All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 731 - Chapter 740

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第731話

澪士の手には、夕食の入った紙袋が提げられていた。テイクアウトとはいえ、中身は北里市でも屈指の高級レストランの料理だ。本来なら数ヶ月待ちの予約が必要な店だが、オーナーの一人である澪士にとってはどうということもない。澪士はすでに食事を済ませてきたらしく、詩織とミキが箸を進める横で、ソファに座ってスマホをいじっていた。「明日退院だろ?今後の予定は?もしよかったら、どこかパッと遊びに行かないか?」画面から目を離さず、軽い調子で澪士が提案する。「いいですね、行きましょう」詩織が即答した。ミキは箸を止め、驚いたように詩織を見た。「詩織、大丈夫なの?今週はずっと私につきっきりで仕事も溜まってるはずでしょ?これ以上休んで平気なの?」詩織は何も言わなかったけれど、ミキは気づいていた。彼女が自分の前ではスマホをマナーモードにし、かかってくる電話も最低限しか取らずにいてくれたことを。だからミキも、詩織の負担にならないよう、なるべく眠っているふりをしていたのだ。彼女が安心して仕事に戻れるように。「平気よ。ただ……私ってバカンスなんて柄じゃないから。澪士先輩、どこかおすすめはありますか?」詩織の返答に、澪士はニヤリと笑った。「その質問、待ってましたって感じだな」遊びにかけては、彼の右に出る者はいない。「任せとけ。気候も良くてリラックスできる最高の隠れ家を用意してやるよ。お姫様たちを極上の楽園に案内することを約束する」その夜、ミキが寝息を立て始めたのを見届けてから、詩織は澪士を送るのを口実に、彼と共に病室を抜け出した。廊下に出た途端、彼女の声から温度が消えた。「先輩、プールの件はどうでした?」澪士は小さく首を横に振った。「ダメだ。ピンポイントで監視カメラの死角だった。何も映ってない」ミキが発見されたのは更衣室の中。プライバシー保護のためカメラがないのは当然だ。だが、ミキが誰かに背中を突き飛ばされたのは紛れもない事実だ。詩織が悔しさに眉をひそめると、澪士は諭すように言った。「証拠がないから法で裁けないってだけだろ? 犯人が誰かはわかってる。だったら、やりようはいくらでもあるさ」彼の瞳の奥に、危うい光が宿る。「信じろよ。警察に突き出すだけが能じゃない。ムショにぶち込むより、もっと面白い地獄を見せ
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第732話

白彦の背中が見えなくなると、執事は深く溜息をつき、サワを宥めにかかった。いつまでもこれでは体が持たない、と。「自業自得だよ!あの子が殺したようなものじゃないか。由木家にとって、待望のひ孫だったんだよ……あんな愚かな真似をして失ってしまうなんて、どうして許せるもんかね!」見ることも叶わなかった曾孫を思うたび、サワの胸は張り裂けそうになる。だが、どれほど罵ろうとも、手塩にかけて育てた白彦もまた、愛しい孫であることに変わりはない。「……何か軽いものを作らせておきなさい。後でこっそり持って行ってやるように」執事が仏間に食事を運んできたが、白彦は「腹は減っていない」と短く告げ、盆を下げさせた。執事は深く嘆息し、見るに見かねた様子で口を開いた。「白彦……ミキ様は本当に出来たお方でした。あの方がいらっしゃると、サワ様もいつも笑顔でねえ。私どものような使用人にもお優しくて、私の膝が悪いのを知って、わざわざ良い先生を探してくださったこともありました」執事は諭すように、静かに問いかける。「どうして、あの方と手を取り合って生きていけないのですか」白彦の返答は、沈黙だけだった。彼が今、何を考えているのかは誰にもわからない。執事は諦めたように肩を落とし、仏間を後にした。広間に戻ると、サワの怒声が響き渡った。「叩き出しなさい!」サワの身を案じた執事が慌てて駆け寄ると、使用人たちが困惑した顔をしている。どうやら璃々子がこの家に押し掛けてきたらしい。サワは胸元を押さえ、悲憤に声を震わせていた。「あの女に伝えてきな!あたしが死んでも、この家の敷居は跨がせないとね!」「わ、わかりました。すぐに行って参りますから、どうかお気を確かに」執事はサワをなだめ、これ以上血圧が上がらぬよう急いで玄関へ向かった。璃々子がここに来たのは、白彦と連絡がつかないからだった。執事からサワの言葉を伝えられると、彼女は殊勝な顔を作り、涙ぐんでみせた。「……そんなつもりじゃなかったんです。ただ、白彦兄さんがご無事かどうか心配で」その白々しい演技には、長年仕えた執事さえも虫唾が走る思いだった。白彦が罰の正座を終えて広間に戻ってきたのは、それから間もなくのことだ。璃々子が来ていたことは察しているのだろう、その表情は優れない。薬を飲んで呼吸を整えた
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第733話

