All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 361 - Chapter 370

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第361話

だが、ホールのどこにも彼女の姿はなかった。彼女はすでに個室へと戻っていたのだ。……夜になって、譲から詩織へ簡潔なメッセージが届いた。柊也の容態についてだ。【左手の火傷、結構ひどかったけど、処置が早かったおかげで大事には至らなさそうだ】詩織は【了解】とだけ返信した。譲はしばらくスマホの画面を睨んでいたが、二通目のメッセージが来ることはなかった。どうやら彼女は、本当に柊也に対して未練がないらしい。太一はといえば、昨晩の接待で浴びるほど酒を飲み、帰宅するなり泥のように眠ってしまったため、柊也の怪我については何も知らなかった。翌日そのニュースを聞きつけるなり、大慌てで病院へと駆けつけた。病室には志帆の姿しかなかった。どうやら一晩中付き添っていたらしい。「志帆ちゃん、一度帰って休みなよ。俺、今日ヒマだからさ、柊也のことは任せといてって」志帆は少し心配そうだったが、柊也からも「戻って休め」と促され、ようやく帰宅を承諾した。「じゃあ、何かあったらすぐ電話してね」帰り際、志帆は柊也への注意事項を細かく確認し、太一にもくれぐれも粗相のないようにと念を押して病室を出て行った。二人きりになると、太一は我が物顔でソファに寝転んだ。「ヒューッ、愛されてんねぇ、ごちそうさまです」柊也は相手にもせず、ベッドに半身を起こして目を閉じている。だが、太一の好奇心は止められない。「なぁ、昨日助ける相手間違えたってマジ?本当は志帆ちゃん助けるつもりが、手違いで江崎助けちゃったって?」「うるさいぞ」柊也の声は冷たく、抑揚がない。だが太一に空気を読む能力などない。お構いなしに喋り続ける。「で、江崎の反応はどうだった?死ぬほど感動してたんじゃね?きっと『まだ私に気があるんだわ』とか勘違いしてんじゃねーの」「俺の予想じゃ、あいつ絶対今日見舞いに来るぜ。んで、かいがいしく看病アピールすんだよ」柊也は相変わらず冷淡に返した。「考えすぎだ」太一は自信満々に言い放った。「いやいや、賭けてもいいぜ!絶対来るって!こんな絶好のチャンス、あいつが逃すわけねーもん!」これは彼の経験則だった。かつての詩織なら、間違いなくそうしていただろうから。太一は丸一日待ち構えていたが、結局、詩織は現れなかった。「嘘だろ、マジで来ねーの?一応さ、自分
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第362話

「どうしたの」詩織は足を止め、怪訝そうに問いかける。密は義憤に駆られた様子でまくし立てた。「今朝、長者番付が更新されたんですけど、女性富豪トップが入れ替わってるんです」詩織は指の関節でコンコンと密のデスクを叩く。「また仕事中にサボり?言ったでしょう、あんなゴシップ誌のランキングなんて気にするなって」「気にしないつもりでしたけど、一位がよりによってあの女なんですよ」「柏木志帆でしょう」密が一瞬、言葉を詰まらせる。「……どうしてわかったんですか」彼女は名前を出すことさえ憚っていたのだ。だが、詩織の反応は至って平然としたものだった。それどころか、皮肉めいた笑みさえ浮かべている。「株式譲渡の手続き、もう終わらせたのね。あれだけの怪我をしておきながら仕事が早いこと。案外、元気なんじゃない」右手に重度の火傷を負いながらも、『エイジア・ハイテック』の株の名義変更は忘れないとは。恐れ入った愛の深さだ。詩織は出発間際、密の頭を軽く小突いて釘を刺した。「真面目に仕事して。私は出先から直帰するから」「飲み会ですか?お酒飲むなら私も連れてってくださいよ」「飲まないわよ」「なら安心です。あ、そうそう。そろそろあの日が近いんですから、体冷やさないように気をつけてくださいね。ナプキン、バッグの内ポケットに入れておきましたから」「了解」詩織は約束の時間より早めに到着するのが常だった。その日も、まだ誰も来ていない個室内で、ひとり茶を注文し、湯呑みから立ち上る湯気を眺めながら静かに時を待っていた。やがて、障子がすっと開く音が静寂を破った。源治だろうと思い、詩織は柔らかな笑みを浮かべて顔を上げた。だが、そこに立っていたのは神宮寺悠人だった。悠人は詩織の姿を認めるなり、その端正な眉をぴくりと動かし、露骨な嫌悪感を滲ませた。踏み入れかけた足を一旦廊下へと戻し、鴨居に掲げられた部屋の名前を見上げる。間違いなくここだ。再び視線を詩織に戻した時、その眼差しには先ほどよりも冷ややかな色が宿っていた。詩織は彼のその表情から、彼こそが今日会う予定の投資家なのだと察した。それでも社会人としての礼節を崩さず、席を立って出迎える。「真田さんは少し遅れるそうです。どうぞ、中へ」悠人は感情の読み取れない目で詩織を一瞥した。彼女が穏やかな態度を
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第363話

