All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

どうでもいい人たちのために、一秒たりとも時間を無駄にしたくなかったからだ。だが、彼女は結局、一歩遅かった。ホテルのスタッフは告げた。北川院長一行は、食事を終えてもう出発した、と。ほんの、十分前のことだった。三十分、いや二十分の遅れなら、まだ諦めもついたかもしれない。けれど、たった十分だなんて……!あとほんの少しで、会えたのに。あまりにも残酷な現実に、詩織は全身の力が抜け、為す術もなかった。疲れ果てた体を引きずるようにして、ホテルを出る。外にはもう、柊也と志帆の姿はなかった。そこに待っていたのは、京介だけだった。彼はどこか頑なな様子で、詩織に問いかける。「今度こそ、病院に行けるか」詩織の言う通り、嘘ではなかった。確かにただの擦り傷だ。しかし、見た目は痛々しい。特に膝の傷は深く、歩くたびにずきりと引きつれ、心の芯まで突き刺すような鋭い痛みが走る。「家まで送る」彼女の傷の手当てを終えて、京介はようやく安堵の息を漏らした。「いえ、まだやることがありますから」詩織はまだ諦めていなかった。もう一度、何とかして食らいつこうとしていた。「一体、何が君をそこまで焦らせるんだ」京介は見ていられなくなり、冷めた声で尋ねた。これは自分の問題だ。京介に話す必要はないと詩織は思った。彼を帰させようとした、その時だった。徹から電話がかかってきたのだ。詩織は重要な知らせを逃すまいと、すぐに応答した。徹は、ひどく残念そうな声で告げた。専門家チームが診る患者は、もう決定したらしい。別の方法を考えた方がいい、と。詩織の鼻の奥がつんと痛み、熱いものがこみ上げてくる。親指の爪を人差し指の関節に強く食い込ませ、何とか感情を押し殺そうとした。しかし、声はそれでも震えていた。「専門家チームが江ノ本市に着いたのって、今日の午後ですよね?まだ病院にすら来ていないのに、もう人選を終えたって……どういうことですか」「北川院長が決めたことらしくてね。詳しい事情までは、私も分からないんだ」徹も、ただの一介の医師だ。これ以上、どうすることもできないのだろう。通話を終えた瞬間、詩織はまるで氷の穴に突き落とされたかのようだった。四方八方から押し寄せる冷たい奔流が、彼女の体を包み込んでいく。「どうしたんだ」彼女の尋常でない顔色を見て、
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第32話

なぜ柊也がこんな所にいるのか、詩織には分からない。もちろん、知りたいとも思わない。だから、ほんの一瞬彼に目を向けただけで、すぐに全ての感情を消し去り、まっすぐにエントランスを目指した。だが、柊也はちょうどその入り口に立ちはだかっている。家に入るには、必ず彼の横を通り過ぎなければならない。詩織は、彼が自分に気づかないふりをしてくれることを、ただひたすらに願った。残念ながら、彼は盲目ではなかった。彼女がすぐ側まで来た時、柊也が口を開いた。その声は、夜の闇よりも冷たい。「なぜこんなに遅い」まるで彼女の所有者でもあるかのような、詰問する口ぶりだった。詩織は、心の底から可笑しくなった。一体、どういう立場で、自分にそんな質問をするのだろうか。詩織が無視を決め込むと、柊也は手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。そのせいで、肘の傷が引きつる。詩織は思わず「……っ」と息を呑んだ。何かを察したのか、柊也は慌てて手を離す。その眉間の皺は、先ほどよりもさらに深くなっていた。「どこを怪我した。ひどいのか」心から心配しているような響き。だが、その気遣いはあまりにも遅すぎ、そしてあまりにも白々しかった。詩織はもう、そんなもの、とっくに必要としていない。だから、何も感じなかった。「一体、何のご用です?はっきりおっしゃってください」彼女の冷たく硬い口ぶりに、柊也は何度も眉をひそめた。