彼女はきっと、たとえ逸平が家に女を連れ込んだとしても、見て見ぬふりをするだろう。逸平は苦しかった。心の底から辛いと思った。でも、どうすればいいのか分からなかった。葉月は自分を愛していない。何をしても、笑い話になるだけだ。しかし今、逸平は赤い目をして、過ちを犯した子供のように彼女の首筋に顔を埋めている。「俺は本当に誰にも指一本触れていない。汚れてなんかいないよ、葉月。本当なんだ」逸平の震える指先は、まるで彼女が逃げてしまうのを恐れているかのように、彼女の柔らかい腰をしっかりと抱いていた。お腹はまだそれほど目立たないが、葉月はやはり心配せずにはいられなかった。「少し力を緩めて」葉月は彼の腕を軽く叩いた。逸平は言われた通り力を緩めた。それでも葉月を抱いたまま離そうとはしなかった。逸平の目を見つめながら、葉月は彼の言葉をどう受け止め、信じればいいのか分からなかった。今日彼が語ったことを聞いて、まるで今まで自分が過ごした3年間がいかに馬鹿げていたかを、彼女に告げているようにさえ思えた。葉月は手を伸ばし、そっと逸平の顔を包み込んだ。彼女は親指でまだ赤い彼の目尻を撫でた。葉月はまさか逸平が泣きながら、自分にこんなことを言う日が来るなんて思ってもみなかった。目の前にいるのは、葉月が長年心から愛し、精一杯の真心を尽くし、そして彼女にあまりにも多くの苦しみを味わわせた人だった。「でも逸平、あなたは本当に私を傷つけたの。私にどうしろっていうの?」焦燥した逸平の唇がふいに彼女の手首に触れた。彼はまるで、神を求める信者のようだった。「ごめん、償いたいんだ。俺にチャンスをくれないか、頼むよ」葉月の指が逸平の痩せた輪郭をなぞった。手の平から彼の体温を感じた。逸平は葉月の掌にぴったりと頬を寄せた。こんな風に触れ合えることは彼にとって貴重な時間のように思えた。「葉月……俺を捨てないでくれ」逸平は懇願した。頭上からの照明で、絡み合った二人の影が長く伸びている。涙に濡れた謝罪の言葉が、ついに自尊心
Read more

第269話

夜が明けた頃、逸平はゆっくりと目を開けた。目がひどく乾いていて、無意識に手でこすってしまった。周囲を見回すと、見知らぬ場所だったが、すぐに葉月の部屋だとわかった。昨夜の出来事が脳裏をよぎった。逸平はベッドにもたれながら、しばらくぼんやりした。部屋の入り口で物音がして振り向くと、ちょうど葉月と目が合った。胸が高鳴り、「葉月」と呼んだ。すぐに布団をめくってベッドから降り、彼女の方へ歩いて行った。葉月は少し後ずさりし、目を伏せて彼を見ずに「まず朝食を食べましょう」と言った。逸平は話そうとしたが、喉がひどく渇いていた。葉月はもう背を向けて部屋を出てしまい、言いかけた言葉を飲み込んだ。彼女は昨晩、まったく眠れなかった。逸平との騒動があり、一晩中彼に抱き締められて、眠ろうにも眠れなかったのだ。しかし実際は、最初から眠れる状態ではなかった。逸平の言葉に心がかき乱され、どうすればいいのかわからなくなっていた。長年にわたる悶々とした日々に、彼女はエネルギーを奪われ、かつての逸平への純粋な愛情は少しずつ蝕まれていた。なのに今になって、逸平は最初からずっと自分を愛していたと言う。葉月は認めた、自分が嬉しいと思っていることを。今までずっと、自分の一方的な片思いではなかったのだ。しかしすぐに苦痛に押しつぶされそうになった。なぜ愛し合っているのに、こんなことになってしまったのだろう?逸平は食卓に座り、朝食を食べながら、忙しくしている葉月の姿をじっと見つめていた。あまりにも熱い視線に、葉月は見て見ぬふりができなかった。朝食を食べ終わるまで、彼は一言も話さなかった。葉月が片付けに来ると、彼は食器を受け取り、「俺がやるよ」と言った。逸平の声はかすれていた。指先が彼女の手の甲に触れた途端、まるで電流が走ったような感覚をおぼえた。葉月は手を引っ込めたが、逸平は落ち着いた表情で、朝食の後片付けをした。リビングは静寂に包まれ、逸平が台所で皿を洗い、葉月はソファに座っていたが、台所の方に気を取られていた。葉月の心の中の不安と緊張は、逸平が片付けを済ませるまで消えなかった。どうしても避けられないこともあるのだ。逸平は彼女の避けるような視線を見ると、胸が苦しく締め付けられるような痛みを感じた。「葉月」彼は近づき、低
Read more

第270話

「時間が必要なの。この気持ちにもう一度向き合うべきかどうかを、ちゃんと考えたいの」葉月はゆっくりと話した。その言葉を聞いて、逸平の胸は高鳴った。「わかった、俺はいくらでも待つよ!」逸平の声は震えていた。葉月は逸平があっさり承諾するとは思っていなかった。彼女は目の前の男を見つめた。その笑顔にふと見惚れてしまった。まるで、あの頃の少年が戻ってきたようだった。逸平は自分のジャケットを探し、ポケットの中を探った。葉月は何を探しているのかわからなかったが、彼が内ポケットからベルベットの箱を取り出すのを見た。一瞥しただけで、葉月はそれが自分が返した婚約指輪だと気づいた。逸平はその箱をそっと彼女の目の前のテーブルに置いた。逸平は真剣な表情でもう一度彼女を見つめて言った。「もう一度だけチャンスをくれ。もし……もし考えた末にお前が俺を受け入れられないと思うなら、俺がこの指輪を処分するよ」葉月が逸平の手に目を遣ると、以前と変わらず指には婚約指輪がはめられている。彼は一度も指輪を外したことがないようだった。少なくとも葉月に会う時は、彼は必ず指輪をはめていた。逸平は立ち去った後、葉月の家の前に立ち、自分が引っ越したことを後悔した。数日後に、もう一度引っ越して来ようか?一方、家の中では葉月がぼんやりと立ち尽くしていた。逸平は一晩しか滞在しなかったのに、家中に彼の痕跡が残っているように感じた。まるで彼女の心から、彼の影が消えないかのようだ。逸平がエレベーターを出ると、スーツ姿の甚太にばったり出会った。二人は同時に足を止めた。甚太は逸平を探るように見つめた。逸平は甚太の視線に気づき、口元に笑みを浮かべた。彼はかつて甚太に会う度に胸を焦がすような嫉妬を感じていたことを思い出した。だが今はもう、そんな必要はなかった。なぜなら葉月が言ってくれたのだ。彼女ははっきり言ったじゃないか。彼女は甚太を愛していない。彼女が愛しているのは自分なのだと。「鹿島さん、おはようございます」彼はゆっくりと袖口を整えながら、しゃがれ声で言った。「葉月を訪ねるつもりなら、やめておいた方がいいですよ。彼女はまだ寝ていますから」曖昧な言い方はどうしても想像をかき立ててしまう。さらに逸平の落ち着いた様子からも、その言葉はますます説得力があるように思
Read more
PREV
1
...
2526272829
...
31
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status