All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 1051 - Chapter 1060

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第1051話

右斜め後ろにある彼の唇から吐息が漏れるたび、詩織の耳の先端をくすぐるように熱が当たる。またしても、耳が恐ろしいほど熱くなってきた。鼓動がうるさいほどに早鐘を打つ。もし彼が上から手を添えてくれていなければ、手が震えて絶対にケーキを真っ二つに切り損ねていただろう。「味見してみてくれ。お前が作った味と同じになっているか」柊也がフォークでひとすくいしたケーキを、詩織の口元へ運ぶ。詩織は少しだけ舌を出し、控えめにクリームを口に含んだ。その何気ない仕草を至近距離で見てしまった柊也の喉仏が、ゴクリと大きく上下に動く。瞳の色が、一瞬にして深い夜の闇よりも濃く濁った。無意識のうちにフォークの冷たい柄を指の腹で強く擦りながら、ひどく掠れた声で問う。「……どうだ?」詩織は背後の彼の変化にまったく気づかず、ペロリと唇の端を舐めた。「うーん、よく分からないわ。ひと口が小さすぎたのかも。もうひと口ちょうだい」突然、柊也がさらに身を屈めて顔を近づけてきた。息がかかるほどの至近距離で、詩織の唇の端にちょこんとついたクリームを指の腹で微かに拭う。その瞳の奥には、詩織には読み切れない熱い感情が渦巻いていた。「なら、別の方法で食わせてやる。そうすれば思い出すだろ」お互いにしか聞こえないような低く掠れた声でそう囁くと、彼はフォークをテーブルにコトリと置いた。代わりに長い指を伸ばし、ケーキの端から白いクリームをひと掬いする。そして、詩織が事態を呑み込むより早く、そのクリームを自分の口へと運んだ。次の瞬間、柊也は詩織に覆い被さるように身を乗り出した。指先で強制的に彼女の顎を上向かせ、そのまま深く唇を塞ぐ。甘い口付けが、舌の上で弾けた。それはさきほどの車の中のような柔らかい感触ではなく、逃げ場を塞ぐような、ひどく侵略的な「給餌」だった。彼はすぐに離れようとはせず、唇を執拗に押し当てたまま、先ほどのクリームを少しずつ詩織の口内へと流し込んでくる。熱い舌先が上顎をなぞった瞬間、詩織の背筋にゾクッと痺れが走り、たまらず身をよじって逃げようとした。だが、うなじをがっちりとホールドされたまま、さらに強く引き寄せられてしまう。ケーキの甘さと、彼から香るミントの涼やかさ。そして、すべてを焼き尽くしそうなほど熱を帯びた彼の荒い吐息。それらが
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第1052話

これほど狭いベッドで眠るのは、詩織にとって本当に久しぶりだった。家にあるような広々としたベッドでもないし、寝室そのものだってこぢんまりとしている。けれど、その狭さのおかげで、二人の体は一晩中ぴったりと寄り添うことができた。環境の変化で眠れないかもしれないと思っていたが、結果的には夢一つ見ないほどの深い眠りに落ちた。もし、早朝にミキからけたたましい着信がなければ、まだまだ眠り続けていただろう。電話は柊也のスマートフォンにかかってきたため、最初に出たのは彼だった。布団の中で寝ぼけ眼をこすっていた詩織の耳に、スピーカー越しに怒鳴るようなミキの声が響く。「ちょっと!今すぐ詩織に代わって!超絶やばい緊急事態なの!!」柊也が苦笑しながらスマートフォンを詩織の耳元へ当てる。「さっき初恵おばさんから私のところに電話があってね、これからホテルまで酔い覚ましのスープを届けてくれるって言うのよ!あんた、今すぐこっちに来なさい!」「えっ……!?」詩織は弾かれたようにベッドから勢いよく跳ね起き、布団を蹴っ飛ばした。慌てて彼から借りた大きなシャツを羽織りながら、隣で目を丸くしている柊也を急かす。「早く、早く早く! お母さんがホテルに向かってるの!今すぐ起きて、車出して!!」「……分かった」彼女が焦るあまりシャツのボタンを掛け違えているのを見て、柊也がスッと手を伸ばしてきた。長い指先が不器用になっている彼女に代わり、下から順に手際よくボタンを穴に通していく。「そんなに焦らなくても大丈夫だ。十分に間に合う」一番上のボタンを留め終えて手を離すと、柊也は静かに付け加えた。「後で、小林に着替え一式をホテルまで届けさせよう」その言葉に、詩織の頬がカッと熱くなった。昨晩はパーティー用のドレスのままこの部屋に来てしまったため、シャワーを浴びた後に着るものがなく、柊也のシャツを借りるしかなかったのだ。裾はちょうどお尻が隠れるくらいの丈で、そこから下は無防備な素足が剥き出しになっている。柊也はすっと目を伏せ、それ以上白わな太ももを見ないように理性を総動員して自制しながら、足早にバスルームへと向かった。詩織が続いて洗面所に入ると、すでに彼女の分の歯ブラシには、歯磨き粉が綺麗に絞って置かれていた。二人は最短記録で身支度を整え、ホテルへと急
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第1053話

