All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話

それに、あの金柑の鉢植え……あれはまるで、肉に食い込んだ棘のようだった。普段は意識しなければ痛みもないくせに、ふとした瞬間に思い出しては、じくりと疼いて不快にさせる。今すぐにでも、引き抜いてしまわなければ。なんという巡り合わせか、詩織と志帆は、なんと発表順が前後する隣り合わせのクジを引き当てた。志帆が先で、詩織が後。ちょうどいいわ。志帆はそう思った。これなら、詩織との「格の違い」を、柊也くんにこれ以上なくはっきりと見せつけることができる。学歴も、能力も、何もかも。詩織は、私には到底敵わないのだと、すべての人に知らしめてやる。なにしろ私には、WTビジネススクールの経済学博士という肩書きがある。それは、詩織には永遠に手の届かない高みだ。一方の詩織は、そんなこと少しも意に介さなかった。志帆のことなど頭の隅にもなく、どうすればパートナーの緊張をほぐせるか、そのことで頭がいっぱいだった。技術者というのは、こういう性質の人が多いのかもしれない。技術のことしか目になく、一人で深く思考することを好み、社会との関わりが少ない。いかにも智也らしいとも言える。「持ち時間は全部で十分。スピーチ原稿は八分くらいの内容だから、時間はたっぷりあるわ。もし緊張して言い間違えても、ちゃんと立て直せるから大丈夫」詩織は、智也に言い聞かせるように分析してみせた。「さっきからお水、結構飲んでたみたいだし。ステージに上がる前に、一度お手洗いに行っておくといいわ」「うん」智也は、詩織のその実行力に、改めて感心していた。「他の人のプレゼンは、私がしっかり見ておくから。参考にできるところは盗んで、私たちの力にしましょ」やがて、注目製品プレゼンテーションが始まった。最終選考に残っただけあって、内容は多岐にわたり、どれも業界屈指のプロジェクトばかりだ。五番目に、志帆が登壇した。彼女がたった一人でステージに立つのを見て、詩織は少し意外に感じた。本来なら、技術的な内容は開発者本人が説明する方が、ずっと説得力があるはずだ。それをあえて一人で。よほど、自分のプレゼンに自信があるのだろう。以前、北里市で坂崎社長と食事をしたとき、志帆が自身のプロジェクトについて話していたのを思い出す。あのときの坂崎社長の評価は、たしか「いまひとつ
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第142話

志帆がステージから降りてくると、太一が満面の笑みで駆け寄ってきた。「さすが俺の女神っす!さっきの志帆ちゃん、マジで最高に魅力的でした。やっぱトップクラスの大学院で博士号を取った人は違いますね!堂々としてて自信に満ちあふれてて、壇上に立ってるだけでものすごい説得力でしたよ」「花束でも用意しとくんだったなあ!」志帆はくすりと笑って彼に問いかける。「ちょっと大げさじゃない? 柊也くんは、何も言ってくれないのに」「柊也のやつは口には出しやせんけど、行動で示してるでしょ!」太一が、待ってましたとばかりに口を挟む。「さっきだって、スマホでばっちり全部録画してたじゃないすか!」その言葉に、志帆は好奇心いっぱいの顔で柊也へと向き直った。「見せて、どうだった? 変に撮れてたりしない?」「志帆ちゃんの三百六十度死角なしの美貌が、どうやったらブサイクに撮れるっていうんすか!」それでも志帆は、どうしても見たいと食い下がった。柊也が口を開こうとした、そのとき。スピーカーから聴き慣れた声が響いてきた。詩織だ。すでにステージに上がっている。彼女は、なかば自棄になって登壇した。念入りなメイクもヘアセットもしていない。それどころか、先ほどまで荷物運びを手伝っていたせいで、化粧も少し崩れてしまっている。その姿を見て、会場の誰もが、どこかのスタッフが紛れ込んだのだろうと思ったくらいだ。詩織がマイクを手に取るまで、彼女が六番目のプレゼンターだとは、誰も気づかなかった。