光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語 のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

104 チャプター

71.最後の光

朝の光は、森の葉のあいだから優しく庭にこぼれていた。白い木洩れ日は、まだ露の残る芝の上に斑をつくり、薫の足元を薄く照らす。涼しい風が、どこか遠くから木の香りと湿った土の匂いを運んでくる。避暑地の別荘の庭は、静かで、まるで世界の外側に隔離されているような錯覚すら薫にもたらしていた。礼司と薫は、ほとんど言葉も交わさず、ただ並んで歩いた。足音さえも柔らかく、朝露を踏むたび靴の裏に草のしっとりとした感触が伝わる。薫は、自分の心臓の鼓動がやけに耳に残るのを感じていた。それは、不安と幸福、名づけ難い感情が混じった音色だった。礼司は薫の少し先を歩いていたが、ふと立ち止まる。振り返ったその顔には、昨日までの快活さはなく、どこか遠くを見つめるような影が宿っていた。けれど、薫の視線を受け止めたその瞬間だけ、かすかに微笑む。「まだ、寒くはないか」その声は穏やかで、薫の胸の奥を微かに揺らす。薫は首を横に振ると、ほんの少し礼司に近づく。ふたりの間に流れる空気は、朝の透明な冷たさを孕んでいるのに、どこか熱を孕んでいた。庭の端には、山紫陽花が朝露を受けている。花弁の上を滑る水滴が、ゆっくりと地面へ落ちていくのを、薫はぼんやりと眺める。その横顔に、礼司がそっと手を伸ばす。指先が、薫の髪に降りそそぐ木洩れ日をすくい取るように撫でた。薫は、その手の重みを一瞬だけ目を閉じて受けとめた。「ここにいると…全部が夢みたいだな」礼司が、ふいに呟く。その言葉は、空気に溶けてすぐに消えてしまいそうだったが、薫の耳にはいつまでも残った。夢。たしかに、数日前からの現実がどこか遠く霞んでいく。あのざわめきも、都心の緊張も、追い詰められるような責任も、いまはこの朝の光にすべて溶けて消えてしまいそうだった。だが、薫の胸の奥には、はっきりとした終わりの気配が芽生えている。東京からの手紙。美鈴の名。噂話の影。礼司のまなざしは、時折その影に曇り、薫自身もまた自分の役割を思い出さずにはいられない。「夢なら……さめないでほしいな」薫の声は、どこまでも素直だった。葉を揺らす風が、その声を遠くまで運ぶ。
last update最終更新日 : 2025-10-22
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72.断ち切る意志

昼下がりの別荘には、不穏な静けさが満ちていた。窓の外にはまだ木洩れ日が踊っているが、室内に流れ込む光はどこか鈍く、重い雲が日差しを遮りはじめていた。礼司と薫は、向かい合うことなく、同じ部屋にいながら互いの気配だけを感じていた。時計の針が、静かに時を刻む音が耳につく。礼司は机の前に座り、しばらく前に届いた手紙を無意識に指でなぞっていた。指先に紙のざらつきを感じるたび、現実の重みが増していく。薫は窓辺に立ち、外の庭をじっと眺めている。けれど、その視線の先に何があるのか、自分でもよく分からなかった。やがて礼司は、深く息を吸い込んだ。肺に満ちる空気は冷たく、そしてやけに重たい。喉の奥で言葉が渦を巻き、何度も形を変え、ようやくひとつの意志となって胸に沈んだ。「薫」静かな呼びかけに、薫はゆっくりと振り返る。その目は、不安と予感で揺れていた。礼司は、視線を薫に向けたまま、しばらく沈黙した。その間、風がカーテンを揺らし、ほんのりと冷たい空気が二人の間を通り過ぎる。まるで、外の世界とこの小さな楽園を隔てる境界線が、今にも消え失せそうだった。「東京に、戻ろうと思う」その声は低く、抑えられていた。薫の瞳がわずかに揺れる。「戻る……って、どういうこと」薫の声は、かすかに震えていた。礼司は視線を落とし、言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。「家のことがある。父のことも、美鈴のことも……もう、逃げてばかりではいられない。俺は、帰らなければならないんだ」その一言ごとに、薫の心のなかに冷たい水が差し込むような痛みが広がる。薫は机に両手をつき、礼司の顔をまっすぐ見つめた。「帰ったら……どうするの」「……美鈴と、子を持つ努力をする。それが、家のためにも、俺自身のためにも必要だと分かった」礼司の声は、かすかな震えを帯びていた。だが、その決意は揺るぎなかった。薫の唇がわずかに動いた。けれど言葉は続かず、かわりに肩が小さく震えた。「僕を、捨てる
last update最終更新日 : 2025-10-23
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73.別れの前夜

