All Chapters of 私は待ち続け、あなたは狂った: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

逸平は眉を少し吊り上げ、その男をサッと一瞥し、軽蔑した口調で言った。「お前にはここで口を挟む資格はない」逸平が言い終わると、行人は手を上げて合図し、すぐに数人が個室に現れて、強制的に男たちを個室から退出させた。葉月は逸平の真意がわからなかった。逸平はだらりと背もたれに寄りかかり、手を伸ばしてそばにいる美女を自分の腕に抱き寄せ、浮ついた表情で葉月に言った。「人を簡単に連れて行けると思うなよ。もし連れて行ったら、それは佐村社長に逆らうことになる。お前はどう償うつもりだ?」玉緒はこの様子を見て、葉月に助けを求めたことを後悔した。もし自分のせいで井上さんが窮地に陥るなら、その時は自分を許せないだろう。「井上さん、もういいですよ……」「いや、もう人も連れてきて、一通り話すべきことも話した。今日このまま帰れると思うなよ。どうなるかは、お前たちが決めることじゃない」逸平はこう言いながら葉月をじっと見つめている。これは葉月への警告だ。葉月が一線を越え、口を開いた以上、逸平の要求に従うか、さもなくば葉月と玉緒は今日無事では帰れない。その場の空気は、息をするのも困難に思えるほど急に凍りついた。卓也は唇を舐め、状況を見るなりその場を取りなそうとした。「葉月さん、逸平はただ冗談を言っているだけですよ。この少女を連れて行っていいので、もう大丈夫ですよ」「冗談?」逸平は卓也を見て、冷たい声で言い放った。「いつ俺が冗談を言った?」卓也は一瞬たじろぎ、声を落として返事した。「逸平、そんな……」このままでは逸平と葉月さんとの関係はますます悪化するばかりだ。しかし、逸平の目には微塵の揺らぎもなく、逸平はただ葉月をじっと見つめていた。「葉月、俺がもしお前を助けてやったら、どうやってこの件について俺に償うつもりなんだ?」葉月と逸平の視線が交差したが、そこにはもはや見知らぬ他人同士のよそよそしさしかなく、かつてあった愛の片鱗もない。葉月は落ち着いた声で聞いた。「あなたはどうしたいの?」逸平は笑った。「簡単だ、二つ選択肢をやろう」逸平は葉月を見つめていたが、薄暗い照明の中なのか、逸平の表情は読み取りにくい。「一つ目は、目の前の瓶に入ったお酒を飲み干せ。そうしたらお前たちを帰してやる。二つ目は」逸平は言葉を少し止めて、葉月を数秒間黙って見つ
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第42話

どうやら井上夫人は井上社長にまったく愛されていないようだ。お酒が唇の端から漏れ、葉月の細く長い首筋を伝って服の襟元へと流れ込んだ。逸平は歯を食いしばり、首筋に浮き出た静脈が我慢の限界を示している。「もういい!」ガラスの割れる音と共に、逸平は突然立ち上がり、葉月の酒瓶を奪い取ると床に叩きつけ、お酒があたり一片に飛び散った。葉月はむせて激しく咳き込み、華奢な肩を震わせながら、目尻を赤くした。「全員出て行け」逸平は葉月を見つめていた。葉月の目は真っ赤になり、全身から恐ろしいほどの殺気が漂っている。玉緒は葉月が心配で個室に残りたかったが、行人に促されて出て行った。個室は一瞬にしてがらんとなり、葉月と逸平だけが残された。葉月は落ち着きを取り戻したが、足元はがふらつき、その場に崩れ落ちた。葉月は机に手をついて逸平を見上げながら聞いた。「逸平、一体どういうつもりなの?」逸平はローテーブルを回り込み、葉月の前にしゃがみ込むと、葉月の整った顔をじっと見つめた。「葉月、あの女はお前にとってのなんだ?お前があそこまでする価値があるのか?」喉が焼けるように痛く、葉月はまた咳き込んだ。逸平は手を伸ばして葉月の顎を優しく持ち上げ、自分を見つめさせながら低い声で問いただした。「教えてくれ、なぜあそこまでするんだ?」葉月の目は涙で潤んでいた。むせたせいで泣きそうになっていた。葉月の声は今にも消えそうなほど小さい。