All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

柊也が、好き嫌いない、ですって?今日一番の冗談だわ。あれほど偏食の激しい人間を、詩織は他に知らない。野菜の大半は口にせず、羊肉と魚は食べない。食べ物の形や食感にまで、いちいち注文をつける。どれほどかと言えば、例えば豚の角煮なら、肉はすべて同じ大きさに切り揃えられていないと駄目。形の悪いものは、決して箸をつけない。もちもち、ねっとりとした食感のものも嫌う。とにかく、面倒なこだわりが多すぎるのだ。この七年間、二人きりで外食した回数など、片手で数えるほどもない。その数少ない機会にも、詩織がいつも入念に下調べをし、柊也の機嫌を損ねるようなことがないよう、万全の準備を整えていた。それなのに今、彼は志帆に向かって「好き嫌いない」と言ってのけた。どうして人は、相手によってここまで態度を変えられるのだろう。詩織は心底、呆れ果てていた。心の中で毒づいているうちに、柊也から位置情報が送られてきた。詩織はそれをタップして拡大し、表示されたレストランの名前に、思わず息を呑んだ。『せせらぎ』まさか、『せせらぎ』だなんて。彼女はトーク画面を閉じ、柊也の個人LINEを開いた。トーク履歴からキーワード『せせらぎ』で検索すると、関連する過去のやりとりがすぐに表示される。去年の三月から、今年のバレンタインまで。詩織が柊也に、この『せせらぎ』へ食事に行きたいと伝えたのは、全部で七回。この店のオーナーは、以前プロジェクトで知り合った茅野響子(かやの きょうこ)という女性だった。彼女がSNSで『せせらぎ』の宣伝をしているのを目にしたのだ。店の雰囲気も、料理のスタイルも、すべてが詩織の好みで、ずっと行きたいと願っていた。けれど、開店から一年半が経った今も、その願いは叶えられていない。柊也に話を切り出すたび、彼は忙しいと言うか、あるいは約束を取り付けては直前でドタキャンするかのどちらかだった。あまりに何度も反故にされるうち、いつしか彼女の熱意も薄れていった。だから、今年のバレンタインを最後に、その店の名を口にすることはもうなかった。ふと、最後に二人きりで食事をしたのはいつだったか、と思い返してみる。もうずいぶん、ずいぶんと昔のことのような気がした。あまりに遠すぎて、記憶の輪郭さえも霞んでぼやけ
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第22話

詩織は作り笑いを浮かべた。「いえ、何も。お届けは済みましたので、これで会社に戻ります」彼女はただ、早くどこかで空腹を満たし、この胸糞悪い気分を洗い流したかった。未来の義母のご機嫌取りに忙しいのだろう、柊也は詩織の態度をそれ以上咎めようとはしなかった。詩織は近くにあったレストランに飛び込み、食事を済ませる。胃に何かを入れたことで、不快感が少し和らいだ。彼女はそこでようやく、エイジアへ戻るために車を出すことにした。駐車場に着いた途端、病院から電話がかかってきた。電話の向こうから状況を聞かされた詩織は、さっと顔色を変える。「病院の近くです、すぐ行きます!」彼女は大慌てで車を病院に走らせ、降りるやいなや院内へと駆け込んだ。その入り口で、うっかり誰かにぶつかってしまう。相手は中年男性で、隙のないスーツを着こなし、髪を一分の隙もなく撫でつけている。突然ぶつかられたせいか、男性は眉間に深く皺を寄せ、冷たい表情をしていた。詩織は急いでいたため、慌ただしく「すみませんっ」と一言詫びて、その場を離れるしかなかった。もちろん、相手に怪我がないことを一瞥で確認してからのことだ。ただ彼女は知らなかった。その男性が、彼女の去っていった背中を、心ここにあらずといった様子で見つめ続けていたことを。志帆が現れ、声をかけるまで、彼は我に返らなかった。「パパったら、何を見てるの? そんなにぼーっとしちゃって、何度も呼んだのに全然気づかないんだから」志帆は近づくと、父親の腕に甘えるように絡みついた。