All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 1041 - Chapter 1050

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第1041話

あの男は、とっくに詩織のために絶対確実な逃げ道を用意してくれていたのだ。わざと誤解させ、わざと憎まれるように仕向けた。最初から心変わりをして、ふたりの誓いをあっさりと裏切ったのだと、そう思い込ませていた。「どうして、あんな真似を……」詩織の絞り出すような声は、ひどく掠れていた。河村は小さく息を吐いた。「私も当時、賀来様に全く同じ質問をいたしました。すると、『これは詩織への約束であり、俺が負っている借りのようなものだ』と」詩織はぎゅっと目を閉じた。柊也が警察に連行されたあの日、最後にこちらを振り返った眼差しが脳裏に焼き付いている。あの男は、エイジアが崩壊することも、自分が絶望的な立場に追い込まれることも、すべて最初から分かっていたのだ。だからこそ、たった一つの勝機も、生き残るための道も、すべて事前に詩織へ残してくれていた。「エイジアのすべてを私のものにするって……」詩織は低く呟き、泣き顔よりも悲痛な笑みを浮かべた。「あの言葉通りに、本当にやったのね……」河村を見送った後も、詩織はしばらく一人で応接室に残り、呆然としていた。外の会場では少しずつ主役の不在にざわめき始め、見かねたミキが探しにやって来た。扉を開け、真っ赤に腫れた詩織の目を見るなり、ミキは心臓を跳ね上がらせた。「ちょっと、どうしたの!?また賀来柊也に泣かされたわけ!?」ミキがそう疑うのも無理はない。長い付き合いになるが、詩織が涙を見せることなど滅多にないからだ。この世で詩織を泣かせられる存在なんて、母親の初恵か、あるいは柊也くらいしかいないのだから。詩織は首を横に振った。ずっと堪えていた涙が、ついに堰を切ったように頬を伝い落ちる。震える声で、詩織はポツリと呟いた。「……柊也は、私を負けさせたりしなかったよ」その言葉に、ミキは一瞬きょとんとした。そして、過去の記憶がふっと蘇り、ハッと息を呑んだ。それはかつて、すべてを賭けてあの男に寄り添い続ける親友に向けて、呆れながらも自分が言い放った言葉に呼応するものだった。――『あんたが、負けないことを祈ってる』あの日の詩織の「彼が私を負けさせたりはしない」という頑ななまでの信頼は、決して間違っていなかったのだ。......太一が席に着いて落ち着く間もなく、柊也からメッセージが飛んできた
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第1042話

無茶を言うな、と太一は呆れ果てた。いくら従弟とはいえ、あんな図体のデカい大の大人をどうやって追い出せっていうんだ。どうしたものかと頭を抱えていると、突然、京介のスマホが鳴った。画面の発信者名を見た瞬間、京介の表情がスッと険しいものに変わる。彼は足早に会場の隅へ移動して電話に出た。電話は霜花の父・瑞臣からで、案の定、先ほどの霜花の一件についての激しい抗議だった。短いやり取りで電話を切ると、京介は氷のように冷え切った顔でこちらに戻ってきた。京介は太一を見つけるなり、詩織のために用意していたプレゼントの箱を差し出した。「悪い、急用ができたから先に帰る。後で詩織にこれを渡しておいてくれないか。誕生日おめでとう、と伝えて」「おうおう、任せとけ!急ぎの用事なら早く行けって!バッチリ渡しとくからよ!」太一は信じられないほどの早業でプレゼントを受け取り、二つ返事で快諾した。京介が逃げるように会場を去っていくのを背中で見送るなり、太一は意気揚々と柊也にメッセージを打ち込んだ。【京介兄貴、帰ったぜ! 急用みたいで、プレゼントの受け渡しまで俺に頼んできた!】すると、非情な返信が間髪入れずに返ってきた。【そのプレゼント、捨てろ】太一の頭の上に大量のハテナが浮かんだ。【???】【マジでどうかしてんぞあんた!鬼か!】嫉妬に狂った男は、ここまで見苦しくなるものらしい。――太一がそう呆れるのも無理はない。事実、車の中で一人待機している柊也は、狂おしいほどの嫉妬に苛まれていたのだ。この良き日に、堂々と誕生日パーティーに参加しているすべての人間が妬ましかった。自分を差し置いてちゃっかり顔を出している父親の海雲にすら、強烈な嫉妬を覚える。しかし、詩織が「来ては駄目」と命じたのだ。その理由は痛いほど分かっていた。初恵——つまり詩織の母親の存在だ。親友であるミキという厄介な関門はどうにかクリアしたものの、真のラスボスは義母となるべき初恵である。これこそが、超えなければならない最大かつ最も険しい山だった。パーティーが続いている間ずっと、柊也はホテルの外に停めた車の中で一人待ち続けていた。だが、この程度の待ち時間は少しも苦にはならない。彼にとって「待つこと」はとうに日常の一部となっていた。詩織のアパートの下で待ったこともある
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第1043話

