夜明け前の庭は、まだ夜の名残を引きずるように静かだった。早川家の敷地は広く、手入れの行き届いた樹木や植え込みが薄暗い空に黒々と影を落としている。礼司は薄い羽織を一枚肩にかけ、しんとした空気の中を歩いていた。草の露は、まだ夜気を含んで足元をしっとりと濡らす。冷たさが皮膚を刺し、頭の芯までも冴え冴えとする。礼司はゆっくりと呼吸を整えながら、歩みを止めた。見上げれば、東の空がごくわずかに白んでいる。すぐそばに植わる松の枝が静かに揺れて、葉擦れの音がかすかに耳をくすぐる。その音を頼りに意識を庭の隅々まで巡らせる。彼の心は波立っていた。何度も何度も繰り返し考えてきたことが、今この朝、はっきりと決断の輪郭を持ち始めていた。自分は家の長男として生まれ、早川の名を継ぐべきだと誰もが思っていた。美鈴との婚姻も、家の格や将来を見据えて親の意向に従った。父の惣右衛門は一代で家を大きくした人物であり、その威厳と期待は重く、常に彼の背を押しつけてきた。けれど、その期待と重圧は、長い時間をかけて礼司の心に小さな裂け目を生み、ついには、どうしようもない痛みとなって根を下ろした。ふと、礼司は美鈴の面影を思い出した。物静かな微笑みと、決して声を荒らげることのない穏やかな語り口。誰よりも聡明で、誰よりも“家”に尽くしてきた女性。美鈴のために自分は何ができただろう。彼女を幸せにしたいと何度も思いながら、そのたびに“家”という重しにすべてを覆い隠されてきたような気がする。そして、薫。薫の存在こそが、礼司の心に決定的な変化をもたらした。美鈴との日々とはまったく異なる、息苦しさも規範も存在しない場所。薫と過ごす時間は、まるで自分が自分でいられる唯一の現実だった。だが、その幸福の裏には、確かな罪悪感と、逃げ道のない責任の意識があった。誰かを救い、誰かを傷つけずに生きることなど本当にできるのか――そんな問いが、礼司の胸を締めつけ続けてきた。夜明けの空は、淡い水色を増し始めていた。冷たい風が吹き抜け、頬に触れる。その感触は、彼の思考に輪郭を与える。迷いの霧が少しずつ晴れていく。自分は、父のようにはなれない。家のためだけに自分の心を閉ざし、すべてを耐え抜くことはできない
最終更新日 : 2025-11-01 続きを読む