光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語 のすべてのチャプター: チャプター 91 - チャプター 100

104 チャプター

91.離れの鍵

白く結ばれた襖の縁に、朝の光がじんわりと滲んでいた。障子の向こうでは、庭の樹々が静かに揺れている。秋のはじまりを思わせる風が、どこかから吹き抜けた。礼司は畳の上に正座し、前に置いた桐の文箱をゆっくりと開いた。中には父が記した覚え書きや、祖父の古い手帳、墨の滲んだ便箋などが丁寧に重ねられている。いずれもこの家を動かし、守ってきた男たちの手によるものだった。「これは、持っていかれるのですか」声をかけたのは、廊下で控えていた晴臣だった。彼は長身をやや屈め、戸口の影に佇んでいる。礼司は短く首を振った。「いいや。これはこの家のものだ」ゆるやかに手帳を閉じると、それを布に包み直し、再び文箱へ戻した。その所作には、どこか儀式めいた慎重さがあった。四畳半の離れ。かつては客人用に使われていたが、礼司が家を離れるにあたり、数日だけ寝泊まりを許された仮の住まいだ。塗りの箪笥、香炉、床の間の掛け軸――それらすべてが「早川家」の気配を纏っている。それに囲まれながら、彼は今日この場所から旅立とうとしていた。晴臣がふと、障子を開けた。朝の陽が差し込み、畳に柔らかな光の線が生まれる。鳥のさえずりが、どこか遠くで響いた。「兄さん」礼司は顔を上げた。「父は…何か申しておられましたか」「…何も言わなかった。ただ、黙って背を向けていた」晴臣の声は穏やかで、どこかほっとしたようでもあった。「それが、父上の最後の情というやつだろう」礼司は小さく笑い、立ち上がった。晴臣が持っていた風呂敷を受け取り、文箱と数冊の書を中へ収める。衣類や身の回りの品は、昨晩のうちに整えてある。もう、ここに未練は残っていない…そう思いたかった。だが、柱にかけられた一枚の掛け軸に目を留めると、礼司はふと足を止めた。それは祖父が生前に描かせたもので、墨一色の山水図
last update最終更新日 : 2025-11-11
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92.初めての書斎

東京の古書街、神田の裏路地にある一軒の店は、看板も剥げ落ち、通りを行く人々の視線を逃れるようにひっそりと佇んでいた。外壁は煤けた板張りで、ガラス戸の一部にはヒビが走り、古い木製の格子には風に煽られた紙屑が絡みついている。だが、礼司はそこに「始まり」を見出していた。扉を開けると、鈍い鈴の音が鳴った。埃の匂いが舞い上がる。かつては文具問屋の倉庫として使われていたらしく、奥には帳簿棚や書類棚の名残があり、隅の床板にはインクの染みが残っていた。「ここで…始めるのか」礼司は小さく呟いた。机も椅子もまだ何もない。あるのは空気と光と、自分の鼓動だけ。昼下がりの陽が窓越しに差し込み、壁の漆喰に柔らかく広がっていた。埃を帯びた光が、まるで時の流れの中に立ち止まったかのように静かだった。彼は袴の裾をたくし上げ、持参した風呂敷から封筒を取り出す。中には、あらたに作らせた名刺が入っていた。──早川礼司──鳩文社(きゅうぶんしゃ)小さな活版印刷所で刷ってもらったそれは、手触りがざらりと厚く、文字の凹凸がかすかに指に残る。この名刺を差し出すとき、自分は「家」の人間ではない。ただの、一介の言葉を扱う者だ。彼は机代わりに窓際の板に名刺を一枚置き、それをじっと見つめた。「鳩文社」という名は、薫がふと呟いた言葉に由来する。かつて礼司の書棚に並んでいた古書の背表紙に、羽ばたく鳩の絵が印刷されていたことがあった。それを見て薫が言ったのだ。「鳩はね、手紙を運ぶ鳥ですよ。遠くにいても、想いを届ける」礼司はその言葉を、いつまでも覚えていた。書物もまた、誰かの心から、誰かの手元へと届く。声にならぬ想いを、形にして届けるものだ。その夜、彼は初めて机と椅子を運び込んだ。机はかつて屋敷の書斎にあったものとは違い、釘が抜けかけた古道具屋の机。椅子は背もたれがやや歪んでいたが、腰を下ろすと意外にも安定していた。
last update最終更新日 : 2025-11-12
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93.筆と筆