夜が、ひたひたと別荘の窓ガラスを満たしていく。空には雲が重なり、光は遠ざかり、ただ静寂と湿り気だけが、じっとりと室内に沈んでいた。居間のランプを消してから、礼司と薫はひと言も交わしていなかった。ふたりは隣り合うベッドで、互いに背中を向けて横たわっている。身体の向きどころか、呼吸のリズムまでもが、すっかりちぐはぐにすれ違っていた。薫は枕元の闇に目を凝らしながら、遠くの雨音をぼんやりと聞いていた。最初は葉擦れの音かと錯覚するほど細く、やがて本物の雨だと気づくと、その静けさがいっそう寂しさを際立たせた。肌に触れるリネンの冷たさと、頭を包む重い枕の感触が、いまは無意味に思える。微かに鼻をつく石鹸の残り香と、どこか土の湿り気を帯びた空気が、胸の奥まで沁みてくる。涙が、頬をつたった。自分でもいつ泣きはじめたのか分からなかった。ただ、瞼の奥に残る熱と、枕をしめらす湿り気が、確かな痛みとなっていた。薫は目を固く閉じ、唇を噛みしめて声を殺す。その静けさのなかで、自分の心臓の鼓動だけがかすかに響いていた。礼司は、ベッドに仰向けになったまま、ただ天井を見上げていた。闇のなかで、木の梁がぼんやりと黒く浮かび上がる。時折、雨粒が窓ガラスを打つ音が部屋を満たすたび、彼は深く息を吸い込み、吐き出す。呼吸に混じる胸の痛みは、重く鈍く、逃れようもなかった。薫の肩越しに感じるかすかな震えや、濡れた枕の気配は、礼司にも伝わっていた。しかし、彼は声をかけることも、手を伸ばすこともできない。ただ、あの午後――断ち切る意志を告げ、薫の叫びを背に受けてこの部屋に戻ってきてから、礼司は何かが壊れてしまったような感覚を抱いていた。「……ごめん」寝返りの音もなく、空気にまぎれるような小さな声が、礼司の唇からこぼれた。けれど、その言葉は届かない。薫はすでに、深い沈黙のなかへ身を沈めていた。枕に顔を埋め、静かに涙を流す薫の頭の中には、繰り返し同じ映像が流れていた。礼司の手、声、視線――あのとき確かに自分だけを見てくれた夜。甘くも苦しい記憶が、身体の芯に絡みついて離れない。心では分かっている。礼司は嫡男であり、既婚者であり、家族の責任を背負う人だ。それでも、心のどこかが、まだ諦め
last update最終更新日 : 2025-10-24
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74.曇り空の帰京

