All Chapters of 少年王が愛する蓮は誓いの海ではなひらく: Chapter 21 - Chapter 30

58 Chapters

~人魚の花嫁は宴に嗤う~ 6

    * * *  カイジールたちが座る円卓よりすこし離れた場所で、葡萄色の裾の長いドレスを着た女性が黙って酒を飲みつづけている。紫がかった黒髪に、灰紫の瞳。紫は神皇帝にのみ許された禁色であるというのに、衣だけでなく容姿からして異様な年配の女性は、誓蓮よりやってきた人魚の女王を忌々しそうに睨みつけている。「そんなに凝視していると気づかれますよ」 「別によい。妾があの女を嫌悪しているのは事実じゃ」 「だけどそうするとぼくが彼女に近づけないじゃないですか」 外つ国から入ってきた硝子細工の杯に琥珀色の液体を注ぎながら、女性と同じ髪の色を持つ少年はくすくす笑う。はたから見るとあどけない表情だが、心の奥では蔑んでいるような、乾いた笑顔である。「お前が彼女に近づくとな? それは兄上を想うがゆえの行動かえ?」 「まさか」 銀に近い灰色の瞳がきらりと光る。鋭利な刃物を彷彿させる、冷たい双眸に女性も頷き返す。「くだらぬ野心か。まぁよい。あの慈流とかいう女、たいそうなちからを持っているようだしの。こちらにつけて玉座を引きずり落とす手伝いでもしてもらえばよい」 九十九が統治するいまのかの国は間違いだらけだ。なぜ始祖神の血を引き継ぎ『地』のちからを有するだけで彼ら皇一族は頂点に咲きつづけるのか。同じちからを持ちながらなぜ自分たちは彼らの眷属にしかなれないのか。誓蓮では眷属である人魚が国を治めていたというのに。「そのようなことをこの席で語られるのもどうかと思いますがね……人魚はひとと違って五感が鋭いですから」 「ほう、狗の嗅覚より鋭いとな? ならば余計欲しくなるの」 「ことが終われば活さまに差し上げますよ」 杯に注がれた酒をくいと飲みながら、少年は明るく告げる。「なんせ彼女は、人魚ですから」 人魚。それはかの国では見ることの叶わない美しき魔性。不老不死と噂され、神に近い存在として崇められているが、実際のところ不老であって不死ではない。人間より長い年月を生きるから不死と思われているだけだった。それを快く思っていなかった神が気まぐ
last updateLast Updated : 2025-08-27
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~人魚の花嫁は宴に嗤う~ 7

    * * *          さっきから不穏な会話ばかり耳にしている。人魚の五感は人間のそれよりもはるかに有能だから人間が秘密裏に語り合っている話や聞く必要のない余計な話まで耳に入ってきてしまう。カイジールは道花の様子を気にするが、彼女は半分人間だからか聴覚は常人と変わらないようで、特に苦痛そうな表情は浮かべていない。「どうされました?」 むしろ隣で歓談してくれている仙哉の方がカイジールの苦虫を噛んだ表情に感づいて困惑顔を見せている。「……ちょっとひとにあたっただけです」 遠くの円卓であなたの母親らしき方が人魚の心臓を食べたがっているようです、とはとても口にできない。口にしても冗談にならないところが恐ろしい。  現にカイジールを育ててくれた女王の両親は九十八代神皇帝哉登に心臓を抉られ、生のまま食い殺されている。人魚が死ぬと生命活動を司っていた心臓は時間を巻き戻すように急速に縮むのだ。それを体内で吸収すれば、心臓を縮ませる成分も身体中に循環し、肉体を若返らせることが可能になる。食べ過ぎると毒だが、心臓ふたつを食べた哉登は五十代の見目から一気に二十歳ほど若がえり三十代の姿を取り戻している。きっと心臓ひとつにつき十年若返らせることができるのだろう。だからといってカイジールは自分の心臓を人間に与えるつもりは毛頭ない。「そうか、ならいいのだが」 仙哉は穏やかな表情で卓に並ぶ前菜に手をつけている。現神皇帝の曽祖父の頃より活発になった外つ国との積極外交によって、かの国の衣食住は多様化してきている。装束や建造物だけでなく、さりげなく食事のなかにも珍しい野菜が使われていたり、甘い香りの酒が並んでいたりとセイレーンでは見ない物も多く、つい手を伸ばしてしまうようだ。 ――特に道花が。「おいしぃですね! この揚げ物。珍しいお野菜なんですか?」 「こちらは北海大陸の多雪山系(たせつさんけい)より取り寄せました山菜が主の天麩羅となっております。お隣の皿に盛られておりますのが隣国潮善(ちょうぜん)より獲ってきた藻屑蟹(もくずがに)の蒸し物です」 「これが蒸蟹(むしがに)ね
last updateLast Updated : 2025-08-28
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~人魚の花嫁は宴に嗤う~ 8