「……たく、マジで上がりやがった」太一が冷たく鼻を鳴らす。志帆も、詩織が壇上にいることに少なからず驚いていた。まさか、彼女のプロジェクトも注目製品リストに入っていたというの?その事実に気づき、志帆はわずかに眉をひそめた。その表情を敏感に察した太一が、すかさず口を開く。「心配いりませんよ、志帆ちゃん。あなたとは比べものになんないすから。あんたが見事なプレゼンをした後じゃ、アイツはただの笑い者になるだけっす」「どうして、そう言い切れるの?」志帆には、太一の言葉の意図が読めなかった。「ま、見てりゃわかりますよ」太一は、わざとらしく勿体ぶって笑う。面白くてたまらないといった様子だ。彼がこれほど自信満々なのには、理由があった。さっき、小耳に挟んだのだ。本来のプレゼン
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第143話

詩織には、自分の製品に対する絶対的な自信があった。人々を惹きつけられないはずがない、と。束の間の喧騒が収まるのを待って、詩織は再び口を開いた。「もし可能でしたら、先ほどの柏木さんのプレゼン資料を、もう一度スクリーンに映していただけないでしょうか?」「ははっ、マジかよ!」太一はもう隠そうともせず、あからさまに嘲笑の声を上げた。「アイツ、本気で恥知らずだな! 俺がアイツだったら、穴掘って埋まるね!」今度は、隣の柊也までもが微かに笑みを漏らした。その様子を見て、志帆の口角が満足げに上がる。今まで、詩織のことライバルだなんて思ってたなんて……自分の格を下げて、あの女を買いかぶっていただけだった。太一の言う通り。江崎詩織は、私と比べることすらおこがましい存在なのだ。志帆は、わざとからかうように柊也に話しかけた。「エイジアの社員は、彼女のことすごく有能だって言ってたわよね? なのに、この程度なの? 柊也くん、人を見る目、もう少し養った方がいいんじゃない?」柊也は何も言わず、ただふっと鼻で笑うだけだった。「柊也の見る目は、もうとっくに良くなってるじゃないすか」太一が、すかさず口を挟む。その言葉の意味を正確に理解し、志帆は誇らしげに顎を上げた。太一は、先ほど撮った動画を仲間内のグループチャットに投稿し、全員にメンションを付けて野次馬を集めた。【あれ、江崎詩織ってこんな仕事レベルだったか? どうしたんだ?】詩織と仕事で関わったことのある誰かが、彼女の実力を知っているだけに、意外そうに書き込む。太一は、せせら笑うようにキーボードを叩いた。 【アイツに能力なんてあるわけねーだろ!あれは全部、柊也の手柄だっつーの!アイツ自身はなんも関係ねえよ、マジで!】もちろん、まったく別のことに関心を持つ者もいる。【江崎と柊也、マジで別れたの?別れたんなら、俺、そろそろ動いちゃっていいかな!】詩織の美貌を狙っていた男だ。そして、事態そのものに注目する声も。【江崎詩織が、あんな場所で恥を晒してんのか?エイジアを辞めててよかったな。じゃなきゃ、賀来さんの顔に泥を塗るところだったぜ!】これこそ、太一が望んでいた反応だった。彼は得意げに打ち込む。【ま、みんな、これから始まるショーをとくとご覧あれ!】その上で、彼はある一人
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第144話

会場のあちこちから、自分に向けられる視線を感じる。その中には、ついさっき名刺を交換したばかりの投資家たちの顔もあった。彼らは何も言わない。だが、その眼差しだけで、志帆は身の置き所がないほどの屈辱に襲われた。どうして。なぜ、私が精魂込めて準備したプレゼン資料に、『ココロ』から得たデータや画像が紛れ込んでいるの?まったく理解ができなかった。志帆の頬は、まるで火で炙られたかのように熱い。これほど大勢の前で、こんな屈辱を味わったのは、生まれて初めてだった。柊也の顔を見ることすらできない。彼の目に、失望の色が浮かんでいたら?