画面上に残された文字だけが生々しく光っている。夢でも見ているんじゃないかと、柊也は自分の目を疑わずにはいられなかった。詩織はそのメッセージを送信すると、すぐにスマホをしまった。そして、先ほど切り分けたばかりの最初のケーキの一番良い部分を崩れないよう丁寧に取り分ける。詩織はミキの方を振り返り、片目をつぶって見せた。「ちょっとだけ、抜け出してもいい?」誰に会いに行くつもりかなど、ミキには痛いほど分かっていた。ミキはニヤリと笑って、OKのサインを作る。安心しな、こっちの場繋ぎは任せといてと。そのサインを受け取った詩織は、適当な理由をつけてこっそりと裏口から抜け出した。非常階段から人目を避けて下の階へ降り、そこからあえて一般用のエレベーターを使って一階へと向かう。外に出ると、柊也はすでに車から降りて待っていた。薄手のドレス一枚で駆け寄ってくる詩織を見るなり、彼は急いで自分のジャケットを脱ぎ、その肩にふわりと掛けた。「どうして抜け出してきたんだ。風邪を引くぞ」「さっき、寒くないって言ったじゃない」詩織は先ほどの彼の言葉をそのまま返す。「俺はコートを着てたからな」「そのコート、今は私が着てるけど?」得意げに言い返す詩織に、柊也は降参したように苦笑した。「中の客は放置でいいのか?」「ミキが上手く誤魔化してくれてるわ」そう言って、詩織は背中に隠し持っていたケーキを大事そうに取り出した。「これ、あなたに持ってきたのよ」ケーキを見た瞬間、暗がりの中で柊也の眉がピクリと動いた。今夜一晩中胸に溜まっていた重苦しい澱が、霧散するように消えていく。「さぁ、早く食べてみて」詩織はケーキの皿を差し出し、彼を促した。だが、急いでやって来たせいで一番肝心なフォークを忘れてしまっていた。柊也はそれを察すると、楽しげに眉を跳ね上げた。ケーキと、微かにクリームが付いている詩織の指先を交互に見て、わざとゆっくりとした口調でつぶやく。「手が悴んで、どうにも動かなくなってしまったようだ。江崎社長、せっかく持ってきてくれたんだ。いっそ最後まで面倒を見て、食べさせてくれないか?」「あなたねぇ……歳いくつよ」詩織は呆れたように彼を睨みつけ、「子供ね」「調子に乗って」と文句を言いながらも、吸い寄せられるように彼へと身を寄せる。彼女は人差し
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第1044話

