All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 741 - Chapter 750

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第741話

明日は会場からつまみ出されるどころか、コンクリート詰めにして海へ沈められるんじゃないか。「いや待てよ、なんでそんなことしたんだよ?しかも相手は女だろ? 四本も折るって……」太一は混乱した。柊也は決して女に手を上げるような男ではないはずだ。柊也の瞳に、剃刀のような鋭い殺気が宿る。「……詩織に手を出したからだ」その一言で、太一はすべてを理解した。それなら仕方がない。肋骨四本で済んでよかったと言うべきか。翌日。詩織が響太朗にエスコートされて会場に入ると、当主である香川青山(かがわ せいざん)の傍らに静姫が控えていた。彼女はいつもの派手な装いを一変させ、純白のベルベット素材のドレスを身に纏っていた。生地には霧に霞むような淡い色調で蘭の花が刺繍されており、清楚で上品な仕立てだ。だが、その姿には既視感があった。詩織は一目で静姫の浅はかな企みを見抜いた。亡き姉、百合子のスタイルを完コピしているのだ。響太朗の足が止まった。隣にいた詩織の耳に、彼が漏らした吐息のような呟きが届く。「……百合子」青山が響太朗に気づき、満面の笑みで手招きをした。「おお、来たか。響太朗くん」静姫も振り返り、熱を帯びた瞳で彼を見つめる。「義兄さん」だが、その視線が詩織に移った瞬間、眼光はナイフのように鋭く尖った。まさに猿真似だ、と詩織は思った。いくら顔立ちが似ていようと、同じ服を着ようと、彼女と百合子の間には決定的な品格の差がある。天と地ほどの違いだ。響太朗もすぐに我に返り、冷え切った刃のような視線を静姫に向けた。彼は静姫の呼びかけを完全に無視し、義父である青山に短く挨拶だけすると、そのまま詩織を連れて席に着いた。二度と静姫の方を見ようとはしなかった。静姫は唇を噛み締め、屈辱に震えながら詩織を睨みつけた。響太朗が自分を見てくれないのは、すべてあの女のせいだ。そう思い込むことでしか、彼女は自分を保てないようだった。詩織は今日の目的を忘れてはいなかった。終始、響太朗と親密な空気を醸し出し、睦まじげに振る舞い続けた。その甲斐あってか、静姫からは絶え間なく殺気に満ちた視線が飛んでくる。内輪の会とはいえ、香川家の人脈の広さを物語るように、会場には円卓が十台も並んでいた。詩織と響太朗はもちろん一番上座の
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第742話

言われてみれば、と太一の記憶の片隅にある光景が蘇った。もう十年近く前のことだろうか。柊也が海外から戻ってきて二年目の頃、太一はよく彼の元へ遊びに行っていた。当時の柊也は起業したばかりで、資金繰りにも苦労していた時期だ。オフィスといっても、古びた雑居ビルの最上階を借りただけの粗末なものだった。夏は蒸し風呂、冬は冷凍庫のような過酷な環境だったのを覚えている。あの一時期、柊也はなぜか頻繁に、大量の海鮮を注文するよう太一に頼んできたのだ。届けても、本人は一切口をつけない。ただひたすらに、蟹や海老の殻を剥き続けるだけだ。そして綺麗に剥き終わった身は、すべて太一と譲の胃袋に収められた。おかげで太一はしばらくの間、海鮮を見るだけで吐き気を催すほどだった。あまりに強烈な体験だったからこそ、十年経った今でも鮮明に覚えている。当時、二人で理由を尋ねたことがあった。柊也は「起業のストレス発散だ。殻を剥いてると無心になれる」と答えた。太一たちは、それを素直に信じ込んでいたのだ。だが今になってようやく、その真意が繋がった。ストレス発散?冗談じゃない。あれは、手の汚れる作業を嫌う詩織のために、自分が世話を焼けるようひっそりと練習していたのだ。「なぁ柊也……もしかして、そん時から江崎のこと好きだったのか?」太一はずっと胸に抱いていた疑問をぶつけた。柊也は手の中のワイングラスを空にしてから、静かに答えた。「もっと前だ」太一は息を呑んだ。もっと前?一体いつからだ?柊也のポーカーフェイスはあまりに巧みすぎる。詩織が気づかなかったのも無理はない。幼馴染であり、腐れ縁である自分たちですら、その深淵を覗き見ることはできていなかったのだから。「そこまで色々やってたのに、どうして江崎には何も言わなかったんだよ?」太一は心の底から解せないという顔をした。「言ってどうなる?どうでもいい些事だろう」柊也は再びグラスにワインを注ぎ足した。伏し目がちなその瞳には、底知れぬ闇のような暗い色が沈んでいる。「それに……俺に、あいつを巻き込む資格なんてない」「だったら、なんで手を出したんだよ?」柊也は、割れんばかりの強さでグラスを握りしめた。その声には、荒涼とした風の音が混じっているようだった。「俺だって聖人君子じゃない。……
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第743話