娘を前にして、柏木長昭(かしわぎ ながあき)の表情は途端に和らぐ。「いや、何も見ていない。どうして一人で降りてきたんだ?」「ママがね、降りてごらんって。きっとパパに会いたいのよ」「すまなかったな、このところずっと出張で……寂しい思いをさせた」長昭は申し訳なさそうに言った。志帆は彼を慰める。「ママは分かってるわ。あなたのこと、責めたりしてないもの。さ、行きましょうよ、きっと待ちきれないわよ」そこへ秘書らしき人物が外から入ってきて、美しい花束を差し出した。志帆はぱっと目を輝かせる。「まあ、素敵!ママ、このお花を見たらきっと喜ぶわ。やっぱりパパは気が利くんだから」……詩織が腫瘍科に駆けつけた時、母の江崎初恵(えざき はつえ)は
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第23話

初恵に気づかれてはいけない。その一心で、詩織はひたすら前へと歩き、人の少ない廊下の隅まで来ると、ようやく嗚咽を殺しながら涙を流すことができた。喉を強く押さえ、声が漏れないように必死だった。大人の世界では、崩れ落ちる瞬間というのは、いつだってこうして音もなく訪れる。その時、すぐ近くを通り過ぎる二人の話し声が、不意に耳に入った。「柊也くん、今日はお母さんのお見舞いに来てくれてありがとう。なんだか、ここ数日よりずっと気分がいいみたい。先生も、気持ちが明るいと回復も早いって言ってたわ」甘えるような、優しく柔らかな女の声だった。「俺に水臭いこと言うなよ。さっき北川院長と話してきたんだ。近々、海外から専門家のチームが視察に来るらしい。その時に診てもらえるよう、なんとか手配を頼んでみるから」男の細やかな心遣いに、女はますます感動した様子だった。「柊也くん、本当に優しいのね……あなたにどうお返ししたらいいか、わからないわ」「馬鹿だな、お前に見返りなんて求めたこと、一度でもあったか?」不思議なことだった。あれほど激しく泣いていたのに、その会話を耳にした途端、詩織の心はすっと静けさを取り戻していった。まるで鎮静剤を打たれたかのように。いや、もっと的確に言うなら――心が、凍てついたのだ。投資家で、資本家の男が、見返りを求めない?笑わせてくれる。結局のところ、相手が志帆だからだ。彼の心に長年棲みつき、恋い焦がれても手に入らなかった、特別な女性だから。だから彼は、見返りも求めず、喜んで彼女に尽くすのだ。仕事の成功を後押しするだけでなく、私生活の隅々にまで気を配り、面倒を見る。自分の持てるすべてを、ありったけの力を、彼女ひとりのために注ぎ込むのだ。……「賀来さん、母のために骨髄を提供してくださると……本当に、ありがとうございます」十八歳の詩織も、かつては一人の男に、心の底から感謝を伝えたことがあった。相手はまだ二十一歳の柊也だったが、その冷たい性格は今と何ら変わりはなかった。詩織を見るその瞳には、感情も、温度もなかった。「口先だけの感謝に意味はない。江崎、俺は見返りを求めない人間じゃない。それに、お前の誠意とやらが見えないな」まだ社会の厳しさも知らなかった詩織は、その言葉の意味を必死に考えた。や
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第24話

詩織が主治医の春日井徹(かすがい とおる)を訪ねた時、彼はちょうど初恵のレントゲン写真を受け取ったところだった。彼女が患者の娘だとわかると、徹はすぐに検査結果の説明を始めた。「この影が見えますか?腫瘍はここです」徹はフィルムの一点を指し示しながら言った。「場所が非常に良くない。手術の難易度は極めて高く、リスクも伴います」詩織は胸がずしりと重くなるのを感じ、嫌な予感が全身を駆け巡った。「現時点では腫瘍が良性か悪性か、まだ確定できません。明日の生検の結果を待って、最終的な判断を下すことになります。現状は以上です。ご家族の方には、心の準備をしておいていただきたい」徹は淡々と、しかし簡潔に、詩織へ状況を告げた。