All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

「いや」と、智也は首を横に振った。「あんたのサポートがなかったら、ここまで来られなかった。この成果の半分は、あんたの手柄だ」詩織がなおも何か言おうとすると、横から賑やかな声が割って入った。「もう、二人して押し付け合わないでくださいよ!」アシスタントの密だった。「私の目には、お二人がこの子の『お父さん』と『お母さん』に見えます! 一人がコンセプトを産んで、一人が形に育て上げた……どっちも立派な生みの親ですって!」彼女がそう言った途端、スタジオにいた皆から、やんややんやと囃し立てる声が上がった。智也は照れているのか、それとも別の理由か、顔を真っ赤にして、どもりながら皆を止めようとしている。対照的に、詩織は落ち着き払っていた。「冗談はそのくらいにして、まずはプロダクトの名前を決めましょう。サミット前の発表に間に合わせなきゃ」その一言で、ざわついていた空気を仕事のモードへと引き戻す。話し合いの結果、プロダクトの名前は『ココロ』に決まった。万事、心に問う。『この世の万事は、人に問うにあらず、ただ己の心に問うのみ』かつて詩織が出会った、ある言葉だった。彼女はこの言葉を胸に、幾つもの孤独な夜を乗り越えてきた。眠れぬ夜明けに、もう一人の自分と対話を重ねる。いくつかの執着を、どうか手放しておくれと、優しく自分に言い聞かせながら。『ココロ』のサービスイン当日、智也は会社のメンバー全員を誘って食事会を開いた。その席で、彼は詩織に尋ねた。投資家も招待すべきだろうか、と。詩織もそれが筋だろうと考え、自ら桐島沙羅と宇田川京介に電話を入れた。沙羅は江ノ本市を離れており、参加できないとのことだった。一方、京介は快く承諾し、「時間通りに行くよ」と約束してくれた。会食の場所に着いた途端、詩織のスマートフォンが鳴った。表示された名前に、彼女は二秒ほど固まった。一体誰だったかと思い出そうとして、ようやく気づく。『永久指名料0円』――賀来柊也。一体、何の用だろうか。いや……彼の用件など、どうでもいい。詩織は応答せず、そのまま店の中へ入った。いつもは短気な男が、珍しく粘り強い。一度出なかったくらいで、またすぐに着信音が鳴り響く。詩織は再びそれを無視した。何度かかってこようと、出るつもりはなかった。
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第122話

今夜の詩織は、心からお酒を楽しんでいた。量は多くない。心地よい微醺に、気分も華やいでいる。ここ三ヶ月で、最も心が解放された夜だった。だが、その幸福感は、柊也の姿を認めた瞬間に、ぴたりと止まった。時は全てを洗い流し、万物を変える。以前の自分なら、柊也がわざわざ会いに来てくれたと知れば、きっと天にも昇る気持ちだっただろう。しかし今の彼女の胸に湧き上がるのは、拒絶感だけだった。詩織が口を開くより先に、柊也が詰問する。「なぜ電話に出なかった」詩織はバッグの中でのろのろと鍵を探しながら、気のない返事を返した。「見てなかったから」「俺がそれを信じると思うか?」男の瞳は黒く沈み、まるで荒れ狂う嵐を孕んでいるかのようだ。詩織は、彼が信じようが信じまいがどうでもよかった。返事をしてやっただけでも、ありがたいと思ってほしいくらいだ。「信じるかどうかは、ご自由に」鍵を見つけ、ドアの前に立つ邪魔者に向かって言い放つ。「賀来社長。そこをどいてくださる?うちの玄関を塞いでるんですけど」柊也は言われた通り、素直に脇へと身を引いた。詩織は手早く鍵を開けて中に入ると、彼が後を追う前に、勢いよくドアを閉めようとした。その動作は、一瞬たりとも彼と同じ空間にいたくないという、明確な意思表示だった。だが、詩織が素早いなら、柊也はそれ以上だった。彼は閉まりかけたドアの隙間に、咄嗟に手を差し入れた。詩織が力を緩めるとでも思ったのだろう。しかし彼女は、構わなかった。