朝の光は、森の葉のあいだから優しく庭にこぼれていた。白い木洩れ日は、まだ露の残る芝の上に斑をつくり、薫の足元を薄く照らす。涼しい風が、どこか遠くから木の香りと湿った土の匂いを運んでくる。避暑地の別荘の庭は、静かで、まるで世界の外側に隔離されているような錯覚すら薫にもたらしていた。礼司と薫は、ほとんど言葉も交わさず、ただ並んで歩いた。足音さえも柔らかく、朝露を踏むたび靴の裏に草のしっとりとした感触が伝わる。薫は、自分の心臓の鼓動がやけに耳に残るのを感じていた。それは、不安と幸福、名づけ難い感情が混じった音色だった。礼司は薫の少し先を歩いていたが、ふと立ち止まる。振り返ったその顔には、昨日までの快活さはなく、どこか遠くを見つめるような影が宿っていた。けれど、薫の視線を受け止めたその瞬間だけ、かすかに微笑む。「まだ、寒くはないか」その声は穏やかで、薫の胸の奥を微かに揺らす。薫は首を横に振ると、ほんの少し礼司に近づく。ふたりの間に流れる空気は、朝の透明な冷たさを孕んでいるのに、どこか熱を孕んでいた。庭の端には、山紫陽花が朝露を受けている。花弁の上を滑る水滴が、ゆっくりと地面へ落ちていくのを、薫はぼんやりと眺める。その横顔に、礼司がそっと手を伸ばす。指先が、薫の髪に降りそそぐ木洩れ日をすくい取るように撫でた。薫は、その手の重みを一瞬だけ目を閉じて受けとめた。「ここにいると…全部が夢みたいだな」礼司が、ふいに呟く。その言葉は、空気に溶けてすぐに消えてしまいそうだったが、薫の耳にはいつまでも残った。夢。たしかに、数日前からの現実がどこか遠く霞んでいく。あのざわめきも、都心の緊張も、追い詰められるような責任も、いまはこの朝の光にすべて溶けて消えてしまいそうだった。だが、薫の胸の奥には、はっきりとした終わりの気配が芽生えている。東京からの手紙。美鈴の名。噂話の影。礼司のまなざしは、時折その影に曇り、薫自身もまた自分の役割を思い出さずにはいられない。「夢なら……さめないでほしいな」薫の声は、どこまでも素直だった。葉を揺らす風が、その声を遠くまで運ぶ。
最終更新日 : 2025-10-22 続きを読む