All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

この状況は……まるでエイジアで働きはじめたころに戻ったみたいだ。でも、あのころはエイジアという後ろ盾があった。今よりは、ほんの少しだけましだった。ほんの少しだけ、だ。柊也の態度は、あのころから変わらない。いつも、見て見ぬふり。手も貸さない。口も出さない。助けてもくれない。それどころか、いつも水を差してきた。詩織が必死で積み上げたものを、ことごとく否定して……詩織は、生粋の負けず嫌いだ。彼に否定されればされるほど、結果を出して見返してやりたいと燃えた。だから、今の苦労なんてどうってことない。すべて、覚悟の上だ。今夜の会食には、見知った顔が多かった。群星グループの春日井。長利の斉藤社長。ワンスター社の向井。詩織が知っているだけでも、そうそうたる顔ぶれだ。この集まりの情報を詩織にもたらしたのは、城戸渉だった。この間の約束を破った、せめてもの埋め合わせのつもりなのだろう。もちろん、海千山千の経営者たちが、詩織の登場が城戸の差し金であることを見抜けないはずがない。「仁義にもとるじゃないか」と、渉はすでに責められていた。「私が、無理を言って城戸さんにお願いしたんです」詩織はそう言って、まず詫びの酒を三杯、一気に飲み干した。渉が、助け舟を出す。「まあまあ皆さん。江崎さんも、起業したてで大変なんですよ。ここはひとつ、力を貸してあげましょうや。儲け話は、みんなで乗ったほうが楽しいでしょう?」すると、群星グループの春日井が、にこやかな笑みのまま口を開いた。「起業が簡単なわけないだろう? 俺たちだって、そうやって一歩ずつ這い上がってきたんだ。俺たちだけじゃない。あのエイジアの賀来社長だってそうだ。寝る間も惜しんで働いていたって話は、江崎さんのほうがよく知ってるんじゃないのか?」春日井はそう言うと、椅子にふんぞり返り、嘲るような視線を詩織に向けた。「その程度の根性もないなら、とっとと賀来社長のとこに戻って、首席秘書にでも収まってな」以前、詩織に協力を断られたことへの、あからさまな腹いせだった。「春日井さんの貴重なご経験、ありがとうございます。私も、精一杯がんばります」詩織は、彼の嘲笑にも顔色ひとつ変えず、穏やかに微笑んでみせた。すると、別の男が口を挟む。「江崎さんがエイジアに戻りたくないなら、俺のとこに来て
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第102話

柊也が顔を見せたのはほんの一瞬だった。それでも、個室の空気は目に見えて変わった。さっきまで詩織を追い詰めていた男たちまで、どこか同情するような目で彼女を見ている。詩織はすぐに気持ちを切り替えた。そして、自分の企画に投資してくれるよう、男たちへの説得を再開する。酒は、もちろん避けられなかった。彼らはもう、あからさまに詩織を追い詰めることはしない。そのかわり、なにかと理由をつけて罰ゲームのように飲ませるのだ。一杯の酒が、気づけば三杯に増えている。いくら酒に強い詩織でも、一人で十人を相手にするのは無理があった。途中で一度、化粧室に駆け込んで吐いた。胃の中が空っぽになる。詩織は、便座にぐったりと腰を下ろした。かばんから、あらかじめ用意しておいた飲むヨーグルトを取り出す。胃の不快感を和らげるためだ。こんな処世術も、すべてこれまでの経験から学んだものだった。笑ってしまう。これは、柊也が彼女に教えた方法なのだ。あのころ、詩織はいつも彼の代わりに酒を飲んだ。飲みすぎて吐いてしまっても、彼はなんとか詩織を介抱した。そうして回復させて、また自分の代わりに酒を飲ませるために。どうしても無理なときもあった。化粧室で、そのまま意識を失うように酔いつぶれる。すると柊也は、泥のようになった彼女をそこから担ぎ出し、家に連れ帰るのだ。この数年間、そうやって何度も乗り切ってきた。だから、自分の限界はわかっている。どれだけ飲めるのか。