  カイジールと九十九の視線が絡み合う。  ふたりはまるで挑み合うように瞳をぶつけ、見えない火花をバチリと散らす。  一瞬で宴の賑やかな空気は途絶え、刃の上を素足で歩くような緊張感が全体に漂いだす。 ――これが、かの国……賀陽成佳国の現神皇帝、皇九十九(すめらぎつくも)。 卓上にいたすべての人間が、無言で立ち上がり、礼をし、動きを止める。  改めて、十八歳の少年王と対峙する。周囲の人間は誰もが頭を垂れてじっと彼の言葉を待っているが、カイジールだけは彼の吸い込まれそうな夜色の瞳を見つめていた。不敬だとは思わない。むしろ、自分の海色の瞳で見つめ返して、彼の父である九十八が犯した罪を暴いてやりたい。家族を食い殺されたカイジールにとって九十九は憎い男の息子でしかない。けれど。 ――あんたに九十九は殺せないよ。 セイレーンで告げられた那沙の言葉が、重くのしかかる。彼女はどこまで未来(さき)を見つめているのだろう。「皆のもの、面をあげよ」 ぴん、と張った声が静まり返った宴の場に響く。その透き通った美声に、道花が驚いて目を白黒させている。「遅くなってすまない。どうかこのまま続けてくれ」 それだけ言って、すたすたとカイジールの方へ歩み寄り、腕を取る。「我が花嫁どの」 「……九十九さま」 「ふたりきりで、話がしたい」 「そ、それは」 単刀直入すぎる物言いに、悠凛と道花が顔を合わせて困惑している。料理の話で意気投合したのか、いつのまにかこのふたりは親しくなっている。  仙哉は「お邪魔したら悪いから」と立ち上がり、不機嫌そうにひとり酒を飲みつづけている母親を窘めに行ってしまった。九十九と仲が悪いのかと勘繰りたくもなるが、ふたりの間には険悪な空気は存在していない。  カイジールが黙っていると、九十九が緊張をほぐすようにやさしく語りかけてくる。「なに、すぐに終わる。心配なら侍女どのを連れていてもかまわん。我のほうも木陰を連れておる」 いつの間にかさっきまで座っていた仙哉の席に銀髪の木陰が座り、
last updateLast Updated : 2025-08-29
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chapter,3 ~陰謀と夜蝶は新月に躍る~ 1