そして、今更ながらに気づいた。彼女の最近の異常な態度は、自分に対して拗ねているせいかもしれない、と。柊也は珍しく下手に出た。「柏木を第三部のディレクターに任命した件だが、確かにお前に事前に話しておくべきだった。ただ……その時は忙しくてな。手が回らなかったんだ」忙しい、というのは実に完璧な言い訳だ。どんな時も、どんな相手にも通用する。けれど、親密な間柄にだけは、決して当てはまらない。それは、ただのごまかしに過ぎないから。彼の言い分は、詩織の耳を通り過ぎていくだけで、心には何のさざ波も立てなかった。「お話は済みましたか。でしたら、もう戻っても?」柊也は、彼女がこんな態度に出るとは思ってもみなかった。七年間、共に過ごしてきた。彼女の物分かりの良さと、常に大局を見られる思慮深さが、彼は何より気に入っていた。多くを望まず、そ
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第33話

ベッドの中で何度寝返りを打っても、一向に眠気は訪れない。深夜十一時過ぎ、親友のミキからメッセージが届いた。画面には、七、八人ほどの弁護士の連絡先がずらりと並んでいた。知人の紹介から、SNSで有名な弁護士まで。彼女なりにあらゆる手を尽くして、詩織を助けようとしてくれているのが痛いほど伝わってくる。どうせ眠れないのだからと、詩織は送られてきた弁護士たちに連絡を取ってみた。誰もが最初は威勢のいいことを言った。だが、相手がエイジア・キャピタルの法務部だと知った途端、みな一様に尻込みし、ぴたりと返事が途絶える。事態は、詩織が想像していた以上に厄介だった。そもそもあの時の契約書には、彼女自身が納得してサインしたのだ。ただその一点だけで、敗訴は濃厚だった。裁判という道は、まず間違いなく行き詰まる。万が一、相手が悪意をもって裁判を三年、五年と引き伸ばせば、彼女のキャリアは完全に絶たれてしまうだろう。つまり、柊也本人と直接交渉するしかない。その事実に、詩織は猛烈な苛立ちを覚えた。因果応報――恋に目が眩んで、まともな判断ができなかった自分自身への報いなのだと、彼女は自嘲した。ミキが尋ねてくる。「これから、どうするの?」詩織は心を決めた。「今は、屈辱に耐えるしかないわ」ミキは、今の詩織の言葉に心から目を見張った。「詩織……!あんた、やっと目が覚めたんだね!よかった……!」そう、まだ手遅れではなかった。けれど、人が本当に目を覚ますとき、そのきっかけの一パーセントは誰かの忠告でしかない。残りの九十九パーセントは、全身を刃物で切り刻まれるような痛みを経験して、初めて得られるものなのだ。……翌日、詩織はいつもより早く出社した。柊也は志帆と共に現れた。自分のデスクに静かに座っている詩織の姿を認め、彼は内心でほっと息をつく。やはり、この前の彼女の異常な態度は、自分に拗ねていただけだったのだ。昨夜、ほんの少し説明しただけで、彼女はおとなしく戻ってきた。柊也は、詩織のその物分かりの良さに満足していた。志帆と連れ立って執務室に入ると、彼は内線電話のボタンを押し、詩織にコーヒーを二つ持ってくるよう命じた。詩織は言われた通りにした。「柊也くん、このパワポ、他に直すところがないか見ても
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第34話

詩織は何気なく尋ねた。「何があったの?」「あの柏木ディレクターがですよ!詩織さんが前に決めてた案件、一つ残らず全部ボツにしちゃったんです!」密は明らかにトイレにでも隠れてこそこそ話しているようで、声がひどく潜められている。詩織は一瞬、固まった。「……全部?」「ええ、全部です!詩織さんが一番期待してたAIの案件と、ゲームの案件も……ぜんぶ」密はもう、呆れて言葉もなかった。詩織は眉をひそめて尋ねる。「社長は、何て?」「それが……何も」詩織の頭の中が、一瞬だけ真っ白になった。だが、すぐにすべてを察した。あの案件に投資価値があるかどうか、柊也が知らないはずはない。