All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

スカイウィング社に到着する頃には、雨足は先ほどよりも強まっていた。しかも、ここの駐車場は屋根がなく、車を降りてからエントランスまで少し距離がある。柊也は先に車を降りると傘を広げ、志帆が出てくるのを待った。彼女が降り立つのを確かめると、二人で一つ傘の下、迷わず歩き始める。その間、詩織の存在など端から頭にないようだった。まあ、そうよね。一本の傘で、二人同時に庇うなんて無理な話だもの。柊也のえこひいきなんて、今さら数え上げる気にもなれない。詩織はドアを開け、雨の中を走り抜ける覚悟を決めた。大した距離ではない。けれど、晩秋の雨は、肌を刺すように冷たい。「江崎さん、少し待ってて」エントランスの方から、傘を差した人影が小走りに駆け寄ってくる。早乙女怜だった。彼は、わざわざ詩織を迎えに来てくれたのだ。「こんな冷たい雨に濡れたら風邪をひきますよ」傘を詩織の上に大きく傾けながら、怜が説明するように言った。「特に女性は体を冷やしちゃいけませんからね」「ありがとうございます、早乙女社長」詩織は心から礼を言った。「はは、水臭いなぁ。それより、この間妻に紹介してくれた伝統医学の先生、すごく効いてるんですよ。薬を二服飲んだだけですっかり元気になって。君に会ったら必ずちゃんとお礼を言うようにって、きつく言われてるんです。それに、ぜひ食事に誘ってくれってね。どうです、今夜あたり」「奥様がご丁寧になさることはありませんわ。ほんの些細なことですもの」二人は談笑しながらエントランスへと向かう。その光景は、傍から見てもとても和やかなものだった。庇の下では、志帆と柊也がその様子を待っていた。二人の姿を認めると、志帆は片方の眉をくいと吊り上げ、柊也に尋ねる。「江崎さんと早乙女社長って、なんだか随分と親しげねぇ。なるほど、昨日あれだけ江崎さんに会いたいってごねてたわけだわぁ」その言葉には、剥き出しの棘がある。社会人経験のある者なら、誰にでもその裏の意味が分かるだろう。だが、柊也の反応は、志帆が期待していたよりもずっと冷ややかだった。彼は二人からすっと視線を外し、そばにいた警備員に濡れた傘を手渡すと、さっさと建物の中へ入っていく。その素っ気ない態度に、志帆は満足した。勝ち誇ったように唇の端を吊り上げ、彼の後を追った。詩
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第12話

以前、プロジェクトのデューデリジェンスで、詩織は何度もスカイウィング社を訪れていた。そのため、社内の環境については隅々まで把握している。彼女の説明は淀みなく、非常に専門的だった。怜でさえ、社長という立場を忘れ、称賛と感嘆の眼差しを詩織に向けている。スカイウィング社の社員たちも、詩織に対してとても好意的だった。上はエンジニアから、下は警備員や清掃員の女性まで、彼女の姿を見かけると皆の方から挨拶をしてくる。「江崎さん、今日はお帰りになるんですか。もし泊まりなら、仕事が終わったらぜひ家にご飯を食べに来てくださいよ。うちの家内が、あなたに直接お礼を言いたがってましてね。あの時、あなたが一緒に学校を探すのを手伝ってくれなかったら、うちの息子は今頃、学校を辞めていたかもしれないって」スカイウィング社のチーフエンジニアである広瀬渡(ひろせ わたる)が、わざわざ駆け寄ってきて詩織に礼を言った。「豪くんは、新しい学校に慣れましたか」詩織は彼の息子を気遣い、尋ねた。「ええ、おかげさまで。本人たっての希望だったeスポーツ科ですからね、勉強にも熱が入るみたいで。先生も、成績優秀だって褒めてましたよ。前は私ら夫婦も、ゲームなんてろくなもんじゃないって頭ごなしに決めつけてたんですが……あなたがいなかったら、ゲームがちゃんとした職業になるなんて、知りもしなかった。本当に、感謝してもしきれません」「広瀬さん、大袈裟ですよ」詩織は微笑んだ。