「いや」柊也は短く答えた。彼は昔から病院という場所をひどく嫌悪している。海雲の眉間に深いシワが寄りかけた、その時だった。「もうこの世界で一番、俺に効く医者を見つけたからな。あんたが用意したどんな名医よりも確実だ」......土曜日。序は遥を空港まで見送りに来ていた。「いつG市に帰ってくるの?」出発を前にして遥が尋ねた。最近の序は江ノ本市に滞在しきりで、ほとんど地元に戻っていない。「こっちの用件が片付き次第な」遥は眉をひそめ、うんざりしたように愚痴をこぼした。「あの女、どんどんおかしくなってるのよ。うちの人間だけじゃ、もう抑えきれないくらい」「なら鎮静剤の量を増やせ」序の口調は冷淡そのものだった。しかし、遥は首を横に振る。「ダメよ。万が一、腎臓に副作用でも出たらどうするの?」序の瞳の奥がスッと暗く沈んだ。「だったら見張りを増員しろ。それでも暴れるようなら縛りつければいい」「……わかったわ。お兄ちゃんも体に気をつけてね」去り際にそう言い残す妹へ、序は短く「ああ」とだけ返した。妹の背中を見送った後、車に乗り込んだ序の目つきは再び氷のように冷え切っていた。詩織に提携をあっさりと拒絶された以上、あの手はもう使えない。別の協力先を見つけるしかなかった。序はスマートフォンを取り出し、真理子に電話をかけた。カフェにて。席に着いてからわずか十分の間に、悠人は三度も腕時計を確かめ、四度も服のしわや襟元を直していた。自分でも呆れるほど、どうしようもなく緊張している。やがて目当ての人物が姿を現すと、悠人は弾かれたように立ち上がって出迎えた。「ごめんなさい、道が混んでて少し遅れちゃった」向かいの席に座るなり、詩織が申し訳なさそうに微笑む。「いえ、僕が勝手に早く来てただけですから!」悠人は慌てて首を振った。「で、今日はどうしたの?」詩織はアイスコーヒーを一口啜り、悠人へ視線を向けた。悠人もその顔を真っ直ぐに見つめていたが、ふと、視線がシャツの襟元で止まった。肌の露出の隙間に微かに覗く、キスマークらしき赤い痕。心臓が嫌な音を立てて跳ねた。グラスを握る手に無意識に力が入り、指の関節が白く浮き出る。一歩、遅かったのだ。そう悟った瞬間、胸の中にポッカリと空洞ができたような喪失感が広がった
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第1054話

