光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語 のすべてのチャプター: チャプター 51 - チャプター 60

62 チャプター

51.激情の雨

仮眠ベッドの上で、薫はゆっくりと横たわった。礼司の腕の中、シャツの袖から滴る水滴が、薫の首筋や鎖骨の上にひとしずくずつ落ちてゆく。濡れた髪が頬をくすぐり、薫は目を閉じてその感触を受け入れた。外の雨音はますます激しくなり、アトリエの天井や硝子窓を叩き続ける。ふたりだけの世界に、激しい雨音が脈打つように流れ込んでくる。礼司はもう、理性の残骸すら持たなかった。薫をベッドに押し倒すとき、背中で何かが剥がれ落ちていくのを感じた。これまで己を縛っていたもの――妻への義務、家族の面影、正しさや倫理の名をした外殻、それらがみな、雨のなかへ溶けて消える。薫の身体に触れたい、抱きしめたい、繋がりたい。その欲求は、もはや渇きというより痛みに近かった。礼司は濡れたシャツを脱ぎ捨てる。薫の手が、控えめに礼司の腕へと伸びる。指先はかすかに震えていたが、その震えが、ふたりの間に生まれる熱の証だった。薫は何も言わなかった。ただそのまま、身を委ねてくる。礼司は薫の胸元に口づけを落とす。肌に唇を触れさせるたび、雨の冷たさが一瞬遠ざかり、薫の熱だけが胸の奥で増していった。指が薫のシャツのボタンを外し、布地の隙間から滑り込む。薫の息がかすかに乱れる。濡れた指先が肌の上を辿るたび、そこだけが鮮やかに火照っていく。「……礼司さん」薫が、小さな声で礼司の名を呼ぶ。その響きが、礼司の身体の芯まで貫いた。礼司は薫の首筋に唇を這わせ、耳朶を軽く噛む。薫の背が小さく跳ねる。雨音がすべてをかき消してくれるから、礼司はもう何も恐れなかった。「もっと、……」薫がかすれた声で言う。礼司はその言葉に答えるように、薫の両肩をつかみ、身体を重ねる。薫の細い体躯は柔らかく、だが内側には確かな熱が灯っている。その熱が、礼司をすべて呑み込んでゆく。指先が、薫の肋骨、腰骨、太腿へとゆっくりと滑る。薫の肌は震えていたが、その震えごと、礼司は愛しさと欲望に変えていった。何度も唇を重ね、薫の汗と涙と、呼吸のすべてを受け止める。雨音はひるまず、天井を打ち続ける。激しく、熱っぽく、ふたりの息遣いに寄り添うようだった。礼司は薫の髪に指
last update最終更新日 : 2025-10-02
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52.雨のあと、熱のあと

ベッドの上に静けさが降りる。窓の外、雨はなおも細く、けれど確かに降り続けていた。礼司の背にはうっすらと汗が残り、薫の細い指先がその背筋をゆっくりと辿っている。互いの呼吸だけが、湿った夜気に混じって、アトリエという密室の奥まで染み渡った。礼司はしばらくのあいだ動けなかった。薫の上に覆いかぶさったまま、額を肩先に押しつけて息を吐いた。心臓はなお激しく跳ね、鼓動が脈打つたびに、自分がいまこの身体に還ってきていることを知る。かつて味わったことのない熱と、どこにも出口のない安堵。なによりも、胸の内に溢れかえる“欲しさ”だけが、奇妙なほど静かな陶酔となって、礼司のすべてを満たしていく。薫は身動きせず、ただじっと、礼司の髪を撫で続けた。細くて白い指が、雨に濡れたままの髪を何度も梳いていく。礼司は目を閉じ、その動きに身を委ねる。まるで、外の雨音さえ遠ざかってしまったかのように、ふたりの間には密度の濃い静寂が降りていた。やがて、薫の腕の中で礼司が微かに動く。額をそっと持ち上げて、薫の顔を見下ろす。薫の瞳は、もう何も問わなかった。濡れた睫毛、上気した頬、やわらかく開かれた唇。そのすべてが礼司を受け入れている。礼司は薫の頬に手を伸ばす。指先が薫の頬骨を辿り、熱に染まった肌をそっと撫でる。薫は目を細めて微笑む。雨の音は静かに続き、外の世界とアトリエのなかを完璧に隔ててくれる。罪悪感が、すべて消えていた。礼司はそれに気づいて、かすかに驚く。美鈴のこと、日常のこと、誰にも告げることのできない嘘や裏切りの痛み。それらはすべて、薫の肌の下に流れている血潮や、いま重なり合っている体温のなかに、溶けて消えてしまった。「薫」呼ぶ声は低く、濡れていた。薫が礼司の胸に顔をうずめる。その髪を、礼司は優しく梳く。何度も、何度も、そのぬくもりを掌に映す。薫の香りが鼻先をかすめ、記憶も思考も、すべてが淡く霞んでいく。「……大丈夫ですか」薫の声が胸の奥で響く。礼司は答えを探すまでもなく、ただ薫の額にそっと唇を押し当てる。「大丈夫だ。……薫がいれば」その言葉は本
last update最終更新日 : 2025-10-03
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53.沈黙の裂け目