「真田さん」悠人は部屋に入るなり、志帆を紹介した。「先輩、こちらが例の真田さんだよ」志帆も驚いたようで、一瞬気まずそうな表情を浮かべた。だが、すぐに余裕のある笑みを取り戻し、堂々と振る舞う。「真田さんとは知り合いよ」彼女はそう言うと、自ら手を差し出した。「お久しぶりですね、真田さん」悠人は自分の手柄のように嬉しげだ。「知り合いなら、なおさら話が早い」源治は社会人としての礼儀で握手に応じたものの、その表情は能面のようだった。しかし、悠人の意識は完全に志帆に向いており、源治の冷めた空気に気づかない。「真田さん。以前電話で話していたパートナー候補というのは、実は先輩のことなんです。海外の金融博士号を持ち、最大級の港湾買収案件を主導した実績もある。技術の真田さん、資金の僕、そして運営の先輩。この三者が組めば、プロジェクトは間違いなく成功する」悠人は自信満々に力説した。対する源治は、薄い笑みを浮かべただけだ。「なるほど。神宮寺さんがお電話でおっしゃっていた『素晴らしい提案』というのは、このことでしたか」悠人はその言葉に込められた皮肉にも気づかず、熱を帯びた口調で志帆を売り込み続ける。「先輩には数多くの成功事例がある。最近リリースされたゲーム『ドリーム・クラウド』も彼女の手によるものです。ビジネスの手腕はもちろん、人脈に関しても……」そこで一瞬、悠人は言葉を淀ませた。賀来柊也の名前を出すのは本意ではない。だが、今は私情を挟むべき場面ではないと判断したのだろう。「人脈に関しても心配無用だ。先輩には『エイジア』の賀来社長という後ろ盾がある」それこそが、志帆の絶対的な自信の源だった。過去に源治と多少の行き違いがあったとしても、ビジネスの世界では利益が全てだ。悠人からの強力な推薦があり、バックには柊也がいる。賢明な人間なら、どちらを選ぶべきか考えるまでもないはずだ。志帆は話の間、ずっと詩織の様子を窺っていた。詩織は意外にも大人しく、一言も発さずにじっと座っている。わきまえている、と言っていいかもしれない。表情はあくまで淡々としている。だが、どうせ強がっているだけに決まっている。源治は志帆を一瞥してから、静かに口を開いた。「神宮寺さんのお気持ちだけ、頂戴しておきましょう。私はすでに江崎さんと合意に至ってお
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第364話