赤く染まった詩織の耳たぶを見つめ、柊也の瞳に宿る歓喜の色はいっそう深くなった。詩織は下唇を噛んだ。彼が自分だけのために、真剣な顔でケーキを作ってくれる姿が脳裏に浮かぶ。理性では断るべきだと分かっているのに、心の奥底で芽生えた密やかな甘い欲望が、蔦のように勢いよく絡みついて離れなかった。そして、熱を孕んだ彼の視線に絡め取られるように——詩織は小さく、こくりと頷いた。詩織が折れて同意した瞬間、柊也の眼差しに爆発するような喜びが弾けた。どうにも抑えきれない高揚感のままに、彼は力強く詩織を抱き寄せ、その腕の中に閉じ込めた。詩織が顔を上げた瞬間、まるで待ち構えていたかのように柊也の唇が重なった。彼女の口内に、ケーキの甘みが移る。確かに、昔自分が作った味とは違っていた。ひどく甘い。ケーキが甘いからなのか、それともこの口づけが甘いからなのか。どちらにせよ、脳がとろけるほどに甘かった。ホテルのエントランスではひっきりなしに人が行き交っている。だが、この熱く激しい口づけは、誰の目にも触れない駐車場の暗がりに深く隠されていた。最初は、羽で心臓を撫でるようなふわりとした感触だった。壊れ物に触れるような、探るような慎重さと優しさ。しかしそれも束の間、心の奥底に抑え込んでいた激情が堰を切ったように溢れ出し、熱を帯びて絡みつくような深いキスへと変わった。彼は舌先で優しく彼女の歯列をこじ開け、より深く、甘く絡め取る。この六年間で失われたすべての時間を、この一つのキスで埋め合わせようとするかのように。詩織の思考はショートし、目の前が真っ白になった。気づけば、両手は無意識に彼のシャツの胸元を強く掴んでいた。彼のがっしりとした胸板から、激しい鼓動がダイレクトに伝わってくる。ドクン、ドクンと、力強く脈打つその音は、彼女の鼓膜を震わせ、そのまま心臓の奥まで直接響いてきた。どれくらいそうしていただろう。やがて、柊也は名残惜しそうに唇を離した。それでも額は合わせたまま。二人の荒く熱い吐息が、すぐ近くで交じり合う。激しいキスのせいで濡れて赤く腫れた彼女の唇を見下ろし、柊也の瞳には抑えきれない濃密な情欲が渦巻いていた。「……今ここで俺が主役を奪い去ったら、上の連中、このホテルをぶっ壊して暴れるだろうな」酷く掠れた声で、彼が
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第1045話

足早にエレベーターホールに駆け込み、上りボタンを連打しながら、詩織は慌てて自分の身なりを整えた。だが、どう足掻いてもリップはすっかり落ちていた。柊也にすべて食べられてしまったのだ。おまけに唇は赤く腫れ上がっており、誰がどう見ても「激しいキスをされた直後」である。ああもう最悪、と頭を抱えたその時。ちん、と音を立ててエレベーターの扉が開いた。中にいたのは、初恵だった。「お母さん」詩織は心臓が早鐘を打つのを必死に隠し、平静を装って声をかけた。「どこに行ってたの?」初恵は怪訝そうに眉をひそめた。「みんな待っているのよ。主役がいつまでも席を外すなんて、失礼じゃない」「華栄の取引先の方に偶然会って、少し立ち話が長引いちゃったの。ごめんなさい」初恵はじっと、静かに彼女の顔を見つめた。信じたのか、それとも信じたふりをしたのかは分からない。「……それなら、早く戻りましょう。みんな探しているわ」詩織は平静を装って、初恵と共にエレベーターに乗り込んだ。宴会場の扉が近づいたその時、初恵が前を向いたままポツリと言った。「お化粧、直しなさいよ。リップが全部落ちてるわ」「……」結局、リップを塗り直してくれたのはミキだった。彼女は嬉々として詩織の顔を覗き込みながら、小声で茶化してきた。「あんたたち、またキスしてたわけ?」「……」「アイツ、どんだけ激しくがっついたのよ。唇、腫れちゃってるじゃない」詩織は聞こえないふりをして、ひたすら無言を貫いた。「絶対初恵さんに勘付かれてるわよ、これ」その一言に、詩織の心臓が再び嫌な音を立てる。「で、いつ初恵さんに打ち明けるつもりなわけ?」ミキの問いに、詩織は力なく首を振った。「まだ分からない。なんて言えばいいか……」初恵は、ミキとは状況が違うのだ。もし、彼女の身体に移植された腎臓のドナーが柊也だったと知れたら――初恵は間違いなく深く思い悩むだろう。『この男は、臓器を提供した恩を盾に娘の心を縛りつけようとしているのではないか』と。「……じゃあ、あんたはそう思ってるの?」ミキの真剣な問いに、詩織はきっぱりと答えた。「まさか」その声には、一切の迷いがなかった。「彼とやり直してからのこの数ヶ月で、ようやく分かったのよ。私たちがいかにすれ違い、
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第1046話