そう言い終えるなり、彼は詩織を促してその場を離れた。残された静姫は、悔しさのあまりヒールの踵で絨毯を踏みつけた。ワインを浴びせたせいで、かえって二人きりの時間を作ってしまったじゃない!こんなことになるなら、最初からやらなければよかった。そう思ったところで後の祭りだ。「私、ちょっと……」あとを追おうとした静姫の腕を、青山がむんずと掴む。「挨拶回りはまだ終わっとらんぞ」「でも、お父様!」「いい加減にしろ。少しは大人しくしていなさい」衆人環視の中だ。怒鳴りつけるわけにもいかず、青山は低い声で娘を恫喝した。しぶしぶ、静姫は父親のあとに従うしかなかった。詩織が身につけていたのは淡色のドレスだ。繊維の奥まで染み込んだ赤ワインは、どうあがいても落ちそうになかった。響太朗は手際よくスタッフに指示を出し、詩織のサイズに合う代わりのドレスを至急手配させた。新しいドレスが届くまでの待ち時間、狭い控え室に二人きりでいるのも彼女を窮屈にさせるだろうか。そう配慮した響太朗は、「何かあれば電話してくれ」と言い残し、紳士的な口実を作って部屋を出て行った。二十分ほど待って、新しいドレスが届けられた。詩織はそれを身に付け、控え室を後にする。宴会場に戻るには、小さな中庭を抜ける必要があった。そこには立派な鯉が泳ぐ、大きな池がしつらえられている。響太朗から着信があった。「準備はできた? 迎えに行こうか」「ううん、大丈夫です。一人で行けますから」そう断って、詩織は中庭へ足を踏み入れた。その矢先だ。「ちょっと!待ちなさいよ!」血相を変えた静姫が、行く手を遮るように現れた。詩織は冷ややかな目を向ける。「江崎、あんたねえ!義兄さんに近づくなって言ったでしょう!」静姫の金切り声を前にしても、詩織は動じなかった。むしろ、薄く笑みさえ浮かべて問いかける。「この五年間、随分と楽しそうに過ごしていたようね、静姫さん?」その一言で、静姫の表情が凍りついた。図星を突かれたのか、それとも過去の行いを指摘された屈辱か。「あんた……っ!」静姫は怒りに我を忘れたように腕を振り回した。「生意気なのよ!」彼女の手が乱暴に伸びてくる。狙いは明確、背後の池だ。だが、そんな大波のような動きを避けるのは造作もなかった。詩織が軽く身をかわすと
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第744話