「迎えに来たぞ、陣仙(じんせん)の舞姫」 迎えに来てと頼んでもいないのに、男は堂々と踊り子の少女に宣言する。海の匂いのする青年は少女の華奢な腕をとり、跪いて手のひらへくちづけを送る。「……哉登(かなと)さま?」 迎えに来るとは一言も口にしていなかったのに。ひとりで踊り子として生きていこうと、そう決意した矢先に、彼は現れた。  まるで神の遣いのように。「なんだ、嬉しくなさそうだな」 「だって……もう二度と逢うことはないと」 一晩限りの遊戯だと、そう思っていたのに。瞳を潤ませて応えれば、そんな言葉はききたくないと彼の唇に塞がれる。「周りの人間の言うことなど気にする必要はない。俺は神のちからをこの身に引き継いだ王だ。お前を妃にするくらい、簡単なことさ」 啄ばまれた唇が離れれば、飛び出すのは偉そうな言葉ばかり。「ほんとうに、いいのですか」 信じられなかった。大陸の向こうでは佳国(かのくに)の神の血を引き継いだ王が島々を統べていると、寝物語できいたことはあったけれど、お伽噺でしかないと思っていたから。  まさかほんとうに自分と同じ世界に生きていたなんて。そしてあろうことか天涯孤独の自分を妃に望むなんて。「俺はお前が欲しい。ついてこい、活」 一度は叶うことない恋だと諦めていた。けれど彼は迎えに来た。自分を妃にするために。  差し出された手を、振り払うだけのちからはなかった。「はい」  ――それはいまから三十年以上前の、九十八代神皇帝哉登が最初の妃を娶ったときの物語。    * * *  兆大陸の東に位置する潮善と呼ばれる国の舞姫、活凛(かつりん)は、神皇帝に求められ、皇一族に仕える狗飼家の養女となり、妃となった。狗飼活という名を与えられた彼女は寵妃にのぼりつめ、やがて二人の男児を産んだ。  子どもの名は活が生まれ育った陣仙の地に因み陣哉と仙哉と名付けられたが、活が異国出身の踊り子であることから皇位継承権はないに等しかった。  反対に、第二妃でありながら近年のかの国の政に欠かせない帝都清華(ていとせいが)の娘、藤諏訪季白(ふじすわときしろ)が産んだ息子が陣哉と仙哉よりも幼いというのに次代の神皇帝として九十九という通り名を与えられ、大事に育てられたのである。「……陣哉が生きていたら」 過去を反芻し、遠い目をしていた活は口元から零れた言
last updateLast Updated : 2025-09-05
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~陰謀と夜蝶は新月に躍る~ 2

    * * *  今日は、新月。  月のない藍色の夜空は、僅かな星明かりだけが道標になる。  道花とカイジールを乗せた箱馬車は司馬浦の港へ到着した。ひとがごった返していた船乗り場は今朝とうって変わってしんと静まり返っている。「海水を採取されるのでしたら、北の波止場がいいでしょう」 「ありがとうございます」 宮廷装束姿のままの道花は素直に頷き、木陰に教えられた方角へ一目散に駆け出していく。羽衣を纏った天女のように軽やかな後ろ姿を見て、九十九は苦笑する。「侍女どのは、せっかちなのだな」 「終始落ち着きのない娘ですみません」 カイジールはそっけなく応え、道花を追って行った木陰の姿が見えなくなったのを見計らって、指先で素早く魔術陣を描く。ふたりを囲むように銀色のひかりが砂地に浮かぶ。「慈流どの?」 一瞬にして波音が止み、砂の上に取り残された九十九が不審そうにカイジールを見やる。どうやら結界を張られたらしい。  ひっそりとした夜闇に囲まれ、ふたりは互いの表情を見つめ合う。「ようやくふたりきりで話ができるな」 その声色の変化に、九十九は驚くことなく首を縦に振る。「……やっぱり男性だったのか」 「あいにく、ボクはキミの花嫁になれないんだ」 さばさばした口調で告げるカイジールに、九十九は首を傾げる。「初対面のときより随分刺々しさが減ったな」 「そりゃ、最初はキミを殺してやろうと思っていたからね」 自分を殺そうとしていた、と晴れやかな笑顔で言われて九十九もようやく思い出す。自分の父親が彼の一族を恐怖に追いやった過去を。「ということは央浬絵どのの血縁者か」 「残念ながら血は繋がっていない。ボクは彼女の娘ではない、どっちかといえば弟だ」 「血は繋がっていないのに弟?」 「両親が違うのさ。九十八が心臓を抉りとって食したのは、央浬絵の産みの親であるのは事実だが、ボクを育ててくれた親でもある」 だから自分はかの国の
last updateLast Updated : 2025-09-06
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~陰謀と夜蝶は新月に躍る~ 3

