All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

空気が凍りついた、その時。志帆が絶妙なタイミングで口を挟んだ。「もういいじゃない、柊也くん。きっと江崎さんは、濡れ衣を着せられたと思って、それで怒ってしまったのよ」「それに、彼女は長年あなたの秘書を務めてきた人でしょう?あなたが技術鑑定をしなかったのも、彼女を信じてのことなんでしょうし。もう真相なんてどうでもいいわ。この話は、これでおしまい」詩織は、志帆を見た。人間の心の醜さを、これほどまでまざまざと見せつけられたのは初めてだった。見事なまでに、計算され尽くした揺さぶり。一見、自分を庇っているように見せかけながら、その言葉の端々からは全く別のメッセージが滲み出ている。柊也は、その言葉を渡りに船として、この場を収めた。「この件はこれで終わりだ。二度と誰も口にするな」最初から最後まで、詩織を擁護する言葉は、一言もなかった。これが、彼の答えなのだ。詩織は、心の中で何かが引き裂かれるような感覚に襲われた。その痛みは、五臓六腑を締め付けるように全身に広がっていく。もはや、真相を追求しようという気力さえ、失せてしまった。どうせ何を言っても無駄なのだ。彼の心の中では、とっくに自分は有罪なのだから。これ以上、言葉を費やすだけ無駄だった。一瞬、いっそ本当に自分がやったことであればよかった、とさえ思った。そうすれば、柊也も心置きなく自分を解雇できるだろう。それもまた、一つの解放ではないだろうか。志帆は、破れたドレスを残念そうにつまんだ。「明日は祝賀パーティーなのに、どうしましょう。着ていくドレスがなくなってしまったわ」柊也はクローゼットの中を見渡し、やがて、ある純白のサテンドレスの上で視線を止めた。「これを着てみろ」彼が指差したのは、詩織が自分のためにあつらえた、あのドレスだった。彼と、密かにお揃いで着るはずだった、あのドレスだ。新しいドレスを見つけた志帆は、たちまち喜色満面になった。「このドレスも素敵ね。私に、よく似合いそう」二人は、まるでそこに誰もいないかのように、新しいドレスについて語らい始めた。詩織の目に映るのは、甲斐甲斐しく柊也にドレスを当ててみせる志帆の姿と、それを満足げに眺める男の横顔。先ほどの渦中に取り残され、身動き一つとれないのは、自分だけ。もう、こんな日にはうんざりだった。一刻も早く
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第52話

詩織は、思わず息を詰めていた。これほどあっさり事が運ぶとは、思っていなかった。あるいは、柊也は元より、自分の進退など気にも留めていなかったのかもしれない。それでいい。それが、一番いい。これからは、借りも貸しもない、他人同士だ。志帆の張り詰めていた神経が、柊也のその言葉を聞いて、わずかに緩んだ。彼女の口元に、微かな笑みが浮かびかけた、その時だった。柊也の顎のラインが、硬く引き締められる。瞳の奥には、嵐が渦巻いているかのようだった。「すべて、契約書通りにやってもらう。今日中に違約金を払うなら、今日中に消えていい。誰も引き止めん」その言葉は、詩織の心臓を真っ直ぐに抉った。また、自分は彼を見誤っていた。根っからの資本家である彼が、情けをかけるはずなどなかったのだ。誰も気づかない隅の方で、志帆の唇がきつく結ばれる。柊也が詩織を手放さないのは、本当に、違約金のためだけなのだろうか。……午後の業務時間、詩織はほとんど仕事も手につかず、パソコンの画面に食い入るように、かつて血迷ってサインしてしまった長期契約書を繰り返し読み返していた。エイジアの法務部が、ただ者であるはずもなかった。長大な契約書のどこをどう探しても、付け入る隙が一つも見つからない!つまり、莫大な違約金を支払うか、あるいは柊也が「慈悲深く」彼女の辞職を認めるか。詩織に残された道は、その二つしかなかった。その事実に、詩織は絶望的な気持ちになる。