All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

なんだかんだ言っても、七年間、朝も夜も共にしてきた二人だ。その程度の阿吽の呼吸は、まだ残っていた。柊也は詩織の意図を正確に読み取り、初恵に向き直ると穏やかに説明した。「実は今、出張から戻ったばかりでして。詩織には連絡もせず、まっすぐこちらへ来てしまったんです」「まあ、そうだったの。それなら早くお家に帰って休まないと。出張なんて疲れるでしょう、うちの詩織だって、帰ってくるたびにげっそり痩せちゃってるんだから」「彼女には苦労をかけます」その言葉が、詩織の耳にはひどく耳障りで、白々しく響いた。……たいした役者ね。見目も良いのだから、いっそ俳優にでもなればよかったのに、と詩織は心の中で毒づいた。初恵に促される形で、柊也は長居はせず、席を立とうとした。どうせ、これから「本命」の未来の義母のもとへ駆けつけるのだろう、と詩織は冷めた目で見ていた。初恵が、送って差し上げなさい、と詩織に言う。「送る必要ないわよ。道くらいわかるでしょ」詩織はあからさまに嫌な顔をした。そんな娘を、初恵がぴしゃりと睨みつける。「早く、行きなさい!」「……わかったわよ」詩織は仕方なく立ち上がり、彼を見送ることにした。当の柊也は、それを当然と受け止め、少しも遠慮する素振りを見せない。まったく、面の皮が厚いにもほどがある。詩織は柊也をエレベーターホールまで見送ると、病室にいる初恵にはもう聞こえないと確信した途端、すっと顔から笑みを消し、その表情は瞬く間に氷のように冷たくなった。その豹変ぶりを、柊也は見逃さなかった。彼は目を細め、詰問するような口調で切り出す。「随分と、俺に会いたくないようだな」詩織は思わず天を仰ぎたくなった。……やっと気づいたの、と心の中で呟く。だが、彼が来てくれたおかげで、母からの追及を躱せたのもまた事実だった。「……ご冗談でしょう、社長」詩織は肯定も否定もせず、ただ冷たく言い放つ。柊也はその態度を追及せず、続けた。「病院側には話を通してある。お前のお母さんのことは、万全の態勢で診てくれるはずだ」詩織の唇の端が、嘲るように歪んだ。「母はここにはいません。だから、お芝居はもう結構です」「……どういう意味だ」柊也の眉がぴくりと動き、声の温度が数度下がる。詩織はもう、取り繕う気など微塵もなかった。「とぼけるの
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第42話

「柊也くん、すごく怖かったの……っ」柊也が佳乃の病室に駆けつけると、志帆が目を赤くしてその胸に飛び込んできた。その身体は、わなわなと震えている。「お母さんが、たった今、血を吐いたの」柊也も、志帆からの電話を受けて慌てて駆けつけたのだった。すでに医師と看護師が病室に入っており、佳乃の詳しい検査を行っている最中だった。柊也は志帆の背中をさすり、落ち着かせようとする。やがて検査を終えた医師が、二人に告げた。「ご安心ください。吐血というほどのものではありません。激しく咳き込んだ際に毛細血管が切れて、痰に血が少し混じっただけです。人体が自然に治癒するレベルの、ごく小さな問題ですから」「……よかった」志帆は心の底から安堵のため息を漏らした。医師が病室を出ていくと、彼女は少し気恥ずかしそうに柊也を見上げる。「ごめんなさい、びっくりしちゃって……すごく怖くて、頭に浮かんだのが柊也くんのことだけで……それで、つい電話しちゃったの。休んでたところ、邪魔しなかった?」「いや。もう、落ち着いたか?」志帆はぱあっと笑顔を咲かせると、何度もこくこくと頷いた。「うん」そして、「柊也くんが来てくれて、本当によかった」と呟いた。そこへ、長昭も慌てた様子でやってきた。志帆から事情を聞き、ようやく胸を撫で下ろす。「いやあ、この数日は本当に世話になったね」長昭は柊也に深々と頭を下げた。「志帆も、母親の看病で疲れているだろう。ここは私に任せて、君たち若いもんは、週末くらい外で羽を伸ばしてきたらどうだ。