彼が何も言わなかったのは、ひとえに、それを却下したのが志帆だったからだ。彼は志帆のために、彼女の権威を確立しようとしているのだ。社の人間すべてに彼女を認めさせ、ひざまずかせようと。いつものように、志帆の地盤を固めてやっている。「社長って、あの女に何か呪いでもかけられてるんじゃないですかね?なんで何でもかんでも柏木さんの言いなりなんですか?」密は、行き場のない不満をぶつけるように、詩織に愚痴をこぼした。「簡単よ。柏木さんの立場を固めるため」詩織はもう、達観していた。たとえ今、柊也がエイジア・キャピタルを志帆に譲ると宣言したとしても、彼女はもう驚かないだろう。「立場を固めるって言ったって、あんなえこひいきします?まさか、本気であの人のこと、エイジアの未来の社長夫人にでもするつもりなんですかね?」密は思ったことをすぐ口にする質だった。頭で考えるより先に、言葉が飛び出してしまう。そこまで言って、彼女ははっと口をつぐんだ。「あ……詩織さん、ごめんなさい、そういう意味じゃ……」詩織の反応は、驚くほど穏やかだった。冗談を返す余裕さえある。「そうかもね。だから、あんまり陰でこそこそ言ってると、バレたらクビになっちゃうわよ」密はそんなこと、少しも気にしていないようだった。彼女はただ、詩織のことが不憫でならなかったのだ。「社長は、いつか絶対に後悔します!」密は声を詰まらせた。彼女の脳裏には、病室のベッドで血の気のない顔をして、虚ろに横たわっていた詩織の姿が焼き付いていた。本当に、あと少しで、帰ってこられなくなるところだったのだ。「ううん、あ
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第35話

徹からのメッセージに、詩織の心にわずかな光が差し込んだ、その矢先のことだった。北川院長が院長室へ戻ってきたのだ。今度の彼の態度は、先ほどとは打って変わって明確なものだった。「宇田川様、誠に申し訳ございません。この件はもう決定事項でして……一度決まったものを、今から変更するというのは、どうにも……」京介の表情がすっと冷たくなったのを見て、院長は慌てて言葉を継いだ。「も、もちろん、江崎さんのお母様の件は、私どもも全力でサポートさせていただきます!もしご心配でしたら、私が責任をもって、さらに権威のある病院をご紹介することも……」最後の希望の糸がぷつりと切れるのが聞こえた気がした。詩織の瞳から、すうっと光が消えていく。「詩織、少し席を外してくれ」京介が、静かに彼女の名を呼んだ。言われるがままに、詩織はまるで夢遊病者のようにふらふらと部屋を出て行った。扉が閉まる音を確認し、京介は院長に向き直る。「北川院長。正直にお答えいただきたい。一体、どんな条件を飲めば、江崎初恵さんの手術を執り行っていただけるんですか」その幽邃な瞳が、まっすぐに院長を射抜く。「条件は、そちらの言い値で構いません」「いえ、宇田川様、誤解です!この件ばかりは、私の力ではどうにも……」その言葉で、京介はすべてを察した。彼は単刀直入に尋ねる。「差し支えなければ、どなたが院長をそこまで追い詰めているのか、教えていただけませんか」「……そ、それは……」院長が口ごもる。江ノ本市で名の知れた名家など、たかが知れている。その中で宇田川家よりも格上となれば、さらに数は絞られる。京介が少し考えを巡らせれば、答えは自ずと見えてきた。「——賀来柊也か」院長は肯定も否定もしなかった。沈黙が、何より雄弁な答えだった。京介は静かに頷く。「結構です。お手数をおかけしました」そう言い放つと、彼は詩織に声をかけることなく、まっすぐに病院を後にした。もう望みは薄いと、詩織も感じ取っていた。万が一に備えなければならない。彼女はスマートフォンの画面を滑らせ、国内で母と同じ症例を扱える専門家チームを必死に検索し始めた。一方、京介はその足でエイジア・キャピタルへと向かっていた。受付で来意を告げると、思いがけない人物が現れる。志帆だった。「あら、京介じゃない。今日はどういう風の吹