礼司は避暑地の小さな駅舎で最後に深く息を吐いた。白い息はもう見えず、代わりに淡い夏の湿り気が肺にしみ込む。あの別荘で過ごした数日間は夢の中のようだった。汽車の窓から見える景色は、どこまでも流れていく山と林、途中で切れ落ちる渓谷、遠ざかる曇り空。礼司はそのどれもが現実の肌触りを思い出させることに、微かな痛みを感じた。隣に座る薫は、重い沈黙を守っている。白いシャツの袖口から覗く手首は、指先に血が通っているのが見えるほど透き通っている。窓の向こうを眺めながら、時折、膝の上に乗せた手を無意識に握ったり開いたりしている。汽車の中は、数人の乗客がぽつぽつと新聞を広げているだけで、ほとんど音がない。その沈黙が、まるでふたりだけの最後の隔絶のように感じられた。礼司は薫に声をかけるべきか迷う。だが、あの夜の別れ、あの朝の薫の涙を思い出すたび、喉の奥がひりついて言葉が出てこない。窓枠に額を預けると、冷たい硝子の感触がひやりとした。頭の中では、何度も“もしも”が巡っていた。この汽車が永遠に走り続けてくれたら、どんなに楽か。だが、終着駅は近づく。現実は否応なくやってくる。ガタン、と大きく車輪がきしむ。礼司は小さく目を閉じる。あの別荘の庭に満ちていた木洩れ日のやさしい明るさ、手を伸ばせば触れられた薫の頬の柔らかさ、ふたりの間に漂っていた穏やかな沈黙。それらすべてが、いまや遠く遠く感じられた。「東京に着くぞ」礼司は努めて淡々と呟く。薫は一瞬、顔を向けるが、その瞳の奥に何も言葉が生まれないことを自分でも分かっているのだろう。小さく頷くだけで、また外の景色へ視線を戻す。その横顔の輪郭はどこか少年のようで、だが確かな大人の苦悩もそこに見え隠れする。汽車が都心のホームに滑り込む。轍の上を歩くような緊張が、礼司の心臓を一歩ごとに締めつけていく。改札を抜けると、すでに夕暮れを孕んだ曇り空が広がっていた。東京は蒸し暑い。人々の波に押されるようにして歩き出すと、薫もまた少し遅れてその後ろについてきた。「ここからは、別々だな」礼司が立ち止まる。薫は足を止め、まっすぐに礼司の目を見つめた。その瞳に、何も言わないでくれ、という祈りと、最後の願いが混ざっているこ
last update最終更新日 : 2025-10-25
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75.父の圧力、家の檻

玄関で靴を脱ぐ指先に、微かな汗がにじむ。帰京してまだ数分、礼司の身体は東京の空気に馴染めないままだった。ふと背後から廊下を渡る足音が響く。固い床を打つ音は一定の間隔を保ち、歩み主が誰かはすぐに分かった。父・惣右衛門。幼い頃から染みついた、あの規則正しく威圧的な足音。襖の向こうから、重く低い声が落ちてくる。「礼司。こちらへ来い」その声音には一切の感情の揺らぎがなかった。礼司は息を潜め、廊下を歩く。畳の目を数えるようにして、応接間の襖の前で立ち止まる。心の中では、まだ薫の髪に触れた感覚がかすかに残っている。それが一層、この家の冷たい空気と対照的に思えた。襖を開けると、部屋の中央に惣右衛門が背筋を伸ばして座っていた。小机の上には湯呑みと封を切られた数通の手紙、新聞。障子越しの夕日が部屋の奥に斜めに差し込んで、机の上の影を濃くしている。父の眼差しは冷たい鋼のようで、礼司は瞬時に息苦しさを覚えた。「噂のこと、聞いているな」父の声は低く抑えられている。だが、その奥に潜む怒気は明確だった。礼司は一歩進み、正座する。手は膝の上で固く握られている。「……はい」礼司の声は思った以上に小さい。父は表情ひとつ変えず、机の上の手紙をひとつ手に取り、指先で端を整えながら言葉を重ねる。「町の連中が何を言っているか、分かっているのか。お前と…中原の倅(せがれ)のこと、美鈴のこと、いろいろと耳に入るぞ」礼司は眉根を寄せた。喉の奥に小さな塊ができている。心臓の鼓動が、やけに耳に響く。何を言われても、反論する余地が自分にないことを痛感していた。父の言葉の一つ一つが鋭利な刃となって胸をえぐっていく。「下らぬ流言だと思いたいが、火のない所に煙は立たぬ」父の指先が机を叩いた。その音に礼司の身体がわずかに震える。頭を下げかけて、言い訳の言葉を探す。「……誤解です。自分は…」「誤解で済むなら、お前はこの家に生まれていない。家というものの重み、分かっているのか」その一言で、礼司は背筋に氷を流されたような感覚
last update最終更新日 : 2025-10-26
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76.硝子細工の微笑