「たまたまeスポーツ関連の案件を抱えていて、少しばかり知識があっただけです。お役に立てたのなら嬉しいですわ。奥様にも、そんなにお気遣いなくとお伝えください」「いやいやいや、とんでもない。私たち家族にとって、あなたは命の恩人みたいなもんですから。どれだけ大きな問題を解決してもらったことか……このお礼は、必ずさせてください」「今夜には、江ノ本市へ戻る予定なんです。お気持ちだけ、ありがたく頂戴しますね」今夜帰ると聞き、渡は心底がっかりしたような顔を見せた。それを見て、怜が口を挟む。「広瀬、スカイウィングとエイジアはこれからパートナーになるんだ。江崎さんにご馳走する機会なんて、今後いくらでもあるさ。そう焦るなよ」「……それもそうですね。いや、すみません、気が急いてしまって。江崎さん、次回は必ず、必ずですよ」詩織は
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第13話

騒ぎが収まると、作業員たちが一斉に二人を助け出そうと駆け寄った。詩織は殺到した人波に弾き飛ばされ、ふらついた体は壁にぶつかって、ようやく倒れるのを免れた。揺れる視界の中、人垣の向こうで、柊也が志帆をその腕の中に固く守っているのが、やけにはっきりと見えた。腕の傷が、じくりと痛む。詩織は傷口を見つめ、自嘲の笑みを浮かべた。先ほどまで胸を締め付けていた緊張と恐怖、そして心配の入り混じった感情が、すうっと潮が引くように消えていく。頭が、ゆっくりと冷静さを取り戻していく。習慣とは、恐ろしいものだ。命の危険が迫った、あの極限の瞬間にさえ、自分はまだ、習性のように柊也を守ろうとしてしまった。三年前も、そうだった。彼に同行して地方の不動産プロジェクトを視察した時。デベロッパーと地元住民とのトラブルに巻き込まれ、誰かが柊也に向かって物を投げつけた。詩織は咄嗟に彼の前に立って盾になり、相手が足元の石を拾い上げ、投げつけようとした時には、その手を思い切り張り倒していた。あの気丈な一撃は、エイジア・キャピタルの株価を逆風の中で高騰させるほどの話題になった。けれど、あの時、命懸けで守ったはずの男が、今は、別の誰かのために全てを懸けている。怜は、柊也の怪我が大事に至らなかったことを確認し、安堵の息を長く吐いた。志帆はひどく怯えており、目は真っ赤で、声は涙に濡れていた。「柊也くん、痛くないの」「かすり傷だ。痛くない。心配するな」柊也は、優しい声で志帆をなだめる。「血が出てるのに、どうして痛くないのよ」志帆は喉を詰まらせ、彼の傷口にそっと息を吹きかけた。「病院、一緒に行くから」「平気だって」柊也は気にも留めない。しかし、志帆は頑として譲らなかった。「お願いだから病院へ行って、柊也くん!ねえ、私の言うことを聞いて」涙ながらに訴える彼女に、柊也も折れるしかなかった。自社の敷地内で起きた事故だ。怜が同行するのは当然だった。彼はすぐさま車を手配すると、自ら柊也が乗り込むのを介助した。全員が車に乗り込んだところで、怜はふと詩織がいないことに気づく。「あれ、江崎さんは?どうしたんだろう。あの騒ぎで、怪我でもしてなきゃいいんだが……」「彼女なら、さっきは随分離れた所にいたから大丈夫よ」と、志帆が言った。「
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第14話

「それはそうと、江崎さんみたいな優秀な人材、しっかり捕まえとけよ。あちこちから狙われてるぞ。うちのゴルフ仲間だと、春日井さんなんて、ずっと前から目を光らせてるしな」譲の親切心からの忠告にも、柊也の態度は冷ややかで、微塵の疑いもなく言い切った。「あいつが俺以外を選ぶわけがない」その一言で、譲も自分の心配が杞憂だったのだと思い直した。この七年間、詩織がどんな風に柊也に尽くしてきたか、友人である自分たちは誰よりもよく見てきたのだ。四六時中、その瞳にも心にも柊也しか映さず、プライベートな時間さえも捧げてきた女。そんな彼女が、簡単に彼のもとを去るはずがない。