どこで見切りをつけ、どうやって抜け出すべきか。少し楽になり、詩織は個室から出た。すると、そこで見知った顔に行き会う。東華キャピタルの坂崎社長の秘書、森凛々(もり りり)だった。以前、エイジアの祝賀パーティで会ったことがある。あのときも柊也は、坂崎社長の相手をするよう詩織に命じた。「あら、江崎さん?来てたのね。さっきは見かけなかったけど」凛々は、詩織を見て驚いている。「……坂崎社長も、いらしてるの?」詩織は一瞬の間を置き、何気ないそぶりで尋ねた。「ええ。賀来社長に呼ばれて、プロジェクトの話をしてるわ」「話は、順調?」詩織は、鏡に映る自分の顔をのぞきこむ。滲んだ化粧を、丁寧に直していく。隣で手を洗いながら、凛々が答えた。「すごく順調みたいよ。でも、あの柏木さんっていうディレクター、お
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第103話

詩織は、常に持ち歩いている事業計画書を坂崎に手渡した。そして、彼の疑問に一つひとつ答えていく。どんな質問を投げかけられても、詩織は淀みなく答えた。坂崎の詩織を見る目に、次第に感心の色が濃くなっていく。柊也が戻ってきたころには、詩織の話はあらかた終わっていた。人の人脈を借りた手前、詩織は礼儀として柊也に声をかける。彼は小さく頷いただけだった。その視線は、詩織の上を滑っていく。そして、隣にいる坂崎に向き直った。「何を話してたんだ?」坂崎が二言三言、説明を始めたときだ。柊也のスマートフォンが、ひっきりなしに通知音を鳴らした。誰かからメッセージが届いているのだろう。「続けてくれ。少し返信を」柊也はそう言うと少し離れた席に腰を下ろし、スマートフォンに意識を集中させた。詩織の視界の端に、見覚えのあるアイコンが映った。柏木志帆のものだ。なるほど。だからあんなに夢中なのか。志帆に返信するためなら、大事な坂崎社長を放っておくことさえ厭わない。もちろん、今の詩織は、彼がそうしてくれたほうがありがたかった。むしろ、彼が会話に夢中になってくれればくれるほどいい。その間に、坂崎とプロジェクトの話をじっくり進められるのだから。そして、物事は詩織の望み通りに進んだ。柊也は、終始スマートフォンの画面に釘付けで、一度も口を挟んでこなかった。時折、その口もとに笑みが浮かぶ。甘やかで、優しい笑み。彼と出会って七年。詩織は、こんな柊也をはじめて見た。仕事と私事をきっちり分けるあの男に、こんなにも辛抱強い一面があったなんて。かつて、何日も彼女からのメッセージを無視し続けたあの人が。たった一人の女性のためなら、大事な会食さえそっちのけで、場所もわきまえず、ひたすら彼女との会話に没頭するなんて。結局、江崎詩織という女には、それだけの価値がなかった。ただ、それだけのことだ。詩織は、ほんの少しだけ。ほんの一瞬だけ。かつての、愛にすがって惨めになっていた自分を、哀れに思った。でも、それだけ。すぐに、何の感情も湧かなくなった。柊也を愛することをやめた今、こんな風に差別されるのを見ても、もう心はあまり動かない。詩織はただ、ひたすらに。全身全霊を、目の前のプロジェクトに注いだ。その夜の会話は、とても弾んだ。坂
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第104話

柊也はしばらく彼女をじっと見つめていた。やがて、氷のように冷たい声で言う。「買えないのか、それとも言いたくないのか。江崎詩織。俺の人脈を利用しておきながら、その態度はなんだ。それがお前のやり方か?」その高圧的な物言いに、詩織の中で何かがぷつりと切れた。柊也が、こんなに説教臭い男だったなんて。今まで気づかなかった。なんて偉そうな物言い。昔の自分は、どうしてこんな男に耐えられたのだろう。とにかく、今の私には我慢できない。「私のやり方がどうであろうと、賀来社長には関係のないことでは?」柊也の瞳の奥に、暗い光が宿った。彼は目を細め、怒りを押し殺した声で言う。「関係ないだと?