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第36話

この数日間、無理やり心の奥底に押し込めていた全ての屈辱が、堰を切ったように彼女へと殺到した。どれだけ固く閉ざしていた心の壁も、この瞬間、木っ端微塵に砕け散る。理性が感情に呑み込まれ、詩織は衝動のままに、柊也を問い詰めるべく走り出していた。はっと我に返った時、彼女は柊也が住むマンションの前に、呆然と立ち尽くしていた。ひゅう、と冷たい風が吹き抜ける。詩織はコートも羽織らずに飛び出してきたため、身を切るような寒さが容赦なく首筋から入り込んでくる。ここまで来てしまったのだ。詩織は、柊也と正面から向き合い、すべてを終わらせようと決意した。だが、スマートフォンを取り出した、まさにその時だった。見慣れたヘッドライトが闇を切り裂き、柊也の車がマンションの敷地内へと滑り込んできたのは。眩い光に思わず目を細め、再び開いた時には、車はすでに彼の定位置である駐車スペースに静かに収まっていた。声をかけようと一歩踏み出した詩織の足が、ぴたりと止まる。助手席から、満面の笑みを浮かべた志帆が降りてきたからだ。喉の奥で言葉が詰まり、声にならない息が漏れた。車から降りた柊也は、慣れた様子でトランクを開け、いかにも女性物といったデザインの、小ぶりなピンクのスーツケースを取り出した。そして二人は、楽しそうに言葉を交わしながら、エントランスへと消えていく。ぱたん、と閉まったドアの音が、詩織の心にまた一つ、新たなひびを入れた。どれほどの時間そうしていたのか、わからなかった。凍りついたように動けないまま、思考だけが渦を巻く。もう……同棲を始めるの?そうか。あれだけ長い間、焦がれてきた相手だ。ようやく公然と一緒にいられるようになったのだから、躊躇う理由など、どこにもない。引き延ばし、先延ばしにするのは、愛していないから。大切ではないから。美談みたいに言うけれど、恋愛の長距離走なんて、結局のところ……本気じゃなかったという、ただそれだけのこと。その瞬間、詩織の中で何かがすとんと腑に落ち、心は冷たい灰になった。木陰に身を潜めたまま、詩織はただ、部屋の明かりが灯るのをじっと見つめていた。とっくに麻痺したはずの心が、きりきりと締め付けられるように痛む。彼女は、その痛みから目を逸らさなかった。真正面から、受け止めた。かつ
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第37話

合間を見てエイジア・キャピタルに立ち寄った詩織が荷物を開封すると、中から現れたのは、以前オーダーメイドしたドレスだった。祝賀パーティーで着るはずだった、一着。これを注文した頃の自分は、幸福の絶頂にいた。柊也へのプロポーズはきっと成功して、会社の誰もが自分たちの関係を知っているはずだ、と。だから、何のてらいもなく、柊也のタキシードと揃いのデザインにしたのだ。自分たちの愛を、世界中の人々に祝福してほしかった。——まるで、柊也が志帆への寵愛を、世界中に見せつけようとしているのと同じように。だが、もう、このドレスに袖を通すことは二度とない。詩織がドレスに丁寧にアイロンをかけ終えた、ちょうどその時。柊也から電話が入り、『Belle Fleur』アトリエへドレスを受け取りに行くよう命じられた。アトリエへ向かう道中、詩織の胸には一つの疑念が渦巻いていた。これまで柊也が様々なパーティーで着用する衣装は、すべて自分が手配してきたはずだ。どうして、急に自分で新調したりしたんだろう?だが、アトリエで品物を受け取った瞬間、詩織は自分の考えがいかに甘かったかを思い知らされた。彼が注文したのは、女性用のドレスだった。けれど、そのサイズは、どう見ても詩織のものではない。確かめるまでもない。これは、志帆のために特別にあつらえられた一着だ。注文書の日付は、詩織が自分のドレスをオーダーした日よりも、さらに遡る。つまり、自分が彼へのプロポーズを夢見て胸をときめかせていた、まさにその時、彼はすでに志帆のためのドレスを用意していたのだ。