結果は同じだった。ミキは完全に、彼らとの繋がりを断ち切っていたのだ。「着信拒否か……」白彦が呆然と呟くと、サワが怒りを爆発させて彼の胸を叩き始めた。「ほら見なさい!あんたのせいで、あの子は私まで拒絶したんだよ!ミキちゃんを返しておくれよ!」白彦は避けることもせず、サワの拳をただ無言で受け止めていた。昨夜から一睡もできず、胸を支配していた漠然とした不安。嫌な予感は、どうやら的中してしまったらしい。なんとか祖母をなだめすかして家へ送り届けると、白彦はすぐさまミキの足取りを追った。江ノ本方面も含め、ありとあらゆるツテを使って探し回った結果、判明したのは実に拍子抜けする事実だった。──彼女は詩織と共に、海外旅行へ発ったらしい。ひとまず安否が確認できて、白彦はどっと安堵の息を吐き出した。だが、安心と背中合わせに、得体の知れない喪失感が胸の奥からせり上がってくる。ただの気晴らしだろう。彼はそう自分に言い聞かせた。そのほうがいい。俺に対して怒りを抱えたまま家に閉じこもっているより、よほど健全だ。流産後の養生にストレスは大敵だというし、心が晴れれば、あの忌々しい離婚の話も沙汰止みになるかもしれない。会社に戻るなり、白彦は秘書を呼びつけ、自身の個人口座から10億円をミキの口座へ送金させた。それからスマートフォンを取り出し、LINEのトーク画面を開く。言いたいことは山ほどあった。だが、文字を打っては消し、また打っては消しを繰り返すばかりで、指先は迷い続ける。散々悩んだ挙句、送信したのはたった一言だった。【楽しんできて】送信ボタンを押した直後、画面には無慈悲なマークが表示された。「メッセージの送信に失敗しました」──ブロックされている。白彦は愕然と画面を見つめた。……澪士推薦のリゾート地は、まさに「楽園」と呼ぶにふさわしい場所だった。到着した瞬間、ミキと詩織はその絶景に言葉を失い、俗世の憂さなど消し飛んでしまったほどだ。ミキの言葉を借りるなら、こうだ。「クズ男なんか知ったことか!男なんてどうでもいい!」世界はこんなに広くて美しいのに、たかが男一人のことで思い悩むなんて馬鹿げている。「先輩、どうやってこんな素敵な場所を見つけたんですか?」コバルトブルーの海を眺めながら詩織が尋ねる
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第734話