あるいは――今、この瞬間、誰よりも輝いている詩織に、彼の心が奪われていたら?そのどちらを想像しても、恐ろしくてたまらなかった。柊也は、これ以上志帆が好奇の目に晒されるのを見かねたのだろう。「もう帰ろう」と、彼の方から言い出した。サミットはまだ続いていたが、柊也は志帆を連れて先に会場を後にすることにした。太一のことなど、まるで眼中になかった。その太一はといえば、ひどく複雑な表情を浮かべていた。驚き、不信、そしてどうしようもないほどの混乱。ありえない。どうして『ココロ』が、あの女のものなんだ。だが、事実は目の前に突きつけられている。信じたくなくとも、信じるしかなかった。だというのに、グループチャットではまだ【早くしろ】【じらすな】という催促が止まらない。詩織が恥をかく動画を投稿して、みんなを楽しませろ、と。太一は苛立ち紛れに、荒々しく【黙れ】とだけ返信した。【どうしたんだ?】今の彼に、事情を説明する気力など残っていない。その勢いのまま、グループを退会した。今、恥をかいているのは江崎じゃない。この俺だ。柊也に付き添われ、志帆は一足先にサミット会場を後にした。外に出て、ようやく人の視線から解放されると、彼女の心も少しだけ落ち着きを取り戻す。何か言わなければと思うのに、どんな言葉を口にすればいいのかわからなかった。そんな志帆の心を読んだように、柊也が優しい声で慰める。「落ち込むな。いずれにせよ、君のプロジェクトは注目製品リストに選ばれたんだ。それだけでも、立派な成功だと言える」その言葉に、志帆の心はいくらか救われた。やはり、柊也くんは私のことを本当に大切に思ってく
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第145話

諦めきれず、もう一度かける。今度は、呼び出し音が途中で無慈悲に断ち切られた。志帆の心臓が、急速に冷えていく。彼と付き合っていた頃、一度だって、花をもらったことなんてなかった。彼はただ、ロマンチックなことが苦手で、女心がわからないだけなんだと、そう思っていた。なのに、今は……今までの自分が、まるで救いようのない、ただのピエロみたいじゃない。……太一は、志帆の後を追って会場を出ようとした。あそこに残っていても、惨めな気持ちになるだけだからだ。彼女に電話をかけようとした、そのとき。花束を抱えてやってくる京介の姿が目に入った。「京介……兄貴」思わず呼びかける。声は、それなりに大きかったはずだ。京介にだって、聞こえたに違いない。なのに、彼は一瞥もくれず、真っ直ぐに詩織の方へと歩いていく。太一の二度目の呼び声は、喉の奥でつかえて、音にならなかった。ステージを降りた詩織は、あっという間に人々に囲まれていた。名の知れた経営者や投資家たちが、次から次へと連絡先を求めてくる。詩織は来る者拒まず、すべてに応じていた。友人は一人でも多い方がいい。今はとにかく関係を築いておけば、いつかビジネスに繋がるかもしれない。ようやく人垣から「脱出」すると、目の前に、ぱっと明るい黄色の花束が差し出された。大きなひまわりの花束。その向こうにいる人の顔が見えない。詩織が誰だろうと首を傾げると、花束がすっと下がり、見慣れた顔が現れた。「京介さん!」詩織の声が、驚きと喜びに弾む。「どうしてここに?」「こんな大事な瞬間に、俺がいないわけないだろ」京介は目で、花束を受け取るように促した。「ありがとうございます!」詩織は、そのお祝いの花を素直に受け取った。しかし、今は京介とのんびり話している時間はない。智也を探しに行かなければ。彼に何かあったのではないかと、気が気ではなかった。電話をかけようとした、まさにそのとき、当の智也が戻ってきた。サイズの合わない服に着替え、髪は濡れそぼり、顔には焦りの色が浮かんでいる。「どうしたの、その格好!何かあったの?」詩織が心配そうに尋ねると、智也はぽつりぽつりと説明を始めた。先ほど、お手洗いで転んでしまったのだ、と。何者かが、ハンドソープのボトルを丸ごと床にぶちまけた