    * * * 「なんとか今日一日ごまかせたね」 海から聖水を汲み上げ、箱馬車に乗って宮殿へ戻ってきた道花は桃花桜宮の客室でふぅと溜め息をつく。「……いや、ぜんぜんごまかせてねーぞ」 カイジールはそんな道花の言葉に呆れながら、すでに九十九は自分が女王の娘ではないことを知っているのだと彼女に告げる。「え、そうだったの? でも、花嫁どのって」 「形式上だよ。向こうには向こうの都合があるんだ。ボクたちが女王の娘をすぐに準備できないのと同じで」 「……はぁ」 なんとなく腑に落ちない言い方をされ、道花は胸元に手をあて、首を傾げる。「なんかモヤモヤするなぁ、そういうの」 すでに宮廷装束は脱ぎ捨て、セイレーンから持ってきた部屋着一枚になっている道花はカイジールが着物の帯をぐいぐい引っ張ってほどこうとしているのを手助けしようと背後へまわる。「とりあえず道花はいつもどおりに過ごしていればいいから」 背中越しのカイジールの声に、道花はこくりと首を振る。「……うん」 彼がそう言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。自分は神殿内で珊瑚蓮の精霊と呼ばれ、その加護の大きさを見込まれてカイジールの侍女となったのだ。彼に何か起これば、そのときは身代わりになることも必要だと、那沙は口にしていたし、彼も道花が九十九の花嫁になれなんて言っていたけれど……「だけど慈流。あたしにできることがあるのなら、ちゃんと教えてよ?」 「ああ。いまは体力を温存させてゆっくりしてろ。下手すると、こっちまで巻き込まれかねないからな」 その言葉に道花は凍りつく。かの国で三年前に繰り広げられた神皇帝の継承問題は、まだ完全に解決していないのだと。「……それって大変じゃない!」 「――だからキミにはおとなしくしてもらいたいんだよ。珊瑚蓮の精霊――ロタシュミチカ」 改めてカイジールに役割を告げられ、道花は身体を震わせる。  セイレーンの海に古くより生きつづける珊瑚蓮は、創造神と海神が戯れに
last updateLast Updated : 2025-09-07
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~陰謀と夜蝶は新月に躍る~ 4

 「仙哉どのは玉座に興味などないと口にしていたが、母君の執着ぶりを耳にしたボクとしては、放っておけないなぁ……」 「だけど慈流。悪だくみをしていたのは仙哉さんじゃなくて第三妃の息子なんでしょう?」 「ああ。三年前の内乱では幼かったがゆえ誰からも相手にされなかった皇子がいまになって暗躍しているようだ」 九十八の五人の妃のうち、政略結婚によって彼に嫁ぐことになったのは第二妃と第三妃のふたり。他の三人は女好きの彼が手をつけたり攫ったことで妃の座を与えられたという。  第二妃は帝都清華と呼ばれる政治派閥で頭角を現していた藤諏訪一族の姫で、第三妃はそれと敵対する古都律華(ことりつが)から選出された姫君だった。第二妃が産んだ息子が九十九という名を与えられたことで、後継者問題は落ち着いていたが、第三妃と彼女をとりまく古都律華の人間はそれに納得していなかったらしい。九十八がオリヴィエに殺された後、謀反を起こし、九十九によって一族郎党皆殺しにされている。どうやらその際、第一妃の長男、陣哉も共闘しており、命を散らしたとされる。「第三妃には三人の息子がいたが、そのうちのふたりがこの内乱で死んでいる。生き残ったのは当時十歳に満たなかった第七皇子のみ」 「一族郎党皆殺し……」 そこまでするのかと、道花は顔を真っ青にする。だが、広大な国ほど、争いは醜く激しくなるのが常だ。  幼かったからと殺されず、独り取り残されてしまった皇子が、復讐に燃えるのは仕方のないことなのかもしれない。「かの国では忘れ去られた皇子として、空気のような扱いを受けている。三年前の内乱で心を病んで、公の場に姿を見せなくなったのもひとつあると思うけど」 「……でも、晩餐会には顔を見せていたんでしょう?」 あたしは見てないけど、と不安そうに道花が尋ねると、カイジールもうん、と首を傾げて応える。「それが不思議なんだよな。活どのと話をしているのは耳にしたんだけど、姿を見たかというと……どんな容姿だったかぜんぜん覚えていないんだ」 まるで人魚が使う目くらましの術を施したかのように、彼は存在感がなかった。生粋の人魚であるカイジールですら
last updateLast Updated : 2025-09-08
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~陰謀と夜蝶は新月に躍る~ 5