朝の光は、薄い障子を透かして静かに食卓を照らしていた。美鈴は台所で湯気の立つ味噌汁を椀に注ぎ、焼き鮭と煮物を並べ、いつもと変わらぬ手順で朝食を仕上げた。箸の並びも茶碗の位置も、すべて微細な感覚で整える。礼司が席に着く気配を背中で感じながら、最後に急須で茶を注いだ。香ばしい湯気とともに、家中に朝の匂いが満ちていく。美鈴は、膝を折って座り、礼司の正面に茶碗を置いた。ふたりきりの朝食。普段ならば穏やかな空気に包まれるはずの時間が、今朝に限って妙な張りつめ方をしている。礼司は静かに「いただきます」と呟き、箸を取る。表情はいつも通りに見える。目の下に微かに残る寝不足の影も、わずかに窪んだ頬も、日常の疲労のせいかもしれない。だが、美鈴には分かった。――その眼差しの向こう側が、見たことのない遠さで曇っている。ふたりのあいだに置かれた白い食器。その上を、朝の淡い光が滑っていく。箸が椀に触れる音が、妙に大きく響く。湯気の向こう、美鈴は礼司の手の動きをさりげなく見つめた。箸の運びは端正で美しいが、ふとした瞬間に動きが止まる。魚の身をほぐすとき、普段ならすぐに口へ運ぶはずの箸が、今朝は中空で数秒も揺れている。「……礼司さん」美鈴は穏やかな声で呼びかけた。「お味噌、薄かったかしら」礼司は、はっとして顔を上げる。「いや、そんなことはない。ちょうどいいよ」だが、その声の調子もどこか遠い。礼司はすぐに目を伏せ、再び静かに箸を動かし始めた。美鈴の胸の奥に、小さな波紋が広がる。――これは、疲労のせいではない。彼の気持ちが、もうどこか違う場所に向いているのだ。美鈴は、湯呑みを手に取りながら、ふと自分の指先が微かに震えていることに気づいた。冷たい磁器の感触。手のひらに伝わる温度のむこう、心がじわじわと冷えていく。窓の外では、朝露が庭の葉を濡らしている。小鳥の声がかすかに聞こえ、炊飯器の保温ランプがぼんやりと赤く光る。そんなささやかな音と光さえ、ふたりの間に深い裂け目を感じさせる。「今日も……中原様のお宅に?」美鈴は問いかけるように言葉を継
last update最終更新日 : 2025-10-04
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54.花瓶に射す影

