All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 751 - Chapter 760

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第751話

部屋に沈黙が落ちてしばらくした後、序は再び口を開いた。今度は別の名で。「菫(すみれ)」その瞬間、ベッドの上の女が跳ね起きた。「はいっ!」反射的に大きな声で答える。焦点の合わなかった瞳が、ゆっくりと目前の男を捉えた。序が白衣を着ていないからだろうか、彼女の纏っていた警戒心が幾分か解けたようだ。すがるような目で、救いを求めてきた。「お願い、ここから出して!私は狂ってなんかないの!無理やり連れてこられただけなのよ!私の婚約者はお金持ちだから、助けてくれたらお礼は十分にするわ!」序は無表情のまま、冷徹な事実を告げた。「ここはもう精神病院じゃない」「でも、さっき注射された!」志帆は怯えきった小動物のように身を縮こまらせた。その目には恐怖がありありと浮かんでいる。「あれは鎮静剤だ。お前を落ち着かせるためのもので、幻覚剤じゃない」「じゃあ、ここはどこ?」「本港市だ」彼女は混乱した頭を必死に働かせ、再び懇願した。「お願い、私のフィアンセに連絡して!迎えに来てほしいの、家に帰りたい!」「彼が待ってるのよ。私にプロポーズするつもりなの」「すっごく高価で綺麗なサファイアを買ってくれたのよ」「そう、彼の名前は……賀来柊也っていうの」鎮静剤が効き、志帆はようやく深い眠りに落ちたようだ。序が部屋を出ると、遥がスープを持って待ち構えていた。「お兄ちゃん、これ飲んで。体にいい生薬を混ぜておいたから、腎臓にも効くはずよ」遥は兄の部屋までついていき、彼がスープを飲み干すのを見届けないと気が済まないらしい。「あの人、寝た?」「ああ」序は眉間を揉んだ。最近は厄介ごとが続き、疲労が溜まっている。「で、結局どうなの?本当に気が触れてるの?」遥は好奇心を抑えられない様子だ。「最初は正気だったんだろうけどな。あんな場所に何年も閉じ込められてたら、誰だって狂うさ」序が淡々と答えると、遥は珍しく同情的な表情を浮かべた。「そっか……これからは少し優しくしてあげるね。腎臓を取られた上に、あんな所に監禁されるなんて、あまりにも可哀想だもん」遥は本来、なぜあの狂った女を引き取ったのか問いただすつもりだったが、序が苦痛に顔を歪めながら腰に手を当てたのを見て、疑問など吹き飛んでしまった。「また痛むの?お医者さん呼ぼうか?」
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第752話

拒絶されても、柊也はそれ以上何も言わなかった。タイミングよくエレベーターが一階に到着する。詩織は彼から視線を外し、迷いなく外へと踏み出した。振り返ることはしなかったし、彼がついてきているのかどうかも確かめなかった。車に乗り込む際、そこに柊也の姿はなかった。まだ本調子ではないようだったが、少なくとも昨日のように病室でうなされているよりはマシなのだろう。わざわざ自分の前に現れて存在をアピールするだけの気力はあるのだから。高坂の屋敷に戻ると、響太朗がいた。小春と夕食を済ませたばかりのようで、ちょうど医師から彼女の容態を聞いているところだった。小春はもともと繊細で心を閉ざしがちなところがあったが、百合子が亡くなってから、その症状が再発してしまっていた。響太朗は献身的にカウンセリングを受けさせ、ようやく回復の兆しが見えてきたところだ。彼女の才能を見抜き、専門の家庭教師をつけて将来の道筋を立ててやるなど、響太朗が小春に注ぐ愛情は並大抵のものではない。小春もまた、そんな彼を深く信頼し、日々健やかに成長していた。百合子が生きていれば、今の彼女の姿を見てどれほど喜んだことだろう。詩織に気づいた響太朗が、夕食は済んだかと声をかけてきた。まだなら作らせる、という彼に、詩織は「済ませた」と短く答える。響太朗は時計に目をやり、小春に「おやすみ」を告げてから、出かける準備のためにジャケットを手に取った。「高坂さん、一つだけ確かめたいことがあるんです」詩織が彼を呼び止める。「先に部屋に戻って、お風呂に入っておいで」響太朗は小春の頭を優しく撫で、二階へ行くよう促した。小春は素直に頷き、響太朗の頬にキスをしてから階段を上っていった。その姿が見えなくなったところで、響太朗が先手を打つように言った。「……例の拉致事件のことだね」彼が知っていることに、詩織は驚かなかった。護衛の大森は、もともと彼の息がかかった人間なのだから。「昨日、大森さんに聞きました。あの日、私を救い出したのは柊也だったと。どうして本当のことを隠していたんですか?」「柊也さんの希望だったんだ」響太朗は隠すことなく、率直に答えた。「君には、その事実を知らせないでほしいと彼が言った」「どうして……」詩織には彼の意図が測りかねた。「
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第753話

