光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語 のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

104 チャプター

81.揺れる決心の朝

夜明け前の庭は、まだ夜の名残を引きずるように静かだった。早川家の敷地は広く、手入れの行き届いた樹木や植え込みが薄暗い空に黒々と影を落としている。礼司は薄い羽織を一枚肩にかけ、しんとした空気の中を歩いていた。草の露は、まだ夜気を含んで足元をしっとりと濡らす。冷たさが皮膚を刺し、頭の芯までも冴え冴えとする。礼司はゆっくりと呼吸を整えながら、歩みを止めた。見上げれば、東の空がごくわずかに白んでいる。すぐそばに植わる松の枝が静かに揺れて、葉擦れの音がかすかに耳をくすぐる。その音を頼りに意識を庭の隅々まで巡らせる。彼の心は波立っていた。何度も何度も繰り返し考えてきたことが、今この朝、はっきりと決断の輪郭を持ち始めていた。自分は家の長男として生まれ、早川の名を継ぐべきだと誰もが思っていた。美鈴との婚姻も、家の格や将来を見据えて親の意向に従った。父の惣右衛門は一代で家を大きくした人物であり、その威厳と期待は重く、常に彼の背を押しつけてきた。けれど、その期待と重圧は、長い時間をかけて礼司の心に小さな裂け目を生み、ついには、どうしようもない痛みとなって根を下ろした。ふと、礼司は美鈴の面影を思い出した。物静かな微笑みと、決して声を荒らげることのない穏やかな語り口。誰よりも聡明で、誰よりも“家”に尽くしてきた女性。美鈴のために自分は何ができただろう。彼女を幸せにしたいと何度も思いながら、そのたびに“家”という重しにすべてを覆い隠されてきたような気がする。そして、薫。薫の存在こそが、礼司の心に決定的な変化をもたらした。美鈴との日々とはまったく異なる、息苦しさも規範も存在しない場所。薫と過ごす時間は、まるで自分が自分でいられる唯一の現実だった。だが、その幸福の裏には、確かな罪悪感と、逃げ道のない責任の意識があった。誰かを救い、誰かを傷つけずに生きることなど本当にできるのか――そんな問いが、礼司の胸を締めつけ続けてきた。夜明けの空は、淡い水色を増し始めていた。冷たい風が吹き抜け、頬に触れる。その感触は、彼の思考に輪郭を与える。迷いの霧が少しずつ晴れていく。自分は、父のようにはなれない。家のためだけに自分の心を閉ざし、すべてを耐え抜くことはできない
last update最終更新日 : 2025-11-01
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82.弟との語らい

障子の向こうから、朝の光がふんわりと和室に差し込んでいた。早川家の離れは母屋よりも静かで、ここだけは時間の進み方がゆるやかに思えた。礼司は、まだ食卓の気配も動き出す前のしじまの中で、晴臣を呼んだ。ふたりきりで、誰にも邪魔されずに話がしたかった。和室の畳の上に静かに座り、手元の湯呑みに指先を添えた。湯呑みの底には、ぬるい茶の香りがわずかに残る。やがて、障子がすっと開く音がして、晴臣が顔を覗かせる。弟の姿は昔から変わらない。穏やかな目元、几帳面な身のこなし。子どもの頃は兄の後ろを一歩下がってついてきた少年が、今は一人の大人としてそこに立っている。その変化に、礼司はどこか不思議な感慨を覚えた。「兄さん、こんな朝早くにどうしたんだい」晴臣が小声でそう言いながら、礼司の向かいに静かに座った。膝を崩すこともなく、背筋を伸ばして座るその姿勢には、育ちの良さと緊張感の入り混じった気配があった。礼司は、弟の顔を正面から見つめた。どう切り出すべきか、昨夜から何度も考えてきた。しかし、もう迷っている場合ではない。静かな決意が、声の奥に染み渡る。「晴臣……今日は少し、兄としてじゃなく、早川家の一員として君に話をしたい」静かな声に、晴臣が目を見開く。しかし動揺を隠すように、すぐに表情を引き締めて頷く。「聞かせてほしいよ、兄さん。何があったんだい」礼司は深く息を吸った。朝の空気が肺を満たし、喉の奥がひんやりと冷える。それでも言葉にすることで、ようやく本当の決心が自分のものになる気がした。「俺は……家督を継ぐことができない」言葉は淡々としていたが、静かな衝撃が部屋に広がった。晴臣は一瞬、呼吸を止めたようだった。けれど、すぐに兄の表情に宿る真剣さを受け止め、余計な詮索をせずに待ってくれる。礼司はその沈黙に救われた気がした。「美鈴とは、もう……夫婦でいられなくなったんだ。家のためだけに、自分や彼女を縛ることが、これ以上はできない。それに、俺には……」薫の名を喉元まで出しかけて、唇をかみしめる。こ
last update最終更新日 : 2025-11-02
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83.父の威厳、子の選択