仲間内ではよく、詩織のことを「柊也にどこまでも尻尾を振ってついてくる忠犬」と揶揄していた。それも、たとえ追い払おうとしても、必ず戻ってくる類の、と。だから、柊也がこれほどまでに自信満々なのも無理はなかった。「あ、そうだ。京介が江ノ本市に戻ってきたんだ。今夜あたり、久々に集まらないか?」書類にサインをしていた柊也の手が、一瞬だけ止まる。「……何時からだ」「八時。いつもの場所で」「わかった」柊也は短く応じた。……譲が言った「いつもの場所」とは、『リヴ・ウエスト』のことだった。そしてその時、詩織もまた、同じ場所にいた。もちろん、柊也に会いに来たわけではない。ヘッドハンターの城戸渉に呼び出されたのだ。なんでも、仲介する群星グループの春日井が、ここで重要なクライアントと会っているため、時間を節約するために面談場所をここにしたのだという。二人が個室に着くと、そのクライアントはまだ席を立っていなかった。春日井は鷹揚に手招きし、二人を部屋の中へと促す。中へ入った瞬間、詩織はその「重要なクライアント」が誰であるかに気づいた。以前、ベンチャーキャピタルのサミットで一度だけ顔を合わせたことのある、敏腕女性経営者の桐島沙羅(きりしま さら)だった。沙羅の方も詩織に気づいたらしく、驚いたように声を上げた。「あら、江崎さん?ご無沙汰してます」「桐島社長。ご無沙汰しております」詩織は礼儀正しく頭を下げる。その様子を見て、春日井が興味深そうに尋ねた。「ほう、お二人はお知り合いで?」沙羅はにこやかに説明する。「去年のS市でのサミットで一度だけ。その節は本当に助けていただ
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第15話

京介は何でもないことのように言い放った。「いや?多分、向こうが俺に声かけてきただけだろ」その言葉に、志帆は口の端を微かに吊り上げる。「あなたをお金持ちだと見て、釣り上げようとしたのね。そういう女、私もたくさん見てきたわ」京介は志帆の言葉には応えず、彼女の背後に立つ柊也に声をかけた。「柊也、久しぶりだな」柊也もまた、淡々とした口調で返した。「……ああ、久しぶりだ」太一は、柊也と志帆が到着したと聞きつけ、部屋から顔を出した。ちょうど二人の無味乾燥な挨拶を耳にして、からかうように口を挟む。「なんだよお二人さん、随分と水臭いじゃねえか。それともあれか?恋敵同士、火花でも散らしてんのか?」「もう、やめてったら」志帆はそう言って太一を軽く窘めたが、その表情には隠しきれない喜びと誇りが浮かんでいた。賀来柊也と宇田川京介。同世代の中で、最も抜きん出た二人の男。一人は、自分の元恋人。そしてもう一人は、もうすぐ自分の現在の恋人になる男。……今回の面談で、詩織と春日井の話は、大いに弾んだ。だが、エイジアとの契約がまだ正式に解消されていないことを考慮し、詩織はその場で明確な返事をすることは避けた。春日井は自ら、詩織を『リヴ・ウエスト』の車寄せまで送ってくれた。詩織はすでに迎車を頼んであること、そして彼がだいぶ酒を過ごしていることを理由に、先に帰るよう促した。車の到着を待つ間、詩織の目に、見慣れたナンバープレートが飛び込んできた。柊也の車だ。かつては、自分が当たり前のようにハンドルを握っていた車。ルームミラーには、彼の無事を祈って仏田山で求めた、あのお守りがまだ揺れていた。黒のマイバッハが、目の前で滑るように停車する。ゆっくりとウィンドウが下ろされ、完璧と称するにふさわしい柊也の顔が姿を現した。ごく僅かな距離を隔てて、詩織の視線が、彼のそれと絡み合う。錯覚だろうか。それとも、この夜が深すぎるせいだろうか。柊也が自分に向ける眼差しが、あまりにも優しく感じられてしまうのは。詩織は、自分の心臓が確かに一度、時を止めたのを感じた。肌を重ねた、あの夜々の闇の中。この深い瞳に、彼女は何度溺れてきたことだろう。情熱が頂点に達した時、彼は彼女の耳元に身を寄せ、何度も、何度も、その名を呼んだ。荒々しく、慈し
