All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 1081 - Chapter 1090

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第1081話

胸元に顔を押し当てたまま、詩織は肌越しにその感情の揺れをはっきりと感じ取っていた。「あらゆる手を使って道を作り、お前が傷つかないよう徹底的に鍛え上げた……だが、一つだけ想定外だった。お前が俺のために、海外留学のチャンスを諦めるとは思わなかったんだ」その事実を知ったのは、かつて志帆の身辺を洗った時のことだ。当時は、ただ恩を返すために残ってくれたのだと思っていた。それでもやはり、自分のせいで可能性を奪ってしまったことに深い後悔を抱えていた。詩織は少し顔を上げ、尋ねた。「もし私が留学を諦めずに、そのまま海外へ行ってたらどうなってたの?」答えはすぐには返ってこなかった。優しさと愛おしさに満ちていたはずの瞳が、薄闇の中で少しずつ暗く沈んでいく。その沈黙に呼応するように、寝室の空気が凍てつくほど冷たく変わった。やがて、一切の温度を失った低い声が響く。「それなら、あんなに時間をかけて裏で手を回したりはしなかった」「あいつら全員を道連れにして、一緒に消えていたさ」ふわりと吐き出された言葉だが、その重さは尋常ではなかった。ためらいや損得勘定の欠片も、一瞬の迷いすらもない。瞳の奥に一瞬だけ閃いた底知れぬ狂気と殺意に触れ、詩織は思わず身震いをした。柊也は首筋に深く顔を埋めた。重く熱い吐息が肌を打つ。「……だが、お前は残ってくれた」「一緒に過ごす一分一秒が惜しくなって、絶対に手放したくなくなった。そして何度も考えたんだ。俺が全員を地獄へ引きずり込んで消えたら、残されたお前はどうなるんだってな」母・初恵への骨髄提供を求めて、親族の家の前で一晩中土下座をしたにもかかわらず冷酷に追い払われ、絶望した顔で病院へ戻ってきたあの姿が、柊也の脳裏には今も焼き付いている。もしまたあんな理不尽な困難に襲われた時、誰の手も借りられなかったらどうするのか。だから、どんな嵐が吹き荒れても跳ね返せるだけの絶対的な力を身につけさせたかった。そのために、柊也は計画を変えた。持ちうる手駒をすべて使い、一歩も間違えられない危ない橋を慎重に渡り続けた。すべては、詩織が一人で立てるだけの力を手にする時間を稼ぐためだ。たくましく成長した姿を見届けるその日が、自分が刑務所に入り、その手を離す日になることなど、当時の詩織は知る由もなかった。だが今
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第1082話

同じビジネスの世界に身を置く者として、この言葉の裏にある冷意に気づかないはずがない。「不在」などというのはただの建前だ。先日こちらが鼻で笑ったことに対する、明らかな意趣返しに他ならない。しかし、現在のビジネス界は生き残り競争が熾烈を極めている。サンライズ・エナジーは西のエリアで一定のシェアを誇っているが、状況は常に変化している。特にAI技術が爆発的に普及している今、いち早く新技術を導入して市場を先取りしなければ、あっという間に時代遅れの泥舟になり下がる。実の兄である政志が、自ら直接乗り込んできたのもそのためだ。汐莉自身もその危機感は痛いほど理解していた。だからこそ、どれほど露骨な屈辱を味わわされようと、今は歯を食いしばって耐えるしかない。必死に取り繕った笑みを浮かべ、密に問いかける。「それでは、社長はいつ頃お戻りになる予定でしょうか?」「申し訳ございません。そちらについては伺っておりません」鉄壁の対応を崩さない密からこれ以上の情報を引き出すのは無理だと悟り、汐莉は諦めて踵を返した。一階のエントランスまで降りたものの、そのまま帰るわけにはいかなかった。汐莉はスマートフォンを取り出し、譲の母である悦子へ電話をかけた。詩織の直接の連絡先を聞き出すためだ。「あら、この前の席で連絡先を交換していなかったの?」怪訝そうな悦子に対し、汐莉は誤魔化すように言った。「その……仕事のお話に夢中になってしまい、うっかり忘れてしまったんです」悦子は特に疑う様子もなく、あっさりと番号を教えてくれた。連絡先を手に入れた汐莉は、すぐさま発信ボタンをタップした。しかし、コール音が空しく鳴り続けるだけで、一向に繋がる気配はない。実はここ最近、華栄には各界からの問い合わせが殺到しており、対応しきれないため詩織はほとんどの着信をスルーしていた。決して汐莉の番号だから出なかったわけではない。だが、そんな裏事情など知る由もない汐莉は「わざと無視されている」と思い込み、腹の底で苛立ちを募らせた。それでも今は我慢するしかない。怒りをなんとか押し殺し、今度はメッセージアプリを開いて文章を打つ。文面はひたすらに下手に出た誠実なものにした。【江崎社長、お世話になっております。サンライズ・エナジーの榎崎汐莉です。先日の提携の件について、
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第1083話