重い扉を押し開け、礼司は早川家の書斎に足を踏み入れた。室内には古びた本棚が壁を覆い尽くし、重厚な机と革張りの椅子が部屋の中央に鎮座していた。障子越しの光が埃の粒を照らし、長い歴史を刻んできた家の空気が、朝の静寂に満ちていた。惣右衛門はすでに机の向こうで背筋を伸ばし、黙然と息子の到着を待っていた。白髪交じりの髪と鋭い眉、眼差しには長年家を率いてきた者の厳しさがあった。机の上には、手入れの行き届いた万年筆と分厚い帳簿。礼司が入ってきても、一瞬もその姿勢を崩すことはなかった。礼司は一礼し、机の前の椅子に腰を下ろす。その動作ひとつとっても、父の前では未だに少年に戻ってしまう気がする。襟元にまとわりつく冷気、畳の上を歩く足音の反響。父の部屋だけは、どこか他人の家のように感じられた。沈黙がしばらく続いた。やがて惣右衛門が重い声を落とす。「……晴臣から聞いた。お前は本気で家督を手放すつもりか」その言葉は、鋭い刃のように空気を裂く。礼司は、手のひらに冷や汗がにじむのを感じながら、正面から父の目を見つめた。逃げてはならない。今度ばかりは、自分の意志を言葉にしなくてはならない。「はい、父さん。俺は、家を継ぎません。晴臣に任せたいと、もう伝えました」父の眉がわずかに動いた。怒り、あるいは困惑、その奥底には親としての悲しみもにじむ。惣右衛門は万年筆を指先で転がしながら、深く息をついた。「家の責任から逃げるのか。長男としての自覚も忘れたのか。お前にだけは、そうなってほしくはなかった」その声はかつてのような威圧感を湛えつつも、どこかに苦しみが混じっていた。礼司は、父の苦悩を感じ取りながら、それでも譲れないものがあることを静かに言葉にした。「俺は……もうこれ以上、自分の心に嘘をついて生きていくことができません。家を守るために、人を傷つけたり、自分自身を壊したりしたくないんです」惣右衛門は机越しに息子の顔をじっと見つめていた。沈黙がさらに部屋を満たす。書棚の隙間から差し込む陽光が、礼司の顔を半分だけ照らしている。「家を継ぐのは…&he
last update最終更新日 : 2025-11-03
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84.新しい風

父と向き合った朝の張り詰めた空気は、昼下がりの光に少しずつ溶かされていった。書斎の重い扉をそっと閉めて、礼司は深く息を吐いた。背中に残る父の視線はもう、これまでのように重くはなかった。冷えた指先を軽く組み、廊下へと歩を進める。床板の木目が、ゆるやかに日差しを受けている。長い緊張のあと、家の中の空気がどこか新しく澄んでいるように感じられた。廊下の角を曲がると、使用人たちの控えめな足音や遠くで鳴る戸の音が、日常の鼓動として静かに響く。窓の外には初夏の青空、木々の葉が細かく揺れ、開け放たれたガラス窓から、かすかな緑の匂いと涼しい風が吹き込んでくる。これまで何度も歩いた家なのに、今だけは違う場所に迷い込んだような心地がした。応接間の前を通ると、中から柔らかな笑い声が聞こえてきた。ふと立ち止まり、障子の隙間からそっと中をうかがう。そこには、弟の晴臣が家人や親戚たちに囲まれ、穏やかな表情で言葉を交わしている姿があった。晴臣の所作は落ち着いていて、集まった人々の視線を自然と引きつけている。晴臣の声は低く、しかし親しみやすく、難しい話も冗談めかして和らげている。「晴臣様、これからはどうぞよろしくお願いします」「兄さんがいなければ、ここまで来られませんでしたから」礼司は、その会話の一片を耳にしながら、自分がいま本当にすべきことを知った気がした。自分が背負うべきだった役割を、誰よりふさわしい弟が受け継ぐ。その事実が、胸の奥にあたたかくしみ込んでいく。重荷を下ろした安堵と、失ったものへの淡い喪失感。そのふたつが、ゆっくりと溶け合っていった。部屋の中から、幼い姪や甥が晴臣の膝元に駆け寄り、彼の手を引く。笑い声とざわめきが、障子を通してやわらかに広がった。家の空気が、少しずつ、確かに変わり始めていた。礼司は、ふたたび廊下を歩き出す。壁に飾られた先祖の肖像画、床の間の活け花、家紋入りの屏風。そのすべてが、いまは過去の一部として静かに自分を見守ってくれている気がした。ふと立ち止まり、しばらくその空間の静けさに耳を澄ませる。光と影が交錯し、季節の変わり目を告げる風が、遠くの窓を揺らした。自室の戸を開ける。誰もいない部屋には、午下がりの光が斜めに差し込んでいる。机の上
last update最終更新日 : 2025-11-04
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85.兄弟の未来