美鈴は、午前の静けさの中で庭へ出た。前夜の雨の名残りが葉先に光っている。空気はまだ湿り気を残し、足元の石畳にはかすかな冷たさがあった。朝食のあとの家事を終えた手で、花鋏を持ち、ゆっくりと白椿の枝を剪る。椿の花は雨に打たれて、いくつかは重たげに項垂れていたが、芯の強い一輪を選んだ。それを掌に包み、静かに廊下を渡る。美鈴は、居間の明るい窓辺に花瓶を置き、昨日の花を丁寧に抜いた。冷たい水を張り替え、切り口から微かな香りが立つ。そのとき、光がすうっと差し込んだ。ガラス越しの陽射しが、白椿の花びらと、澄んだ水をいっそう清らかに映し出す。花瓶の影が、机の上に長く伸びている。椿の白さと、水の透明さ。静かな光と、その反対側にくっきり落ちる影。美鈴はその対比に、理由のない胸騒ぎを覚えた。彼女は、椅子に腰を下ろした。誰もいない静寂の中、花瓶を見つめる。そこには、日常と非日常が混じり合う、曖昧な境界があった。白い椿は凛として美しいが、その影は濃く、長く伸びている。静かだった。掛け時計の音だけが、ひとつ、またひとつと刻む。美鈴は、今朝の食卓を思い返す。礼司の横顔。箸の揺れ。湯気のむこうで遠ざかるまなざし。沈黙の裂け目は、今も胸の奥に冷たい感触を残していた。思い返せば、些細な違和感はずっと前からあった。帰宅の足音がやや遅くなった日、声にわずかな翳りを感じた夜、ふと自分から視線を逸らす仕草。日々のなかで積もったそれらの断片が、今、ひとつの形になりかけている。椿の影を指でなぞる。細く、しかし確かな輪郭。その影の端に、指先が触れると、なぜか胸がざわつく。美鈴はゆっくりと目を閉じた。自分の呼吸の音が大きくなる。「――このまま、知らないふりはできない」呟きにもならぬ言葉が、胸の底で響く。怖かった。夫婦というものは、嘘を吐いてまで守るものなのだろうか。あるいは、何も問わずに平穏を装うことが、愛なのだろうか。美鈴は分からなかった。ただ、心の奥底から、「いまのままでは、自分が自分でいられなくなる」とだけ、はっきり感じていた。花瓶の水面が、光を受けてきらめく。椿の花は、ただ静かに、潔くそこに咲いている。その純白が、なぜか痛ましいほどに胸を打った。
last update最終更新日 : 2025-10-05
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55.雨上がりの対話

夜の空気は、雨上がりの湿り気を残したまま、静かに屋敷を包んでいた。障子の外では、まだ路地のどこかに水たまりが残っているのだろう。家中の隅々に、しんとした水の匂いが漂っていた。美鈴は客間の明かりを弱く灯し、卓上の硝子の燭台にゆらぐ炎を見つめていた。蝋のにおいと、畳に染み込んだ雨の残り香が静かに混じり合う。夜の帳が下りてから、二人きりで言葉を交わすのは久しぶりのことだった。礼司は書斎から戻り、何も言わずに美鈴の前に座った。濃い影が頬に落ちている。膝の上に重ねた手がわずかにこわばって見えた。美鈴はその指先をそっと見つめる。指先は、まるでどこか遠い場所に迷い込んでしまったかのように、不安定に揺れていた。ふたりの間に置かれた茶器から、細い湯気が静かに立ちのぼる。夜の静けさのなかで、ふたりの呼吸だけがゆっくりと重なりあう。雨上がりの空気は、外と内を隔てる障子をやわらかく湿らせている。灯りは淡く、卓の端にだけ優しい陰影を落とす。沈黙は、今夜だけは苦しさではなく、不思議と安らかだった。美鈴は、何度も心の中で言葉を繰り返してきた。「いま、このときを選ぶ」と自分に言い聞かせてきた。やがて、礼司がわずかに口を開いた。「……何か、話が?」その声音はかすかに掠れていた。美鈴は正面から礼司を見つめる。怯えも、怒りも、悲しみも、その目の奥にはなかった。ただ、受け入れるために選んだ静謐な強さだけが、静かに光っていた。「私は……もう知っているのです」声は小さく、しかし明瞭だった。礼司が、はっと息を呑む。「何を……?」問い返す声に、切羽詰まった響きはない。ただ、すでに逃げ場のない人間が、最後に見つめる景色のように静かだった。美鈴は一度だけ、視線を床に落とす。けれどすぐに顔を上げ、まっすぐに夫を見た。「あなたが……私以外の誰かを、心の底から求めていること。――それを、私は知っています」礼司の肩がかすかに揺れた。美鈴はその動きを、目の奥でじっと見つめた。
last update最終更新日 : 2025-10-06
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56.微笑みの証