ドアは無情にも、彼の手を強く挟みつけた。激痛に、柊也の口から低く重い呻きが漏れる。それでも彼は手を引かず、ドア枠を掴んで、閉ざされるのを頑なに拒んだ。「賀来柊也、あなた、何様のつもり!?」詩織の堪忍袋の緒が切れた。感情が激しく昂ぶる。「私たちの間では、もうとっくに話は済んだはずよ!過去の関係をあなたがどう思っていようと、もう終わったの!これからは赤の他人!あなたはあなたの道を行けばいい。私も私の道を歩く。もう二度と交わることなんてないんだから!」「とどのつまり、あなたと私の間には、もう何の情も義理もないのよ!」「だから、お願いだからもう私の生活を邪魔しないで!わかった!?」彼女の言葉は鋭く、まるで敵意に満ちた矢のようだった。かつての恋人は、今や彼
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第123話

鈴木は、海雲を見舞うのだろうと思い、彼が入院する病院へとナビを設定しようとした。しかし、柊也が口にしたのは、別の病院の名前だった。その時になってようやく、鈴木は事態を察した。「社長、お怪我をなさいましたか?ひどいのですか?」「死にはしない」後部座席から返ってきた声は、低く、くぐもっていた。鈴木はバックミラー越しに、恐る恐る彼の顔色を窺う。最悪だ。病院に着いて、鈴木は初めて柊也の手の傷を目の当たりにした。それは、ひどい怪我だった。手の甲から掌にかけて、広範囲に赤黒く腫れ上がっている。一目で、ドアか何かに強く挟まれたのだとわかった。傷を見た医師は、深刻な口調で言った。「あと少し力が加わっていたら、骨折していましたよ」その言葉に、鈴木の背中を冷たい汗が伝った。手の治療を終えた柊也は、再び鈴木に車を出すよう命じた。今度は父のいる病院へ向かう。海雲はまだ起きていた。ベッドの上で、最新号の経済誌をめくっている。その表紙を飾っていたのは、柊也自身だった。撮影は三ヶ月前。まだ詩織がエイジア・キャピタルにいた頃だ。表紙で彼が着ている服は、詩織が雑誌社と打ち合わせを重ねて決めたものだった。柊也によく似合っている。柊也が入ってくると、海雲は雑誌をぱたんと閉じ、まるで興味などないというように、無雑作に脇へ放り投げた。柊也はそれを拾い上げ、眺める。「なかなか良く撮れている」「見掛け倒しが」海雲は、そう吐き捨てた。柊也は父のそんな物言いに慣れきっている。痛痒を感じない様子で、軽口を返す。「あなた譲りですよ」病室に入ってきた松本さんは、二人の刺々しいやり取りを耳にするなり、慌てて割って入った。「まあまあ、お二人とも。そのくらいになさい」ふと、彼女の視線が、ガーゼに包まれた柊也の手に留まる。途端に表情を変え、驚いたように声を上げた。「柊也様、その手どうしたの?怪我を?ひどいの?」「転んだだけだ。大したことはない」柊也は、平坦な声で答えた。鈴木は、思わず柊也の顔を窺ってしまった。柊也からの警告の視線を受け、慌てて目を逸らす。何も見ていない、というふりをしながら。「どうして、転んだりなんかしたのよ?」松本さんは、まだ疑わしげだ。しかし柊也が「転んだ」の一点張りなので、彼女もそれ以上は追及でき
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第124話

結局、詩織は海雲を見舞うことにした。それは柊也のためではない。彼との関係はさておき、海雲は詩織によくしてくれた。母の初恵を除けば、正月にお年玉をくれる唯一の大人だった。だから、義理として、あるいは人情として、見舞いに行くのが筋だと思った。詩織はまず母を自宅に送り届け、それから海雲の好物である蓮根の菓子を買い求め、病院へと向かった。詩織の来訪に気づいた海雲は、それまでの険しい表情をいくらか和らげた。菓子を二つほど口にした後、彼は詩織の近況を尋ねた。詩織は、エイジア・キャピタルを辞め、今は独立して自身のプロジェクトを進めていることを話した。今のところ、プロジェクトは順調に進んでいる、と。