誰がお前にそんな口をきく度胸を与えたんだ?」「……宇田川京介か?」「それとも、久坂智也か?」彼は、名前を一つ挙げるたびに、一歩ずつ詩織ににじり寄る。それとともに、彼の体から漂う、知っているようで知らない匂いが鼻をついた。甘く、微かな、女性物の香水の香り。この香りは……志帆の体から香っていたものだ。詩織は顔をそむけ、数歩後ずさった。二人の間に距離を取る。彼の匂いが、完全に消えるまで。そして、かつてないほど冷え切った視線を、彼に向けた。「とにかく。あなたに与えられたものではないことだけは、確かです」柊也は目を細め、嘲るように言った。「いつからそんなに強気になったんだ?」詩織は、淡々とした声で答える。「それは、賀来社長がまだ私のことをご存じないだけですわ」その声も、表情も、驚くほど穏やかだった。心には、何の波も立っていない。エイジアを去って、まだ間もないというのに。その心は、もうこんなにも凪いでいる。気まずい別れだったが、詩織の心は少しもかき乱されなかった。なぜなら……東華キャピタルの坂崎が、翌日、詳しい話を聞きたいと連絡をくれたのだ!柊也が、志帆の好きなケーキを買えたかどうか。そんなことは、詩織の知るところではなかった。翌日の坂崎との話し合いも、とんとん拍子に進んだ。だが、彼は一つだけ条件を出した。まず、プロダクトを形にしてほしい、と。たとえプロトタイプでもかまわない。それを実際に試してみてから、投資するかどうか、そしていくら出すかを決めたい、というのだ。詩織は、智也の腕を信じていた。完成すれば、必ず坂崎を納得させ
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第105話

智也の負担を少しでも軽くするため、詩織は自らスタジオのスタッフ募集に乗り出した。いざ募集をかけてみて、詩織は優秀なエンジニアの人件費がいかに高額であるかを、身をもって知ることになる。一人と契約書を交わすたびに、胸が締め付けられるようだった。お金が溶けていく、とはまさにこのことだろう。沙羅から受け取った出資金は、みるみるうちに底を見せ始めていた。だが、そのことは智也にはおくびにも出さなかった。開発に没頭する彼に、余計な心配をかけたくはなかったのだ。その重圧を、詩織はたった一人で抱え込んでいた。そんな中、智也の妹である紬が、時間を見つけてはスタジオに手伝いに来てくれるようになった。お茶出しやコピー取り、使い走りから掃除まで、かいがいしく立ち働いてくれる。しかし、彼女はまだ学生だ。詩織は学業の妨げになることを心配し、事務や雑用をしてくれるスタッフはもう募集しているから大丈夫、と言って、あまり来ないようにとやんわりと諭した。だが、紬は信じようとしない。これまでそうした雑務はすべて詩織が一人でこなしていたことを知っているからだ。彼女は、詩織が無理をしていることが心配で、こうして手伝いに駆けつけているのだった。結局、詩織が出したばかりの求人情報を見せて、ようやく彼女を納得させることができた。もちろん、それは紬を安心させるための方便だった。後でこっそり取り下げるつもりでいたのだ。まさか、その日の午後に本当の応募者が現れるとは、夢にも思わずに……しかも、現れたのは思いがけない顔見知りだった。「詩織さーん!すっごく会いたかったですぅ!」姿を現した小林密は、いきなり詩織に勢いよく抱きついてきた。その熱烈すぎる歓迎に、詩織は思わずたじろいでしまう。「どうしてここに?」元同僚との再会に、詩織は素直に喜んだ。「んー、当ててみてくださーい」密がお茶目にウインクする。「え、私に会いに?」「ぶっぶー。もう一回チャンスあげます。考え直して?」「まさか……応募しに来た、とか?」詩織は眉をひそめ、胸の内で高まった可能性を口にした。ここにやって来るのは、知り合いか応募者か。密にはスタジオの場所を教えていなかった。ということは、後者の可能性が高い。「大正解!」密は満面の笑みを詩織に向けた。「冗談でしょ?」