朝の光が障子を透かし、廊下にやわらかな四角い模様を落としていた。縁側の木の床が陽射しで温まると、冷えた空気のなかに新しい一日の気配が満ちてくる。美鈴は早くから起き出し、台所で湯を沸かし、鍋に出汁を張り、味噌を溶いた。昨夜の雨は上がって、軒先から水滴がぽたりぽたりと落ちている。ふたり分の朝食を用意しながら、美鈴は動作ひとつひとつに注意深さを込めた。箸の先に鮭をよそい、湯気立つご飯を椀に盛る。家族のために何千回も繰り返してきた動きだが、今朝はそのひとつひとつが新しい意味を持っていた。やがて、礼司が静かに廊下を歩いてきた。昨日の夜の面影をまだ引きずったまま、顔色は少し冴えない。だが、その歩みに決意のようなものが宿っているのを、美鈴はすぐに感じた。ふたりは何も言わずに食卓につき、淡い朝の光に包まれる。湯気とともに立ち上る味噌の香りが、静かな部屋にやさしく広がる。「いただきます」礼司の声が、低く響く。美鈴はその声に、初めてほんの小さな安堵を覚えた。ふたりの箸の音だけが、食卓の上に規則正しく響く。時折、鳥の声が遠くから届く。椿の枝が風に揺れて、葉の影が障子に映る。美鈴は、向かいに座る礼司の横顔をじっと見つめていた。昨夜のすべてを経て、もう自分が「妻」であることも、「ひとりの女」であることも、恐れずに受け止められるようになっていた。「礼司さん、今日は……お帰りは遅くなりますか」ほんのりとした声で、美鈴は尋ねた。礼司は一瞬、箸を止めてから、「……多分、遅くなると思う」と、静かに答える。その声に嘘はなく、むしろどこか澄んだ響きがあった。「分かりました。お気をつけて」美鈴はそれ以上、何も問わなかった。疑いも、詮索も、求めなかった。ただ、夫が出発するこの朝のすべてを、心の奥深くで見届けている。朝食を終え、食器を片付ける音が台所に移る。湯のみをすすぎ、手を拭うと、朝の光が硝子越しに差し込んだ。美鈴は窓際に立ち、庭の椿の白い花に目を向ける。昨日までの自分なら、夫を問い詰めることでしか埋まらない隙間があったはずだ。だが今は、違っていた。全てを知
last update最終更新日 : 2025-10-07
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57.静かなる圧力

障子越しの光が居間の畳に淡く落ちている。早朝の家は、まだ冷え残った空気に包まれ、炊き立ての米の湯気と、味噌汁の香りが静かに広がっていた。食卓には三つの膳が並び、その中心に座る早川惣右衛門の背筋は、朝の空気よりもさらにぴんと張りつめていた。惣右衛門は無駄な言葉を嫌う人間だ。その沈黙には、いつも何かを問う鋭さがあった。今日の朝食も、箸の音と茶碗の音、そして微かな湯気の立ち上る音だけが流れている。美鈴は礼司の隣に控えめに座り、白椿のように楚々とした佇まいで、静かに膳を進めていた。「……最近、屋敷が静かだな」惣右衛門の声が、障子の外の風よりも低く重く響いた。その一言で、食卓の空気が一段、重たくなる。礼司は箸を置く動作を一瞬だけ止め、すぐに持ち直す。美鈴は変わらぬ微笑みを唇の端に浮かべたまま、小さく首を傾ける。「ご不自由をおかけしていませんか」美鈴の声は柔らかく、だが芯のあるものだった。惣右衛門はその声に直接返すことなく、ゆっくりと茶をすする。「家というのは、ただ静かに在ればよいというものでもない。……賑わいがあってこそ、血が通う」それはつまり、子のいないこの家を指していることは明白だった。礼司は言葉を探して喉を動かしたが、結局何も出てこなかった。惣右衛門は視線を正面に据え、少しだけ顔を上げる。「礼司。お前もそろそろ二十五歳に近い。……家の跡目のこと、考えたことはあるか」その問いは、まるで釘を打ち込むように、静かだが重くのしかかる。美鈴の手がわずかに震えたのを、礼司は横目で見て取った。「……はい」礼司は小さく答えた。それだけで胸が締め付けられる。「美鈴も、体調はどうだ。最近は無理をしていないか」惣右衛門は美鈴にも視線を移す。その目には、情よりも家を存続させる意志のほうが強く宿っている。美鈴は微笑みを崩さず、丁寧に膝を揃えた。「ご心配には及びません。身体は、元気でございます」その声には揺らぎがない。だが、心の内側では、どこかに
last update最終更新日 : 2025-10-08
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58.交わらぬ視線