あの時の愚かな判断が、今になってすべて後悔の涙に変わるなんて……やはり、若気の至りのツケは、自分で払わなければならないのだ。……まともにやり合っても無駄なら、もう開き直ってやる。あの資本家に、無駄飯食らいを一人、養わせてやればいい!詩織は定時きっかりにパソコンの電源を落とし、いつも通り退社した。エレベーターに乗り込んだ途端、柊也から電話がかかってきた。まるで見計らったようなタイミングで。会社のデスクの電話ではなく、わざわざ携帯の方に。これからはパソコンだけじゃなく、携帯の電源も定時きっかりに切らないとダメみたいね。詩織は気乗りしないまま、通話ボタンを押した。「十分後に会議だ」柊也の冷たい声が、命令を告げる。詩織は一瞬言葉を止め、そして言った。「社長、申し訳ありませんが、も
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第53話

「こちらが、当店に入荷したばかりの新作でございます」店長は、ありったけの誠意を示すように、ずらりと並んだドレスを指し示した。詩織は、その中から淡い紫色のドレスを選び、試着をしようとした。その時、店長の携帯が鳴り、電話に出た彼女の表情がさっと曇る。そして、申し訳なさそうにこう言った。「大変申し訳ございません。こちらのドレス、たった今、他のお客様からご予約が……」詩織は特に気にするでもなく、別のデザインのドレスに切り替えた。彼女はスタイルが良く、どんなドレスでも着こなしてしまう。結局、さほど時間をかけることもなく、パーティーで着る一着が決まった。時計を見た京介が、ちょうど夕食の時間だ、と一緒に食事でもどうかと提案する。実は、彼が言い出さなければ詩織の方から誘うつもりだったので、まさに渡りに船だった。二人が店を出て車に乗り込んだ、まさにその直後。入れ違いに、柊也が志帆を連れて『Belle Fleur』にやって来た。すれ違う瞬間、先に京介の車に気づいたのは志帆だった。「あれ、京介の車じゃないかしら」一拍置いて、彼女は続ける。「どうして江崎さんが一緒なの?最近、やけに親しいわね。残業もしないで、そんなに急いで京介に会いたかったのかしら」「なるほどね、あれほど会社を辞めたがってたのは……もっと条件のいい乗り換え先が見つかったからってわけね」志帆は、詩織に対する侮蔑の念を一切隠そうとしなかった。柊也は特に何も言わず、まるで詩織のことなど興味がないといった素振りだった。その無関心な態度に、志帆は昼間の自分の考えが杞憂だったのだと思い直す。彼が詩織の退職を認めないのは、本当にただ、契約上の問題だからなのかもしれない。一度前例を作ってしまえば、同じような契約を結んでいる他の社員たちが、何を考え出すか分からないから。志帆が試着していたのは、皮肉にも、詩織が最初に目をつけたあのドレスだった。柊也がわざわざ店に電話をかけ、取り置きするように指示したものだ。その事実に、志帆は彼が自分をとても大切にしてくれているのだと感じ、満たされた気持ちになる。しかし、実際に着てみると、どうにもしっくりこない。「柊也くん、これ、素敵だけど……会社にあったあの白いドレスの方が、私には似合ってたかも」柊也は携帯に視線を落としたままだっ
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第54話

母からのあまりに突然の質問に、詩織は身の置き所がないほどの気まずさを覚える。怖くて、柊也の顔を見ることすらできない。彼がこの状況をどう思うか、そして、この嘘を暴かれはしないか、そればかりが不安だった。幸いにも、柊也は役者だった。わずかな沈黙の後、彼は落ち着き払った声でゆっくりと口を開いた。「まだ、そこまでは考えていません」その言葉に、詩織の胸が詰まる。『そこまで考えていない』のか、それとも『私との結婚など、そもそも一度も考えたことがない』のか。一瞬、危うく恋人の演技を続けられないところだった。そんな詩織の心中を知ってか知らずか、柊也は彼女に視線を向けて尋ねた。