息抜きも必要だろう」言うが早いか、長昭は志帆に言い含める。「まずは私とお母さんの代わりに、感謝の気持ちとして柊也くんを食事にでも誘いなさい。お母さんが退院したら、改めて正式にうちにご招待しよう」志帆は嬉しさを隠しきれない様子で、ぱっと顔を輝かせた。「はいっ」病室を出る際、志帆は長昭にくれぐれも言い含めた。佳乃の検査結果を、忘れずに検査科で受け取ってくるように、と。長昭は看護師に一声かけると検査科へ向かった。書類の束の中から佳乃の検査報告書を探していると、ふと見覚えのある名前が目に飛び込んできた。探す手がぴたりと止まり、長昭は慌ててそのページまで戻す。――江崎初恵。かつて知っていた、江崎初絵という名。読みは似ているが、字が違う
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第43話

始まりの美しさとは裏腹に、終わりはいつもこうも無様なのか。でも、もうどうでもいい。自分の中では、もう、この恋にピリオドを打ったのだから。柊也がそれに応えようが、頷こうが、もはや重要ではなかった。京介は詩織を食事に迎えに来たのだった。どうやってこの恩に報いてもらうか、いいことを思いついた、と彼は言った。しかし、詩織は思ってもみなかった。京介が予約した店が、まさか『せせらぎ』だったなんて。人生とは、時として皮肉なものだ。ずっと、ずっと心待ちにしていた。いつか柊也と一緒に来たいと、あれほど願っていた場所に、結局、彼は志帆を連れてやって来た。そして自分は、京介と訪れることになるなんて。「どうした?この店、好きじゃなかったか?」いつまでも動こうとしない詩織を見て、京介は彼女がここを気に入らなかったのだと勘違いしたらしい。「だったら、別の店にしようか」「ううん、違うの」詩織は首を振り、淡い笑みを浮かべた。「……すごく、好きなの。ここ」――好きな人と、デートで来たかったくらいには。「やっぱり。ネットですごく人気なんだ。女の子はみんな、こういう雰囲気好きだろうって思ってさ」京介が予約してくれた個室は、さらに趣のある空間だった。その心地よさに、詩織の沈んでいた心も少しだけ軽くなる。メニューを渡しながら、京介は気遣わしげに釘を刺すことを忘れなかった。「辛いものは頼むなよ。胃、弱いんだろ」詩織は、以前から一度食べてみたいと思っていた料理を、次々に注文していった。その中には、辛い料理もいくつか含まれていた。京介が何か言う前に、詩織は悪戯っぽく笑って自ら白状し、味見をするだけだから、と約束した。「……今回だけだからな」京介は、根負けしたように頷いた。食事の途中、京介の携帯が鳴り、彼は席を立って外で電話に出ていた。そして戻ってきた時、その隣には見知った顔がもう一人増えていた。詩織も知っている。宇田川太一だ。太一にしてみれば、まさか自分の従兄と一緒に食事をしているのが詩織だとは、夢にも思わなかっただろう。「紹介するよ、こちらは……」「知ってる。江崎詩織さんだろ。柊也の秘書の。紹介は要らない」京介が言い終わる前に、太一は無遠慮に言葉を遮った。その目に浮かぶ嘲りと軽蔑の色は、昔と少しも変わって
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第44話

食事の途中、柊也が会計のために席を立った。太一もその後を追う。小走りで柊也に追いつくと、声を潜めて告げ口をするように言った。「おい柊也、江崎もこの店に来てるぜ。京介兄貴と一緒だ」それを聞いても、柊也は平然としていた。どうやら彼にとって、詩織はもはや取るに足らない存在らしい。太一は内心ほくそ笑みながらも、詩織に対するやっかみが抑えきれなかった。「それにしても、どうやって京介兄貴に取り入ったんだか。やけに馴れ馴れしくしてたぜ」そこで、太一はある可能性に思い至る。「……まさか、あれが例の男を落とすための新しい手口とか?」彼は興奮気味に続けた。「前にあんたの気を引こうとして、わざとヘッドハンターと接触してたじゃんか。