アトリエの空気は、昼下がりの光と油絵の具の香りに満ちていた。木製の床板には乾きかけた絵の具の跡が不規則に散り、窓から射す光がその一つひとつを拾い上げていた。薫は長机に肘をつき、スケッチブックの頁を指でゆっくりめくった。ページの奥に現れたのは、礼司の背だった。肩甲骨の隆起、首筋に落ちる髪の影、腰のわずかな窪み…それらが鉛筆の線で繊細に、そして執拗に描かれていた。彼はそのまま鉛筆を握りしめ、次の紙に向かった。一息吸い込むと、音もなく鉛筆の芯が紙をかすめる。線は静かに生まれ、背を描き、肩をなぞり、やがて指が止まる。彼の背を、もう何度描いたか分からなかった。だが、今までと何かが違っていた。これまでは、欲望だった。あの背を抱きたいと思った。触れたい、爪を立てたい、振り返ってほしいと…どれも、届かない渇きの中で生まれた線だった。けれど今は、違う。触れたあと、交わったあと、そして共に朝を迎えたあとの礼司の背は…ただ抱きたいという衝動ではなく、共に在りたいと願う想いの記録だった。薫は鉛筆を置き、少しだけ目を閉じた。瞼の裏に浮かぶ礼司の姿は、薄明かりの中で微笑んでいた。机の端に置かれた封筒に視線をやる。それは一昨日届いた、古くからの画商・池田からの手紙だった。──「今度こそ、あなたの“いま”を展示させてほしい」──そう綴られていた。池田は、薫の作品に長らく理解を示してきた数少ない人物だった。しかし、東京の画壇において、男性の裸体を主題に据えた作品群を展示することには常に抵抗がつきまとった。薫は幾度も断り続けてきた。それは世間の視線への恐れでもあり、自らの絵が“暴力的な視線”として消費されることへの拒絶でもあった。けれど、今なら描けるかもしれない。誰の許しも要らない。誰かの評価にすがる必要も
last update最終更新日 : 2025-11-13
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94.灯の在り処

夕方の街には静かな湿り気が漂っていた。小雨が降り出しそうな空の下、礼司は手に書類鞄を下げて、石畳をゆっくりと踏みしめる。神田の古書街から少し外れた路地、アトリエの前まで来ると、薫が窓際でスケッチブックをめくっている姿が見えた。その横顔は、薄明かりの中で静かに光を集めているようだった。扉を開けると、ランプの灯りが低く揺れていた。絵具の香り、木の床に残る油の匂い、壁に立てかけられたキャンバス。礼司は玄関で傘を払い、そっと足を踏み入れた。「薫」名を呼ぶと、薫が振り返った。顔には、外の曇り空とは違う、淡い笑みが宿っていた。「早かったですね」「今日は、印刷所が休みだったんだ。…君に、会いたくて来た」薫は微笑みながら、スケッチブックを机の端に置いた。少し戸惑うような、けれど嬉しさを隠しきれない動きだった。「どうぞ、あちらへ」礼司はそのまま、窓辺の長椅子に腰を下ろす。窓の外は、街の灯りがひとつ、ふたつと点き始めている。アトリエの中だけが、時を忘れたように穏やかだった。しばらく、二人の間には静寂が流れた。薫はパレットナイフで絵の具を練りながら、何かを迷うように礼司を見つめる。礼司はそれに気づき、そっと問いかけた。「新しい絵は、進んでいるか」「…はい」薫はイーゼルのそばに立ち、描きかけのカンヴァスを示した。まだ下絵の段階だったが、そこには礼司の背――肩越しに振り返る一瞬の光、静けさと温もりが宿る姿が、柔らかく描かれていた。「今の礼司さんを描きたいと思った」薫が呟いた。「これまで何度も、あなたの背中を描いてきたけれど…今は、違う気がする。どこか遠くの景色じゃなくて、ここにある日常として」礼司はしばらく黙ってその絵を眺めていた。筆の線が、愛おしさに満ちている。それは薫自身のまなざしであり、これからを共に生きようと
last update最終更新日 : 2025-11-14
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95.静かな前夜