詩織はそこで初めて、柊也も自分に続いて部屋に入ってきていたことに気づいた。「ああ」「違います」二人の口から同時に、正反対の答えが飛び出す。文武がニヤリと笑った。「お二人さん、口裏合わせが済んでないようですね」詩織には柊也の意図がこれっぽっちも読めなかったし、それを推測する気も起きなかった。「江崎社長、まあそう固くならずに。乾杯しましょう。江ノ本随一の女性富豪に上り詰めたお祝いに」宏明が上機嫌で詩織にグラスを差し出す。すると、横から文武が口を挟んだ。「須藤さん、情報が古いですよ。トップはもう入れ替わったんです。今の首位は、賀来社長の婚約者、柏木さんですよ」今朝更新されたばかりの情報なのだから、宏明が知らなくても無理はない。「こりゃ失敬、私の勉強不足でした。ですが、江崎社長への敬意は変わりませんから」悪びれもせず笑い飛ばす宏明に、詩織は「車で来ているので」と断り、茶で返礼しようとした。だが、それより一瞬早く、誰かの手が横から伸びてきて、彼女の目の前のグラスをさらい取った。その手には、火傷保護用の弾性グローブが嵌められている。「彼女は車だそうだ。俺が代わりに頂く」柊也だった。詩織は一瞬動きを止め、初めてまともに柊也の顔を見た。どういうつもり?私の酒を肩代わり?何かの間違いじゃないの。詩織が拒絶する間もなく、柊也はグラスの中身を喉に流し込んでしまった。だが、感謝など湧いてこない。むしろ余計なお世話だとさえ思う。酒くらい、誰の助けも借りずに自分で断れる。「柊也くん、どうしてここに」詩織が口を開く前に、志帆の声が響いた。彼女も通りがかりに柊也の姿を見つけ、顔を出したらしい。……なんだ、一緒に来たわけじゃなかったのね。「ちょうど柏木さんの噂をしていたところなんですよ。やっぱり、賀来社長は柏木さんとご一緒だったんですね」文武が気を利かせて志帆に席を勧めた。だが、志帆は笑ってそれを否定する。「いいえ、私は別の会食で来ていたんです。柊也くんもここにいたなんて、本当に偶然で」そう言うと、彼女は少し甘えたような口調で柊也を責める。「水臭いじゃない、柊也くん。一言教えてくれれば、私も皆様にご挨拶に伺いましたのに」「君の仕事の邪魔をしたくなかったからな」先ほどまでの冷たい声音が嘘のよ
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第365話

彼は源治に拒絶されたことを思い出していた。あれほど鮮やかに、まるで詩織以外はあり得ないと言わんばかりの態度で。最大の誠意を見せたはずなのに、源治の心は微動だにしなかった。悠人はどうにも納得がいかず、去り際の源治に単刀直入に問い質していた。「真田さんは、江崎社長がいるから我々との提携を拒むのですか」源治の答えは明快だった。「その通りです」「あなたは公私混同をしない方だと思っていましたが」「無論です」源治は誠実に答えた。「しかし、相手にもよります。江崎さんは常に起業家の視点から問題を捉えていました。対して神宮寺さんと柏木さんは、終始投資家としての視点しか持っていない。それが決定的な違いです。起業家が必要としているのは、単なる資金援助だけではないんですよ」源治の意思は固く、悠人は選択を迫られていた。だが、彼には志帆をこのプロジェクトから外すという選択肢はなかった。ホテルに戻った悠人が次の一手を思案していると、父親の神宮寺悠玄(じんぐうじ ゆうげん)から電話が入った。明日午後に江ノ本市に到着する。その後、高村静行教授のもとへ挨拶に行くので同行せよとのことだった。悠人は承諾した。……その夜、詩織のもとに百合子から連絡が入った。事業計画書に目を通し、大いに満足したという。さらに彼女は、あんな退屈な書類をどうやってこれほど面白く、人の心を打つものに仕上げたのかと尋ねてきた。詩織は少し考え、こう答えた。「ある人から、事業計画書は『ラブレター』だと思って書けと教わったの」百合子はその表現を初めて耳にしたと言い、感嘆とともに深く同意した。確かに、事業計画書の目的は投資家の心を動かし、プロジェクトに興味を持たせることにある。意中の女性に振り向いてもらうためにラブレターを書くように、相手の琴線に触れる内容でなければ、選ばれることはないのだ。百合子と来週の買収案件についての面談を取り付けた直後、今度は京介から着信があった。明日、高村教授のもとへ同行できるかという打診だ。詩織は即答した。たとえ時間がなくとも、無理にでも作るつもりだった。「じゃあ、明日迎えに行くよ」「うん、待ってる」翌日、京介は時間通りに華栄の本社ビル前に現れた。その手には一束のひまわりが抱えられている。「この近くで花屋を見かけて
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第366話