電話を握る悠人の指先は白く強張っていた。何かを言おうと口を開くが、水を含んだ綿でも詰め込まれたように喉が詰まり、かすれた息さえ出てこない。悠人が詩織に密かな想いを寄せていることは、父の悠玄もずっと前から知っていた。ただ、かつてはどう考えてもタイミングが悪すぎた。まだ志帆の本性に気づかず、あの女を庇って詩織に散々迷惑をかけていた時期だ。そんな最中に告白したところで、結果がどうなるかなど火を見るより明らかだった。だからこそ悠玄は、「時間がすべてを洗い流してくれるまで待ち、それから改めて機会を探りなさい」と息子をなだめていたのだ。悠人自身も、まずは無事に学位を取得し、会社を継ぎ、確固たる地位を築いてから想いを伝えるつもりでいた。同じ目線で肩を並べて戦えるほどの力がなくとも、せめて詩織の前に堂々と立てるだけの自信を手に入れてから、どんなに好きかを打ち明けたかった。けれど、結果的にすべてが遅すぎた。いつだって一番完璧なタイミングで告白しようとばかり考えていた。だが、人の想いというものは、都合よく時期を待ってなどくれないのだ。悠人が一言も発さずとも、電話越しの重い空気で悠玄にも息子の落胆が伝わったのだろう。「思い切って、今の気持ちを素直にぶちまけてみたらどうだ?万が一うまくいくことだってあるかもしれないぞ」だが、悠人はその提案を静かに退けた。「……すごく好きです。でも、それはどうでもいいんです。付き合えるかもしれないなんて可能性も、特別な見返りも、最初から望んでいませんでしたから。僕の気持ちなんて、大した問題じゃありません」小さく息を吐き出す。「ただ、幸せでいてくれれば。それでいいんです」受話器の向こうで、悠玄が深く重いため息をつくのが聞こえた。「縁がなかったとしか言いようがないな……」通話が切れてからずっと、悠人はその言葉を頭の中で反芻していた。――そう、縁がなかったのだ。カフェを出た直後、詩織のスマホに着信があった。京介からだ。「食事でもどうか」という誘いだった。昨日の誕生日パーティーで、京介は急用ができたとかで式の途中で先に帰ってしまったが、プレゼントは太一に託してあったのだ。少し考えた後、詩織はその誘いを受けることにした。ちょうど、衆和銀行による華栄キャピタルへの貸し剥がしの
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第1055話

まさか、詩織と京介がここで食事をしているところに鉢合わせするなんて、夢にも思わなかったのだから。太一は柊也が気付くより早くクルリと踵を返し、その腕を掴んで強引に出口へと引っ張った。「やっぱやめた!急にここの料理の気分じゃなくなったわ。別の店にしようぜ!」「頭湧いてんのか」柊也は冷たく言い放ち、太一の手を振り払った。「ここで食うか、さもなきゃ飯自体ナシだ」太一は半泣きになりそうだった。「いや、お前がショックを受けるんじゃないかと思って……」「ショック?何の話だ」言葉を濁す太一だったが、柊也に鋭く睨みつけられ、あっさりと白状した。「……江崎が、誰かと飯食ってるのを見たんだよ」柊也の表情がピタリと止まる。「食事の予定があるとは聞いてる」「男とだよ」太一は声を潜めた。「取引先かもしれないだろ」太一はひどく複雑な顔をして、親友の顔を見つめた。その表情の意味を瞬時に読み取った柊也の眉間に、深いシワが刻まれる。「……京介か」疑問形ではなかった。確信を持った低い声だ。太一が頷く。柊也の顔から、一気に温度が消え失せた。ちょっと目を離した隙に、あの男に入り込まれていたとは。「だから、別の店に行こうって言ったんだよ」太一が再度提案したものの、その言葉に対する返答は、迷いなくレストランの中へと進んでいく柊也の足音だった。太一は天を仰いで額を押さえた。こんなことなら、飯に誘うべきじゃなかった。柊也がどれほど京介を目の敵にしているか、誰よりも知っているのは太一だ。昔から、京介と詩織が一緒にいるのを見るたび、柊也は理性を失って彼女のもとへ乗り込んでいた。何度繰り返しても、その衝動が抑えられたためしがない。あれから何年も経ち、お互いに色々なことを経験してきたはずなのに、根っこの部分は何も変わっていない。こいつ、マジで救いようがねぇ……心の中で盛大に悲鳴を上げながら、太一は腹を括って柊也の後を追うしかなかった。どうか修羅場だけは勘弁してくれと、神に祈りながら。柊也は窓際の席には向かわず、フロアの隅にある少し薄暗い席に迷わず腰を下ろした。そこは、窓際で向かい合う二人の様子が手に取るように見える特等席でありながら、観葉植物とパーティションの陰になり、向こうからは見つかりにくいという絶妙な死角だった。
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第1056話