抵抗しようとした矢先、廊下をドタドタと走る足音が近づいてくる。「こっちへ逃げたぞ! 手分けして探せ!」「静姫お嬢様を蹴り落とすとは何事だ!捕まえて警察に突き出せ!」詩織は石のように固まった。下手に動けば見つかってしまう。だがそれは、柊也にとって都合の良い口実でしかなかった。彼は頭を下げ、露わになった詩織のうなじへと顔を埋めた。そこは、彼女が一番弱い場所だ。湿り気を帯びた熱い吐息が直に肌へとかかり、背筋にゾクゾクとした震えが走る。「……離してってば!」外の警備員たちに聞こえないよう、詩織は歯を食いしばって囁いた。しかし柊也は止まらない。それどころか、震える肌を舌先でつぅ、となぞり上げたのだ。カッ、と頭の中で何かが爆ぜたような衝撃が走る。「あんた、酔ってるからってふざけないで!」「酔ってるからこそ、お前が恋しくてたまらないんだ」アルコールのせいで、彼の声はひどく掠れていた。腰を掴む手に力が籠められたかと思うと、柊也は強引に唇を奪ってきた。甘さなど欠片もない口づけだった。まるで侵略者のように、ただ一方的に押し入り、貪るために唇を重ねてくる。「んっ……!」その常軌を逸した行動を止めようと口を開いたのが失敗だった。彼はその隙を見逃さず、さらに奥へと舌を滑り込ませ、詩織のそれを搦め捕る。思考が白く濁っていく。酸素が奪われる感覚。あまりにも懐かしく、そして恐ろしい感覚。舌の根が痺れるほど激しく吸われ、全身が強張った。扉一枚隔てた向こう側には、血眼になった警備員たちがいる。それなのに、こちらの側では情熱と狂気が綯い交ぜになった愛欲が燃え盛っている。緊張と興奮で、背中にじっとりと汗が滲んだ。冷たい壁の感触が、露わになった背中の肌を撫でる。その冷たさが、かろうじて詩織の理性を繋ぎ止めた。詩織は意を決して、無遠慮に侵入してきたものを強く噛んだ。「ぐっ……」低く苦しげな呻き声と共に、鉄錆のような味が口内に広がる。柊也の唇がわずかに離れた。だが、抱きすくめる腕の力は緩まない。それどころか、彼の呼吸は先ほどよりも荒く、熱を帯びているようにさえ感じられた。密着した下腹部に、硬い感触が押し当てられる。それが何を意味するのか気づいた瞬間、詩織の顔は火がついたように熱くな
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第745話

息が続かない。意識が遠のきかけたその時、ようやく唇が解放された。「はぁ、はあっ……」詩織は魚のように口を開けて酸素を求めた。柊也は腫れ上がった彼女の唇を優しく啄むように吸い上げると、先ほどまでの激情が嘘のように、甘く崩れた声で囁いた。「詩織……戻ろう。また昔みたいに」まるでぐずる子供をあやすような口調だった。詩織は顔を背け、冷ややかな視線を彼に向けた。「無理よ」「どうして? かつて愛していたと言ったじゃないか。俺たちは……」「ええ。確かに愛していたわ」詩織は苛立ちを隠さずに言葉を遮った。「あの時はね。でも今は違う。もう愛してないの。だから無理よ」その言葉は、鋭利な刃物となって柊也の胸を貫いた。彼女が自分に対して抱いている「無関心」と「決別」を、これほどまで明確に突きつけられたのは初めてだった。全身から力が抜け、抱きしめていた腕がだらりと下がる。圧倒的な無力感が彼を支配した。その隙を見逃さず、詩織は彼の拘束から抜け出した。乱れたドレスを手早く整える彼女の指先には、もはや迷いも動揺もない。廊下から誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。「江崎さん?どこだい?」響太朗だ。その声が現実に引き戻す鐘のように響き、柊也を打ちのめす。詩織は振り返ることもなく扉を開け、彼を暗闇に残したまま去っていった。取り残された部屋で、柊也は立ち尽くしていた。噛み切られそうになった舌先と、引っ掻かれた首筋が今さらヒリヒリと痛む。だが、そんなものは胸の痛みに比べれば蚊に刺されたようなものだ。「もう愛していない」愛する女から告げられるその一言が、これほどまでに胸を抉るものだとは知らなかった。響太朗が詩織を見つけた時、彼女の様子がどこかおかしいことにはすぐに気がついた。乱れた呼吸、紅潮した頬。そして……ドレスから覗く肩に刻まれた、赤い痕。だが、彼は何も聞かなかった。ただ無言で自分のジャケットを脱ぐと、その華奢な肩を覆うように掛けてやった。「もう帰ろう」「でも、パーティはまだ……」主賓に挨拶もせず中座するのは失礼ではないかと、詩織は躊躇う。響太朗は短く答えた。「構わないよ。そんなことより君が大事だ」彼は青山への挨拶すら省略し、詩織をエスコートして会場を後にした。静姫が池に落下した騒ぎで、誕生パーティはお開きとなった
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第746話