「詩織がどんな式をしたいか、次第だな」好奇心に満ちた初恵の視線がこちらへ向かうのを感じ、詩織はさっと柊也から目を逸らすと、口から出まかせに答えた。「……伝統的な、格式のあるスタイルがいいかな。厳かな感じがして、素敵だと思う」「ええ、私もその方がいいと思うわ」初恵はうっとりと目を細める。「きちんと段階を踏んで、皆に祝福される。その方がずっと、大切にされているって感じがするもの」柊也は、その後も初恵ととりとめのない話を続けていたが、詩織の意識はどこか上の空だった。幸い、彼がさほど長居をしなかったことに、詩織は心の中でそっと安堵のため息をつく。初恵が「詩織、柊也くんを送って差し上げなさい」と促す。詩織は、彼が帰ると言い出したその口で、「どうぞお構いなく」と突き放すことすらできなかった。毒を食らわば皿まで。詩織は嫌々ながらも、名残惜しそうに彼を見送る恋人を演じるため、柊也と共に病室を出た。だが、病室の扉が閉まった途端、詩織はさっと表情を消した。一秒だって、もう演じたくなかった。「賀来社長、お疲れ様でした。お見送りはここまでで」その豹変ぶりに、柊也は呆れて鼻で笑った。「その手のひらの返し方、一体誰に教わったんだ?」「社会人になってからずっと、あなたのそばにいたわ。誰に教わったと思う?」詩織は、皮肉たっぷりに言い返す。「俺が教えたのは、それだけじゃなかったはずだがな」もう世間知らずの少女ではない。男の言葉に込められた下卑た暗示くらい、詩織にはすぐに理解できた。だが、彼女が何か言い返すよりも早く、柊也の携帯が鳴った。彼は詩織の目の前で電話に出
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第55話

明日は祝賀パーティーだ。朝早くから会場のホテルへ行って準備をしなければならないため、今夜は病院に泊まるわけにはいかなかった。もちろん、それ以上に、初恵自身が娘の泊まり込みを良しとしないという理由もあった。疲れさせてはいけない、と。術後の経過は順調で、特に心配することもない。それに、詩織が手配した看護師も付いているから万全だった。エレベーターで一階へ降りる途中、詩織は思いがけず知人と乗り合わせた。相手もまた、彼女の姿に驚いたようだった。「江崎さん、どうしてここに?」声をかけてきた久坂智也(くさか ともや)の手にはスープポットが提げられており、彼も誰かの見舞いに来たのだろうと察せられた。「母が、ここの病院に入院しているんです」詩織はそう説明してから、尋ね返した。「久坂さんも、どなたかのお見舞いですか?」「ええ、実は母が。先日、転んでしまって」「……大変。お怪我は」「骨折です。幸い、たいしたことはありませんでした」「そう、それならよかったです」詩織と智也が知り合ったのは、あるプロジェクトがきっかけだった。詩織自身は非常に高く評価していたものの、最終的に志帆によって見送られてしまった、あのAIプロジェクトである。そう思うと、詩織は少し気まずい気持ちになった。何しろ、最初に声をかけたのは彼女の方だったのだから。智也もその件には納得がいっていなかったのだろう。せっかく会えたのだからと、この機会に尋ねてきた。「江崎さん、以前、エイジアは俺が開発した『suup』に、かなり興味を持ってくれてましたよね? なのに、どうして急に提携の話がなくなったんですか」彼は根っからの技術者で、ビジネスの世界の腹の探り合いのようなものは分からない。話し方も、非常にストレートだ。「本当にごめんなさい。エイジアの投資部門に新しい責任者が就任して……今はプロジェクトに関する全ての決定権が、その人にあるんです。私にはもう、口を挟む権限がなくて」「ああ、なるほど」智也は眉をひそめた。「どうりで変だと思ったんですよ。このプロジェクト、最初から最後までずっと江崎さんが担当してくれてたのに、最後の最後で、別の人から『投資は見送る』なんて連絡が来たから」「本当に……ごめんなさい」しかし、智也は首を横に振った。「なんで江崎さんが謝るんです