密が詩織の代わりに杯を空け続け、いよいよ限界が近づいたところでミキが交代に入った。今夜はとにかく招待客の数が多く、会場は異様な熱気にあふれている。ミキは少し呼吸を整えると、人の波の隙間を縫ってそっと詩織に耳打ちした。「正直、最初は全然人が集まらないんじゃないかってハラハラしてたのよ。昔のツテでキャスティングディレクターに連絡して、エキストラでも呼んでサクラにしようかと思ったくらい。完全に私の取り越し苦労だったわね」すると、詩織は冷静に会場の人間模様を見渡して返した。「でも、ここにいる何割かは私個人の顔を立てて足を運んでくれたわけじゃないわ」何を目当てにこれだけの人間が群がっているのか、詩織には痛いほど分かっていた。結局のところ、ビジネスという名のもとに集うこの社交界は、どこまでいっても利益がすべてなのだ。短い会話を交わしていると、序が遥を連れて歩いてきた。パーティー会場に入ってからというもの、遥はずっと詩織に話しかけるタイミングを図っていたのだ。しかし、本日の主役はあまりにも多忙すぎた。次から次へと名刺交換を求める人が押し寄せ、遥にはひたすら待つことしかできなかった。そしてようやく周囲の波が引いたのを見計らい、急いで兄の腕を引っ張ってやって来たというわけだ。詩織は遥に対しては良い印象を持っていたが、兄の序に向ける視線は少しだけ温度の低いものになった。遥は明るくあれこれとまくしたてた後、隣で黙りこくっている兄に気づいて急かした。「お兄ちゃん、詩織さんに話があるんでしょ? 早く言っちゃいなよ」妹に背中を押される形で、序が口を開く。「桐生キャピタルとして、以前から華栄と提携したいと考えていたんです。江崎社長、興味はありませんか?」その言葉を聞いて、詩織はぴくりと片眉を上げた。記憶が確かなら、序はここ最近、ずっと真理子のもとへ通って接触を続けていたはずだ。それが今になって、どういう風の吹き回しで華栄との提携を口にしているのか。もし真理子との一件がなければ、詩織も少しは前向きに検討したかもしれない。自ら扉を叩いてきたビジネスチャンスを、あえて突っぱねる理由など本来はないのだから。序は言葉の端々に真剣さを滲ませ、華栄キャピタルが直面している現在の危機を全力でサポートすると明確に申し出た。真理子の
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第1047話

華栄の危機を最大限に利用し、桐生キャピタルの利益をごっそりと抜き取る。それどころか、詩織に「命拾いした」という特大の貸しまで作ることができるのだから。だが、千手先まで緻密に盤面を計算したつもりでも、序はたった一つだけ、決定的な読み違いをしている。この江崎詩織という人間が、見下され、盤上の無知な駒としていいように転がされることを何よりも嫌悪するという事実を。「小宮山社長のお気遣いには、心から感謝いたします」詩織はようやく口を開いた。硬質な水晶のように澄み切り、はっきりと場に響く冷ややかな声だった。「ですが、華栄の問題は私自身で解決できます。桐生キャピタルに関しましては……」そこで言葉を区切り、わずかに眉を寄せた序の顔を刃のような鋭い視線で射抜く。「当面の間、私たちが手を組む必要はないかと」言い捨てるや否や、詩織はもう序に一瞥もくれず、ミキを連れて兄弟子たちの集まるテーブルへと歩き出した。その場に取り残された序は、顔に貼り付けた作り笑いを引きつらせていた。まさかこれほどまでに、一切の余地を残さずすっぱりと拒絶されるとは計算外だった。ビジネスの複雑な裏事情など分からない遥でさえ、今の刺々しい会話から漂う不穏な空気は感じ取っていた。おそるおそる兄の袖を引く。「お兄ちゃん……今の、詩織さん怒ってた?」去り際に詩織の瞳の奥をよぎった氷のような冷たさを、遥は見逃していなかった。序は少し間を置いてから取り繕うように答えた。「いや、気にするな。勘違いだ」兄は否定したが、遥の胸元にはかすかな不安が残った。本当はもっと詩織と親しく話をしたかったのに、今はとてもそんな空気ではない。遥はその考えを泣く泣く胸に仕舞い込んだ。高村教授の弟子たちは皆、各界で第一線を張る多忙な人間ばかりだ。これほど全員が一堂に会する機会はめったにない。唯一心残りなのは、京介が急用で途中で席を外してしまったことくらいだ。それでも高村教授の機嫌は頗る良く、つい嬉しくてワインのピッチが上がっていた。高村教授が三杯目に手を伸ばそうとした瞬間、澪士がさっと横からグラスを奪い取った。「先生、俺たちに隠れてこんないい酒飲んでたんですか? ちょっと味見させてくださいよ」高村教授が止める間もなく、澪士はそのまま一気に飲み干してしまった。「バカモン
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第1048話