その言葉を聞いた瞬間、京介の胸に重く苦しいものがつかえた。言いたいことは、山ほどあった。かつて、自らの利益と引き換えに彼女を手放した時の、引き裂かれるような葛藤。霜花との逃げ場のない政略結婚で味わった、息の詰まるような日々。離婚後、霜花が華栄に牙を剥いたと知り、夜通し駆けつけたのに、結局一足遅かったという己の無力さ。だが、喉まで出かかったそれらの言葉は、無理やり飲み込むしかなかった。分かっている。今の彼女には、そんな自分の感傷など何一つ必要ないのだと。「先輩」詩織はゆっくりと視線を上げ、まるで日常的なビジネスの話でもするような、平坦な声で言った。「華栄と衆和の協力関係は、これきりにしよう」グラスの氷を弄っていた京介の手が、ピタリと止まる。「衆和が持っている華栄の株の買い戻しについてだけど」詩織は言葉を続ける。その一文字一文字ははっきりとしており、一片の迷いもなかった。「価格は市場の評価額に十パーセント上乗せする。法務部に契約書は作らせてあるから、いつでもサインできるよ」数秒、沈黙が落ちた。京介は彼女を見つめた。瞳の奥で何かが激しく渦巻き、そして無理やり底へと押さえ込まれていく。痛いほど、わかっていた。これは単なるビジネスの交渉などではない。彼女は最も手っ取り早く、最も冷徹なやり方で、自分との間に決定的な境界線を引こうとしているのだ。突然、喉が締め付けられた。まるで砕けたガラスを飲み込んだかのような痛みが走る。何年も前に、自分自身の手で握り潰してしまった想いが、今になって形を変え、彼の内側を焼き焦がしていた。手を伸ばして、何かを掴み止めたかった。だが、もう自分には何も掴めないのだということも、痛いほど理解していた。昨夜の誕生日パーティーに柊也が姿を見せなかったことで、もしかしたらまだ自分にもチャンスがあるのではないか。もう一度だけ、やり直せるのではないかと、甘い期待を抱いてしまっていた。だが、彼女の首筋に微かに残る赤い痕を目にした瞬間、その淡い期待は無惨に打ち砕かれた。自分はまたしても、決定的に遅れをとったのだ。一度手放した「最高のタイミング」は、二度と巡ってこない。長い沈黙の末、ようやく彼から声が絞り出された。「……分かった」たった一言。ため息のように消え入りそうな声
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第1057話

詩織がメニューを渡すと、柊也はチラリと彼女を見た。その深淵のような瞳からは、何の感情も読み取れない。彼は手慣れた様子でオーダーを済ませた。やがて運ばれてきたのは、見覚えのある盛り付け、見覚えのある料理。熱気を立ち上らせている海鮮リゾットに至るまで、先ほどと全く同じメニューだった。詩織は微かに息を呑んだ。いくらなんでも、頼むメニューまでこんなに被るもの?不思議に思っていると、柊也がナイフとフォークを手際よく使い、大ぶりの海老の身を綺麗に切り分けて彼女の小皿へと乗せた。その動作はどこまでも優雅で、まるで一つの芸術品を完成させるかのように集中している。ハッと我に返り、目の前に差し出された一口分を見て、詩織は困ったように眉を寄せた。「自分で食べて。私、もう食べてきたって言ったじゃない」しかし、柊也の動きは止まらなかった。スッと視線を上げ、漆黒の瞳で彼女の目を真っ直ぐに射抜く。その眼差しはひどく攻撃的でありながら、奥底には隠しきれない執着がドロドロと渦巻いていた。彼はフォークを引っ込めるどころか、刺した身をさらに彼女の唇へと押し付ける。「これ、好きだっただろ?」押し殺したような低い声には、危険な熱が孕んでいた。あいつに取り分けてもらったものは食えるのに。俺の取り分けたものは食えないのか?ずいぶんな扱いの差じゃないか。彼の心の中でどす黒い嫉妬が爆発していることなど知る由もない詩織は、仕方なく口元まで運ばれたそれをパクリと平らげ、口を拭いながら言った。「……さっきもこの店で食べたから、本当にお腹空いてないの」「へえ。誰と?」あくまで何気ない相槌を装っていたが、その声には逃げ場を塞ぐような強い威圧感が滲んでいた。正直に言うべきか、詩織は一瞬迷った。だが、彼が昔から京介を目の敵にしていることを考えると、正直に話せばせっかくの食欲を削いでしまうかもしれない。そう思い、適当に誤魔化すことにした。「……取引先の人」「取引先?」柊也はその言葉を低く復唱し、語尾を少しだけ持ち上げた。次の瞬間、ふっと短く声を漏らして笑う。それは微かな笑い声だったが、詩織の鼓膜をビリリと震わせるような、冷ややかな響きを持っていた。呆れと怒りが混ざったような笑い。「本当に、正直に言うつもりはないんだな?」テーブル
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第1058話