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第56話

祝賀パーティー当日。詩織は朝からずっと会場のホテルに詰めており、会社には顔を出さなかった。密が手伝いに来たのは、午後になってからだった。詩織がまだ普段の仕事着のままでいるのを見て、早くドレスに着替えるようにと急かす。しかし、思いがけず、詩織はドレスを予約し忘れた、とだけ言った。他の誰かの言葉なら信じるかもしれない。だが、あの詩織が、と密は訝しんだ。仕事が完璧で、いかなるミスも犯さない万能秘書の江崎詩織が、そんな失態を犯すだろうか。密は何か言おうとしたが、詩織はただ、いつもと変わらない落ち着いた様子で仕事の指示を出すだけで、感情の揺れを一切見せなかった。結局、喉まで出かかった慰めの言葉を、密はそっと飲み込んだ。午後五時半。主役であるはずの柊也は、まだ会場に姿を現さない。しかし、招待客はすでに続々と到着し始めていた。詩織は仕方なく柊也の代理として客を出迎え、挨拶を交わす。目が回るほどの忙しさで、愛想笑いを続けた顔はこわばり始めていた。五時五十。詩織は再び密に、柊也が今どこにいるのか尋ねた。密もまた、焦りを浮かべた顔で首を振る。「分かりません……社長とは、連絡がつかなくて」詩織はわずかに考え込んだ後、密に指示を出した。「柏木さんの携帯にかけてみて」密は、言われた通りに電話をかける。やがて、彼女は志帆から答えを得たようだった。しかし、通話を終えた彼女が詩織に向ける視線は、どこか複雑な色を帯びていた。「柏木さんは、なんて?」詩織が問う。密は隠し通せないと悟ったのか、観念して、ありのままを報告した。「……社長は、柏木さんとご一緒だそうです。社長が、その……柏木さんのドレスのお直しに付き合っていて、少し時間がかかってしまった、と。もうこちらへ向かっているそうですが、数分遅れるかもしれないので、詩織さんに『先に場を仕切っておけ』、とのことです」言い終わる頃には、密の瞳には隠しようのない同情が浮かんでいた。詩織は、ただ「分かったわ。自分の仕事に戻って」と、静かに告げた。招待客は皆、柊也を目当てに来ている。主役の顔が見えないとなれば、誰もがその行方を尋ねてくるのは当然だった。詩織は、一人一人に頭を下げ、言葉を尽くして対応するしかなかった。そうして客の相手をするうち、酒を勧められ、笑顔でそれを受ける機会は避け
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第57話

密が詩織に白湯を注ぎ、心配そうに尋ねた。「詩織さん、大丈夫ですか」「ええ、まだ平気」詩織は温かい白湯を喉に流し込み、少しだけ強張りが解けるのを感じた。「外の様子はどう?」「滞りなく進んでいます」密はため息交じりに言った。「それよりご自身の心配をしてください。顔、真っ青ですよ」「あなたは先に戻って。私はもう少し休んでから行くわ」ホールに人手が足りなくなることを懸念し、詩織は密に戻るよう促した。「わかりました。何かあったらすぐに呼んでくださいね」密が休憩室から出ていくと、詩織は壁に寄りかかって一息つこうとした。その瞬間、ポケットに入れていたスマートフォンが静かに震える。画面に表示された名前に、彼女の心臓が冷たく軋んだ。『賀来柊也』通話ボタンを押し、耳に当てる。隠しきれない疲労が滲む声で、なんとか言葉を絞り出した。「……賀来社長」「どこにいる」電話越しでもわかる、刺すように冷たい声だった。「お手洗いです」「さっさと来い」何かを問い返す間もなく、一方的に通話は切られた。まるで、自分と一秒でも長く話すのが時間の無駄だとでも言わんばかりに。詩織は重い体に鞭を打ち、きらびやかなホールの喧騒の中へと戻っていく。視線の先で、柊也は満面の笑みをたたえ、来賓たちとグラスを片手に談笑していた。仕事も恋も、全てを手に入れた男の得意げな顔。無理もない。そんな彼が、ふとこちらに気づき、眉を僅かにひそめた。おそらく、詩織がドレスではなく、スタッフ用のスーツ姿のままであることが気に食わないのだろう。