お昼前、社長室にコーヒーを運んできた密が、少し世間話めいた口調で切り出した。「一階の警備員から聞いたんですが、あの榎崎さん、ようやく帰ったみたいですよ。三時間以上もロビーで張り込んでいたそうです」パソコンの画面から目を離さず、詩織は淡々と感想を述べた。「へえ、案外根気があるのね」そうこうしているうちに、神宮寺悠玄から着信が入った。今ちょうど江ノ本市に到着したところで、もし時間が合えば一緒に食事でもどうか、という誘いだった。華栄が絶体絶命の危機に陥った際、彼が率いる神宮寺グループが莫大な資金を投じて株価を支えてくれた恩を、詩織は決して忘れていない。もちろん断る理由などなく、詩織は自ら会食の場をセッティングさせてもらうと申し出た。午前十一時半。会食へ向かおうと一階に降り立った詩織の前に、すっと立ち塞がる人影があった。汐莉だった。帰ったと見せかけて、ずっとロビーの死角で張り込んでいたらしい。ようやく目当ての人物を捕まえた安堵からか、その声には必死さがにじんでいた。「江崎社長、少しだけお話できませんか」まさかまだいるとは思わず詩織は少し驚いたが、態度は崩さなかった。「申し訳ないけれど、時間がないの」冷たくあしらわれても、汐莉は引き下がらない。「お忙しいのは重々承知しております。ですが、そんなにお時間は取らせません。どうか――」「それなら、秘書を通してアポイントを取ってちょうだい」そこまで言われ、汐莉の表情がピクリと引きつった。『アポイントを取れ』というのは、単なる門前払いだ。朝から半日も待たされ、散々蔑ろにされてきた屈辱と苛立ちが、ついに限界を超えて爆発した。「本当に時間がないんですか?それとも、この前のことを根に持って、わざと私に嫌がらせをしているの?」詩織は足を止め、ゆっくりと汐莉を振り返った。その視線は、どうしようもない愚か者を見るように冷え切っている。「……自分で分かっているなら、どうしてわざわざ恥をかきに来るの?」身も蓋もない直球の言葉に、汐莉は返す言葉を失い、完全に硬直した。詩織はそれ以上相手にすることなく、邪魔な石を避けるように汐莉の横を通り過ぎていった。一人残された汐莉は、暗く沈んだ顔のまま、怒りでわななく拳を強く握りしめた。その後、滞在先のホテルへ駆け込んだ汐莉は、兄の政志
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第1084話