「へえ、ロマンチック!そこには行けないんですか?」ミキは目を輝かせて尋ねたが、コンシェルジュは申し訳なさそうに首を横に振った。「あいにくですが、完全なプライベートアイランドですので、一般のお客様は立ち入りできません」「そっかぁ、残念……」「そんなに行きたいなら、帰国したら調べてみるよ。もしかしたら売りに出てるかもしれないし」「……」ミキは絶句した。いや、観光したいだけで、買収したいわけじゃないんだけど!とはいえ、富豪の親友を持つというのは──正直、悪くない気分だ。ミキが夢中で貝殻拾いに戻ると、詩織はふと顔を上げて沖合に目を凝らした。ここからだと、ちょうど二つの島影が夕焼けの中で重なり合っているのが見える。なるほど、あれが汐里島か。潮が満ちて寄り添う二つの島──名前の由来もあながち嘘ではなさそうだ。詩織は構図を決めてスマートフォンで数枚撮影すると、何気なくSNSに投稿した。二人がリゾートホテルに戻ると、ちょうど澪士が船釣りから帰還したところだった。彼の釣果のおかげで、夕食のテーブルには豪華なシーフード料理が所狭しと並んだ。「わあ……美味しそう」ミキは歓声を上げたものの、そっと自分のお腹をさすって溜息をついた。「でもこれ、後でダイエットするのが地獄だなぁ……」「お前、全然太ってないだろ。これ以上痩せてどうするんだ?」澪士が心底不思議そうに尋ねると、ミキは真顔で返した。「私、モデルですよ?モデル業界がどれだけ残酷な修羅場かご存知ないんですか」「へえ、どれだけ残酷なんだ?言ってみろよ」澪士はニヤリとして身を乗り出す。彼は決して会話を途切れさせず、相手に喋らせるのが上手い。そして巧みに思考を誘導して、ミキに鬱々とする暇を与えないのだった。おかげで詩織も肩の荷が下りる思いだ。ふと、詩織のスマートフォンが鳴った。小春からのメッセージだ。【詩織お姉ちゃん、あさってのコンクール、一緒に来てもらえないかな?】詩織は即座に了承の返信をした。ここ最近はミキに付きっきりで、小春のことを構ってあげられなかった。その罪悪感もあった。だが明後日となると、今日中にはここを発たなければ間に合わない。食事の席でそのことを切り出すと、ミキは明るく背中を押してくれた。「私なら大丈夫だから行ってあげて!もうちょっとここで遊
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第735話

以前、太一は掛川に尋ねたことがある。いったい何があれば、あそこまで重篤な心の病を患うことになるのか、と。その時、掛川は言葉を選びながらこう答えた。「……詳細はお話しできませんが、これだけは言えます。彼は私が医師になって以来──いや、私が知るあらゆる症例の中で、最も過酷な運命を背負わされた患者です」掛川は苦々しげに続けた。「以前は『復讐』という目的意識を植え付けることで、生きる気力を繋ぎ止めてきました。それで数年は持ちこたえた。ですが今は……正直、彼を導くための治療法が見つからない」すべての根源は、柊也の母にまつわる事件にある。世間一般、そして太一たち友人が知っているのは表向きの事実だけだ。「かつて賀来家の夫人・薫子が、海外でテロリストによる拉致事件に巻き込まれた」ということ。当時、成人したばかりの柊也は、意気揚々たる若き後継者だった。薫子はそんな彼に経験を積ませようと、海外での大型プロジェクトの交渉に同行させたのだ。だが──そこで悲劇は起きた。結果として薫子は亡くなり、柊也はそのまま一年間、海外に留まった。帰国した時、彼はまるで別人のように変わり果てていた。その虚ろな瞳を見た時、太一は初めて理解したのだ。「少年時代の無垢な輝き」というのは、一度失われれば二度と再生しない資源なのだと。その後、彼の隣に詩織という存在が現れた。彼女のおかげで、柊也は生気を取り戻したように見えた。ビジネスの世界で頭角を現し、太一が最も憧れる「賀来柊也」として返り咲いたはずだった。だが結局、それも砂上の楼閣に過ぎなかったのだろうか。蜃気楼のように、すべては幻だったというのか。「……こうなったら、薬の量を増やすしかないかもしれません」電話口で掛川が絞り出した解決策は、それだけだった。太一は音もなく深い溜息をついた。もし江崎がいてくれれば……そんな詮無い願いが頭をよぎる。すると、まるで天がその願いを聞き届けたかのように、譲からメッセージが届いた。【お前、詩織さんと一緒にバカンス中なのか?】太一は目をパチクリさせた。はあ?江崎が俺たちと一緒にいるわけないだろ。むしろいてくれたらどれだけ助かるか!即座に否定すると、譲から一枚のスクリーンショットが送られてきた。詩織のSNS投稿だ。【だってこれ、お前がいる島だろ?】
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第736話