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第16話

近すぎる距離。耳にかかる、熱い吐息。声にならない誘惑。以前の自分なら、それだけで体の半分は蕩けてしまっていたかもしれない。だが今の彼女は、何の反応も示さない。それどころか、吐き気すら覚える。彼を押し返そうと手を伸ばす。手のひらが彼の胸に触れた、その瞬間だった。男は、有無を言わさずその唇を塞いできた。あまりに不意な口づけ。詩織は避ける間もなく、真正面からそれを受け止めるしかなかった。かつての詩織なら、柊也とのキスに夢中だった。彼は極度にストイックな男で、煙草も吸わなければ、酒も飲まない。彼とのキスは、まるでミントの香りがする朝霧の中に迷い込むようで、いつも彼女を虜にした。だが今回、彼女は柊也がさらに深く求めてくる前に、そっと顔を背けた。柊也は、彼女が拒絶していることには気づかない。薄い唇が彼女の耳たぶを滑り、軽く啄んだ。吐息に、熱が混じる。「終わったのか」あまりに密着しているせいで、詩織には彼の体が熱を帯びていくのが、はっきりとわかった。そんなことを考えたくもないのに、詩織の頭に一つの疑問が浮かぶ。……志帆では、満たされなかったのかしら。ようやく、柊也は彼女の心がここにないことに気づいたらしい。大きな手のひらが、彼女の腰を強く掴み、ダイニングテーブルにぐっと押し付ける。互いの体が、さらに隙間なく密着した。「答えないなら、俺が確かめるまでだ」男の手が、腰のラインに沿って滑り落ちていく。詩織は、その手を咄嗟に押さえつけた。ようやく彼が言った「終わり」が、自分の月のもののことだと気づいたのだ。彼女が口を開こうとした、まさにその時。柊也のスマートフォンが鳴った。けたたましい着信音が、静まり返った部屋にひときわ大きく響いた。プライベート用の携帯の着信音だと、すぐにわかった。だから柊也は、何の躊躇もなくポケットからそれを取り出す。詩織の目に、液晶画面に浮かび上がった名前が飛び込んできた。――柏木志帆。やけっぱちになるかのように、詩織は、柊也がスマートフォンを持つその手をぐっと掴むと、爪先立ちになり、自分から彼の唇にキスをした。しかし今度は、柊也の方が顔を背けた。「……ふざけるな」彼は言った。「……したかったんでしょう?」詩織は、彼の体の反応を指して言った。
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第17話

柊也の言葉に、志帆はようやく少し落ち着きを取り戻した。「検査の結果、何ともないといいんだけど……」「病院には俺から話を通しておいた。何かあったら、遠慮なく北川院長に言うといい」柊也の手配は抜かりなかった。「ありがとう、柊也くん」志帆は、もう一度感謝を口にした。ただ、その声と柊也を見つめる瞳は、先ほどまでとは明らかに色合いが違っていた。そこには、確かな熱が宿っている。病院を後にした柊也は、その道すがら、詩織に電話をかけた。いつまで休んで、いつ会社に戻るのか――ただ、それを聞きたかっただけだ。詩織がいない間、代理の小林密が仕事を滅茶苦茶にしており、どうにも勝手が悪くて苛立っていた。だが、予想に反して、詩織の携帯電話は電源が切られていた。この七年間、一度としてなかったことだ。柊也は眉間に深く皺を刻む。初めて、詩織が以前とは違うと感じていた。具体的に何が、と問われても、彼自身にもうまく説明ができなかった。……詩織が会社に顔を出したのは、三日ぶりのことだった。デスクに着くやいなや、密が泣きそうな顔で駆け寄ってくる。「詩織さーん、やっと来てくれたんですね! もう、このままじゃ、こーんなに可愛い私が再起不能になるところでしたよぉ」「どうしたの」詩織は、存外晴れやかな気分で尋ねた。七年間も馬車馬のように尽くしてきたけれど、いざ自分の時間が手に入ると、それはそれで心地良い。胸の内に澱のように溜まっていた不快な感情も、すっかり洗い流されたようだ。「どうしたもこうしたもありませんよ!