なんと滑稽な真実だろうか。ここ最近、どれだけ心を麻痺させようと努めてきたというのに。この発見は、無数の細い針で心臓を突き刺されるような、鋭い痛みを詩織にもたらした。息を吸うことさえ、苦しい。——大丈夫。——きっと、大丈夫になる。——柊也から離れさえすれば、すべてはきっと、うまくいく。詩織は自分にそう言い聞かせた。志帆のドレスにアイロンをかけてハンガーに吊るし、改めて印刷し直した辞職届を柊也のオフィスに置くと、ちょうど定時を迎えた。彼女は、またしても時間きっかりにタイムカードを押す。密はもう慣れたのか、以前のように目を丸くすることはなかった。ただ、退勤前に詩織が口紅を
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第38話

「どうしたの?」柊也のわずかな変化に気づいた志帆が、心配そうに顔を覗き込んだ。柊也は、その退職願を無造作に引き出しへ放り込むと、何事もなかったかのように立ち上がった。「なんでもない。終わったよ、食事に行こう」「ええ」志帆は、彼とのディナーを心から楽しみにしていた。……詩織は、約束の時間きっかりに空港の到着口で待っていた。ゲートから出てきた京介は、人混みの中から、一目で彼女の姿を見つけ出す。「はは、本当に迎えに来てくれたんだな」京介は、心底嬉しそうに言った。「約束ですから。すっぽかすわけにはいかないでしょ」詩織が微笑むと、京介は満足げに頷いた。「そうでなくっちゃな」二人は軽口を叩き合いながら、空港を後にした。詩織が予約しておいたレストランへ、車を直接走らせる。ちょうどディナータイムが始まったばかりで、店内は多くの客で賑わっていた。席に着くと、詩織はこの店の自慢の料理を京介に紹介する。彼は満足そうに頷いていたが、食事の途中で、詩織が胃に優しい淡白な料理ばかりを口にしていることに気づいた。「あれ、詩織」京介は、ふと首を傾げる。「昔はもっと辛いもの、好きじゃなかったか?」「ここ二年くらい、胃の調子が悪くて……お医者様から辛いものは止められてるの。胃を労わるために、優しい味のものしか食べられなくって」「どうりで、そんなに痩せてるわけだ」京介は心配そうに眉をひそめた。「初めて先生のお宅で会った頃は、まだ頬もふっくらしてたのにな。今はもう……見てるこっちが心配になるくらいだ」「痩せてる方が、いいじゃないですか?」「よくない!」京介は、きっぱりと否定した。「もっとちゃんと栄養摂らないとダメだ」言うが早いか、彼はウェイターを呼び止めると、メニューにある胃に優しい料理を片っ端から注文し始めた。詩織が止める間もない。「ちょっ、そんなに食べられませんよ!」「俺が手伝うからいいんだって!お前、知らないだろ、海外にいた数年間、俺が向こうのメシでどれだけ苦しめられたか!こっちに帰ってきて真っ先にやることって言ったら、美味いメシ屋に駆け込んで、死ぬほど食うことなんだからな!」二人の間には、和やかな笑い声が響いていた。化粧室へ向かうため席を立った志帆は、ダイニングフロアを通り過ぎる際、思いがけず詩織の姿が
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第39話

だから母の佳乃は言ったのだ。詩織など気にする必要はない、ただ柊也だけを見ていなさい、と。今にして思えば、まさに亀の甲より年の功ね。母の見る目は、自分よりもずっと確かだった。「わかってるわよ!」志帆の心は、すっかり晴れやかになっていた。……初恵の手術は、金曜日に行われることになった。詩織は朝早くから病院に来ていたが、この二日間、彼女は毎日会社へ顔を出してもいた。手持ちの仕事を片付けると、祝賀パーティーの準備を口実に、こちらへ駆けつける、という毎日だった。以前の祝賀パーティーも詩織が取り仕切っていたため、段取りはすべて頭に入っている。常に張り付いている必要はない。だから、彼女は時間のほとんどを、初恵のそばで過ごすことができた。