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第106話

詩織は、スタジオの現状を正直に見せるため、わざと密を中へ案内して回った。この厳しい状況を知れば、考え直してくれるかもしれない。なにしろ、ここで彼女に提示できる給与は、エイジアには遠く及ばないのだ。だが、密は詩織についていくと固く決めていた。待遇など、全く気にする素振りも見せない。それどころか、キラキラと目を輝かせ、勝手に未来予想図を描いてみせた。「詩織さんなら絶対成功しますって!私にはわかるんです、ダイヤの原石ですよ!だから今のうちにこの大船に乗っておかないと!将来はきっと、乗りたくても行列ですよ、これは!」その言葉に、詩織は思わず吹き出してしまった。「わかった。じゃあ、月曜日からお願いね」しかし、月曜日を待たずして、智也から朗報が舞い込んだ。彼とチームが、ついにプロトタイプを完成させたというのだ!この間ずっと張り詰めていた詩織の心が、ふっと軽くなるのを感じた。「みんな、本当にお疲れ様……」時計を見れば、時刻は夜の九時過ぎ。しかも週末だ。そんな日にもかかわらず、チームの皆はスタジオに残って作業を続けてくれていた。家に着いたばかりの詩織だったが、労いとささやかなお祝いのため、踵を返して再び玄関のドアを開けた。この時間に開いているケーキ屋はそう多くない。だが、エイジア時代にこうした手配は彼女の日常だった。段取りは体に染みついている。どの店がまだ開いているかも、頭に入っていた。無論それは、かつて江ノ本市中のケーキ屋を駆けずり回って得た、努力の賜物ではあるが。手慣れた様子でまだ営業している店を見つけ出し、店員にケーキを注文しようとした、その時だった。久しく顔を見ていなかった人物と、思いがけず顔を合わせた。鈴木さん。柊也の運転手だ。彼は詩織に気づくと、驚いたように目を見開いた。「江崎秘書。ご無沙汰しております」「鈴木さん。私、もう辞めていますから」詩織は苦笑しながら言った。鈴木さんは少し照れくさそうに頭を掻く。「いやあ、どうも癖でして。なかなか抜けませんな」詩織もそれを気にした様子はなく、ただ、彼がこんな時間にケーキ屋にいることが意外だった。「鈴木さん、糖質制限中じゃありませんでしたか?こんな夜中にケーキなんて、お体、気をつけてくださいね」詩織が気遣うと、鈴木さんは慌てて首を横に振
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第107話

車内には暖房が効いていて、体の芯まで凍えさせていた寒さがじんわりと溶けていく。そして、その暖かい空気と共に、ふわりと漂ってきた懐かしい木の香り。詩織は、無意識のうちに眉をひそめた。なぜ、柊也の香りがするのだろう?……いや、待って。これは彼の車なのだから、彼の香りがして当然じゃないか。危うく、自分の車だと勘違いするところだった。せめてもの救いは、女性ものの香水といった、他の匂いがしなかったことだろうか。鈴木さんに行き先を告げると、彼は感心したように言った。「江崎さんは、相変わらずお仕事熱心ですな」「たぶん、根っからの働き者なんでしょうね」短いやり取りのうちに、車は目的地へと滑り込んだ。鈴木さんがトランクからケーキの箱を取り出すために車を降りる。詩織もそれに続こうとして、ふと、ルームミラーにぶら下がっている小さなお守りに目を留めた。そして、ためらうことなくそれに手を伸ばし、引きちぎるように外した。それはかつて、彼女が柊也のために、寺の九十九段の石段を一段ずつ額ずきながら登って、ようやく授かったものだった。彼に渡した時、柊也は馬鹿げた迷信だと笑い、自分はそんなものを信じないと一蹴した。実を言うと、詩織もかつては信じていなかった。しかし、柊也が交通事故に遭ったあの日から、すべてが変わった。彼は軽傷で済んだものの、車は見るも無惨に大破していた。現場に駆けつけた詩織は、心臓が凍りつく思いだった。彼を看病しながらも、不安で夜も眠れず、何度も彼が事故に遭う悪夢にうなされた。