社長がどれだけ気難しいか、詩織さんはご存じでしょ! この数日間、私、本気でノイローゼになるかと思いました!」密は本気で参っているらしく、会う人すべてにあの鬼社長の悪口をぶちまけたい、とでも言いたげな剣幕だ。「そんなに酷かった?」詩織はまあまあと密をなだめる。「酷いなんてもんじゃないですよ! あの人、要求は高いし口は悪いし、仕事でちょっとでもミスしようものなら、それこそ鬼の首でも取ったみたいに責め立てるじゃないですか! 詩織さん、今までどうやって耐えてきたんですか?」この七年間、詩織がどんな日々を送ってきたのか、密には想像もつかなかった。密が決して大袈裟に言っているわけではないことを、詩織はよく知っている。柊
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第18話

社長室のドアをノックし、中から傲慢な声で許可が下りるのを待ってから、詩織は静かに扉を開けた。「賀来社長」あくまで事務的な口調を崩さない。「これから見舞いに行く。実家に寄って、前にクライアントから貰った百年ものの山人参と、他の見舞いの品をいくつか取ってきてくれ。うちの家政婦には話を通してあるから、直接行けば分かる」「承知いたしました」詩織は頷く。これも仕事のうちだ。あの山人参は相当に高価な品のはずだが、それを惜しげもなく贈るということは、よほど大切な相手なのだろう。詩織は特に詮索もせず、頭の中では退職願のことでいっぱいだった。提出してから、もう一週間が経つ。それなのに、柊也からは梨のつぶてだ。目にしていないのか、それとも何か別の理由があるのか。一度訊ねて、彼の出方を見てから今後の身の振りを決めたい。そう思って口を開きかけた、その時だった。柊也のプライベート用の携帯が、静かに振動した。デスクの上に置かれたスマートフォンの画面が点灯し、『柏木志帆』の四文字が浮かび上がる。詩織は、わずかに眉をひそめた。目の前で、柊也はすでに電話に出ていた。しかも、詩織の存在など意にも介さず、スピーカーモードに切り替える。そのあまりに無遠慮な振る舞いに、詩織の胸には冷めた思いが広がる。――それもそうか。長年心の奥にしまい続けた憧れの人が、ようやくその手に落ちたのだ。世界中に見せびらかしたくもなるだろう。それにひきかえ自分は、七年間、日陰の存在に甘んじてきたというのに。「柊也くん……ごめんなさい、今起きたばかりで……メッセージ、やっと気づいたわ」電話の向こうから聞こえる志帆の声は、まだ濃い鼻声が混じっている。朝の光を吸い込んだ絹のように、けだるい甘さを帯びて、その語尾には眠気の余韻がまとわりついている。男を虜にするには、それで十分だった。女である詩織には、その声に潜むあざとさが透けて見えた。柊也がそれに気づいているかは分からない。けれど、彼がそれを心地よく感じていることだけは、見て取れた。「だろうと思った。だから起こさなかったんだ」「用事があるなら、電話してくれてもよかったのに」志帆の作ったような甘ったるい声に、詩織は肌が粟立つのを覚えた。「たいしたことじゃない。ただ、これから伯母上のお見舞
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第19話

この父と子の関係は、決して良好とは言えなかった。詩織が柊也と出会った頃は、二人の関係がまさに氷点下まで冷え切っていた時期だった。海雲は柊也に賀来グループを継がせたかったが、柊也はそれを頑なに拒み、自ら起業する道を選んだのだ。松本さんの話では、その夜、二人は激しく口論し、書斎は見るも無残な有様に荒らされ、高価な骨董品の数々も粉々になったという。そして柊也は、ドアを叩きつけるようにして家を飛び出した。海雲は「賀来家、そしてこの賀来海雲の名に免じて、エイジアに手を貸す者は誰であろうと許さん」と、周囲に厳命を下した。だから、創業から二年間、エイジアはまさに茨の道を歩むことになった。柊也が賀来家の唯一の跡取りであったにもかかわらず、その恩恵を一切受けることはできなかったのだ。