詩織と悠玄との会食は、終始和やかな雰囲気で進んだ。食事が終わり、詩織が会計をしようとすると、悠玄が強引に伝票を奪い取った。何度辞退しても、彼は一歩も譲らない。「江崎さん、ここは私に払わせてください!うちの悠人からも『絶対に僕たちの奢りにしろ』と釘を刺されているんですから。それに例の株の件だって、恩だなんて思わないでください。私たちの方こそ、八百億円を投資した途端、たった一日で五倍に膨れ上がったんですよ?」悠玄は豪快に笑った。「人助けどころか、こっちがボロ儲けさせてもらったんです。今日の食事代くらい、なんてことありませんよ!」そこまで言われては断りきれず、詩織は微笑んで引き下がった。店員が会計の処理をしている間、悠玄は心中で密かに策を練っていた。なんとかして詩織の気持ちを探り、息子である悠人のために援護射撃をしてやれないかと。彼は昔から、江崎詩織という女性を高く評価していた。数年前、悠人が彼女のあとを追って海外へ留学すると言い出した時も、両手を挙げて大賛成したくらいだ。『同じ空の下、一番近くにいればあっという間に落とせるだろう』と、息子にはどんどんアプローチするよう発破をかけていたのだ。ところが、あの馬鹿息子ときたら本当に情けない。あれから四年間、ずっとそばにいたというのに、二人の関係はまったく進展しなかった。業を煮やした悠玄が、今回わざわざ江ノ本市まで足を運んだ最大の理由がそれだった。意を決して口を開きかけた、まさにその時――個室の入り口から、落ち着いた低い声が響いた。「奇遇だな」柊也だった。身を包むダークグレーのロングコートには、外の冷たい空気がまだまとわりついている。彼はテーブルに視線を滑らせ、最後に詩織の顔で止めると、口元に薄い笑みを浮かべた。「俺もちょうどこの店で食事をしててね。君がいると聞いたから、挨拶にきた」その場に一瞬、静寂が落ちた。詩織は視線を上げ、柊也を見つめた。わざわざ口に出して指摘はしない。『偶然この店にいた』だの『挨拶に来た』だの、よくもまあ見え透いた嘘をつくものだ。自分が別の男の親と二人で食事をしていると聞きつけて、慌てて飛んできたに決まっている。悠玄もそれを察したのか、出かかっていた言葉をそっと飲み込んだ。柊也はあくまでスマートに、悠玄に向かって会
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第1085話

「密ちゃんから聞いたわよ。昨日の夜、家に帰らないで会社に泊まったんだって?」ミキは意味ありげにウィンクをして、いかにも面白そうなゴシップを期待する顔をしている。詩織はため息をついた。「聞きたいことがあるなら、遠回しに言わないで」「そこまで言うなら遠慮しないわね」ミキは勢いよくベッドに起き上がった。「昨日の夜、またあの柊也のところに行ってたんでしょ」「ええ」「ふんっ、あの化け狐!」ミキは鼻で笑った。「表向きは紳士のフリして、裏では狡猾に外堀を埋めてさ。偶然を装ったり、仕事終わりに迎えに来たり、雨まで口実に使うなんて、典型的なあざとい狐のやり口じゃない!」「気をつけてよね」ミキの小言は止まらない。「ああいう男はね、いざ自分が『正式な恋人』の座に就いたら、他の男への警戒は人一倍厳しくなるんだから。だって、自分自身がそうやって入り込んできたんだし!」「だから、まだ『正式な恋人』にはしてないでしょ」詩織は涼しい顔で返す。「遅かれ早かれ時間の問題ね」ミキが呆れたように鼻を鳴らした。「その話はもういいじゃない」図星を突かれたのをごまかすように、詩織は話題を逸らした。だが直後、その提案をしたことを深く後悔することになる。ミキが続けて、とんでもない爆弾を投げ込んできたからだ。「で、結局最後までヤッたの?」「…………」さっきの話題のほうがまだマシだった。「嘘でしょ?まだ一線越えてないの?」黙り込んだ様子を見て、ミキはすぐに答えを察したらしい。驚きと興味が入り混じった声を上げた。「あいつ、よく我慢できるわね!」詩織は本気で通話を切りたくなってきた。「もしかして、役に立たないとか?ほら、ああ見えて腎臓が一つ少ないから、体力的な制限があって大人しくしてるだけじゃないの?」画面の向こうで、ミキは名探偵さながらに真剣な顔で推理を披露している。「ねえ詩織、親友として忠告しておくわ!ベッドで役に立たない男なんて願い下げよ!大事な女の幸せを犠牲にしちゃ絶対ダメだからね!」いたたまれなさに限界を迎えようとしていたその時、ドアを叩く音が詩織を救った。だが、来訪者は返事も待たずにずかずかと社長室へ入ってくる。後ろから密が慌てて追いすがっていた。「困ります、勝手に入らないでください!」侵入者は木村だった。「社長、止
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第1086話