でもあんたが無視したから、今度は手を変えてきやがったんだよ。マジで、腹黒い女だぜ!」「……タバコ、持ってないか」柊也が、唐突に尋ねた。太一の饒舌な思考は、そこでぷつりと途切れる。「は?あんた、タバコ吸わなかったっけ」「……少し、イラついてる」その言葉に、太一は何に、と問いかけそうになったが、柊也の険しい表情を見て、その言葉をぐっと飲み込んだ。……京介が言っていた「恩返し」とは、パーティーの同伴者として、詩織に付き添ってほしいということだった。詩織は、彼が冗談を言っているのだと思った。何しろ、京介ほどの男だ。彼のパートナーになりたいと願う女性など、星の数ほどいるだろうに。詩織が訝しむような視線を向けたので、京介は観念したように白状した。「俺は最近、衆和銀行に戻ったばかりでな。江ノ本中の人間が、俺の一挙手一投足に注目してる。だから今、ほんの些細な綻びも見せられないんだ。……俺の言いたいこと、わかるか?」彼が詳しく話さなくとも、詩織には彼の置かれた状況が手に取るようにわかった。この二年、衆和銀行は深刻な内部抗争で、完全に泥沼化していると聞く。京介がこのタイミングで帰国したのは、その衆和を立て直すためであることは明白だった。彼の隣に立つ人間は、誰もが何かしらの下心を持っていると見なされるだろう。「私、ずいぶん信用されてるみたいね」詩織はわざとからかうように言った。「もし、私に下心があったらどうするの?」なにしろ、こういうパーティーは人脈と利権の宝庫なのだから。京介は意に介さない様
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第45話

エイジア・キャピタルの新規株式公開の準備で、柊也が世界中を飛び回って多忙を極めていた、ちょうどあの頃。詩織とて、同じように忙しかったはずなのに。それでも、どんなに疲れていても、眠る前に必ずあの部屋に立ち寄った。そうすれば、一日の疲れがすべて吹き飛ぶような気がしたから。あの頃は、本気で柊也と一生を添い遂げるつもりだった。まさか、自分より先に志帆が、あの家に住むことになるなんて、思いもしなかった。結局、詩織はただ「まだいい物件に出会えていないだけ」と、京介の問いに答えた。京介は、その言葉の裏にある何かを察したようだった。「いつか、きっと見つかるさ」マンションの下の花屋を通りかかった時、詩織はふと思い出した。この間買った花がもう萎れてしまい、テーブルの上が寂しくなっていたことを。帰り際に、ちょうどいいと花をひと束買って帰ることにした。店員が、品質がとても良いんですよ、と赤い薔薇を熱心に勧めてくる。「じゃあ、その赤い薔薇にするわ」花であれば何でもよかったので、深くは考えなかった。美しい花は人の心を癒してくれる。すっかり上機嫌になった詩織は、軽く鼻歌を口ずさみながらドアを開けた。だが、部屋の中に立つ男の姿を目にした瞬間、その機嫌はぴたりと止まった。信じられない思いで、詩織は自分の部屋のドアと柊也の顔を交互に見比べた。幻でも見ているのかと思った。――玄関の暗証番号、変えたはずなのに!部屋の明かりは消えていて、男の表情はよく見えない。ただ、人を寄せ付けない氷のようなオーラが全身から発せられているのが、闇の中でも分かった。「……あなた、どうやって入ったの?」詩織が何より気になったのは、そのことだった。重苦しい空気が嫌で、彼女は部屋中の照明をすべて点けた。光が部屋を満たした瞬間、柊也の瞳に宿る冷酷な光が一瞬きらめくのを、詩織は見た。柊也は彼女を見下ろし、その黒く沈んだ瞳で、冷ややかに言い放つ。「何度変えたところで、俺にはわかる」詩織は、胸が詰まるような息苦しさを覚えた。……明日、業者を呼んで鍵ごと変えてしまおう。それも、一番原始的なシリンダー錠に。そうなれば、いくらのあなたでも推測のしようがないでしょう。柊也は彼女の胸の内の葛藤など知る由もなく、その視線はただ、詩織が抱える赤い薔薇の束に注