廊下の電灯はすでに落とされ、早川家の夜は静寂に満たされていた。礼司は、どこか頼りない足取りで寝間着姿のまま、美鈴の部屋の前に立っていた。薄く開いた襖の隙間から、障子越しの月明かりが淡くもれている。内側からかすかな衣擦れの音がした。呼吸をひとつ深く吸い込む。胸の奥には、父の言葉と薫の影がないまぜになって残っている。指先が襖に触れたとき、ほんのわずかな震えが走った。「美鈴」低く、けれどどこか祈るような声で呼びかけると、中からやわらかな返事があった。「どうぞ」静かな声だった。その音色だけで、礼司の心のどこかが締め付けられる。襖をそっと開けると、美鈴は鏡台の前に背筋を伸ばして座っていた。髪を下ろし、寝間着の袖口に指先を隠すようにして、淡い月明かりの中にいる。硝子細工のような繊細さと、凛とした静けさがそこにあった。礼司はしばらく言葉を見つけられないまま、美鈴の背を見つめていた。部屋には、ほのかに白檀の香が漂っている。静謐の中で、時計の秒針が遠くのほうで淡く刻む音が聞こえる。やがて美鈴は、ゆっくりと鏡越しに礼司を見やった。瞳は静かに澄んでいて、だが、どこか遠くを見ているような影も含んでいた。「お帰りなさいませ」その言葉は、どこか帰還を祝福するというより、別れの儀式のように響いた。礼司は口を開きかけて、しかしうまく言葉が出てこない。沈黙がふたりの間に満ち、やがて美鈴が膝を正して、襖際まで歩み寄った。「礼司様」その呼び方には、はっきりとした決意が滲んでいた。彼女は手を膝の上に置き、正面から礼司を見つめる。まるで、静かな湖面に映る月を壊さないようにするかのような慎重さで、口を開いた。「私は、今日まで自分の役割を…“家”のための道具であろうと、努力してまいりました。けれど、それはもう、できそうにありません」声は驚くほど穏やかだった。礼司は、かすかに目を見開く。美鈴は、微笑みを崩さずに続ける。「お義父様からも、いろいろお話はうかがいました。噂話のことも…薫様のことも」その名前が口にされると、礼司の心臓が一度大き
last update最終更新日 : 2025-10-27
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77.決意の朝

東の空が、まだ薄墨色のままわずかに白み始める頃。庭先に降りたばかりの朝靄が、芝や植え込みを包み込むように漂っている。早川家の広い庭は、夜の名残りを纏いながら、ひっそりと静まり返っていた。鳥たちのさえずりも、まだ遠慮がちに途切れ途切れに響くだけだ。礼司は、寝間着のまま戸口を抜け、ゆっくりと庭の砂利道を歩いていた。素足に伝わる朝露の冷たさが、彼をわずかに現実へ引き戻す。背筋にまだ父の声が残響し、胸には美鈴の涙交じりの微笑みがしつこく巣くっている。顔を上げると、微かな霧の向こう、松の梢が夜明けの光を遮ってまだ黒い。薫の名を思い浮かべるだけで、胸が鋭く疼いた。立ち止まった礼司は、そっと深呼吸する。冷たい空気が肺の奥まで染み入り、皮膚の隅々まで神経が研ぎ澄まされるような気がした。ここは、幼い頃から何度も歩いたはずの家の庭。なのに、今の自分にはよそよそしい異国のようにも感じられる。まるで、この庭そのものが「家」という名の檻であり、自分の決断を待って身じろぎもせず、息を潜めているようだった。「……」口に出しかけた言葉は、靄の中で溶けていく。ただ歩きながら、礼司は心の中で何度も自分に問いかける。――自分は、本当に何を望んでいるのか。家の名を守ることか、美鈴を守ることか。それとも、薫とともに生きることか。昨夜の美鈴の姿が、幾度となく蘇る。静かに、しかし確かに自分の手を離したあの微笑。あれは哀しみでも諦めでもなく、むしろ「赦し」だったと今ならわかる。美鈴は、礼司の背中を押すためにあの言葉を口にしたのだろうか。だが、そうだとしても、あの優しさは取り返しのつかない痛みと哀しみを伴っていた。「……誰も、傷つけずには生きていけないのか」無意識にそんな独り言が漏れた。夜明け前の庭には、誰もいない。風もまだ眠っている。けれども、どこかで誰かがこの瞬間を見ている気配がした。家、血筋、責任、愛情、欲望。それぞれが細い糸のように、礼司の心を縛っている。石灯籠のそばまで歩いたとき、彼は立ち止まって振り返る。白い靄に包まれた邸宅が、頼りなげに浮かび上がって見える。父の厳しい声、重い視線。家の名を守れという
last update最終更新日 : 2025-10-28
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78.解放の涙