風呂上がりの詩織がベッドに入ると、小春が待っていましたとばかりにその胸元へ潜り込んできた。「今夜は少し残業するわ。音が気になるなら、これを使って」詩織が枕元の耳栓を差し出すと、小春は小さく首を横に振った。「ううん、大丈夫。音がしてても平気だよ」小春にとって、詩織特有の柔らかな香りに包まれていることこそが何よりの安らぎだった。その香りさえあれば、多少の物音など子守唄にすら聞こえる。詩織は膝の上にノートパソコンを広げ、小春を腕の中に抱きかかえながら作業を始めた。一通りの業務を片付けた後、詩織はふと思い立って「桐生キャピタル」について調べ始めた。代表の名は、小宮山序。設立からわずか三年のテック系企業だ。企業構造は驚くほどシンプルで、表立った関連会社も見当たらない。しかし、その成長速度は凄まじかった。たった三年で本港市の市場に食い込み、あろうことか中博のシェアまで一部奪い取っている。たとえそれが微々たる数字だとしても、新興勢力が天下の中博から牙城を崩したという事実は重い。明日、もう一度会社へ行って源治さんと話し合わなきゃ……詩織はパソコンを閉じ、明かりを消した。だが、静寂が訪れるとかえって意識が冴え渡ってしまう。闇の中でどれほど時間が過ぎただろうか。三十分後、詩織は再びスマートフォンを手に取り、柊也へ短いメッセージを送った。余計な句読点すら省いた、事務的な一文。【香川家に気をつけて】同じ頃、市内のホテル。「柊也、頼むからもうやめてくれ。今夜はこれでおしまいだ。グラスを空けたら大人しく寝てくれよ、な?」太一は最後の一滴をグラスに注ぎきり、半ば祈るような、情けない声で懇願した。「……眠れないんだ」柊也の瞳には、真っ赤な血走りが浮かんでいた。病み上がりだというのに無茶な深酒をして、体が保つはずもない。それでも彼は、昼間には平然とした顔をして中博のロビーで詩織を待っていたのだ。たとえ一言二言交わすだけのために、丸一日を棒に振ってでも。目を閉じれば、脳裏に浮かぶのは詩織の姿ばかり。いや、目を開けていても彼女のことしか考えられない。今の彼の世界には、もう詩織しか残っていないようだった。「明日も彼女に会いに行くのか?」太一の問いに、柊也は迷いなく答えた。「行く」
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第754話