詩織は、木村の顔を立ててやるつもりなど毛頭ない。詩織とは元来そういう人間だ。筋を通さない者は許さず、受けた恨みは必ずきっちりと返す。木村の顔がみるみるうちに引きつった。「江崎社長、そりゃあ言い過ぎってもんじゃ……」詩織は鼻でふっと笑ったが、その瞳にはひとかけらの温度もない。「なにが共同開発よ。図星を突かせてもらうけど、向こうのプロジェクトチームから完全にハシゴを外されたんでしょ? 私のプロジェクトが、横から手を出して簡単に横取りできるような代物だとでも思ってたの?」木村の顔色は青くなったり白くなったりと忙しい。唇をわなわなと震わせるばかりで、まともな反論一つ口から出てこなかった。詩織は内線のボタンを押し、密に命じた。「社員に徹底して。今後、華栄に無関係な人間は絶対に社内に入れないこと。無理に押し入ろうとしたら、すぐ警察を呼んでちょうだい!」すぐに密が、警備員を二人引き連れて駆けつけてきた。木村はそのまま警備員に取り押さえられ、叩き出された。その無様な姿は、華栄の社員たちの目にしっかりと焼き付いた。これで木村は、外聞もプライドも完全に地に落ちたと言っていい。会社から放り出された木村は、怒りに任せて口汚く罵り続けた。薄暗い地下駐車場。コンクリートの柱の陰に寄りかかっていた柊也は、その醜いボヤキを静かに耳で拾っていた。柱の向こう側で、木村が歯軋りしながら声を押し殺して悪態をついている。「あの女、よくも俺をコケにしやがって!何億円も使ってヘッドハンティングして、根回しまでしたってのに、結果はどうだ?プロジェクトの担当者には面会すら断られる始末じゃないか!俺が華栄を裏切ったって話はもう業界中に知れ渡ってる。これじゃあ、どこも俺を相手にしてくれねえ!」木村は荒い息を吐き、爆発しそうな憎悪を必死に抑え込んでいるようだった。「このまま泣き寝入りなんてできるか!絶対にあの女を潰してやる。悪評をバラ撒いて、アイツにも逃げ場のない絶望ってやつをたっぷりと味わわせてやるんだ。あのふざけた態度がいつまで続くか、見ものだな!」やがて迎えの車が到着し、木村はブツブツと文句を垂れながら後部座席に乗り込んだ。車のテールランプが遠ざかった後、暗闇の中から、かすかな笑い声が漏れた。柊也はゆったりとした動作で壁から背を離す。掌
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第1087話

譲は本当ならもう少し詩織と話をしていくつもりだったが、どうにも空気が悪い。というのも、譲が口を開くたびに、淡々とした視線がじわじわと自分に降り注ぐのを感じるからだ。決して鋭い睨みではないのに、背中にチクチクと刺さるようなプレッシャーがある。柊也は話に割り込むことも、不機嫌そうな素振りを見せることもなかった。ただ時折、譲の方を静かに見上げ、そしてまたゆっくりと視線を外すだけだ。それを何度か繰り返されるうちに、譲の心に募った居心地の悪さは限界に達した。結局、自ら立ち上がり「このあと用事があるから」と笑って辞去するしかなかった。譲が退出した後、詩織はいただいた柚子茶を口に含んだ。甘くまろやかな風味が喉を優しく潤してくれる。ふと視線を上げ、柊也に尋ねた。「今日のお昼はなにを作ってくれたの?」「真鯛の特製白湯(ぱいたん)スープだ」簡潔な答えが、穏やかなトーンで返ってくる。詩織は以前からそのスープについて話を聞いており、目を輝かせた。すぐさま柚子茶を置き、立ち上がって柊也が座っているローテーブルのそばへ移動する。スープジャーの蓋を開けると、ふわりと熱い湯気が立ち上った。乳白色の濃厚なスープが、今の詩織の食欲をこの上なく刺激する。あっという間に器から半分ほど飲み干し、魚の身を二つほど頬張ったところで、ふとなにかを思い出したように振り返り、先ほどの柚子茶に手を伸ばそうとした。だが、手を伸ばした先には、すでに中身が空になったボトルがあるだけだった。見れば、柊也が急ぐ様子もなく、静かな手つきでその蓋をゆっくりと閉めている最中だった。「冷めていたから」柊也は視線を上げ、ただ客観的な事実を述べているだけという風な、とことん淡々とした口調で言った。「冷めるとなんの味もしなくなる」そう言いながら手を伸ばし、詩織の椀に入っていた薬味の針生姜を器用に除けていく。低く囁く声が続いた。「余計なものに手を出さず、こっちだけを味わっていればいいんだ」詩織はぽかんと呆気にとられ、数秒間、柊也の顔を見つめてしまった。これが単なる『お片付け』なわけがない。あえて絶妙なタイミングを見計らって、『他の男が持ってきたもの』を排除したのだ。ミキの言葉が、ふいに脳裏に蘇る。——ああいう男はね、他の男への警戒は人一倍厳しくなるんだから。なるほど。こ
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第1088話