結局、盛大に拗ねてしまったこの男の機嫌を直すため、詩織は京介と会って何を話したのか、その内容をすべて打ち明ける羽目になった。案の定、華栄と衆和銀行の提携を完全に断ち切ったと聞いた途端、柊也の瞳から重い陰りはスッと消え去った。言葉の棘もなくなり、運ばれてきた料理も機嫌良く平らげている。逆撫でされた大型犬の毛並みは、こうして無事になだめられたのだった。食事を終える頃には、すっかり遅い時間になっていた。柊也は車で詩織を家まで送ることにした。夜も更け、黒のマイバッハが、詩織の住むマンションの下にある木陰に静かに停まった。車内はライトが消され、窓の外の街灯が木々の葉の隙間から落とすオレンジ色の光だけが、二人の体をまだらに照らし出している。詩織がドアハンドルに手をかけたが、ドアはピクリとも動かなかった。運転席の男が、またしてもセントラルロックをかけたのだ。柊也は片手をハンドルに掛け、気怠げな姿勢で座っている。だが、半ば暗闇に沈んだその瞳だけは、獲物を絶対に逃さない狼のように、ギラリと妖しい光を放っていた。「……もう帰らなきゃ」詩織は困ったように口を開いた。昨夜も外泊しているのだ。今日も帰りが遅くなれば、母の初恵に確実に怪しまれてしまう。柊也は何も答えず、シートベルトを外すと、そのまま身を乗り出して彼女を座席へと押し付けた。狭い車内が、彼から放たれる支配的で危険な気配に一瞬で飲み込まれる。彼はすぐにキスをしようとはせず、彼女の首筋に深く顔を埋めた。敏感な肌に熱い吐息が吹きかかり、詩織の肩がビクッと震える。「……もう少しだけ、このままでいさせろ」ひどく掠れた声だった。どこか拗ねたような、開き直ったような響きがある。「今日は、あの食事のせいで胸糞悪かったんだ。お前には、その埋め合わせをする義務がある」詩織は小さくため息をつき、彼を押し退けようと手を上げた。しかしそれに触れるより早く、彼の温かく大きな手が彼女の顎を捕らえ、無理やり上を向かせる。次の瞬間、すべてを奪い尽くすような、長く強引なキスが降ってきた。そこに優しさは微塵もない。ただ純粋な独占欲と、嫉妬による罰だった。彼は貪るように彼女の甘さを奪い、舌先で強引に唇をこじ開け、反抗する声さえもすべて飲み込んでいく。詩織が完全に息を詰まらせ、
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第1059話