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第146話

ワンスター社の向井文武からだった。さすが、反応が早い。これだから、会社を大きくできるのだろう。詩織は電話に出ると、当たり障りのない挨拶を交わした。電話口で、向井は詩織のプロジェクトに投資したいと熱弁し、いつ江ノ本市へ戻るのかと矢継ぎ早に尋ねてくる。今すぐにでも会って話をしたい、と。空港で待ち伏せでもしかねないその剣幕に、詩織は、今ははっきりとした返事を避けた。帰りの便はまだ決めていないとだけ伝え、江ノ本市に戻り次第、こちらから連絡すると約束する。電話を切る直前、向井は「必ず、一番に連絡をください。お待ちしていますから!」と、何度も念を押してきた。その電話を切った途端、今度は群星グループの春日井社長から着信が入る。やはり、経営者というものは、商売の嗅覚が人一倍鋭いらしい。詩織は、先ほどと同じように応対した。かつて、こちらが投資を請いに頭を下げていた頃は、あれほど偉そうに、無下に門前払いしたくせに。会食の席で、屈辱的な言葉を投げつけ、困らせて楽しんでいたくせに。今になって、手のひらを返したように次から次へと連絡してくる。ずいぶんと忘れっぽい人たちだ。詩織は、過去の不愉快な出来事などおくびにも出さなかった。当たり障りのない社交辞令を並べ、のらりくらりとかわす。所詮、人は皆、利益のために集まり、利益のために去っていくのだ。春日井だけではない。長利の高坂社長……かつて彼女を拒絶し、酒の席で辱めた社長たちが、面白いように次々と「協力したい」と電話をかけてくる。誰も彼も、驚くほど丁寧な口ぶりで。けれど、今やゲームの主導権は、この私、江崎詩織が握っている。いつ、誰と、どう始めるのか。それを決めるのは、私だ。鳴りやまない電話に、詩織はスマートフォンの電源を切った。ようやく世界に静寂が戻る。「詩織」京介が、からかうように笑い声を上げた。「これからは、会うのに予約が必要になったりするかな」「そうかもね」詩織も、その冗談に乗って頷いてみせる。二人は顔を見合わせて、くすりと笑った。今回のサミットは、詩織の予想通り、大きな実りをもたらした。途中で小さなトラブルはあったものの、結果は完璧と言っていい。後で録画を見返した智也は、感心したように言った。「これって、怪我の功名って
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第147話

「……え」志帆は一瞬、言葉を失う。「私と柊也くんも一緒だって、伝えたのよね?」「ああ、言ったけど……」志帆は二秒ほど黙り込んだ後、何も言わずにくるりと背を向け、レストランの中へと入っていった。三人が予約していたのは、個室だった。サミットでの一件が尾を引いているのか、テーブルには重い空気が漂っている。おしゃべりな太一でさえ黙り込み、ただひたすら目の前の料理に没頭していた。食事の途中、志帆がお手洗いへ向かい、席に戻ろうとしたときのことだ。ばったりと、同じレストランで食事をしていた京介に遭遇した。「京介!」志帆の目がぱっと輝き、思わず呼びかける。京介は、その声に視線を向けた。彼の顔に浮かんでいた柔らかな笑みがすっと消え、温度のない無表情へと変わっていく。それでも、彼は一応、声には応じた。「太一から、深水市に来てるって聞いて。冗談かと思ったら、本当に来てたのね」志帆は、普段と変わらない柔らかな口調で話しかけながら、彼の方へと歩み寄った。サミット会場の前で彼を見かけたことはおくびにも出さず、あくまで偶然を装って。「いつ着いたの?」「今日の午後」つまり、彼は飛行機を降りて、まっすぐサミット会場へ向かったということ。……誰のために?まさか、彼女の脳裏をよぎった、あの人物のために?志帆は、胸の内に渦巻く感情を巧みに隠し、平静を装った。何気ない雑談を二言三言交わした後、彼女は切り出した。「せっかく会えたんだし、一緒にどう?太一と柊也くんもいるのよ」太一の誘いは断られても、自分の誘いを断るはずがない。