All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 1071 - Chapter 1080

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第1071話

一方、使いに出していた秘書からの報告を聞いた真理子は、苛立ちを隠せずにいた。「どうして何一つ掴めないの?大の大人が忽然と消えるわけがないでしょう。何かしら状況がつかめるはずじゃない!」だが、現場に行っても何もわからなかったという事実が、真理子の腹の底に得体の知れない不安を増殖させていく。様子を探りに行っていた秘書が、宥めるように推測を口にした。「おそらく、本人はまだ昏睡状態なのではないでしょうか。もしすでに目を覚ましていれば、江崎は必ず何らかのアクションを起こすはずです。今のように何事もなかったかのように静観しているわけがありません」その言葉に、真理子は椅子に座り直し、じっと思考を巡らせた。確かに、そうね……もし岩田健一が目を覚ませば、彼は自分が騙されていたことに気づき、間違いなくすべての真相を詩織に打ち明けるだろう。そうなれば、詩織は即座に公式声明を発表し、「華栄キャピタルは今回の件で不当に陥れられたのだ」と世間に公表するはずだ。すべては仕組まれた陰謀だったのだ、と。にもかかわらず、詩織がまったく動く気配を見せないということは、やはり岩田はまだ目を覚ましていないという証拠だ。「真理子さん、ご心配には及びませんよ」真理子の不安を察し、秘書が自信ありげに言った。「あの時、ヤツに渡した金は海外のダミー口座を経由させています。江崎ごときに、その金の出どころを調べ上げる力などありません」「……それでも、どうにも嫌な予感がするのよ。私が直接、病院へ行って様子を見てくるわ」自分の目で確証を得なければ、この胸のざわつきはどうにも収まりそうになかった。病院内の一角。健一の妻である里奈は、詩織の顔を見るなり、いたたまれないように深くうつむいた。詩織が担当医から健一の容態について説明を受け終えると、里奈はあらかじめ用意しておいた書類を両手で恭しく差し出した。「江崎社長。こちらで足りるでしょうか。ご確認をお願いいたします」それは、公式の場で行う記者会見用の原稿と、ネット上で公開予定の声明文だった。詩織はざっと目を通した。事件の経緯や、裏で糸を引いていた者の存在など、公にすべき事実はしっかりと網羅されている。「これで十分です。あとはこちらで手配したメディアや担当者と、すり合わせをお願いします」詩織が書類を返すと、里奈は
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第1072話

背後からは、搭乗案内を告げる空港のアナウンスが聞こえてくる。彼は今、空港のロビーにいるらしい。悠人は現在、大学で多忙を極めており、研究プロジェクトが最も重要な時期に差し掛かっていた。今回のたった三日間の帰国も、この半月間、寝る間も惜しんで徹夜し続け、強引にスケジュールをこじ開けてようやく捻り出したものだった。詩織が極度の激務に追われていると知っていたため、気遣ってあえて自分からは連絡していなかったのだ。だからこそ、このタイミングで詩織から着信があったことに、悠人は少し驚いていた。アナウンスの音で状況を察した詩織が尋ねる。「悠人くん。あなた、もう戻るの?」「ええ。プロジェクトが一番の正念場なんですよ。今戻らないと、卒業が延びてしまいますから」詩織が帰国してからのこの一年間、悠人は狂ったようなペースでカリキュラムを前倒しに消化し続けている。一刻も早く卒業して国内へ戻り、詩織の背中に追いつきたくてたまらないのだ。留年して足踏みすることなど、悠人にとって絶対に許容できないことだった。「華栄の株を買い支えるために八百億円も突っ込んだって、一体どういうつもりなの?」詩織が単刀直入に問い詰めると、悠人は「今日はお天気がいいですね」とでも言うようなごく平坦なトーンで答えた。「はい。もちろん、詩織先輩には事前に相談するつもりだったんですが、最近すごく忙しそうにされていたから。お邪魔になっちゃ悪いと思って、僕の判断で動かしました」彼は少し間を置いてから、付け加えるように言う。「心配しないでください。この決定は、父さんともきちんと話し合って決めたことですから」詩織は深いため息をつき、頭を抱えそうになった。「これがいかにハイリスクなことか、わかってやってるの?万が一、その八百億円が水の泡になったらどうするつもり?」それでも、悠人の声はどこまでも落ち着き払っていた。「実は、資金は三段階に分けて用意してあるんです。最初の八百億円を投入して相場が動かなかったら、次は二千億円、最後は三千億円を追加で突っ込む手はずになっています」「大丈夫です。どこかの段階で、必ず相場は持ち直しますよ」電話越しに、短い沈黙が降りた。数秒後、詩織は半ば呆れ、半ば頭痛をこらえるような声で口を開いた。「……あなたね、八百億円もの大金をなんだと思ってるの? 底な
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第1073話