海雲は、彼女がなぜ会社を辞めたのかも、柊也とのことについても、何も尋ねなかった。ただ、プロジェクトの詳細について、熱心に耳を傾けていた。詩織も、包み隠さず全てを話した。海雲は彼女の挑戦を称賛すると同時に、いくつかの的確な助言を与えてくれた。事故で一線を退く前、彼はビジネスの世界で一時代を築いた、伝説的な人物だったのだ。かつての海雲は、賀来グループを率いて、わずか五年で一躍業界の覇者となった。不動産からインターネットまで、彼の投資は常に時代の風を捉えていた。賀来グループが最も輝いていた二年間、その時価総額は八千億ドルにまで達したという。だがその直後、賀来家に大きな悲劇が訪れる。賀来グループの最高財務責任者でもあった彼の妻が、海外視察の折、現地の司法当局に「銀行詐欺」の容疑で逮捕されたのだ。海雲は妻を救うため、財産のほとんどを投げ打った。しかし、最終的に彼の元へ帰ってきたのは、冷たい骨壷だけだった。それ以来、海雲は意気消沈し、賀来グループの栄華にも陰りが見え始めた。ほどなくして、海雲自身も交通事故に遭い、両足に生涯癒えぬ障害を負うことになる。退院後、彼は数十もの役職を辞し、完全にビジネスの世界から引退した。二度と世事に関わることなく。それでもなお、海雲が全盛期に成し遂げた功績と影響力は、絶大なものがあった。一つの巨大な鯨が倒れる時、万物が生まれる。賀来グループの衰退は、その後の業界地図を大きく塗り替えるほどの、深遠な影響を残した。そんな彼から直々に教えを乞うなど、土下座して頼み込ん
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第125話

病院の正面玄関を出ようとした、その時だった。柊也と志帆が、寄り添うようにして建物に入ってくるところだった。二人は何やら親密そうに話し込んでいて、向かいの人混みの中にいる詩織には気づいていない。詩織の目には、ガーゼで覆われた柊也の右手が、はっきりと映っていた。昨夜の一件で、思ったよりもひどい怪我を負ったらしい。それでも、彼は愛しい女性に付き添って病院へ来るのだ。……昨日の夜、いっそ彼の足を挟んでやればよかった。そうすれば、こんな風にうろつき回ることもなかっただろうに。病院の外に出ると、空はすっきりと晴れ渡っていた。江ノ本市には珍しい、冬の柔らかな日差しが降り注いでいる。詩織は顔を上げ、陽光が頬を撫でる微かな温もりを感じながら、自嘲するように口の端を吊り上げた。――ありえないことなんて、何もない。人の心なんて、そもそも移ろいやすいものなのだから。今の詩織には、すべてが腑に落ちていた。すべてを理解し、受け入れ、乗り越え、そして手放すことができる。……週末、詩織と智也が出張へ発つ日。紬はわざわざ大学から駆けつけ、兄のオフィスでしばらく熱心に発破をかけていた。「お兄ちゃん、これは千載一遇のチャンスなんだからね!絶対にものにしないとダメだよ!私がお義姉さんって呼べるようになるかどうかは、お兄ちゃん次第なんだから!いい?告白はちゃんとフォーマルに、それから絶対にお花を贈ること!それで彼女をどれだけ大切に想ってるかを示すの!とにかく、頑張って!江ノ本市で吉報を待ってるからね!」まくし立てる紬に、智也はすっかりたじたじだ。「もし……断られたら、どうするんだよ」「そしたら再挑戦あるのみでしょ!」「でも、気まずくなって、友達でさえいられなくなるのが怖いんだ」それこそが、智也がためらっている一番の理由だった。「もうっ、ちょっとは図太くいきなよ!」紬はもどかしさで足を踏み鳴らした。「だいたい、詩織さんは今のお兄ちゃんの投資家なんでしょ?逃げられる心配なんてないじゃない!」その言葉に、智也は少しだけ理があるような気がしてきた。「……まあ、頑張ってみる」二人が予約したのはエコノミークラスだった。智也は窮屈だろうと詩織を気遣い、ビジネスクラスへのアップグレードを提案する。しかし、詩織はそれをやんわりと断
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第126話