「先生、もし……もしも、悪性だった場合は、どうすれば……?」詩織はもう、どうしていいかわからなかった。どれだけ気丈に振る舞おうとしても、生と死という抗いようのない現実を前にすれば、人間はあまりにも無力だ。徹は眉間に深い皺を刻んだ。「腫瘍が良性か悪性かという以前の問題でしてね。たとえ良性だったとしても、この場所では切除が非常に難しい。おまけに、患者さんには基礎疾患もある。当院の現在の医療技術では、正直なところ……」そう言って、彼は申し訳なさそうに眼鏡の位置を直した。詩織は、胸に巨大な石を乗せられたような息苦しさを感じた。彼女は必死に食い下がった。「では、他の病院なら……?」「まあ、落ち着いてください。以前であれば、国内で最も権威のあるがん専門病院への転院をお勧めするところです。ですが、今ならもう一つ、可能性のある道が……ただ、少しばかり骨が折れるかもしれませんがね」「どんなことでも、やります!」母を救えるのなら、なんだってする覚悟だった。「明日、海外から専門家のチームが当院を視察に訪れるんです。その中には、この分野のトップクラスの専門家が何人もいる。もし、彼らの臨床研究の対象として症例が取り上げられれば、手術の道も開けるかもしれません」徹は率直に告げた。その言葉は、詩織の心に新たな希望の光を灯した。「どうすれば、その……症例として取り上げてもらえるんでしょうか」「こればかりは、運としか言いようがありませんね。ご存じでしょうが、こうした最先端の医療というのは、誰もが喉から手が出るほど欲しがるものです。競争
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第25話

……母・初恵が入院した以上、詩織が病院に付き添うのは当然のことだった。しかし、あまりに急いで駆けつけたため、何の準備もしてきていない。必要なものを取りに、一度家に戻らなければならなかった。詩織はナースステーションに一声かけると、エレベーターホールへと急いだ。長く病院を空けるわけにはいかない。一分一秒でも惜しい状況だった。エレベーターはちょうど彼女のいる階に停まっていたが、扉がまさに閉じようとしているところだった。詩織は慌てて声を上げる。「待ってください!」素早くボタンを押し、閉まりかけた扉をなんとかこじ開けた。間に合った、と安堵したのも束の間、中に立っている人物の顔を見て、詩織は凍りついた。志帆は詩織の姿に驚いたように言った。「江崎さん?どうしてここに?会社に戻ったんじゃなかったの?」その隣に立つ柊也は、いつものように無表情で、詩織が現れても何の反応も見せない。その眼差しは、まるで道端の石ころでも見るかのようだ。詩織は、あくまで礼儀として、志帆の問いに答えた。「家族が病気で入院しているんです」「まあ、そうなの」と志帆は声を上げた。「奇遇ね、私の母もここの病院なのよ」詩織には、志帆と世間話をする時間も気力もなかった。一刻も早く家に帰って必要なものを揃え、看護師の交代時間までには戻ってきたい。だから、たとえ中に顔も見たくない人間がいようとも、迷わずエレベーターに乗り込んだ。下降していく箱の中、詩織は二人の前に立ち、まっすぐ扉だけを見つめていた。そんな彼女の背後で、志帆が柊也に話しかける声がする。「柊也くん、この後どこでご飯食べる? また『せせらぎ』に行く?あそこ、すごく気に入っちゃった。雰囲気もいいし、お料理も美味しいし」「じゃあ、『せせらぎ』にしようか」柊也は、愛しい人の望むままに、優しく応える。七年も一緒にいて、こんなにも素直な柊也を、詩織は一度だって見たことがなかった。彼にとって志帆は、本当に特別なのだ。どんな我儘も聞き入れ、甘やかし、慈しむ。心の奥に長年しまい込んできた、かけがえのない存在なのだから。それも、わかる。幸い、エレベーターはすぐに一階へと到着した。詩織は振り返りもせず、足早に出口へと向かう。しかし、建物の正面玄関まで来て、詩織は足を止めた。外は雨だ