世の中、恋をすれば金がかかると言うが、こいつの場合は友人を使い潰している気がしてならない。そのうち柊也が土下座でもしに行くことになったら、自分まで「連帯責任だ」なんて言われて横に並ばされるんじゃないか。太一は本気でそんな未来を予感していた。さすがにこの時間では市場も閉まっているため、柊也はなじみの高級料亭を叩き起こして、その日一番の鮮魚を強引に調達した。目利きをする手つきは驚くほど手慣れていて、過去に何度もこうして食材を選んできたことが窺える。それが、太一にはどうにも解せなかった。彼の知る柊也は、泣く子も黙る賀来家の御曹司だ。衣食住のすべてに傅き役がつき、何不自由なく育てられた、いわば「選ばれし者」。そんな天上の住人が、生活感の塊である台所仕事に精を出す姿など、想像できるはずもなかった。少なくとも、以前の彼は間違いなくそうだったはずなのだ。だが、柊也は迷いのない動作で出汁を引き、手際よく魚介を捌いていく。火加減や煮込みのタイミング、塩梅にいたるまで、まるで体に染み付いているかのようだ。太一は呆然と立ち尽くしたまま、土鍋から立ち上る湯気を見つめていた。「……柊也、お前マジかよ。本当に料理なんてできるのか?」漂ってくるのは、海の幸の旨味が凝縮された、どこまでも透き通った贅沢な香り。食通の太一ですら思わず喉を鳴らすほど、その雑炊は完成されていた。柊也は、価値観を根底から覆されて呆然としている太一を冷ややかに一瞥すると、事もなげに言い放った。「この程度で驚きすぎだ」彼ができるのは雑炊だけではない。胃に優しい煮込み料理やスープなど、数えきれないほどの献立を、わざわざ店に通いつめて習得していた。それも、かつて詩織がよく通っていた店だ。あの大事件の後、柊也は重度の不眠症を患った。強い睡眠薬に頼らなければ、一睡もできない夜が長く続いていたのだ。やがて詩織と過ごすようになり、症状はいくらか改善の兆しを見せた。だが、彼は溺れることを恐れた。安らぎに身を任せてしまえば、もう戻れなくなる。だからこそ、彼女を求めた後はいつも強引に身を引き、突き放すようにして距離を置いてきた。それでも、募る想いを抑えきれない夜はある。彼女に睡眠薬の常用を知られてしまったのも、そんな時だった。詩織は彼
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第755話

復讐の計画を実行に移すべく、彼は志帆との接触を意図的に図り始めた。志帆の歓迎会が開かれた夜のことだ。詩織の助手である小林密から、詩織が連日の接待でひどい胃病に苦しんでいると聞かされた。その夜、柊也はすぐさま例の店へと向かい、板前に頭を下げて胃に優しいスープの作り方を教わった。それからは、あらゆる滋養強壮のメニューを次々と習得していった。少しでも彼女の体が楽になるようにと、手を変え品を変え、丹精込めて煮炊きした。そうして長い時間をかけ、ようやく彼女の胃を健康な状態へと戻したのだ。やがて、自らが刑務所に入る日が近づいていることを悟った彼は、密に一つの命を下した。詩織が好むすべての献立を、完璧にマスターしろ、と。自分の手で甘やかしてしまった彼女の舌が、他の料理を受け付けなくなってしまうことを、彼は何よりも恐れていた。味見をしようとした太一の指は、柊也にピシャリと撥ねのけられた。「お前は出前でも取れ」「これだけ大量に作ったんだ、一杯くらい減ったっていいだろ!」太一は喉を鳴らして食い下がった。「それに、これだけの量、江崎一人じゃ食べきれないって。俺が夜中まで買い出しに付き合った功績を認めて、小鉢に一膳、いや、一口だけでも……」だが、柊也は親友の泣き落としを無慈悲に無視し、弱火に落とした土鍋の様子をじっと見守っている。計算では、朝の五時にここを出れば、ちょうど良い加減で詩織の元へ届けられるはずだった。結局、太一は一口の雑炊も勝ち取ることができず、観念して冷めた出前を啜る羽目になった。恨めしげな視線を柊也に突き刺しながら、太一は不満を漏らす。「なんで俺はダメなんだよ」「お前は詩織じゃない」「……はあ?じゃあ何、お前の手料理は世界で江崎専用だってのか?」柊也の沈黙が、それに対する何よりの肯定だった。それでも納得のいかない太一は、さらに食い下がった。「じゃあ、海雲おじさんは?おじさんにお前、飯を作ってやったことあるのかよ」「ないな」「……よし、ちょっと気が晴れた」一晩中、厨房に立ち続けた柊也が、ようやく椅子に腰を下ろした。出発までの時間を仮眠に当てるべく、アラームを設定しようとスマートフォンを取り出す。そこで彼は、隅に追いやられていた通知の中に、詩織からのメッセージがあることに気づいた。そ
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第756話