電話の向こうの悠人は、実はすでに『東方庭園』のエントランスに到着していた。だが、ロビーを横切ろうとしたその時、見慣れた後ろ姿が目に飛び込んできた。彼は思わず足を止め、喉まで出かかっていた「もう着きました」という言葉を飲み込んだ。「父さん、急用ができた。少し遅れる。先生には申し訳ないけど、よろしく伝えてくれ」悠玄が何か言う隙も与えず、悠人は通話を切った。そして、その人物――志帆の目の前に立った。「先輩」志帆は驚いたように顔を上げた。「あら、食事?」「うん。先輩も?」「私もよ」悠人は少し間を置いて尋ねた。「待ち合わせ?」「うん」志帆は急いでいる様子で、それ以上会話を広げようとはしなかった。悠人は本当はもっと話していたかったが、引き止めるわけにもいかず、未練を押し殺して告げた。「じゃあ、邪魔しちゃ悪いね。また今度、食事でもどうかな」「ええ、ぜひ」志帆は足早に去っていった。悠人はその場に立ち尽くし、彼女の背中が見えなくなるまで見送った。あと十日もすれば、彼女は賀来柊也と婚約する。そうなれば、自分は彼女の世界から完全に退場することになるだろう。何度も彼女に問いかけたかった。賀来柊也と一緒にいて幸せなのか、と。だが、言葉はいつも喉に張り付いて出てこなかった。幸せに決まってる。柊也の彼女への溺愛ぶりは、誰の目にも明らかで、隠そうともしていない。稼ぎ頭の会社を無償で譲渡するなんて芸当、自分には到底真似できない。認めざるを得ない。自分は賀来柊也に負けたのだと。胸に重く澱んだ感情を吐き出すように、悠人は喫煙所へと足を向けた。煙草でも吸わなければ、気持ちを落ち着けられそうになかった。個室内。詩織がただの友人だと名乗ったため、悠玄はそれ以上深く追求せず、静行との会話に戻った。去年の株式市場におけるクオンツ取引の話題だ。「そういえば、教授には改めて礼を言わなきゃならん。まだうちが吹けば飛ぶような零細企業だった頃、深刻な資金難に陥りましてな。一か八かの賭けで教授に泣きついた。あの時、あんたの戦略モデルが市場のトレンドを見事に弾き出してくれたおかげで、わずかな元手で莫大な利益を生み出し、起死回生を図ることができた。今日のグループがあるのはあんたのおかげだ。乾杯させてくれ」静行は手を振って謙遜し
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第367話

詩織は恨めしげに彼を睨んだ。京介の顔には、隠しきれない笑みが広がっていた。静行の語り口を聞き、悠玄も深く同情した面持ちで嘆息した。「そいつは惜しいことをしたな。まさか女性だったとは。今の口ぶりだと、まだかなり若いのでは」「ああ。早熟の麒麟児だったよ。あの戦略モデルを構築したのは、わずか十六の時だ」悠玄は息を呑んだ。「そ、それは……天才じゃないか。もったいない、実にもったいない話だ。そのままその道に進んでいれば、今頃はウォーレン・バフェットの再来と言われていただろうに」静行は重く長い溜息をついた。「運命は残酷だ。恋に現を抜かす馬鹿者にはな」「ゴホッ、ゴホッ……」立て続けにむせ返る詩織を見て、悠玄が心配そうに声をかけた。「お嬢さん、どこか具合でも悪いのかね。私も気管支炎を患っていた時、よくそうやってむせたもんだが」「いえ、料理が少し辛かったもので」詩織は今すぐテーブルの下に潜り込みたい気分だった。その時、救いの神のごとくスマートフォンが鳴った。通話に出た詩織の顔色が、相手の言葉を聞いた瞬間に一変した。「すぐ行きます」詩織は席を立ち、申し訳なさそうに静行と悠玄に頭を下げた。「申し訳ありません。急用ができてしまいましたので、中座させていただきます」「行ってこい」静行が鷹揚に頷く。京介が声をかけた。「車ないだろ、送るよ」「だめよ。あなたは……せんせ……高村教授のお相手をしてて。私一人で行けるから」「じゃあ俺の車を使え」京介はキーを放って寄越した。今度は遠慮せず、詩織はキーを受け取ると足早に去っていった。彼女が去った後も、悠玄はその「消えた天才」への未練を断ち切れない様子で、どうやってそんな逸材を見出したのかと静行に尋ねた。静行は包み隠さず答えた。「十四歳で全国数学オリンピックのジュニア部門を制したんだ。強固な論理的思考力と分析力を備えていた。確かな数学的素養は、投資リスクの理解と評価に役立つ。データを通じて、誰よりも合理的な判断を下せるということだ」「その能力は、どんな業界でも通用するでしょうな」かつて、静行は彼女をさらに高みへと導くつもりだった。惜しむらくは……悠玄もまた、深い喪失感を覚えた。数学オリンピックの覇者となれば、もはや次元が違う。あの競技は育成などしない。あるのは
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第368話