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第26話

「レストランまで送れ」それは、命令だった。まるで、かつてのように。呼べばすぐに駆けつけ、用が済めば追い払える、都合のいい存在だとでも言うように。だが、今の詩織は、もう昔の彼女ではない。彼の足元にひれ伏すような真似は、もう二度としない。詩織は卑屈になるでもなく、かと言って逆らうでもない、平坦な声でその命令を拒んだ。「『せせらぎ』はここからそう遠くありません。タクシーを拾われた方がよろしいかと」柊也は眉をひそめ、その目にありありと苛立ちを浮かべると、彼女に釘を刺した。「忘れたのか。お前が今乗っている車は会社のものだ。その使い方を決めるのは、俺だ」その一言で、詩織の全身からふっと力が抜けた。そうだ。この車はエイジアのもの。そしてエイジアは、柊也のもの。エイジアのため、彼のたった一人のために、この七年間、身を粉にして尽くしてきたというのに、結局、自分は何一つ持ってはいないのだ。詩織は胸の奥に込み上げてくる苦いものを無理やり飲み下し、車のキーを柊也に差し出した。「お返しします」仕事も、この人も、もういらない。ならば、この車も必要ない。すべて、彼が一つひとつ与えてくれたものだった。そして今、彼がまた一つひとつ、取り返していく。詩織のあまりにも静かな反応と、その凪いだ表情に、柊也はわずかに虚を突かれた。ここ数日、どうも詩織が別人のように感じられていた。だが、具体的にどこが変わったのかと問われても、言葉にできない。理由のわからない焦燥感と不安が胸をざわつかせる。まるで、何かかけがえのないものが、自分の知らないうちに、少しずつ消えていっているような……詩織は彼を見上げた。潤んでいたはずの瞳から、すっと熱が引いていく。まるで、死の海のように。一言、一言、区切るように。その声には、もう何の感情もこもってはいなかった。「賀来社長。他にまだ、あなたのものがあるのなら……全部、お返しします」柊也が、すいと瞼を上げた。鋭いほどに整った顔立ち。だが、その瞳には一片の温度も宿ってはいない。「何を、拗ねているんだ」冷たい雨が運んでくる寒気は、じわじわと肌を蝕んでいく。だが、詩織の心の凍てつきに比べれば、物の数にも入らない。この期に及んで、彼はまだ、自分がただ拗ねているだけだと思っているのか。「ええ、
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第27話

……「くしゅんっ!」午後に雨に濡れたせいだろうか、夜になると詩織は頭が重く、足元がおぼつかなくなった。紛れもない、風邪の症状だ。風間先生の言葉が脳裏をよぎる。免疫力が落ちきっているというのは、脅しではなかったのだ。今の自分の体は、ほんの少しの雨風にも耐えられないほど、脆く弱りきっている。詩織は、母の初恵を心配させたくなくて、病室の外の廊下で、立て続けにくしゃみを繰り返した。だが、長く離れているわけにもいかない。薬局で薬を買い、その場で飲むと、すぐに病室へと戻った。病のせいか、初恵の顔からは血の気が失せ、痛々しいほどに痩せこけていた。詩織は、言葉にならない悲しみに胸を締め付けられた。物心ついた時から、そばにいたのは母だけだった。父の顔も知らなければ、それが誰なのかも知らない。まだ幼かった頃、同級生に「父親もいない出来損ない」と馬鹿にされて、泣きながら初恵に問い詰めたことがある。お父さんは、どこにいるの、と。初恵はただ、娘を胸に抱きしめ、その背を何度も何度も撫でながら、こう言い聞かせた。「詩織にはお父さんなんていらないわ。お母さんがいれば、それで十分よ」だから詩織にとって、母の初恵は自分の世界のすべてだった。この世界を、何があっても自分が支えなければならない。昔も、そして今も。翌日は金曜日。詩織は会社に行かなかった。欠勤の連絡さえ入れなかった。もはや彼女の心は会社にはなく、それに加えてエイジアを辞める決意は固まっている。今更、会社のルールなどどうでもよかった。初恵の生検の結果が出た。