私たちには、過去に積み重ねた時間があるのだから。だが、志帆は、その「過去」を過信していたようだ。京介は、何の感情も浮かべない声で言った。「いや、やめとく。友達と来てるから。また今度な」それだけ言うと、軽く会釈して去っていく。志帆は、その場にしばらく立ち尽くしていた。あんなにもあっさりと、あんなにも無情に断られるなんて、思ってもみなかった。彼女はすぐには個室に戻らず、京介が去っていった方へと、吸い寄せられるように歩き出した。彼が、一体誰と食事をしているのか。それを確かめずにはいられなかった。そして、京介の向かいの席に座る詩織の姿を見つけた瞬間、志帆の心は、ずぶずぶと底なしの沼に
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第148話

隅の照明は暗く、男の硬質な横顔をぼんやりと浮かび上がらせている。ただ、指先で燻る煙草の火だけが、赤く明滅を繰り返していた。煙の匂いがあまりに強烈なせいか、詩織の鼻にはもう甘い香水の残り香は届かない。一体いつからここで吸っているのだろう。傍らの灰皿は、七、八本もの吸い殻で溢れかえっていた。詩織の記憶では、柊也は煙草を吸わなかったはずだ。起業したての、プレッシャーで押し潰されそうだった頃でさえ、彼は一度も煙草に手を伸ばさなかった。仕事も恋人も手に入れて、順風満帆なはずなのに。どうして今さら吸い始めたのだろう。まったく、わけがわからない。とはいえ、詩織が気になったのは一瞬だけ。その答えが何かなんて、もうどうでもいいことだ。詩織は柊也をいないものとして扱い、さっさと個室に戻ろうとした。だが、一歩足を踏み出した、その時。背後から声が投げつけられた。相も変わらず人を小馬鹿にした、嫌味ったらしい声。「……たかが小さなプロジェクトを一つ成功させたぐらいで、偉くなったつもりか?なあ、詩織。お前がそこまで恩知らずな女だったとはな」詩織はぎゅっと拳を握りしめる。心臓が針で刺されたみたいに、鋭く痛んだ。恩知らず……?あの人は、私のことをそんなふうに見ていたの?けれど柊也は言葉を止めない。むしろ、さらに追い詰めるように続けた。「詩織。お前、俺にまだ借りがあるのを忘れたわけじゃないだろうな」わざと過去を蒸し返してくる。昔みたいに、私が無条件に屈服することを望んでいるんだ。柊也が一歩、詩織との距離を詰める。真正面から、視線がぶつかった。底冷えのするような、圧倒的な威圧感。なのに、その表情には何の感情も浮かんでいない。深い海の底を思わせる瞳は、どこまでも昏く、冷たい……けれどその奥には、何か、読み取れない感情が揺らめいているようにも見えた。昔の私なら、きっと彼の心の内を探ろうとしただろう。でも、もうしない。詩織は一歩も引かず、その場に立ち尽くす。氷のように冷たい彼の瞳をまっすぐに見据え、一言ひとこと、区切るように言った。「賀来柊也。あなたへの借りはもう返したわ。私はあなたに、もう何も借りなんてない」柊也は無感動に言い放つ。「お前が返したと言えば、それで終わりだとでも?」「そうよ! 私が返
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第149話

……三人の気分が盛り上がるはずもなく、その場の重苦しい食事は早々に切り上げられた。もともと太一は、志帆を湾岸のナイトクルーズに誘うつもりでいた。深水市の夜景といえば、湾岸エリアが一番の見どころだからだ。しかし、誰もがそんな気分ではなく、彼はその話題を口にすらしなかった。志帆はホテルに戻り、プロジェクトチームと反省会を開くと言う。敗因を分析し、気持ちを切り替えるためだと。「さすが志帆ちゃん……俺だったら、しばらくヘコんで立ち直れないっすよ」太一は心から志帆に感服していた。「一度失敗しただけよ」志帆は、もう気持ちを切り替えたような口ぶりだった。「それに、ほんの小さな躓きじゃない。どうあれ、私たちも注目製品のリストには入ったんだから」「っすよね!」