広間の襖が静かに閉められると、早川家の空気は一層、澱んだように重くなった。朝の光が大きな窓から差し込み、畳の上に柔らかな影を落とす。空気の中には、どこか祈りにも似た緊張と、ひた隠しにされた感情の気配が満ちていた。礼司は、下座に座したまま両手を膝の上に重ね、軽くうつむいている。隣には父・惣右衛門が厳しい横顔で座し、向かい側には美鈴が凛とした面持ちで静かに正座していた。彼女の背後には、家の人間、親戚筋にあたる数人の男女が控えめな姿勢で並んでいる。全員が、これから何が語られるのかを、固唾を飲んで見守っていた。美鈴は、朝の光を受けてほんのり白く映る顔に、一切の曇りを見せなかった。その微笑は、硝子の器のように繊細で、触れれば割れてしまいそうなほど危うく、しかし不思議な強さを秘めている。彼女は、ゆっくりと広間の中心に身を進め、穏やかな声で口を開いた。「本日、こうしてお集まりいただきありがとうございます」張りつめた空気に、彼女の声は静かに、しかし確かに響いた。誰も咳払いひとつしない。礼司は、心臓の鼓動がやけに大きく感じる。指先が冷たくなり、唇もわずかに震えていることに気づく。「私は……」美鈴は、父・惣右衛門を真っ直ぐに見つめる。その目には、怯えや迷いは微塵もない。彼女は、家の「嫁」としての自分に、すでに別れを告げていた。「これまで、早川家のため、そして礼司様のために力を尽くしてまいりました。しかし私には、妻として、家を支える者としての役割を、これ以上全うできません。私の心は、既にこの家から、礼司様からも離れてしまいました」一瞬、広間にいる誰もが息を呑む気配があった。親戚の一人がかすかに動揺し、座布団の端を指先で掴む。惣右衛門はそのまま顔色一つ変えず、美鈴の言葉を受け止めている。礼司の耳にも、血の気の引くような静寂が刺さった。「私は、離縁を望みます」その言葉が放たれたとき、広間の空気がひときわ重くなった。誰もが無意識に呼吸を浅くし、緊張の膜が張り詰める。けれども美鈴の声は、終始穏やかで、どこまでも静かな波紋のようだった。「礼司様を責めるつもりはありません。すべては、私の心の弱
last update最終更新日 : 2025-10-29
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79.父と子、ふたたび