五分後、柊也は野椰子島へと向かうスピードボートに飛び乗っていた。水平線が太陽を呑み込み、最後の陽光が海に溶けていく。空はすぐには闇を選ばず、茜色から群青色へと移ろう、この世の果てのような美しさに満ちていた。詩織の乗る客船が、ちょうど汐里島の沖合を通過する頃だった。彼女はデッキの手すりにもたれ、美しい夕焼けを背景に浮かぶ島の写真を撮り、ミキに送信した。【見て。夕日と重なって、本当に二つの島が寄り添ってるみたい】すぐに返信が来る。【ロマンチックだねー!でもさ、あの島の名前、誰が付けたんだろ?ほら、橋のところにローマ字で名前が出てるよ】詩織は目を凝らした。二つの島を繋ぐ架け橋の上に、真っ白な石で造られたアルファベットのモニュメントが見える。『Shiori』──Shiori?汐里島だから、Shiori。当然の表記だ。だが、詩織の心臓はドクンと早鐘を打った。自分の名前が、あの美しい島に刻まれている。まるで私自身が呼ばれているような、奇妙な感覚。彼女はすぐに首を振り、湧き上がった自意識過剰な考えを打ち消した。たまたまだ。偶然、音が同じだけのこと。ミキから続けてメッセージが届いた。【江ノ本に戻るの?それとも直接、G市へ?】【直接G市に行くよ。小春ちゃんとは現地で合流する予定だから】【了解。気をつけて行ってらっしゃい。着いたら連絡してね】時を同じくして、柊也を乗せたボートも野椰子島への距離を縮めていた。彼の表情には、これまで見たこともないような焦燥が浮かんでいる。ふと、後部座席にいた太一が遠ざかる汐里島を振り返り、気になっていた疑問を口にした。「なあ柊也。お前、なんであの島に『汐里島』なんて名前つけたんだ?まあ、いい名前だよな」柊也は何も答えない。おそらく彼の全神経は詩織のことだけに向いていて、太一の問いなど耳に入っていないのだろう。太一の視線が、再び島のモニュメント『Shiori』に留まった。Shiori……汐里(しおり)島……太一の脳裏に、以前、新会社の社名について尋ねた時の記憶が蘇る。『どうして『栞』にしたんだ?やっぱり江崎から取ったのか?』あの時、柊也は「適当につけただけだ」とシラを切ったが、その瞳には明らかな執着が宿っていた。太一は口元を手で覆い、天を仰いだ。会社名だけじゃ
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第737話

あのクズ男に詩織を会わせる?冗談じゃない。逆立ちしたって、二度とあの子の視界には入れさせないわ。空港へ到着するなり、柊也は江ノ本行きゲート目掛けて猛ダッシュした。だが、その懸命な努力も虚しく、スタッフが告げたのは「当該便は五分前に出発いたしました」という無慈悲な事実だった。追いついてきた太一は、肩で息をしながらも柊也を慰める。「まあそう気を落とすなって。次の便は二時間後だ。一度江ノ本に戻れば、同じ街にいるんだし会う機会なんていくらでもあるだろう?ゆっくり構えろよ」「……一秒たりとも待ちたくない」「……」その殺気に満ちた一言に、太一は口をつぐんだ。これ以上何を言っても無駄だ。二人が自動チェック券売機でチケットを購入し、保安検査場へと向かう途中、ふと場内アナウンスが響いた。『――G市行きの〇〇便は、まもなく離陸いたします……』柊也の足が一瞬だけ止まる。太一が怪訝そうに振り返った。「どうした?」「……いや、なんでもない。行くぞ」柊也は小さく首を振り、再び歩き出した。G市。到着ロビーに姿を現した響太朗を見て、詩織は驚きを隠せなかった。まさか、彼が自ら迎えに来てくれるとは。響太朗の話では、彼もまたちょうどG市に戻ってきたばかりで、詩織の到着時刻を知り、ついでに寄ってくれたのだと言う。実家へと向かう車中、響太朗がふとAIプロジェクト『ココロ』の話を切り出した。先日、仲介者を通じて先方の責任者を紹介したいという打診があったらしい。「別に、大したことじゃありません。ただ、縁が切れただけです」詩織は淡々と答えた。人間関係ですら、永遠などありえない。ましてやビジネスパートナーとの契約なら尚更だ。詩織が思いのほかさっぱりとしている様子を見て、響太朗はそれ以上深くは追求しなかった。もちろん彼としては、既に裏で手を回してある。このG市エリアにおいて、『ココロ』がビジネスを展開する道は完全に閉ざした。もし向こうの責任者が賢く、状況を読める人間であれば、二度と裏切ろうなどという愚かな真似はしないはずだ。もっとも、世の中には予測不能な事態というものも存在する。詩織自身にその覚悟さえあれば、それで十分だろう。車がG市内にある高坂邸の門をくぐったところで、響太朗のスマートフォンが鳴った。応答するなり、彼の表
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第738話