「玉緒は私にとって別に何でもない人よ。ただ……玉緒を見ていると、ある人を思い出すの」その人は、私にとってとても大切な人。葉月は逸平の手を払いのけた。逸平の顔はすぐそばにあるのに、とても遠く感じた。遠すぎて、かつて愛した逸平の姿が完全に見えなくなりそうだ。葉月のまつげは微かに震え、瞬きをすると、目にたまっていた涙が頬を伝って流れ落ちた。逸平の指先が微かに震えた。その流れ落ちた涙を、葉月自身の手で拭い去られるのを見つめた。「逸平」葉月の声はかすれている。「あなたはいつからこんな人になったの?」葉月の目に映った失望と恨みは、逸平の息を詰まらせた。まるで喉を締め付けられるような痛みを感じた。答えはもはや重要ではなかった。葉月は机に手をついて立ち上がった。逸平は無意識に葉月の手を掴もうとしたが、激しく振り払われた。ま
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第43話

卓也はずっと個室の入り口で待ち構えていた、卓也はどうしても葉月と逸平のことが気がかりでならなかった。葉月が無事に出てきたのを見て、卓也は安堵の息をついた。「葉月さん、大丈夫ですか?」葉月は首を振った。「大丈夫」葉月はさらにそばにいる玉緒を見て、近づいて行って上着を整えてやった。「もう大丈夫よ、行きましょう」玉緒の涙がぽろりとこぼれた。「井上さん……」玉緒は深く後悔している。全ては自分のせいで井上さんがこんな侮辱を受けたのだ。葉月は無理矢理淡い笑みを浮かべて、「泣かないで、大丈夫だから」と玉緒を慰めた。玉緒を連れて歩き出すと、葉月は考え直すように卓也の方を振り返って言った。「もし可能なら、逸平に釘を刺して欲しいの。もうこれ以上罪のない女の子を犠牲にして利益を得るようなことはしないでって」卓也はぽかんとした。どういう意味だ?逸平がいつ罪のない女の子を犠牲にして利益を得たって言うんだ。葉月はそれ以上何も言わず、玉緒の手を引いて去って行った。葉月は代行運転を呼び、則枝と玉緒を自分の家に連れて帰った。則枝が落ち着くのを見て、葉月は布団を掛けてあげた。葉月はドアを閉めてリビングを出た。玉緒はもうシャワーを浴びてきれいな服に着替えており、湯呑みを持ってちびちびと白湯を飲んでいた。葉月が出てくるのを見て、玉緒は「井上さん」と呼んだ。玉緒の瞳はきらきらと輝き、澄み切っていた。今もなお、幾分かの無邪気さとピュアさが相変わらず残っていた。葉月は思った。玉緒はこんな道を歩むべきではなかった。この道は複雑すぎる。葉月は気持ちを落ち着かせ、袖をまくりながら玉緒に聞いた。「うちには麺と少しの野菜しかないんだけど、よかったら温かい麺を作ってあげようか?」「何でもいいですよ、井上さん。好き嫌いとかありませんので」葉月は軽く笑い、キッチンに入った。葉月は手際よく、すぐに熱々の麺を一杯作った。「熱いうちに食べて」葉月はエプロンを外し、玉緒に声をかけた。玉緒は麺の上にたっぷりの具材と目玉焼きが載っているのを見て、心が温かくなると同時に目頭も熱くなった。葉月は玉緒の向かいに座り、尋ねた。「味はどう?」玉緒はひと口頬張ってから、「美味しいです!井上さん、本当に料理がお上手ですね!」と褒めた。葉月は笑みを
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第44話

葉月は言った。「私のお話、聞きたい?」籠原先生が言ったように、自分はすべてを自分の心に押し込めるべきではなく、誰かに打ち明けた方が良いのかもしれない。玉緒は頷き、「聞きたいです」と答えた。葉月は優しい声でゆっくりと語り始めた。「10年ほど前かな。寒い小さな町で、一人の少女がとある好青年と出会ったの……」詳しく語るなら、13年前にさかのぼる必要がある。井上家の出身地は千川市という小さな町だ。井上家はすでに栄ていた一の松市に根を下ろしていたが、それでも故郷への思いは心の奥深くに根を下ろしたままだった。やはり、古き根はそう簡単に忘れられるものではない。