障子を隔てて父の足音が遠ざかると、居間の空気はわずかに緩んだ。しかし、それは息苦しさからの解放ではなく、芯まで沁み込む重い余韻だった。食卓に残されたふたり、礼司と美鈴は、まるで細く裂けた畳の目地の上にそれぞれ腰かけているような感覚だった。膳の上の湯飲みからは、まだ微かに湯気が立ちのぼっている。美鈴は正しい所作で箸を置き直し、両手を揃えて膝の上に置いた。その手指には朝の冷気がしみていた。礼司は目の前の白米に箸を伸ばすが、米粒がやけに遠く思える。何か言葉を発すべきか、あるいは何も言わずにおくべきか――そのどちらも、今日の自分にはできない気がした。静けさの中、食器の縁が微かに合わさる音がした。美鈴が茶碗を持ち上げるとき、その指先の動きがほんの少し震えていることに礼司は気づく。それでも美鈴は視線を上げない。ふたりの目線は、食卓の上に置かれた器や箸や、わずかに残った味噌汁の色にだけ向けられている。「……冷めてしまいましたね」美鈴がぽつりと呟く。けれど、その声には普段の柔らかさがなかった。微かな濁りが混じり、部屋の隅に響いて消える。「……ああ」礼司は短く返す。続けて言葉を探したが、唇はただ無意味に動くだけだった。美鈴は少し首を傾けるが、視線はまだ膝に落としたままだ。二人の間には、明確な“問い”がある。けれど、それを口にした途端、何かが取り返しのつかない形で崩れ落ちてしまう。そんな予感が、静かに食卓の隅を満たしていく。庭の方から、雨粒が縁側の木を打つ音が聞こえてくる。今日は薄曇りで、障子越しに淡い光が部屋を満たしているが、その光は決して温かくなかった。どこか、すべてが灰色に沈んでいる。美鈴はふと、障子の向こうに揺れる葉陰を見つめる。その瞳は深い湖面のように静かで、底知れぬ思いを湛えていた。「……お義父様のこと、お気になさらないでください」ようやく美鈴が言葉を紡いだ。だが、その声音にはどこか、自分に言い聞かせる響きがあった。「俺は……」礼司は続けかけて、
last update最終更新日 : 2025-10-09
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59.揺れる影