【そうね。生きていてこそ、すべてに意味があるもの】かつて柊也に死刑の可能性が浮上した時、詩織もまた混乱の極みにあった。彼と絶縁し、二度と会えなくなること自体は受け入れられても、「この世からいなくなる」ことなど想像すらできなかった。どんなに憎んでいたとしても、彼が死ぬことまでは望んでいなかったのだ。江ノ本空港に到着したのは、深夜を回ってからだった。太一は駐車場から車を出してくると、助手席の柊也に尋ねた。「で、どうする?このまま江崎んち直行か?」柊也は少しの間のあと、まずは密に電話をかけた。深夜の電話に出た密は、完全に寝ぼけていた。「え……?詩織さん?まだ戻ってきてませんよ。G市へ行かれましたけど……」電話の向こうから、重苦しい沈黙が流れる。しばらくしてから、柊也は低く押し殺した声で「分かった」とだけ告げ、通話を切った。運転席で指示を待っていた太一は、柊也が無言で車を降り始めたのを見て慌てた。「おい、どうした?江崎んとこ行くんじゃねーのかよ」「……あいつ、G市へ飛んだらしい」柊也も、まさかミキに一杯食わされているとは思ってもみなかった。もっとも、今の状況はすべて自分の撒いた種だ。誰を恨むこともできない。空港を出たばかりの彼は、踵を返して再び出発ロビーへと向かった。G市行きの最短便を押さえるために。……コンクール当日、空はこれ以上ないほどの快晴に恵まれた。詩織は約束通り、小春を会場まで送り届けることにした。「ずっと外で待ってるから。終わって出てきたら、一番に見つけてくれるようにするわ」そう伝えると、小春はパッと顔を輝かせた。まるで夢が叶ったかのような表情だ。ここ数年、各地のコンクールを転戦してきた小春だったが、付き添いはいつも家政婦か警護の人間だけだった。他の出場者たちが家族に応援されているのを横目に、寂しい思いをしてきたのだろう。だが今日は違う。自分にも、迎えに来てくれる「家族」がいるのだ。「賞金もらったら、美味しいものご馳走してあげるね!」小春が意気込んで言うと、詩織は微笑んで「楽しみにしてる」と頷いた。だが、会場に到着した直後、運転手が不意に急ブレーキを踏んだ。後部座席にいた二人は態勢を崩し、前のめりにつんのめる。小春はとっさに手を伸ばし、詩織が前の座席にぶつ
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第739話