年配の人々にとってはなおさら、「落ち葉は根に帰る」という願いが強かったのだろう。故郷である千川市には常に井上家の親族の誰かしらはいて、逸平の祖父である泰次郎は、逸平の父である井上正臣(いのうえ まさおみ)が完全に井上グループを引き継いだ後、千川市に戻って余生を過ごすことを選んだ。14歳になるまで、葉月はほとんどの時間を海外で過ごしていた。葉月は父方の祖父母を早くに亡くしたため、葉月の記憶の中にある年長者は、母方の祖母だけだ。14歳になった年、葉月が急遽帰国したのは、母方の祖母が突然危篤になったからだった。そして葉月の母方の祖母の家も、ちょうど千川市にあった。千川市は気候が穏やかな場所だったが、葉月は今でもはっきりと覚えている。その年だけ格別に寒く、大雪が長く降り続き、町の隅々まで厚い雪で覆われていた。木々の枝には雪が積もり、葉月は初めて目の前に広がる銀世界を見たがあまり喜びを感じれず、ただ心が重く、まるで雪に埋もれた木の枝のように、息が詰まるほど苦しかった。母方の祖母の命はすでに尽きようとしており、今はただ必死に踏みとどまっているだけだった。葉月はそこで初めて、愛する人の死がどれほど苦しいことなのかをはっきりと感じた。千川市に来て3日目の夜、葉月は一人で病院から出た。空から舞い落ちる雪を見上げ、手を伸ばして一片の雪を受け止めた。掌に落ちた雪を見つめ、心の中で祈った。「溶けないで、どうか溶けないで」しかし、雪は徐々に溶け、手のひらにわずかな湿り気だけを残して消えていくのを目の当たりにし、葉月は涙を抑えきれなかった。それはまるで母方の祖母の死のように
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第45話

逸平は傘もささず、髪も肩も雪に覆われたままだった。雪は次第に溶け、逸平の髪を濡らした。額にかかった前髪はびしょびしょで垂れ下がっており、その顔つきを一層冷ややかに見せていた。逸平の背後にある街灯がぼんやりとした黄色い光を落とし、雪に包まれた夜をぼんやりと照らした。逸平の輪郭さえもかすんで見えた。逸平は淡いグレーのクルーネックのスウェットを着ていて、その上から羽織った黒い中綿ジャケットは前を少し開けたままだった。下はゆったりとしたダークカラーのジーンズで、足元の白いスニーカーの上には、自然な皺がいくつか折り重なっていた。ごく普通の服装のはずなのだが、逸平のすらりとした立ち姿と気取らない雰囲気のせいで、逸平の身に着けるものがなぜか格別に映えて見えた。逸平は片手をポケットに入れ、もう一方の手には袋を提げていた。さっき路地にある小さなスーパーで買い物をしたのだ。葉月が顔を上げた時、逸平は初めて葉月の顔をはっきりと見た。手のひらサイズの小さな顔は涙でいっぱいで、目も鼻も真っ赤だった。泣いたせいなのか、それとも寒さのせいなのか。雪が舞い落ち、少女のカールしたまつ毛にちょうど乗り、まつ毛はかすかに震えていた。ああ、隣に住んでいる浜田(はまだ)おばあちゃんの孫娘か。逸平は軽く笑い、「みっともない」と言った。葉月がまだぼんやりとしていると、目の前に新品のティッシュパックが差し出された。「これで拭きな」逸平のその笑いを含んだ、少しからかうような声が聞こえ、葉月は鼻をすすりそれを受け取った。「ありがとう」長く泣いていたせいで、葉月の声はかすれてしわがれていたが、本来持っている柔らかさはまだ残っており、それがかえって人をいとおしく思わせた。逸平もしゃがみ込み、葉月と目線を合わせた。逸平の整った顔が突然近づいてきたので、葉月は思わず後ずさりし、あやうく雪の上に座り込むところだった。幸い逸平は素早く反応し、葉月を引っ張って、雪の中に尻もちをつくのをなんとか防いだ。「はは」逸平は笑った。「俺が怖いのか?」葉月は思わず首を横に振り、「怖くない」と答えた。「怖くないのに、どうして逃げるの?」「知らない人が急に近づいてきたら、あなただって逃げるでしょ?」さっきまで柔らかい声でお礼を言っていたのに、今はかなり強い