都内の総合病院。医師から源治が危険な状態を脱したと告げられ、詩織は深く安堵の息を吐き出した。駆けつけてくれた家政婦には「あとは私がいますから」と先に帰るよう促し、彼女は一人、源治の意識が戻るのを待つことにする。その間、京介からこちらの状況を案じるメッセージが届いた。詩織は【友人が突然倒れたのですが、処置が早かったので峠は越えました】と返信する。すると京介は、さらに病院の場所を聞いてきた。どうやら見舞いに来るつもりらしい。詩織は病院の位置情報を彼に送信した。京介が病室に到着したのとほぼ同時に、源治が目を覚ました。詩織が心底心配そうな表情を浮かべているのを見て、彼は申し訳なさそうに眉を寄せる。「江崎さん……ご迷惑をおかけしました」「そんなこと言わないで。まずは体を治すことだけ考えて。体が資本なんだから」詩織は自分を責める彼を諭すように言った。源治は力なく苦笑する。「心臓が悪いんです……遺伝性の持病で」ただ、源治には疑問があった。なぜ詩織は、彼が自宅で倒れたことをこれほど早く知ることができたのか。「以前、ご自宅に伺った時、サイドテーブルの上に心臓の薬が置いてあったでしょう?気になって、家政婦さんに頼んでおいたの。契約外の手当は払うから一日に何度か多めに様子を見に寄って、もし何かあったらすぐに私に連絡してほしいって」彼の疑問を察したのか、詩織の方から種明かしをした。源治の妻子は地方の実家に帰っており、都内の自宅には彼一人しかいなかった。普段出入りするのはパートの家政婦だけだ。詩織はその家政婦に根回しをしていたのだ。まさか、その悪い予感が的中するとは。もし詩織の細やかな気配りがなければ、発見が遅れて取り返しのつかないことになっていただろう。源治は改めて背筋が凍る思いだった。彼はまだ三十五歳、子供もようやく五歳になったばかりだ。今、自分に万が一のことがあれば、家族の生活は音を立てて崩れ去ってしまう。今回、九死に一生を得たのは、ひとえに詩織の機転のおかげだった。「江崎さん、あなたは命の恩人です」源治は心底からの感謝を口にした。詩織は「そんな大袈裟な」と彼を制し、今は養生することだけを考えてほしいと伝える。彼女は源治のために評判の良い付き添いの看護師を手配し、くれぐれも無理をしないよう念を押して
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第369話