それがここ数年、詩織が間に入って取り持つことで、父と子の関係はようやく雪解けの兆しを見せていた。もっとも、海雲は最初から詩織を歓迎していたわけではない。厳しい言葉を投げつけられ、冷たい視線を浴びるのは日常茶飯事だった。柊也のあの毒舌と冷徹な性格が誰に似たのか、詩織が思い知ったのもその頃だ。だが、詩織はそれで怯むような女性ではなかった。冷たくあしらわれてもめげるどころか、かえって闘志を燃やした。そして、そのひたむきな姿勢が、ついに海雲の固い心を動かし、彼女に対する態度を和らげさせたのだった。二人の関係がここまで持ち直したのは、詩織さんのおかげよ、と松本さんはいつも言っていた。彼女が間に入っていなければ、あの父子は今頃、いつ終わるとも知れない冷戦を続けていたことだろう。「おじさま、鯉に餌をやっていらっしゃるんですね」門をくぐる前に、詩織はいつものようにすっと表情を切り替え、柔らかな笑みを浮かべて海雲に声をかけた。海雲は無表情のままだったが、喉の奥で「ん」と短く応える。詩織は持参した菓子の包みを彼の前の石卓に置いた。「出来立ての蓮の菓子です。おじさま、温かいうちにどうぞ。時間が経つと、このサクサクした食感がなくなってしまいますから」海雲は餌の入った器を置くと、ぽんぽんと手を払い、菓子を一つ手に取って口に運んだ。そして、もう一つ。三つ目に手を伸ばそうとしたところで、詩織がそっと箱を遠ざけた。彼は、じろりと詩織を睨めつける。詩織
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第20話

海雲が言い終わるや否や、松本さんが母屋から出てきた。その手には、古風で趣のある小箱が大切そうに抱えられている。表情は喜びに満ちていた。詩織はその小箱を見つめ、胸の奥がきゅっと酸っぱく、そして苦くなるのを感じた。松本さんはその小箱を、詩織の前の石卓にことりと置いた。海雲が口を開く。「柊也の母親から受け継いだものだ。未来の嫁への結納の品だそうだが……そろそろ、お前に渡す頃合いだろう」傍らで、松本さんが自分のことのように喜んでいる。「まあ、ぼうっとしてないで。開けてごらんなさい!」詩織はそっと手を伸ばし、上質な木箱の滑らかな表面を撫でた。途端に、喉の奥が詰まるような感覚に襲われる。これが以前の自分であったなら、きっと心の底から喜んだだろう。海雲に、ようやく認められた証なのだから。けれど、今の彼女の胸を満たすのは、喜びではなく、ただどうしようもないほどの無念さだけだった。詩織は一度、深く息を吸い込むと、その箱を静かに海雲の方へ押し返した。これまでビジネスの荒波で培ってきたすべてを総動員して、平静を装い、彼女は口を開く。「申し訳ありません。おじさまのお気持ちには、お応えできそうにありません」それを聞いた松本さんが、慌てて割って入る。「どうしたっていうの? 喧嘩でもしたの?」そして、自分に言い聞かせるようにつぶやく。「恋人同士が喧嘩の一つや二つ、当たり前よ、当たり前」だが、詩織は静かに首を横に振った。「喧嘩、ではありません」「……お別れしました」海雲は眉間に深く皺を刻み、詩織の表情をじっと見つめている。言葉を発さず、ただ彼女の言葉の真偽を値踏みするように。しかし、詩織の態度はあまりに堂々としていた。冗談を言っているようには、到底見えない。その事実が、海雲の眉間の皺をさらに深くし、ただでさえ厳格なその表情から、一切の温度を奪い去った。詩織は、もう長居をするつもりはなかった。菓子の箱を松本さんに手渡しながら言う。「後ほど、菓子職人の方の連絡先をお送りしますね。おじさまが召し上がりたくなった時は、直接連絡して予約すれば、もう長時間並ばなくても大丈夫なよう、話は通してありますから」そのあまりに他人行儀な口ぶりに、松本さんの目が潤む。「あなた……柊也様と、いったい何があったの?」詩織はそれ以上を語るつ
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