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第46話

逸平は口を歪ませた。今度はまたおとなしくなったようだ。吹雪は次第に弱まり、辺りは静寂に包まれていた。こんな大雪の日だと、道には一台も車が走っていなかった。逸平の足が雪を踏む「キシキシ」という音だけが特に鮮明に響き、冬にしか奏でられないリズムのは、静かな空気の中にこだましていた。薄暗い街灯が二人の影を長く引き伸ばし、逸平の足取りはしっかりとしていて安定感があり、葉月を背負っていても、まったく苦にしている様子はなかった。逸平は聞いた。「君の名前は?」浜田おばあさんの孫娘だとは知っていたが、祖父の泰次郎は逸平に詳しくは話してくれなかった。そのため、浜田おばあさんが危篤状態にあるということと、それが理由で葉月たち家族が最近千川市にやって来たことしか知らなかった。あの日、逸平は一階で車の音がしたので、窓辺に寄りかかって下を見下ろした。ちょうど、真っ白なダウンジャケットを着て、しっかりと着込んだ少女の姿が見えた。葉月の声はまだどこか塞いだような響きがあった。「葉月。葉っぱの葉に、お月様の月」少年はフッと笑い、「何だその名前、本当に聞き苦しいなあ」とからかった。葉月は怒らず、淡々と返した。「あなたの話し方の方がもっと聞き苦しいわ」「……」逸平は言い返せず黙り込んだ。葉月は首を傾げて尋ねた。「じゃああなたは?あなたの名前は?」逸平は葉月が落ちないように、そっと抱え直して持ち上げて言った。「俺?」葉月は頷いた。「うん」「俺は逸平。逸材の逸に、平面の平だ」葉月は無意識に繰り返した。「逸平」逸平それに反応して、「何だよ」と言った。葉月は笑って、「別に、ただ呼んでみただけ」と返事した。逸平はそれ以上何も言わず、葉月をおんぶして一歩一歩家に向かって行った。逸平のまだ広くはない背中は、なぜか人の心を安らげるものがあった。家の前に着いて、葉月は初めて知った。逸平は隣の井上お爺ちゃんの孫だったことを。井上お爺ちゃんには前に会ったことがあった。とても優しい方で、葉月の母方の祖母と似ていた。母方の祖母の話では、井上お爺ちゃんが千川市に引っ越してきてから、近所の人たちはみんな井上お爺ちゃんのことが大好きで、親切で人当たりの良い人だそうだ。葉月は、井上お爺ちゃんの孫もきっと同じように良い人に違いないと思った。逸
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第47話

則枝は目を開けた途端、頭が割れて死にそうになるくらい痛かった。「目が覚めたのね」葉月は湯呑みをベッドサイドテーブルに置き、カーテンを開けた。則枝は遅ればせながら、今自分が葉月の家にいることに気づいた。「昨日、私を家まで送ってくれなかったの?」「あなたの家に送る?自分の家に帰ってそのまま野垂れ死にするの?それとも親元に送り返して、酔いつぶれた姿をあなたのお父さんに見せて、また説教されるのがいいの?」則枝は父親が怒鳴る時のあの殺気立つ様子を思い出し、内心ちょっとひるんだ。則枝も記憶が途切れ途切れで、テーブルの湯呑みを取って一口飲み、喉を潤してから葉月に聞いた。「私昨日酔っ払って変なことしてないよね?」葉月はベッドの端に座り、則枝を見つめながら目に笑みを浮かべ、少しからかうような表情をすると、則枝の心が少しざわついた。「そんな目で見ないでよ、まさか本当に恥ずかしいことしてないわよね?」葉月は首を振った。「恥ずかしいことはしてなかったけど、則枝が言ってたその『クソ野郎』って誰か、ちゃんと説明してくれない?」一晩中、則枝のスマホに連絡が来る電話とメッセージは途切れることなく、則枝が目を覚ます直前まで鳴り続けていた。その言葉を聞いて、則枝は思わず息を呑んだ。「ヤッベ」則枝は慌ててスマホを探すと、ベッドサイドテーブルで充電されていた。則枝がスマホを開くと、「クソ野郎」と登録された人物から20回以上の着信と、とんでもない量のメッセージが届いていた。【どこにいる?】【どうして電話に出ない?】