太一は詩織の姿を認めるなり、反射的に身を隠そうとした。だが、何かを思いついたように足を止め、意地悪な笑みを浮かべる。彼の視線は、詩織の手にある保温ジャーに注がれていた。まるで格好の憂さ晴らしの相手を見つけたと言わんばかりに、彼は口を開く。「へえ、プライド高いフリしてても、結局はそれかよ。今まで散々お高くとまって見舞いにも来なかったくせに、いざとなればこれだもんな」太一はニヤニヤと嘲るように続けた。「今日は志帆ちゃんがいないって知ってるから、コソコソ来たんだろ?」詩織の瞳に冷ややかな色が滲む。「あなた、脚本家にでも転向したら?」その簡潔な一言が、太一の癇に障ったらしい。彼はすぐさま声を荒らげた。「なんだよ、図星だからって誤魔化すなよ!そのスープ、柊也への差し入れじゃないって言い張るつもりか?」相手にするだけ時間の無駄だ。詩織は無視して歩き出す。だが、太一はしつこく背後からついて回り、言葉のナイフを投げつけ続けた。「柊也が偶然お前を助けたからって、また勘違いして感動しちゃったわけ?ワンチャンあると思って、また媚び売りに来たんだろ」彼は軽蔑を隠そうともしない。「自意識過剰もいい加減にしろよ!」「柊也と志帆ちゃんはもうすぐ婚約するんだ。お前の入る隙間なんて一ミリもねえよ。無駄な努力はやめとけ」さらに彼は畳み掛ける。「だいたい、お前がいくら張り合っても無駄なんだよ。志帆ちゃんのほうが優秀なのは明白だろ!志帆ちゃんがAIをやればお前も真似して、港湾プロジェクトに手を出せばお前もししゃり出て、ゲーム開発まで後追いしてさ。で、結果はどうだ?志帆ちゃんのゲームは華々しくリリースされたのに、お前んとこは音沙汰なしじゃねえか」そこで太一は、さも大発見をしたかのような顔をした。「まさか、その全部が柊也の気を引くためのパフォーマンスなのか?」結局、江崎詩織という女は、昔と変わらず面倒な「かまってちゃん」なのだと、太一は結論づけたようだった。詩織は当初、彼のわめき声を野良犬の遠吠えだと思って聞き流すつもりだった。源治の見舞いを済ませたら、すぐに戻って会議に出なければならないのだ。だが、こうもしつこく噛みつかれては、さすがに鬱陶しい。詩織は不意に足を止め、凍てつくような視線を太一に向けた。さっきまで威勢よく吠えていた
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第370話

詩織の背中が見えなくなってもなお、太一は呆気にとられたまま立ち尽くしていた。行ってしまった。一度も振り向きもせずに。彼の脳内で組み立てていた「元カレへの未練タラタラの女」というシナリオとは、まったく違う展開だ。「行くぞ」柊也は閉まりかけたエレベーターのドアを手で押さえ、太一を促した。「あ、はい!」太一は我に返り、小走りでエレベーターに乗り込む。密室となったかごの中で、太一はかねてからの疑問を口にした。「なぁ柊也、今回はなんで志帆ちゃんと一緒に西川へ行かなかったんだ?『ドリーム・クラウド』のリリースイベントだろ、大事な晴れ舞台なのに」柊也は表情を変えずに答える。「いつまでも俺がついて回るわけにはいかないだろう。彼女も人の上に立つ者として、独り立ちすべき時だ」「うっわ、マジかよ。柊也、お前ホントいい男だな!」太一は感極まったように声を上げた。自分の推しているカップルの絆の深さを再確認し、たまらないといった表情だ。「やっぱ結婚するなら、お前らくらい愛し合ってないとダメだよなー」だが、柊也の関心はそこにはないようだった。「京介は最近、何をしている」不意に話題を変えられ、太一は首を傾げる。「さあな。帰国してから全然顔を見せないんだよ。誘っても毎回『用事がある』って断られてばかりで、何やってんだか」太一は不満げに愚痴ると、ついでに別の友人の名も挙げた。「譲もそうだよ。あいつも最近付き合い悪くてさ、全然捕まらねえ」「今夜、集まるぞ」柊也が短く言った。「あいつらを呼べ」太一はその言葉を待っていたと言わんばかりに目を輝かせた。「いいねぇ!だったら夜じゃなくて午後にしようぜ!志帆ちゃんの会見が四時くらいからだろ?みんなで集まって、こっちからリモートお祝いってことで!」「好きにしろ」柊也は特に興味もなさそうに了承した。そうと決まれば行動あるのみだ。太一はすぐさま連絡に取り掛かる。そして「全員強制参加だ。来なかった奴のところには毎日ウザ絡みしに行くからな」と、念押しの脅迫を加えることも忘れなかった。……詩織は源治の見舞いを終えると、そのまま会社へ戻った。午前中は会議に追われ、午後は誠とのビデオ通話で進捗確認を行う。画面の向こうの誠は、今、西川にいるという。現地の「猿の里」と呼ばれる野生動物保護区を取材し
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