「賀来グループの公式サイトでデカデカと発表されてるんですよ!? 偽物なわけありません!」密の言う通りだった。「それに、いくらなんでも賀来海雲相手にこんなバカげたフェイクニュースを捏造できる命知らず、いるわけないじゃないですか!」確かにその通りだ。まるで分厚い霧の中に放り込まれたように、詩織の思考は完全にショートしていた。あれこれと頭を悩ませるより、本人に直接聞いた方が早い。詩織はすぐに柊也の番号を呼び出した。詩織からの電話には、彼はいつも恐ろしいほどの早さで出る。今回も例外ではなく、詩織が口を開くよりも早く、彼の方から先を越された。「遺言書の件なら、その通りだよ」「……ってことは。本当に?」「ああ、本当だ」柊也の声は、どこまでも平穏だった。「しかもその遺言書、実は五年前にはすでに作成し終わっていたんだ。それが今日になって、大々的に公表されただけでね」立て続けに叩きつけられた衝撃の事実に、さすがの詩織も唖然とするしかなかった。「あなた……それでいいの?文句はないわけ?」名家における遺産相続といえば、兄弟間で血で血を洗う骨肉の争いが起きたり、親族同士が一生の仇敵になることなど珍しくない。莫大な権力と富を前にして、狂わない人間などいないのだ。それをすべて自分に譲るというのに、彼は一言も不満がないのだろうか。電話の向こうで、柊也はフッと低く笑った。「忘れたのか?俺が贺来家を出て起業した時、父さんにはっきり宣言しただろう。賀来家の財産も権力も、一切合切放棄するって」詩織はハッとした。――確かに、彼はそう言っていた。しかも、その言葉通り、彼は自力で今の地位を築き上げたのだ。起業したばかりの数年間は、誰もが経験するような泥水をすするような苦労を、一切の例外なく彼も味わってきた。明日の資金繰りすら見えず、会社が完全に潰れかけたどん底の時でさえ、彼は海雲にただの一度も助けを求めようとはしなかった。だからこそ、後にエイジア・キャピタルに重大な監査のメスが入った時にも、賀来グループ本体には一切の火の粉が飛ばずに済んだのだ。けれど……それは、過去の話だ。数兆円規模の財産が自分に転がり込むなんて、詩織の胸中はひどく複雑だった。「ちょうどいいじゃないか」戸惑う詩織をからかうように、柊也は明るい声で言った。
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第1074話