夜の帳が下り、早川家の廊下にはわずかな足音さえ響かない。家人はすでに眠りについたはずだったが、礼司の部屋の障子だけは、深い闇の中にわずかに灯りを滲ませていた。書斎の机上には油を満たした行燈が置かれ、細く揺れる炎が、書付や本の端、手紙の束、礼司の硬く握られた手の甲に長い影を落としていた。礼司は椅子の背に身をあずけ、天井を仰ぐ。窓の外からは虫の音さえ聞こえず、ただ心臓の鼓動と、呼吸音だけが静かに部屋を満たしている。昼間、父の口から発せられた「家」の言葉が、いまも耳の奥にまとわりついて離れない。家督、血筋、跡継ぎ——そのいずれもが、今の自分にとっては氷のように冷たく、重い鎖となって背中に絡みついている。書斎の壁には家族写真が静かに並ぶ。義父の厳格な横顔、美鈴の優しい微笑み、自分の静かな顔。だがそのどれもが、いまの自分とはまるで別人のようだった。あの日、父の静かな口調で語られた言葉が、肉体の芯まで染み渡っている。「家の名は、血でつながれるものだ」礼司は、その言葉を何度も反芻しながら、机の上に置かれた手紙の束を指先でなぞる。筆先が紙に引っかかる感触、乾いた羊皮紙の匂い。指の間に残るのは、ただ“家”という呪縛の手応えだけだった。けれど、意識の底には、別の熱が絶えず燃え続けていた。薫。柔らかな髪、無垢な瞳、火照った唇、細く長い指先。あの夜の温度と香り、互いの肌が触れ合うたびに確かめ合った快楽の残像が、心の隙間に幾重にも重なっている。自分はどちらへ進むべきなのか——その答えは、夜が更けるほどに曖昧になる。家の名と、個人の幸福と。どちらかを選べば、必ず何かを切り捨てることになる。その思いが、礼司の胸を何度もえぐる。障子の隙間からわずかに流れ込む夜気が、足元にまとわりつく。白椿の花瓶が机の隅に置かれており、その花弁の影が灯火の揺れとともに、壁に大きく伸びていた。揺れる花の影と同じように、礼司の心も、強い葛藤に飲み込まれていく。父の言葉が、再び頭の中で甦る。「家を絶やすな」——それは脅しではなく、静かな命令だった。美鈴の苦悩を思うたび、礼司は自分の不実を呪いたく
last update最終更新日 : 2025-10-10
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60.夜明け前の選択

夜明け前の寝室は、息を潜めたように静まり返っていた。障子越しの闇はまだ濃く、空がほんのりと白み始める気配すら見えない。掛け布団の下に潜むぬくもりだけが、現実の輪郭を辛うじてつないでいた。美鈴は仰向けのまま、まぶたを閉じても一向に眠気が訪れない。身じろぎさえためらわれるような沈黙の中で、彼女は呼吸を整えながら、遠い昔の夢のような安らぎを思い出していた。あのころの自分は、ただ夫の隣で目を閉じるだけで未来がすべて約束されていると信じていた。いま、布団の下で握りしめた自分の指は冷たく、身体の中心にぽつりと穴が開いてしまったような感覚に襲われている。隣の布団には、礼司が背を向けて静かに横たわっていた。その肩越しに、ゆるやかな呼吸の起伏が見て取れる。眠っているのか、眠ろうとしているだけなのか。どちらにせよ、彼の心が自分のほうへ向いていないことだけは、確かな直感で分かっていた。時折、外の木々が風に揺れるかすかな音が、夜気とともに障子の隙間から流れ込む。美鈴は、手をそっと布団の上に置き、静かにその温度を感じる。やがて目を開けて天井を見つめた。暗闇の中で、夫婦という形の輪郭がぼやけていく。家のために、妻として、嫁として、過ごしてきた日々。その先に“未来”と呼べるものは本当にあるのだろうか。心の中でそっと呟く。「私は、もう知っているのです」——昼間、礼司に告げたあの言葉。真実に形を与えたことで、苦しみと同時に奇妙な解放感も訪れていた。何を選ぶのか、もう自分では決められない。だから、美鈴は静かにその決定を夫に託すことにした。ただ、最後に残された「信頼」だけを手放さずに。ふいに、礼司が寝返りを打つ音が聞こえた。美鈴は息を止め、彼の背中を見つめる。寝具の擦れる音、浅い呼吸、そしてたったいま、夫の視線が壁の向こう側にあることを、痛いほど感じていた。美鈴は自分の心臓の音が聞こえてしまうのではないかと不安になる。その音に耳を澄ませると、孤独と、ひりつくような諦念が体の内側に広がっていった。礼司もまた、まどろみのふりをしながら眠れていなかった。眼を閉じるたびに、父の言葉と薫の指先、そして美鈴の微笑みが交互に浮かんでは消える。「家のために生きる」ことが、
last update最終更新日 : 2025-10-11
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