【お願いだから、電話に出て】こんなメッセージばかり見てるうちに、則枝の頭痛はさらにひどくなった。葉月は興味深そうに則枝を見つめ、急かすこともせず、本当のことを話すのをじっと待っていた。則枝は急いでその人に返信した。【葉月のところにいるから、もうしつこく連絡してこないで】返信をした後、則枝はスマホをテーブルに伏せ、葉月に向かって気まずそうに笑った。「葉月、聞いて」葉月はうなずいた。「聞いてるわ」則枝は珍しく照れくさそうな表情を見せた。「最近アブナイ関係にいる人なの」「アブナイ関係?則枝、それは単なるアブナイ関係ではないでしょ」葉月が知ってる限り、則枝が言う単なるアブナイ関係なら、とっくに則枝から事細か
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第48話

食事をしていると、則枝はふと葉月が前に尋ねたピンクダイヤのネックレスのことを思い出し、興味深そうに聞いた。「そういえば、あのピンクダイヤのネックレス、誰から送られてきたのかわかった?」則枝に言われるまで、葉月自身もそのことを忘れかけていた。「いや、今でもクローゼットにしまったままだわ。誰から送られたのかわからないから、とりあえずそのままにしているの」則枝は気にしない様子で言った。「贈り物だと言うなら、あなたが着ければいいじゃない。すごくあなたに似合うと思うわ。相手もセンスがいいわね」則枝は考えれば考えるほど、誰かが葉月に片思いしているのではないかと思い始めた。しかし葉月には心当たりがない。「まあいいわ。私に写真を撮らせて、友達に聞いてみるから。このブランドのオーナーと知り合いの友達がいるの。何かわかるかもしれない」葉月はクローゼットからギフトボックスを取り出し、則枝に手渡した。則枝が開けてみると、実物は写真よりもずっと美しい。「本当に素敵ね。私が言うのもなんだけど、こんな贈り物をするなんて相手は本当に心を込めて選んだと思うわ」葉月はただ微笑むだけで、葉月にとっては出所不明のものはどんなに美しくても意味がない。ランチを終えると、則枝は眠いから家で仮眠をとるだけ言って、逃げるように帰って行った。しかし葉月は思った。仮眠は口実で、あの「クソ野郎」に会いに行くのが本当の目的だろう。*「葉月さん、ある女の子があなたを訪ねてきているよ」「女の子?」玉緒が目の前に座ると、七海の言った「女の子」が誰かようやくわかった。「どうやってここを知ったの?」葉月は玉緒に水を注いだ。「澤口社長のアシスタントに聞いたら、教えてくれました」玉緒は手に持っていた袋をテーブルに置き、中から箱を取り出して葉月に渡した。「井上さん、これは私の母が手作りしたクッキーです。どんなフレーバーが好きかわからなかったので、全部のフレーバーを少しずつ持ってきました」箱を開けると、中から甘いクッキーの香りが漂い、色とりどりのクッキーが整然と並んでいた。形も可愛らしく、見ているだけで食欲をそそられた。葉月は一つ取ってかじると、「おいしい」と言った。玉緒はわかりやすく喜び、「井上さんが気に入ってくれてよかったです。今度また持ってきま
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第49話

葉月のスタジオから藤華(とうか)大学まで車で10分もかからない。葉月は車を並木道の脇にしっかりと停め、シートベルトを外して玉緒と一緒に降りた。玉緒が葉月と別れようとした瞬間、葉月は突然玉緒を呼び止めた。「ちょっと待って」そしてトランクからスキンケアセットを取り出し、玉緒に手渡した。「これ、よかったら使って」玉緒はどうしていいか分からず、細い指で箱を握っては離し、「井上さん、本当にこればかりはもらえません」とためらっていた。玉緒の声は次第に小さくなり、長いまつげが瞼の下に影を落とし、その不安げな心をそっと隠していた。「もう十分すぎるほど助けてもらってます」「いいから受け取りなさい。化粧品ブランドからのサンプルで、使い切れないから。