それは間違いなく、現在世界中で最も熱狂を生んでいる超大型プロジェクトだ。AI技術が凄まじい勢いで進化を遂げる今、処理能力(コンピューティング・パワー)に対する需要は指数関数的な爆発を見せている。詩織自身も、自社のAI『ココロ』をリリースした翌年にはその重要性に気づいており、ここ数年ずっとこの分野で確かな技術を持つ投資先を探し求めていたのだ。いくつか有望な企業を視察したものの、彼女が求める厳しい基準をクリアする会社は一つもなく、強いもどかしさを感じていたところだった。だが、栞キャピタルは違う。彼らはこの分野において圧倒的なアドバンテージを持っている。彼らの傘下には、世界最先端の「HTS(高温超伝導)技術」が存在するからだ。他社の力を借りずとも、完全に独力で開発を進められるだけのリソースと力を持っている。それなのに、なぜ栞キャピタルはわざわざこの絶妙なタイミングで、華栄に共同開発を持ちかけてきたのか。ただの気まぐれであるはずがない。その裏に絶対的な『理由』があると疑わない方が無理な話だった。「社長。もしかして、栞キャピタルのトップと個人的な繋がりを持っていらっしゃるのですか?」副社長がたまらず尋ねてきた。「いいえ、まったく面識はありません」詩織は正直に首を横に振った。その率直な答えに、現場の疑問はさらに深まるばかりだった。個人的なツテがないのであれば、なぜこんな天文学的な規模の特大案件が、よりによって華栄の頭上に降ってきたというのか?周囲に広がるざわめきなど耳に入らないかのように、詩織の思考は遠く離れた別のところへ飛んでいた。以前、栞キャピタルについて詳しく調査したことがある。だが、法人登記されている代表者の名前はまったく見覚えのないものであり、詩織自身とは欠片ほどの接点もなかった。しかし今、栞キャピタルが投資する『高温超伝導プロジェクト』というキーワードが、彼女の脳裏に強烈なフラッシュバックを呼び起こしていた。かつて、柊也もこの領域に足を踏み入れたことがあったのだ。もっとも、あの時の彼は志帆のキャリアを後押しするためだけに動いていたのだが。結局そのプロジェクトは何の成果も出せずに宙に浮き、業界内ではちょっとした笑い話として処理された。しかし詩織にとっては、心の奥深くに突き刺さった、目に見えない
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第1075話

真理子がこのタイミングを狙って接触してくることも、とうに想定の範囲内だった。だからこそ、詩織は一切の未練なく『ココロ』を切り捨てたのだ。――どうせあのAIは、遠からず市場から完全に淘汰される運命にあるのだから。また、この機に乗じて辞表を叩きつけてきた連中も同様だ。そんな薄情な者たちを無理に引き止めたところで百害あって一利なし。不安に駆られて船を降りる者たちを綺麗に一掃し、最後まで残った本物の精鋭だけを引き上げる。世間からは「華栄の屋台骨が崩れかかっている」と見えていたかもしれないが、詩織にとっては老廃物を出し切り、組織を再構築するための「絶好のデトックスの機会」でしかなかったのだ。彼女がここまで大胆な博打を打てたのは、業界の勢力図を根底から覆すほどの『強力な手札』を二枚も隠し持っていたからに他ならない。一つは、中博の開発チームが一ヶ月前にコア技術の壁を突破し、超高性能チップの開発に成功していたこと。この切り札一枚を場に出すだけで、華栄は未来のテクノロジー市場で絶対不動の地位(エコシステム)を確立できる。そして第二の手札は、彼女が水面下で最も深く仕込んでいた『暗躍の駒』。ステラ・テックだ。真理子が最初に謀略を仕掛けてきたあの時、すでに詩織の脳裏には一つの構想が出来上がっていた。自分が『ココロ』というAIを育て上げられたのなら、二つ目、三つ目のAIを創り出すことなど造作もない。そしてその構想は、小春の圧倒的な才能を発見した瞬間に、完全に具現化した。小春は彼女の期待を裏切らなかった。わずか半年に満たない期間で、『ココロ』を遥かに凌駕する圧倒的スペックのスーパーAIの根幹コードを書き上げてみせたのだ。智也の恩師である饒村教授でさえ、小春を筆頭とする開発チームが生み出したこのスーパーAIがリリースされれば、「『ココロ』など次元の違いで一瞬にして時代遅れになる」と断言したほどだ。これらの布石をすべて配置し終わった後、この二枚のジョーカーを同時に叩きつけ、華栄を華麗に大逆転させる。それが詩織の描いた完璧なシナリオだった。――それなのに。まさか、自分よりも先に動いた者たちがいるなんて。彼らの圧倒的な力によって盤面がすでに制圧されてしまった以上、詩織の隠し持っていた手札は、出番を失ってしまったのだった。
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第1076話