太一がようやく柊也を見つけたのは、ホテルの正面玄関にある噴水広場だった。その日は青山の誕生パーティに合わせて、噴水も夜通し稼働していた。柊也は噴水のしぶきを浴び続ける場所に腰を下ろし、頭からつま先までずぶ濡れになっていた。「うわっ、マジかよ……」ともあれ無事な姿を見つけて、太一は大きく安堵の息を吐いた。だが、すぐに慌てて駆け寄る。「おい、柊也!何やってんだよ!そんなとこいたら風邪引くぞ!」腕を掴んで引き起こすと、柊也は反抗もせず、されるがままに立ち上がった。まるで魂が抜けたかのように力がない。仕方なく太一は彼の身体を支え、なかば引きずるようにして車へと押し込んだ。まずはホテルに戻って着替えさせなければならない。運転席に乗り込み、車を出しながら、太一は自分がお節介焼きの母親になったような気分を味わっていた。世話を焼くだけではない。心配のあまり、口うるさい小言まで止まらなくなっているのだ。「トイレ行くって言って、そのままずっと戻らねえんだもんよ。どれだけ探したと思ってんだ? お前が消えたあと大騒ぎだったんだぜ。なんでも、香川家の高慢ちきなお嬢様が誰かに池へ蹴り落とされたらしくてさ……」「蹴ったのは俺だ」「は?」太一の話は途中で断ち切られた。あまりに唐突な告白に思考がフリーズする。「……なんでまた、蹴り入れたりしたんだよ?」「詩織を突き飛ばそうとしたからだ」「……」太一は口を閉ざした。聞くまでもなかった。柊也が冷静さを失い、女相手に手荒な真似をする理由なんて、世界にただ一つしかない。「ってことは、江崎に会ったのか?話もできた?」太一は恐る恐る尋ねた。そこが一番の気がかりだった。もし会って話せたのなら、少しは機嫌が良くなってもいいはずだ。それなのに、なぜこんな捨てられた子犬のようにボロボロになっているのか。長い沈黙の後、柊也は呟くように答えた。「……もう愛していないと言われた」……やっぱりか。またしても手痛い一撃を食らったらしい。抜け殻のようになった助手席の友を見て、太一は胸が痛んだ。これ以上、傷つく姿を見たくなかった。「なぁ柊也。もう諦めた方がいいんじゃねえか?」あれから五年も経っている。江崎はとっくに過去を清算し、前を向いているのだ。このまま執着し続けても、すり減
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第747話

大広間に足を踏み入れた途端、小さな影が飛びついてきた。「詩織お姉ちゃん!」「あら、小春ちゃん。まだ起きていたの?」「うん。詩織お姉ちゃんが帰ってくるまで眠れなくて……」早めに切り上げて正解だった。そうでなければ、この子は深夜まで待ち続けていただろう。「さあ、もう遅いわ。お部屋に戻って寝ましょう」部屋に戻り、メイクを落としていると、小春がしきりに窓際に寄っては外を覗いていることに気づいた。「どうしたの?何か見える?」鏡越しに尋ねると、小春は不思議そうに答えた。「うん、誰かが詩織お姉ちゃんのあとをつけてきてたみたい」「えっ?」「前から時々見かけてたの。お庭の外に誰かいるって」詩織の手が止まった。そんな気配には、全く気づいていなかった。小春と一緒に狙われているかもしれない──不安に駆られた詩織は、すぐに響太朗へ連絡を入れた。「ああ、それなら心配いらない。僕が配置した警護だよ」電話越しの響太朗の声は落ち着いていた。「そうだったんですか。それなら良かった」詩織は胸を撫で下ろした。不審者でなければ何よりだ。「君を怖がらせたくなくて、あえて伏せていたんだ。目立たないように警備させていたのが裏目に出たみたいだね。気づかれてしまったのなら、これからはリーダーの大森から直接連絡させるよ。何かあれば彼に頼るといい」「わかりました」詩織は素直に受け入れた。かつてこの街で痛い目を見ている彼女にとって、用心するに越したことはない。翌朝、大森という男が早速挨拶に訪れた。「本日から江崎様の身辺警護を務めさせていただきます、大森と申します」使用人たちの話によれば、彼は響太朗に十年もの間仕えている最古参の部下だという。彼がいれば、安全面については鉄壁と言っていいだろう。十年──詩織の心にふと引っかかるものがあった。ならば、あの日。彼女がこの街で事件に巻き込まれた時のことも、彼は知っているのだろうか。午後、詩織は用事を済ませるために外出した。運転席には大森がいる。車が滑らかに走り出した頃合いを見計らって、彼女は切り出した。「大森さん、響太朗さんと長くお仕事されていると伺いました。それなら……五年前に私がここで拉致された事件のこともご存知ですか?」ミラー越しに大森が頷くのが見えた。「はい。当時、響太朗様と共に江崎様の捜索に
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第748話