祝賀パーティーがお開きになる頃には、詩織もごく薄っすらと酔いを感じていた。恩師や兄弟子たちから勧められた酒を、さすがに人に代わって飲ませるわけにはいかなかったからだ。ミキも今夜は相当なハイペースでグラスを空けていた。夜も更けてきたのにわざわざ自宅まで帰らせるのも億劫だろうと、詩織はホテルの上層階に部屋を取り、ミキをそのまま休ませることにした。一方、母の初恵を手配した車まで見送る。気品ある黒塗りの車に乗り込む直前、初恵が振り返って尋ねた。「あなたは今夜、帰ってくるの?」胸の奥でチクリと小さな罪悪感が跳ねたが、詩織は何食わぬ顔で答えた。「ミキがいっぱい飲んじゃって、一人にしておくのは心配だから。今日はここに残って様子を見るわ」「そう。分かったわ」初恵はまったく疑う様子もなく、いつものように詩織の肩にかかったストールを優しく直してくれた。「じゃあ、ミキちゃんをお願いね。あなたも明日頭が痛くならないように、ちゃんとお水をたくさん飲んで寝るのよ」「うん、分かってる」詩織は素直に頷き、母を乗せた車のテールランプが完全に夜の闇へと吸い込まれるのを見届けてから、ようやく長いため息をついた。三十歳にもなって、まさか母親相手にこんな見え透いた嘘をつく羽目になるとは。なんだかまるで……親の目を盗んでこっそり恋愛をしている高校生に戻ったような気分だった。少し熱を持った頬を両手で軽く叩き、気を取り直して柊也に電話をかけようとした、その時だった。どこに潜んでいたのか、音もなく不意に人影が現れた。驚いて顔を上げた詩織の視線が、見慣れた深い闇のような瞳とぶつかる。真冬の江ノ本市。刃物のように冷たいビル風が吹きすさぶこの場所で、柊也は丸々一晩中待ち続けていたというのか。「ずっと、ここで待ってたの?」口に出した直後に、愚問だったと気づく。詩織は小走りで駆け寄り、氷のように冷え切ったコートの襟首を乱暴に掴んだ。腹立たしさと胸の痛みが入り混じり、思わず声を荒げる。「あんた、バカなの!?幼稚園児だって雨が降ったらお家に帰るわよ?こんなに寒いのに、どうして車か家で待とうとしないのよ」柊也は抵抗もせず、されるがままになっていた。見つめ返してくるその目には、普段の冷静沈着なオーラなど微塵もない。寒さでかすれた低い声は、それでも一言一言
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第1049話

