夜の帳が静かに降りて、アトリエはしんとした闇に包まれていた。外では風が木の葉を揺らし、時おり窓を軽く叩く音がする。部屋の中央には、薄い布をかけたイーゼルと、先日梱包から戻ったばかりの作品たちが寄り添うように並んでいる。灯りはひとつ、窓辺のランプだけだった。淡い光が壁や天井に滲み、夜の気配と溶け合って、部屋全体を静謐な世界に変えていた。薫は窓際の椅子に腰を下ろしていた。ガラス越しの闇をぼんやりと眺めながら、新しいスケッチブックを膝の上に置いていた。紙の白さが、夜の中でいっそう際立つ。まだ何も描かれていないまっさらなページ。その余白の広さに、かすかな戸惑いと期待が同時に混じっていた。礼司がカップに熱いミルクを注いで運んでくる。湯気が二人の間でふわりと舞い、ミルクの香りがやさしく漂う。礼司は薫の隣に座り、黙って外の闇を見つめる。しばらくふたりは、何も話さなかった。窓の外をすべる風の音と、時折遠くで響く車輪のきしみ、街灯の淡い光――どれもがこの夜を守る静かな伴奏だった。薫はそっとスケッチブックの表紙を撫でる。そこには昨日までの作品の重みも、これまでの苦しみや迷いも、何ひとつ残っていない。ただ「これから」を描くための余白だけがある。「…この白さを見ると、少し怖い」薫はぽつりと呟いた。「これから描くものは、まだ誰にも見せたことのない、自分自身なんだと思う」礼司はしばし黙っていたが、やがて窓越しの夜空に視線を投げてから、柔らかく応じた。「なら、その扉を君と一緒に開けていきたい」薫は礼司を見つめ、微笑んだ。灯りが二人の間にやさしく広がる。窓の外では夜風がわずかに強くなり、ガラスがかすかに震える。スケッチブックの最初のページを、薫はそっとめくった。白い紙面が静かに現れる。その広さに、まだ何も描かれていないことが、希望にも不安にも感じられる。「…描いて
Last Updated : 2025-11-21 Read more