アトリエに戻ったとき、夜の空気は冷たく、雨が静かに屋根を打っていた。展示会場の設営を終え、夕方まで続いた搬入作業の余韻が、薫の肩や指先にじんわりと残っていた。扉を閉めてランプを灯すと、部屋の隅々に橙色の光が滲んだ。ほの暗い空間の中で、絵具の香りと、木の床にしみついた古い紙の匂いが、いつもよりも濃く感じられる。長机の上には、いくつかの小品が無造作に重なっていた。展示には持ち出さなかったスケッチ、描き損じのクロッキー、かつて誰にも見せることのなかった試作の数々――薫はゆっくりと椅子に腰を下ろし、それらの束に指先を滑らせた。過去の自分がここに眠っている。どれもが苦い挫折の証しだった。明日は個展の初日。画壇の中心に身を晒すことの重圧が、思いのほか胸に重い。薫は肩で息を吐き、立ち上がると、アトリエの壁にかけられたカバーをそっと外した。そこには、礼司を描いた肖像画があった。誰にも見せたことのない、ただひとつの肖像。他の作品と違い、会場の中央に据えることを自分で決めた。キャンバスに近づく。柔らかな筆致の向こうに、薫自身の全てが刻まれている。礼司の眼差し、肩の力の抜けた佇まい、唇の微かな笑み――どれもが「愛」という言葉に還元されることを拒み、しかし確かにそこにあった。指先で、カンヴァスの縁をなぞる。思い返せば、ここに辿り着くまでには幾度も迷い、傷つき、そして救われてきた。若い頃、絵を描くことでしか自分の存在を示せなかった。男を描くことは、常に社会への反逆だった。「男の肉体をどうして描くのか」と問われ、「ただ美しいと思った」としか言えなかった日々。欲望と罪悪感の間で、筆は幾度も宙に止まり、やがて空白を重ねた。そんなとき、礼司と再会した。誰にも言えなかった「欲望」が、礼司の前では初めて「許し」に変わった。夜の闇、濡れた石畳、細い指で頬に触れられたあのとき――何もかもが一度きりの奇跡のようだった。その奇跡の軌跡が、今
last update最終更新日 : 2025-11-15
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96.開かれる扉

銀座の画廊は、朝の陽ざしに包まれていた。硝子戸を通して射し込む光が白い壁に反射し、空気の中に淡い輝きを散らしていた。扉が開かれるたび、冷えた外気と新しい来場者の気配が混じり合い、空間に細やかな揺らぎをもたらす。個展の初日。薫は会場の片隅、花瓶の置かれた小さな長椅子に身を沈めていた。手には名刺が一枚、指先はじっと汗ばんでいた。朝一番にやって来たのは、古くからの画商・池田だった。スーツ姿の彼は、入口で帽子を脱ぎ、薫の方に軽く目礼すると、真っすぐに壁際の作品を見つめた。その視線が、一枚一枚の絵にじっくりと注がれるたび、薫の胸の奥がきゅうと強ばった。「薫君、これは…」池田が独りごとのように呟き、キャンバスに近づいた。声に批判も驚きもなかった。ただ、丁寧に観察する目だった。薫は遠くからその姿を見つめる。自分の内奥が剥き出しにされているような、居心地の悪さと誇らしさが混じり合っていた。やがて、画廊には人が増えてきた。新聞社の文化欄記者、旧知の美術教師、大学時代の恩師、若い画学生たち。三々五々、来場者たちは薫の描いた男性像の前で立ち止まり、声をひそめて語り合う。その中には、眉をひそめて首を傾げる老人もいたし、身を乗り出して目を輝かせる少年もいた。薫はしばらく、誰とも目を合わせなかった。緊張で背筋が強張り、椅子に深く座ったまま、壁にかかった自作と人々の動きをただ追っていた。絵の前で人々が足を止めるたび、身体が波のように揺れる。礼司を描いた肖像画の前には、常に人だかりができていた。大人びた女性たちが顔を寄せて何か囁き合い、若い男たちが真剣な眼差しでキャンバスを睨みつけている。その表情を薫は目の端でとらえながら、恐る恐る耳を澄ませた。「…なんて生々しい目だ」「けれど、ただの肉体じゃない…誰かを想ってるような」「新しい時代の男って、こういうものなのかもしれないな」評論家たちが交わす低い声。
last update最終更新日 : 2025-11-16
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97.遅れてきた来訪者