詩織は今日、「中博テック」の代表として、本港市商工会の定例会議に出席していた。響太朗の威光のおかげだろう、会場に集まった財界人たちの態度は驚くほど丁寧で、あてがわれた席も最前列の真ん中――いわゆる「上座」だった。腰を下ろすや否や、挨拶の列ができる。ここ数年、中博の業績は好調だが、この街で物を言うのは実力だけではない。何よりも人脈が幅を利かせるのだ。本港市のビジネスと本土のそれとは勝手が違う。ここの財界人は結束が固く、余所者には排他的なところがある。ましてや詩織は若く、しかも女性だ。以前は目に見えない壁に阻まれ、事業展開に苦戦することも少なくなかった。しかし、響太朗と婚約してからは状況が一変した。あの閉鎖的だった商工会が、手のひらを返したように彼女を仲間に引き入れたのだ。だが、今日の詩織は明らかに心ここにあらず、といった様子だった。小宮山序が会場に到着したのは開会ぎりぎりだった。詩織の姿を見つけたものの、声をかける間もなく会議が始まってしまう。中休みのティータイムになり、ようやく彼女のもとへ向かおうとした矢先、香川青山に捕まった。両家の提携話を持ちかけられ、適当にあしらって振り返ると、すでに詩織の姿はどこにもなかった。会場を探し回った末、知人の経営者から「彼女なら急用で先に帰ったよ」と聞かされる。またしてもすれ違いか――序は深い落胆を隠せなかった。会場を後にした詩織は、迷わず柊也の携帯を鳴らした。彼と話がしたかった。言うべきことを全て吐き出し、清算しなければならない。これ以上、未練がましく絡まり合った糸を放置しておくわけにはいかないのだ。電話に出たのは太一だった。その声はどこか歯切れが悪い。詩織は単刀直入に尋ねた。「柊也は?」「あいつは……その、取り込み中で」「電話に出るのが怖いの?」「うっ」太一は言葉に詰まった。今の詩織は、どうしてこうも鋭いのか。受話器越しだというのに、思わず縮み上がってしまうほどの気迫がある。「違うんだ。……柊也の奴、病気で倒れて。今、病院にいる」観念した太一は、本当のことを告げた。詩織が病院に駆けつけたとき、柊也は高熱にうなされ、意識も定かではなかった。昨日はあんなにピンピンしていたというのに。ベッドの傍らで所在なげにして
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第749話