実のところ、華栄に電話をかけてきたのは汐莉ではなく、サンライズ・エナジーを実質的に取り仕切る兄、政志本人だった。華栄側から容赦のない「面会拒絶」の返答を受けた政志は、尋常ではない焦りに襲われていた。彼はすぐさま汐莉に電話をかけ、切迫した声で指示を出した。「今しがた、華栄に面会を申し入れたんだが、にべもなく断られてしまった……汐莉、こうなったらお前からもう一度、悦子さんにお願いできないか。なんとかして、江崎詩織との仲介役を引き受けてもらえるように頼み込んでくれ」スマートフォンを握りしめる汐莉の指先は白く、爪が手のひらに食い込むほどだったが、事の真相など政志には口が裂けても言えなかった。詩織がなぜサンライズとの面会を冷酷に突き返したのか――その絶対的な理由を、汐莉は嫌というほど理解している。かといって、悦子に泣きつくことなどできるはずがなかった。自分が裏で詩織に対し、どれほど傲慢で愚劣な態度をとったかを知られでもしたら、悦子は自分をどう見るだろうか。軽蔑されるに決まっている。そもそも、悦子が「サンライズと華栄の橋渡しをしたい」と持ちかけてきた時から、汐莉の腹の底にはどす黒い不快感が渦巻いていた。それでも表面上は平静を装い、素直に従うフリをして華栄へと足を運んだ。道中、悦子は汐莉の目の前で、詩織がいかに傑出した存在か、どれほどビジネスの天賦の才に恵まれているかを延々と絶賛し続けた。「華栄と組めば、必ずサンライズの大きな力になるわ」と。当時の汐莉は、悦子がわざと華栄を大袈裟に持ち上げて自分を牽制しているのだと邪推していた。自分が提携を嫌がるのを恐れて、あるいは詩織を過大評価して助け舟を出そうとしているのだと。そのせいで詩織への反発心はさらに膨れ上がり、悦子が席を外した隙を突いて、あんな露骨な挑発をしてしまったのだ。だが、誰が予想できただろう。詩織の逆襲がこれほどまでに早く、そして途方もないスケールで訪れるなど。手立てを講じる隙すら与えない、圧倒的な大津波だった。汐莉は深く息を吸い込み、必死に震えを抑えながら答えた。「……わかったわ。今から悦子様にお願いしてみる」通話を切ると、汐莉はギリッと歯を食いしばり、瞳にどうしようもない嫉妬と怨念の色を滲ませた。だが、どれほど屈辱的だろうと、今はその感情を泥水ごと飲み込むし
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第1077話

「さて、もう遅いし今日はゆっくり休むといい。おやすみ」譲はいつもと変わらぬ、優しく思いやりに満ちた声で別れを告げた。汐莉は思わず唇を噛み締めた。もう少しだけ、一緒にいてほしい。ただの婚約者としてではなく、もっと深い関係へと踏み込んでくれてもいいはずなのに。すでに正式な婚約まで交わしているのだ。男女としての一線を越えたところで、誰に咎められるものでもない。だが、譲はいつだって「完璧な紳士の距離」を崩さなかった。彼女の額に形式的なキスを一つ落としただけで、あっさりと背を向けて去っていった。薄暗い部屋に取り残された汐莉は両手をきつく握りしめ、顔を恐ろしく歪ませた。以前の彼女は、彼が手を出してこないのは「自分を心から大切に思い、尊重してくれているからだ」と美化して信じていた。しかし、彼の心の中に江崎詩織という圧倒的な存在が居座っていると知った今、その「距離感」はただの残酷な拒絶でしかない。独りよがりな夢を見ていた自分が、どうしようもなく滑稽で惨めだった。それでも。譲の心が別の女のところにあると知っていても、汐莉は何も知らないふりを演じ続けるしかない。彼を愛しているから、という理由だけではない。彼の背後には、サカザキ・モータースという巨大な帝国が控えているのだ。これは、榎崎汐莉という女の人生において、絶対に手放してはならない最高のカードなのだから。......海雲との夕食を終え、柊也は賀来家の本邸を後にした。食事中、海雲からは散々小言を言われた。『私と飯を食う暇があるなら、その時間を少しでも使って、さっさと正式な恋人の座をもぎ取ってこい』と、呆れ顔で吐き捨てられたのだ。――俺だって、そうしたいに決まっている。いっそ気が狂いそうなほど、その揺るぎない肩書きが欲しい。だが、焦りは禁物だ。少しずつ、慎重に距離を縮めていくしかない。今の詩織が俺の前から逃げ出さずに留まってくれている。それだけでも、神に感謝したいくらいなのだから。車に乗り込むと、運転手がルームミラー越しに尋ねてきた。「ご自宅へ直行なさいますか?それとも、エメラルド・テラスへ向かいましょうか?」エメラルド・テラスは、詩織の住む高級マンションだ。柊也は少し考えを巡らせてから、「いや、帰ろう」と答えた。今の詩織は抱えているものが多
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第1078話