夕暮れが近づくと、早川家の邸内はゆるやかな静けさに包まれていった。長い一日が終わりに差しかかり、庭の松や紅葉の枝が、西に傾く光を受けて柔らかく影を落とす。どこからともなく草いきれが漂い、うす桃色の雲が空の端をゆっくり横切る。門前の石畳は微かに湿り気を帯び、踏みしめるたび、遠い記憶が足元から立ち上がるようだった。礼司はゆっくりと歩きながら、手に残るわずかな緊張を意識していた。昼間の対話、父の書斎で交わした言葉、家族の変化――すべてが終わったわけではなく、今まさに「新しい何か」が始まろうとしている。門のそばで待っている晴臣の姿が目に入ると、礼司の足取りは自然と軽くなった。晴臣は門の柱にもたれ、淡い夕陽を受けている。白いワイシャツの袖を無造作にまくり上げ、庭の草花をじっと見下ろしていた。その横顔は、かつての無邪気な弟ではなく、どこか大人びた責任感と静かな自信に満ちている。気配に気づいた晴臣がゆっくり顔を上げ、微笑んだ。「兄さん、来てくれると思ってた」その声に、礼司は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。ふたりきりで立つ門前の空気は、これまで幾度となく一緒に歩いた帰り道の記憶を呼び起こす。しかし今日だけは、どこか違う重さと解放感に満ちていた。「ちょっと歩かないか」晴臣がそう言い、門を背にして小道に並ぶ。並んだ背丈の影が長く伸び、遠ざかる夏の名残をなぞるようだった。二人とも、特別なことを言うつもりはなかった。ただ、今日が新しい分岐点になると、お互いに静かに分かっていた。しばらく歩き、古い石垣のそばに腰掛ける。晴臣が先に口を開く。「兄さんは、やっぱり昔から変わらないな」その言葉に、礼司は小さく息をつく。遠くの空を仰ぐと、梢越しに薄青い月が顔を覗かせていた。「そうかもしれない。でも、晴臣もずいぶん大人になった」「家を継ぐこと、ずっと怖いと思ってた。けど、兄さんの話を聞いたら、少しは自分にもできるんじゃないかって……いや、やってみたいと思えた」晴臣の横顔は、懸命な思いと、まだほんの少しの幼さを残していた。それでも、礼司には頼もしく映った。自分が長いあいだ抱えてきた
last update最終更新日 : 2025-11-05
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86.解放

道に迷うことはなかった。けれど、足は迷っていた。雨の上がった石畳に、夜の灯がぼんやりと滲んでいた。灯火は静かに揺れ、影だけが細く長く路地を這っていた。礼司はその影の先に、ずっと胸の奥で描いていた小さな扉を見つける。木の扉、黒く塗られた表面には雨粒の名残が微かに光っている。この戸の向こうに薫がいる。そう思うだけで、心臓が胸の奥で堅く鳴った。手を上げようとして、途中で止まる。拳を握り、もう一度開く。何を躊躇っているのか、自分でもわからない。すでにすべてを捨てたはずだった。名前も家も、背負ってきたものすべて。だというのに、扉一枚を前にして、足が竦んでいた。そのとき、扉の内側で何かの気配が動いた。木の軋む音。取手の金属がわずかにきしむ。そして扉が、音もなく開いた。薫が立っていた。裸足のまま、薄手のシャツに羽織った上着をかけて。髪は少し湿っていて、額にかかった一房が彼の目元の陰を濃くしていた。灯の位置のせいか、瞳が深い水面のように光って見えた。礼司は声を出せなかった。薫も何も言わなかった。ただそこに立ち、礼司の姿を見つめていた。その眼差しには、喜びと、そしてそれ以上に長い時間にわたって抱えてきた不安の痕跡が滲んでいた。礼司は数歩、足を進めた。そして、雨に濡れた戸口の敷居を前に、足を止めた。「…来てもいいか」声はかすかだった。だが、確かだった。薫は答えなかった。ただ、ゆっくりと腕を伸ばした。手のひらが夜の空気を割って差し出される。その指先は少し震えていて、けれどためらいの色はなかった。礼司は、その手を取った。柔らかな手だった。冷たさも、湿り気も、すべてが現実だった。敷居をまたいだ瞬間、背後の世界が遠ざかった。扉が閉じられた音は静かだった。それなのに、礼司の心には、それが雷のように響いた。閉じられた。もう戻れない。それは恐怖ではなく、解放の音だった。アトリエの中は、あたたかかった。小さな暖炉が赤く灯り、室内にやさしい陰
last update最終更新日 : 2025-11-06
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87.確かめる手