遠慮しないで」玉緒はまだためらっていて、やはり受け取るのは申し訳なさそうな様子だ。「いいから。年は離れてるけど、友達になってくれない?友達からのプレゼントだと思って」「でも私からお返しするものがないんです」葉月は車内を指さして笑った。「クッキーがお返しよ。お母様にもありがとうって伝えておいて、とても美味しかったわ」玉緒の目は熱くなり、今にでも泣きそうになった。「井上さん、本当に優しいですね」葉月は玉緒の頬をつねり、「さあ、早く行ってきな。何かあったらいつでも連絡して」と言った。「はい、井上さんさようなら。気をつけてお帰りください」「じゃあね」玉緒が校門に駆け込むのを見届けてから、葉月は帰ろうとした。不意に、見知らぬ人の胸にぶつかった。相手は素早く反応し、温かい手で葉月の肩をしっかり支え、爽やかな声で「すみません、大丈夫ですか?」と聞いた。葉月はすぐに距離を取ったが、見上げた先には澄んだ瞳がそこにあった。白いTシャツにジーンズを穿いた背の高い青年は、全身から活気が溢れている。葉月は愛想笑いをした。「大丈夫です」その笑顔に青年は耳まで赤くなり、無意識に首筋を触りながら言葉に詰まった。しかし、葉月が車のドアを開けようとした瞬間、その青年は勇気を出して言った。「お姉さん、俺とLINEを交換しませんか?」そよ風がその青年の額にかかった前髪を優しく撫で、ふっくらとした額と緊張でわずかに皺になった眉間を露わにした。葉月は少し驚いたように眉を上げ、その後軽く笑って
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第50話

杏奈は深く考えず、相変わらず逸平のそばでぺちゃくちゃ喋り続けた。「逸平さん、この後何か予定はありますか?用事がなければ一緒に食事でもどうですか?」「悪いが、時間がない」逸平は冷たく返事した。杏奈は一瞬呆然としたが、また言った。「ではいつなら都合がいいんですか?逸平さんにご馳走したいんです。今日藤華大学に来て講演してくれたこと、私たち本当に感謝してます!」「結構だ。藤華大学に来たのは大学側の招待であって、君とは関係ない。食事に誘う必要などもない」あまりにもあっさりと断られたため、杏奈はどう話を続ければいいかわからなくなった。運転手が車を寄せ、行人が降りて逸平のためにドアを開けた。「井上社長」逸平は何も言わず車に乗り込んだ。杏奈が後を追おうとしたが、行人に遮られた。「安井さん、申し訳ありませんが、井上社長はこの後お仕事が入っております」仕方なく、杏奈は逸平が去るのをただ見送るしかなかった。車に乗り込むと、行人は言った。「井上社長、この後はポエモニスタグループのディナーパーティーに出席して頂きます。今からお着替えをして向かえば時間的にちょうど間に合います」逸平は車窓を見ながら言った。「葉月が今日なぜ藤華大学に現れたのか、誰に会いに来たのか調べてくれ」行人は一瞬たじろいだが、すぐに「承知しました、井上社長」と答えた。一方、葉月の方はというと、道中ずっと則枝からのメッセージが途切れなく届いていたが、葉月は見もせず返信もしなかった。最後には則枝から直接電話がかかってきた。葉月は車を地下駐車場に停めてから、ようやく則枝の電話に出た。「葉月、どうしてようやく今電話にでたの?メッセージも返してくれないじゃない!」葉月はシートベルトを外し、後部座席に置いてあったバッグと玉緒から貰ったクッキーを手に取りながら言った。「さっきまで運転してたから」葉月は車のドアを開け、ハイヒールの音が広く静かな駐車場に響き渡っている。「そんなに急いで連絡してきてどうしたの?」則枝は窓辺にもたれ、別荘の庭で草木を手入れする作業員を見下ろしながら言った。「私が酔っ払ったあの夜に起こったことをどうして何も教えてくれなかったの?」則枝の口調は少し苛立っていた。卓也からの情報がなければ、葉月は一生自分に話さなかったかもしれない。卓也の野郎、自
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