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第46話

長い沈黙が部屋を支配し、空気さえも凍りついたかのようだった。柊也はただ、冷え切った眼差しで彼女を見つめていた。その黒い瞳に宿るのは、薄情さと氷のような冷たさだけだった。やがて、彼が口を開く。その声は、夜の闇よりも冷たかった。「……宇田川京介のせいか?」一瞬、詩織の頭の中が真っ白になり、言葉の意味がすぐには理解できなかった。彼の瞳に浮かぶ侮蔑と嘲笑を見て、ようやくその言葉の裏にある意味を悟る。……そう、賀来柊也の目には、私、江崎詩織は、そんな女にしか映っていなかったんだ。笑わせる。最近、急に気温が下がったせいだろうか。詩織は大きく息を吸い込むと、身体の芯から凍えていくような感覚に襲われた。骨の髄まで凍みるような、刺すような冷たさだった。どの口が言うの?先に心変わりしたのは、彼のほうじゃない。先に裏切ったのも、彼のほうでしょう。それなのに、どうして最後の最後で、私に汚名を着せようとするの?骨身に沁みるほどの冷たさが、逆に彼女の理性を保たせた。自分の声が、驚くほど落ち着いて、柊也に反論しているのが聞こえる。「あら、あなたに教わったことじゃないですか。間を置かずに乗り換えるのって、案外楽しいものですね」……最近、同僚たちは皆、仕事の虫だった江崎秘書が変わったと感じていた。以前とは、まるで別人だ。定時で帰るようになっただけでなく、服装や纏う雰囲気もがらりと変わった。まるで吹っ切れたように晴れやかなその姿は、事情を知る者たちにとっては、正直なところ不可解でならなかった。何しろ、皆の見立てでは、彼女は仕事も恋も……まとめて失ったはずなのだから。賀来社長が二人の関係を公言したことは一度もなかったが、勘のいい者なら誰でも気づいていた。本命の彼女が帰国した今、誰もが詩織は意気消沈するだろうと踏んでいたのだ。ところが当の本人は、まるで何事もなかったかのように平然と日々の業務をこなし、悲しみの色など微塵も見せない。対照的に。おかしなことになっているのは、むしろ社長の柊也の方だった。公私ともに順風満帆で、得意の絶頂にいるべき男が、一日中、重苦しい顔で黙り込んでいる。社長室フロア全体の空気は、息もできないほどに淀んでいた。投資第三部のディレクターである柏木志帆を除き、他の投資ディレクター
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第47話

「何ぼさっと見てるんだ!早く行け!」潤は苛立たしげに髪をかきむしった。「この案件がポシャったら、君どころか、俺のクビが飛ぶんだぞ!」事の重大さを悟った沙耶は、もはやぐずぐずしてはいられないと観念した。「……でしたら、柏木さんにお願いする方が、確実かもしれません」「だったら早く行け!」沙耶は先の社員旅行で、さんざん志帆に媚を売っていた。その甲斐あってか、二人の間には多少の誼ができていた。そのため、沙耶が志帆に助けを求めると、彼女は二つ返事で引き受けた。「ちょうど今から柊也くんのところへ行くところだったの。その書類、私が通してあげるわ」「ありがとうございます、柏木さん!本当に助かります!」沙耶は心底ほっとした。「同僚じゃない。そんなに畏まらないで?それに、いつか私があなたにお願いすることだってあるかもしれないし」沙耶はすぐさま胸を張った。「もちろんです!いつでもお声がけください!」志帆の笑みが、一層深くなった。人の心を掌握するのは、彼女が最も得意とするところだった。エイジア・キャピタルに着任したばかりの彼女は、手始めに詩織の実績を潰すため、彼女が担当していた案件をすべて却下していた。その結果、今や自分の手元にはめぼしい案件がなく、他の部署のプロジェクトに目を光らせる必要があったのだ。沙耶は、それが自ら虎の穴に飛び込むような行為だとは、夢にも思っていなかった。志帆が柊也のオフィスを訪ねた時、彼はちょうどオンライン会議を終えたばかりで、氷のように冷たい表情をしていた。彼女はノックもせず、いきなりドアを開けて中へ入る。