 「ボクは女王陛下の義弟で、ただの人魚。キミのように珊瑚蓮の気持ちを察知して癒すことはできない。九十九は珊瑚蓮の精霊を自分のモノにして世界樹の命運を託そうと考えているが、できればボクは道花に選んでほしい」 それはきっと、女王陛下が望まない未来だから。  カイジールの呟きに、道花は目を瞬かせる。「……那沙みたいなことを言うのね」 「そうかな? 彼女だったらもっと容赦ないと思うけど」 オリヴィエの娘であることを知らぬまま、神殿で暮らしてきた道花。自分が人魚と人間の間に生まれた存在だと生まれ持つ本能が示すから、彼女は自分もまた海神の眷属に連なる『海』の強力な加護を手にすることができたと理解している。オリヴィエすら持つことの叶わなかった珊瑚蓮の精霊という真名に代わる称号も、国神だったナターシャによって与えられた。はたから見れば人間にしか見えない道花に秘められたちからの大きさに、オリヴィエが警戒し、自分を葬ろうとしていたのもわからなくはない。「あたしがかの国に従って花を咲かせる存在になるから? それだけで女王陛下に嫌われる理由にはならないと思うんだけどなー」 道花は何度か刺客に殺されそうになったことがある。那沙をはじめ、リョーメイなどの神殿関係者が護ってくれたから、彼女はいままで生き延びることができたのだ。なぜ自分が狙われているのか問いただせば那沙は「あなたが珊瑚蓮の精霊だから」とだけ言って、気に病むなと話題を変えた。だから道花は気にしないふりをして、探っていた。そして女王が自分を厭っているという真実を掴んだ時点で、気が抜けてしまった。  自分よりちからが強いから排除する……あんな狭量な女王を慕いたくもないけど、と道花は思い出しながら手厳しく言葉を告げる。カイジールはそんな道花の震える両手を抱え込み、柔らかい口調で優しく諭す。「いまは女王陛下のことはいい。できればボクは彼女のことも救いたいけど……九十八をちからで殺めた時点で、彼女は戻れないところに行ってしまった気がする。それより道花は、ボクが九十九を玉座から蹴落とそうとしている人間の相手をしているうちに、バルトに会って、話してこい」 いまもかの国で政務官
last updateLast Updated : 2025-09-09
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~陰謀と夜蝶は新月に躍る~ 6