神も仏もいないとわかっていても、病床に横たわる彼を見ていると、いてもたってもいられなかった。だから、寺へ向かい、一段また一段と膝をつき、必死に神仏に祈ったのだ。守りたい人が、できてしまったから。だが、もういい。この想いは、今日限りで手放そう。真心が真心で返されないのなら、その相手を変えるまでだ。……詩織は、智也の才能を誰よりも信じていた。そして、その目に狂いはなかったと、今、改めて確信していた。まだ初期の軽量モデルだというのに、その使い心地は驚くほどスムーズだった。この完成度は、彼女の心に大きな自信を灯してくれる。「本当に、お疲れ様。少しの間だけど、みんなで休暇を取りましょう」「詩織さん、最高!」若
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第108話

エイジア・キャピタルは多くのテクノロジー分野に投資しており、中でも最も成功しているのが、傘下の半導体企業だった。柊也自身、この半導体事業によって、エイジアを現在の地位まで押し上げたのだ。詩織が立ち上げた、まだ門を叩くことすら許されない小さなスタジオとは違い、エイジアほどの大企業ともなれば、こうしたトップレベルの業界サミットでは常に貴賓として迎えられる。彼らにとって招待状など、当たり前のように手に入るものに過ぎない。詩織も、その可能性を考えなかったわけではない。だが、柊也と再び接触し、関わりを持つことへの潜在的な抵抗感が、行動をためらわせていた。そんな彼女の背中を押したのが、沙羅の言葉だった。公は公、私は私。その二つを混同する必要はない。ビジネスの場では、ビジネスの話だけをすればいい。業界は狭いのだから、これから先、顔を合わせる機会はいくらでもある。いつまでもぎこちなく避けていては、かえって未練があるように見えてしまう、と。沙羅との通話を終えた後、詩織は意を決して、柊也の番号をタップした。コールは、以前よりも早く繋がった。おそらく、彼はたまたま携帯をいじっていて、着信に気づき、何気なく応答ボタンを押したのだろう。詩織はそう推測した。「賀来社長。今、お話ししてもよろしいでしょうか」詩織は、努めて事務的な口調で切り出した。「『よろしい』とは、どういう意味だ?」電話回線を通した柊也の声は、どこか現実味を欠いて聞こえる。もう長らく彼の声を聞いていなかったせいか、ふいに耳にすると、まるで別人のもののようだ。「例えば……お楽しみの最中を邪魔していないか、ということです」電話の向こうで、柊也が微かに笑った気がした。「もし邪魔したとしたら?」「でしたら、お済みになるまでお待ちします」詩織は即座にそう返した。また、柊也が笑う。ただし今度は、怒りを押し殺したような響きがあった。声には、歯ぎしりしそうなほどの苛立ちが滲んでいる。「……邪魔じゃない。何の用だ」詩織は、回りくどい言い方を一切せず、単刀直入に用件を伝えた。「招待状か。あるにはあるが……詩織、タダで渡すわけにはいかない」ああ、どうして忘れていたんだろう。彼のその、資本家の権化のような顔を。詩織は込み上げる怒りをぐっとこらえ、尋ね
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第109話

ドアの前にまだ案内係がいることに気づくと、男は慌ててバスローブの前をかき合わせた。そして、詩織に向かって顎をしゃくる。「入れ」案内係は去り際に、じろりと詩織に視線を投げた。その目には、あからさまな好奇の色が浮かんでいる。部屋に入ると、詩織は持っていた箱をテーブルに置き、単刀直入に切り出した。「招待状をください」柊也は、急かす詩織を無視して、ゆっくりとケーキの箱を開ける。そして、クリームの端を指先ですくい、ぺろりと舐めた。ふ、と嘲るような笑みが彼の口元に浮かぶ。「その辺の店で適当に買ってきたな?詩織、こんなもので俺をだませるとでも?」図星を突かれたにもかかわらず、詩織は少しも動揺を見せず、きっぱりと言い放った。「そんなわけないじゃない!