朝から晩まで、それこそ気が触れるほど会いたかった人が、そこにいた。詩織が、俺の家のソファで眠っている。コートも脱がないまま、手近にあった薄手のブランケットを頼りなげに膝に掛け、柔らかなクッションに深く身を預けていた。規則正しい寝息に合わせて、頬にかかった細い髪がかすかに揺れている。リビングの照明は点いていない。窓から差し込む冴え冴えとした月明かりと、遠くに見える高層ビルのネオンだけが、その静かで穏やかな横顔の輪郭をうっすらと浮かび上がらせていた。柊也は極めて慎重に、ゆっくりとしゃがみ込み、視線の高さを寝顔に合わせた。無意識のうちに息を止めている自分がいた。服が擦れるかすかな衣擦れの音さえも、この奇跡のような幻を打ち砕いてしまうのではないかと恐ろしかったのだ。部屋の明かりは点けず、ただ静かにしゃがみ込んだまま、愛しい人の目鼻立ちをミリ単位でなぞるように見つめ続ける。今日一日、一度も会えなかったことで蓄積された行き場のない焦燥感が、春風になでられた雪のように跡形もなく溶けて消えていくのを感じた。どんよりと沈み込んでいた胸の奥で、心臓が制御不能な激しさで脈打ち始める。ドクン、ドクン、ドクン――熱い血が全身を駆け巡り、理性を焼き尽くそうと暴れ回っている。今すぐ腕を伸ばして、その細い体を力任せに抱きしめたい。微かに開いた冷たそうな唇に、深く口付けたい。今日一日分の、いや、これまで溜め込んできた焦がれるような想いと飢えを、すべて目の前の人にぶちまけてしまいたかった。だが、その安らかな眠りを邪魔することだけは絶対にしたくなくて、柊也は力の入る両手をぎゅっと握り込み、狂おしいほどの欲望を必死にねじ伏せた。薄闇の中、貪るような、それでいて必死に理性を保った視線が詩織に注がれる。瞳の奥には人を溺死させるほどに深い愛情と執念が渦巻いていたが、その佇まいは祈りを捧げるかのように静まり返っていた。だが結局、心の底で暴れ狂う渇望を押さえつけることなどできるはずもなかった。柊也はゆっくりとうつむき、ありったけの優しさと自制を込めて、その冷たさを帯びた唇にそっと自分の唇を重ねた。一切の無理強いのない、壊れ物をうやうやしく扱うような、ただひたすらに優しい口付け。ふつふつと湧き上がる己の衝動をなだめるためだけに
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第1079話