幸いにも、腫瘍は良性だった。その結果に、詩織はひとまず安堵の息を漏らした。だが、主治医の徹の説明を聞いて、彼女の心は再びきりきりと締め付けられた。初恵の基礎疾患は深刻で、手術のリスクは常人よりも遥かに高い。専門家チームが、このような厄介な症例を引き受けるとは限らない、と。詩織の心は、またしても奈落の底に突き落とされた気分だった。それでも彼女は徹に告げた。たとえ、どれだけ望みが薄くても、試してみたい、と。アシスタントの密は、おそるおそる書類を柊也のオフィスに届けた。男は書類から目を上げようともせず、彼女が逃げ出す寸前に声をかけた。「江崎は、どうした」「詩織さんは、本日お休みをいただいておりま
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第28話

見慣れたその名前に、詩織の胸が小さく跳ねた。だが、そのメッセージの内容を最後まで読んだ時、彼女は自嘲するように、声もなく笑った。柊也は、自分を名指ししたわけではなかった。ただ、エイジアの全社員に向けて、一斉にメッセージを送っただけ。内容は、投資第三部の柏木志帆ディレクターが、着任後初の大型案件を獲得したことを祝し、金曜の仕事終わりに、全社員を対象とした二日間の温泉旅行へ招待するというものだった。メッセージの下には、歓喜のコメントが滝のように流れている。誰もが、柊也と志帆への感謝を口々に叫んでいた。世の中とは、所詮そういうものだ。強い者になびき、弱い者は忘れ去られる。詩織は頭ではわかっていたが、いざその現実を目の当たりにすると、やはり胸に苦々しいものがこみ上げてくる。皆、忘れてしまったのだろうか。あのスカイウィング社の案件は、彼女が半年以上も粘り強く足を運び、ようやく勝ち取ったものだったということを。今となっては、それもすべて志帆の手柄だ。柊也もまた、その事実を忘れてしまった。詩織は、何の躊躇いもなく会社のグループチャットを退出した。ただ、静けさが欲しかった。「詩織、まだ起きてたの?」スマートフォンの微かな光が、浅い眠りにあった初恵を覚醒させてしまったらしい。「ううん、もう寝るところ。お母さんも、早く休んでね」詩織は慌ててスマートフォンをしまい、付き添い用のベッドに静かに横になった。そのベッドは、病室のベッドより少し低い位置にある。初恵が手を伸ばせば、すぐに娘の頭に届く距離だった。彼女は、昔と変わらず、優しく詩織の髪を撫でた。詩織は暗闇の中で唇を固く噛み締め、声にならない嗚咽を殺した。それでも涙だけが、音もなく目尻を伝っていく。幸い、病室の明かりは消えたままだった。初恵の声は軽いが、それ以上に弱々しかった。「詩織……賀来さんに一度、病院に来てくれるよう頼んでくれないかしら」詩織は、こみ上げる嗚咽を喉の奥で押し殺しながら答えた。「彼は……今、すごく忙しいの」「ええ、わかっているわ。でもね、あなたの人生が懸かった大事なことだから。お母さん、やっぱり直接あの方とお話ししておきたいの」詩織はとっさに自分の口を手で覆った。そうしなければ、泣き声が漏れてしまいそうだった。幸い、初恵
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第29話

それが今回は、柊也が志帆にいい格好をさせるため、江ノ本市で最も高価な温泉旅館を選んだのだ。会社の予算など、まるで気にも留めずに。愛する女性のためなら、湯水のように金を使う。そのせいで、かつての自分がひどくみみっちい人間に思えてくる。だから、ある同僚が別の同僚の投稿に「これこそ社員旅行って感じ!」とコメントしているのを見ても、詩織は何も感じなかった。「今までのなんて、せいぜい社畜の集団行動みたいなもんだったよね」そのコメントに、また別の同僚が深く同意して書き込んでいる。「やっぱ柏木ディレクターは最高!ついていけば美味しい思いができるって感じ!綺麗で性格もいいし、お家柄はバッチリだし、海外帰りのエリートだしさ……賀来社長とマジでお似合い!