    * * *  伽羅色(きゃらいろ)に煌めく煉瓦の塔の頂上へ、ひらりと入り込む影がある。気配に気づいた少女は顔をあげて低い声で囁く。「あたくしの愛しい蝶々、今宵はどんな物語をきかせてくれるのかしら?」 純白のシーツにくるまって寝そべっていた少女は冷たい床に垂れ流していた黄金色の波打つ長い髪を煩わしそうに振り上げながら、差し出した真っ白な手のひらに止まる黒蝶へ柔らかな視線を向ける。  見る者すべてを溶かしてしまいそうな双眸は、深海の碧。触れれば今にも壊れてしまいそうな儚い体躯は陶器のように白く、白魚のような華奢な指先に色づく貝紫の爪がどこか妖艶な印象を与える。  シーツから垣間見える細い足首には、人間にはない透き通った薄青色の鰓のようなものが生えている。それは人魚の証ともいえる鱗だ。 かの国の五宮二塔一神殿のうちの一塔である伽羅色煉瓦塔(きゃらいろれんがのとう)。通称東塔と呼ばれるそこはかつてより罪人を捕えるための場として存在している。  いま、この塔に囚われているのは先代神皇帝を殺したセイレーンの人魚の女王、ただひとり。  じゃらり、と女王を捕えた鎖の音が室内に響く。一方に嵌められた鉄の足枷は、じゅうじゅうと音を立てながら難なく外れ、赤錆にまみれた姿でカラカラと音を立てながら転がっていく。だけどいまは夜。塔のてっぺんの出来事を、地上で見張っている警吏はきっと、気づくまい。 ――そう、逃げようと思えば簡単に逃げ出せるのだ。自分は『海』のちからを継ぐ神の眷属。ちからの大半を九十九に奪われようが、鉄の枷を塩水で錆させ、内側から壊すことなどわけもない。  けれどいままで何もできないふりをして過ごしてきた。行動するには早かったから。 この五年間。現神皇帝九十九が自分の娘を花嫁に迎えるまで。オリヴィエは待った。その間はおとなしく、幽閉生活を楽しんだ。とはいえそろそろこの狭い世界にうんざりしてきた。御遣いの黒蝶に様子見をさせているだけじゃ、やっぱりつまらない。自分が動かなくては。  黒蝶はオリヴィエの視線を受けて、姿を変容させる。紫がかった黒髪に灰銀の瞳を持つ少年は、恭しくオリヴ
last updateLast Updated : 2025-09-10
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~陰謀と夜蝶は新月に躍る~ 7

  九十八を殺したことで九十九は報復と称しオリヴィエを捕え、ナターシャと彼女が持つ『海』のちからの半分を核に封じてしまった。たぶん、彼の手元にはまだオリヴィエのちからを保った核があるだろう。それを取り戻すことさえできれば、かの国の始祖神の子孫を相手に堂々と戦いを挑むことが可能だ。「そのためには義兄上を虐げる必要があるのですね」 ジェリオットは和やかに笑みを浮かべ、オリヴィエの言葉を待つ。そう、彼は九十八代神皇帝の第三妃が産み落とした唯一の生き残り、第七皇子なのだ。 ジェリオットという名はオリヴィエが黒蝶真珠の御遣いとして定めた際に与えたもので、彼の本当の名ではない。だが、オリヴィエは彼の名を知ろうとは思わない。九十九の母親違いの弟で、かの国の現状を厭っているがゆえに彼女に傾倒した愚かな十二歳の少年でしかない。「彼があたくしのちからの核を持っているのなら、それを取り戻さなくては話にならないもの」 面倒くさそうに呟きながら、オリヴィエは言葉をつづける。「だけど、あんたのお兄さまがイイ感じに闇鬼に憑かれたみたいね。カイジールに一目惚れするなんて」 くすくす笑う声は、鈴を転がしたかのように軽やかで、とても囚われた人間のものとは思えない。「カイジールを花嫁に据えたってことは、ナターシャもすこしは考えているのかしら? 砂に砕かれたあの娘の最期のあがきかもしれないけど、これを利用しない手はないわね」 どんどんくだけた口調になるオリヴィエを少年は黙って見守りつづける。「珊瑚蓮の花をつけさせるわけにはいかないの……九十九を騙せればいいんだけど、あの娘と逢ってる彼はきっと感づいているわね。あのときの少女といまの花嫁は別人だって」 オリヴィエの声はだんだんと甲高くなり、興奮のためか身体がぶるりと震えだす。「カイジールと取り替えてやり過ごそうとしたのはきっとリョーメイかしら。なってないわね、男性を選んだカイジールが短い時間で完全に女性に戻ることはできないんだから。ま、他者を欺くにはいい隠れ蓑かもしれないけど」 そして拳を握りしめ、
last updateLast Updated : 2025-09-11
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