小春が試験に臨んでいる間、詩織は待ち時間を利用してパンフレットに目を通していたのだが、そこで初めて今回のコンクールのレベルの高さに戦慄した。出場者の大半は有名な理系大学院の修士や博士課程の学生ばかりだ。その中で、まだあどけない少女である小春は、文字通り最年少の参加者だった。会場のロビーで、詩織は偶然にも饒村玉良を見かけた。玉良の方も、こんな場所で詩織に会うとは思わなかったらしく、驚いた様子だった。詩織が家族の付き添いで来たことを告げると、彼は興味津々といった感じでさらに質問を重ねてきた。そして、その「家族」の名前が「高坂小春」――エントリー名『KOHARU』だと知るや否や、玉良の目の色が劇的に変わった。「君の身内が、あの『KOHARU』だって言うのかい?」普段は冷静沈着な玉良が、これほど取り乱すのを見るのは初めてだった。詩織が頷くと、彼はさらに身を乗り出して興奮気味にまくし立てた。「ずっと会ってみたいと思っていたんだ。方々手を尽くして探していたんだが、まさか君の縁者だったとは!江崎さん、頼む、是非とも紹介してくれ!」詩織は以前、智也を通じて玉良と知り合った。だからこそ、彼が国内のコンピュータ科学分野においてどれほどの権威かは重々承知している。その彼が、ここまで手放しで絶賛するとは……改めて、小春の才能の凄まじさを思い知らされた。玉良はさらに断言した。「この勝負、優勝はもう決まったようなもんだね」と。結果は、まさに玉良の予言通りとなった。小春は並み居る年上の強豪たちを薙ぎ払い、見事に優勝トロフィーをその手にしたのだ。小春は約束通り、詩織にご馳走してくれることになった。もっとも、そのテーブルには一人、飛び入り参加のゲストが増えていたが。饒村玉良である。食事中、小春と玉良が熱心に交わす会話の内容は、詩織にはさっぱり理解できなかった。どうやら高度なネットワーク技術やアルゴリズムの話をしているらしい、ということくらいしか分からない。食事が終盤に差し掛かった頃、響太朗がレストランに現れた。二人を迎えに来たのだ。彼は詩織の隣に腰を下ろすと、周囲には聞こえないよう、低い声で耳打ちした。「すまないが、少し芝居に付き合ってくれないか」詩織はすぐに状況を察した。さりげなく視線を巡らせると、案の定、店内
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第740話

隣にいた太一は、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張していた。できることなら、とっさに手を伸ばして柊也の目を塞いでやりたかった。だが、そんな勇気があるはずもない。結局、太一はおずおずと声をかけることしかできなかった。「しゅ、柊也……大丈夫、か?」聞いてから、なんて馬鹿な質問をしたんだと後悔した。大丈夫なわけがないだろう。柊也は一言も発しなかったが、その立ち姿からは生気がごっそりと抜け落ちていた。今の光景は、熱に浮かされていた彼の頭をハンマーで殴りつけ、一瞬にして冷水の中へと叩き落とすような一撃だった。全身の力が抜け、指一本動かせない。ただ、呆然と見送るしかない。何もできない。する権利すらない。胸の奥で鈍い痛みが膨れ上がり、肺を圧迫して呼吸すらままならない。詩織と響太朗を乗せた車が走り去り、テールランプが見えなくなるまで、彼は石像のようにその場に立ち尽くしていた。その憔悴しきった横顔を見て、太一は詩織を追いかけるよう焚きつけたことを後悔し始めていた。以前の柊也は、完全に希望を失い、ただ死んだように生きていただけだった。だが今の彼は違う。希望と絶望の狭間で何度も引き裂かれ、心を血肉の塊になるまでずたずたにされている。あまりにも残酷すぎる。「なぁ柊也、やっぱり島に戻らねぇか?」太一はどうにか声を絞り出し、諦めるよう促した。柊也はゆっくりと瞼を閉じた。全身を支配する脱力感が、痺れとなって指先まで広がっていく。しばらく石像のように動かずにいたが、やがて彼はぽつりと呟いた。「……戻らない」高坂邸へ戻る車中、響太朗は詩織に香川家との食事会について切り出した。香川家の当主――つまり百合子の父の誕生日祝いだという。節目となる大きな祝いではないため、親族だけでホテルに集まり、内輪の食事会を開く予定らしい。妻の百合子はこの世を去ったが、響太朗にとって香川家は依然として義理の実家であり、出席は避けられない。響太朗の頼みは、その席に詩織も同伴してほしいというものだった。再び「婚約者」を演じることで、静姫に引導を渡すためだ。「なんだかんだ言っても、彼女は百合子と血の繋がった妹だ。僕からは、あまり無慈悲な真似はできない」それが、香川家が静姫を精神科病院から退院させるのを黙認した理由だった
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