太一が力強く頷く。「俺も、志帆ちゃんを見習わないと!」江崎詩織は……あいつはただ、運が良かっただけだ。それだけ。実力で勝負したら、あの女が志帆ちゃんに敵うわけがない。柊也が会計を済ませている間に、スタッフの一人が大きなひまわりの花束とケーキを乗せたワゴンを押し、レストランの右奥へと進んでいく。近くでは、別のスタッフたちがひそひそと噂話を交わしていた。「いよいよ告白だって!BGM、ロマンチックな曲に切り替えるの忘れないでね!」「さっきお料理運んだとき見たけど、女の人、すっごく綺麗で品のある人だったよ!そりゃあ、あの久坂さんも夢中になるわけだよね。ずいぶん前からお店に連絡して、一生懸命準備してたもん」「でも……一緒にいたの、もう一人男の人じゃなかった?どういう関係なんだろ?」囁き声の中、花束とケーキは目的のテーブルへと運ばれていく。志帆と太一は、そのワゴンが向かう先に詩織がいることに気づいた。太一が吐き捨てる。「……またひまわりかよ」会計を終えた柊也が戻ってきて、ちょうどその言葉を耳にした。彼もまた、詩織たちのテーブルに目を向ける。だがそれは、ただの一瞥。詩織が誰かに告白されようとしている状況にも、まるで心が動いていないように見えた。内心ひやひやしていた太一は、その様子を見てほっと胸をなでおろす。柊也はもう、江崎には何の感情も抱いていない。そう確信できた。目の前で告白されかけても無反応なんて、気にしていない証拠だ。どうでも
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第150話

詩織の予想通り、深水市への出張は大きな実りをもたらした。一日長く滞在し、饒村教授の紹介で、業界の重鎮や名だたる起業家たちに会うことができた。その中には好感触を示してくれた企業がいくつもあり、ぜひ提携したいと声をかけてくれたのだ。もちろん、提携は一朝一夕に決まるものではない。これからじっくりと交渉を進めていくことになる。それでも、もう資金のことで頭を悩ませる必要はなくなった。詩織たちより一日早く帰路についていた京介は、彼女が戻る日を知ると、朝一番に電話をかけてきた。空港に何時に着くのか、と。ただ聞いてきただけだと思っていたのに、まさか彼自ら空港まで迎えに来てくれるとは思わなかった。なんだか申し訳なくて、詩織は恐縮してしまう。「君はいまや引く手あまただからね。しっかり見張っておかないと。もし誰かに引き抜かれたら、俺の成績に響くじゃないか」京介は、半分冗談めかして言った。「大げさだよ」詩織は思わず苦笑する。「すぐに、俺が大げさに言ってるんじゃないってわかるさ」京介は自信たっぷりにそう言った。その「すぐに」は、本当にすぐのことだった。詩織がまだスタジオに着かないうちに、アシスタントの密から電話が入った。朝から何組もの人たちがスタジオを訪ねてきて、皆が詩織に会いたがっているという。中でも一番熱心なのは、あの向井文武だった。昨日も二度顔を出し、今日も朝一番にやってきたらしい。スタジオのスタッフ全員にコーヒーまで差し入れてくれて、なかなかの誠意を見せているようだった。引く手あまたなのも、それはそれで頭が痛い。詩織は、彼らの応対をすること自体は苦ではなかった。けれど、これだけ多くの人がひっきりなしに訪れると、他のスタッフたちの仕事に差し支えてしまうのではないかと心配だった。だから今、彼女にはもう一つ、片付けなければならない重要なことがある。オフィス用の物件を、きちんと借りることだ。以前は経費を切り詰めるため、智也のスタジオの机を一つ借りて、そこを仮のオフィスにしていた。あの頃は詩織のプロジェクトに投資してくれる人など誰もいなかったから、彼女を訪ねてくる人もおらず、誰かに迷惑をかける心配もなかった。けれど、今はもうあの頃とは違う。スタジオで働く他の人たちの仕事環境も、考えなくてはならない。
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