「今、優先すべきは香川家の動きだろ!」太一は語気を強めて釘を刺した。「奴らは間違いなく報復してくる。まずは身の安全を考えるのが普通だ」しかし、柊也は陶酔したような瞳で、淡々と言い放った。「香川など放っておけ。あいつらに何ができる。……もし、本当に奴らが俺に手を出したとして。そうなれば、詩織は少しは俺の方を見てくれるだろうか?」太一は天を仰いだ。重度の「恋煩い」という病に、効く薬などこの世にはないらしい。たった一言の短いメッセージが、柊也の胸に消えかかっていた希望の火を灯した。一睡もできぬまま、時計の針が午前五時を指すと同時に彼は家を飛び出した。詩織の滞在先へ到着したのは、六時を回る前だった。本港市の朝は早い。すでに目を覚ましていた詩織は、小春と一緒に朝食のテーブルについていた。食事の途中で、遥から電話が入る。かつての恩を返したいから、ぜひ食事を共にしてほしいという誘いだった。詩織は断るつもりだったが、遥が言葉を継いだ。「兄も一緒なんです。以前、パーティーで見かけた時から、一度ゆっくりお話ししたかったみたいで」あの日、そんな人物がいただろうか。記憶を辿ってみたが、心当たりはない。「お兄様のお名前は?」「序です。小宮山序」詩織は片方の眉を上げた。なんという偶然だろうか。彼女はその誘いを受けることにした。そこへ、高坂家の執事が控えめな足取りでやってきた。「詩織様、表に賀来と名乗る方がお見えです」本港市で知り合いなどそう多くはない。詩織はすぐに、それが柊也であることを察した。「留守だと言ってくださる?」彼女は迷わず拒絶した。しかし、執事は困ったように言葉を濁す。「……恐らく、中にいらっしゃるのを承知の上で訪ねてこられたご様子ですが」「だったら、『お会いしません』と伝えて」今は、彼と一分一秒たりとも関わりたくなかった。執事が一度下がるのを見届けてから、詩織は二階へ戻った。仕事用のパソコンを手に取り、一階に降りて作業を始めようとした時、先ほどの執事が袋を手に戻ってきた。「詩織様、あちらの賀来様からこれをお預かりしました。ぜひ、温かいうちにお召し上がりくださいとのことです」詩織は無表情のままノートパソコンを立ち上げた。「それは、そちらで処分しておいてください」「
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第757話

遥と序の兄妹を見送り、詩織が車に乗り込むと同時にミキから着信があった。電話の向こうのミキは、開口一番「いつ江ノ本市に帰ってくるの?」と訊ねてきた。「来週かな」と詩織は答える。「今週の金曜に『スターライト・チャリティの夜』があるから」それは百合子が生前に設立した基金が主催する、伝統あるチャリティ晩餐会だった。今年は中博がメインスポンサーを務めている。百合子が最も信頼を寄せていた一人として、そして現在の中博の責任者として、詩織が欠席するという選択肢はなかった。「相変わらずの仕事人間ね」ミキの呆れたような声に、詩織はふっと口角を上げた。「私がバリバリ稼いで養ってあげるから、あなたは優雅に美しくしてればいいの。最高でしょ?」「それはもう、最高すぎるわ!」ミキの弾んだ声が返ってくる。「そっちはどう?うまくやってる?」「絶好調よ!」自分の言葉を証明するように、ミキが楽しそうに叫んだ。「野椰子島がこんなに癒やされる場所だなんて知らなかったわ。海釣りまで覚えちゃったんだから!この前なんてクロマグロを釣り上げたのよ。凄くない?」電話越しでも、ミキの心の晴れやかさが伝わってくる。「やるじゃない。今度、じっくり自慢話を聞かせてね」「もちろん!」ミキは胸を叩くような勢いで請け合った。それから、少しだけトーンを落として、しみじみと呟く。「……詩織、あなたがいてくれて本当によかった」「あなたが救ってくれて、この島が私を癒やしてくれた。今は世界がすごく綺麗に見えるわ。私を不快にさせる人間も物事も、みんな消え失せればいいのよ」「島があなたを救ったんじゃないわ。あなたがその島で、自分を許してあげたのよ」詩織はかつて自分に言い聞かせた言葉を繰り返した。物事は必ずしも勝つ必要はない。その場から抜け出すことさえできれば、それで解決することもあるのだ。「そうね。自分よりも他人を愛しすぎるなんて、結局はバチが当たるのよ」ミキの心は、もう完全に凪いでいた。彼女は詩織に決意を告げた。「峰岸弁護士に連絡したわ。白彦との離婚交渉を任せることにしたの」人間関係は、カードゲームに似ている。白彦は最強のカードを握りしめ、自分が場を支配していると思い込んでいるのだろう。けれど、彼は忘れている。彼女には「テーブルをひっくり返して
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第758話