礼司は椅子に腰を下ろした。薫のアトリエの中央、小さなカーペットが敷かれた空間に、丸みを帯びた背もたれの椅子が二つ向かい合わせに置かれている。壁際には描きかけのキャンバス、色を混ぜたパレット、洗いかけの筆、どれもが静かな夜に溶け込んでいた。ランプが一つ、低い位置で灯っている。その光がキャンバスに反射して、室内に柔らかな陰影を作っていた。明るすぎず、暗すぎず、夜の中に浮かぶ絵のような空気。薫はすぐ隣の椅子に座った。姿勢は礼司より少しだけ前傾していて、視線を逸らさないようにしながら、けれど何かを言い出せずにいる。言葉が渇いていた。それはどちらにとっても同じだった。礼司は自分の膝の上に視線を落とした。右手の指先が微かに動く。薫の手を取ろうとしているのか、それとも動揺を押し隠そうとしているのか、自分でもわからなかった。「…静かだな」沈黙を破ったのは礼司だった。「君のアトリエは、いつも静かだったか」薫は笑みのようなものを口元に浮かべた。だが、その笑みは儚いもので、すぐに溶けた。「音を、遮ってるんです。壁の中に詰め物をして。筆の音しか、響かないように」「筆の音、か」礼司はそう呟いて、そっと顔を上げた。薫の手が膝の上に置かれている。その指先は細く長く、節も目立たず、絵筆を握るために生まれたような手だった。礼司は、静かに手を伸ばした。触れるまでに、数秒のためらいがあった。だがその手に指先が触れた瞬間、胸の奥に小さな波が立った。柔らかくて、少しだけ冷たい、薫の指。薫は顔を伏せた。礼司の手を受け入れたまま、肩がわずかに震えた。「…こんなふうに触れ合うの、いつ以来なんでしょうね」「ずっと、触れたかった」礼司の言葉は低く、途切れがちだった。「…けれど、触れられなかった。怖かったんだ、たぶん」「怖い…ですか」
last update最終更新日 : 2025-11-07
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88.ほどける心、重なる影

薫の頬に指先が触れたとき、礼司の内側で何かが静かにほどけた。それは時間だった。これまで剥がせずにいた過去の頁が、一枚ずつ湿った空気の中で柔らかくめくられていく。薫の瞼がふるえ、礼司を見上げる。灯りが彼の瞳に映り、深い翳を抱いたような影が頬に落ちた。礼司はその顔に、そっと口づけた。「…ん」微かな吐息が唇の隙間から漏れる。触れた唇はまだ遠慮がちで、触れるというより、確かめ合うような重なりだった。だが、二度目の口づけは少しだけ深く、そして三度目には、息が混じり始めていた。薫の肩に回した手が、無意識に力を帯びていた。薫もまた、礼司の背に腕を回し、肩甲骨のあたりをすっと撫でる。「…こんなふうに…なるって、思ってた?」薫が、途切れ途切れに言った。「いや…でも、望んでいた」礼司の声は低く、熱を含んでいた。キスは繰り返され、そのたびに角度が変わり、深さが増していく。舌先が探り合い、唾液が熱を持ち始め、呼吸が肌にかかるほど近づく。薫の背中を伝っていた礼司の手が、裾にかかる。ためらいのような沈黙が一瞬あったが、次の瞬間にはシャツの中に指が滑り込んでいた。薫の肌は薄く、ぬるく、微かに汗ばんでいた。その温もりに触れた礼司は、深く息を吸った。「君の体は、…もう誰のものでもない」それは言葉というより、祈りだった。薫は答えなかった。だが、礼司の背中を強く抱きしめる。指先が肩甲骨から腰へと滑り、シャツ越しに爪が微かに沈む。「…僕も…あなたが欲しい」ようやく出た言葉は震えていた。その震えが、礼司の心を刺した。互いにこれほどまでに飢えていたことを、初めて言葉にした夜。それは哀しみではなかった。ただ、必死に生きてきた二人の時間が、ようやく交差した証だった。
last update最終更新日 : 2025-11-08
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89.溶け合う夜

