あの男は、とっくに詩織のために絶対確実な逃げ道を用意してくれていたのだ。わざと誤解させ、わざと憎まれるように仕向けた。最初から心変わりをして、ふたりの誓いをあっさりと裏切ったのだと、そう思い込ませていた。「どうして、あんな真似を……」詩織の絞り出すような声は、ひどく掠れていた。河村は小さく息を吐いた。「私も当時、賀来様に全く同じ質問をいたしました。すると、『これは詩織への約束であり、俺が負っている借りのようなものだ』と」詩織はぎゅっと目を閉じた。柊也が警察に連行されたあの日、最後にこちらを振り返った眼差しが脳裏に焼き付いている。あの男は、エイジアが崩壊することも、自分が絶望的な立場に追い込まれることも、すべて最初から分かっていたのだ。だからこそ、たった一つの勝機も、生き残るための道も、すべて事前に詩織へ残してくれていた。「エイジアのすべてを私のものにするって……」詩織は低く呟き、泣き顔よりも悲痛な笑みを浮かべた。「あの言葉通りに、本当にやったのね……」河村を見送った後も、詩織はしばらく一人で応接室に残り、呆然としていた。外の会場では少しずつ主役の不在にざわめき始め、見かねたミキが探しにやって来た。扉を開け、真っ赤に腫れた詩織の目を見るなり、ミキは心臓を跳ね上がらせた。「ちょっと、どうしたの!?また賀来柊也に泣かされたわけ!?」ミキがそう疑うのも無理はない。長い付き合いになるが、詩織が涙を見せることなど滅多にないからだ。この世で詩織を泣かせられる存在なんて、母親の初恵か、あるいは柊也くらいしかいないのだから。詩織は首を横に振った。ずっと堪えていた涙が、ついに堰を切ったように頬を伝い落ちる。震える声で、詩織はポツリと呟いた。「……柊也は、私を負けさせたりしなかったよ」その言葉に、ミキは一瞬きょとんとした。そして、過去の記憶がふっと蘇り、ハッと息を呑んだ。それはかつて、すべてを賭けてあの男に寄り添い続ける親友に向けて、呆れながらも自分が言い放った言葉に呼応するものだった。――『あんたが、負けないことを祈ってる』あの日の詩織の「彼が私を負けさせたりはしない」という頑ななまでの信頼は、決して間違っていなかったのだ。......太一が席に着いて落ち着く間もなく、柊也からメッセージが飛んできた
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