目を開けた瞬間、視界に詩織の姿を認め、柊也は反射的に身を起こそうとした。「寝てて」詩織が制する。高熱で喉が焼けたのか、柊也の声はひどく掠れていた。「……何か用か?」「数年前、私が本港市で拉致された時、助けてくれたのはあなたなの?」詩織は遠回しな言い方を避け、単刀直入に核心を突いた。柊也は一瞬唇を引き結んだが、やがて小さく頷いた。「ああ」「だったら、どうして今まで黙ってたの?」これまで何度も、婉曲に確かめようとしたはずだ。その問いに、柊也は再び口を閉ざした。これ以上話したくない、という拒絶の意志が見て取れる。詩織はそれ以上追求するのをやめた。理由はもう重要ではない。ただ、事実を確認したかっただけなのだから。「拉致事件の件、借りひとつってことで。何か困ったことがあれば言って、できる範囲で力になるわ」詩織は淡々と告げ、一枚の小切手を差し出した。「それとこれ。オフィスビルの賃料と、桐島沙羅さんの件で口添えしてくれた20億円、返させてもらうわね」現金を突きつけるなんて無粋な真似だけど、今の私に返せるものはこれしかないの――そんな皮肉めいた響きが言葉の端々に滲んでいる。柊也の目元に寂寥の色が浮かんだ。自嘲のような、あるいは諦めのような、乾いた笑み。「……俺と、縁を切りたいのか?」じっと見つめる詩織の瞳は、昔と変わらず美しいまま、けれど凍えるほどに冷たかった。熱に浮かされ、過去の亡霊に取り憑かれている自分とは対照的だ。「平穏な生活を乱されたくないだけよ。正直に言うけど」その一言が、鋭い刃物となって柊也の胸を抉った。「俺が悪かった」掠れた声が、さらに低く沈み込んでいく。プライドも何もかもかなぐり捨てた、哀れな響きだった。すがるように手を伸ばしても、詩織は冷ややかな眼差しでそれを避ける。高熱のせいか、それとも込み上げる感情のせいか、柊也の目が赤く潤んだ。「あの時、お前を手放すべきじゃなかった……間違ってたんだ。頼む、償わせてくれ。もう一度チャンスをくれないか?」詩織は彼を見据えたまま、凪いだ湖面のように表情を変えない。「柊也。どんな過ちも帳消しにできるなんて思わないで」「なら、一からやり直そう!」今度は、衝動的に彼女の手首を掴んだ。必死だった。ここで離してしまったら
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第750話

病院を出ると、エントランスにはすでに迎えの車が待機していた。運転手の大森がドアを開け、詩織が乗り込もうとしたその時、背後から遠慮がちな声が聞こえた。「あ、あの……ちょっと待ってください」周囲に人の気配はない。詩織は足を止め、振り返った。そこには一人の若い女性が立っていて、真っ直ぐに自分を見つめている。見覚えのない顔だ。「私を呼んだ?」「はい」彼女はこくりと頷いた。緊張しているのか、頬を少し紅潮させ、言葉に詰まりながら続けた。「江崎さん、ですよね。はじめまして……じゃないんです、実は。小宮山遥と言います。数年前に一度お会いしてるんですが、覚えてらっしゃいますか?」数年前――詩織は記憶の糸を辿ってみたが、すぐには結びつかない。遥がそっとヒントを差し出した。「クルーズ船の、カジノです」範囲を絞られ、詩織の脳裏に鮮明な光景が蘇った。「ああ……あの時の妹さん?」思い出してもらえたことがよほど嬉しいのか、遥の顔がぱっと輝いた。「そうです!あの時はお兄ちゃんを助けて、カジノでたくさん勝たせてくれて……ずっと、ちゃんとお礼を言いたいって思ってたんです」「お役に立てたなら良かったわ。それで、施設の院長先生はその後どうされたの?」詩織が何気なく尋ねると、遥は少し寂しそうに微笑んだ。「亡くなりました」「……ごめんなさい。知らなくて」失礼なことを聞いたと謝る詩織に、遥は慌てて首を振った。「いいんです、もう。でも、本当にお礼を言わせてください。江崎さんのおかげで、院長先生はあと一年長生きできたんです。私とお兄ちゃんにとって、それが何よりの救いでした」後方から別の車が近づいてくるのが見え、詩織は軽く会釈をして車に乗り込もうとした。「あの、江崎さん!連絡先を教えてもらえませんか?」追いすがってきた遥に、詩織は「ええ」と頷いて名刺を一枚手渡した。遥はそれを恭しく両手で受け取ると、詩織の車が見えなくなるまで見送り、手の中の名刺を宝物のように何度も見つめた。それから弾んだ声で兄の序に電話をかけた。「お兄ちゃん、江崎さんに会ったよ!お話しして、連絡先も教えてもらったの!」会社での会議に向かっていた序だったが、その報告を聞くなり即座に予定を変更した。「今どこだ?すぐに行く」「病院。例のあの人に飲ませる薬を受け取
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