礼司は薫の頬に唇を寄せた。その仕草は静かで、祈りのようだった。髪に指を滑らせ、額に、まぶたに、頬に。薫は目を閉じ、礼司の手と唇をすべて受け止めた。外の雨音は遠ざかり、アトリエの奥には、二人の息遣いだけが漂っていた。夜の灯が微かに揺れ、ベッドの上には淡い影が重なる。薫はゆっくりと手を伸ばし、礼司のシャツのボタンに指をかける。一つ、また一つと外されるたびに、布の下から肌があらわになっていく。礼司もまた、薫のシャツに手を伸ばす。濡れた髪が襟に絡み、指先にしっとりとした感触を残す。布越しに感じる体温、脈打つ鼓動。シャツの下の薫の肌は、白磁のように滑らかだった。胸元に指を這わせると、薫の体が小さく震える。「怖くないか」礼司が低く問う。薫はかすかに首を振る。「怖くない。ただ…信じられない。あなたが、ここにいる」その声は震えていたが、隠しきれない幸福が滲んでいた。礼司は薫の髪を指ですくい、頬に触れる。もう一度、唇を重ねた。深く、熱く、ただ触れ合うだけで体が溶けそうだった。薫は礼司の胸に顔を寄せた。頬を押し当て、耳元で礼司の心音を確かめる。強く、大きく、震えるほどに打つ鼓動。薫はその音に、胸の奥で静かな涙が溶けるのを感じた。「君の全部が欲しい」礼司の手が薫の背を撫で、肩を包む。薫は目を閉じ、すべてを委ねた。「あなたに、全部、あげる」声が震える。けれど決して、後悔はない。薫の手が礼司の胸をなぞり、指先で鼓動を数える。礼司は薫の首筋に唇を落とす。温かな吐息が肌にかかり、薫は細く息を吐いた。礼司はゆっくりと薫の衣服を脱がせていく。指先が肩の上で布を滑らせ、シャツが音もなく床へと落ちる。薫の胸、腹、腰、そのすべてが夜の光に照らし出される。薫の肌は緊張と興奮でうっすら汗ばんでいた。
last update最終更新日 : 2025-11-09
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90.確かめる朝

朝の光は静かだった。カーテンの隙間から溢れる柔らかな光が、アトリエの奥までじんわりと染み込んでいた。小さな仮眠用のベッドに二人は並んで眠っていた。礼司はゆっくりと目を覚ます。窓の外ではまだ街が静かに息を潜めている。昨夜の余韻が体の奥に微かに残っていた。自分の腕の中に薫がいる。薫の髪は、夜の湿り気をわずかに帯びたまま、白い枕の上に広がっていた。礼司はそっと手を伸ばし、薫の髪に指を滑らせる。柔らかく細い髪が、指の間をすり抜ける感触。その感触だけで、胸が静かに満たされていく。薫はまだ眠っていた。寝息は浅く、時折まぶたが微かに震える。礼司はその横顔をじっと見つめていた。頬には淡い赤みが残っている。呼吸を合わせるたびに、心がふんわりと揺れる。薫の指が微かに動いた。やがてゆっくりと瞼が持ち上がり、濡れた黒曜石のような瞳が礼司を見上げた。「…夢、かと思いました」その声はまだ眠たげだった。「夢じゃない」礼司は微笑み、薫の額に唇を落とした。「ここにいる。君の隣に」薫は細く息を吐き、笑みを浮かべる。涙にも似た光が、朝の光の中に溶けていく。「礼司さん」薫が呟く。その声は夜の名残と、これからの朝を抱きしめるように柔らかかった。「これが…現実なんですね」「そうだ」礼司は優しく薫の頬をなでる。「君とこうして朝を迎えること。それが俺の現実だ」薫は枕元で手を伸ばし、礼司の指を握る。その手はまだ微かに震えていた。けれど、その震えにはもう迷いはなかった。「…幸せですね」「俺もだ」礼司は目を細め、薫の指を自分の手で包み込む。二人の呼吸が静かに重なる。窓の外では、遠くで小鳥がさえずり始めていた。夜の雨はす
last update最終更新日 : 2025-11-10
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