その瞬間、世界の喧騒が遠のき、静寂が二人を包み込んだ。絶え間なく降り続く雨の音さえも、二人を繋ぎ止める甘美な調べのように響いていた。太一は機転を利かせ、手にしていた傘を柊也に押しつけると、自分は雨を避けるように車へと逃げ帰った。柊也は傘の柄を握り直し、一歩、また一歩と詩織の方へ歩み寄る。その静謐で端正な横顔に、かすかな感情のさざ波が立っていた。詩織がドアノブに手をかけた、その時。外に立つ柊也が、それを制するように先に口を開いた。長い間沈黙していたせいか、その声はひどく強張っている。「降りなくていい。雨だ、濡れてしまう」詩織の指先が、わずかに強張った。彼女は、すぐ間近まで迫った男を仰ぎ見る。落ちかかる夜の帳の中、斜め前方から街灯が二人を照らしていた。光と影の境界に佇む柊也の顔は、半分が淡い光に透け、もう半分は深い闇に沈んでいる。「柊也。……一体、何のつもりなの?」詩織はついに、そう口にした。声には隠しきれない困惑、そして何より、募るばかりの苛立ちが混じっていた。ここは高坂家の屋敷だ。今の彼女は響太朗の婚約者という立場にある。柊也のこうした振る舞いは、彼女にとって単なる迷惑でしかない。余計な火種になりかねないことを、彼女は釘を刺しておく必要があった。「夕飯は、食べたか?」柊也は問いには答えず、ただ穏やかな声でそう訊ねた。詩織は不快そうに眉を寄せる。「病院で、話は済んだはずよ。こんなことをして、何の意味があるの?」柊也は、絞り出すような溜息を漏らした。「……なら、教えてくれ。俺はどうすればいい?」今の彼には、もう何の術も残されていなかった。あの一通のメッセージが、彼に希望を見せたはずだった。けれど、彼女は面会を拒み、彼が一晩中、納得がいくまで出汁をとり続け、ようやく作り上げたあの海鮮雑炊を捨て、車で通り過ぎる際も一瞥だにくれなかった。本当に、手詰まりだった。「言ったはずよ。無意味なことはやめて。あなたほどの立場なら、もっと若くて素晴らしい女性なんていくらでも見つかるわ。柏木志帆がいなくなっても、次は誰か別の令嬢が……」「とにかく、私に時間を浪費するのはやめてちょうだい」柊也の呼吸が重くなり、胸板が深く上下する。自嘲するような笑みがその唇に浮かんだ。「……君に、毒されてし
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第759話