熱を持った耳たぶを指で揉みほぐしながらも、その口角はどうしようもない溺愛の弧を描いている。柊也は車から降りるとボンネットに寄りかかり、彼女のたった一言で爆発的に煽られてしまった身体の熱を、冷たい夜風に晒して冷ました。一方、無事に帰宅した詩織は、母の初恵が休んでいるのを確認してから自分の部屋へと戻った。真っ先にスマホを取り出し、「今、部屋に着いたよ」と柊也にメッセージを送る。連絡を入れなければ、あの男はいつまでもマンションの下で待ち続けてしまう。だから、家に着いたらすぐに報告するのが二人の間の暗黙のルールになっていた。クローゼットからパジャマを取り出していると、すぐに柊也から返信を知らせる通知が鳴った。画面を見た瞬間、今度は詩織の顔がカッと熱くなる番だった。先ほど、車から逃げる直前に彼女が囁いたセリフ。『……歯だけじゃなくて、舌のテクニックも最高だったよ』それに対する、柊也からの返信。【どうやら、随分とご満足いただけたみたいだな】......月曜日。詩織が会社に着くや否や、アシスタントの密がプンプンと怒った様子で社長室までついてきた。歩きながら、密は怒り心頭といった様子で捲し立てる。「木村さん、いくらなんでもやりすぎです!うちが危機に陥ったのをいいことに、詩織さんに自分の持ち株を買い戻すよう迫っただけでも最低なのに、裏で社員を引き抜いて案件まで横取りしようだなんて!」「誰が引き抜かれたの?」詩織のトーンは、驚くほど凪いでいた。「投資第三部のマネージャー二人です。今朝一番で、揃って人事部に辞表を出してきたんですよ。二人とも現在進行中の案件を抱えていますし、このタイミングで辞めるなんて、案件ごと他社へ飛ぶ気満々じゃないですか!」密の怒りは一向に収まらない。「何が腹立つって、その二つの案件はうちの第四四半期における最大のプロジェクトなんですよ! これまで会社がどれだけのリソースをつぎ込んできたと思ってるんですか。それをあっさりかっさらう気ですか!?」対する詩織は、全く慌てるそぶりも見せなかった。「本当に奪えるものならの話だけどね」密は言葉に詰まった。内心、彼女は気が気ではなくてたまらないのだ。現在、華栄キャピタルの株価は下落の一途を辿り、ともすれば公開価格を割り込みかねない危険な水準にあ
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第1060話

詩織はそれには答えなかった。ただ静かに手を伸ばし、デスクの隅にあった一部のファイルを手に取ると、木村の目の前へと滑らせた。「開いて、目を通してください」木村は訝しげに眉をひそめ、そのファイルを開いた。しかし、最初の1ページに目を通した瞬間、男の顔から一気に血の気が引いた。それは『競業避止義務契約書』のコピーだった。そこには、木村が引き抜こうとしている二人の名前と、入社時に彼らが自らサインした厳しい違約条項がはっきりと記されている。『違約金は年俸の三倍』『加えて、会社が投じた育成リソースの損害賠償を全額負担すること』その賠償請求額は、小数点以下の単位まで一切の容赦なく、克明に弾き出されていた。「これはただの恐喝じゃないか!」木村は顔を上げ、裏返った声で叫んだ。詩織は椅子の背もたれにゆったりと体を預け、指先でデスクを軽く叩いた。「業界の標準的な規約ですよ。彼らが支払う違約金より、会社が彼らの案件に投じてきた先行投資のほうがずっと高額です」「木村さん」彼女の声はどこまでも平坦だったが、一つひとつの言葉が鋭い刃のように突き刺さる。「彼らは私が手塩にかけて育て上げた人材です。右も左も分からない新卒のインターンから、一人前のマネージャーになるまで三年かかりました。……たかが『明るい未来』なんて安っぽい言葉だけで、私の三年間の血と汗をすんなり譲るとでも思いましたか?」少しだけ言葉を区切り、詩織は視線を木村の顔に固定したまま、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。「それに、引き抜きをかける前に法務部に確認しなかったんですか?彼らの競業避止義務の有効期限がいつまでか、と」木村の顔色が青から白へと目まぐるしく変わる。当然、競業契約の存在は知っていた。だが、華栄が今の苦境にある中で、詩織がそこまで手が回るはずがない、追及してこないだろうと高をくくっていたのだ。それでも、木村はあの二つの大型案件を喉から手が出るほど欲していた。彼は渋々プライドを引っ込め、少しだけトーンを落とした。「……それで、江崎さんはどうすれば彼らを手放してくれるんだ?」「規定通り、全額賠償していただくだけですけど」詩織は事もなげに言い放つ。その額は決して安くない。木村は心の中で素早く計算を巡らせた。だが、あの二つのプロジェクトを丸ごと手に
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