詩織は自分の横の空いたスペースを手のひらでポンポンと叩く。「少し、話さない?」柊也の瞳にはまだ暗い欲情が渦巻いていた。何度か深呼吸をしてから、かすれた声で絞り出す。「……悪いが、少し待っててくれ。冷水シャワーを浴びてくる」詩織はカッと頬が熱くなるのを感じた。「お湯にしなさいよ。水なんか浴びたら風邪をひくわ」「残酷な女だ」口ではそう言いながらも、その声に恨み言の色は微塵もない。いつだったか柊也が口にした、『一生きりきり舞いにされたって構わない』という言葉は、今でも有効なのだ。浴室へ向かった柊也が戻ってくるのは随分と遅く、待っている間に詩織はうとうとと眠り込んでしまった。夢うつつのまま、ふと息苦しさを覚えてもがき、目を覚ます。詩織はいつのまにか、寝室のベッドへ運ばれていた。部屋の明かりはやはり消えため。だが、その暗い空間が、かえって感覚や嗅覚を限界まで研ぎ澄まさせていく。シャワーを浴びたばかりの柊也の体から、清涼感のある針葉樹のような良い香りが漂っていた。「ん……」詩織は小さく鼻音を漏らしながら、覆いかぶさる厚い胸板を押し返そうとする。だが、喉の奥から漏れ出る細い声はまるで子猫のように甘く、かえって相手を煽ってしまっていた。柊也は離れようとはせず、大きな手で詩織の顎を軽くすくい上げながら、優しかった口付けをさらに深く濃厚なものへと変えていく。押しとどめようと持ち上げた詩織の手が、まだ湿り気を帯びた髪に触れた。指先に冷たくてみずみずしい水気が付着する。意識も、肺に吸い込む空気も、すべてがこの男の匂いに占拠されていく。詩織はやがて抵抗を諦め、のしかかる重みを受け入れながら、何度も何度も繰り返される深いキスに身を委ねた。ここ最近で、柊也のキスは恐ろしいほどに上達している。強弱や緩急のつけ方は多彩で、ただ唇を合わせる行為だけでも、無限の愉悦を感じているかのように執拗だった。じわじわと感覚を引き上げられ、詩織の口から欲求を滲ませた吐息が漏れる。「柊也……」たまらず名前を呼んだ。「ああ、ここにいる」詩織の耳元に唇を這わせながら、熱い吐息とともに囁き落とされる。その熱さに、詩織の体がびくっと跳ねた。「私……私も、冷水シャワーが必要みたい……」その言葉に柊也は耳元で低く笑った。「なら、俺
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第1080話

――同時刻。『栞キャピタル』代表室。深夜にもかかわらず、煌々と明かりが点いている。太一は今夜も絶賛残業中だった。デスクの端には、誰の趣味か『社畜』と筆文字で書かれた木彫りの置物が鎮座している。モニター越しのオンライン会議で部下の報告を聞いていた太一は、ふいに鼻の奥が猛烈にムズムズしはじめ、耐えきれずに盛大なクシャミを放った。「へっくしょん!」傍らに控えていた秘書が心配そうに身を乗り出す。「社長、葛根湯でもお湯で溶いてお持ちしましょうか?」「いや、いい」太一はズズッと鼻をすくうと、画面の向こうで固まっている部下に顎で促した。「気にすんな、続けてくれ」一方、柊也から太一のここ数年の奮闘や変化を聞き、詩織は深い感慨を覚えた。「太一くんのお父さんが、今の彼の立派な姿を見られなかったのが本当に残念ね……」「親父さんに申し訳ないっていう後ろめたさがあるからこそ、あいつは死に物狂いで頑張れる原動力を得たんだよ」とはいえ、詩織にはまだ疑問が残っていた。「それにしても、一体どうやってあそこまで有能なトップに仕立て上げたの?」「一から十まで教え込んだよ。さすがに手取り足取りとまではいかないがな。まあ、あいつは男で頑丈だから、酒の席や生臭い接待で多少痛い目を見させても問題ないと思って、容赦なく矢面に立たせてこき使ったのもあるが」「ぶぇっくしょん!!」代表室に、再び太一の大きなくしゃみが響き渡った。秘書は真顔で言った。「……やっぱり、風邪薬を作ってきますね」柊也の言葉を聞き、詩織は自分が仕事を始めたばかりの頃の接待を思い出した。確かに女性はビジネスの場で損をしやすい。だが思い返せば、酒を多く飲まされたくらいで、悪質な嫌がらせはほとんどなかった。たまに危ない目に遭いそうになっても――例えば、G市の数馬武の件など――いつの間にか相手が消えるなどして、うやむやになっていたのだ。後になって譲の元恋人である神崎美咲から真相を聞かされるまで、裏で柊也が手を回して守ってくれていたことなど全く気づいていなかった。詩織はその広い胸に顔を埋め、息に紛れるほどのかすかな声で尋ねた。わずかに震えている。「じゃあ……あの頃、私の仕事が順調だったのも、あなたが裏で全部道筋を作ってくれていたからなの?」柊也は否定せず、腕に込める力を強め
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