太一は、言葉を失った。これほどの執念を前にして、一体どんな答えを返せばいいというのか。……それからの二日間、詩織は目が回るような忙しさに追われ、朝早くから夜遅くまで外を駆け回っていた。幸いなことに、柊也が高坂家を訪ねてくることはなく、会社に姿を見せることもなかった。ようやく諦めてくれたのだろう。詩織は胸のつかえが取れたような心地で、深く息を吐いた。木曜日、ミキが本港市に到着した。詩織は自ら空港まで迎えに走った。久しぶりに会う親友は、南国の太陽に愛されたせいか少し肌が焼けていたが、頬にはふっくらと健康的な赤みが戻っていた。どうやら充実した時間を過ごせたようだ。彼女には、澪士が付き添っていた。詩織が頼んだわけではなかったが、彼もまた詩織がどれほどミキを心配しているかを知っていた。だから、自ら志願して護衛役を買って出たのだ。「さて、お二人のプリンセス。今夜は何が食べたい?俺がご馳走するよ」澪士が軽快に提案すると、ミキが勢いよく手を挙げた。「贅沢なディナーがいい!でも、シーフード以外でお願い。最近食べすぎて、さすがに飽きちゃった」詩織は隣で思わず吹き出した。「遠慮しなくていいわよ。この街で一番高いお店を選びましょう。澪士先輩、最近投資したプロジェクトが大当たりして、相当稼いでいるはずだから」「まあ!なら、お言葉に甘えちゃおうかしら」二人の楽しげな様子を見て、澪士も満足そうに目を細めた。「いいよ。好きなところへ連れて行く」ミキがネットを駆使して探し当てたのは、今最も予約が取れないと話題のコンテンポラリー・キュイジーヌの高評価レストランだった。その評判に違わず、どの料理も絶品だった。特に詩織が気に入ったのは、この店のスペシャリテとして名高い『鴨胸肉のロースト 無花果の赤ワインソース添え』だった。しっとりと火入れされた鴨肉の旨味と、無花果の芳醇な甘みが絡み合い、口の中で見事な調和を生み出していた。ミキはといえば、運ばれてくる芸術的な皿の数々を次々とスマホに収め、手際よく加工してはSNSにアップしていく。【私の『最強のスポンサー様』と久々の再会!】彼女は詩織の連絡先を『スポンサー様』と登録し直していた。今の自分があるのは、すべて詩織の支えがあったからだという感謝と、茶目っ気を込めて。詩織
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第760話

高坂家への帰り道、ミキは詩織と共に高坂の屋敷へ泊まることにした。積もる話どころか、八百人分の人間に対する愚痴を聞かせたい勢いだったからだ。「澪士さんはどうするの?」二人が尋ねると、彼は艶めいた笑みを浮かべた。「俺は当然、とろけるような『夢の国』へ」ミキが露骨に嫌悪感を顔に出す。男ってやつは、どいつもこいつも脳の司令塔が下半身にあるに違いない。呆れる二人を残し、澪士は夜の帳へと消えていった。高坂家に戻ると、ちょうど掛川医師が小春のカウンセリングを終えたところだった。本港市にいるはずのない彼の姿に、詩織は驚く。「あれ?どうしてここに」「担当している患者さんの往診でこちらに来たついでですよ。ちょうどいい機会なので、小春ちゃんの様子も診ておこうかと」掛川の言葉に甘え、詩織は小春の現状について詳しく尋ねた。「経過は順調ですね。状態も安定しているので、投薬量を少し減らして調整していきましょう」掛川はそう請け合ったが、同時に釘を刺すことも忘れなかった。小春のようなケースは完治が難しく、生涯付き合っていく必要があると。詩織は、自分と離れると小春が眠れなくなり、睡眠薬に頼らざるを得なくなることを相談した。一樹は専門家としての見解を静かに述べた。「睡眠は人間にとって最も基本的な生理的欲求です。それが奪われる苦しみは計り知れません。私の患者さんにも、重度のPTSDから深刻な睡眠障害を患っている方がいます。最初の一年など、ベッドに拘束して治療するしかありませんでした。一瞬でも目を離せば、あらゆる手段で自ら命を絶とうとするからです」淡々とした語り口だったが、その壮絶な内容に、詩織とミキは思わず息を呑んだ。「PTSDの患者さんは、フラッシュバックや幻覚による持続的な恐怖に苛まれます。トラウマに関連する些細なきっかけ一つで、パニックに陥ってしまうのです。幸い、小春ちゃんの場合は幼い頃の出来事だったので、記憶として鮮明に残っていない分、症状も比較的軽度で済んでいます。心理療法と投薬で十分にコントロール可能です」掛川は、そこで言葉を切って二人を真っ直ぐに見つめた。「もちろん、家族の愛情も大きな薬になります。先ほどの患者さんも、ある時期、愛する人の献身的な支えによって症状が劇的に改善したことがありました。ですから、小春ちゃんにはで
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