車は無事に柊也の住処へと到着した。それは、詩織がかつて七年間も生活していた、あの古びた賃貸アパートだった。車内から見上げた上の階の窓には、すでに明かりが灯っている。詩織の胸に、言葉にできない感慨がこみ上げてきた。「ここが一番目立たなくて、それでいて一番よく見える特等席なんだ」柊也のその言葉に、胸の奥がキュッと締め付けられた。ここを見つけ出すまでに、彼は幾つもの夜を重ねてきたのだろうか。続けて彼が静かに紡いだ言葉に、胸の奥がカッと熱を帯びた。「あの窓の明かりがついているのを見るだけで、俺は、その夜の待ち時間が無駄じゃなかったと思えたんだ」彼が音のない深更の暗闇で、ただ遠くから彼女の部屋の小さな灯りを頼りに、独りで孤独に寄り添っていたのだと思うと。心の最も柔らかい部分が、優しく、けれど強く揺さぶられ、切なく熱いものが胸の奥から込み上げてくる。あの頃の彼を思うと、どうしようもなく心が痛んだ。過去の彼を救い出し、その空白を埋めることはもう誰にもできない。今の詩織にできるのは、ただ目の前にいる、現在の彼を抱きしめることだけだ。詩織はゆっくりと体を横に向け、運転席に座る冷厳な横顔を見つめると、何かに憑かれたように自らのシートベルトを外した。冷たいセンターコンソールを乗り越え、両手を彼の胸元に預け、そのまま身を乗り出して静かに彼の唇を塞いだ。柊也は一瞬だけ虚を突かれたように固まったが、すぐに詩織のうなじを大きな掌で押さえ込み、迎え入れるように応えた。最初は、雪が肌に舞い落ちるような柔らかく控えめな口づけだった。だが、それは瞬く間に激しい熱に変わった。詩織の指先が彼のコートの襟首を強く掴み、柊也の手は彼女の腰を引き寄せるように力強く抱きすくめる。荒々しく絡み合う吐息には、もはや隠しきれない独占欲と渇望が入り混じっていた。重なり合う唇は、濡れて、ひどく熱かった。どちらも一歩も退こうとはせず、詩織がシートの背もたれと彼の分厚い胸板の間に完全に閉じ込められ、息も絶え絶えになるまで、その熱狂的な口づけは終わらなかった。しばらくして、柊也が自ら顔を背けて唇を離した。乱れた吐息を詩織の耳元に寄せ、ひどく掠れた声で囁く。「ケーキ、まだ食べる気あるか?」彼の喉仏が上下に動いた。しかし詩織の腰を抱く手は、少しも緩
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第1050話

詩織が答えるより早く、柊也は再び顔を寄せ、耳元で低く囁いた。「俺たちが初めて寝た日だ」カッと、詩織の頭の中で何かが爆発した。こ、こ、この男……!なんであんな恥ずかしい日を暗証番号なんかにしてるのよ!頭おかしいんじゃないの!?耳の先まで真っ赤にして固まっている詩織を見て、柊也はこれ以上からかうのは危険だと察した。ここで本気で怒らせて逃げられてしまっては、後で自分が泣きを見ることになる。彼は詩織の手を取り、指を絡めてしっかりと握り直してから、ゆっくりとドアを開けた。「ようこそ、江崎詩織さん。俺の世界へ」この部屋に入るのは初めてではない。前回、彼を送り届けた時にも一度足を踏み入れている。だが、あの時と今とでは、まったく感覚が違った。今度こそ本当に、彼女は『賀来柊也』という人間の奥底にある、最も深い場所へと迎え入れられたのだ。部屋の中は、かつて彼女が暮らしていた頃と何一つ変わっていないように見えた。ただ一つ、決定的に変わっていた場所がある。かつて詩織が、彼に関する些細なメモを隙間なく貼り付けていたあの壁一面に――今は、詩織に関するあらゆる情報がびっしりと貼られていた。彼女の好きなもの。彼女のスケジュール。彼女の健康に関する直近の注意事項。詩織は一枚一枚、その付箋を指先でそっとなぞった。これらを書き留めている時の、彼の真剣な横顔が目に浮かぶようだ。きっと、全神経を集中させてペンを走らせていたに違いない。かつて、自分が彼のためにそうしていた時のように。壁掛け時計の針は、すでに午前零時を指そうとしていた。やはり、あの車の中でのやり取りで時間を食ってしまった。今日はもう、手作りケーキは無理だろう。まあいいわ、また次の機会でも。詩織は小さく息を吐き、胸の奥に芽生えたわずかな落胆をひっそりと飲み込んだ。 もともと急に思い立ったことなのだし、今からスポンジから焼いてくれと頼むのは酷だ。それに、彼は一晩中あの寒空の下で自分を待っていた。これ以上無理をさせるよりも、早く休ませてあげたほうがいい。「ねえ、ケーキのことは気にしなくて――」振り返り、そう告げようとした詩織は、言葉を失った。柊也が、キッチンからホールケーキを手に持って現れたのだ。詩織は立ち尽くしたまま、目を丸くした。抑え込
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