初恵は、詩織が自分の看病にかかりきりで、仕事を疎かにしているのではないかと、いつも心配していた。だから詩織は、柊也が特別に休暇をくれたのだと嘘をついた。その言葉を、初恵は喜んで信じた。なんて思いやりのある人なのかしら、と柊也を褒めそやすのだった。詩織は心の中で冷たく嘲笑った。たしかに柊也は思いやりのある男だ。——ただし、その思いやりは、志帆に対してしか発揮されないけれど。初恵は、ほとんど毎日のように柊也のことを尋ねた。そのたびに詩織は、仕事が多忙なのだと言い逃れてきた。手術の準備が始まった時も、初恵はまた同じことを尋ねた。詩織は、いつもと同じ言葉を繰り返す。「彼は忙しいの。時間ができたら、きっと来てくれるわ」今回ばかりは、初恵の声にも憂いが滲んだ。「……ただ、もし私がこのまま戻ってこられなかったら、と思うと……」「お母さん!」詩織は、思わず母の言葉を遮っていた。「そんなこと、絶対にないから!」「……ええ」そこへ、京介が見舞いの品を手にやってきた。初恵は彼を知らなかったが、詩織が友だと紹介すると、それ以上は何も聞かなかった。京介は、詩織と共に初恵が手術室へと入っていくのを見送った。詩織は、彼に深々と頭を下げる。「ありがとう」京介は、そういう他人行儀な言葉が嫌いだった。わざと拗ねたふりをして見せる。「俺に対して、そんな水臭いこと言うのか?」「そういう意味じゃないって、わかってるでしょ」詩織は、困ったように微笑んだ。「冗談だよ、そんなに真に受けんなって
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第40話

彼女は、ビジネス用の貼り付けたような笑顔を浮かべた。「病院は公共の場です。お二人がいらっしゃれるのなら、当然、私も参りますわ」柊也は、その答えが気に入らないとばかりに、さらに眉間の皺を深くする。そんな彼とは対照的に、志帆は何かに思い至ったように、詩織に尋ねた。「じゃあ、この前の……ご家族がご病気だっていうのは、本当だったの?」詩織は、その問いかけがおかしくてたまらなかった。まさか、この女は、私が嘘をついていたとでも思っていたのだろうか。 あなたたち二人を、わざわざ尾行するために?家族が病気だなどという嘘を、誰が好き好んでつくものか。きっと、柊也も、同じように私を疑っていたのだろう。だが、もう、彼が自分のことをどう思おうと、どうでもいい。ただ、一刻も早くこの場を立ち去りたい。その一心で、詩織は躊躇うことなく二人の間をすり抜け、前へと歩き出した。京介はまだその場で待っていた。戻ってきた詩織に気づくと、その口元に笑みが浮かぶ。「どうりで遅いわけだ。コーヒーでも買いに行ってたのか」「あなたをただ待たせるわけにもいかないでしょう」詩織はコーヒーを彼に手渡した。「もうすぐのはずだ」京介は腕を上げて時間を確認する。手術室に入ってから、すでに五時間が経過していた。途中、何の知らせもないことを、京介は「便りがないのは良い便りだ。手術が順調な証拠だよ」と言って彼女を安心させた。詩織の心に、わずかな安堵が広がる。京介は、ぽんと彼女の頭を撫でた。「大丈夫、すべてうまくいく」「うん」詩織も、心からそう願った。一方、志帆も焦りを募らせ、しきりに手術室の方に視線を送っている。「柊也くん、すごく緊張するわ」彼女は、そう言って柊也に甘えるように寄り添った。だが、柊也はどこか別の場所を見ているようで、彼女に応えない。志帆はもう一度声をかけた。「柊也くん?」柊也ははっと我に返る。「どうした」「何を見ていたの?」志帆は彼の視線の先を追ったが、そこには何もなかった。彼女は不思議に思う。「いや、なんでもない」柊也は視線を戻し、その表情は感情の読めないものだった。彼は志帆を安心させることも忘れない。「心配するな。無事に終わるさ」彼がそばにいる。それだけで、志帆の心は再び落ち着きを取り戻した。……初恵の手術
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