書斎の扉が閉じる音が、静まり返った屋敷に小さく響いた。礼司は重い足取りで敷居をまたぎ、机の向こうに座る父の姿を見つめる。窓際のカーテンは半ば閉じられ、差し込む光は弱く、埃が細い筋となって宙に舞っている。部屋には、長年使い込まれた書棚や机、重厚な椅子、そしてどこか古びた革の匂いと、乾いた紙の香りが漂っていた。惣右衛門は、手元の書類に視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。静寂の中、柱時計の秒針だけが小さく時を刻んでいる。礼司は襟元に手をやり、少し汗ばんだ首筋に指を当てた。先ほど広間で流した涙の名残が、まだ頬にうっすら残っている気がした。「座れ」低い声が部屋の奥で響き、礼司は静かに椅子に腰を下ろした。父との距離は机を挟んでいるだけなのに、まるで何か目に見えない分厚い壁が、ふたりのあいだにそびえているようだった。「美鈴のことは……離縁するより、ほかあるまい」惣右衛門の声には、責める響きはなかった。ただ、疲れ切った男の深い吐息のような静けさがあった。礼司はうなずくこともできず、膝の上で両手を握りしめる。「お前は、何を思っている」その問いは、あまりに唐突で、あまりに根源的だった。礼司は、すぐには答えられなかった。頭の中には、美鈴の涙、薫の微笑、親戚たちの囁き、そして父の声…すべてが渦を巻いている。「家のことを考えろ、家名を守れと…そう言われてきました。しかし、それが本当に父上の望みだったのですか」礼司は小さな声で問う。惣右衛門は、机の上に両手を組み、じっと動かずにいた。外では木々の葉が風にそよぐ音が、かすかに聞こえている。埃の中に混じる懐かしいインクの匂い、少年の頃からこの部屋で浴びてきた父の声。すべてが蘇り、胸の奥で何かが締め付けられる。「家は…絶やしてはならぬ。わしの父も、そのまた父も、皆そうしてきた。早川の名がなければ、わしもただの男に過ぎん」惣右衛門は、微かに遠くを見る目になった。書斎の隅には、彼が若い頃に描かせたという家族の肖像画がかかっている。礼司は、その絵を一瞥し、父の横顔に目を戻した。「家の
last update最終更新日 : 2025-10-30
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80.それぞれの朝

礼司は、薄い朝霧がまだ残る庭へ、静かに足を踏み入れた。夜の闇はすでに消え去り、空は淡い青と金色のあいだでゆるやかに明るみを増していた。草露に濡れた足元から、しんとした冷たさが上がってくる。深呼吸をひとつすると、肺の奥にまで澄んだ空気が染み渡り、これまで自分の中に積もっていた澱が、ほんの少し薄らいだような気がした。屋敷はまだ静けさに包まれている。だが、すべてが昨日までとは違う。広間では、朝食の支度に取りかかる女中たちの小さな声が聞こえていた。廊下を渡るとき、ふいに聞こえる食器の触れ合う音、炊きたての米の香り、湿った木の床板を踏む足音――どれも、礼司にとっては懐かしく、同時に遠いものとなりつつあった。彼の胸の奥では、静かな喪失感がまだ渦巻いている。昨日の決断、美鈴との別離の場面、父との対話…あらゆるものが、記憶の表層で淡くゆらめきながら、今この瞬間に少しずつ融けていく。かつてあれほど自分を縛っていた家の重みは、決して消えたわけではない。ただ、朝の光が差し込むごとに、その色を変え、形を変えて、礼司の中に新しい“余白”をつくり始めていた。庭の隅には、春に植えた百合がつぼみをつけている。近づいて、手のひらでその蕾をやさしく包む。露が指先に伝わり、ひんやりとした感触が礼司を現実に引き戻す。背後の母屋では、美鈴がすでに起きている気配がした。美鈴は、離れの部屋で身支度をしていた。襟元に手を伸ばし、鏡越しに自分の顔を見つめる。長い夜の涙の跡は、朝の光の中にうっすらと残っていたが、それすらも水に流すように、静かに髪をまとめていく。今日からは、ここが自分の家ではなくなる。その現実を淡々と受け止めながら、衣擦れの音だけが新しい朝に響いていた。美鈴は姉の家に身を寄せることを決めていた。姉は女学校で教師をしており、未亡人として堅実に暮らしている。小さな鞄に、最低限の衣服と手紙だけを詰める。ふと机の上に目をやると、昨夜まで慣れ親しんだ部屋の空気が、今朝はどこか遠く感じられた。廊下を歩きながら、ふと立ち止まる。庭越しに礼司の背中が見えた。彼は花壇の前でしゃがみこみ、百合のつぼみを見つめている。二人の視線は、一瞬だけ交錯した。言葉はなかった。ただ、互いの胸の中に
last update最終更新日 : 2025-10-31
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