そして、口を開きかけた、その時だった。「江崎、コーヒーを淹れてくれ」独り言のような柊也の声が聞こえた。志帆は一瞬動きを止め、何も言わずに踵を返し、給湯室でコーヒーを淹れた。再びオフィスに戻ると、柊也はまだ仕事に没頭している。彼女は音を立てぬよう、そっと彼のデスクにコーヒーカップを置いた。柊也は無造作にカップを手に取り、一口飲むと、すぐに眉をひそめた。「……腕が落ちたか?」顔を上げた彼は、目の前にいるのが詩織ではなく、志帆であることにようやく気づいた。「おいしくなかった?」志帆が傷ついたように、しょんぼりと尋ねる。柊也は一瞬言葉に詰まった。「いや……」口ではそう言ったも
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第48話

志帆は空気を読んでそれ以上は追及せず、巧みに話題を逸らした。近々開かれる祝賀パーティーのことだ。その言葉で、柊也はドレスのことを思い出した。彼は、志帆のためにあつらえたドレスを、すでに手配済みだと告げた。「本当!?どこにあるの?見たいわ!」志帆は期待に胸を膨らませる。柊也は、ごく自然に、いつもの癖で口を開いた。「江崎に、取りに行かせた」一瞬の間を置いて、彼は付け加えた。「……もう帰ったか」「小林さんに聞いてみるわ。彼女なら場所を知ってるはずよ」志帆は一刻も早くそのドレスが見たくてたまらなかった。柊也は黙ってそれを許した。部屋を出る直前、志帆の目に、ある光景が焼き付いた。柊也が、詩織の退職願をデスクの右手にある引き出しにしまうところだった。見間違いでなければ、その引き出しの中には、同じ書式の書類が何枚も重ねてあった。つまり、詩織はとうの昔に辞意を伝えていたのだ。ただ、柊也がそれをずっと握り潰していただけで。その発見は、志帆の心にじわりとした不快感と、確かな危機感を植え付けた。彼が彼女を手放さないのは、詩織という人間に未練があるからなのか、それとも単に彼女の有能さが惜しいだけで、代わりを探すのが面倒なだけなのか。どちらの理由であれ、志帆にとってそれは許しがたい『変数』だった。そして、自分の計画にそんな変数が存在することは、断じて許せない。柊也に詩織の退職願を受理させることなど、簡単なことだ。自分が一言お願いすれば、彼はきっと聞き入れるだろう。でも、それでは詩織にとって、あまりに生ぬるい。自己都合での退職と、会社都合での解雇は、意味が全く違うのだ。江ノ本市で、あの子が二度と顔を上げて歩けないようにしてやる。柊也くんとの間に決して埋まらない溝を作って、敵対させてやる。そして、あの子を――江崎詩織を、柊也くんの世界から、永遠に消し去ってやる!……朝から詩織は妙な胸騒ぎがして落ち着かなかった。今日、何か良くないことが起こる、そんな予感がしていた。柊也が午前中、会社を不在にしていたため、詩織が束の間の静けさを感じていた、まさにその時だった。密が泣きそうな顔で駆け込んできたのは。「詩織さん、大変なんです!」密はよほどショックだったのか、顔は真っ青で、手までわなわなと震えている。詩
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第49話

一人は詩織であり、もう一人は、志帆。ドレスを破いたのが志帆本人かどうかは断定できない。けれど、この一件が自分を標的にしたものであることは、詩織には火を見るより明らかだった。自ら事を荒立てる趣味はない。だが、売られた喧嘩から逃げるほど、腑抜けてもいない。向こうから仕掛けてきた以上、受けて立たない理由などなかった。「密さん、警備課に連絡して、監視カメラの映像を確認するよう伝えて」詩織はすぐさま密に指示を飛ばした。志帆は泰然自若としている。まるで、ドレスの破損など自分には全く関係ないと言わんばかりの態度だ。警備課の調査の結果、いくつかの重要な情報が浮かび上がった。ドレスが会社に届けられて以降、保管室に出入りし、ドレスに触れる機会があった人物は三人。