警察の公式発表に続くように、華栄キャピタルも各プラットフォームを通じて今回の件に関する詳細な調査報告書を公開した。三十ページ以上にも及ぶその報告書が出回るや否や、世間の風向きは一夜にして完全に逆転した。それを後押しするように、華栄の社員たちも一斉に声を上げ始めた。最初はいくつかのアノニマスアカウントがSNSに「うちの会社は無意味な残業は一切させない」「ボーナスが遅れたことなど一度もないし、利益配分も完全に透明化されている」と書き込んだだけだった。だが半日もしないうちに、実名で華栄を支持する社員が次々と現れた。彼らはただ事実だけを淡々と述べていた。大げさな修辞など何もない。だがそれが、どんなプロの広報が書いた声明文よりも絶大な効果を発揮したのだ。詩織はタブレットの画面を閉じ、小春にメッセージを送った。【もう寝た?】すぐに小春からビデオ通話がかかってきた。詩織は通話に応答し、案じるように尋ねた。「また、眠れないの?」「うん」画面に映る小春の顔は、以前よりもまた少し痩せていた。目の下にはうっすらとクマが広がっている。同年代の少女が抱えるには重すぎるその痛々しい姿に、詩織は胸が締め付けられる思いだった。「掛川先生が出してくれた薬、もう効かないの?」「最初は少し効いてたんだけど、今はもうダメみたい」詩織は画面の中の小春を見つめ、息苦しさを覚えた。「他に……どうにかできる方法はないの?」小春は数秒黙り込み、やがてゆっくりと口を開いた。「一つだけ、治療法があるんだ」そこで言葉を切り、視線を少しだけ泳がせた。「でも、記憶喪失になるかもしれない」空気が一瞬で凍りついた。「記憶喪失?」詩織の声は低く震え、無意識のうちに問い詰めていた。「一体、どの程度の記憶が消えるっていうの?」「わからない」小春は首を振り、力なく笑った。「特定の人や出来事だけを忘れるのかもしれないし、もしかしたら……もっとたくさんのことが消えちゃうかもしれない」怖いとも、その治療を受けたいとも彼女は言わなかった。ただ静かに詩織を見つめ返し、ぽつりと言葉を継いだ。「時々思うんだ。いっそ記憶をなくしてしまえたら、この苦しみから解放されるのかな、って」詩織は喉の奥が締め付けられ、「そんなのダメだ」「必ず別の方法があるはずだ」と何度も喉
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第1089話