だが、来賓の手前、さすがに声には出さず、ただ顎をしゃくってグラスを運べと無言で命令を下すだけだった。わざわざ電話までしてきた理由は、火を見るよりも明らかだった。自分を酒の盾にするためだ。昔と何一つ変わらない。用がある時だけ呼びつけて用が済めば容赦なく切り捨てる。彼にとって自分は、今も昔もその程度の存在でしかないのだ。詩織は一瞬ためらい、か細い声で告げた。「賀来社長、少し胃の調子が……」柊也は眉をひそめた。詩織がそんな反応を示すとは、思いもよらなかったらしい。無意識に声のトーンが一段低くなる。「こちらは東華キャピタルの坂崎社長だ」金融界でも名うての重鎮――つまり、無下にはできない相手だということだ。詩
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第58話

京介が来ることなど、詩織は全く知らなかった。そんな話は聞いていなかったからだ。だが、すぐに納得もした。江ノ本市の社交界なんて狭いものだし、賀来家と宇田川家には昔からの付き合いがある。京介が帰国したからには、柊也が主催するパーティーに顔を出すのも当然のことだろう。彼の姿は、志帆も捉えていた。彼女は満面の笑みで駆け寄る。「京介、遅かったじゃない。ずっと待ってたのよ」「悪い。渋滞に捕まって」「そのネクタイ、私が贈ったものでしょう?よく似合ってるわ」志帆はそう言って、ごく自然な仕草で彼のネクタイにそっと手を伸ばし、結び目を直した。親密でありながらも、決して馴れ馴れしくは見えない。すべてが計算され尽くした、完璧な振る舞いだった。その光景を見て、詩織はふと思い出す。以前、リヴ・ウエストの個室の外で耳にした噂話を。――柊也が今までで一番スリルのあった経験は、好きな人の恋路に割り込んだこと。その一言で、太一は、柊也が心の奥に隠していた相手が志帆だと確信したのだ。太一は言っていた。志帆は昔、京介を追いかけて留学したのだと。ということは……柊也と京介は、恋敵。詩織がその複雑な関係に思いを巡らせていると、当の京介がまっすぐこちらへ歩み寄ってきた。「顔色が悪いみたいだけど、眠れてないのか?」突然の気遣いに、詩織は完全に不意を突かれてしまった。ぎこちなく首を横に振るのが精一杯だ。「ううん、そんなことない」「酒、飲んだのか?」京介は詩織から漂う微かなアルコールの匂いを嗅ぎ取ったらしい。綺麗な眉を無意識にひそめる。「胃が弱いのに、無理するなよ」「……仕事だから。断れなかったの」詩織は力なく答えるしかない。京介が何か言いかける前に、新たな客が詩織にグラスを差し出した。エイジア・キャピタルの取引先だ。無下にはできない。詩織がグラスを受け取ろうとした瞬間、横から伸びてきた京介の手が、その杯を奪い取った。そして彼は、詩織の代わりに相手とグラスを合わせる。「この一杯は俺が代わりに。構わないでしょう?」相手の男性は京介の顔に見覚えがあったのだろう。途端に恐縮しきった様子になる。「いえいえ、とんでもない!宇田川家の御曹司でしたか。初めまして、合和の篠崎永和(しのざき とわ)と申します。お会いできて光栄です」ビジネスの世
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第59話

そして今、京介はあからさまに詩織を庇ってみせたのだ。その光景に、志帆は無意識に目を細める。思ったことがすぐに口に出てしまう太一は、不満そうに呟いた。「なんで京介兄貴が江崎の酒なんか代わりに飲んでんだよ。二人がそんなに仲良かったなんて、聞いてねぇぞ」本来なら柊也に問いかけるつもりだったが、別の客が彼に話しかけたため、太一は言葉を飲み込んだ。ふと隣を見ると、志帆が面白くなさそうな顔をしているのに気づき、慌てて取り繕うように言った。「志帆ちゃん、気にするこたねえって。俺に言わせりゃ、京介兄貴のやってることなんて見え透いてる。わざとらしいんだよ。男ってのはな、別れた女にだって独占欲みてえなもんがあんだよ。だから京介兄貴は江崎を使って、志帆ちゃんの気を引きてえだけだ。