いつものお店で買ってきたわよ!」どうせ彼は、昔だって私が作ったケーキを真面目に味わったことなど一度もなかったのだ。覚えているはずがない。あまりに堂々とした詩織の態度に、柊也もそれ以上は追及せず、約束通り、詩織に招待状を手渡した。詩織は喜び勇んでそれを受け取り、中を確認する。しかし、その表情はすぐに凍りついた。「……一枚だけ?」柊也はアイランドキッチンに気だるげに寄りかかり、濡れた髪を無造作に払う。その動きに合わせて、バスローブの襟元がさらに緩くはだけた。詩織は、思わずそこに視線を走らせる。目の保養よ。見ておいて損はないわ。柊也の声は、相変わらず冷ややかだった。ただ、そこには明らかな嘲りが含まれている。「お前が持ってきたケーキには、招待状一枚分の価値しかない。わかるか?」「……っ」詩織が何か言い返そうとした、その時だった。テーブルに置かれた柊也のスマートフォンが、着信を告げて震え始めた。画面には、志帆の名前が表示されている。柊也は、ほとんど間を置かずに電話に出た。詩織と話す時とは比べ物にならないほど穏やかな声色で、その顔には笑みさえ浮かんでいる。「ああ。今シャワーを浴びたところだ。ケーキを買ったが、食べるか?そっちに届けてやろうか」詩織は奥歯をぐっと噛みしめ、二人の甘ったるい空気が充満する部屋から、静かに身を引いた。ホテルの廊下に出ると、先ほど彼女を部屋まで案内したスタッフと鉢合わせた。相手は詩織の顔を見るや、あからさまに驚いた顔をする。詩
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第110話

もちろん、それは柊也の勝手だ。せいぜい陰で悪態をつくくらいで、詩織に口出しする権利はない。関心を向けるだけ無駄だった。それよりも今、彼女が最優先で解決すべきなのは、もう一枚、AIサミットの招待状をどうにかして手に入れることだ。詩織が招待状のことで頭を悩ませていると、京介から電話がかかってきた。このところ、彼は相当忙しいはずだった。だから詩織も、連絡を控えていた。たとえ、資金繰りに窮していた時でさえ、彼に助けを求めようとは思わなかった。衆和銀行が置かれている厳しい状況を、詩織は多少なりとも知っていた。京介が帰国したのは、衆和を継ぐためというより、むしろその尻拭いをするため、と言った方が正しいのかもしれない。オーナー企業とはそういうものだ。時が経てば、様々な問題が噴出する。加えて、先代の経営手腕に問題があったこともあり、衆和銀行の業績はここ数年、下降の一途をたどっていた。その盤石な基盤がなければ、とうに淘汰されていただろう。京介は、頭取に就任するやいなや、そうした長年の「病巣」の処理に追われていた。だから、電話に出た詩織の第一声は、自然とこうなった。「もう終わったの?」電話の向こうで、京介が苦笑する気配がした。「まあ、だいたいな」「順調だった?」「ああ」他愛もない、あまりにも短いやり取りだったが、京介の心は不思議と軽くなっていた。まるでその一瞬、肩にのしかかっていた重荷が取り払われたかのようだった。「今、時間あるか?」京介は電話口でストレートに尋ねた。詩織は「あるわ」と答える。「衆和まで来られるか?」詩織が怪訝に思うのを察したように、京介はすぐさま言葉を続けた。「今日、君の融資申請書を見かけたんだ。一度、詳しく話が聞きたくてな。もし都合がつくなら、今から来てもらえないか」「わかった、すぐ行くわ!」詩織は迷わず応じた。本来、彼女が申請したような小口融資に、頭取である京介が直々に対応する必要などない。彼がこうして声をかけてくれたのは、純粋に彼女を助けたいという気持ちの表れだろう。その心遣いを、無下にはできなかった。衆和銀行へ向かう途中、詩織は近くの花屋に立ち寄り、小さな金柑の鉢植えを買った。京介が事前に話を通してくれていたのだろう。詩織が銀行に着くと、すぐに彼の秘
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