どっかの誰かさんみたいに、世間知らずで貧乏くさいのとは大違い。今まで選んでた場所とか、ダサすぎて文句言う気にもなんなかったし!セコいんだよね、いちいち!」すかさず、最初の同僚が慌てたように返信していた。「ちょっと、あんた飲みすぎじゃない?例のあの人、ちゃんとブロックした?」詩織がタイムラインを更新すると、その投稿は跡形もなく消えていた。どうやら彼女が、その『どっかの誰かさん』らしい。タイムラインに次々と流れてくる投稿には、様々な角度から撮られた柊也と志帆の姿があった。志帆が柊也に果物を「あーん」と食べさせている写真。柊也が志帆に焼き鳥を食べさせている写真。宴もたけなわという頃には、もう二人の姿はどこにも見当たらなかった。動画の中では、誰かが尋ねている。「社長と柏木さんは? 見当たらないけど」「みんな大人だろ、野暮なこと聞くなよ!」「さっき、二人でホテルの方に戻ってくの見たような……」その場の全員がやいやいと騒ぎ、心底楽しそうに笑い合っている。詩織はスマートフォンを置くと、再び資料の修正に意識を集中させた。母が診察の機会を得られるように、ただその一心で。内容をより簡潔に、分かりやすく、そして何より、人の心を動かすものに仕上げなければならない。……月曜の朝、詩織は母のことをヘルパーに託すと、病院の正面玄関へと向かい、そこでひたすら待ち続けた。専門家チームと接触できる、どんな些細な機会も見逃さないために。しかし、朝から昼過ぎまで待っても、チームらしき一行は
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第30話

詩織は、柊也が下した決定を知る由もない。彼女の意識は、ただ専門家チームのことにだけ注がれていた。もうすぐ終業時刻だというのに、チームは一向に現れる気配がない。詩織は意を決して、徹を探し、事情を尋ねることにした。手術を終えたばかりの徹は、詩織の言葉にひどく驚いた様子だった。「え、君、まだ聞いてなかったのかい?北川院長が直接空港まで迎えに行ったんだ。今日はもう、病院には来ないと思うよ」詩織は徹の表情から何かを読み取り、思わず問い詰めた。「院長先生が、お一人で?」徹はため息をつく。「まさか。私も誘われたんだが、どうしても外せない手術があってね。行けなかったんだ」これほどのトップレベルの医療チームだ。多くの人間が我先にと群がるのは、詩織にも想像がついた。一瞬たりとも気を抜けない。詩織は、専門家チームがどこへ向かったのか、必死に徹に食い下がった。徹が、北川院長に同行している同僚に連絡を取って尋ねてみると、一行は今、『帝都グランドホテル』で会食中だということが分かった。確かな情報を得た詩織は、休む間もなくタクシーを拾い、帝都グランドホテルへと向かった。夕方の帰宅ラッシュに捕まり、江ノ本市の道路はひどく渋滞している。詩織は何度も時間を確認した。本来なら三十分ほどの道のりが、渋滞のせいで四十分、五十分と、刻一刻と伸びていく。もうじっと座ってはいられなかった。詩織は料金を払ってタクシーを降りると、近くにあったシェアサイクルを見つけ、それに跨ってホテルを目指すことにした。時間を少しでも縮めるため、詩織は車と車の間を縫うようにしてペダルを漕いだ。そして二十分後、ついに帝都グランドホテルの豪奢な門構えが視界に入った。だが、そこへたどり着くには、目の前の信号がある交差点をぐるりと回らなければならない。焦りすぎていたのだろう。対向車を避けようとカーブを曲がった瞬間、バランスを崩し、縁石に激突してしまった。自転車ごと、詩織の体は地面に叩きつけられる。肘と膝に、焼けるような痛みが走った。おそらく、擦りむいてしまったのだろう。それでも、彼女はただの擦り傷で済んだことに、心の底から安堵していた。轢かれそうになった黒のベントレーも、静かに停車した。車から降りてきた人影が、まっすぐに詩織の方へ歩いてくる。詩織は、きっと怒鳴
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