「いいか、手段は選ぶな。華栄の玄関に這いつくばって江崎社長に土下座してでも、絶対にこの契約をもぎ取ってこい!できなければ、お前をグループから永久に追い出すからな!」汐莉の指先がビクッと跳ねた。顔を上げた彼女の頬からは、一瞬にして血の気が引いていた。激しく胸を上下させ、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめる。兄が感情に任せて脅しているのではなく、本気で通告しているのだと分かっていた。榎崎家にとって、自分の存在などそもそも大した価値はないのだから。「……なんとかします」震える声を必死に押し殺し、汐莉はすがるように引き下がった。「もう一度だけチャンスを頂戴。絶対に、華栄のプロジェクトを取ってみせるから」政志は数秒間、その言葉の重さを量るように汐莉を見下ろし、最後に冷たく言い放った。「いいか、これが最後だ。絶対に忘れるなよ」汐莉は必死で頷きながらも、目頭が赤くなるのを止められなかった。部屋を出る時の足取りはひどく覚束ず、頭の中にはひとつの恐怖しか浮かばない。――もし次も華栄を取り逃がせば、自分は本当に「無価値」な人間になってしまう。サンライズ・エナジーの役員の座を失うだけでなく、サカザキ・モータースとの縁談さえも完全に水の泡になる。重い足取りのまま坂崎家に戻ると、リビングには譲をはじめ、坂崎家の面々が揃っていた。ちょうど譲が、華栄を訪問した時の様子を母の悦子に報告しているところだった。詩織が悦子の手作りした柚子茶をとても喜んでいたのだという。帰宅した汐莉に気づいた悦子は、気遣うように声をかけてきた。「おかえりなさい。夕食はもう済んだ?まだ柚子茶が残っているから、温めようか?」以前の汐莉なら、あの江崎詩織の口に入ったものと同じものを飲むなんて屈辱だと、きっぱり断っていただろう。だが、今の汐莉は大人しく頷き、カップを受け取った。温かい柚子茶を口に含んでも、どういうわけか何の味もしなかった。悦子は汐莉の顔色が優れないのを見て、仕事で疲れているのだろうと思い、「早めに休みなさい」と優しく労った。そして、譲に目配せして部屋まで送るよう促す。譲は言われた通りに立ち上がったが、二階へ向かう階段の途中でスマートフォンが鳴った。太一からの電話だった。どうやら飲みへのお誘いらしい。京介や柊也も来ている
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第1090話

だが、電話越しの詩織は冷酷にも「大事な接待があるから無理」と一蹴した。通話が切れた瞬間、太一は目の前が真っ暗になるのを感じた。最初はまだマシだった。久しぶりに再会した者同士、近況報告や世間話でそれなりに場は持っていた。ただ一人、柊也だけはソファに身を沈め、目元を腕で覆ったままピクリとも動かない。まるで熟睡しているかのように、誰の言葉にも耳を貸そうとしなかった。「なぁ、なんで柊也はあんなとこで爆睡してんだ?」事情を知らない京介が不思議そうに尋ねた。「ああ、ここ最近、無駄に忙しくしてるらしいんだよ」と太一が適当にお茶を濁す。「忙しいって、何やってるんだ?」「そりゃあ、甲斐甲斐しく秘書業に精を出してるからだろ」譲が面白がるように横槍を入れた。昨日も、柊也がわざわざ詩織に昼食を届けているところに、出くわしたばかりなのだ。柊也が詩織の会社で秘書のように働いているという噂は、京介の耳にも入っていた。周囲の人間は皆、どうせ一時的な気まぐれだろうと思っていたが、まさか二ヶ月も続くとは誰も予想していなかったのだ。幼馴染の男たちは、柊也がどれほど圧倒的な力を持っているかを知っている。彼からすれば、単なる手伝いなど完全な宝の持ち腐れであることは明白だった。だが、霜花や汐莉はその事実を知らない。彼女たちは、内心で冷ややかな侮蔑の目を向けていた。特に霜花からすれば、いまの賀来柊也は「前科者」でしかない。地位も名誉も失い、賀来グループの後継者の座から引きずり下ろされた男。京介や太一がいまだに彼と付き合っているのは、昔のよしみで哀れんでいるのだろうとなし崩しに解釈していた。もちろん、柊也のほうが太一たちに必死で媚びへつらい、しがみついている可能性もある。とりわけ太一については、柊也が出所した日に自ら迎えに行ったという話も耳にしていた。かつて宇田川家に入り込んだ霜花は、身内からの太一の評価がいかに低いかも知っている。「何をやらせても駄目な穀潰し」「実の父親を怒りのあまりショック死させた親不孝者」――散々な言われようだった。良く言えば義理人情に厚く、悪く言えばお人好しの単細胞。そんな太一だからこそ、前科者の柊也を見捨てずに連れ回しているのだろうと、霜花は勝手に納得していた。華栄と栞キャピタルが大型提携を結
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