想像していたより早かった。でも、それでいいのだと詩織は感じた。それは同時に、ある事実を浮き彫りにする。この七年間、柊也は一度だって、自分とのまっとうな関係を考えたことなどなかったのだ。詩織はバッグからイヤホンを取り出して耳にはめ、外界の騒がしさを完全に遮断した。前の席の会話はまだ続いている。男は、後々取り入るために、恋人の森田美穂(もりた みほ)をしきりに質問攻めにして柊也の情報を引き出そうとしていた。「志帆さん、これって玉の輿だよな?相手はあの賀来柊也だぜ。バックには賀来グループが丸ごとついてるんだぞ」美穂は誇らしげに胸を張る。「ええ、そうよ。でも、お姉ちゃんの彼氏、彼女にぞっこんで、本当に大切にしてるの!それに聞いた話だと、お姉ちゃんのこと七年も待ってたんですって!すごい一途じゃない? 愛があれば、どんな差だって埋まるのよ」「じゃあ、君の家もこれから安泰だな」男は隠しきれない羨望を口にする。「私、おば様とは小さい頃からすごく仲がいいの。お姉ちゃんの成功は、私の成功も同然よ。私がエイジア・キャピタルの首席秘書にでもなったら、どんなリソースだって思いのままじゃない? 私の一声で全部決まるわ」美穂の言葉を、彼氏は何の疑いもなく信じ込んでいる。実際、美穂の学歴や能力では、エイジア・キャピタルに入るのは到底無理だった。それが、志帆が柊也に一言口添えしただけで、面接すらなしに採用が決まったのだ。それほどまでに、柊也は志帆を愛しているということなのだろう。だからこそ、彼女の身内や友人まで、無条件に受け入れるのだ。ここまでの会話を聞いて、智也の眉間に深いしわが刻まれた。彼は心配そうに詩織の横顔をうかがい、前の席の会話を止めさせるべきかと思案する。だが、詩織は二人の会話にまったく影響されていないようだった。イヤホンを着けたまま、すっかり落ち着いて眠っている。その反応は、驚くほどに穏やかだ。それでも、智也は前の座席を軽く蹴り、他の乗客の迷惑になるから静かにするよう注意した。美穂は不快そうな顔をしたが、ここは公共の場であり、自分に非があることはわかっている。素直に口を閉ざした。飛行機が深水市の空港に着陸したのは、すっかり夜になってからだった。到着便のピークと重なったらしく、タクシー乗り場には長い列
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第127話

待ち合わせ場所は、もともと二人が宿泊するホテルの近くだったが、翌日になって急遽変更された。詩織は、智也のその恩師について大まかに調べていた。業界では名の知れた技術の権威で、多くの学生を指導してきたが、彼の眼鏡にかなう者は数えるほどしかいない。智也は、そのうちの一人だった。「先生は、とにかく厳しくて、性格もちょっと冷たい感じなんだ」と、智也は言う。大学時代から、その要求の高さは有名だったらしい。学生の研究が彼の基準に満たない場合、見向きもされなかった。修士課程の卒業シーズンになると、彼が指導教官の所見欄に最も多く書いた言葉は、決まってこうだった。『卒業後、私が君の師だとは絶対に言うな』「じゃあ、卒業イコール破門、みたいな感じ?」詩織が呟くと、智也は頷いた。「なんだか、私の先生と少し似てるかも」彼女が自分のことを話すのは珍しい。智也は興味を惹かれて尋ねた。「詩織さんの先生は、何を教えてたの?」「金融。でも、私も破門されちゃったから」それ以上は聞かないのが礼儀だろう。智也は話題を変えた。「責任感の強い先生って、大概厳しいよね。たとえばうちの先生は、たとえ自分がサミットの特別ゲストでも、学生にコネで招待状を渡したりは絶対にしないんだ」「先生の口癖は、『タダ飯はない。欲しいものは、自分の力で勝ち取れ』だから。だから、招待状のことも、頼む勇気がなかった」その点について、智也は申し訳なく思っていた。この二枚の招待状を、詩織がどれだけ苦労して手に入れたかを知っていたからだ。