夕暮れが銀座の路地を静かに包み込むころ、個展会場の画廊にも一日の終わりの気配が満ち始めていた。壁にかけられた絵は、昼の光とは異なる柔らかな陰影を帯び、残された来場者もまばらになっていた。薫は壁際の椅子に座り、閉館の合図を待ちながら静かに時を過ごしていた。どこかから細い風が差し込み、床に落ちた光をわずかに揺らす。静けさは、ほのかな緊張と期待の名残を孕みつつも、安堵を含んでいた。スタッフがそっとカーテンを閉め、重たい戸を引く音が響く。画廊の中の空気は密やかに変わり、灯りの橙色が壁や天井に濃く広がった。薫は、展示の中心に据えられた礼司の肖像画を見つめる。その姿は朝からずっと変わらず、堂々と、静謐に、訪れる人々の前に立ち続けてきた。けれど今は、会場の空気と同じように、薫自身の心にも静かな満ち足りた余韻があった。時計の針が閉館の時刻を指す少し前、扉が音もなく開いた。薫はゆっくりと顔を上げる。そこに立っていたのは礼司だった。外の風をまとったまま、静かに会場へと歩み入る。他の誰も気づかないような控えめな足取りで、礼司はゆっくりと薫の方を振り返る。二人の視線が、会場の静けさの中で重なった。言葉はない。けれど、それだけで薫の胸は熱く満たされた。礼司はそのまま会場の中央、礼司自身を描いた肖像画の前に立つ。夕暮れの光がガラス窓から差し込み、絵の表面をやわらかく照らしていた。薫は少し離れた場所から、その背中をじっと見つめた。礼司は静かに、長い時間をかけて絵を見つめ続ける。壁際の時計の針の音だけが、ゆっくりと時を刻む。画廊の奥ではスタッフが静かに片付けを始めていたが、その音さえ遠く思えた。薫には今、礼司だけしか見えなかった。礼司の横顔には、深い安堵と静かな誇りがあった。薫が描いたのは、ただの肉体でも、ただの愛でもない。これまで積み重ねてきた日々、苦しみや喜び、痛みと赦しのすべてがこの絵に宿っている。礼司はそれを受け止めるように、時折
last update最終更新日 : 2025-11-17
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98.静かな片付け

銀座の画廊は夜の帳に包まれていた。外の喧騒も、日中の賑わいもすっかり消え失せ、通りには街灯の淡い光が伸びているだけだった。会場の扉が静かに閉ざされ、室内には微かな灯りが残っている。天井から吊るされた電球が、壁に掛かった絵画の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせ、白い壁に長く影を落としていた。展示最終日の閉館後、薫は中央に据えられた大きなキャンバスの前で立ち尽くしていた。床には梱包用の麻布や紙紐が無造作に積まれ、壁際には空になった木箱がいくつも並んでいる。長い一日の疲れが肩にのしかかっていたが、まだ手放せない余韻が胸の奥でかすかに揺れていた。「…終わったな」礼司が静かに声をかける。彼は壁際の小品を慎重に外し、紙で丁寧に包んでいた。礼司の指は穏やかで、ひとつひとつの作品を名残惜しげに扱っていた。薫は深く息を吐き、会場をぐるりと見渡した。この数日、ここには無数の人の視線や言葉、想いが集まっていた。朝一番のざわめき、午後の陽射しのなかで交わされた声、熱を帯びた批評、ささやかな賞賛や、時に向けられた鋭い眼差し。それらがすべて遠くなり、今はただ静けさだけが残っていた。礼司は机の上の花瓶を手に取り、わずかに萎れた白百合を見下ろす。「本当に、よくやったね」薫は礼司の方を向き、小さく頷いた。喉の奥がじんと熱くなる。言葉にすれば、何かが壊れてしまいそうで、静かに微笑み返した。絵画を包む麻布が擦れる音、紙紐を引くときの小さなきしみ。それらの細い音が、やけに大きく感じられる。薫は一枚ずつ絵を箱へ収めていった。箱の底には薄い紙が敷かれていて、包み込むように作品を守っていた。「どの作品も、少しずつ…重さが違うんだな」礼司が不意に言う。「君の手が、全部に残っている」薫は箱に手を伸ばしたまま、ほんのわずかに目を伏せた。「描いているときは、夢中だった。でも、こうして終わってみると…
last update最終更新日 : 2025-11-18
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99.新聞の朝