詩織、密、そして、志帆。しかし、肝心の保管室内には監視カメラがなく、ドレスが破損した瞬間の直接的な証拠を掴むことはできなかった。最初に動揺したのは、密だった。「本当に、私じゃありません!あんな高価なドレスを、私が破くなんて……!自分を売ったって、弁償できません!」志帆は鼻で笑った。「じゃあ私だって言うの?これは柊也くんが私のために特別に注文してくれたものなのよ?宝物みたいに大切に思ってるのに、わざわざ壊すわけないじゃない。壊しちゃったら、私、明日何を着ていけばいいの?」その言葉の裏には、犯人は詩織しかいない、という強い暗示が込められていた。「もしかしたら、誰かさんが嫉妬に狂って、わざとドレスを破いたのかもしれないわね。私が明日の大事な祝賀パーティーに出られないように」彼女がそう仄めかすと、密までもが、疑いの眼差しを詩織に向けた。その絶妙なタイミングで、志帆のスマートフォンが鳴った。着信表示を一瞥した彼女の目元が、とろけるように和らぐ。電話に出るなり、甘ったるい声で呼びかけた。「柊也くん?ちょうどあなたに電話しようと思ってたの。あなたが注文してくれたドレス、壊れちゃったのよ。どうして壊れたのか、私にも分からないわ。江崎さんがさっき監視カメラを調べてくれたんだけど、このドレスに触ったのは、私と、小林さんと、それから江崎さんだけなんですって。明日は祝賀パーティーだって言うのに、こんな大事な時に壊れちゃうなんて、あまりにタイミングが良すぎないかしら」電話の向
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第50話

「江崎、警察を呼ぶことが会社にどれだけの影響を与えるか、分かっているのか!」電話の向こうで、柊也の声色が瞬時に変わった。その脅しにも似た言葉を、詩織は冷めた心で受け止めた。分かっている。だが、それが今の自分に何の関係があるというのだろう?ここはもう、自分が身を粉にして守ろうとしたエイジア・キャピタルではない。これ以上、私が犠牲になる義理など、どこにもない。だからこそ、彼女の態度は揺るがなかった。「私は、自分の潔白を証明したいだけです」これほどまでに頑なな詩織は初めてだったのか、柊也は珍しく沈黙に陥った。張り詰めた空気が、場を支配する。詩織は、志帆にスマートフォンを突き返した。柊也の許可を得ようとも、この期に及んで彼が自分の味方をしてくれるなどとは、微塵も期待していなかった。自分を救えるのは、自分しかいない。詩織は、ためらうことなく自らのスマートフォンを取り出し、緊急通報用のアイコンをタップした。志帆の顔色が変わった。「柊也くん、彼女、警察を呼んだわ!早く戻ってきて!」柊也と警察は、ほとんど同時に到着した。志帆が心を痛めているのを案じて、わざわざ外から駆け付けたのだろう。詩織は状況をありのまま警察に伝え、真相の解明と、自らの潔白の証明を依頼した。保管室内部に監視カメラがないことから、警察は技術鑑定を提案した。指紋照合などだ。手間はかかるが、それにより『真犯人』を特定できる、と。ただ、それにはドレスの所有者による許可が必要となる。結局、万事において柊也の鶴の一声が必要となるのだ。志帆は、すっと柊也の体に寄り添った。「柊也くん、これは事を荒立てることも、内々で済ませることもできるわ。私たちはまず、会社への影響を一番に考えないと」柊也の顔に、氷の膜が張った。彼は一同を見渡し、最後にその視線で詩織を射抜いた。詩織は思わず身震いした。「申し訳ありませんが、これは社内の問題です。我々で解決しますので、お引き取りください」柊也は、ついに決断を下した。予想通りの結末だった。だが、彼の口から直接その言葉を聞くと、詩織の心はやはり、ぎしりと軋むように痛んだ。警察も、事を荒立てたくないという会社の意向を汲み、それ以上は介入せず、すぐに引き上げていった。警察が去ると、柊也はあくまで平静を装いな
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