それ以上でも以下でもねえ。それに、あんないい女と付き合った後で、あんなのに本気になるわけねえだろ。兄貴もそこまで見る目がねえわけじゃねえ。あんなザコ、気にするだけ無駄だって」太一の言葉は、志帆のささくれ立った心を優しく撫でた。それでも、彼女は柊也の反応を確かめずにはいられなかった。柊也も先ほどの京介の行動を見ていたはずだ。しかし彼は、何事もなかったかのように、涼しい顔で客との会話を続けている。詩織のことなど、全く意に介していないのだ。その様子を見て、志帆の胸の内にあった淀んだ感情は、跡形もなく消え去った。彼女は新しいグラスを手に取ると、再び柊也の腕に絡みつき、彼らの会話の輪に加わった。もう、詩織と京介の方に目を向けることはなかった。宴もたけなわの頃、詩織のグラスは空のままだった。京介が甲斐甲斐しく食べ物を勧めてくれるおかげで、一滴も酒を飲まずに済んでいたのだ。空腹が満たされると、胃の痛みも和らぎ、ささくれ立っていた心も少しだけ穏やかになった。詩織が京介に礼を言っていると、柊也が志帆を伴ってやって来た。二人はまるで一つの生き物のように、パーティーの間ずっと寄り添い、片時も離れなかった。志帆は京介を気遣う素振りを見せる。「京介、ずいぶん飲んでるみたいだけど、大丈夫?」「ああ、平気だ。たいして飲んでない」詩織は、柊也の手に握られているグラスの中身が、炭酸水ではなくアルコールであることに気づき、いぶかしんだ。その疑問に答えるかのように、柊也はグラスを
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第60話

エイジアがこのホテルで祝賀パーティーを開くのは初めてではなかった。だから詩織はこの場所の造りを熟知しており、どこが静かで、誰にも邪魔されずに済むかを知っていた。このところ南下してきた寒気団のせいで、気温は下がる一方だった。肌を刺す寒風が、火照った頭を強制的に冷ましてくれる。今日、ドレスを着ていなかったのは幸いだった。でなければ、とてもここに長くはいられなかっただろう。母の初恵からメッセージが届く。【お酒はほどほどにね】と釘を刺された。詩織は【わかってる】とだけ返す。続けて、【私の代わりに柊也くんにお祝いを伝えて】と。詩織は数秒ためらった後、ようやく【わかった】と返信した。酔いがだいぶ覚めたところで、詩織は立ち上がり宴会場へ戻ろうとした。その時、内側から誰かがドアを開けてバルコニーに出てくる。まさか、柊也が来るとは思わなかった。しかも、一人で。詩織は思わず彼の背後を目で探してしまった。いつも影のように寄り添っている志帆の姿がないかと。「誰を待っている」柊也は伏し目がちに彼女を見下ろす。彫刻のように整った顔立ちは鋭角的で、その瞳には何の温度も宿っていなかった。「京介か?」少し和らいでいた詩織の眉が、再び険しく寄せられた。柊也の、自分をゴミでも見るかのような話し方が、どうしても許せない。「……通してください」彼女は、できる限り平静を装った。しかし、柊也は微動だにしない。これまで見たこともないほど深く、威圧的な眼差しで彼女を見据えている。詩織の堪忍袋の緒が切れる寸前、柊也が再び口を開いた。それは忠告のようでもあり、脅しのようでもあった。「詩織、宇田川家は家柄を何よりも重んじる一族だ。お前のような出自の女など、端から相手にされん。余計な色気は起こさず、大人しくエイジアにいろ。それがお前の身のためだ」詩織はしばらく呆然としていたが、やがて彼の言葉の意味を理解した。自分が宇田川家への玉の輿を狙っていると、彼は言いたいのだ。腹の底から、得体の知れない怒りが突き上げてきた。詩織は思わず柊也に問い返す。「あなたの目には、私がそんな女に映るの?……ずっと、そうやって私のことを見てきたわけ?」「事実、そうしているだろう」彼は、言葉の刃で容赦なく彼女を切り刻む。「京介に頻繁に接触し、新しい足場を見つけ
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