朝の光が、アトリエの窓辺から静かに差し込んでいた。外では雀がひときわ高く鳴き、昨夜の雨が残した雫が木の葉の先にきらめいている。部屋の中はまだ柔らかい静寂に包まれ、礼司がパンを焼く香ばしい匂いがゆるやかに漂っていた。コーヒーの湯気とともに、新聞紙のインクの香りがテーブルに満ちている。薫は窓際の椅子に座り、指先でカップを持ち上げる。目の前には、昨夜のうちに箱から出した小品たちがいくつか並べられていた。どの絵も少しだけ埃をかぶり、どこか安堵したような表情を浮かべている。「熱いうちに、どうぞ」礼司がトーストを皿に盛り、そっと薫の前に置く。トーストの表面には、薫が好きな杏のジャムが透き通るように塗られていた。「ありがとう」薫は微笑み、礼司の向かいに腰を下ろす。いつもの、静かな朝のはじまりだった。だが今日は、何かが違う。夜のうちに礼司が玄関に挟まれた新聞を拾い上げ、まだ開いていないまま、机の上に置いていた。それがふたりの間で、妙な重さを持って存在していた。礼司が新聞を手に取り、文化欄をゆっくりとめくる。わずかな沈黙。薫の胸の奥で、小さな波が立つ。「…あった」礼司が低くつぶやく。薫は顔を上げ、礼司の視線の先を見つめる。紙面の中央、文化欄の大きな枠に、見覚えのある自分の名と、個展のタイトルが印刷されていた。その下に、批評家の名前。礼司は記事を指でなぞりながら、そっと声に出した。「『男性美へのまなざしが、いよいよ日本の美術界に新風を吹き込んだ』」薫は息をのんだ。新聞紙を礼司の手から受け取り、記事を細部まで読み込む。「型にとらわれぬ大胆な構図」「肉体の向こうにある精神の静けさ」「真実の愛を描き切る誠実さ」称賛の言葉が、余白も惜しまず並んでいた。「時代の新たな美の形」「真実のまなざし」どれも、これまで誰にも見てもらえなかった自分の絵に向けられた言葉だった。
last update最終更新日 : 2025-11-19
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100.手紙の束

雨上がりの午後、アトリエの窓にはまだ雫の跡が残っていた。遠くで電車の音が微かに聞こえ、街路樹の葉が濡れたまま風に揺れている。薫は机の上に積まれた手紙の束を前に、静かに椅子に腰を下ろした。分厚い封筒や、薄紙の便箋、刷り込みの葉書。どれも展示会が終わってから届いたもので、送り主の名前も年齢も、色も香りもさまざまだった。礼司が紅茶を淹れ、そっと机に運んでくる。薫は小さく礼を言い、一番上の封を手に取った。淡い水色の封筒には、丸みを帯びた小さな文字が躍っていた。「先生の個展を拝見しました。あんなに堂々と男性を描いた絵を、初めて見ました。怖かったけれど、私も自分の心を描いてみたいと思いました」少女の筆跡に似ている。薫は頬が温かくなるのを感じながら、手紙をそっと机の上に戻した。次に手にしたのは、墨色の濃い封筒だった。差出人は地方の画学校に勤める教師。「生徒たちにとって、先生の展示は新しい道しるべとなりました。美しいもの、愛しいものに対して、どうして正面から向き合ってはいけないのか。改めて自分にも問いかけました」最後に「私も昔は、あなたのように絵を描きたかった」と、揺れるような筆跡で結ばれていた。礼司が手紙をのぞき込み、穏やかな声で言った。「本当に、たくさんの人が見てくれていたんだな」薫は微笑む。「こんなに、届くとは思っていなかった」礼司が隣の椅子に腰を下ろし、二人で手紙の束に目を通していく。中には熱烈な称賛や感謝の言葉だけでなく、批判も混じっていた。「公然と男を描くことが、時代に合うのか」「家庭の平和を乱すつもりか」どれも、かつて薫が一人で受け止めてきた言葉だった。しかし今は、礼司がそばにいる。重さも、痛みも、確かに分け合うことができた。夕方になると、窓の外には西日が差し始め、雲の切れ間から光が斜めに差し込む。薫はすべての手紙を読み終えたあと、深く息を吐いた。身体の奥にまだ興奮の余韻が残り、同時に、不思議な静けさが満ちて
last update最終更新日 : 2025-11-20
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