しかし、詩織は彼よりも楽観的で、物事の捉え方が違っていた。「だとしたら、先生がわざわざ智也さんを呼び出したのは、私たちの『ココロ』が本当に素晴らしい出来で、先生の要求レベルに達したってことじゃない」智也も、そうだと信じたかった。詩織の声に、途端に力がこもる。「予感がするわ。今回のサミット、きっと大きな一歩になる!」三十分後、車は教授との待ち合わせ場所に無事到着した。そこは、高級レストランだった。智也は驚いた。彼の恩師はもともと倹約家だ。そんな人が、どうしてこんな高級店で?場所を間違えたのだろうか。そう思った智也は、先に電話で確認することにした。詩織が彼のそばで静かに待っていると、一台の黒塗りのハイヤーが目の前にすっ
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第128話

智也の恩師は、饒村玉良(によむら たろう)という。六十歳くらいの男性だ。その表情は、智也が言っていた通り、ひどく厳格な印象を与える。彼を前にした智也は、まるで猫の前の鼠のように、すっかり身を縮めていた。「先生」「うむ」玉良は淡々と応じると、ふと詩織に視線を移す。二秒ほど値踏みするように見つめた後、尋ねた。「彼女は、君の恋人かね?」「ち、違います!」智也は慌てて否定した。「先生、誤解です!こちらは、私の投資家の方でして……」玉良は、智也の事業についてある程度調べていたのだろう。詩織の立場を知ると、彼女を見る目に称賛の色が混じった。それどころか、自ら立ち上がって詩織に握手を求める。「はじめまして。智也の師の饒村です。彼のプロジェクトに投資していただき、心から感謝します」「饒村先生、とんでもないお言葉です」詩織は敬意を示し、両手でその手を握り返した。「私は、投資家としてやるべきことをしただけですので」しかし、玉良はそうは思わない。投資家とは、創業者にとって、その才能を最初に見出す支援者のようなものだ。どれほど優れた素質があっても、その価値を認め、手を差し伸べる者がいなければ、世に出ることなく埋もれてしまう。詩織と智也が席について間もなく、また新たな人物が現れた。詩織が驚いたことに、それは柊也だった。彼は、志帆たち家族と食事をしていたのではなかったのか。なぜ、ここに?ただ、今回は志帆を連れておらず、エイジア・キャピタルの投資第二部ディレクター、松岡潤を伴っている。潤は詩織の姿を認めると、彼女がなぜこのような会食の場にいるのかと、意外そうな顔をした。だが、他の人間がいる手前、尋ねるわけにはいかない。「賀来社長」玉良が立ち上がり、柊也に挨拶した。同時に智也にも立つように目配せし、紹介する。「こちらは、エイジア・キャピタルの賀来社長だ。今日のこの会食を設けてくださった」そして今度は柊也に向き直り、説明を加える。「こちらは、私の教え子の久坂です。彼も今回のAIサミットに参加するそうでしてな。少々話したいことがあり、時間がなかったものですから、直接こちらに来るよう私が指示しました」「饒村先生、どうかお気遣いなく」柊也はまったく意に介さない様子で応じた。「久坂さんとは私も面識があります。彼も深水
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第129話

「お二人は、お付き合いされてるんですか?」だからだろう、誰かが冗談めかして尋ねた。「なんだか、とても息が合っていらっしゃる」今度は詩織が、笑顔で否定した。「いえいえ、私たちは良いビジネスパートナーなんです。このチームワークも、仕事を通じて培われたものですよ」先ほど玉良も同じ質問をしていたため、彼らはからかうように言う。「ははあ、さては先生の前だから、認められないのかな?」「僕たちはまだ、そういう関係では……」智也の顔がみるみる赤くなる。その「まだ」という一言に、含みを感じ取らない者はいない。幸い、彼らの冗談もそこまでで、それ以上深く追及されることはなかった。その時、傍らにいた柊也が、ふと立ち上がった。「皆さんは続けてください。少し席を外しますが、すぐ戻ります」この会食の主催者は柊也だ。彼が少し席を外したところで、異を唱える者などいるはずもない。彼が去った後、潤が進んで口添えした。「賀来社長の恋人の方も、同じレストランで食事をされておりまして。少し顔を出さなければならないようです。代わりと言っては何ですが、私が皆様のお相手をさせていただきます」なるほど、志帆の元へ行くのか。これほど重要な会食の最中ですら、時間を割いて彼女に会いに行く。その惚れ込みようには、ほとほと舌を巻くほかない。ただ一人、詩織だけは少しも驚かなかった。相変わらず、他の参加者たちとAI『ココロ』やAIの未来について、熱心に語り合っている。柊也は、一度席を立つと、なかなか戻ってこなかった。会食が終わりに近づいた頃にようやく顔を出し、皆に別れの挨拶を告げただけだった。詩織が智也の腕を支えて立ち上がらせた時、柊也のスマホが鳴った。電話に出た彼の声は、ひどく優しい。「すぐ行く」聞くまでもない。電話の相手は、志帆に違いなかった。詩織はわざと少し時間を置いてから、智也を支えてエレベーターホールへと向かった。ちょうどエレベーターがその階に停まっていた。詩織が急いでボタンを押す。扉が開くと、その中に立っていたのは柊也だった。どうして、こうもうまくいかないのだろう。詩織は思わず眉をひそめた。柊也は、黙って脇へと寄った。一瞬ためらったが、詩織は智也を支えたままエレベーターに乗り込む。隠れたり、避けたりする必要なんてない。
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第130話

その声は大きく、込められた意味合いもあからさまだった。珍しく志帆が頬を染め、美穂の車が見えなくなってから、気まずそうに柊也に言った。「美穂ったら、昔からああいう騒がしい子で。言葉もストレートだから、気にしないでね」「何を気にするんだ?」柊也は笑って問い返す。「彼女が俺を『お義兄さん』と呼ぶことかい?それとも、さっきの彼女からのエールのことかな?」まったく……場所もわきまえず、こんな公然といちゃつくなんて。詩織は心の中で毒づいた。柊也は本当に変わってしまった。あれほど公私を混同することを嫌っていた人が、結局は愛のために、こんなにも変わるなんて。その姿はあまりにも見知らぬもので、まるで彼のことなど一度も知らなかったかのようだ。もしかしたら、過去のすべては、ただの儚い夢だったのかもしれない。自分が愛していたのは、自分自身が創り上げた理想の彼であって、目の前にいる本物の柊也ではなかった。きっと、ただ自分自身で勝手に感動していただけなのだ。志帆は照れてしまったのか、柊也のその言葉にどう返していいかわからないようだった。ちょうどその時、詩織が智也を支えながら通りかかる。志帆は恥ずかしそうに甘えた声を出した。「もう、人がいるじゃない」柊也は、詩織に冷たい一瞥をくれただけで、何事もなかったかのように視線を外した。詩織は足を止めない。二人の前をそのまま通り過ぎ、タクシーを拾うために通りへと向かった。志帆が柊也を見上げる。「行こうか」柊也が彼女のために車のドアを開けた。「ええ」車に乗り込む前、志帆は詩織が去った方向にちらりと目をやった。その口元は、明らかに弧を描いている。まるで相手にしていない、という笑みだった。この間の観察で、彼女は確信していた。柊也は、詩織に対して何とも思っていない。むしろ、冷淡とさえ言える。ましてや、男が女に向ける独占欲など、かけらも存在しない。だから何だというのだろう、詩織が七年もそばにいたからといって。七年もの間、柊也にその存在を認めさせ、公にさせることすらできなかった。それが、すべてを物語っている。詩織は、自分にとって何の脅威にもならない。彼女のことなど、気にかける必要さえないのだ。二人が乗った車はロータリーを回り、詩織の前を通り過ぎていった。
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